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みなさん、こんにちは。だれせめ相談室のお時間です。
だれせめ相談室室長で臨床心理師のゆう子さんです。
ようこそお越しくださいました。
ようこそ。アシスタントでキャリアコンサルタントの坊ちゃんです。
だれせめ相談室は、職場や家庭での日常的なお困り事を、だれせめを使って解決するべく、
役に立つ考えや具体的エピソードなどを、おしゃべりでお届けしていく番組です。
ところで、ゆう子さん、だれせめって何ですか?
はい。だれせめについて説明します。
だれせめとは、だれも責めないコミュニケーションの略。
何か問題が起きたとき、私たちはつい、あの人のせいで、とか、自分のせいで、などと考えてしまいがち。
でも、誰かを責めても問題は解決しないどころか、もっと悪い状況になってしまいます。
だれせめとは、そうならないためのコミュニケーションのことです。
この相談室では、だれせめの考え方や物の見方を使って、問題解決のヒントをお届けしていきます。
今日は、ゆう子さんとぼーちゃん2人で、だれせめ相談室、フリートークでまた行きたいと思います。
はい。
今日のテーマは、怒りについてちょっと話してみたいなと思っているんですけど、
ゆう子さん、怒りと言って思いつくことって何かありますか?
はい。怒りと言えば、多くのご相談にあるな、というのがパッと頭に浮かぶのと、
自分自身もね、怒りは日常的な経験があるな、というのがパッと頭に浮かんだことですかね。
具体的に何か、これって、むっとかしたとかって、多分声を荒げて、何やってんだいってことはあんまりないと思うんですけど。
私の場合は常に夫ですけどね。
あの、何でしょうね、家事問題ですよ、よくね、ある、よくある。
普通、ここはやるでしょ、っていうところで、大体ね、やらないときに向かってくるみたいな。
あるあるですね。
あるあるでしょ、そう。
多分、普通やるでしょっていう、その普通やるでしょっていう考えが、多分怒りにつながってんだろうなって思いますけど、
職場とか、学校とかあらゆるところで、夫婦じゃなくてもね、赤の他人でも、ちっちゃいやつなんかね、いろいろ起こることなんじゃないかなと。
坊ちゃんは何かあります?思い当たる、見た、聞いた、やった。
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あんまりね、私自身が最近声を荒げるってことはあんまりないんですけど、
でもやっぱり、道歩いててね、
突然自転車が目の前をガーって走ってくるときってギリギリにすれ違ったりとかってすることってあると、
お前ふざけんじゃねえよってやっぱり思うことはあります。
ありますよね。どこ見てんだ。
それもね、やっぱり普通やらないでしょっていうね、もうちょっとちゃんとしなさいよみたいなね。
そうそうそうそう。
やっぱり共通してるですよね。
家事なんでやんないの、ちゃんとやんなさいよっていうことね。
だから怒りって基本ね、なんかこう、ちゃんとこう、共通した構造があるよなとね、思いますよね。
だから人によって多分、怒りポイントはね、違うし、
で、いったんその、私はこうであるはずだとか、普通こうでしょって思ってると、
なんであなたはそうしないんだっていう怒りって、そうすると言っちゃったりなんかすると、
いやいや、それはあなたのルールでしょみたいな感じで、
まあそっからね、どっちが正しいんだみたいな正しい論争になって、もう収拾つかないっていうね。
でね、言っちゃって、なんかこう、引っ込みつかなくなることもありません?
ますますこう、でもあの時だってとかね、ガーッと話が進んで、もう契約ですよっていうね。
そう、別の案件が出てきちゃってね。
そうそうそうそう、蒸し返すってやつね。
あなたがね、とか言ってね。
じゃああの時はどうなんだとかね。
もう正しい論争に入ると終わりはないっていう、この怒り。
ありますね。
うんね、これ多分じゃないな、これやっぱ違いに腹が立つっていうのが、この根本的な人間の怒りって怒りとか、
まあ怒りですね、なんで違うんだっていうのがね、たぶん構造としてはポイントなんだけど、
でもよくよく考えたら、違って当然なんですよね、本当はね。
まあね、いくらご夫婦とはいえ、親子とはいえ。
だからみんな、それこそね、自転車でこうスーッとブレーキやらずに通り過ぎるもん、
本人としては別に、僕は別にそんな危険だと思わなかったんで、そういう意識だから。
みんな別にね、それぞれが思ってることで行動をとってるので、
だから違いなんですよね、ポイントはね。
いやそうは思わなかった、いやそうは思ってるとかっていう。
で、その怒りといえばね、私仏教の勉強してるんで、
仏教ってまさにその怒りをどう乗り越えるかっていうことの実践みたいなところがあって、
もうすごいね、怒りの処理みたいなことをすごい言うんですよ、仏教では。
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あ、そうなんだ。
うん、ちょっと意外でしょ。
意外。
まあそのさっき言ったように、だいたい人と違うし、反応も違うし、解釈、
そもそもね、現実の解釈が人によって違うので、
こうあるべきとか普通こうだろうっていうのも全員違うと、
そうすると行き違いが起こる、
普通こうだろうって思ってるのに普通そうだろうと思ってない人の間でこうね、
諍いが起こるみたいな、もうちっちゃい話で言うともう日常茶飯事ね、
そんなまたこうイラッとするみたいなのに、
まあ満ちてるわけですよね、人生って。
まあ仏教といえば苦っていう言葉、苦しいの苦。
あれが何かね、言われるのは皆さん知ってると思うんだけど、
苦なんだと、つまり違うことに苦しむ、
こうであって欲しいのにこうでない苦しみ、
こうなって欲しいのにそうはならない苦しみっていうね。
上手いようにいかないっていう。
そうそう、上手くいかない、そう思ってる方にはいかないというのが、
これがこの世界の現実というかありのままの姿なんですよと、
何一つ思うようにはいかないんですよ、
だから生きてるのは虚しいなとかつらいなとか、
怒りが湧くとか、生きてるっていうのは苦しいんですよと。
なのでその苦を乗り越えるにはどうしたらいいかっていうのが、
仏教の教えの全体像みたいなところがあって。
じゃあもう基本的に苦しいっていうのは、
あって当然っていうところから始まってるってこと?
そうそうそう、そうなんですよ、おっしゃると。
そうなると苦はあって当然で、苦の世界に私たちはいるんだと思えば、
言い換えると、全員違う世界に、
違いが起こって当然の世界に私たちはいるんだというのが、
仏教の根本の考え方なので、
だからそもそも違って当然だっていう前提があれば、
違うからといって怒らなくていいじゃないですか。
そうね、そういうわけですね。
違うのが普通なので、むしろ普通なことなのに怒るっていうと、
ちょっとあなたちょっとなんで自分のやり方だけ特別だと思ってんのと、
こうなるわけですよね。
それが仏教の世界観で、何一つ思うようにいかないっていうのは、
この苦っていうのとあと無情っていうね、
仏教の言葉でもう一つ無情っていう、
何一つそのままではない、何一つそのままずっと同じではなくて、
常にそうじゃないだからむしろ、
全てのことは変化、変化と万物ある天の最中に私たちはいて、
人間が思い通りになることなんて何一つないと。
全てはぐるぐるぐるぐる変化しているその瞬間瞬間に、
全てが変化している中にいて、
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ましてや人同士の間では、
それぞれこう見てる世界、解釈している世界観が違うので、
違いも当然だと、
いうことで、
だからいちいちその違いに腹立てなさんなと、
違って当然なんだからと、
全てのものは万物ある天で、
全てのものは常々変化しているんだから、
まあまあそう焦って食いつかなくても、
観察してちょっと一歩引いてみてれば、
いずれまた変化起きるから、
いずれ変化に気づくから、
まあまあ落ち着けというのが、
ちょっとすごいカジュアルに言うとね、
そういうことなんですよ。
まあそうは言ってもね、
そうだったらそうなんだよね、
そうは言っても、
人間だもん、やっぱりどうしたって、
そんなね、
たっかんできないもんって思っちゃう。
そうなの、そうなの。
だからこそ、
たっかんなんてね、
たぶんなかなかできないどころか、
ほとんどの人はね、一生できないし、
仏門に入ったところで、
できない人もいるんじゃないの?
だからこそ、
まあ常に一生一生、
そういう前提で生きてれば、
もうちょっと楽になるよ、
って話なんですよね。
頑張ってそうなりましょう、
じゃなくて。
そうなると、
まあね、生きてるのはつらいよと、
まあなんか、
私だったらさっきのね、
なんでここでちゃんと皿洗わねんだ、
みたいに思うけど、
もう怒りにとらわれてね、
あの野郎とか思いながら過ごしてると、
私自身がしんどいから、
だから、
そもそも、
違うもんなんだから、
まあまあちょっと、お茶でも一杯、
みたいに、
そのことから距離を置いて、
自分を大事にする、
みたいなね、
なんか、
セルフコンパッションとかね、
今、セルフコンパッションの方が有名かもしれないですね、
仏教の話よりね、
自分に慈悲を向けましょう、
だからセルフコンパッションしましょう、
セルフケアの話なんですよね、
仏教っていうのはね、
みんな瞑想しましょうとか、
マインドフルニスやりましょうとかっていうのは、
ストレス軽減させましょうの、
技を手に入れましょうに近いことなんですよね、
だからね、
で、ちょっと怒っている時をね、
坊ちゃんも思い出してほしいんですけど、
すごい辛くないですか、
怒っている時って、
目の前の誰かに、
幸せではないことだけは確かですね、
しかも、
その瞬間だけじゃなくて、
結構後引いたりね、
短くて半日とか、
長ければ、
もっとね、
1日とか1週間とか、
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人によってはね、
ずっとそれに、
1ヶ月どころかみたいな、
同じことが重なると、
こんな会社やってらんねーとか、
こんな上司の下でやってらんねーとかね、
みたいになっていくんだけど、
それを、
マインドフルニスとか、
瞑想とか、
ちょっとちょっと待ってよと、
間を置いて、
距離をとって、
なんとかしようとせずに、
待ってみるとか、
この人にはこの人のやり方があるんだろうよとか、
まあ違って当然だろうよねーとか、
まあそりゃそうだよね、
理想は人によって違うよねーって、
私の理想にとっては、
この人は全然違うんだなーとかね、
そういう風に見えてくると、
少なくともね、
なんかその人に攻撃されてるとか、
バカにされてるみたいな、
感じにはいかなくて済む。
それは、
その瞬間ですか、
言語とかも含めて、
長いレンジで。
それこそ、
マインドフルニスの習慣、
マインドフルニスか、
瞑想の習慣がつけば、
その期間がどんどん短くなる。
切り替えがどんどん早くなる。
だから続けましょうって言われてるんだね。
最初はね、
やり始めた頃は、
なんか、
怒りとか苦しみに襲われた時に、
でもこういう時こそマインドフルニス、
マインドフルニスって思って、
瞑想とかやるんだけど、
やればやるほどさ、
頭に思考がぐるぐるしちゃって、
うまくいかないんだけど、
でも瞑想、
マインドフルニスをずっと習慣化して、
やったり、
座って座禅してやらなくても、
例えば、
料理をやる時に、
なんか考えながら料理するんじゃなくても、
千切りに没頭するとか、
火事の中で、
歩く瞑想とかもあるように、
やりながら、
なんかやってる時に、
一心不乱にそれをやる、
磨くとか、
そういうのを含めて習慣化して、
余計なことを考えない、
思考を止めるが、
板についてくると、
ムカッと来た瞬間に、
これでまた私、
思考に走ろうとしてるぞとか、
ムカッと来るとまためんどくさいから、
ここはここで止めとこう、
みたいに、
習慣化されてくるかな。
私の感覚では、
怒りとか真泣くとかって、
すごく一時的な感情って、
自分の感情にすごく密着してる、
っていうイメージがあるんです。
自分の感情、
イコール怒りっていう、
本当に密着していたりとかするから、
結局、
そこの怒りっていうところにしか、
自分の気持ちが、
他何も見えずに、
怒りの方向だけ、
それはもう自分の感情に密着してるから、
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でも今話聞いてて、
例えば、
マインドフルーネスとか、
もうちょっと奥から、
自分の気持ちを見れるようになると、
怒りって、
その密着してる怒りが、
もうちょっと自分の心から、
引き剥がされるような、
そんなイメージになれるかな、
って今ちょっと思いました。
そうそう、おっしゃる通りよ。
そう、怒り浸透なってる時に、
ちょっと距離を取って、
怒りそのものに自分が、
身を焦がすんじゃなくて、
怒ってる自分を、
もう一人の自分が見てるみたいな。
そうそう。
そんな感じになってって、
上達してくると、
怒ってる自分を見てる自分を、
また見てるみたいに、
どんどん、
1クッション、2クッション、
上から、
どんどん俯瞰して、
もう本当に、
鳥が上から、
飛行機に乗った時に、
地上を見るみたいに、
見えてくると、
まあ些細なことで、
何やってるんだろう、
っていう俯瞰になればなるほど、
まあいっか、とかね。
そこまでいったら千人じゃないですか。
だから千人ってそうなってる。
みたいな物事をね、
差別なことには、
動じないっていう、
すごいお坊さんとかは、
その域になってる。
そこまでは、
まあそうね、
そこまではね。
まあ、
でも行きたければね、そんなに難しくないらしい。
本当に?
常にね、
俯瞰の位置にいるっていうのは、
それはもうちょっとプロっぽい感じかもしれないけど、
行ったり来たり、
その俯瞰に行ったり、
目の前のことに、
接近したり、
行ったり来たりが、
自由にできるようになるっていうのは、
あると思うんだよな。
瞑想、マインドフルネスに、
慣れていくと。
じゃあ人によっては、
そこまで行かないまでも、
割と高い、
エベレストぐらいまで、
生きてる方はいらっしゃるってこと?
そうそうそうそう。
怒りが湧くたんびに、
今私、
怒ってるなっていう、
センサーとして、
深い感を感じてるんだな、
残念な気持ちになってるんだな、
この人と考え方とか、
やり方とか、コンセプトが違うってことに、
残念な気持ちになってるんだな、
センサーみたいになってきて、
怒りイコール、待てよみたいに、
そこが繋がってきて、
そうするとムカッと来たら、
私って今どうなってんの?
私のニーズは何なの?
私は今どうしたいと思ってたの?
どうなるといいと思ってたの?
深いイコールいけて、
それに慣れてくると、
もうイカらなくなるっていうのかな、
この人は違うんだ、
みたいになっちゃって、
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そこそこそこまでいける。
結構そこはね、
簡単簡単。
本当に、そうか。
私イケたとしても、
イケなんですけど、それでも大丈夫ですかね?
十分大丈夫よ。
富士山まで行けないと思うんだけど。
富士山まで行かなくても大丈夫よ。
もう一個でいいんだからね。
だからちょっとムカッパラ、
じゃあタカオさんの写真を持ち歩いてさ、
なんかちょっとムカッパラ来たらさ、
タカオさんの写真を見ると、
タカオさんを思い浮かべるみたいにしたら、
フッとこう。
そうか。
ちょっとNLPっぽい。
かもね、そうかもしれない。
イメージイメージイメージ。
富士山でもいいんだけど。
なんか山の上にクーッと上がっていく。
鳥のようにそれこそね、
超感情みたいな、
上空に上がるイメージでもすれば、
できればね、そこまで行けば、
もうあとは早い。
あとはもう怒ってもしょうがないなとか、
怒ってしんどくなる、
時間がもったいないなみたいに今度は。
いい意味で理故的になって、
自分のためになってきて、
考え方が。
あることすら選択肢からなくなるみたいな。
あ、違うんだな、この人とか。
あ、この人はそういう考え方なんだな。
あんまこれ言ってもしょうがないかなとかね。
あ、頼み方を考えるとうまくいくかもな、
みたいに。
ちょっともうちょい戦略的になれる。
うん。
仏様みたいですよ。
そう。
仏様はそこ。
そこを目指しなさいと。
だからそう思い出した。
仏様なんだよね。
だからね、
お釈迦様一人じゃなくて、
その域まで
行った人は何人も
あり得るっていう設定なのよ。
だから。
んーと、いわゆる
なんだろう、
一級、二級の世界。
そうそう、達人みたいな。
達人とかっていう、そうそう、そういう
言い方。だからね、
そこまで行こうと思えば、
いけるっていう
前提ね。
だから、あがめちゃだめなんだからね、
お釈迦様。
神のようにあがめちゃだめで、
あなたやってみなさい。あなたもやってみなさい。
っていうのが仏教ね。
うーん。
そういう風に聞くとできそうかもしれないかな
なんて思ってきましたね。
そう。だからね、
マインドフルネスも瞑想も、
コンセプトとしては
そうなわけだから、まあみんな今ね、
今時結構やってるよね、ヨガとかさ。
だからだいぶ
時代は
あの、みんな
そうと気づかずに
仏様を目指してるってこととも言える。
そう。
知らずに、知らずにね。
まあ、それで
皆さん、仏様がたくさんいる世界
になってもらいたいものだと
思いますね、本当に。
そうね、起こる人が減ると
いろんなことがよくなるしね、
なんかあの、
近い将来になってもらいたい
21:00
なんて思ったりとかします。
そうね。
ちょっと、今日こんな感じで
こんな感じで、はい。
締めたいかなとも思います。
そうですね、怒りから
仏教の話になりましたが、
ヨコさんありがとうございました。
ありがとうございました。
はい。
最後までお聞きいただき
ありがとうございます。
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では、次回のだれせめ
お楽しみに。
ばいばい。