で、それ抜けるとさっき言ったみたいに田んぼで開けてきて、で、小田原に着くっていう感じで、確かにどんどん開けていく感じはあるね。
そうですね。これがちょっと我々のあくまでも小田急。
ちなみに小田急の創設者はとしみつ鶴松さんっていう人でね、大分の人なんですね。
実業家であり政治家でもあったような官僚でもあったような人なんですけれども。
だったりもするので、ちょっとその辺りもね、意外かもしれません。
ちょっと話が長くなりましたが、清浄学園前駅。でね、この清浄学園前っていうところなんですけれども、区で言うと世田谷区になります。
で、このね、清浄学園っていうのは実は名の通り学校なんですね。
清浄学園中学、高校、あとは清浄大学かな。というのがこの駅最寄りになっております。
書棟家もありますね。幼稚園もある。
でね、この清浄学園の話も面白いんですけども、小田急って結局、小田急に限りなずなんですけど、まだその時慶応も当時もそうですが、
当時はまだ住宅とかがあまりなかったところに、初めて線路を通すっていうことになってきたときに、
ただ何もないところに線路を通しても誰もいなきゃ使わないから意味ないじゃないですか。
当然のことながら人ですよね。とにかく人を住まわせて呼ばなきゃいけない。ってなったときに、慶応はね、わりとね、もともと三両の道っていう公衆街道ってしっかりしたものがありましたから、
わりとね、そこはなんだけど、
元々人の往来があるところを通してる。
八王子もね、多摩で言うと当時の中心地ですから。
小田急は小田原っていう、なかなか相模の国の一番最果ての方まで行かなきゃいけないから、結構大変だったと思う。
やっぱり土地開発とか企業とかいろいろ誘致しなきゃってなったときに、
この清浄学園がピッタリハマるんですね。
というのは何かというと、清浄学園ってね、これ母親の母校でもあったりして、
なのですごくよくわかるんですけど、そのカラーが。
清浄学園は自由教育というね、モットーを掲げてるふっとりと特殊な学校でして、
当時これを作った沢谷成正太郎という教育者がいるんですけれども、
その人の思想は、教科書だけで覚えるとかじゃなくて、
とにかく自分でいろいろ手を動かす、調べ学習だったりとか遊び学習みたいなものっていうのが大事だっていうふうに言って、
画一的に勉強するんじゃなくて、遊びながらやろうぜっていうちょっとね、異色の教育だったんですよ。
これも自由教育の一派で、沢谷成さんから続いていくものなんですけど。
俺もね、清浄学園出身の友達いるんですけど、確かにね、ちょっとこう明るい、なんだろうな、自由なっていうか、
なんかこう、何て言うだろうな、言葉選ぶけど、
なんか真面目なっていうよりかは、明るい社交的な感じのイメージですね、その子も。
割と自由活達に、あまり縛らない、とにかく。っていうのが教育方針なんですよ。
ただそれって当時の世の中からすると、かなり大丈夫かあいつらって、
勉強もせずに遊んでばっかりいて、何がそれで勉強なんだってことなんだけど、
そこにだから新しいもの同士で結合したんですね。
つまり、東の甲の方だと、やっぱり江戸時代以来のしっかりとした文化とか格式というか、
さっきの江戸っ子っぽい粋な感じとかもちゃんとあったのに対して、そこにはやっぱりちょっと、じゃなくて、
もっと新しいベンチャーじゃないけど、新しい街を作っていこう、新しい文化が寄付を作っていこうっていう、
西の開拓者たちに清浄学園の活路を求めた。
っていうときに、これは噂なんですけど、
清浄学園ができたのは、清浄学園前っていう小田急線ができるちょっと前なんですよ。
どうもこれは、としみつ鶴松さん一派が、もう小田急線をここに通すっていう計画を握ったらしいんです、
清浄学園の関係者が。
で、我々学校をあなたのところに作るから、あなたもちゃんと駅を作ってくださいね。
一緒に理想の学園都市、新しい時代の新時代の都市を築いていきましょうぜって言って、
この清浄学園という街を作った。
だから清浄ってこれ元々の地名じゃないんですよ。
これ今世田谷区清浄ってあるんですけど、
清浄何丁目は清浄学園から取られてる逆輸入なんです、地名がね。
本当にこの清浄学園があっての清浄なんです。
っていうようなね。
でもだから新しいもの同士のマッチアップっていうのが東京のニュージェネレーションだっていう、小田急もそう思ったと思うんで。
お互いにやりやすい感じだったってことですね。
でも余談ですけど、沢山さん一派の教育方針でもう一つ受け継いでるのが玉川学園というのがあるんですが、
これもやはり小田急線にね、玉川学園前という駅がありますので、
その自由一派っていうのはやっぱりちょっと小田急の持つ抜け感とかね。
ちょっと余白の緩い感じ、観光しちゃおうじゃないけれども。
っていうのと多分ね一番相性が良かったんじゃないかなと僕は思うんですね。
というのがまあちょっとなのでその小田急のある意味象徴的な駅だと僕は思います。
目的地としては清浄学園前駅から降りて徒歩6分ほど行ったところに清浄5丁目井の又庭園というところがございます。
これですね、実はこの清浄というのは先ほど清浄学園ができたという話があったんですけれども、
大学とか高校ができると当然のことながら学者の方々で住み始めるわけですね。
大学の教授みたいな人。特別有名な人でいうと日本の民族学の祖となった柳田邦夫さんっていう方がいるんですが、
実は後藤啓太さんがこの東急のリーダーだった時の話なんですけど、
慶応、小田急、東急、京急、総鉄というのは一つの大東急っていう会社だった時があるんです。
これ一つの会社だった時があるの、この全部。
これ本当の話なんですよ。
わずかな期間ではあったんですけど、全てが東急電鉄だった時があるんですよ。
大東急っていうのが一時的に存在したものなんですけど、その総帥が後藤啓太。
だからやっぱり日本の関東首都圏における私鉄のリーダーだった。
なるほどね。
ちょっと誇らしいな。
誇らしいです。東急はすごいと思います、この点を置いてもね。
さらに言うと、今はね、例えば慶応で言うと、慶応本線と慶応井の頭線ってものがあると思うんですけれども、
この井の頭線ってこの大東急になるまでは実は小田急なんですよ。
そうなん?
そう、小田急が開発したんです、これそもそも。だから下北沢でくっついてるわけです。
小田急グループってのはちょっとまた違うんですけど、小田急の関連の路線だったんですよ。
でもそれをとにかく大東急になって、すべてがバーって東急になった時期があったときに全部なくなったんです、その住み分けが。
訳がね。
で、戦後、太平洋戦争が終わって、この大東急、戦時中まとめてどうするかって話になったときに、
結局もともとは別の会社だったわけで、いろいろこの辺もすごいきな臭い話もいろいろあるんですけれども、
結果としては今の私鉄に、5社に分かれたわけで、東急は東急、小田急、京王、京急、総鉄。
ときに井の頭線はもともとそのときまで戦前までは小田急の関連だったのが、京王に譲ったんです。
へえ。
そう、それが井の頭線なんですよ。
へえ。
そうそうそう。
そうなんだ、なんで譲るんだろうね。
これはいろいろ事情があったんだけど、京王は実は一番空襲で被害を受けていて、状況がやばかったんです。
それはなぜかというとやっぱり産業の道だったんで、やっぱり狙われたんですよね。
ああ、なるほど。
かなり。で、大被害をこむってる。電車、鉄道路線、そもそも。
その復興という意味では独力というよりはいろいろうまく、一回真っさらになったから、
ちょっと事業を展開していくにあたって、そこは接続しといたほうが京王のためになるだろうということ。
なるほどね。
で、その代わり小田急は失ってしまったわけですけど、井の頭線は。
そこでただ小田急には何がもたらされるかというと、箱根登山鉄道なんですよ。
ああ。
ここでくっついたの。
へえ。
あと神奈川中央交通という交通会社。
くっついて小田急はやっぱり都心とより相模の国一円に営業を広めていく。小田原を中心として。
っていうふうに今のカラーができてきて、その過程で江ノ電ともちょっと連携を深めてきて、片瀬のほうでこうなったりとか。
っていう感じで、いわゆる今の鉄道路線っていうのは出来上がってきたんですね。
なるほど。
うん。っていうね、大東急時代があったっていう、信じられがたいことなんですけれども、今から考えると。
知らなかったなあ。
ということで、この後藤啓太さんっていうのはもう本当に西の東京の一番の立役者だと思うんですね。
その彼はね、そういうわけでもちろんお金持ちでしたけれども、それを美術品の収集とかにもすごい、文化事業にもやっぱりすごい関心のあった方で、そのコレクションを展示しているのが後藤美術館になります。
何よりの見どころという意味で言うと、これは常設しているわけじゃなかったと思うので、日にちを狙っていかなきゃいけないんですけれども、
国宝、源氏物語絵巻、これは教科書にも載ってくるんです。必ず載ります。
これを所蔵しているのが後藤美術館。本当にこれはもう文化的な価値のすごく高いものになりますが、教科書で必ず見るはずです、この物語。絵巻はですね。
ゆうぎりとかね。なんかあったね。
今年ね、特にその紫シティブさんをね、大学ドラマでやっているわけなので。
これ公開日、ぜひホームページ見ていただきたいんですけれども、必ず1年どこかで公開されるはずですので、その日を狙っていくのが良いと思います。
この源氏物語絵巻はちょっと別格なんですけれども、それ以外にもね、東洋美術、日本美術の本当に水を集めたような素晴らしいコレクションをね、後藤美術館は所蔵しています。
ということでね、ぜひここはね、そういった観点においても。
この後藤美術館がある土地というのが後藤邸なんですね、元。
だから後藤邸さんご自身も、やっぱり伝統っていうものにも、自分自身がここに住んで、第二の東京都をたるべきものを自分の力で自分も住んでなしていこうと思ったってことだと思うんですね。
もちろん内田はよく知ってると思いますけどね。
神戸のあそこから見ると、高台から見ると玉川とか、いい場所じゃないですか。
あの辺ね、静かで自然も豊かで。
っていうところもあってね、ここをすごい愛したようですね、後藤圭太さん、この伝統、神戸の下沢をね。
というところで西東京のスピリットをね、東京スピリットを感じていただいた後。
あ、ごめん、それでね、これが面白いところなんだけど、この後藤美術館を設計したのも吉田勲さんなんですよ。
さっきの井上建てと同じなんですよ。
だからやっぱり吉田勲さんのこの建築手法っていうのは、このニュースピリット、新しい東京、第二の東京と多分あったんですね。
そうか、東の方はやっぱり今の都心に繋がるような、多分、すごいエネルギー持った新しいものを作ろうみたいな感じ?
で、多分西の方はそれに対して、何て言うんだろうね、ちょっと落ち着いたというかさ、ちょっと進むところっていう意識があって、