でも、それはちょっと抽象度が高いところにあるんですよね。
例えば、自責と他責の人の関係性で言い合いみたいに、どっちが悪いとか、責められる、落ち込むみたいなワーッとなる関係性があったとしても、それはどっちもしんどいし、
どっちもに良い回答としては、責めることあるいは責められたと思うことによって、その関係性が悪化するじゃないですか。
どっちでもいいよっていう観点に行かないと、この両者は多分手が握れないというか、そこの観点に立たないと、譲るにしても、相手に譲るにしても、相手を責めなくてもいい、自分も責めなくていいっていう位置に行こうとすると、
ちょっと抽象度を上げないとね、簡単な言葉で言うと、細かい作法にこだわってたらというか、細かい点にこだわっていると、いつまで経ってもこの関係性の悪化の方に問題は移行していって、何も解決しないどころか、もうあの人とは会いたくないみたいなことになってしまうよね。
確かにあのもったいないですよね。例えばすごく友達同士で仲がいいんだけれども、その何かの方法を私はこう思うからこうする。いやいや、私はこういうふうなやり方でやってるんだからあんたが悪いでしょっていうその細かいところで喧嘩をしてしまったことで、お友達同士というその関係すらもぶっ壊してしまうのはとってもとっても残念なことですよね。
そうなんですよね。そもそもそもそもそこを望んでたのかって話ですよね。そこを望んでたわけじゃないのに、結果として論点がそっちに行っちゃうっていうのが、この責めるとか責められるっていうことの行き着くところでね、それは残念なことですよね。
まあ夫婦、ご夫婦関係もそうですよ。その人との関係がどうなりたいの。自分を責めるだったら自分との関係がね、どうありたいのどうなりたいのっていうところに立てれば、まあいいか。まあいいかとなるしかなくて本当に、そこにこだわるというか、結局こだわってるってことになっちゃうんですよね。
ちょっと引きで見ると。どうしても本当にそうじゃないといけないのって考えると、まあそんな責めて関係壊すほど責める必要がないとか、そんなに自分を痛めつけるほど自分を責めるような話でもないっていうことなんだけど。
でもこれもね、だからこれが正しいから私が間違ってるからっていうのがこのね、自責他責の背景にあるとしたら、そこをすごい意識的にそう思ってるっていうよりはもうオートマチックにそう思い込んじゃってる観点から多分責めたり自分を責めたり相手を責めたりっていうことが起きてるんだよね。
そうなんですね。それも最初に言ったように、これが正しいっていう自分が持ってるその思い込みっていうか下手すると思い込みが起点になってるじゃないですか。
で、それも最近のそのSNSとかメディアの傾向で、それをもとにして自分のその正しさの基準っていうのが設定されちゃってるというか振り回されちゃってるというか、それをもってこの話をしてる人も中には結構いるんじゃないかなって思いますね。
そうなんだよね。そうそう。なんかね、その正しい正しくないで言うと、本当にそのすごい抽象度高いところに持っていかないと、例えばその正しいからといって相手にこうずかずか土足で入ってて叱責するっていうのは正しかったらそれやっていいのかっていうと、それは正しくないじゃんってことに結果になったりとか。
だからなんか究極的にはその思いやりとか、相手がこれをどう感じるかっていう思いやりがあることの方が優先された方がいい。なんかそういうふうに考えると、倫理って言うとちょっとくさいというか言葉が硬いんだけども、なんかそのぐらいやっぱりこう、本来の目的に変えてみないとこの思い込みから逃れられないように。
なんか人間の日常生活とか、今のね現代社会っていうこともあるのかもしれないけど。だから多責の気持ちになっても、自責の気持ちになっても、ちょっとこうやっぱり話してみないとね、自分のこだわりについこう執着になっちゃってんのか、それともお互いに抱えているその共有している状況を改善しようとして前向きな気持ちで考えていることなのかって振り返ってみないとちょっとね。
そのとっさにはね、難しい。
そうなんです。
わかんないですね。難しいと思います。なんかよくあれと思って、例えば上司が部下に指導するっていう時は、部下が成長するためにって言って、こういろいろ言葉をかけたりとか指導するんだけれども、逆の立場から見ると、全部私のせいにしてって。
そういうふうに受け止めてしまうから、両方とも別に攻めてるつもりではないんだけれども、その関係性から見ると、肌から見ると、攻め合ってるみたいな形に見えちゃうっていうね。
そうなんだよね。幸せあるいは平和な関係ではない感じになっちゃうもんね。