「丁寧な字」と読めない答案の採点
この番組では、Google for Education認定イノベーター、コーチ、トレーダーのKasaharaが、教育にまつわる様々な話を配信していきます。
模擬試験の答案に、違い方言と書いて×になった子がいて、同じく違い方言と書いて○になった子もいた、というニュースの記事を見たんですよ。
今日は、字が読めないという理由で点を落とすことについて、テストを作ったり採点したりする側の先生に向けての話をしてみようと思います。
で、最初に白状しておくと、自分はこの話をするのにあんまり向いてない側の人間なんですよね。
先週の118回でもちょっと触れましたけど、子供の頃連絡帳の字を書くのを嫌になるぐらい直されて、とうとう連絡帳を出さなくなったことがあるんです。
116回でも詳しく話したやつですね。
手書きが嫌いだという話はこの番組でも何回もしてきましたし、字そのものも人に誇れるような字はしてないです。
国語の先生だから字がきれいだっていうのはほんとやめてほしいですね。
だから今日は丁寧に書こうと進める側からではなくて、どうしても雑になってしまう側、書くのが億劫な側から、
字を丁寧にという言葉について点検してみようと思っています。
ただ一つだけ区別しておきたいことがあって、配慮しておきたいことあるんですね。
自分の場合、手書きが嫌いなだけなんですよ。
書くことに困難を抱えているわけではないので、嫌いと困難を同じ棚に並べるのは違うよなとは思っています。
連絡帳の話で自分に言えるのは、直されるような指導のされ方をすると書くこと自体が嫌いになったというそれだけの話なんです。
ただその上で一つまず問いを投げかけておきます。
困難を抱えているわけでもない自分ですが、直されているうちに連絡帳を出さなくなったわけです。
書くことの困難がある子に対して、同じく丁寧に書きなさいという言葉を届けていたら、どうなると思いますか?
今日は、記事の話から入って、途中で数字等定義の話なども紹介しながら、最後はAIの話などもしていこうと思います。
まあ結構バラバラした話をするかなという感じです。
それでは今週のデジタル時代の国語教育を語ろうを始めていきましょう。
ということで、オープニングで読んだと紹介した記事は、10月31日の日本経済新聞の電子版です。
受験校というコラムの回で、見出しは中学受験、字を丁寧に書こうというものでした。
書いているのは、中学受験の塾で教えている方なのかな?
そういう方の文章となっています。
その記事の筋だけちょっと紹介すると、秋の模試で回答欄に違法権と書いたこの答案が罰になっていて、正解は両次裁判権とされていたそうです。
不平等条約のところで、どちらも聞いたことがあると思うんですけど、授業ではどちらでもいいと聞いていたのに、
何が正しいのかという問い合わせが、保護者からメールで届いたそうなんです。
で、回答様子を確かめてみると、同じ違い法権で丸になっている子がやっぱりいたんですよ。
じゃあ何が違ったのかというと、問い合わせのあったこの答案は、字が反徳できなかったから罰になっていたという、そういうオチですね。
記事では、読み手を意識し、丁寧な字を書けるかどうかで合否の行方は変わってくると結ばれていて、その手前では何より本人が自覚することが大切だという書かれ方をしています。
断っておくと、この記事は塾の現場から書かれたコラムなので、データや専門家の見解が出てくるような類の話ではないです。
だから自分の方としても一つの現場のリアリティのある話として読みました。
まあ、自分も中学受験で指導していたことはあるので、書かれている事情というのはわからないでもないんですね。
小学生が受ける中学受験って、ある面では高校入試や大学入試よりも厳しく採点されているという肌感覚があるんですよね。
多分落とすための入試、まあ選抜するための入試だということが影響しているかなと思っています。
自分も今は定期校舎を採点する立場なので、まあ両方の側から読んだみたいな感じですね。
中学受験の塾の事情がわかる分、逆にまあ帰って引っかかるようなところもあるんですね。
結びより少し手前に字が読めなかったことを伝えると、保護者から連絡がなくなったって書かれてるんですよ。
納得してもらえたのかもしれないですし、まあ本当のところは書いてないのでわからないです。
ただ自分は読んでいて連絡帳さえも出さなくなった子供の頃の自分のことを思い出してしまったんですよね。
正論の指導が届いた先で相手が黙るという形がまあ構造的に似てるなーって。
話が終わったように見えても納得して黙ったのか、言ってももう仕方ないと思って口をつぐんだかというのは外からは見分けがつかないわけなんですよ。
黙った理由が外から見えないのと同じで、字が崩れた理由というのも外からは決めつけづらいところがあります。
記事では判別しにくい字を書く子が近頃増えたのはきちんと書くのを面倒くさがるからではないかという見立てがありました。
面倒がる側の人間としてはまあ耳の痛い話なんですけど、オープニングで嫌いと困難を同じ棚に並べるのは違うという話をしましたね。
記事の見立ては2つを同じ棚に置いているようにも見えちゃうんですよね。
面倒がって崩れた字と丁寧に書こうとしても崩れてしまう字は本当に別なものなのに、読めなければどちらにも同じ罰がつくわけなんです。
じゃあ読めない字に罰をつけるのはおかしいと言いたいのかというと、まあそれもちょっと違うんです。文字はやはり伝えるための手段でも道具でもあるんですよね。
読み手が読めなければ書いた本人の頭の中にどれだけ正しい答えがあっても、答案の上では書いたことにはならないわけです。
手書きが嫌いな人間が言うのもなんなんですけど、伝わる字かどうかは答えの中身の一部にならざるを得ないところはあるわけです。
なので、生徒にも採点する側の気持ちとしてはという前置きをして話すことはあります。
字が乱れているのはもちろん、薄くて読めない字も小さすぎて読めない字も読む人への配慮はしようねというような言い方をします。
入試についても採点してもらうものである以上、読んでもらうつもりで書こうという話はしています。
もうこれは実務上しょうがないかなと言っておかなければいけないことかなぁということがあるので、
まあいろんなことを配慮しながらでも、全体に対しては言わざるを得ないなと思っていることです。
ただ、同じ字でもその子の字を見慣れている人なら読めて、初めて見る人には読めないということは普通に起きますよね。
大きな文字なら採点する人も多分一人ではないはずです。
どこからが読めない字なのかという線引きについては、どこに線を引いているかということはもう完全にブラックボックスなんですよ。
まあ公平だって単純には言いづらいところがありますよね。
それに線がはっきりしていたとしても、テストが測りたいのは字そのものではないはずなんですよ。
社会のテストなら不平等条約について知っているか考えられるかを測りたいはずなので、
採点に字の上手い下手が混ざってくると、測りたい力とは関係ないもので点数が動くことにはなりますよね。
読めない字とうまくない字も本当はちゃんと分けて考えたいところなんですよ。
国語の教員って紛らわしい字を読むことに関しては割と慣れてますね。
普段から生徒の書いているものを読みますから、読んであげないと何を書いているかわからないので、
まあ自分もまず読んでみて中身をつかんでから、字の乱れをどこまで指摘するかみたいなことは考えます。
うまく書けない字と読む人を考えてない図に関しては、まあ見慣れてくると雰囲気で違うなというのはわかるんですよね。
ただ、読んでから判断するという手間をどの採点にもかけられるというわけではないと思うんですね。
採点の場で読めない図とうまくない図の間にきつんと線が引かれているかというと、まあ自分も採点していてそこは自信ないですね。
うまい線引きがされないまま採点されると、書くことそのものに困難を抱えているこの字も読めない図の方に入れられてしまうかもしれないですよね。
書くことの困難を示す数字
気になって、書くことに困難のある子が今どのぐらいいるのかみたいな数字を探してみました。
で、最初に見たのは文部科学省が2022年に出した調査です。
通常の学級にいる小中学生のうち、読むか書くかに著しい困難を示すとされた子は3.5%でした。
ただまあ、この数字の読み方には注意がいります。
担任の先生などが学校での様子を見て答えたもので、意思の審断ではないんです。
しかも読むことと書くことが一緒になっているので、書くことだけで何%みたいな数字は出ていません。
通級による指導、つまり通常の学級にいながら、週に何時間か別の場で指導を受ける仕組みの方の統計でも、事情はあまり変わりませんでした。
令和5年度の調査で通級で指導を受けている子は全体で203,000人余り、そのうち学習障害LDの区分で4万人余りという数字となっています。
区分はLDまでで読むのが難しいのか書くのが難しいのかみたいなところは分かれて書かれていなかったです。
自分が調べた範囲では書くことだけを取り出した公的な数字というのはちょっとすぐには見つからなかった感じですね。
少し研究論文の方もザーッとAI使って調べてみると、ある研究者のグループが2008年に出した論文がちょっと出てきましたね。
で、それは小学校2年生から6年生の子どもたちに実際に読み書きの課題を解いてもらって、学年の平均を大きく下回った子の割合を出したというそういう研究になっています。
で、書くことについてはひらがなで1.6%、カタカナで3.8%、漢字だと6%というような結果になっていました。
で、まあ一応研究なんですが、この数字に関しても読み方には注意がいります。
統計の上で線を引いてその線を下回った子の割合なので、医師による診断の数ではないんです。
小学生だけを調べたものですし、多分調べ方が変われば数字自体も変わってきます。
文科省の3.5%とは調べ方も対象も異なるので、並べてどっちが大きいどっちが正しいというような数字でもありません。
だから何よりも目の前の生徒の困難に当てはまるかどうかみたいなことに関しては全然保証はないわけです。
それでも書くことに絞って子供に実際に課題を解いてもらうという調べ方をすると、漢字で6%ぐらいという数字が出ているというのはまあ知っておいていいのだろうと思います。
調べ方で数字が変わるという話をしましたけど、どこに線を引くのかという議論自体が結構厄介なんですよね。
書くことの困難は診断の名前としても独立しているわけではなくて、学習障害の中の一つの現れ方という扱いになっています。
どこから困難と呼ぶのか線を引くこと自体がかなり難しいんですね。
定義が難しいから配慮しづらいという事情は正直なんとなく現場にいると感じるところがあります。
何を基準に配慮すればいいのかがわからなくて迷うのは最もなんです。
ただ自分としてはそれを素直に受け取ってはいそうですねではなくて、少し角度を変えて考えてみたいんです。
定義が難しいからこそ割合だとか診断名から入るのではなくて、目の前の答案にある困難をちゃんと把握して配慮していく、成績つけていくことが重要なんじゃないかなと思うわけです。
実際、字が乱れている生徒というのは少なからずいますね。結構びっくりしますね、答案見ると。
ただ単に下手なだけなこともあれば本当に難しいケースもあるんですよね。
乱れてはいないのにやたらと小さく書いてしまう生徒もいますし、筆圧がなかなか上がらないで薄い生徒だとかもいます。
配慮の証明責任と公平性
だから本当にパターンはいろいろあります。
診断が出ているケースにはまた別の配慮がいります。
ただ、どの生徒の字でもちゃんと書いてくれたものに対しては読もうとして向き合うようには自分はしています。
否定してはいけないなということに関してはかなり気をつけてます。
さっき話した読み手への配慮という話も、否定しないで向き合った上で、相手にどう読まれるかを自分でも意識してもらおうというそういう順番では話すようにしています。
診断が出ていれば別の配慮ができるというような話はしましたが、それって裏を返すと配慮を受けるにはまず証明がいるということの表れでもあるんですよね。
試験だと多くの場合、家庭の側が診断書のようなできないとの証明を用意することになります。
大学入試でも例えば共通テストで受験状の配慮を申請するには医師の診断書が必要なんですよ。
証明する責任が子どもと家庭の側ばかりに載っている非対称性みたいなところはあんまり問題にされていない気がするんですよね。
診断書を手に入れられるかどうかということはお金もかかりますし時間も取られます。
そもそも見てくれる医療機関が近くに歩くのかみたいな話もありますよね。
発達系の相談は予約に何ヶ月も先になるということもありますし、なかなかそういうところに行くことに困難がある場合も地域によってはあるし家庭によってはあるんじゃないかななんてことも考えますね。
証明を持てる家庭と持てない家庭で配慮の受けやすさに差が出るとしたら公平を守るために求めたはずの証明が別のところに不公平作ってしまうわけなんですよ。
しかも証明を出せばすぐに話が進むかというとそうとも限らないんですよね。
自分も担任として配慮の申請も間に入るようなことがあるんですけど、ちょっと個別の話は絶対にできないので、いくつかのケースを混ぜてちょっとフェイクなんかも入れながらぼかして話しますね。
字に限った話ではないんですけど、ほぼ1回ではいわかりましたとはならないことの方が多いですね。
何度か確認が入ってその度に間に挟まっていろいろなことを説明することになります。
線引きをする側も仕事としてそういうことをやっているので誰が悪いという話ではないんですけど、正直気の重い仕事ではありますよね。
担任として間に入るだけでも気が重い気分悪くなるのに、証明を用意するご家庭の側はもっと重いものを背負ってるんだろうなと嫌な気分をいろんなところでさせられてるんだなぁなんてことを思いますね。
重いものを背負ってやっと配慮を受けられても今度は周りからずるいと見られるんじゃないかと心配されるようなこともありますね。
一人だけ図鑑が伸びるのはずるい、一人だけパソコンで書けるのはずるいとか、実際には今時配慮を受けている子に対してずるいと面と向かっている生徒はさすがにいないです。
この多様性と言われている時代ですからね。ただ試験の直前だとか、まああとは推薦に関わるところですよね、そういう土壇場のところで何が出てくるかというのは予想してもわからないですし、
終わった後になってからあれは不公平だったんじゃないかみたいな話が出てくる可能性はいつまでもあるわけです。
もし不公平だという声が出るとしたらその裏には公平というのは全員が同じ条件で受けることという考えがあるんだと思いますね。
でも公平って本来は測りたい力をちゃんと測れる条件を揃えることだと個人的には思います。
同じ条件で受験させた結果、測りたい力とは関係のない理由で点数が落ちる子がいるなら条件が揃ってるとは言えないんですよ。
条件を揃えるためにはどこかで線を引く必要があるので証明を全部やめろとまでは思っていないです。
ただ問いたいのは証明の重さを誰が追うのかという設計の方です。
学校が普段の授業で見ていることや記録していることでそういう部分を担えるところがあるんじゃないかなとは思っています。
普段の授業で見ていることとテストの点数が並んだら成績で重く見られるのは大抵テストの方ですよね。
テストって平等で疑いようのないものとして扱われがちですから全員に同じ問題を同じ時間で解いてもらうので公平に見えるんですよ。
でもテストは道具ですがないわけなんです。平等そのものではないので得意なことを不得意な子が出ますし、手で早く書ける子に有利な形をしているということでもあります。
とはいえ現場の制約も見ないわけにはいかないです。
40人くらいの学級をいくつも受け持っていたらテストはやっぱり楽なんですよ。
一人一人の考える過程を全部見ようとしていたらとてもとても仕事回らないです。
勤務校でも定期交差は手書きですね。
116回で話した通り自分は普段の提出物を原則デジタルで集めてるんですけど交差になると紙に手で書いてもらうことになります。
配慮の仕組みはあるにはあるんですけどそれが一人一人に100%寄り添えているかというとどうしても一律になってしまって難しいところなんですよね。
生成AI時代の評価と手書きテスト
なので考えたいのはテストをやめるかどうかというよりもどれだけ過程を見るのかというそっちの方なんですよ。
例えば定期交差の点数の比重を下げてもっと形成的な評価の部分の比重を上げていくみたいな工夫はできるはずなんですよね。
で過程を残すという話は生成AIが出てきたことでもう少し切実なところがありますね。
AIに頼めば整った文章が出てくるので出来上がった提出物だけを見てもあんまり意味がないという時代にはなってきましたね。
なので成果物が出るまでの過程を見ようという話になってプロセスを評価する可能性は広がっているわけです。
ただAIは評価の方向を正反対の方向にも引っ張ってるんですよね。
AIで不正されるぐらいなら目の前で時間を区切って手で書かせる一発のテストが確実だっていう方向です。
監督の下でやるテストの重みが増していくと手書きと制限時間で不利になる子はもっと不利になるんだろうなぁなんてことはちょっと思います。
だから字を丁寧にというのは古臭い作法の話に聞こえて、実は世の中が一発でテストの方向に戻っていこうとする中で結構ど真ん中のテーマになってくる話なんじゃないかなと思います。
ただプロセスの評価の方ももちろん万能ではないです。
仮定を見せるとなると、家で落ち着いて取り組める環境があるかだとか、自分の考えを説明するのが得意かどうかで、まあ別の差は出てきますね。
手書きの不利がなくなっても説明の不利が新しくまた生まれ変わるだけかもしれないということはあります。
説明の不利という意味では、自分の授業で生成AIの文章が出てきたとしても似たようなところで迷う話があります。
何かというと、授業の中で生徒の様子だとか書くものは普段いつも見てますし、授業中にできるだけ生徒と話すようにしているので、生徒が成果物をAIで書いたかどうかというのは、
普段の生徒の様子から飛躍があるから、まあなんとなくわかるんですよ。
ただ、その飛躍というのが表現レベルの話なのか、そもそもアイデアや考え方の部分なのか、
要するに悪意を持ってやっているのか、それとも全然悪意ではなくて自分の勉強のチャレンジとしてやっているのか、みたいなことは慎重に考えないといけないと思ってます。
というのも、普段の表現が拙くても、AIを使ったらうまく書けたと喜んでいる生徒も一定数いるんですよ。
うまく書けなくても、いいアイデアを持っていて、それを言葉にできなくて悩んでいた生徒っていますし、
自分のアイデアが形になった喜びの方が先に来て、書くことに自信を深めていく生徒もいるんです。
だから、AIに書かせたこと自体を頭ごなしにダメだって言ってしまうのがいいことかは結構悩ましいですね。
字の話と同じで、測りたいのが考え方の方ならば、表現の不利をAIが埋めている場面と言えるのかもしれないです。
ただ、どこでどうやって線を引けばいいかということは、さっぱり今の自分にはわからないですね。
目の前の答案から考える配慮
線をどこに引けばいいかわからないという話が何度も出てきましたけど、記事の中の丁寧に書こうという呼びかけには、
まあ、自分も実務的なニュースのことを考えるとやらねばいけないことだろうとは妥協して思うところです。
手書きが嫌いな人間が言っても説得力があるかは微妙なところなんですけどね。
丁寧な字は礼儀というよりは伝えるための条件にはなってきてしまうんだと思います。
ただ、その条件で点数を落とすならば、落とし方にももうちょっと作法があっていいんじゃないって思うわけです。
オープニングで書くことに困難がある子に丁寧に書きなさいという指導が届いたらどうなるかみたいな問いを置きましたけど、
まあ正直自分の中での答えは出ていないです。
定義が難しくて数字もはっきりしないからこそ、割合や診断名の前に目の前の一枚の答案、
実際の生徒の様子というものに立ち止まって、その場その場でちゃんと考えていかなければいけないことなんだろうなと思っています。
デジタル時代の国語教育を語ろう
今日の話で一つ聞いてみたいことがあります。
採点をする立場の方は読めるかどうか迷うずに出会った時にどうしていますか?
コメント欄で教えていただけると嬉しいです。
国語の先生は割と難しい字、身も蓋もないことを言ってしまうと、非常に読みづらい字に関しても読める方多いと思うんですけれども、
まあそういうエピソードなんかも含めて教えていただけると嬉しいです。
あと昨日の11月1日で第4回教育系ポッドキャストの日の期間が一応終わりました。
参加してくださった番組の皆さん、聞いてくださった皆さんありがとうございました。
まだまだこの後、ハッシュタグをつけて配信を投稿していただければプレイリストなどにはまとめますので、ぜひまだの方は参加していただければと思います。
11月に入って今年もあと2ヶ月ですね。
年内の教育系ポッドキャストの日の予告は今週中のどこかのタイミングでボイスの方でしようかなと思ってます。
先月は告知が遅くなってしまって参加を考えてくださった番組の皆さんには参加しづらい形にしてしまいました。申し訳なかったです。
歓声を込めて今週中には何とか考えておこうと思います。
年内のレギュラー配信もあと8回で2026年は終わりますね。
いやあと8回って結構多かったですね。思いの方が多かったです。
でも生活をしていると意外とあっという間に過ぎていくんだろうなーなんてことは思っています。
だんだんと寒くなってきますがリスナーのあなたも体には気をつけてお過ごしください。
ここまでお聞きくださりありがとうございました。
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それでは次回の配信でお会いしましょう。ではまた。
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