1. 大人になりたい旅がしたい
  2. #26【東京】東西公私の園地に..
2024-06-28 1:12:08

#26【東京】東西公私の園地にいこうPart2

種拾いの東京 東西公私の園地にいこう2日目

江戸時代から世界規模の発展を遂げる首都東京。

その歩みと地域性を紐解くと、大きく4つの象限に分かれる。1つ目の軸は「東」と「西」。皇居を中核とした旧“江戸”と、近代以降の宅地開発で急速な成長を遂げた“東京”。そしてそれぞれの動力には「公」と「私」の差があり、地域さらには住民の人格形成にまで影響を及ぼす。


【目次】

〜 前回の振り返り

〜 “私”の東京とは

〜 東国が誇る圧倒的スケールの神社 【大國魂神社】

〜 ★歴オタ話★ 京王は“〇〇” なぜ青春の聖地になる?

〜 東京西部のタテ移動について

〜 ★歴オタ話★ 小田急は“〇〇” 抜け感を伴う神奈川っぽさ。

〜 ★さらに歴オタ話★ 小田急と自由教育が目指した“新時代の学園都市”

〜 住宅街に佇む数寄屋建築の粋 【成城五丁目猪股庭園】

〜 芸能都市成城の発展を見つめ続けて 【とんかつ椿】

〜 内田の語る東急の印象

〜 ★歴オタ話★ 東急は“〇〇” 「デント」に見る独自のスピリット

〜 五島慶太が目指した“第二の東京”の核心に迫る 【五島美術館】

〜 ★歴オタ話★ 史上空前の鉄道帝国 “大東急”とはなにか

〜 多摩川の夕風に涼んで憩う 【二子玉川公園】

〜 都心の庭園・究極のサプライズ 【目黒天空庭園】

〜 1日の振り返り

〜 ★旅の終わりに★ 東京で拾う人生の“種”


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00:03
大人になりたい旅がしたい。このポッドキャストでは、旅行とお酒が好きな荒沢男性2人が、大人だからこそ知りたい、ちょっとディープな国内旅行のモデルコースを紹介しながらお話をしていきます。
内田です。 パリアです。
今回は、種拾いの東京、東西公私の園地に行こうの2日目ですね。 前回の1日目は、東西の東、そして公私の公、っていう東京が多かったですね。
そうですね。主に墨田区、台東区。 午前中はね、文京区にも行ってました。
いわゆる下町みたいなところが多かった。 もう江戸時代からの、いわゆる都会です。開けてた東京ですね。
ということは、今日のこの2日目は西で、私の東京っていうイメージですかね。 そうですね。そういうことになります。
じゃあ、もう早速いきましょうかね。
東京は2つの東京というところでね、ざっくりあるんじゃないかって、僕が昨日話したのかなと思うんですけれども、いわゆる公というのは、僕はJRっていうのをだいたいイメージしてるんですよ。
国鉄ってことね。 元国鉄ですからね。まあ、公っぽいじゃないですか。それに対して私というのは、つまり私鉄にあたるわけですね。
で、これ東京の歴史っていうのを、近代の歴史を見ていたときにわかるんですけど、東京っていうのが、なんか地域によって感覚が違うなっていうのの、1つすごく大きな要因が、僕はこの鉄道だと思ってるんですね。
つまり、明治時代に新橋、横浜がもちろん最初に開通してから、いろんな鉄道がどんどん、国なり民間なりで出ていったわけですけれども、
最初にやっぱり栄えていったのが、前日巡ったような、いわゆる江戸城とかを中心とした、あちら東の方、昔の江戸の方からどんどんこういろいろ発展してきたわけですけれども、
だんだんそこがすごい人口が膨らむにつれて、人がもうちょっとすぐにはあまりにも土地がないという話になってきたときに、
だんだん西の方に目が向けられ始めて、そこに住宅とかが作られ始めてくる。
住宅あっても歩いて銀座まで行くわけいけませんから、そのときに鉄道っていうのが大きな存在になってくるわけですね。
鉄道会社の方ももちろんそれをわかっているから、自分たちの鉄道を築くにあたって、絶対にこうなるべく多くの人を抱え込んで、通勤に使ってもらいたい、レージャーに使ってもらいたいっていうのがありますから、
僕は思うになんですけど、いわゆる山手線のサークルの西側っていうのは、上から行くと西部、京王、小田急、東急、京急というのが放射状にそれぞれ施設が伸びていってるわけですよ。
03:09
地図を見ていただければなんとなくわかるかなと思いますけど、その沿線っていうのがどういうそれぞれ文化を、なぜその企業が作ってきたのかというところが、実は東京の新宿寄り西を語る上では非常に大きな問題になってると思うんですね。
それはなんとなく実感ありますよ。
そうなんですよね。言っちゃいしまうと、内田は今、京王関係の沿線に住んでね。我々も今そこで収録をしているわけです。僕はね、小田急線の、もう実家も小田急線沿いですし、今は小田原に住んでいますので、そうなんですよ。
で、内田は今は京王関係なんだけど、生まれたのは東急沿線なんだよね。
生まれ育ったか。
割と人生の大半は東急で育っている感じはありますね。
そうですよね。で、我々の中学高校も東急が近かったですね。
という感じであって、やっぱりこれはむしろ我々の感覚がわかると思うんですけど、やっぱり沿線ごとに街並みも違うし、ストアとかも違うじゃないですか、スーパーとかもね、不動産ももちろん違うから、なんとなく雰囲気が違うんですよ。
それをね、ちょっとどういった理由でそれができていったのかということと、あとはこの2日間を通してのテーマである園地、つまり庭園とかですね。
っていうのが、この施設の方にはどういうものがなぜできていったのかというのをちょっと見てみたいと思います。
で、前日は特にホテルの指定はしませんでした。
というのも東京もいくらでもありますし、たぶんご自宅からというパターンも多いかなと思ったので、そこはもうあえて特には言っておりません。
なので朝ごはんもちょっと申し訳、手抜きなんですけれども、2日目は特に指定をせず、朝ごはんご自宅で食べていただく、あるいはホテルの近くで食べていただいてからの話をしたいと思います。
おいしいところいっぱいありますからね。
いっぱいありますし。
出発点としては新宿駅に行きたいと思います。
やはり西の方に行くにあたっての一つの大きな拠点ですね。
山手線のサークルでも新宿、渋谷、池袋のあたりが西の拠点でしょうか。
新宿駅から乗るのがですね、まず最初の鉄道です。
京王線に乗りたいと思います。
京王の本線の方ですね。
京王線というのは、京は東京の京なんですけれども、王というのはこれはどこだかというのは。
八王子か。
その通りです。
考えたことなかった。
そうなんですよ。これ当たり前のに京王線、しかもありそうじゃないですか。
なんかね。
縁起も良さそうで、東京の王様になるじゃないけれどもね。
なんですけど、本来の意味は八王子です。
06:02
そうかそうか。
京王線、新宿から本線は八王子、あるいは高尾山口まで行く時もありますけれども、そっちのいわゆる多摩という地域の方に都心を結ぶ施設になっていまして、京王本線がそれで。
あとは井の頭線っていうところもあったりとか、そういったものもいわゆる多摩地域のアクセスから一番馴染み深いものでしょう。
割と一番西に行く施設かもしれないね。
そうですね。
そういうことになりますね。
この京王線に乗っていただいて、新宿駅から西の方に25分ほど、これは多分急行か早いものに乗った想定で25分と言っていますが、目指していただくのが府中駅というところになります。
府中はね。
どうですか、府中。
府中はね、やっぱり馴染みありますよ。
毎年行ってましたから。
え、なんで?
あ、そうか。
東京でね、吹奏楽の音楽系のコンテスト、吹コンとか、アンサンブルコンテストとかっていうのの会場になっているのが府中の森なんですよね。
なんで、毎年ね、そこに行ってました。
はい。
ので、府中は馴染みありますよ。
そうですよね。あれは東府中駅かな。
あ、そうだね。
でも、いわゆる京王線の府中の辺りですよね。
我々もコンテスト出てましたからね。
確かにちょっと特別な地名ではありますね。
まさにその府中なんですね。
はいはい。
いわゆる行政区で言うと府中市になります。
で、なんでこの府中を目指したかというとですね、いわゆる東京の西側の多摩地域において特別な存在を放っていたのがこの府中の辺りなんですけれども、そもそもなんで府中っていうかっていうと、これね、由来は武蔵の国の国府があった場所なんですよ。
武蔵の国っていうのは、今の東京都と埼玉県、あとは神奈川県の一部、具体的に言うと川崎市と横浜市の一部です。
全部同じ国だったんですよね。
そういうことか。
そう。
あのさ、今武蔵何たらって駅さ、いったるところにある。
ありますあります。
なんでこれ全部武蔵なんだと思ったんだけど、武蔵の国がそんだけ広かったってことか。
そうなんですよ。
なるほどね。
これね、だから東京、埼玉、横浜、川崎っていう政令指定都市とか首都圏は全て同じ国だった。
なるほど。
うん。
あーちょっと謎が解けたわ。
うん。
神奈川県の方でも武蔵ってあるって、神奈川ってやっぱ相模の国っていうのはイメージあるんですけど、武蔵溝野口とか武蔵小杉とかってある川崎市高津区中原区ですけど、あれもやっぱ武蔵なんですよ、あの辺はだからね。
09:04
そういうことか。
うんうんうん。
なるほど。
でその中心がこの府中だったんです。
はー。
そうそうそう。
だから元々の古代の東京の中心はここなんですよ、武蔵の。
なるほどね。
そう。
というのがこの府中市になるわけですね。
はい。
で実際にですね、スポットとしては府中駅から歩いて8分ほどのところに大国玉神社というものがあります。
はい。
字がですねちょっと難しいんですけれども、大きな国、これ国は旧字の国ですね。
と魂と書いて大国玉神社というものですね。
すごいなんか王業な感じだね。
はい。
すごいな、なかなかねちょっといかめしいというかあれですけど。
うん。
はい。
でこれがね、まあ要はその武蔵の国の国府に隣接していた、もう武蔵の守り神なんですが。
はいはい。
でもね驚異的なのは、まあこれあくまで伝承かもしれませんが、この神社が創建されてからなんと1900年経ってる。
あ、そういうこと?
そう。
あ、そういうことか。
そう。
西暦111年創建と伝わる東北有数の、まあ日本でも有数の古さだと思います。
うんうん。
っていうね神社があるんですね。
えー本当?って思うけどね。
うーん。
まあそう伝わっているんですよ。
うんうんうん。
でまあ当然のことながらですね、もう我々どころかもう昔の人たちもやっぱりもう大国玉神社といえばっていうところはやっぱりありましたので。
はいはい。
あの歴史印象のところを見ていただきますと。
はい。
まあ今ねちょうどまさに武蔵の国の地図が出てますね。
うん。
この国府と書いてあるのが府中です。
いわゆるね。
はい。
いや広いねやっぱ。
広いですよ。
うん。
秩父も入ってんのか。
はい。
埼玉県も入ってますね。
あー。
はい。
あーこれ広いわ。
うん。
なんかどうしても武蔵って東京のものというイメージがあるんですけど。
そうだね。
うん。
埼玉も、まあ埼玉の人はわかるかな。
神奈川がね意外とね武蔵だっていうのを意外と知らない人も多いような気がしますね。
そうだね。
どうしても相模のイメージがね。
うんうん。
はい。
でなのでね、あのもうやっぱりこの東国、関東を治める人というのはこの大国玉神社というのは無視できない存在なわけですね。
はいはい。
まあこの神社としての入手もさることながら、もうねこの宝物殿というのがねあるんですけれども。
はいはい。
もういわゆる関東のね異星者たちの本当にいろんなものが集まってるわけですね。
徳川家はまず最もね、徳川義信自質とかね。
すごいね。
うん。
とかまあそういった鏡ですとか、そういったおめでたい武具、宝の刀ですよね。
うん。
とかやっぱりまあ東国ってやっぱり武士がね非常に強かったところでもありますから。
はいはい。
やっぱり自分たちの武運とか平和というものを願ってですね、多くのものを奉納して、それがまあ残っているわけなんですね。
なるほど。
なのでまあ本当にこの関東の歴史というものを見ていった時に、大国玉神社というのは本当によく出てきます。
うーん。
っていうのがね、まあ今は東京都の中でね、あのまあでもこれやっぱりさすがにこの大国玉神社はすごいですよ。
12:05
あの行くと本当にもう広大で敷地があってもう林もすごくてですね、境内の林もすごいもう自然が豊かなので。
はいはい。
いわゆる武蔵野って言われてる言葉ありますけれども、武蔵野野原ですね。
はいはい。
その原型をね、東京の中にあってね、留めている、まあ筆頭にあがるんじゃないかというスポットなので。
でまあね朝なのでね、まずはここにちょっと参拝をしてから始めるというのがいいかなと思いました。
うん。
この鳥居から本殿までがちょっと長い。
そうなんですよ。
途中に門もあるし。
うん。
すごいですね、立派な神社って感じですね。
すごい立派です。
うん。
東京の神社というとね、どうしても明治神宮とかね、靖国神社とかって23区の神社思いがちなんですけど、
まあもう西の神社といえばこれでしょう。
なるほど。
っていうもう圧倒的な存在感です。
はい。
というのがね、大国玉神社でした。
はい。
で、まああのちょっと関連してなんですけれども、京王戦がね、この府中を通っているわけですが、
このね、これから京王、小田急、東急というふうに見ていくんですけど、ちょっとそれぞれのカラーと歴史をちょっと整理しておきたいなと。
なるほど。
京王電鉄というのは、もともとはね、八王子と東京都市を結ぶということなんですけど、
道で今の路線図を見てもらうとわかるんですけども、JR中央線とかと被ってますよね。
うん。
で、昔のいう甲州街道なんですよ。
はいはいはい。
山梨の甲府から東京の辺りを結んでいたのとだいたい被っているから、八王子とかね、高尾とかもだいたいそっちの方ですよね。
今の甲州街道と京王線は平行してね。
そういうことなんですよね。
通ってますよね。
はい。で、この道っていうのがどういった道だったかっていうことに、この京王の誕生の秘密があるわけなんですけれども、
これはもともと八王子がその一大拠点になったんですが、キリトの道なんですよね。
シルクロードです。
いわば。
山梨とかね、あとは多摩の方で開湖でキリトを取ったっていうのはすごい盛んな場所でしたから、
それを運ぶ、いわば産業の道なんですよ。
この道というのはね。
それが京王の一つのポイントであって、
これね、ちょっとどこまで関係があるか僕裏取れてないので、あくまでも推測として聞いてほしいんですけれども、
京王伝説を実質的に創業したと言われているのは井上徳太郎という人なんですね。
井上は井上さんで、徳っていうのはね、厚い竹冠に馬と書いて。
厚姫の厚ね。
その通りです。徳太郎さんという人で、この人自身は厚着の方なので、わりと織田宮の関係っぽいところなんですけれども、
京王の創業者というふうに言われている人。
もともとは京王伝説の経営を任される前は、この人富士宝石っていう宝石会社に勤めていた人なので、
15:03
やっぱりその糸なんですか、宝石会社って。そこにやっぱりちょっと関係があったのかなっていうふうに思うんですね。
どうですか、京王というと、街並みとか沿線に住んでいるわけですけれども、どういう特色があるとか何か思えたからあります?
京王 何だろうなー。すごいね、雲使う話みたいになるけど。
なんかね、ゆったりしているイメージはちょっとないんですよ。
なんとなくこう、駅前が開けてて、道幅もちょっと広いようなイメージはあるんですよね。
なんとなくこう、大らかな気持ちで歩けるような雰囲気があるなっていう印象ですかね。
車窓からの景色とかどうですか?
わりとのどかな感じがするかな。高い建物もなくて、意外とその家と家の間とかも意外と開いてたりとかするんで、車窓を見てても開けてるなーっていう感じはちょっとあるね。
おそらくですね、それがやはり京王と紐づくものがこの大国玉神社に象徴される武蔵野なんですよ。つまり平野なんですよ。
平野から山に行くっていうのがこの京王のルートになっているので、そのやっぱりのどかな、ちょっと牧歌的なと言っちゃあれですけれども、玉川があって、高々と開けている感じ。
向こうに徐々に八王子に近づいていくと、玉とか甲州の山々が見えてくるわけですけれども、わりとそのイメージだと思うんですね。
おそらくなんですが、ちょっとそういったイメージに合うなと思って出てきているのがジブリですとか。
そうね、ありますもんね。
やっぱりあれは武蔵野っていうのが非常に重要なポイントになってますよね。
確かにね。他の戦だとちょっと雰囲気が違うかも。
耳を澄ませ場とかで言うと、清関桜が丘っていう京王線の駅がありますけれども、あそこが舞台になっていたりとかしますし、最近で言うと花束みたいな恋をしたり、有村霞さんと須田雅樹さん。
あれはどっちかっていうと京王に住んでいる大学生の話とかでしたけれども、玉川沿いのマンションに途中引っ越す場面とかもあったはずなんですよ。
確かに最近の青春映画みたいなやつは京王線沿いが多い気がする。
そうですよね。やっぱりそれはだから、今内田が言った通り、ちょっとのどかで開けている部屋がちょっと田舎感みたいなのを上手い具合でまだ残している。
なんか都心すぎない感じ。
やっぱり東京なんだけれども、ちょっとその青春に合うようなバックグラウンドを持っているのが京王の魅力なのかなというような気がしますね。
18:08
ちょっと我々のはあくまで京王感ですけど、なんとなくそんなイメージがある。
だから大国玉神社のあたりがまさにね、府中、町府、あの辺はだから武蔵野の中心地ですから、という感じでしょうかね。
大国玉神社から徒歩5分ほど行って、今度は京王ではなくて南武線の府中本町駅に行きます。
これ東京の西側に住んでいるとよく思うことですが、東京って縦の移動が本当にしんどいんだよね。
確かにね、しづらいね。
みんな新宿とか渋谷とかから横にね、東西に電車を広げたがために、縦の移動がね、電車がないんですよ。
ほぼほぼ唯一あるのがこの南武線ですよね。
なのでこれも使わざるを得ません。
府中本町の駅から南武線で14分ほど南の方に川崎方面に下っていただいたところで、上利都という駅があります。
これ川崎市ですね。神奈川県なんですけど。
でも神奈川県の最初の駅です。小田急線でいう。つまり玉川を越えたすぐのところなんですよ。
一個東へ行くと東京都です。
この上利都で小田急線がどうと出てきました。
に乗り換えていただいて、東新宿方面で7分ほどのところに清浄学園前という駅があります。
ここでちょっと降りてみましょう。
小田急に関してはですね、僕がもうこれはずっと育った。福岡からこっちに来てからはずっともう小田急。小田原を含めて小田急だった。
実家はですね、僕もこの清浄学園前の隣の駅にある蘇我谷大倉というところなんですけれども。
そこが実家で、そこで小学校とか中、我々が出会ったときも蘇我谷に僕は住んでましたので。
小田急のカラーと言いますと、いろいろ思うところはあるんですけれども。
小田急は僕は、京葉がさっきのシルクロードに由来する産業の圧の埃だったとすると、小田急は観光ですね。
小田急、つまり小田原急行なんですけれども。
小田急線というのは、新宿から小田原というのが本線なんですね。
それとは別に相模大野というところで分岐して、片瀬江ノ島、いわゆる江ノ島にも行くことができて。
神奈川っぽい色合いを最も持っているのはおそらくこれだと思います。
なぜかというと東急も神奈川には行ってますが、田園都市線とかは行ってるんですけれども、
メインとなる東急のあれは、東急はつまり東京と横浜を結ぶのがメインになっていますので、東横線ですよね。
なので武蔵の国なんですよ。神奈川といっても。
小田急は相模の国を結ぶ。相模っていう神奈川県のあっち側は小田急なんですよ。
21:04
だからイメージカラーもブルーなんですよね。要は海を表して、相模湾が多分意識してると思います。
なので小田急は僕は観光ですね。イメージとしては。
当然ね、今小田原にいるから馴染み深いですけど、小田急線ね、小田原に1回終点になりますが、その後もう少し来た箱根湯本というところまで行けますので。
箱根湯はいわゆる温泉地ですから、もう完全に観光客。
なのであの辺のレジャー改札、観光地としての手段を巡ってもらうというのが小田急というものの一つ成長戦略だったんだろうと。
そこで生まれてきたのが、これやっぱ小田急海の自慢ですけれども、ロマンスカーというものね。
いわゆる観光列車の日本の先駆けのようなものです。
これ東急と京王にはあんまりないですからね、観光列車ってものは。
これやっぱり小田急のそういうところなんですよね。
1回ね、ロマンスカーの先端に乗ったんですよ。
小田原に来てくれましたらそれで乗っても。
あれね、やっぱすごい気持ちよかった。電車の先頭に座ることってないじゃないですか。
運転席がね、普通はあるからね。
でも先端の席っていうのがあって、パノラマで窓がついててね、すごい気持ちよかったですよ。
若干怖いくらい。
そうそうそう、アトラクション感ありますからね。
あれ楽しかったな。
そうなんですよ。
なので小田急はね、やっぱり観光とかね、っていうところから魅力発信になってくるのかなっていう。
車窓からの風景で言うと、この上り戸のあたりとかはまだね、京王にもちょっと通ずるような住宅地なんですけれども、
やっぱり相模の国に入ってですね、本厚木というところを超えると、一気に田園です。
彼方に大山っていう相模の国の一番の霊山がありまして、それを中を大山を見ながら田んぼの中を走っていって、
そしてトンネルを越えた先に小田原があって相模湾が見えてくるという感じなんで。
僕はね、やっぱり小田急は抜け感があるのが好きなんですね。
東京から小田原に向かっていくと、最初は都心、新宿からも出てるし、東京っていう感じなんですよね。
途中で地下入ってって、それ抜けると神奈川っていう感じなんだよね。
東京じゃないんだよね。難しいんだけど。
なんても言いがたいんですけどね。
でもやっぱり途中で湘南辺りを通るし、なんかちょっと違う、東京とは違う雰囲気になってくる。
いわゆる神奈川ですよね。
そうなんですよ。これ言葉で言いづらいんだけど、神奈川っていう感じ。
24:01
で、それ抜けるとさっき言ったみたいに田んぼで開けてきて、で、小田原に着くっていう感じで、確かにどんどん開けていく感じはあるね。
そうですね。これがちょっと我々のあくまでも小田急。
ちなみに小田急の創設者はとしみつ鶴松さんっていう人でね、大分の人なんですね。
実業家であり政治家でもあったような官僚でもあったような人なんですけれども。
だったりもするので、ちょっとその辺りもね、意外かもしれません。
ちょっと話が長くなりましたが、清浄学園前駅。でね、この清浄学園前っていうところなんですけれども、区で言うと世田谷区になります。
で、このね、清浄学園っていうのは実は名の通り学校なんですね。
清浄学園中学、高校、あとは清浄大学かな。というのがこの駅最寄りになっております。
書棟家もありますね。幼稚園もある。
でね、この清浄学園の話も面白いんですけども、小田急って結局、小田急に限りなずなんですけど、まだその時慶応も当時もそうですが、
当時はまだ住宅とかがあまりなかったところに、初めて線路を通すっていうことになってきたときに、
ただ何もないところに線路を通しても誰もいなきゃ使わないから意味ないじゃないですか。
当然のことながら人ですよね。とにかく人を住まわせて呼ばなきゃいけない。ってなったときに、慶応はね、わりとね、もともと三両の道っていう公衆街道ってしっかりしたものがありましたから、
わりとね、そこはなんだけど、
元々人の往来があるところを通してる。
八王子もね、多摩で言うと当時の中心地ですから。
小田急は小田原っていう、なかなか相模の国の一番最果ての方まで行かなきゃいけないから、結構大変だったと思う。
やっぱり土地開発とか企業とかいろいろ誘致しなきゃってなったときに、
この清浄学園がピッタリハマるんですね。
というのは何かというと、清浄学園ってね、これ母親の母校でもあったりして、
なのですごくよくわかるんですけど、そのカラーが。
清浄学園は自由教育というね、モットーを掲げてるふっとりと特殊な学校でして、
当時これを作った沢谷成正太郎という教育者がいるんですけれども、
その人の思想は、教科書だけで覚えるとかじゃなくて、
とにかく自分でいろいろ手を動かす、調べ学習だったりとか遊び学習みたいなものっていうのが大事だっていうふうに言って、
画一的に勉強するんじゃなくて、遊びながらやろうぜっていうちょっとね、異色の教育だったんですよ。
これも自由教育の一派で、沢谷成さんから続いていくものなんですけど。
俺もね、清浄学園出身の友達いるんですけど、確かにね、ちょっとこう明るい、なんだろうな、自由なっていうか、
なんかこう、何て言うだろうな、言葉選ぶけど、
27:05
なんか真面目なっていうよりかは、明るい社交的な感じのイメージですね、その子も。
割と自由活達に、あまり縛らない、とにかく。っていうのが教育方針なんですよ。
ただそれって当時の世の中からすると、かなり大丈夫かあいつらって、
勉強もせずに遊んでばっかりいて、何がそれで勉強なんだってことなんだけど、
そこにだから新しいもの同士で結合したんですね。
つまり、東の甲の方だと、やっぱり江戸時代以来のしっかりとした文化とか格式というか、
さっきの江戸っ子っぽい粋な感じとかもちゃんとあったのに対して、そこにはやっぱりちょっと、じゃなくて、
もっと新しいベンチャーじゃないけど、新しい街を作っていこう、新しい文化が寄付を作っていこうっていう、
西の開拓者たちに清浄学園の活路を求めた。
っていうときに、これは噂なんですけど、
清浄学園ができたのは、清浄学園前っていう小田急線ができるちょっと前なんですよ。
どうもこれは、としみつ鶴松さん一派が、もう小田急線をここに通すっていう計画を握ったらしいんです、
清浄学園の関係者が。
で、我々学校をあなたのところに作るから、あなたもちゃんと駅を作ってくださいね。
一緒に理想の学園都市、新しい時代の新時代の都市を築いていきましょうぜって言って、
この清浄学園という街を作った。
だから清浄ってこれ元々の地名じゃないんですよ。
これ今世田谷区清浄ってあるんですけど、
清浄何丁目は清浄学園から取られてる逆輸入なんです、地名がね。
本当にこの清浄学園があっての清浄なんです。
っていうようなね。
でもだから新しいもの同士のマッチアップっていうのが東京のニュージェネレーションだっていう、小田急もそう思ったと思うんで。
お互いにやりやすい感じだったってことですね。
でも余談ですけど、沢山さん一派の教育方針でもう一つ受け継いでるのが玉川学園というのがあるんですが、
これもやはり小田急線にね、玉川学園前という駅がありますので、
その自由一派っていうのはやっぱりちょっと小田急の持つ抜け感とかね。
ちょっと余白の緩い感じ、観光しちゃおうじゃないけれども。
っていうのと多分ね一番相性が良かったんじゃないかなと僕は思うんですね。
というのがまあちょっとなのでその小田急のある意味象徴的な駅だと僕は思います。
目的地としては清浄学園前駅から降りて徒歩6分ほど行ったところに清浄5丁目井の又庭園というところがございます。
これですね、実はこの清浄というのは先ほど清浄学園ができたという話があったんですけれども、
大学とか高校ができると当然のことながら学者の方々で住み始めるわけですね。
大学の教授みたいな人。特別有名な人でいうと日本の民族学の祖となった柳田邦夫さんっていう方がいるんですが、
30:03
その方は清浄に今日を構えた。これがやはり大きな影響があったみたいで、
結構それ以降文学の方とかそういう学者の方がとにかく清浄には多く集まったっていう一つのコミュニティを形成するんですね。
なのでちょっと新しいニュージェネレーションで柳田邦夫さんの民族学っていうのも新しい学問ですから。
やっぱその当時の新しさ、新しい文化を築いていくっていうのが小田急の一つポイントだったと思うんです。
清浄にはそういうわけで、ちょっとそういった文化の高い方々みたいなのが集まってきたために、今は高級住宅街みたいな、ちょっとお高く泊まったと言われちゃあれなんですけれども、
いうふうな街並みが形成されている。
この猪又庭園というのも、老務行政研究所っていう機関の理事長を務めた方の邸宅なんです。
この方は亡くなってますけれども、その方のご自宅を公開してくださってるわけです。
なぜ公開してるかというと、これを作ったのが吉田勲也さんという、吉田は吉田さんなんですけれども、58と書いて勲也さんと読むね。
これすごいね、建築において重要な存在、もう亡くなった方です、この方も。
いわゆる和風建築、スキヤ作りのスペシャリストでして。
要は昨日出てきた田毛建造さんが、近代ビルの力強いダイナミックなビルを押し出していこうという一派だったのに対して、吉田勲也はそれとは違って、
こじんまりとした日本の古来からある邸宅っていうものに、新しさをちょっとモダンな感じをもたらそうとした、それを融合させた第一人者なんです。
これがね、またそのいわゆる公の力、都庁とかを築いていこうぜっていうダイナミックな行政の力と、
我々の新しい文化、武蔵野の中に新しい文化を開こうという、ちょっとそれとはアンチテーゼになっているような関係性っていうのが、どの建築家を起用したかによってもだいぶ変わってくると思う。
これが庭園に現れてきて、つまり吉田勲也は織田っていうのこの西条御所の井の間田庭園にそういうところを見出したはず。
井の間田庭園、写真をぜひ見ていただきたいんですけれども、これ綺麗なんですよ、すごく。
まさに茶室というか、京都のちょっとドン公園に似てるんですよね。
確かに、建物の中から庭を見た感じは確かにドン公は思い出されるね。
これも特に苔の時期が美しくてですね、新緑の時期の苔庭とかはすごく綺麗なんですよ。
ちょっと本当に京都に近いような感じがしますね。
これがこの住宅街の中にあるんですね。
庭の抜けもね、空が綺麗に見えてて。
ここすごく落ち着きますよ。
これは本当に清城の誇りだと思いますね。
33:03
僕は清城じゃない、その隣の蘇志ヶ谷っていうね、庶民的なところなんですけど。
でも本当にいいところですね。
これは非常に、やっぱ小田急沿線、清城学園っていう学園、新しい文化都市っていうテーマとぴったり合致するんですよ。
吉田磯屋さんもやっぱりこういう土地だからこそっていうのはあったと思いますね。
特にね、この清城の方って地元愛とかね、清城学園の方も母校愛がすごく強いんですけれども。
その象徴がね、清城って面白いのが、この猪又店も含めなんですけど、地域の方がね、これボランティアでこういろいろ守ってるんですね。
なぜそういうことができるかというと、清城憲章って言われている決まり事があるんですね。
清城憲章について、より良い町を作るためにということでですね、ちょっとその前文読んでみると、前の文ですね、前文。
清城の町は理想的な学園都市を目指して絹田村に誕生。まもなく100年を迎えますというところで、この絹田村というのも今も残っている地名ですが、
この絹田村に清城学園が来たために清城という地名が生まれたということ。
清城憲章の目指すもの、緑とゆとりに包まれた公園のような環境を持つ町。
1、理想の学園都市と郊外住宅地の歴史を継承して良好な住宅環境の保全を図ります。
といったところから始まり、ちょっと飛ばしますけれども、最後の5番目に言うと、清城を愛する私たちは自治と共生の精神によって町を育んでいきます。
つまり行政とかじゃなくて私なんですよ。
プライベートでもやっぱり守っていかなきゃいけないっていう気持ちが強いんですね。清城の方は特に。
中古が清城を愛する私たちだもんね。
そうなんですよ。これがやっぱり清城プライドのね、すごいところをね、祖師谷から旗から見てました。
でもすごいと思います。本当にこれは。
でも確かになんとなく、あの、俺のその後輩も清城住みのやつだったけど、確かになんかね、清城好きそうな感じだった。
清城が好きですっていう感じがあったね。
僕も会社の同期にね、すごい仲良い同期に清城学園出身の人いますけど、やっぱ強いです清城。
なんかね。
親も強いです。母親も相当強いです。
なんかそう。親御さんもそんなに。
そうなんですよ。
っていうね。
まあでもこういった人たちのやっぱり謙称、町をちゃんと自分たちの手で守る。私の町だから。国に押し付けられたわけじゃないっていうところも含めてね。
織田級と清城学園と共に作った町っていう誇りがあるんですよね。
なのでこういった景観が保たれています。
で、井の又庭園も守られていますよ。
なるほどね。
というものですね。
で、これを見終わった後にですね、徒歩3分ぐらいのところにあるランチを食べに行きましょう。
とんかつつばきさん。
36:01
もうこれ清城組織外の人知らない人いないです。
超名店。
うまそー。
まあこれね隠れテーマとしては前日のお昼はね、天ぷらというね。ちょっとこの昔ながらの揚げ物。
今回はちょっとまあとんかつというところ。
これもニュージェネレーションの揚げ物。どっちが良い悪いじゃないんですけど、ちょっと比較をしてみたいと思います。
でもこれはね逆に河原の阿部さんよりもあれかな。
まあ要は創業60年くらい。
いやでもそれでもね、60年って結構長いよね。
そうなんです。とんかつの老舗です。
でもここはね本当に有名な店で、昔ながらのとんかつ屋さんなんですけれども、
まあまず味の魅力を話すと、とにかくこの豚肉の質が良いというところですね。
もうそこに尽きちゃうんですけど。
で衣はね結構厚いです。
食べ応えのある感じ。
ひっくり系のとんかつです、かなり。
いいですね。
でまあソースと、あとは塩、岩塩でいただくパターンもありますので。
うまいとこのやつだ。
そうなんです。
でまあ店内はね本当にノスタルジックな昔ながらの飾らない感じでね。
一人でカウンターもありますので。
外観もね、なんかちょっと一軒家みたいな感じ。
そうですそうです。
正常検証で守られた住宅街の中にありますので、本当にこうギラギラ高いと感じじゃなくて、
本当に民家です。
ぱっと見はね。
住宅街の中に佇んでいて自然なとんかつ屋さんになるわけですね。
いいですね。
なんてことないって言うとあれだけど、ザとんかつ定食って感じですね。
そうです。
ただめちゃくちゃレベル高いです。
めちゃくちゃ旨いです。
その一つの勝差と言いますかね。
ここはね、正常ってね、学園都市という側面を持ってたんですが、
それがちょっと高級住宅街みたいな側面を持ち始めると、
芸能人の方がね、すごい住んでるんですよ。
住んでるだけじゃなくて、実は正常には東宝スタジオ。
まさに映像のね、ゴジラを作った東宝スタジオがありますので。
あとは三船俊郎さんのね、昭和の名優三船俊郎さんのスタジオとかもありましたから、
そういう映画関係者がね、よく来るんですよ。
っていうね、芸能の街としても実はあって、
なので今でも芸能人の方は正常多いですし、
正常学園は本当に芸能人の出身者多いですよ。
我々の世代近いところで言っても森山直太郎さんとか正常ですよね。
今は森山亮子さんの息子さんなので。
というわけでですね、
とんかつばきに関しては、所上司さんこの近くに住んでるんですけどもそうですし、
高橋秀樹さん、これやはりむしろ出演者として正常のスタジオに来てたことが多いんでしょう。
テレビ番組のね、人生最高レストランでここを挙げたというぐらいのね、
やっぱりもう本当にいろんな芸能人の方もご用だしの、
39:02
映画と共に、芸能と共に発展した正常の地域の一つの側面ですね。
最近はね、田村雅一さんっていう古畑忍三郎を演じたね、
あの方はもう正常にずっとお住まいで、
最近亡くなってしまわれた時にやっぱ我々あの辺の住民からすると、
いわゆるもう大俳優、あんまりプライベートを明かさない昔ながらの俳優さん、
正常にひっそりと住んでらっしゃった。
ご自宅分かるんですけど、あの辺の人はどこに住んでる?
でもみんなあえて言わずに。
あの時やっぱりだから一つの時代の終わりというかね、そんな気もしましたね。
まあね、遠征じゃなくても亡くなっちゃったんだっていうのは。
古畑忍三郎ね、我々見てましたしね。
それだけじゃないですけどね。
いわゆるね、そういった正常の街のね、
一つ象徴的な存在がこの井戸又庭園と豚活椿。
が、なぜ生まれたのかというところに、
新しい文化都市を目指した小田急とね、
正常学園のヒストリーもあったかなというところでした。
で、そっからですね、さらに今度じゃあ南の方に下っていきます。
例によって南にはなかなか東京は行きにくいです。
というところでですね、正常学園前の駅に豚活屋さんから戻っていただいて、
そっからバスに乗ります。
バスは結構頻繁に出ています。
そうですね、南北はね割とバスで行かなきゃいけないっていう感じですね。
そうなんですよ。
でね、東急あるいは小田急バスどっちも出ているので、
どちらかに乗っていただいて、
目指す先が二子玉川というところに行きたいと思います。
ここはですね、路線で言うと東急田園都市線、
あるいは大井町線がね走っていて、
行政区で言うとこれも世田谷区になりますが、
これを越えるとすぐ川崎市に入りますね。
玉川の沿いのところになります。
二子玉川だからね。
そうそうそうそう。
二つの子供の玉川はね、いわゆる川の名前とはちょっと違う、
玉という字のね、川で二子玉川という駅名になっていますね。
そのバス停について大体30分くらい正常から玉積み通りというところを通ってかかります。
いよいよですね、ここに来て登場するのが東急です。
今まで京王小田急と見てきて、最後大取りが東急ですね。
ということでですね、東急、これはどうですか?
東急が今はふるさとになりますからね。
東急育ち。
ここはちゃんとぜひ京王小田急に負けないように。
東急はね、やっぱりね住宅街っていう印象がやっぱり強いんですよね。
東急の中でもいろいろ分かれるんですけど、
色が全然違うんでね。
僕が住んでたところは割とひっそりと本当の住宅街みたいな感じなんですけど、
42:05
やっぱり東急の中には田園町府とか東横線とかは割とね、
ハイクラスな感じもあるんですけど、
でもそこも割と住宅街ではありますよねっていうイメージです、僕は。
それが実感だと思います。
もちろん個人差はあれども、僕もやはりですね、
京王が産業由来、小田急が観光に軸線を置いた。
東急はやっぱり生活、これは一択だと思います。
東急というのは、そもそもはですね、
今ね、いくつか路線が分かれてますけど、代表的なところで言うと、
まず東急、東横線。東横線で言うと横浜です。
なので本当に日本の関東の首都圏の代表役を結ぶますよね。
渋谷から横浜だからね。
もう本当に東急の中心と神奈川の政令指定都市というところでね。
まずこれはもう必達代表に間違いなくかかるでしょう。
で、あとが田園都市線。
双子玉川はこの田園都市線になるわけですけれども、
あれは中央林間からどこまでだ?田園都市線って。
渋谷までかな。
あれも渋谷か。
そうかそうか、そうですね。
中央林間は神奈川県山都市ですかね。
というなんかね、横浜と比べるとどういうところなんだろうって感じは
持つかもしれませんけれども、そこがね、一つポイントなんですよ。
で、もう東横線じゃなくて田園都市線って、
今までの京王、小田急、東横と全然意味合いが違うじゃないですか。
っていうところにね、東急のスピリットが僕はこもってるのかなとむしろ思うんですね。
なので今回あえて東横線じゃなくて田園都市線の駅に行ったというところになります。
東横もね、ちょっとイメージまたちょっと違うんですよ。
違いますよね。全然違うよね。東横線と田園都市線はね。
東横線ってやっぱり中目黒。
そう。大歓山。
そうそうそうそう。自由が丘っていうなんかちょっとね。
うん。田園城府。
そうそうそうそう。
という感じで、なんかまたちょっと違う。
違いますよね。
田園都って、まあ我々名前つきにも言ってますけどね。
やっぱ田園都ですよね。我々のこうなじみ深い東急っていうのはね。
そうですね。
田園都はどうですか?
田園都は、田園都こそ住宅街だなって感じ。
やっぱりね、渋谷から二子玉までは、
ああまあでもそこも住宅街なのか。
まあなんかちょっとね都心感はありつつも、
まあやっぱり住宅街ですね。
二子玉越えて神奈川県入っても、やっぱりこうなんか住む街っていう感じの印象ですよね。
ある意味東横線は、やっぱり横浜っていうのもこれももう産業のね、町ですから。
ある意味これは産業由来かもしれません。京都。
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まあちょっと近いかもしれない。
でも田園都は全然違うんですよ。
そうだね。
でもこれこそ生活のところなんですよ。
でちょっと前置きが長くなりましたけども、
このね、なぜ田園都をあえて選ぶかというところで、
東急スピリットのね、革新に迫りたいというところでですね、
二子玉川のバス停から徒歩15分ほど行ったところに、
後藤美術館というところがあります。
後藤というのは、五つの島と書いて後藤美術館です。
ここは聞いたことというか。
これはね、俺言ったことはないんですけど、
通学路で僕は二子玉通ってたんで、
電車の広告とか、駅に貼ってあるポスターとかで、
後藤美術館っていう文字はね、もうめっちゃ見てましたよ。
これですね、後藤美術館の後藤というのは人名です。
後藤啓太さんという方がいるんですけれども、
これこそが東急電鉄の創業者なんですね。
そう、東急電鉄っていうのはね、
これはどういうところだったかという話なんですけれども、
この後藤啓太さんは実は長野県のね、山奥の農家の生まれなんですね。
東急は全然床にない人なんですよ、最初はね。
すごくね、やっぱり貧しかった。正直幼少で。
すごく苦労して勉強して東大に入って、
で官僚になってというところからキャリアを進むんですけど、
やっぱりそのスピリットっていうのがね、
全然やっぱり江戸っことはまた別のたくましさを持ってるわけなんですね。
地方から出てきて、区画の末に出てきて東京の官僚外にね、明治大正に来て、
そこで荒波に飲まれた末に、自分なりのものを作っていこうっていう、
江戸っことはまた別の東京を作ろうと思う。
たたき上げって感じだよね。
たたき上げ。でこの後藤啓太さんの思想っていうのが、
僕はやっぱりもう、僕は織田球員ですけれども、
やっぱり西の東京という意味ではね、
この人がやっぱり全ての根源だったと思うんですね。
ちょっと引用したいのがですね、東急グループさんのコーポレートサイトでしょうか、
の中にね、この後藤啓太さんのね紹介ページがあるんですけれども、
五六というものがございまして、
その中の名言集みたいな、中に一つ掲げられている五六の一つがですね、
私は第二の東京都を作りたい。これがこの思想のすべての根本なんですね。
城西南地区開発趣意書1953年について、新たな街づくりへの思いをこの一言に込めている。
東京都はもはやこれ以上人口が膨張すれば、東京都自体が全部行き詰まってしまう状態であります。
そこで私は第二の東京都を作りたいと思うのであります。
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ということで、民間の力で江戸とは別の東京を作ろうとしたっていうのがこの後藤啓太さんだったわけですね。
実際にそれで鉄道を敷いていってというわけなんですけれども、
あくまでも第二の東京都と言いつつも、その東側へ通う人の、だから生活の場所としての街を作りたかった。
それがこの後藤啓太さんの言うところで言うと、田園都市構想っていうのを、これを計画の名前なんです。
それがデントなんです。
じゃあそうか、もともとあった江戸に対するベッドタウン的な感じで生活圏を作ろうっていう思想なのか。
そういうことなんです。これにはいろいろ、実は西の方で先にそういうことをやっているのが、阪急電鉄の創業者小林一蔵という人がいるんですけれども、
この人が師匠みたいな感じになるんですけれども、東京でそれをやったのがこの後藤啓太さん。
特に後藤啓太さんは大変その勉強を苦労した。幼い時に。
っていうので、生活っていうのは結局教育と結びつくって考えたんですね。
清少学園の話はさっきありましたけれども、あれはちょっとニュースピリットの、ニュージェネレーションのところっていうのが多分合致したと思うんです。
後藤啓太さんがやったことというのは、学園の招致です。
代表的なのが慶応大学ですよね。日吉キャンパス。
そして、公の方、公の方を取り込もうとして持ってきたのが東京工業大学。大岡山ですよね。
大井町線。
これなんですよ。
要は学生さんが集まれば、自分も苦労した学生の一人だったわけですけれども、学生街というものができて、そこで新しい文化もできてくる。
一方でそれとは違う、東京へ通うベッドダウン。
もし学生時代に大岡山に住んだり日吉に住んだりした人が東京の企業に勤め始めました。
学生ではなくなって家族が持ちたいってなった時に、やっぱり東急の沿線って暮らしやすかったよな。
じゃあ大岡山の近くにある上野家に住もうかな。中川岡に住もうかな。
これなんですよね。
結局東急は多分。
東急ね、やっぱ僕が生まれ育ってるっていうのもあるけど、落ち着くんですよね。
そうですよね。
そうなんですよ。
実際この後藤啓太さんはこういうことをやってますけれども、鉄道の施設全体の元締めみたいな感じで、これ結構知られざる話なんですけど、
太平洋戦争の途中にいろいろ産業とかも国の統制が結構入って、鉄道とかもやっぱり国のまず軍事物資の一層とかちゃんと貢献しなきゃならないとかっていうことがあって、
そもそもいろいろ鉄も不足しているとかで結構電力不足とかもあって困っていた時に、
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実は後藤啓太さんがこの東急のリーダーだった時の話なんですけど、
慶応、小田急、東急、京急、総鉄というのは一つの大東急っていう会社だった時があるんです。
これ一つの会社だった時があるの、この全部。
これ本当の話なんですよ。
わずかな期間ではあったんですけど、全てが東急電鉄だった時があるんですよ。
大東急っていうのが一時的に存在したものなんですけど、その総帥が後藤啓太。
だからやっぱり日本の関東首都圏における私鉄のリーダーだった。
なるほどね。
ちょっと誇らしいな。
誇らしいです。東急はすごいと思います、この点を置いてもね。
さらに言うと、今はね、例えば慶応で言うと、慶応本線と慶応井の頭線ってものがあると思うんですけれども、
この井の頭線ってこの大東急になるまでは実は小田急なんですよ。
そうなん?
そう、小田急が開発したんです、これそもそも。だから下北沢でくっついてるわけです。
小田急グループってのはちょっとまた違うんですけど、小田急の関連の路線だったんですよ。
でもそれをとにかく大東急になって、すべてがバーって東急になった時期があったときに全部なくなったんです、その住み分けが。
訳がね。
で、戦後、太平洋戦争が終わって、この大東急、戦時中まとめてどうするかって話になったときに、
結局もともとは別の会社だったわけで、いろいろこの辺もすごいきな臭い話もいろいろあるんですけれども、
結果としては今の私鉄に、5社に分かれたわけで、東急は東急、小田急、京王、京急、総鉄。
ときに井の頭線はもともとそのときまで戦前までは小田急の関連だったのが、京王に譲ったんです。
へえ。
そう、それが井の頭線なんですよ。
へえ。
そうそうそう。
そうなんだ、なんで譲るんだろうね。
これはいろいろ事情があったんだけど、京王は実は一番空襲で被害を受けていて、状況がやばかったんです。
それはなぜかというとやっぱり産業の道だったんで、やっぱり狙われたんですよね。
ああ、なるほど。
かなり。で、大被害をこむってる。電車、鉄道路線、そもそも。
その復興という意味では独力というよりはいろいろうまく、一回真っさらになったから、
ちょっと事業を展開していくにあたって、そこは接続しといたほうが京王のためになるだろうということ。
なるほどね。
で、その代わり小田急は失ってしまったわけですけど、井の頭線は。
そこでただ小田急には何がもたらされるかというと、箱根登山鉄道なんですよ。
ああ。
ここでくっついたの。
へえ。
あと神奈川中央交通という交通会社。
くっついて小田急はやっぱり都心とより相模の国一円に営業を広めていく。小田原を中心として。
っていうふうに今のカラーができてきて、その過程で江ノ電ともちょっと連携を深めてきて、片瀬のほうでこうなったりとか。
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っていう感じで、いわゆる今の鉄道路線っていうのは出来上がってきたんですね。
なるほど。
うん。っていうね、大東急時代があったっていう、信じられがたいことなんですけれども、今から考えると。
知らなかったなあ。
ということで、この後藤啓太さんっていうのはもう本当に西の東京の一番の立役者だと思うんですね。
その彼はね、そういうわけでもちろんお金持ちでしたけれども、それを美術品の収集とかにもすごい、文化事業にもやっぱりすごい関心のあった方で、そのコレクションを展示しているのが後藤美術館になります。
何よりの見どころという意味で言うと、これは常設しているわけじゃなかったと思うので、日にちを狙っていかなきゃいけないんですけれども、
国宝、源氏物語絵巻、これは教科書にも載ってくるんです。必ず載ります。
これを所蔵しているのが後藤美術館。本当にこれはもう文化的な価値のすごく高いものになりますが、教科書で必ず見るはずです、この物語。絵巻はですね。
ゆうぎりとかね。なんかあったね。
今年ね、特にその紫シティブさんをね、大学ドラマでやっているわけなので。
これ公開日、ぜひホームページ見ていただきたいんですけれども、必ず1年どこかで公開されるはずですので、その日を狙っていくのが良いと思います。
この源氏物語絵巻はちょっと別格なんですけれども、それ以外にもね、東洋美術、日本美術の本当に水を集めたような素晴らしいコレクションをね、後藤美術館は所蔵しています。
ということでね、ぜひここはね、そういった観点においても。
この後藤美術館がある土地というのが後藤邸なんですね、元。
だから後藤邸さんご自身も、やっぱり伝統っていうものにも、自分自身がここに住んで、第二の東京都をたるべきものを自分の力で自分も住んでなしていこうと思ったってことだと思うんですね。
もちろん内田はよく知ってると思いますけどね。
神戸のあそこから見ると、高台から見ると玉川とか、いい場所じゃないですか。
あの辺ね、静かで自然も豊かで。
っていうところもあってね、ここをすごい愛したようですね、後藤圭太さん、この伝統、神戸の下沢をね。
というところで西東京のスピリットをね、東京スピリットを感じていただいた後。
あ、ごめん、それでね、これが面白いところなんだけど、この後藤美術館を設計したのも吉田勲さんなんですよ。
さっきの井上建てと同じなんですよ。
だからやっぱり吉田勲さんのこの建築手法っていうのは、このニュースピリット、新しい東京、第二の東京と多分あったんですね。
そうか、東の方はやっぱり今の都心に繋がるような、多分、すごいエネルギー持った新しいものを作ろうみたいな感じ?
で、多分西の方はそれに対して、何て言うんだろうね、ちょっと落ち着いたというかさ、ちょっと進むところっていう意識があって、
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で、その何作りだっけ?
スケア作りかな。
スケア作り?みたいな、そういう定宅みたいなものがマッチしたっていうことなのかな?
要はもう当時は在宅勤務なんてありませんでしたから、都心にはやっぱり働きに出る。
昼間ちゃんとしっかりバリバリやるところ。休日とか夜は自分の定宅で行こう。これが行こうなんですよ。
東山縁地に行こうっていうことなんです。
GOと安らぐという意味で、どっちもだったと思うんです。
どっちが言い割りじゃないんですよ、これ本当に。
どっちも意味があるんですよ。
住み分けだからね。
ただ住み分けをしようと思ったのはやっぱりこの後藤啓太さん。
しかり、あとはとしみつさん、井上さんっていうそれぞれの施設の創業者たちが、自分たちの手で新しい東京を作っていこうとした。
それが我々の住んでる西の東京の施設の沿いの人たちのカラーですよね。
なるほど。
後藤美術館から徒歩8分ほど歩いたところに行くのが二子玉川公園。
これはもう内田に語ってもらいましょうか。
語るこそ、二子玉の駅のすぐ近くにライズっていうショッピングモールみたいなところが、
商業施設があるんですけど、そこを抜けて行くと公園になってて、
玉川沿いなんですよね、河川敷みたいな感じで。
それがいいんですよ。
この公園の中にスタバがあってね。
そうなんだよね。
あそこら辺はね、本当にちょっと河川敷で高くなってて、玉川が見えて、その奥が本当に何にもないのよ。
だからすごい抜けが良くて、風も気持ちいいところなんですよね。
っていう公園です。
風が気持ちいいってのがリアルですよね。
そうだね。
あそこは本当にね、風が抜けてくるところでいいんですよね。あそこ落ち着きますよ。
この訪れる時間、僕の想定だとやっぱり4時半くらい。
僕も内田ホロではないんですけれども、一応馴染みはここあるところなので、やっぱり夕方かなと。
そうだね。
まあ、季節によりますけどね。
というところでね、もうやっぱり特に夏の夕方、この5月くらいの夕方とかはいいんじゃないでしょうか。
夕暮れもね、いいですよね。
そうそうそう。
空は遮るものがないんでね、すごく空のグラデーションがめっちゃ綺麗に見えるんで、いいところですよ、ここは。
ちょうど西を向くんですよね。
そうだね。
スタバのテラスが。
多摩川を越して神奈川方面を向いているので。
ただあそこのスタバね、めっちゃ混む。
そうでしょ。
そうだろうね。もうね、有名になりすぎちゃったね。
そうそうそう。
1:00:00
ただまあ、なんか芝生みたいなところにちょっと座ったりとかね。
テイクアウトしてね。
いいですよ。
というところで、一旦ここで終わったと見せかけてですね、最後にサプライズ的に実は、
これね、我々にすごくゆかりのあるところに隠れたスポットが実はあったということを最後の最後に1個だけ示したいと思います。
二子玉川公園から二子玉の駅にですね、徒歩8分ほど帰っていただいた後に、電園都市線に乗って渋谷の方に帰っていただきますと、
池尻大橋という駅がございます。
で、そこで降りていただきます。
で、これはね、実は我々のね、母校がこの近くなんですよね。
めっちゃ近いですね。
はい。当然ここは知ってますね。
そろそろバレそうな感じですね。
バレてるでしょう。もうバレてると思いますよ。
はい。
そう、中高一巻の男子校で、仏教校で、この辺っていうね。
もう一つしかないよ。
馴染み深いんですけれども、我々が卒業する直前なのかな、ちょっとわかんないんですけど、最後の目的地です。
池尻大橋駅から徒歩3分ぐらいのところに、目黒天空庭園というものがあるんですね。
知らないこれ。
これね、何かっていうと、池尻大橋の大橋と聞いて、都内の方、車運転する方思いつくんじゃないかと思うんですけど、
大橋ジャンクションっていうね、よく渋滞表示で見るところです。
首都高のジャンクションがありまして、そこがね、この大橋という地名なわけなんですけれども、
このジャンクション、首都高のジャンクションの上にですね、庭園があるんですよ。
知らなかった。
うん。
確かにね、あそこはあの、まああの、246ってことですね。
そうですね。
246の上が高速になってるんですよね。
山茶池尻あたりが、上に高速が走ってて、池尻のあたりはもうそれぐらいがすごいんですよ。
ジャンクションだからね。
はい。
上のね、高速がすごいことになってるんですけど、それの上。
そう。
あの、すごいことになってるって、我々下から歩いて見てましたけど、立体的にこうくるくるね。
ね、なってるんですよ。
うん。その、あの、くるくるなってるこの園のね、これの上にあるんです。庭園がね。
これ今、目黒くのページで航空写真が見えてるけど、こんなのが上にあったんだって感じがある。
できただね、正式に言うと。
できた。
できたのがいつだったかな、ちょっと。
2013年だね、平成25年は。
はいはいはい。
婚参のだから始まりからできてたんだな、これ。
へー。
うん。
まじで知らなかったもん、これ。
知らなかったですよね、これね。
うん。
僕もね、これ全然知らなかったです。大学生になって初めて知りました。
へー。
うん。
あの、ま、要は、あの、これもま、ある意味伝統魂かもしれませんけれども、この大橋ジャンクションって、ま、このジャンクションは非常に有名ですが、周りにね、結構高層ビルが建っててね、マンションが多いじゃないですか。
1:03:09
そうですね。
とはいえやっぱり246号線首都高というのはもともとありましたから、さっきの双子玉川の緑地みたいなものができませんと。
でも緑の環境がやっぱり欲しいとなったときに、これを作ったということなんですね。
おー。
はい。
無理やり作ったって感じ。
そうそう。
なかなかすごい発想だなと。
そうだね。
でもね、だからこの、一般の我々は、えっと、下道、246のところからこう上がっていったりできるんですけれども、マンションとこれ直通してるんです、この周りの。
へー。
マンションの中庭みたいなイメージにもなってるんですね。
なるほどなるほど。
だから地域の住民の方はそういったことの用途で使っているようです。
実際行ってみるとですね、向こう島100階じゃないんですけれども、それぞれ季節ごとのお花だったり、上緑の綺麗な緑が咲いていて、あとはちょっと起伏があって、ペット、ワンちゃんがいたりとか、子供が遊ぶスペースがあったりとかっていう、ここはまさか高速道路の上だとは到底思えないようなところがあるんですね。
あと面白いのはね、ここでね、僕飲んだことないんですけど、ぶどうを育てていて、それで作ったワインを最近作っているそうなんですよ。
へー、すご。
うん。
こんなところでぶどう育つんだ。
らしいんですよ。量こそ多くないみたいだけどね、実際ワインになったそうなんですね、商品に。
へー、すごい。
うんうんうんうん。
へー、気になる。
そうなんですね。
それを手に入れようと探したんですけど、そんなもうすぐ手に入るものではなかったので、たぶんすごい限定的だと思います。
なるほどね。
でも本当にね、実際歩いてみると、まさかこんなところがあったかっていうのも、僕らがたぶん一番その感想だと思います。
へー。
で、まあね、あえてこの時間に行ったのはですね、これ夜9時くらいまで確か入れるんですけれども、やっぱ最後にね、東京の締めということで夜景をね。
すごくこう、摩天楼みたいなの見えないですけれども、いわゆるデントンとか、私鉄の沿線にある我々のその西の方の東京の営みの夜景というのがね、見られますので。
で、ちょっとエモい感じですね。草原に囲まれながらという感じで。
というのがね、まあ実はあって、これはね、グッドデザイン賞とかも受賞している画期的なプロジェクトだということでね。
まあそうだろうね。首都高の上に作るなんていうのは他にない。
そうなんですよ。だからまあね、最後の庭園ということでここにちょっと寄って、夜池次行橋駅から各それぞれの目的地へ最後帰っていただくということになります。
ということで、じゃあ東京の西側を巡った2日目、これを振り返っていきましょう。
まずスタートは9時50分ぐらいに新宿駅ですね。
そこから京王線に乗って府中駅ですね。
1:06:04
まあ府中多分何でも止まるはずなんで。
そうだね。東京とかも止まるよねあれはね。
だと思うので。
早いやつに乗ってもらって。
そうですね。
それで府中駅から徒歩8分ほど大国玉神社ですね。
ここがだからもう武蔵の中心にある大きな神社っていう感じですよね。
そこにもうまず最初にお参りをすると。
そこから徒歩5分ほど府中本町駅でここからJRの南武線ですね。
に乗って野堀都駅に行きましてそこから小田急に乗り換えます。
7分ほどで清浄学園前駅ですね。
ここから徒歩6分ほど清浄5丁目井の又庭園ですね。
都会の中で落ち着ける邸宅っていう感じですかね。
文京の町清浄のね新しい理想の学園都市というのを象徴で清浄建証によって守られてる。
吉田磯屋の。
そこから徒歩3分ほどとんかつ椿。
これはもうただただ美味しいとんかつっていう感じですかね。
はいもう本当に美味しいです素直に。
ここでお昼を食べてそこから徒歩5分ほど清浄学園前駅の方に戻っていただいて
そこからバスですね。
東急か小田急のバスに乗ってもらって二子玉川のバス停まで。
終点になってるはずですね。
なのでそこまで乗ってもらって
そこから徒歩16分ほど後藤美術館ですね。
ここは東急の創業者の後藤圭太さんのコレクションを置いていると。
源氏物語絵巻っていうのが目玉ですね。
公開してるかどうかは別に。
そうですね特別展だったと思いますが今年はちょっと注目かなと思いますね。
なのでちょっと調べてもらって。
そこから徒歩8分ほど二子玉川公園ですね。
ここはもう本当に抜けが良くて気持ちの良い公園ですね。
そこから徒歩8分ほど二子玉川の駅に向かい
そこから田園都市線に乗りまして池次郎橋駅でおります。
そこから徒歩3分ほど目黒天空庭園ですね。
首都高の大橋ジャンクションの上にある庭園っていう珍しい庭園ですね。
ここで最後落ち着いて夜景を見てそこからご自宅へということですね。
1:09:09
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はい。どうでしたかね。
これ今回、俺はね、割と実感を持ってね。
そうでしょうね。
その街の雰囲気が割とイメージしやすかったですね。
もちろんもちろん。
なるほどっていう感じですね。
確かに言われてみれば、私鉄各会社で全然色違うなって。
そうなんですよね。
本当に結構子供の時からあそこにいると、なんとなく東京落ち着くってさって言ってましたけど、
本当に人格形成とかライフスタイルの部分で知らず知らずのうちに入り込んでるんですよね。鉄道の色っていうのがね。
やっぱり春山は小田急が落ち着く。
そうなったね。結局俺東京来てから小田急遠征会住んでないですからね。
そうだね。
今もう小田原だしね。やっぱ落ち着きますよ。
そうなんだね。
買い物はやっぱOXと。
蕎麦は箱根蕎麦と。
やっぱそうなったんだな。
なんかねやっぱりね、今回のね、タイトルの意味合いとして、種拾いの東京、東西公主の園地に行こうということでね。
東西公主の園地というのはもうその通りです。東と西でね。
スポットがね。
そうそう。で、公の良さと私の良さというのをそれぞれ2日に分けていったと。
で、種拾いというのは、庭園の植物というのがまず縁合というかね、あるんですけれども、
我々自身のルーツがどこにあったのかというのを拾いに行くという意味合いもあって、その2日目においてはね、そういったところもありましたね。
なるほど。
なのでまあ改めてね、まあこれ我々はたまたま東急と小田急でしたけれども、それぞれね、東の方にルーツを持っている方ももちろんいらっしゃるでしょうから。
そっちはそっちでまたね、別のカラーが、より僕よりもずっと解像度の高い認識があるんじゃないかと思うので。
改めて振り返っていただけるきっかけになるといいのかなと。
ちょっと個人的には面白かったですね。
良かったです。
ということで、ちょっとお昼を食べに行きましょうかね。
そうですね、ちょっとだいぶ2時になっちゃいましたね。お腹空きましたね。
ということで、今回はこの辺でありがとうございました。
ありがとうございました。
01:12:08

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