さて、今回は声なき叫びよ、形なき思いよ、種まく人のユートピアの2日目ということで。
前日は平泉をメインでこう回って、で水沢の方に移動してそこに泊まっているという状況ですね。
この種まく人のユートピアってハスの種が入ってるわけね、ここに。
まず1つはそうですよね。 1つは。
そしてその浄土、清平とかね、欧州藤原市にとってのユートピア。
なるほどね。 平泉というものを、彼らはそれをね、本当に実現しようとして平泉を作ったわけなんですけれども。
そしてその安平の首おけに生えていた謎の種もね、というのも1つありますよね。
前日もね結構ミステリーな、いろんなストーリーがね満載でしたけど、この2日目も何かそういうストーリーがあるんですかね。
じゃあ早速2日目よろしくお願いします。
現在ですね岩手県南部の主要都市、欧州市の中心水沢駅の近くのホテルに泊まっているという想定です。
ビジネスホテルが多い街ですので、朝は机でない場合を想定したいと思います。
そこで朝ごはんを食べに行くわけですが、ホテルを出て大体5分ほど、昨日のねサイコービールさんとかの近くなんですけれども、ハワイアンカフェクイポさんです。
ハワイアンカフェね。
これはね、なんで僕はこのお店を見つけたか。
水沢でなんでハワイアンカフェ行くんだって話なんですけれども、一言で言うとこれはね、水沢だからという店では正直ないです。
ただその佇まいにあまりにも僕が前日の夜に気になって、よく見たらモーニングメニューって書いてあったから、朝行ってみようと思って行ってみたっていう感じなんです。
これすごくないですか。
なんか結構雑多なんだけど、なんかどこか統一感ある感じの、やっぱそのハワイアンとかね。
なんかちょっと沖縄っぽさも感じるような、佇まいですね。
これは確かにちょっと気になる。
気になりますよね。
ちなみにこれ夜はバーとして、ダイニングバーみたいな形でやってるので、夜の行けます。
朝がやってるんですよ、この店が。
朝何を食べに行くんだってことなんですけれども、メニューを見て驚いていただけると思うんですけれども、
ワンコインモーニング、コーヒー付き、コーヒーおかわり、テイクアウトOK、500円。
そしてメニュー、マンゴーカリー、ロコモコ丼、ラーメン、焼きそば、うどん、そば、バーガー、ホットサンド、ピザ、ケーキ、スパムにぎり、冷やし中華チーズ。
何でもある。
何でもある。
ハワイアンのね、志向はありつつもね、ロコモコとかね。
ただいわゆるもう主食になるような、ランチにもなるようなものを、コーヒーおかわり付きで500円という。
衝撃的な価格破壊。
いいなあ。
まあやっぱロコモコとかね、食べたいよね。
なかなか欧州市に来て、ハワイアンロコモコを食べるってのは意外かもしれないんですけれども、
ちょっとあまりにもこの店素敵なのでね、名物とかじゃなくてもね、紹介をしたいなと思いまして。
500円な時点で嬉しいもんなあ。
今ね、朝ごはん500円食べれる店は相当ないですからね。
ちなみにね、内科も見てもらうと面白くてですね。
こんな形でね、ほんとにスナックみたいな感じのソファーみたいなのもあれば、ギターも置いてあるし、猫ちゃんも出入りしてたんですよ。
ウミンチュって何か書いてある。
ポスターがあったりとかっていう、もうね、このオーナーの方がすごい面白い人で、見ての通りって感じなんですけれども。
なんかいい具合の雑多な感じだね。
雑多な、ゆるい感じだね。
で、当然お客さんも地元の人が朝から来るわけですよ。
なのでね、観光客が来たってびっくりされましたけれども。
でもやっぱりその水沢のね、スローな感じがね、すごい体験できて面白い店ではあるんですよね。
でね、昨日行ったね、サイコビールさんは地元の方多いと思うんだけど、テイクアウトがメインになってる。
で、リュウエンさんはもちろん地元の方も行くでしょうけれども、やっぱり観光客が目指してくる場合も多いと思うんですね。
なので意外と水沢の地元の人と接する機会ってのは、昨日バー行ってないのであんまりなかったかもしれないですけど。
ここでちょっと僕もね、実は水沢の常連さんみたいな人とかと色々話したんですが、
今ね、この岩手県奥州市って、なんか実はすっごくとある事情で有名なんですけど、
聞いたことありませんか?岩手県奥州市っていう名前を。
すごいポジティブなニュースです。
あのね、ヒントを言うと、ここはさっき言ったように人材の宝庫としてすごい有名な街なんですよ。
このちっちゃな城下町なんですけど、この小さな町からすごい人が何人も生まれてる。
そして今おそらく世界で最も有名な日本人はこの町の出身です。
大谷か。
そう、大谷松平さんのふるさとです。
ああ、そうか。
水沢。
ですので、その時の話とかも聞きました。
やっぱり有名だったらしいです。そもそもやっぱり。
ただ、僕が結構聞いて意外だったのは、その人のあくまでダンですよ。
その人は大谷さんが通っていた中学校の先生のお知り合いだったんですね。
で、自らも結構協力関係のことをされてる方なんですけど、彼は僕はバスケットボール選手になると思ってたっておっしゃってましたよね。
やっぱり背がダントツに高かったし。
まあまあそうか。
そう、で、お父さんもそういったスポーツ関係の方なんですけれども。
だからもうまあスポーツができるっていうのはもう有名で、地元でもスポーツになると言われたけど。
今でも思ってるんだけど、実はあのままバスケをやっていたら、大谷さん実は野球以上にもっとすごかったんじゃないかって実は思うことがあるみたいな。
やっぱりそういった方だったらしいです。
でもなんかちょっと前にプライベートでさ、まみこさんとさ、バスケやってる映像とか出てましたよね。
あれでもフォーム綺麗だと思うな。
うん、やっぱりそうだったらしいですよ。
バスケとしても有名だったっていうふうだね。
万能なんだろうな。
うん、もうズバ抜けた運動神社だった。
なので当時のその大谷さんを知ってる人ももちろんやっぱりいるそうです。
でも有名人だったらそうなので。
っていうね、もう今や大谷商兵のふるさととしてね。
岩手県大州市というのはもうあまりにもポジティブな話題があります。
実際今もね、水澤駅とかその周り行っていただくと、まあ頑張れ大谷選手みたいな形のものがあって。
どうもね、岩手県っていうことを知ってる方多いんじゃないかと思うんですけど。
そういうわけでもやっぱり岩手県はね、森岡範囲を仙台範囲に分かれていたっていう話もしましたけど。
あまりにも広いので、街ごとのカラーも結構強いので。
ちゃんと大州市水澤っていうね、ここまで落とし込んでね、行っていただけるといいんじゃないかと思いますね。
というね、そんな地元の方との触れ合いの場にもなりますのでね。
ちょっとそういった観光客としてだけではない水澤のね、
フードだったり文化っていうのを感じてもらえるといいんじゃないかなと思いますね。
いいね、なんか楽しい朝を迎えられそうだね。
でまあね、大谷さんという方があまりにもちょっと有名になったので、
ちょっとそこに比べるとかもしれないんですけれども、
実はこの水澤というのはね、大谷さん以前にも人材の宝庫として非常に有名なんです。
この本当に小さな街だったのに、教科書に載ってる人何人も出してるんですね。
で、その事情はいろいろあるんですけれども、
一つ考えられることがあるとしたら、意識の差だったんです。
あるとしたらね。
どういう意識の差かっていうと、ここは最前線って意識があったと思うんです、僕は。
どういうことかというと、先日ね、関野一さんでずんだ餅なんてあったって話をしました。
それなぜあったかというと、今の岩手県の南部の大体およそ3分の1くらいは、
旧仙台藩領、伊達家の持ち物だったわけですね。
そしてその仙台藩領の一番北にあったのがこの水澤なんです。
そしてこの水澤を越えると、森岡藩南部家の土地があるんです。
で、南部と伊達っていうのはすっごいライバル関係なんですよ。
これはもう鎌倉時代からずっとそうなんです。
お互い東北に根差してね、伊達はもともと山形なんですけれども、
戦国時代とかも南部と伊達っていうのはすごい色々あったところなんですね。
なのでお互いを仮想敵国として両国経営をしてるんですよ。
つまり南部は南の防備をめっちゃ頑丈にするんです。
伊達って、しかも政宗って野心家でいろいろちょっかい出してきた人なので、
いつ伊達が攻めてきてもおかしくないというようなことを森岡藩は固める。
一方で伊達は伊達で南部っていうのは強いんですよ。
軍隊として非常に戦国時代の時とか。
対南部の最前線っていう町はすごく力を入れるんです。
重要な家臣に任せて、かつ設備とかもすごい整えるんですよ。
そしてそこに広大な戦隊伴侶何十万国の中でも水沢に配置されたってことは、
何かあればすぐ戦いになるっていう、
その最前線で常に張り詰めた意識を持って森岡藩に対しなきゃいけないっていう使命があったんですね。
そういったことが多分僕はかなり強い影響があったと思います。
だから教育とかがすごい盛んな町だったんです。
伊達も連邦国家の趣があるので、この水沢伊達家っていう伊達の一族がここを治めたんですね。
家臣というよりはもう政宗のいとこがここに入ってくるんですよ。
やっぱりそれだけの人じゃないと任せられなかったんです。
水沢伊達家は戦隊藩の家老としても有力なんだけれども、
水沢の領主として独立した気分を持っていて、
ただ伊達のために自分が盾にならなきゃいけない、南部からの。
ということで育成とかにすごい力を注いだんですね。
その中で生まれてきた人材というのの中でも、
特に教科書に載るレベルのものを水沢三伊人なんていうふうに言われております。
その三伊人たちの足跡を午前中は巡ってみたいと思うわけです。
初めに訪れたいのが、ハワイアワヘクイポさんから徒歩3分ほど。
車はホテルに残しておいていいと思います。
タカノ長衛記念館です。
ちょっと俺はまだピンときてないけど。
まあそうね、中高の教科書には載ってたかな。
大学の受験だとこれ覚えてないとっていう感じの人物ですね。
タカノ長衛、タカノは普通に高い低いの野原の長い英語のAですね。
タカノ長衛というわけなんですが、この人は何者だったかというと、
江戸時代のもう最末期、幕末に差し掛かる直前なんですけれども。
に生きたお医者さんです。
お医者さんなんだけれども、当時の医学っていうのは
小田野直丈が解体神書の絵を表した後でもわかる通り、
もうすでに西洋のオランダだったりドイツだったりの医学っていうのは長崎を通じて入ってきてるんですね。
なので和漢のそういった古来の医学がある一方で、
蘭学、要は洋風の医学っていうのもできてきてる。
で、この長衛は長崎に留学して、長崎でこの洋風の医学を学んだんです。
誰に学んだかっていうと、成瀧塾という塾でシーボルトって人に学んだんですね。
これ覚えてませんか?シーボルトってちらっと実は出てきてるんですけど。
何だっけな。
井上忠敬の大日本宴会予知図を持ち出そうとしてしまった人。
で、シーボルト事件っていう大事件になったっていう。
そして高橋陰がその罪に連鎖して殺す、最後死んでしまう。
あのシーボルトに学んでるんですね、長衛というのも。
そう言われると複雑な感じがあるけどね。
ただシーボルトというのはそもそも日本に対する予知全図を持ち出そうとしたらもちろんダメなんだけれども、
ただ医学に進歩のために日本に貢献したのもまた事実なんです。
その人が成瀧塾という塾を長崎で長衛が入ってね、そこでやったと。
で、そういうわけで長衛は医学を学ぶ傍ら、シーボルトとかっていう人たちを通じて、
世界情勢がどういう風になっているかっていうのをその耳で知ってしまったんですね。
で、その子を知ってるうちに1837年、これ天保八年という日本史のターニングポイントになった14の年なんですけど、
この年三浦半島沖でモリソン号事件という事件が起きました。
これ何かって言うと、これ大学受験の話なんですけど、黒船が来る前にも実はそれらしきものっていっぱい日本に現れていて、
それは高田家兵が吊るされた話とかね、プチャーチンの話とかいろいろありましたけれども、
ああいう類のことがペリーの前からあったわけです。
モリソン号ってのは何だったかっていうと、アメリカの船だったんですけど、
これは軍艦を持って日本に開国しろって言ってきたわけではなかったんです。
何しに来たかっつうと、日本人がなんか漂流してたと、船をナンパしちゃって。
それを救いに行ってあげて、助けてあげて、日本に送り届けてあげようとしたんですよ。
ふるさとに、日本人のために。
だから何のわけもなかったんです、モリソン号自身に、アメリカ人たちに。
当時としては珍しく優しい話ね、気がするけど。
これまでのエピソードからしたらなかなかね。
ところが、その時幕府は高田家兵とかが死んだ後の話なんですけれども、
異国戦打ち払い令ってものを出してたんですよ。
老中水の戦いに、これ浜松の時に出てきましたけれども。
のため、異国戦を見たら、ゼガヒでも打ち払いっていうことをやったんです。
そしたらモリソン号びっくりするんですよね。
なんでその武器も持ってないうち、しかもお前たちの紙を返そうとしたのに、
なんでこんなことになるんだっていう話になって。
モリソン号は武器を持ってないんで、慌てて逃げ帰ったんですよ、アメリカの方に。
ところが、モリソン号が悲しんで、日本人はもっと悲しんでるわけですよ、漂流してきて。
っていうのを、どっかで聞きつけた人たちが、
オランダ通常を通じて日本に本当のモリソン号の真意が伝わったんですね。
それが幕府も流石にやばいと思ったみたいで、シークレットにしてたんだけど、江戸首相に漏れたんです。
そしたら流石に幕府がすごい批判されたんですよ。
何やってんだって、異国性打ち払い令バカでしょみたいな。
みんながみんなその高田赤編のリコルドみたいなやつは出てないということで、
幕府やばすぎ。いくらなんでもマジでバカだって話を起こったんですね。
特にそれを誰が言い始めたかっつうと、この人たちなんですよ。
つまり洋学ってものの素晴らしさを知ってて、西洋の文明にちゃんと仲良くして追いついていかないと、
もう日本ってどんどん立ち遅れていく。
西洋の医学があるから首都とかもできたし、多くの人が救われてるわけですよ。
疫病の対策ができたりして。
なのになんでその異国性打ち払い令とかやっちゃうんだってことを言ったんですね。
批判したんです。
閉じこもってちゃダメだと。
ただ張衛はそれを母術夢物語っていう書で表して批判したんだけど、
なんか幕府が倒れればいいとか言ったわけではなくて、あくまでも開国を慎重に考えるべきだ。
異国性打ち払ってバカにちゃダメだくらいの弱いニュアンスで言ったんだけれども、
当時のその水の叩くには神経質になっていたので、
そういった反乱分子みたいな奴らを万社の獄っていう事件で引っ取れちゃったんですよ。
全部捕まえちゃったの。
そういう洋学グループみたいな。
要は当時の最新の知識層ですよ。
その中で有名なのは渡辺火山っていう、これは教科書もっと有名なんですけれども、
全部捕まえちゃって渡辺火山は自殺しちゃうし、他の奴らもみんな痛い目に遭うわけなんですよ。
長江も牢屋に入れられちゃったんですよ。
そういう思想統制の浮き目にあったんだけれども、それに長江は反骨に火がついたんですね。
こっからなんですよ長江の人生、第二ステージみたいな。
江戸の牢屋に入れられたんだけれども、これは長江が自ら起こしたとも言われてるんだけれども、
入れられていた牢屋の近くで火事が起こった。
当時江戸の牢屋っていうのは当然木造なわけなんですけども、
大火が起こって牢屋に入れておくと、当然逃げられませんから皆殺しになっちゃうわけなんですよ、火によってね。
さすがにそれは非人道的だろっていう意見が出て、
慣例的に大火が起こった時にだけはいずれ必ず戻ってこいっていう約束で囚人をめちゃ放つんです。
っていう例があったんです。それが決まりだったんです。
戻ってくれば罪を償う意識あるということで、少し罪を軽くしてやる。
でも当然GPSも何もありませんから、もう逃げようとも逃げられちゃうんです。
そして長江は逃げたんです。
何をし始めたかというと、そういうわけで幕府水のたたくに一派がとんでもないことをやってると、そもそも森尊吾をかわいそうだしって話になって、
ただそういう人たちはやっぱりもう特に幕府に不満を持ちがちな最悪の初犯はもうみんなそういうことを気づき始めているので、
徐々に徐々に開国へ向けてとか洋風の知識を自分の領地を守るために軍艦作ったり大砲を作ったりっていうのをやらなきゃいけない。
そのために洋学の西洋の文明詳しい人がいなきゃいけない。
けど西洋の文明がっつり学ぼうすると今そういう世の中だから幕府に命つけられたらうるさそう。
どうしようかなって思ってるところに格好の人材がいるわけですよ。
長江は伊代宇和島、これもいずれやりたいんですけど、愛媛県の宇和島藩、これ伊達家なんですけど、伊達の文家なんです。
伊達の文家が治めていた宇和島藩の藩主はそういったことを思っていたので、そこに密かに犯罪人なんだけど入り込んで、
偽名とかね、あと顔も薬で焼いたって言われてますけど、そういう捨て身の変装をして潜り込んで、
その宇和島藩の解剖教科に密かに顧問として尽力していたりとか、世の中に対してそういう教えを広めて、
なんと5年以上にわたる逃亡生活を送るんですね。
水沢にもお母さんがいたので一瞬帰ってはくるんだけど、当然ふるさとに帰るなんて誰もが思うことだから、
それ一回お母さんに挨拶した他はもう二度と帰ってこなかったんですけれども、
捨て身の逃避行をやって5年以上逃亡し続けて、間もなく本当に世の中が変わる、
帰る時に備えなきゃいけないっていうのをいろんな人に説いて回るんですね。
ところがさすがに幕府も馬鹿じゃないので、5年ぐらい経って油断したぐらいの時に、
江戸に実は徴用被災家に戻ってて、そこで全く違う偽名で顔も焼いていたから、
変装した上で街医者をやっていたんです。ある意味大胆ですよね。江戸に戻ってきて自分が医者ってやってたんですよ。
それでバレて、最後は幕府に捕まえそうになって自殺したとも言われて、いずれにしろ牢屋で死んだんです。
その死の数年後です。ペリーが裏側になってくるんです。
ちょっと遅かったわけだね。
そういうことです。今までに出てきた人物で言うと、金沢藩の海の百万石で謎の密防役をしていたゼニア護兵とほぼ同じタイミングで死んでます。
ゼニア護兵もあと1年生きてればペリーの開墾周りになったんですよ。
なるほどね。
それぐらいの人たちですね。
ただそういうわけで張衛は故郷には戻ってきませんでした。戻ってこなかったんですけれども、
時代を先取りしたすごい先見性のある思想家ということで、水沢では今検証されていて、高野張衛記念館が建っています。
この記念館の中には、そういうわけで張衛が幕府を批判したと言われている、武術夢物語っていう、これは張衛とセットで必ず覚えるんですね。大復讐の時には。
この本が残っていますし、張衛がどんな逃避行したかって日本地図のとんでもないルートを通ってるんです。
もう西海岸のあらゆるところにすごい逃げ回ってるっていうのを地図に落とし込んで、そのダイナミックスがよくわかるんじゃないかと思いますので、そういった思想家が生まれた。
やはりそれだけ志が高い人が生まれるんですね、この水沢という場所に。
なるほどね。
今の時代だから考えると、やっぱちょっと幕府がね。
そうですね。
だいぶ守りが固いというか。
そうですね。
もうちょっと進歩的な態度があればなっていう感じはちょっとあるけど。
それもね、本当に時代ごとによって変わるんですよ。
幕府はね、老中によってその方針、外交方針が変わるっていうのが一つ問題だったんですよね。
その前は浸水給与令なんて言って、異国船が追い払うと怖いから、とりあえず彼らは何をしに来てたかっつうと、水がない、薪がない、食料をくれって来ることが多かったので、やるものやるから去ってくれっていう。
平和的に解決しようとした時代もあったけど、それがだんだん国際情勢が変化して、海国とかで国の維新とかに関わってくることを言い始めたから、わけわかんないロシアのやつはいるし、なかなか連れ去られちゃったこともあるし、なんか変な密防機種ってそのやつもいるしってことになって、もう打ち払えというふうになっていったのがこの長江の地理だったのが悲劇なわけです。
そうか。もうちょっと聞く耳があればよかったなとは思うけど。
まあね。
それは後からのね、見た話だからね。
ちなみにただそのペリーが来るきっかけになったのも、一説には大日本沿海予知全図がシーボルと持って帰ったことでね、なんだこれはってみんな日本ってすげえってなったのも一つあったんですけど、
もう一つ実は長江はね、成滝塾にいたときに、この人ね医者だったんだけど、鯨に対して非常に興味があったらしくて、日本近海にいる鯨とか、それを産業としてやったときに油がどうなるか肉がどうなるかみたいなね、詳細なレポートをねシーボルに提出したんです。
で、当時アメリカとかイギリスがなんで大平洋に出没してたかっていうと、そもそも捕鯨船なんですよほとんど。 そうなんだ。
そう、ペリーが来るっていうのも条約をしたときに結んだ一つのものには、小笠原諸島とか日本の島々に捕鯨船の基地としてちゃんと食料とか与えてくださいって最重要項目の一つ入ってるんですよ。
なので、その原因になったのが実はその張維のレポートなんじゃないかって説があるんです。それをシーボルが持って帰ったんですねやっぱり。で、日本人が書いた日本の鯨のレポートとして多分最新鋭のものだったんですよ。
それが活版印刷で刷られて、いろんな人に見て、早く日本に行けば、この鯨のこんなレポートがいっぱいあったらこれ取りに来てないとこう、やべえじゃんって言ったのがそもそものきっかけの一つだったんじゃないかって言われてるんですよ。
だからまあ本人の思惑とは別に、その鯨の有用性を世界に広めてしまったんだ。
そう、シーボルと通じて広めてしまったかもしれないって言われた。っていうね、不思議な歴史の因縁なんですね。
はあ、なるほど。
というのがこの高野張維です。
高野張維記念館を見終わりましたら、一度車を預けているホテルに帰りましょう。
で、ホテルで荷物と車をピックアップしたら、車で5分ほどのところにあるのが、後藤新平記念館です。
この人は聞いたことあるかね?
名前は聞いたことあるな。
政治家?
うんうんうん。
ぐらいだな。
後藤新平というのはね、これは教科書に絶対載ってますけれども、一番わかりやすく言うと、帝都復興計画を立案してそれを実行した人。
何かと言うと、関東大震災、これ約100年前に起こっているわけですけれども、1923年ですよ、あれがね。
それで東京が大ダメージを受けて、ほぼ崩壊してしまったわけですよ。
それの復興計画っていうのをやった人なんです。
っていう内務大臣。
なので政治家でもあるんだけれども、もうラツアを振るった実務の官僚としてもピカイチの人ですね。
そしてその帝都復興計画は何だったかと言うと、今まで江戸の城下町の趣が残っていたのは全部燃えてなくなっちゃったから、近代都市を作り直そうと。
ヨーロッパの都市計画とかを参考に、道路をちゃんと計画的に引きましょう。
じゃあその道路は何が問題で、これからどうすればよいのかと言うと、袋工事みたいに親して入り組んでたものを一掃されたから、江戸城を中心に環状の道路を作っていきましょうつって、今の東京都の原型を作った人です、この人。
なるほど。
それがこの後藤新平なんですね。
ところがこの人は教科書に行くとその帝都復興を成し遂げて、その後もいくらかの内閣で内務大臣をやった、あとは南満州鉄道の総裁をやったっていうんで、いろいろ内務官僚の実務家としてね、戦争へ突き進んでいく直前のその日本の政治を本当に主導した人物。
総理大臣にこそなってないんですけど、そういう人として必ず乗る人物ですけれども、そもそもこの人もお医者さんなんですよ。
しかも高野長衛と桃園の人物なんです、これも。
すごいな。
どっちかというとこの後藤家の方が元々で、長衛は後藤家から高野家に養子に入ってるんですね。
同じ水沢の城下町の医者の中でね。
その後藤家の方にこの後藤新平は生まれてます。
医者からそんな政治の道に行ったんだね。
そうなんですよ。
エネルギッシュだね。
そう、このエネルギッシュっていうのはね、なんで生まれるかっていうと、これね森岡藩にも共通しているので全体的な話になるんですけど、
仙台藩、森岡藩っていうのは共に幕末母親戦争の時には、
藍津と共に結託して、応右越列般同盟っていう同盟を組んで、
薩長とかの官軍に対抗してるんですね。
つまり賊軍として扱われてしまったんですよ。
特にその名手だったのが仙台藩なんです。東北最大の大名なので仙台立家はね。
その名手だったので当然のことながら、母親戦争で明治維新がなってくると、
賊軍なんですよ、この人たちは。
なので明治政府の薩長の反抜政府の時とかには、
応右越の特に東北のその賊軍として扱われた諸藩の出身者っていうのは全然礼遇されちゃうんですよ。
だけどそもそもの教育水準として仙台とか盛岡っていうのは非常に藩のレベルが高かったので、
すごく有能な人材はいるんだけど、派閥の論理によって日の目を浴びない人たちがいる。
その時代の人たちが明治の初期なんですけど、後藤新平とかこの後に出てくる人たちは、
その世代の次の世代なんですね。
つまり反抜政府たちに礼遇されたのはこの人たちのお父さんぐらいの世代なんですよ。
つまり母親戦争の時とかに実際大人だった人たちです。
だけどその子供の世代になってくると明治もさすがに時が進んで有能な人材を吸い上げる大学とかもできてるし、
教育とかも全部できてる。
という時にすごいハイレベルな教育が受け継がれていたけれども、
反抜政府で日の目浴びなかった東北の人材たちが一気にこの時代に花開いてくるんです。
特に後藤新平の場合は最初はそういうわけで医者だったんだけれども、
とある事件で彼の人生が変わったと言われてます。
それは医者としての事件だったんですけれども、
これもう仲間は伝説式なんだけど、
戸座藩の志士に板垣大輔という人が有名な、もともと政府側だったんだけど、
政府と喧嘩して別れて自由党っていう政党を作ってね、
自由民権運動なんてのを推し進めたっていう英雄ですよね。
これはもう小学校に登ってる人です。
この人はある時岐阜県で演説してる時にテロリストみたいなやつにナイフで刺されたんですよ。
でもう重症となって死んじゃうんじゃないかとなって、
板垣氏とも自由はしせずっていうあまりにも有名な文言を残したと。
入院後みたいに残したんですよ。
それはその時なのか。
そうそうそう。なんだけれども、その時に結局板垣は助かるんですよね。
なぜ助かったかというと、その治療をした人物がこの後藤新平だった。
医者だった時の後藤新平だったと言われてるんです。
うわーなんか運命があるんだな。
しかも偶然なんですよ。たまたま名古屋の方にこの人がいて、その時に板垣が岐阜で襲われてるんで。
後藤はそもそも医者だったんだけど、政治ってものにやっぱり非常な興味を持っていた人なんで、
やっぱりあえて近づいたんじゃないかって僕は思うんですけれども、ともかく板垣の治癒をそれで得て、
もともとただの医者の、しかも属軍だったの水沢のね。
一生死になったのに、だんだんだんだん政党に入り込んでいって、いつのまにかその能力はもうズバ抜けてたんで、
もう実務家として大臣になる。
まあなんかちょっと野心的というかね。
そう見られがちですね。結構もうとにかく拉腕振るった、結構シビアな実務家として言われるので、
結構きつめに描かれる時もありますね、この人がね。
へえ。
ただやっぱりね、そういう根源には水沢、この最前線の危機感があった水沢の非常に高い教育水準、
後藤家の家の問題だったりとかっていうのもあって、そういったものをね、全部このふるさとから見た後藤新平っていうのをね、
ちゃんと記録してその遺品とかも全部展示してあります。
で、彼が東京都ってものにどうしようとしたのか、そう見るとね、彼の実際の計画書みたいなのも見れるんですよ。
で、それを今の東京の地図に合わせると確かに環状線がねっていうのがよくわかるんだけど、
一方で後藤新平の地図に描かれてて、今の東京に描かれてないものも結構あるんですよ。
つまりもっと多分後藤新平はさらにハイレベルの東京を夢見てたんだと思います。
そんなことも実はわかったりして、今の東京は彼にとっては未完成だったのかもしれない。
ちょっとそれも見てみたいな。
それもね、実は見入れます。
で、そういったその拉腕家で冷たい実務家として描かれがちな後藤新平なんですけど、
一方で彼はやっぱり西洋の文明とかも非常によく学んでました。
これもやっぱり高野長衛と似てる部分もありますけど。
なので、西洋の良いところは積極的に取り入れるべきだっていうのは長衛と非常に共通してたんですね。
時代をかぶってないんですけど。
で、何をしたかっていうと、西洋にはやっぱり白愛自然の精神っていうのはこれは素晴らしいことだと思った。
で、これは日本でもちゃんとやるべきだ。
そして教育にもちゃんと力を入れるべきだってすごく思ったらしくて。
この人が日本にもたらして自ら会長となったのが、いわゆるボーイスカウトです。
あれを日本に取り入れた人はこの人なんです。
そのボーイスカウトというのは青少年たちがね、ボランティアとかをやったりとか地域活動をするっていうような団体なわけですけど。
そういった思想があるってことを発見して持ち込んで、自らその旗振り役になって普通に勤めたんです。
なので、結構冷たい黒い服で身を固めることが多いこの五島新平の肖像なんですけど。
記念館に行くと、半袖短パンで帽子かぶってボーイスカウトでその少年たちと何かを遊んでいる五島新平の写真もあったりして。
結構やっぱり人としての深みとかふくよかさっていうのも、ふるさとに行くとやっぱりわかるものがたくさんあるんです。
ちょっとイメージと違う姿がそこにあるんだね。
思います。教科書だけ見ていると、こんな人だったんだって思うと思います。
そういった功績も一方であるんですね。
なのでやっぱり自分も含めて水澤っていう街の教育によって生まれてるっていう違和感はすごかったと思うので。
教育ってのはいかに大事かっていうのはこの人は常にモットーとして掲げてたんだと思います。
それもその勉強だけじゃないっていう。精神を育むための。
っていうところを非常に大事にしたんだと思うんですね。
というおそらく水澤の偉人としては非常にこの三重神の中でも特に教科書的には有名な人ではあります。
そしてその後藤新平記念館から車で3分ほど。
どこで言ってもいいぐらいなんですけど、車で3分ほどのところにあるのが斎藤誠記念館です。
これは知らないんじゃないかな。
知らないかな。これで誠って呼ぶんだね。
そう、実際の実、果実の実ですね。の9字ですこれは。
みのるっていう風に呼びがちなんですけど、これは斎藤誠と呼びます。
この人は教科書にも載っています。
この人は総理大臣までやった人です。
そして後藤新平の幼馴染なんですね。
本当に近い範囲で三重神がいるんだね。
そうそう、みんなやっぱり水澤伊達家の家臣に生まれてるんですね。
青木茂坂本藩次郎じゃないけれども、
やっぱり同じ教育同じ班に生まれた人で、幼馴染同士活躍する人っているんですね。
斎藤誠は政治家というよりは軍人です。
日本海軍の海軍大将ですね。
日露戦争から日中戦争ぐらいまでのおよそ30年くらいの海軍の従事人として、
海軍大臣を歴任したり、そしてある時に総理大臣になったりっていう人たちです。
ただ海軍大臣としてはいろいろ実績はあるんだけれども、
教科書としてはやっぱり総理大臣として載ってるわけなんですが、
これは本当に日本がその暗い戦争の時代へ行こうというその真っ只中に総理大臣になっていて、
この人の内閣があまりうまくいかなかったということが有名で、
何をしちゃったかっていうと国際連盟脱退というね。
あったね。
ありましたよね。なので海軍の恩恵派として知られていたので、
割と世界と協調していこうという思想の人たちだったんですよ。
戦争をしようというんじゃなくて、割と協調的な日本に進めようという期待を託されて、
かつ海軍の軍人たちを抑え込める人っていうので、海軍のリーダーなんだけど、
進歩的な考えを持ってる人だったので、その戦争に行かせないために役を置き換えされた人なんです。
そういうことか。
そうそうそう。当時この齋藤誠がなった時っていうのは、
515事件とか起こっていて、当時の政党内閣の党首だった犬貝強氏という総理大臣を、
海軍の若手将校が暗殺してしまったんです。なので海軍っていうのが今冒頭化している危険性がある。
だからこそ海軍に抑えの効く人物、ただ戦争に突っ走ろうっていうんじゃなくて、
ちゃんと国際社会に渡り合っていける進歩的な軍人だったっていうので、白羽渡った。
それは何か当てはまる人が少なそうだね。
そうなんですよ。やっぱりなかなか選ばれしって感じだ。
ただそれもやっぱり彼自身が非常に後藤新平と同じく、最初はこの人は軍人とかじゃなくて、
県庁とかに勤める本当に小さなアルバイトみたいな、そういうところから始めてたんですよ。
ただ非常にやっぱり、これは水澤の夫だと思うんですけど、
朝鮮しかり後藤家しかり洋風のものをちゃんと学ばなきゃいけないっていうのはすごくこの人は分かってて、
全然その偉い大学とかには行ってないんだけれども、とにかく外国語に堪能だった。
だから早くから海軍の軍人だったんだけれども、駐在武官とか行って海外の大使館に派遣されて、
当時は外交官と陸軍海軍の軍人が大使館にみんないますので、それでいろんな国を渡り歩いてたんですね。
だから国際社会がよく見えてる人だったんです。っていう軍人だったんです。
なんだけれども結局うまくいかないで、なかなかその流れを止められずに短命内閣が終わってしまったんです。
そして彼自身はただ非常にその天皇とかからの信任も厚い人だったので、総理大臣はすぐ辞めちゃったんだけれども、
その後も内大臣として残って、政界にすごい重きをなしていた人物です。
ところが国際連盟を脱退したことしかり、日本がいよいよ戦争へ向かおうって若手将校たちはそういうムードになっていく。
むしろ天皇の近親にいる進歩派とかっていうふうな言ってるのは、もはや老害なんじゃないかと。
こいつらがいるから日本は戦争にも踏み切れなくて、ずっとなんか怯え続けてるだけない臆病者だということになってしまって、
1936年の2月26日、226事件っていう事件がね、これはもう絶対知ってると思いますけれども、
東京で起きた陸軍によるクーデターですね。
で、総理大臣とかあらゆる重鎮たちが次々と襲われていくこの日に。
それの犠牲になりました。
そこで暗殺されてしまいました。
っていう人ですね。
さすがに抑え込めなかったっていう。
そうですね。
なので結構この斎藤誠は教科書で見ると、まず226事件で殺されたうちの一人で覚えさせられるんですね。
で、あとは大学受験になると斎藤内閣としてね。
斎藤内閣の時代に何が起こったか積んでちゃんと見てなきゃいけないわけなんですけど。
で、覚えさせられるんです。
で、割とこうなんかこの人自身のパーソナリティというよりも、事件に常に巻き込まれてるみたいな感じでね、登場するんですよ。
ただやっぱり当然そういうわけじゃないんですね。
やっぱりこの水澤にフレットに戻ってみると、彼がどういう人間だったかっていうのがよくよくわかってくるんですね。
で、この水澤三位人の中でも、特にこの斎藤誠は故郷に対する思いが強い人だったんですね。
で、実際に何をしたかというと、この斎藤誠記念館はそういうわけで、斎藤の遺品だったりとかいろんなものが飾ってあるわけなんですけど、同時に書庫みたいなのを併設してるんですよ。
で、その書庫は何かっていうと、斎藤誠がね、自らの蔵書38,000冊を水澤の青少年の教育のために使ってほしいということで、全部故郷に寄贈したんですね。
38,000。
図書館だってそれ。
そう。それで実際にこの書庫が前身となって、欧州市になれば水澤市だったんですけど、水澤市図書館というのができてるんです。
へえ。
そうそうそう。
すげえな。
やっぱりこの人は海軍軍人ではあったんだけど、非常な勉強家なんですよ。すごい知識人でもあったんです。
なんか聞いてると、やっぱその3人ともなんか先進的でありながら、迫力で勤勉でっていうのが感じるね。
そういうことですね。まさにその通りだと思います。なので実際、齋藤誠は造書をふるさとの教育のために使ってほしいということでこういうことになった。
実際その書庫も残ってて、齋藤誠の本だけでも何十平米というとんでもない本なんですけれども、それも全部見ることができます。
同時に齋藤誠はそういうわけで、226事件で教団に倒れて死亡の最後を遂げたんですけれども、その奥さんは生き残ったんですね。奥さんはもともと薩摩藩の出身の家に生まれているので、全然水沢なんて関係ないんですよ。
ところが齋藤は当然東京で大臣だったんで、現役の大臣だったので東京に行って殺されてしまったんですけど、その奥さんはなんとね、夫のふるさとである水沢に自らがね、その後わざわざ移住して、その齋藤がやっぱり水沢に対する思いが非常に強かったっていうのを知ってたので、彼の遺品とか資産とともに水沢に移住したんですね。
ゆかりもないんだけど、義理の実家みたいなものだった。そしてその齋藤の残したものとかを守って、かつその図書館とかを運営してもらって、水沢の人たちに尽くしてほしいっていう思いを伝え続けて、実際に水沢で最後まで過ごして亡くなりました。
なのでこの齋藤誠記念館には齋藤誠のこともすごい言われてるんだけど、同時にその遥子さんって奥様がいかにすごかったかってこともね、ちゃんと賞を設けてすごく取り上げられてます。実際その家の前には齋藤夫妻の銅像が建ってたりします。
へー、なんかだいぶ献身的な奥様って感じだね。 そうですね。やっぱりそれは齋藤がやはり非常にこの人は水沢への愛が強かったっていうのをそういう意思を知っていたからこそね、多分夫がもしちゃんと生き残ってたら何をしたかっていうのを考えたんじゃないかと思うんです。
その資産、大事にともなってそれなりのものはありましたので、それをどういうふうに使ってほしかったかっていうのを考えたんじゃないかと思うんです。 なんか三者三様で偉人それぞれにすごいなっていう感じだね。
なのでね、歴史の教科書とか読んでる人は齋藤誠は知ってると思うんですけど、そのパーソナリティとかふるさとのこういったエピソードはなかなか教科書出てこないので、ぜひこの辺で見てもらうとすごい発見があるんじゃないかと思います。
こういった人材の宝庫の果てにね、今やもう最新ところじゃないわけですけど、大谷翔平さんがいるということでね、今でもこの人材の宝庫の水さってのは続いてるわけですね。
というすごいポテンシャルを持ってる街だというので、ぜひ注目していただきたいところだなと思います。
そしてね、こっからちょっとじゃあ水沢を離れます。車で徐々に北上していくわけなんですけれども、ちょうど午前中が終わった頃だと思いますのでお昼を食べに行きましょう。
車で20分ほど行ったところにあるのが水崎納都さんです。
カフェですか、これは。
そうです。カフェなんですけれども、どういうところにあるかってこれね、実際行ってもらうとわかるんですが、駐車場を止めてログハウスみたいなのに入っていくんですけれども、そして窓際に席が設けられてて、そこにぜひついて、あ、ほしいんですね。
これで。
これ見乗ってないんですけど、何かの畑の中にあるんですよ。
何だろう、畑っていう割には木だよな。
うん、そうそうそう、木になるものです。
果物?
はい。
何だろうか。
この日本の北日本の方でね、摂れる果物として。
リンゴ?
はい、正解です。リンゴです。
へえ、リンゴ畑があるんだ。
はい、リンゴって言うとどうしてもね、青森がやっぱりね、有名で、われわれ実際コースの中でもね、シードルとか飲むコースあったわけですけれども、実は岩手もすごい巨大な産地です。
へえ。
うん、そしてこのね、水崎納都さんはリンゴ畑の中にあるカフェなんです。
へえ。
だからこの窓際の席すごいんですよ、壮観ですよ。
へえ、これなんか見乗ってる時期とか行ってみたいよね。
そうです。ぜひね、そこで行っていただくと本当にこう、まっすぐにリンゴ畑があるので、ぶわーっと永遠に続いているリンゴのトンネルみたいになるんですよ。
へえ。
それをカフェで眺めながらね、シードルとかね、飲んでいただけたらいいんじゃないかと思うわけですね。
へえ、いやでもなんかいい雰囲気だなあ。
うん。
このね、店内の内装もね、ちょっとこう淡い感じの。
そうそうそう。
おしゃれな可愛らしい感じの店内ですね。
そうなんですよ。
うーん。
すごい緑がね、美しくてね、僕もこれ6月に行ってるんですけど、すっごい青々として綺麗なね、すごい爽やかな。
うん。
壁で心がほんと現れるような。
そうね、店内はこうお城っぽいのが貴重になってるけど、窓の外見るともうその緑がね、生えてて。
うん。
いいね。可愛いなあ。
ちなみにやっぱここね、あのDデザイントラブル岩手でね、僕知ったんですね。
ああ。
うん。
いいとこ紹介できますね。
紹介。ほんと素晴らしいガイドブックですよ。
で、僕ちなみにこれ一人で行ってるので、あまりシードルもそんなにメインなかったと思うんですよ。
まあカフェってことだよね。
そうそう。あった気もするんだけれども、メインはカフェです。
ただね、キーマカレーとかが美味しくって。
ああいいね。
なので、ちょうどこう辛いものをいただいて、あとね、リンゴのケーキとか、アップルパイみたいなね。
へえ。
お飲み物をね。もちろんリンゴジュースでもいいですし。
そういったお口直しも含めてね、非常に安らげる空間だと思うわけです。
写真見ててもね、ケーキの種類がいっぱいあってね、美味しそうだな。
そうですね。やっぱ季節によってね、いろいろ摂れるリンゴの種類も違うでしょうし。
へえ。これはちょっとデザートまで食べたいね。
そうですね。そうしてもらうといいんじゃないかと思います。
なのでここだけはちょっとね、男4人でそんな酒飲んでというコースからテーマから外れるんですね。
そうね。
デートとか一人とかで行ったほうがいいと思います。
こちらでですね、ぜひランチをいただいて、かつそのスイーツもいただいて、あとねリンゴも売ってたと思うんですよ。
リンゴ自体。
そのものも確か。なのでリンゴですから、もちろん暑さにもちょっと録画さんは気をつけてほしいんですけど、
岩手のリンゴを買って東京に持って帰るくらいもできるんじゃないかと思うんですね。
うまくいけばね、温度調整だけちょっと頑張っていただかないといけないんですけど。
まあ夏だとね。
ちょっと厳しいかもね。気をつけてほしいかもしれないですね。
ただそういうわけでドライブ用のリンゴジュースとかも当然ありますので、それは僕買いましたね。
なので岩手のリンゴが産地だってことも非常にね、ここを通して学んでいただけると思います。
すごくおすすめのデザイナーズカフェですね。
そしてここまで北上してきたんですけれども、ここからは東へ進路を変えます。