苦手克服を自分と他人で分けて考える
この番組では、Google for Education認定イノベーター、コーチ、トレーナーのKasaharaが、教育にまつわる様々な話を配信していきます。
今日は、自分で苦手を直そうとするのと、人に苦手を直せというのは同じ話なのか、ということについて考えてみる回です。
自分は学生時代、偏差値で一番数字が悪かったのは国語だったんですけど、まあ国語の教員やってる通り、別に国語が苦手だとは思わずに来たんですよね。
で、なんでこんな話をしてるかというと、今日から第4回の教育系ポッドキャストの日が始まりました。今回も参加していますね。
10月26日の月曜から11月1日の日曜日までの1週間で、共通テーマは苦手克服です。
この番組としては4回目の参加というか、4回目の主催という形になってきます。
で、今回のテーマなんですが、教育をザックバランに語るラジオ、いくザクの配信回、186回苦手教科との向き合い方をザックバランに語るの中でご提案を受けて企画しました。
高校教員のトヨさんと学習塾講師のシロさんの2人の番組で、配信の中で教育系ポッドキャストの日について触れてくださったんですよ。
ありがとうございます。苦手克服の話は予告編として116回でもしているので、まだ聞いてない方はぜひそちらも聞いてください。
116回は、自分は苦手と向き合わないでのたぶち回るというずるいところをひたすら話した回になっています。
苦手を話せと言われても、それを直視して向き合うのはやっぱり嫌なもんですよね。
自分の良くないところを直したいという気持ちはあっても、誰かから直せと言われると、それはムッとしてしまう気持ちが116回で話してきた、そういうような話になるわけです。
今日の教育系ポッドキャストの日では、自分が苦手を克服しようとすることと、他人に苦手の克服を求めることはどこが違うのかということについて考えていこうと思います。
それでは今週のデジタル時代の国語教育を語ろうを始めていきましょう。
苦手克服というテーマを聞くと、多分多くの方が克服した方がいいに決まっているという前提で考えを始めると思うんですよ。
苦手はない方がいいし、克服できたら偉いって。
まあ、でもなんで当たり前のように苦手は克服する方がいいと考えてしまうんでしょうね。
なので最初に一つ聞いてみたいんです。
リスナーのあなたは、自分の苦手を克服したいと思うことと、他の人の苦手を克服させたいと思うことを同じように考えてはいないでしょうかということです。
自分の苦手ならば、克服するかは自分で決められます。
ところが人の苦手を見ているときは、克服した方がいいよと簡単に言えてしまうんですよね。
同じ克服という言葉を使っていても、決めている人が全然違うわけですよ。
で、まずは自分の苦手というようなことから考えてみようかなと思います。
今話している笠原自身の苦手ってなんだろうなというふうに思うと、学生時代の自分には基本的に苦手な教科科目はなかったんですよ。
というか、苦手だと認めたくない気持ちがあったんですよね。
苦手とは言わずに、とりあえず自分の努力を続けてみようかみたいな態度でいたので、いじでも苦手という言い方はしなかったと思います。
成績に濃淡があったのは事実ですね。
偏差値で言えば、むしろ国語が一番数字が悪かったぐらいです。
でも成績に濃淡があることが問題だとは、自分としては全然思っていなかったんですよね。
好き嫌いとか得意不得意とかが、別に苦手意識には結びついていなかったんです。
成績と苦手意識が結びつかないのは、割と例外的なんだなーみたいなことに気づいたのは、実は教員になってからなんですよね。
学校の科目について苦手だから捨てるっていうのは、今の時代よく生徒も、まぁ生徒だけでなく教員も言いがちなんですよね。
どうしても昔に比べてカリキュラムオーバーロード気味なところがあって、科目負担が重いんですよ。
その結果苦手科目を捨てるという選択が、前よりも一般化している感じがしますね。
だから自分が高校生だった時よりも、かなり平気で、まぁ苦手だってみんな口善と言うなっていう印象はあります。
苦手かどうかって点数だけで決まっているわけではないんでしょうね。
自分に苦手という札をかけるかどうかの方が多分おっきいんじゃないかなというのが個人的な意見です。
じゃあ今の自分に苦手なものがないかというと、実は全然そんなことはないですね。
今まで話したのは学校の教科教育の話として、
まぁ学校の授業として苦手はあんまり自分の中に意識として苦手だということを持ってこなかったみたいな話なんですよ。
自分はまぁ人間関係がまるでダメですね。
懇親会みたいな場所は特にダメで、だいたい壁の花になってますね。
今年の夏の教育セミナーだとかの後にも懇親会ありましたけど、
自分から全く話しかけに行かなかったですからね。
だからこっちの方はまぁ全然ダメなわけなんですよ。
全然人と話すことは上手にならないです。
実際に自分のことを話そうとすると、つい色々なことを全部ちゃんと話したくなるから話しすぎるんですよね。
しかも相手に伝わらないような話ばっかり多かったりするので、
結局黙ってる方が自分のメンタルパフォーマンスとして、
メンパとして良いので黙ってることの方が多くなるわけなんですよ。
前提になっている視線みたいなところが合わないので、
初対面だととにかく気を使うんですよ。
教育業界の方だとなおさら価値観のズレみたいなところが大きくなりがちなので黙ってることの方が増えますね。
教科の方は成績が悪くても苦手とは言わなかったのに、
人付き合いの方は自分ではっきりと苦手だって言ってしまうんですよ。
まああまり改善するつもりが自分にもないわけです。
というより苦手なままの自分で何とかなってるから別にいいかなーと、
必要な人とは必要な時に話せるようなーとか、
多分自分があんまり得意に何か話しかけなくても、
必要な人には会えるような気がしています。
まあそういう甘えがあるから良くならないとも言えるんですけどね。
生徒の「書くのが苦手」と授業設計
で、ここからは少し生徒の苦手の話について考えてみましょうか。
例えば国語の中でよく言われるのが、文章を書くのが苦手ですみたいなことですね。
そういう生徒がいたとしてその原因というのは、
よく考えてみると決して一つではないんですよ。
文章の組み立て方みたいな技能がまだ十分に身についていないというだけなのかもしれないですし、
前に書いていたものでうまくいかなかった経験があって、
書くこと自体に抵抗を持っているみたいなこともあるかもしれないです。
それから時間の取り方や課題の出し方がその生徒本人に合ってないみたいなこともあります。
しかも原因は一つとは限らなくて重なっているということもあるんですよね。
同じ書くことが苦手ということでも、原因が違えば本来打ち手というものは全然変わってくるはずです。
自分が一番原因として重く見ているのは何かというと三つ目のものですね。
この点って本当は授業設計のミスであるはずなのに、書けないのが子供のせいにされて自信を失っているみたいなことになっているじゃないですか。
自分は書けない、自分は指導されないとダメなんだという認識を育てている授業の仕組みの方に自分は疑いを持っているわけなんですよ。
三つ目の設計の問題が子供のせいにされた途端に二つ目で挙げた文章を書くことの抵抗感というものに変わっていくわけなんですよね。
116回で子供の頃に連絡帳のことで嫌になるぐらい指導されて手書きが嫌いになったという話をしましたけど、
指導されるほど書きたくなくなるという順番は自分にも身に覚えがあるので本当に気をつけるべきだろうと思うんです。
むしろ自分としてはもっと自由に書かせてあげて、人に喜んで読んでもらえるという経験を積んでいけば書くことが苦手だというふうに思わせないで済む方法ってあるんじゃないかなと思っています。
だから自分自身はライティングワークショップの実践には興味がありますし、書き慣れの実践には学ぶことが非常に多かったわけなんです。
ライティングワークショップというのはざっくりというと生徒が書きたいことを書いていく、そういうような授業のやり方ですね。
日本だと作家の時間という本でまとまった形で紹介されています。
国語の授業が週3回あった頃は自分もライティングワークショップに使いことを授業で回していたことはありますね。
書き慣れの方は京都の高校の先生だった方の実践で、生徒が自由に書いてきたものを文数や本にまとめてみんなで読むみたいな、そういうような実践でやっぱり書くことについての喜びがあるんですよね。
自分の授業でも授業の最後に振り返りのコメントを書いてもらってるんですけど、そこには別に授業の振り返りを厳密に書かなくてよくて、何書いてもいいよと言って書かせているっていうそういうリフレクションがある
んですよ。
だから生徒としては昨日見た夢の話だとか、今朝食べてきたご飯の話だとか、最近の恋愛事情だとか、何だっていいんだみたいな形で書いてくれるんですが、
そうなってくると本当に好き好きに楽しげに書いてくれる子もいるんですよね。
そういう時には生徒の方も全く気負いしないで書いてくれるので、自分が苦手だとか得意だとかそういうことを意識しないで書いてくれるので、やっぱりちゃんと文量だとかもそれなりに書いてくるんですよね。
だからやっぱり評価されるみたいなところに軸を置いてしまわないように教室という場を作ることも大切なんだなぁと思うわけです。
評価に晒されることによって苦手というような意識を高めてしまうのは残念なことですよね。
教員のICT苦手と周囲への影響
あと子供の話だけではなくてちょっと嫌味な話になりますけど、教員の話もしておきましょうか。
教員の苦手の話です。教員は生徒の苦手克服を支援する立場に本来いるはずです。
ただ自分の得意なことについては知らず知らずのうちに他の人にも同じ水準を求めていないかというような疑問はあるんですよね。
特に自分の好きな科目、得意な科目を自分の評価にしている先生多いですからね。
自分にとっては簡単なことを人ができない時の戸惑いって教員じゃなくても多分覚えがあると思うんですよ。
だから本来教員というのはそういう戸惑いとずっと付き合うはずの仕事なんですが、実際どうなってますかね。
ICTや生成AIで言えば使えないのと使いたくないのと使える条件が整っていないのとは本当は分けて考えた方がいいはずです。
自分はどうかというと知らず知らずどころかはっきりとあることを思ってますね。
教員に対しては仕事なんだから新しい技術が入ってきたら自分でちゃんと勉強してほしいなって。
例えば公務の話に関して限って言っても紙と内線なんですよ。
自分みたいにICTに慣れている教員からするともうできればこの2つはやめてほしいんです。
でも紙じゃないと読まない、画面は分かりづらい、メールは見落とすみたいな声もあるわけです。
ただ紙だとなくしちゃったり忘れちゃったり情報流出しちゃったりしやすいじゃないですか。
デジタルならば検索もできるし例えばリマインダーも設定できます。
電話に関してはもっと嫌でかけた瞬間に相手の仕事に割り込んでしまうってすごい嫌な感覚じゃないですか。
116回で苦手と向き合うというのは自分のことを自分で決めてその結果の責任を引き受けることだという話をしましたが
紙で読むと決めるのはその人の自由なんですけど紙をなくしたり忘れたり相手に求めたりすることだとか
あとは電話で人の仕事に割り込んでいくみたいなそういうことは決めた本人だけではなくて周りにも影響を与えているから
もうちょっとどうにかならないかなと思うわけです。
ここでブーメランが返ってくるような話になるんですけど
116回で手書きを強要されるとムッと来るっていう話をしていたにも関わらず
お前もデジタルを強要してるじゃないかみたいな感じですよね。
でも議論のレイヤーが全然違うとは思うんですよね。
手書きや紙が好きだからといって出願ですら今すべてデジタル出願になっている時代において
デジタル学校の中だけ使わないにしろというのはなかなか通る話じゃないんじゃないのなんてことは思ってたりもします。
生徒の苦手と大人の苦手を比べてみると
生徒の苦手については自分は本人よりは教育の仕組みそのものの方に疑いがありますね。
でも教員のICTが苦手だみたいなことに対しては仕事だからもうちょっと頑張ってほしいよなあというか
子供のできないことに関しては鬼の首を取ったように取り上げて愚痴を言っているんだから
まあその時間があるんだったら勉強してほしいなあとそういうことを求めたくはなるわけです。
まあこれ以上言ったら消されるのでちょっとやめておきます。
聞いている方は他人の苦手を見た時に本人の問題として見ているのでしょうか。
それとも反響の問題仕組みの問題として見ているのでしょうか。
相手が子供か大人かで見方が変わったりはしていないでしょうか。
苦手への三つの向き合い方
じゃあ苦手とどう向き合えばいいのかということに関して自分の思っていることを話すとすると選択肢は3つくらいに分けられると思っています。
一つ目は克服を目指すということですね。
本人が必要だと認めて技術を磨き上げていくっていうそういう方向性ですね。
まあこれは努力でしっかりと積み上げていきましょうというそういうような方向性ですね。
二つ目は補うみたいなやり方です。
人に手伝ってもらったり道具を使ったり環境を変えたりして困り事を小さくしていくみたいな方向性です。
自分自身が紙の提出物を求めない集めないのも紙の管理だと全く自分ができるようにならないからなので
自分の苦手を道具だとか環境によって補って克服していくみたいなことをやっているわけです。
三つ目が手放すあるいは優先度を下げるみたいな感じですね。
その技術がどうしても必要なわけでもないならば無理に克服しないであるがままに任せるみたいなそういう選び方があってもいいんじゃないかなって思うわけです。
ただ学校の授業には必ず身につけてもらわなければいけないということもあって
そういう内容で問われるのは克服を求めること自体ではなくて
目標の設定と支援が妥当かということを考えた方がいいんじゃないかと自分は思っています。
例えば国語に関して言うと流暢に話せだとか
ちゃんと綺麗なまともな日本語で書けみたいなことを素朴に目標設定しがちなんですけれども
多分もっと抽象化して国語の目標だとか身につけなければいけない能力に関しては論じることができるだろうと自分は思っています。
自分は国語の授業に関しては苦手だと思っていてもやるべきだと言わなければいけないこととしては
その人自身が自分の言葉で何か表現をするということですね。
どんなに拙くても漢字や表現技法が全然使えない書けなかったとしても
自分で表現しようとする気持ちと自分の意見は自分で表現するという責任を引き受けるみたいな姿勢態度みたいなところを
学んでいくことが必要なんじゃないかなぁと思っています。
逆に漢字が書けるだとかの知識に関しては後回しで大丈夫なんじゃないかなと
自分の伝えたいことを何度も書いて表現しているうちにそういうことの必然性だとか
自分に必要な知識というものは結びついて学べるんじゃないかなみたいなことを割と楽天的に思っているタイプですね。
先に話した苦手克服の3つの分け方で言えば
自分の言葉で表現するということは克服してもらう側で知識や正しさは優先度を下げて後から追いつけばいいこと
環境によってうまく行えればいいことというのが自分の今考えている考え方になりますね。
だから授業では自分を表現したい、伝えたいと思えるような場にしなければいけないなというふうに自分は思っています。
さっきの書くことが苦手だと思わせないで済む方法を探ろうという話と考え方の根っこは同じですよね。
苦手を克服できるのはもちろんいいことだと思います。
ただ、克服できるかどうかとは別に、その苦手を誰が問題だと思っていて、誰が克服を望んでいるのかということも考えておきたいんですよね。
自分にとっての苦手と他人にとっての苦手は同じ苦手という言葉で呼んでいても分けて考えた方がいいんだと思うんですよね。
特に教員が子どもに対してあなたはこれが苦手でしょって言ってしまうことは結構危ないことなんだろうと思っています。
苦手を試行錯誤できる学校へ
さて最後に一つだけリスナーのあなたの意見をぜひ聞かせてください。
あなたが今まで克服しようとしてきた苦手というものは自分で克服したいと思ったものでしょうか。
それとも誰かから克服すべきだと言われてきたものなんでしょうか。
ぜひ自分の苦手というものに関して考えてみてください。
ということでもう1回エンディングで宣伝しておきます。
第4回教育系ポッドキャストの日は、今日10月26日の月曜日から11月1日の日曜日まで開催しています。
共通テーマは苦手克服です。
ハッシュタグ教育系ポッドキャストの日で検索すると参加している番組が見つけられるので気になったものをぜひ聞いてみてください。
期間中にハッシュタグをつけて配信してもらえれば今からでも参加できますのでぜひよろしくお願いします。
それから今日のテーマのきっかけをくださった教育をざくばらんに語るラジオいくざくの186番も概要欄にリンクを貼っておくのでぜひ合わせて聞いてみてください。
今回のポッドキャストでは苦手に関する話をしてきましたが、世の中やっぱり苦手なことと向き合わなければいけない時ってありますよね。
むしろ気がつくと自分の苦手と向き合う時間の方が長いのかもしれません。
今の学校教育の現場の在り方というのが自分が苦手なものを直面させられる機会の方が多くて、
自分はこういうことができないんだと自分の可能性を襲いでいく認識を育てるような在り方になってないかなというのは自分の懸念点、少し心配なこととして思っているところです。
もっと学校という場が緩やかに楽しめる場であればいいのにってそんなことを思いますね。
苦手を自覚する場というよりは、苦手を試行錯誤できるような場であればいいのになぁなんてことを思っています。
ここまでお聞きくださりありがとうございました。
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この番組は毎週月曜日に1回配信されます。
またボイシーでは毎日配信もしているのでぜひそちらもお聞きください。
それでは次回の配信でお会いしましょう。
ではまた。
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