生きるためには表現するっていうことがとても重要、みたいな話をされてて、それ大事だよなって思った。
自分の心が何を望んでいるかを知ることっていうのは、自分の仕事にもおっしゃる通り関わってくるし、それが生き方になってくるわけだから、
やっぱりそこに蓋をしちゃって、世間でこれをやっとけばステータスが高いだろうとか、
外基準になっちゃうと、見せかけのものは鎧みたいな感じでね、防御できるんだけど、
やっぱり外から作るものって無理が来ちゃうから、
やっぱり自分の心本身は必ずそこで満足されないと思うので、どう考えても満足には行き着かないから、
矛盾が生じてきてしまう。
その矛盾が鬱だったりとか、鬱っていうのはやっぱり心がブレーキをかけちゃうってことだと思うんで、
エネルギーがやっぱりやりたいことに向かって巡回してないから、滞っちゃうわけですよね。
エネルギーがどんどんどんどん減ってって動きたくないとか、ブレーキがかけられちゃうわけですよね。
そういう心の問題とか、全部今、社会問題になるぐらい繋がっちゃってるじゃないですか。
表現をね、朝比奈さんの絵の模写に黒い点を描いたり、バツを描いたりするっていうことを、
この場では許されてるって思ってその子もできて、表現するっていうことがダメなことはなくて、
とりあえず自分の思ったことは表現できる、表現している子の表情っていうのはやっぱりどんな感じなんだろうなと思って。
なんかね、分かってもらえたっていう安堵感みたいなのがあって、
うん、それそれみたいなね、そうなんだよみたいな、ちょっとこう誇らしい感じと、
あと自信とね、あとなんかこう、ちょっと掴んだっていうような感じかな。
これでいいんだっていうか、やっちゃっていいんだみたいなものを掴んで、
これなら俺でもできるよみたいな。
そこを一回掴むと、あとはね、他の人に何を言われようが、
その体験が一回あれば、それが許される場所がこの世の中のどっかに一つあるって思っていれば、
あとはもう安心だと思うんですよね。
世の中でどんだけ否定されようが、逃げ場所があるって分かっているから。
分かってくれている人がいるよっていうのが安心感になるのかな。
そういう体験も安心感になるのかな。
そうすると表現したり、何か話したり、自分から思っていることを外に出すっていうのがそんなに怖くなくなるのかな。
うん、そうだと思います。
で、その掴んだっていう感覚がその子にそこで得られたことで、
エネルギーが暴力的な方向にも向かわなくなると思うんですよ。
結構それがうまく表現できないから、癇癪を起こして何か壊したりとか、
建設的なことができない子ってやっぱり心の逃げ道を持ってないっていうかね。
それが爆発しちゃうってことだと思うので、
そのやっぱり逃げ道としてもそこを持っておけば、
その後は建設的な方向に進んでいけると思うんですよ。
だからその子に関しては掴んだかなっていう感じがしました。
そうなんだ。
なんか破壊的な要素も子どもたちって持ってるから、
破壊的な要素と建設的な要素って結構いつもせめぎ合ってると思うんだけど、
大人になっていく上で建設的な要素の第一歩に入れたのかなっていう印象でしたよ。
結構決定的な瞬間だったんじゃないかな。
そっか。
思ったことをそこ表現するって結構勇気いるもんね。
やっぱそこで否定されたらもう一生傷つきますから。
そうだよね。しかもそれが思ったことがすごく世間で言われるきれいなことで、
それ描いたらみんなが喜ぶってなんとなくわかるようなことだったら、
そんなに自分を押さえつけなくても描けるかもしれないけど、
例えばバツを描くとか、黒い丸で塗りつぶしたりする行為って、
はたから見たらもしかしたら否定されかねない行為だとわかっちゃうと、
それをじゃあそこに描いたらどういう反応されるかとか考えちゃうと、
もうちょっと描けない。
余計勇気いるっていうか。
出てこなくなっちゃうね。
だけどその考えは別に表現という形で出していいんだって思っておけば、
一応出せるわけじゃん。
出せないっていうのは結構苦しいしさ、思っちゃうことをね。
それが本当に困らせることにつながるようなことを出すっていうのはちょっと大変かもしれないけど、
ただ表現として出すっていう分には疑似体験じゃないけど、
本当にみんなが困っちゃうようなことを行動するっていうことじゃなくて、
表現としてこういうちょっと否定的に思えるようなこともできるっていう、
そっちにエネルギーが流れれば発散ができるかなと。
まあね、本当にそこをやっぱり子どもたちの心を自分で救ってもらいたいと思ってるから、
こういう表現の手段を何か一個持ってくださいっていうことを言ってるんで。
やっぱりネガティブな感情っていくらでもあって、
それを表現に、昇華ってよく僕は呼んでるんですけど、
飛躍させるっていうか、そうすることでその気持ちっていうのが人に伝わりやすくなるから、
悲しみとかね、苦しみを直接ぶつけちゃうと、
ぶつけられた本人にとっても辛い話になっちゃうから、
負の連鎖じゃないんだけど、みんな落ち込んでっちゃうみたいなことになっちゃうけど、
その表現にすれば、そんな悲しみがあるんだねって他の人が受け止められるものになるんで、
やっぱりそういう状態に、まず自分が一人で持ってけるっていう体制を自分が持っていれば、
本当に建設的な方向に人と歩んでいけるんじゃないかなって思うんですよ。
全然展覧会から離れちゃった。
でも一体なんですよね。子供の表現と自分の表現と一続きだから。
それが生活でもあるし、自分にとっては。
朝比奈さんの作品の特性もあるかもしれないけど、
この心の声とか対話っていうところに重きを置いてるから、
ついつい表現っていう方に行っちゃうね。
質問がどうしても表面的なことじゃなくて、
ちょっとその奥になんかあるよなーとか、
立ち現れてる表現の美しさとか、
例えば技術的なこととかもあるんだけど、