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2024-03-11 46:32

#155 文化遺産を守るための思考法

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遠野文化遺産セッション2024。年に一度開催される「遠野文化遺産セッション」に登壇し、「文化遺産を守るための思考法」という講演をさせていただきました。今回はその様子をお届けします。

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講演資料はこちら。

文化遺産を守るための思考法

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サマリー

特別編として、3月4日月曜日に開催された東野文化遺産セッションで、文化遺産を守る思考法と題した講演内容が録音されています。程洞稲荷神社について説明した後、その神社の起源として阿蘇沼家の末裔であることが明らかにされ、その家の元祖が東の町に宮という家を建てたと伝えられています。遠野市の程洞稲荷神社は、医療一族が集まる場所であり、出産や医療に関する言い伝えが残っています。さらに、南部家の残党狩りの話や宮家の開けぬ箱の話もあり、これらの伝説や神社は遠野の文化的な遺産を形成しています。遠野物語の出版部数や遠野物語研究の歴史を通じて、文化遺産に対するフォロワーや研究者の創造活動が重要であることが示されています。また、寄付活動においては、静かなメディアを通じて熱狂的な支援者に届けることが効果的であることが明らかになりました。話の後半では、「遠野物語」についても触れられています。マントラとしている「歴史が歴史であるためには常に想像が必要である」という言葉を通じて、歴史や物語についての思考法について話されています。

講演の内容
メディアヌップ、こんばんは、ささきるです。今回のメディアヌップは、特別編として、3月4日月曜日に開催された東野文化遺産セッション、文化遺産を守る思考法と題した、私の講演と言いますか、岩手県東野市のアエリア東野というホテルで講演してきたんですけども、その内容を録音してきましたので、その内容を編集してお届けしたいと思います。
内容はですね、ホドボラ稲荷神社の修善・保存に関するお話、その取り組み方とかね、考え方とかをお話ししてくださいということだったので、ちょっとそれをまとめたんですけども、メディアヌップでは過去ですね、ホドボラ稲荷神社の話を何回かしてまして、第97話と第131話で取り上げております。
それに続くお話になりますので、過去をさかのぼってぜひ聞いていただければと思います。
ちなみに、この講演自体はですね、アエリア東野というホテルの中ホールですかね、そこで開催されたんですけども、当日の司会をしてくださったのが田田遥さんで、メディアヌップにも過去何度も出演されてますけども、知ってる人がね、この後司会で出てきますけども、ご案内してくれてすごい私安心しながら話すことができました。
ちょっとね、うまく話せてるかどうかちょっとわかりませんが、どうぞお楽しみいただければと思います。
それではこれより基調講演を行います。講演は文化遺産を守るための志向を土台しまして、佐々木大介様にお願いいたします。皆様、拍手でお迎えください。
佐々木様は1980年、東野市下組町に生まれ、幼少期より東野遺産である小野原稲荷神社に親しみ、現在は同神社に関するトークイベントやプレッキングを開催しております。
株式会社ライブドア、LINE株式会社、スマートニュース株式会社執行役員を歴任し、現在はフェールダウトオープンズ株式会社代表を務められています。
それでは佐々木様、よろしくお願いいたします。
本日改めまして、佐々木と申します。よろしくお願いいたします。
今日、私の友人が随分遠くから、新潟県からいらっしゃったお客さんもいると聞いて、にわかに緊張してきましたが、
今日お話の中には東野の話がたくさん出てくるんですけれども、東野の方、東野のことをご存じない方にもなるべくわかりやすくお話したいと思います。
始めに先ほどご紹介いただいたんですが、東野市出身なんですけれども、特にこの近くの東野高校の近くの下久美町で生まれまして、
その後、小中高と東野で過ごしまして、大学時代は仙台の方におりました。
その後は東京に行って、今まで拠点を置いて仕事をしていますので、もう東野に住んでいない時の方が長くなってしまったんですけれども、
実は東野でいくつかのお仕事とかプロジェクトとか、あるいは創作活動みたいなものをこの5、6年やっていまして、
年に10回ぐらい機会を見つけて、1回5泊6日とか1週間ぐらいおりますので、年間4、50日は東野にいるという状態を数年間続けております。
天野由さんなんかにいると、僕もちょくちょくいたりするんですけれども、ちょくちょく東野にいます。
今何をやっているかというと、去年までは20年ぐらい情報を扱うメディア系のお仕事をしていました。
例えばインターネットサービスの中でブログとかメッセンジャーとかニュースアプリというのをスマートフォンをお持ちであれば何かしら見たり触ったりすることがあると思うんですけれども、
そういったサービスの設計とか運営とかというものを通じて、情報とかメディアというものの過去とか未来とかというのをずっと関心を持ってきたんですけれども、
その関心が最近では地域のプロジェクトとか文化遺産の方にもどんどん向いていって、それで東野でいろんなプロジェクトをやっておりまして、
ちょっとこんな貴重なお時間をいただくことができました。
直近ですと起業家、作家と書いてあるんですけれども、いくつかやっているプロジェクトがありますので、ちょっとそれを自己紹介がてらご紹介したいと思います。
プロジェクトの紹介
中でも東野に関わりの深いものだけ3つ持ってきました。
一つがですね、私小説家でもあるんですけれども、この一番左側が僕らのネクロマンシーという小説で2018年に出したものです。
真ん中にあるのがアートとゲームと書いてあるんですけれども、これはゲームオブザロータスというタイトルで、いろんな街中を歩きながら遊んでいくゲームというものを去年からスタートして提供しています。
一番右側、果物と飲料とあるんですけれども、これは無農薬無肥料のリンゴを作って、それからハードサイダー、シードルとか呼ばれるお酒まで作って販売するというプロジェクトを去年、
そして今年もちょうど今真冬なんですけれども、リンゴの剪定を今週から始めて、リンゴ作りまでやっているというふうにやっています。
それぞれどんなふうに東野と関わりがあるかというとですね、この僕らのネクロマンシーという小説はSF小説なんですけれども、舞台が東野です。
中でも下組町から話がスタートして、最後松崎町で終わる作品の舞台が完全に東野を歩いていくようなお話での未来の小説なんですけれども、
実は本の中身だけじゃなくて作品のスタイル、造本ですね。造本のスタイルも柳田邦夫の東野物語の初版レイアウトを研究して、それと全く同じスタイルを現代に復刻したという方法を取って出版をしまして、
ラッキーなことに2019年の造本創生コンクールの文部科学大臣賞を取って、その翌年のワールドグランプリ、審査員がドイツ人の人が審査しているんですけど、それで同賞をいただきました。
なので、この中にも今日テーマになっているホドボライナリ神社が重要な場所として出てくるんですけれども、もともとすごくこだわりがあって、そういう作品を作っておりました。
あとこれがですね、ゲームオブザロータスというアートとゲームの作品なんですけれども、これは女性のキャラクターが3人いるんですけれども、これ何かというと、東野三山の女神、早稲さん、六甲子さん、石上さんの女神の話が東野物語第2話に出てくると思うんですけれども、
その3人が現代に甦った姿、その現代に甦った3人がいろんな東野の場所を訪れながら、いろんな東野にまつわるアイテムを集めていくというゲームを作って提供しています。
ちょうど今、左上に一番大きく映っているのはダベクラ城の桜の場所ですね。ここに行くとこういうアイテムがもらえますよという、現実に紐づいたゲームを作って提供しています。
ちなみに、この作品の舞台が1926年という、伊能神里が死んだ翌年に柳田邦が3回目に東野に来た時という、ちょっと変わった作品を大正時代を舞台にしていまして、
その辺の普段あまり日が当たっていない時代を作品にして盛り上げるみたいなことをやっています。
これは昨年からスタートしたリンゴ作りとハートサイダーのプロジェクトです。
左上に映っている、左側2番目ですね。これが越生おじさんというんですけれども、これが下組町でリンゴ作りをしていると。
今回のホドボライナリ神社の寄附金集め修繕プロジェクトに関して、ちょっと私に声をかけてくださった人でもあります。
この辺から繋がりがありまして、一緒に農作業をしながら、ところでホドボライナリ神社の雨漏りがひどいんだけどどうにかならないかというのを度々相談をいただくということからスタートしたんですけれども、
農作業をしながら、だんだんと文化遺産保存の話に自然に巻き込まれていったという感じです。
今日のお話ししたいなと思っているテーマに直接関わる内容なんですけれども、
私が普段こういった小説とかゲームとか飲み物とかを作りながら、これ去年出会った言葉なんですけれども、非常に勇気づけてくれる言葉だなと思ってですね、
メモしておいたんですけれども、これは小説家の宮城谷正道さんという、歴史小説とか時代小説、三国史と中国の古い時代の書かれている方なんですけれども、
その方が書いていた言葉で、歴史とは定型を持たずに、いつでも無に変える用意のあるものであるが故に、歴史が歴史であるためには常に創造が必要であるという自覚が生じたというふうに自分のことをおっしゃっているわけなんですけれども、
このですね、歴史が歴史であるためには常に創造が必要であるというのが、自分がやっている活動、小説書くとかゲーム作るとか、
終わりかけているリンゴ農園を再生させるみたいなことが、自分がやっていることってこういうことなのかもしれないなというふうに直接思えたというかですね、
勇気づけてもらえたので、ちょっとこれを最近断ることに引用しているんですけれども、今日もこのテーマに応じた話をしていきたいと思います。
というわけで、文化遺産を守る志向法ということで、私が実践した、実際にやったということをユースケースとしてお話しするのが良いと思いましたので、
昨年取り組んだホドボラ稲荷神社の修繕工事の内容についてお話ししたいと思います。
これ、きっかけそのものは、ホドボラ稲荷神社の総代をやっている越雄さんが雨漏りが続いて、しかもずいぶん長い間放っていると。
このまま放っておくと床まで腐っちゃって、かなり修繕が難しくなっちゃうから、今ぐらいで屋根の吹き替えをしたいんだと。
そのためには地域の寄附金だけでは足りないので、というのもですね、ここから近いんですけれども、山の中にありまして建築資材なんかを運ぶのも大変なので、
まず道を作るという工事をする。その分余分に費用がかかる。時間もかかるということなので、
ちょっと普通の平地にある神社の屋根の吹き替えよりも余分にお金がかかるんですね。
どうにかその寄附金を集められないかということで、
越雄さんが多分どこから聞いてきたんでしょう。
最近インターネットではクラウドファンディングになるものがあると。
見ず知らずの人たちが大量のお金を寄附してくれるらしいという噂を聞きつけて、僕のところに来たんですけれども、そんな上手い話はないわけですよね。
見ず知らずの人が寄附してくれることはあるかもしれませんが、そのためにはここはどういう場所で、どういう価値があるのかということを強く訴えられなければうまくいかないわけなので、
いやちょっとそれ難しいんじゃないかなと思って、最初ちょっと無視したんですね。
そうしたらリンゴ作業で買えるたびに、僕1年で10回くらい買えるんですけど、買えるたびに言うので、
これどうやら本気だなってことが途中で分かりまして、
もちろん僕も小さい時から通ってた神社だし、キャンプもしたことあるし、何かできないかなと思ってやろうと思ったのが、
まずクラウドファンディングではなくて、この場所がどういう場所なのかっていうのを自分自身調べるっていうことからスタートしたんですね。
僕が知らなければ誰にも訴えることができないので、自分が勉強するってことからやりました。
やった順番にちょっとご説明しようと思うんですけども、まずホドボライナリ神社について調べて、
その勉強の過程というか勉強の結果をブログに書きました。
ブログに書くだけですから無料です。誰でもできます。
それを書いた後に、割と長々と書いたんです。文字数も多くて、
友達に何人かに送ったんですけど、ちょっと長くて読めないと。よっぽど興味がないとこれ読めないって言われたんで、
そうか、じゃあこれじゃダメなんだと思って、それを圧縮して、かつ真ん中にパンフレットがあるんですけども、
これ歩き回れる地図みたいな、今日会場にいらっしゃっている皆さんにお配りしているパンフレットがあるんですけれども、
観光ガイドみたいな体裁にしてはどうかと思って、このブログに書いた文章を地図と文章とかコラムみたいなふうに変換したっていうか書いたんですね。
これはパンフレットですので、印刷費用がかかります。
だいたい金額で言うと一部ぐらい、一部10円ぐらいで作りました。
なので、1000部吸ったら1万円とかそういう感じなんですけども、
ホドボライナリ神社についての説明
ご交付をいただいてですね、増刷を重ねて今3000部吸ってる感じなんですけども、
だいたい一部10円ぐらいで吸っております。
これを作った時に、じゃあせっかくだから、
ホドボライナリ神社ってここからだと車でちょっと行って、
登るのは5分、10分ぐらいなんですね。
すごく近いんですけど、でもすごく気持ち的には遠いんですよね。
恐らく東の市内の方でも名前聞いたことがあっても、行く機会がないから行ったことがない人がほとんどだと思うんですね。
でも本当に近いんで、じゃあ内田書店さんで書店の2階にイベント会場ができたので、
そこで喋って、その後すぐみんなでそこに移動することができるぐらい近いんですよ。
なのでそれをやってみようということで、トーク&トレッキングっていうイベントをやりました。
これ10月15日だったんですけども、
イベントでどんな場所ですよ、どんな言い割れがあるんですよというのを説明して、
実際にお連れするということをしたんですけども、
やっぱりそこまでやると、まず来た人全員めちゃくちゃ面白がってくれるわけですね。
この場所に限らず、どんな文化遺産でもそうですよね。
言い割れを聞いて、そのご本人が連れてったら絶対面白いに決まってるんで、
それをうまくやることができたという。
それをやりました。
このチラシは300部ぐらいしか作らなかったんですけども、
そういうのを作ってやりました。
やったこととしては、本当に手順に展開していった。
まず自分でお金のかからない方法で、自分が勉強した結果を書いて、
それを印刷物にして、それを人を集めてしゃべる。
だいたい簡単な順から労力がいる順番になってるんですけども、
一つ一つがテストになっていって、だんだん人を呼ぶことができたという感じなんですけども、
中身に触れる前に、結果の方から最初にお伝えしますと、
10月から2月までの4ヶ月弱ですね。
10月15日からなので、それでなんとというか、
僕にとってはなんとなんですけど、120万円の寄付が集まりましてですね、
もともと積み立てていた金額と合わせて、
修繕工事の前半部分をスタートする目処が立ちまして、
今年のどこかから本格的にスタートする予定です。
ただ、初年度は道をつけて資材を運んでとか2年に渡るので、
本格的に寄付を集めるということをまだまだしなきゃいけないんですけれども、
ホドボライナリ神社の起源
こんなふうに寄付を集めることができました。
内訳は個人情報にあたるので、なるべくぼかさなきゃいけないんですけれども、
驚いたことにですね、下組町の誰も見ず知らずの遠くの方々が、
遠くの人ほどたくさんの寄付をくださいまして、
何でそれを知ったんだろうと。
イベントには来ていないんですね、まず間違いなく。
来たら分かりますから。
なので、ブログを見たとか、あるいはパンフレットを誰か、
塔の方が送ってくださったとか、
あとはですね、神社にもパンフレットを置いているので、
それを持っていった方が、そういった寄付をしてくださったんですね。
なので、まさかそんな遠くの方がそんなにやってくれと思わなかったんですけれども、
ただ、そういう文化遺産って何かしら思い出を持っているとか、
ご利益にさつかってそのお礼をしたいと、
長年思ったという方がいらっしゃると思うので、
そういう方に3ヶ月内でも届き始めたという手応えがありまして、
これ半年、1年でやったらもっとちゃんと届くんじゃないかなという、
強い期待感を持っております。
でですね、これがちょっと今手法の話というか、
どういうことをやったかという話だったんですけれども、
せっかくの機会なので、
ホドボライナリ神社の話をしていいですか?
めちゃくちゃ面白いので、
これはどこにも参考にならないの、ここの個別の話なんですけれども、
ちょっと字が細かいので、
読みやすいようにと、なるべく読みやすいように思ってですね、
お手元の資料の中に、
この今映しているのと同じ図を表示しております。
でですね、ホドボライナリ神社って、
おそらく聞いたことあるけど、
行ったことないって人ほとんどだと思うんですけれども、
これがどういう場所かというのを、
そのイベントでは説明をしたんですね。
よく知られているのはですね、
実際行くと分かるんですけれども、
ミヤ・ミチヨシが建てたということが、
この看板に書いてあるんです。
そのミヤ、ミヤ家っていうのは、
東の物語週138話を見ると、
東のに最初にやってきた一族があるということが書いてあるんですね。
で、僕昔から東の物語を読むのが好きだったんですけれども、
とりわけこの週138話がめちゃめちゃ好きだったんですね。
何でかというと、ダントツに古い話だからですね。
東のが湖だったっていうのは、
実質学的に明らかなんですけれども、
ただそれは人が住んでいる時代より前なんですね。
人が住んでいる時にはもう湖なかったので、
酒の瀬に乗って東のにやってきて、
まだ湖だった頃の東のにやってきたって話は、
実際の話ではなくて、
フィクション、どこかの時代のフィクションを
佐々木義全が拾って書いたってことになるんですね。
ただ、なんとなく夢がありますよね。
酒の瀬に乗ってやってくる、
酒の大助、酒の蘇生伝説、日本全国にあるので、
ロマンのある話だなと思って。
ただ、フィクションであることは明らかだし、
ロマンがあるので止めてたんですけれども、
その家が宮だって言うんですよね。
その宮っていうのは、
このホドボライナリ神社の建てた宮なんですね。
これどういう繋がりなんだろうっていうのが
気になってたんですけれども、
気になって調べたんですね。
東の町に宮という家の存在
これは事実なので、
僕が発見した事実ではなくて、
調べればいろんなところに書いてあるんですけれども、
これっていうのは、
阿蘇沼家の末裔であると。
阿蘇沼家っていうのは、
東のの最初のお殿様ですね。
八戸南武士が東のに来て、
治めて間もなく400年ですけれども、
その前の時代の400年を治めていたのが阿蘇沼氏。
阿蘇沼公の日が、
高校時とか松崎の日があると思いますけれども、
その最初の一族のお殿様の一族なんです。
この込み入った図を頑張って説明しますと、
上に年表が書いてあるんですけれども、
阿蘇沼氏が東のを配慮して、
今の栃木県佐野市からやってきたのが、
大体1189年です。
そこから約400年ぐらい、
統治時代に続くんですけれども、
空出たにあって、
阿蘇沼博長というのが失脚をします。
その後、南武家が治めたというふうに、
なんとなく思っている方が多いと思うんですけれども、
実は南武家が来るまでの空白の27年間があります。
実際には空白ではなくて、
南武都市の森岡南武藩の代わりに治めるという、
そういう立場の人はいたんですけれども、
何しろ空出たで取った政権ですから、
民衆が懐かなかったわけですね。
これ後のように暗黒時代というふうに、
阿蘇沼後輩記に暗黒時代と書かれていますけれども、
ものすごく治安の悪かった時代があったと。
その後、南武氏が1627年に、
根根子様で有名な精神移行が来られて、
治めているというのは、1627年からなんですけれども、
実はこの2つの時代にまたがるお話が、
この138話とか、
ホドボラアイナイ神社に秘められているんですね。
どういうことかといいますと、
この図の一番下のところに、
阿蘇沼・博綱から始まって、
阿蘇沼・博里、阿蘇沼・博長という名前がありますけれども、
この阿蘇沼・博長というのが空出たにあって、
東雲に帰ってくることができなかった、
阿蘇沼家の最後のお殿様です。
その博長の弟が、
このクラホリ・ヨシマサというんですけれども、
このクラホリというのは、
阿蘇沼から名前を変えています。
博長が東雲に帰って来れなかったのに対して、
ヨシマサは東雲にいて、空出たにあったので、
そのまま身を隠します。
身を隠した場所が、
今のホドボラアイナイ神社のあるところ、
ホドボラ山の山中に身を隠します。
当時、今でいう下久美町のあたり、
当時下久美町という町名はないんですけれども、
クラホリと呼ばれたらしいんですけれども、
そのクラホリという地名を取って、
クラホリ・ヨシマサというふうに名前を変えます。
その後ですね、4代、
百何十年かそれぐらい、
4代ぐらい続いて、
その4代目のクラホリ・ミチヨシ、
これは道義、
宮家の人たちは道義と発音するようなので、
ちょっとどっちが発音か分かりませんが、
ミチヨシと読みます。
そのミチヨシが宮というふうに名前を変えたんですね。
なんで変えたかというと、
山に潜むのをやめて、
今の六日町に降りてきて、
お医者さんとして東の南部圏に仕えた、
範囲として仕えたそうなんですね。
なので、その4代たって山から降りてきて、
お医者さんをしたということなんです。
これがどういう話かというとですね、
一番小さい文字で大変恐縮なんですけれども、
この東のの町に宮という家がある、
土地で最も古い家だと伝えられている。
この家の元祖は今の気仙河を越えて、
先に乗って入ってきたそうだが、
その当時はまだ東の方は一円広い湖水であったという、
138話なんですけれども、
これ何かというとですね、
当時東のに住んでいる人は、
このクラホリ家および宮家の人が、
前のお殿様の一族だということは、
当然知っていたわけですよね。
知らないわけはないわけですよ。
何しろ直系の家族の人たちがやっているわけですから。
ただですね、南部家がすでに平和に収まっている時に、
前のお殿様の関わったり、
あるいは褒めるとか、
その敬意を敬うとかっていうことは、
ちょっと穏やかじゃないですよね。
その時に敬意を持ちながら、
でも今のお殿様と関係ない話にするには、
一番古くから来た、
八戸南部家よりももっと前に東のに来た、
この東のに最初に来た伝説の人ですよっていう、
フィクションにしなきゃ、
その敬意を彼らに向けられなかったわけなんですね。
だろうと想像するわけです。
なので、その時まではこの話はなかったんだけれども、
南部家が治めて、
でも阿蘇馬家の元のお殿様の一族が、
町に戻ってきた時に、
彼らを褒める言葉として、
東のに最初にやってきた人たちである、
というふうに褒まったわけですね。
で、褒まれる理由もありまして、
代々お医者に一族になります。
この道主だけじゃなくて、
ホドボライナリ神社と医療一族
医者の家系が5代も6代も続きます。
つい何十年か前までも、
お医者さんをずっとやっている人たちなので、
地域の医療的な尊敬を集める一族だったんですね。
その医療的な尊敬を集める一族が、
自分たちの祖先が住んでいた場所に、
やしろを建てつく。
それがホドボライナリ神社なんですね。
この辺からだんだん、
なぜホドボライナリ神社が、
出産の神様とか医療の神様とか、
何病に効くという言い伝えがあるのか、
というお話と合流してくるところなんですけども、
なぜなら、
あの一族が東のの人たちの出産とか、
不人病とか、
それに限らないいろんな病を癒してきた一族で、
その人たちがもともと住んでいたところに対する尊敬が、
人に対する尊敬が神社に対する尊敬に移り変わる。
なのでそう言い伝えが残っているという場所なんです。
何だと解釈してるんですけども。
なので、この139話、141話なんかも抜き出してるんですけども、
139話というのは、
宮家の人が酒の皮を食わなくなった伝説の話が書いてあるんですけども、
これなぜかわからないんですよね。
お店先の方で、
一族が危機があっているというので助けに行って、
その危機を酒が知らせてくれたので、
今酒の皮を食わぬ、みたいな話なんですけど、
これ何かというと、
南部家の残党狩りにあった一族を助けに行ったというお話なんですね。
でもそうとは書いてない。
でもこれそういう話なんですよ。
あと最後141話なんですけども、
南部家の残党狩りと宮家の開けぬ箱
宮家には開けぬ箱というものがあると。
この開けぬ箱というのは、
開けたら目つぶれるって伝えられて、
誰も開けてこなかったのを万有を持って開けた人がいたんですけど、
ところが何もなかった。
不思議な話だねって終わってるエピソードなんですけども、
これそんな単純な話じゃないんですね。
これ宮家の人たちの資料を見せてもらったんですけども、
この何が入っていたかというと、
この一松模様の布が入っていたんですけど、
これ何かというと、
倉堀義正が阿蘇沼裕永からもらった、
恨みを晴らしなさいっていう、
お前が宗家である任意を証明するための、
殿様しか身につけない着物をもらったものなんですね。
これは裕永は党のに帰れなかったんですけども、
義正は党のにいたんですけども、
赤羽峠峠の戦いというのがあって、
そこで戦いの時には義正が参加していて、
裕永に会っているそうなんです。
その時に、
俺は戻れないけども、
お前はこの着物を持って隠れ潜んで、
いつか恨みを晴らせって言われて渡されたものだったそうなんです。
それが代々伝えられていたそうなんですけども、
それを箱に封印したのが、
この宮道義だそうなんですね。
ここから私の解釈になるんですけども、
なんでそんなことをしたかって。
恨み晴らせだったら、
明けてはならぬじゃないですよね。
毎年明けて恨みを忘れないようにしなさいって言うと思うんですけども、
道義はそうじゃなくて、
忘れなさいって言ったんですね。
この時すでに南部圏が治めて110年ぐらい経っている。
平和な党のになっているんですね。
その時に、100年前の宗家回復を基として、
その一族のお殿様の着難が、
遠野の文化的な遺産
食うれた食わさせたら、
乗ってくる人もいたと思うんですけども、
忘れなさいって言ったんですね。
ここがすごい面白いところだと思ってまして、
世の中に争いって絶えないと思うんですけども、
こんなに消極的な、
でも平和的な改革をぐっと飲み込んだっていうことなんですよね。
なのでこれ、
さっき期前の時代に、
明けたら何もなかったっていう話が書いてあるんですけども、
それ大成功なんですよ。
もう明けたみんなが何の由来かわからなくなるぐらいまで
忘れなさいってやった結果、
みんな忘れてたっていう。
これが大成功なんですよね。
っていう話があるんですけど、
はい、ちょっと暑くなりそう。
飛び乱しました。
で、これ話に本題に戻るんですけども、
ちょっと残り駆け足でいきたいと思うんですけど、
駆け足じゃなくても大丈夫か。
何分ぐらいになっちゃう?
時計が。
あと何分ぐらいですかね。
あ、じゃあ全然大丈夫です。
じゃあ私がこれ何やったかというと、
ちょっともう一回その手法の話に戻ります。
まずですね、これやるにあたって、
今私喋りながらこれは解釈ですっていう風に
添えながら言ったと思うんですけども、
事実と解釈を分けながら喋ったつもりです。
その事実の収集にあたっては、
東の物語周囲とか、
あとは吉田正吉さんの新東の物語、
東の南部獣の物語、
この2冊めちゃくちゃ面白いですけど、
おすすめです。
これと、あとはこの見分けファイル、
宮康さんという方がお持ちになられていた
調べた資料があるんですけども、
これのコピーが存在しているので、
それと、あと宮康さんが
名門名刑パート2に投稿した記事が
残っているんですけども、それと、
あとはですね、東の騒動と隅田の歴史、
これはおととしに出た本なんですけども、
これらを参考にして、
まず事実関係を収集しました。
じゃあどの部分が私が想像した部分だったかというと、
東野の人々というのは、
かつての殿様を新政権の手前で
はばかりつつ敬うために
伝説の人物にした、フィクションを作ったんだと。
これは私の想像なんですけど、
多分そうなんだろうと思います。
あとは、宮道義が
その恨みのこもったものを
封印したというのは、
忘れろというメッセージなんじゃないかと。
忘れろというのは、
恨みを忘れろというのはかなり
勇気の湯というか、
勇気を飲むような気持ちもあったんじゃないかと思うんですけども、
ちゃんと平和のためにそういうことをした。
それっていうのはもしかしたら、
今、うかやな戦争とかパルチナ問題とか
解決後の問題は世の中にたくさんあるんですけども、
それを一風変わった
恨みを晴らさないで飲み込むっていう、
これもある種ヒーローだと思うんですよね。
普通できないですよね。
ちょっと一風変わったヒーローとしての
価値があるんじゃないかと思って
注目してるんですけども、
そういう英雄としての三谷道義というのが
見えてくるんじゃないかと。
あとですね、これは
2027年、あと3年後に
南部入軍400周年という
今の遠野市にとってすごい大事なイベントがあるんですけども、
その中で、
ホドボラ稲荷神社っていうのは、
実は今の平和で文化的な
遠野を生み出した
実はすごく重要なキーパーソンによって
生まれた場所っていうふうに
見えるんじゃないかっていうふうに思ったんですね。
それで興奮してる
っていうことなんですけども、
ちょっと今お伝えしたかった内容としては、
事実の収集と創造っていうのを
分けてやり
っていうことなんですけども、
これをやりながら
私が冒頭にちょっと引いた言葉を
アレンジして、
遺産が遺産であるためには
常に創造が必要である
というふうに言っていいんじゃないかと思って、
今日このために持ってきました。
ただですね、この創造の
プロセスっていうのを
もう一個ぐらいユースケースというか
応用例があったほうがいいかと思いまして、
もう一つ持ってきました。
これはご存知、東能の方はご存知
五百羅漢ですね。
紀錦の日として有名な、
これもすぐ近くにある
石に掘られた羅漢像なんですけれども、
これちょっと字が細かいので
私はちょっと冒頭で説明しようと思うんですけれども、
まず一般的な説明としては、
天明の大紀錦の
餓死者のために
大父の偽産をしようが
掘ったということなんですけれども、
これ私も子供の頃は誤解してましたけれども、
紀錦というのは何か例外があって、
その年米が取れなかったことを
いうのだと思っていたら、
違うんですね。
みんな備蓄してますから、
1年2年の不況というか
例外なんかは耐えられるんですけれども、
大紀錦というのは、
それが5年も6年も7年も続く
ということなんですね。
7年間米が不足であり続けるみたいな、
それがいわゆる三大紀錦とか
そういうものなんですけれども、
それって何によって
そんなに起こっているかというと、
東北は山川が吹くから米が育たないとか、
そんな話じゃないですね。
火山の噴火によって
清掃圏に上がった細かい地理が
太陽の光を何年間にもわたって
弱めてしまうということが
同時に起こっているということなんですね。
実はこの同じ期間に
日本で浅間山が噴火していると、
あとはアイスランドのラキ火山、
あとはグリムスボトン火山というのが
歴史に残るような大噴火を起こしたときで、
地球全体が5年も6年も冷え込んだ時期なんですね。
実はこれというのは
フランス革命の原因にもなったと言われていて、
つまりご飯が食べられなくなる、
飢えるということで民衆が反乱を起こす、
だからフランス革命が起こるという
同じ時期に起こっていることなんですね。
となると、ここからが右側、
私が解釈、付与するところなんですけれども、
やっぱり今21世紀の、
特にここ10年ぐらい気候変動の問題って
すごく世の中関心が高まっていると思うんですけれども、
気候変動、今言うと温暖化とか水位上昇、
あったかくなる方向の心配をされていますけれども、
こっちの基金の方は寒冷化するということなので、
温度の方向こそ逆なんですけれども、
共通点は、一つの事象が全地球的な気候に
ものすごく影響を与えていることに関しては
共通なんですよね。
あともう一つが、特にここ20年ぐらい
高気候学という古い時代の気候、
高光学じゃなくて高気候学、
どの時期にどんな天候でどんな温度だったかというのは
どんどんクリアになってきて、
その昔は説明がつかなかった民族大移動とか
どこかの民族が滅びたということが、
実は気候で簡単に、
簡単にというか気候の情報を入れることで
より正確に分かるようになってきたというのは
この10年、20年よくありますし、
文化人類学でDNAの解析なんかで
どこから来たのかというのも
遠の物語の出版とフォロワーの時代
かなり分かってきているんですけれども、
そういうものを取り入れて考えた結果、
東北の例外、東北でお米が取れなかった
みたいな話じゃ実はなくて、
実は全地球的な人の移動とか
関連化とか関連があるみたいな風にも捉えられると。
そうするとですよ、
例えば僕なんかまだ外国の方を
500日間にご案内したことないんですけれども、
その時に多分自分だったらどういうかなって想像すると、
昔この辺寒くてお米取れなかったんですよって
言わないと思うんですよ。
ただそれ事実だとしても
もっと関心持ってもらうために
例えばヨーロッパから来たお客さんだったら
ラキ火山知ってますか?フランス革命知ってますか?
あの時地球は冷え込んでて、
その時この地域ではこういうことがあって、
それの異例の日としてこんな風に
500日間掘った方とかいるというか、
地域に大事にしてきたんだよっていう風に
関心持ってもらうためにそういう風に言うと思うんですね。
なので事実は変わらなくても、
今改めてこういう風に言い直すことができるんじゃないかと思ってます。
これはちょっとユースケースとしてまだ実践してないんですけども、
やってみたいなと思っております。
っていうのがちょっと今日の大体の本題だったんですけども、
多分ちょっと数分余っていると思うので、
ちょっとこういうのを紹介したいと思うんですけども、
まずですね、今回私が文化遺産を守るための
施行法っていうのをやらせていただくんですって
友達に言ったらですね、
その友達は清水寺のPRとかやってる
広告代理店の人で、金沢とかに住んで
いろんな自社物価のプロジェクトやってる人なんですけども、
その人が何で遠のってこんなに文化度が高いんですかって
いう風に言ったんですね。
僕はよくかかってるから、
そういう距離感わからなくなってたんですけども、
確かにそこまで清水寺のPR担当してる人から見ても、
なんかすごいイベントがちょくちょくあるの、
何でなのって言われて、
その時僕答えたのが、
簡単な答え方と難しい答え方があって、
簡単な答え方は、
遠の物語があったからですよって言ったんですね。
その時長話できなかったんで、
それで終えたんですけども、
これが無煙毒細胞の長い方の話です。
何で遠の物語があると文化度が高くなるのかっていうことなんですけども、
これちょっとグラフが何を示してるかというと、
縦軸が遠の物語の出版部数、
世にどれぐらい広まってるかって数です。
350、数万、数百万、無数、4つメモリがあります。
横の軸は年号です。
佐々木季前と柳田邦があった1908年をスタート地点として、
1935年、1962年、2012年というふうに4つに区切っています。
それぞれで時代が違っていると思うんですけども、
まず最初の時代はオリジネーターの時代。
まずオリジナル、柳田邦、佐々木季前、水野陽周、井野岡典なんかが
遠の物語についてバンバン書いていくんだけれども、
350冊プラス当社版が何部かしか存在しないっていう世界だったので、
みんな関心はあるんだけれども、
手に入れられないっていう時期が25年ぐらい続きます。
その間に沸騰した遠の物語欲しいっていうのに応えて、
遠の物語情報版っていうのが1935年に出ます。
これでみんな変えるようになりました。
ここからがフォロワーの時代と書いてあるんですけれども、
一番有名なのは折り口忍ぶ、あとは共同幻想論で遠の物語を知った方も多いんですけれども、
吉本隆明なんかがそれをこの再版版を読んで、
遠の物語をどんどんどんどん広めていく。
しかもそれで評判になるもんだから、
岩波文庫、門川文庫等にどんどん収録されて、
数万冊、数十万冊っていうのが日本のどの書店でも手に入るようになります。
その後、柳田邦が亡くなります。
亡くなると、それまでの出版されてなかった手紙とか、
未刊講習なんかがガンガン出てきます。
なので、さらにさらに本が出てきて、
ここからが研究者の時代ですね。
石井正美先生とか口寺さんとか後藤宗一郎さんとか、
遠の物語の研究本で数々の名前のある人たちが、
ここからバーって出てきます。
その皆さんが何に向けて活動したかというと、
2012年に遠の物語の著作権入れ、
下50年で著作権が切れて、
それを使ったいろんな出版活動や再創作が自由になる瞬間があるんですけども、
そこを一つのピークとして、
原本遠の物語三部作なんかも出たのが去年ですけれども、
そういったものに向けてどんどん研究活動がどんどん広まっていって、
もう行くとこまで行った、
もうこれ以上研究するものありませんっていうのは、
原本三部作、去年出たところなんですけども、
じゃあ一方、2012年より先どうなっているかというと、
この遠の物語を使って自由にものを作る人たちがたくさん出てきた。
それは文章もそうだし、映像もそうだし、
あるいは共同芸能を新しい手法で再構築する、
リデザインするというのもそうです。
いろんなクリエイターが参加するようになっていると。
なので、やっぱりこの時代に意味があって、
オリジネーザーの時代、フォロワーの時代、
アカデミシアの時代、クリエイターの時代と続いてきていて、
今、私及び集まっている皆さん、
そしていろんな地域で活動されている皆さんというのは、
遠の物語をきっかけにフォロワーがいて、研究者がいて、
その研究論文に大量にアクセスできるようになっている状態で、
私なんかがさっき事実を収集して、
何かを付け加えるということが簡単にできるようになったわけですね。
この前の時代がなかったら、全部それができないわけですけど。
だからこの110年ぐらいの間で何が起こったかというと、
もともと無数の人々が喋っていた遠の物語や遺産という財産が、
再び無数のクリエイターのもとに戻っていっているということが、
一回出版物になって権利が生じますけど、
もう一回再び自分たちの自由に使えるもののもとに戻っていっているというサイクルなんですね。
なんで僕らがやらなきゃいけないことというのは、再創造するというか、
創造するということなんだろうなというふうに思っていまして、
改めて本日のキーメッセージなんですけれども、
遺産であるためには全員創造が必要であるということで、
終わる前に絶対言えと言われたのが、
ホドボライナリ神社の寄付を外の受付で壮大な皆さんがやっていますので、
ホドボライナリ神社というのは下組町11区の遺産なんじゃなくて、
遠野市の遺産だなってちょっと思ったんじゃないかと思うので、
遠の物語の研究者の時代
もしよろしければ現地で寄付をやっていますので、
お立ち寄りいただければと思います。
というわけで本日どうもありがとうございました。
ありがとうございました。
会場の皆さま、私さまに今一度大きな拍手をお願いいたします。
という感じで40分くらいの講演をやらせていただきました。
この後ですね、パネルディスカッションがあったんですけれども、
それ全部お届けできなかったので、
私の発言部分だけちょっと編集してお送りしたいと思います。
その最初の回答内容というのが、
この資金集めというのをどんなふうにやったか。
これもちょっと先ほどのホドボライナリ神社の事例紹介になるんですけれども、
あそこで起こったこと、
その3.3ヶ月半ぐらいで予想の余る120万円ぐらい集められたというのが、
何が起こったかというと、
値段がついている商品はなるべく多くの人に届けた方がいいわけですね。
1個500円、1個1000円とかっていうのは、
たくさんの人に知ってもらった方がいいわけなんですけれども、
寄付のように値段のないものは、
その情熱の深い人、感謝の深い人、
そういう人に届けないといけない。
つまり人口も減っていくとか、
観光客もそんなにたくさん来る場所じゃないというところでは、
1000円、2000円のものをたくさん売っても財源にならないんですけれども、
やっぱり人の感謝とか信仰心に上限はないので、
いかにそういう人に深く届けるかということを意識しました。
これよくマーケティングの世界だと、
100人の真のファンとか、
102ファンとかって言うんですけれども、
いかにその100人の本当に熱狂的な人に届くかということを意識しました。
特に小田原稲荷神社の場合は、
病気とか婦人病とか出産とかっていう、
デリケートな部分に関してのご利益があるというところなので、
例えばツイッターでバズった、SNSで告知したときに、
これでお子さん授かりましたとか、
不妊治療中ですとかっていいねする人いないんですよ。
いるわけないじゃないですか。
でもその人たちは日々ブログとかポッドキャストとか、
自分のSNSで身元を明かさずに済む貴重な情報源を求めているわけですよね。
そういう人たちに届けるために、あんまりSNSはやらなかったんです。
ブログとかポッドキャストとか静かなメディアを選んで、
紙とかね、やったんですね。
やっぱり今の世の中って、YouTubeとかTikTokとかSNSとか、
バズるものに注目されるんですけども、
だいたいスマートフォンを持っている人の人口に比べて、
SNSをやっている人も少ないですから、
その静かな多数がたくさんいるので、
特に寄附とか振興に関わることは、
静かなメディアを使うべきだと思ってやったんですけど、
こんなにうまくいくと思っていなかったんですけど、
でも本当にその理屈の通りなんだなということで、
学ばせていただきました。
そして最後はですね、今回の来場者の皆さまに
メッセージをお願いしますという質問に回答した内容になります。
メッセージというと僭越なんですけども、
私からは東の物語と東の物語周囲、合わせると400話ぐらいあるんですけども、
あの中にですね、過去100年ぐらいまだどんな研究者も注目していないエピソードが
まだ山ほど眠っていますので、
今日した話も私本読んで喋っているんじゃなくて、
まだあれだけ解釈の内にあるような事実がたくさんあるので、
必ずその地域の文化遺産に関連したエピソードがほぼ確実にあると思って、
それをちょっと関連するところを探してみるというのはすごくいいと思うので、
お勧めしたいと思います。
長時間お聞きいただきありがとうございました。
今回のセッションなんですけども、市役所の方からご提案いただいて、
話す機会をいただいたんですけども、
タイミング的に自分の活動を振り返って、
その大事なメッセージを抽出するすごくいい機会をいただいたなというふうに思っています。
途中引用したんですけども、
「歴史が歴史であるためには常に想像が必要である」という言葉を通じての思考法
歴史が歴史であるためには常に想像が必要であるっていう、
私この言葉すごく気に入って勇気づけられる言葉としてね、
マントラにしてるんですけども、
そのお話をできたのも嬉しかったですし、
後半の方でお話しした、
東の物語っていうのは、
無数の人の語りが一回出版物になって、
で、それが100年くらい経って、
今もう一回無数のクリエイターの元に戻ろうとしていると、
そういうサイクルに今あるんだと思うんですけども、
そう思った時に、
柳田邦夫のものでもなく、
研究者のものでもなくて、
何か普段から物を作っている自分たちの手元に再びそれがあるんだって思うことで、
「東の物語」について
すごくワクワクすることだったので、
そういうのをお話しできたのも嬉しかったです。
楽しいことだらけでした。
もし普段からメディアンヌップお聞きの方いらっしゃるとしたら、
かなり集大成的な、
全部盛りの話だったなと感じるんじゃないかと思うんですけども、
自分もそうだなと思いながらしゃべりました。
楽しかったです。
また次こんな機会があるかわかりませんが、
メディアンヌップ自体は続きますので、
ぜひまたお聞きいただければと思います。
それではまたお会いしましょう。
おやすみなさい。
この次はモアベターよ。
46:32

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