ちょっと提案があります。
応募の時に写真と作品そのものを送るんですか?
そうです。
そしたら写真撮ってるじゃないですか、ウェブサイト用とかに。
だとしたら応募の時にもうちょっと説明文をフォームなりで書かせたらいいじゃんっていうのがまず一つ。
集めるの大変って言うんだったら応募のシステムを変えたらいいんだけど、書くことも嫌っていう人?
それはそれでOKですようにしてあげたらいいじゃないですか。テキストなしみたいなのもあるよっていうふうにしてあげたらいい。
入選に引っかかりたい人は任意にしてても頑張って書く気はするもんね。
ちなみにそのテキストで左右はされませんってことをちゃんと明言しておかないといけないよね。
だからもしも選ばれた時に展示用の説明が必要ですっていうふうに書いておかないといけない。審査には関係ございませんっていうふうに書いて。
集めておいて選ばれた人が、書いてない人は後でちょっと書いてなかったけど、要りますか要りませんかって聞いてあげたらいいじゃん。
これは僕の解釈なんで誰にも聞いたわけじゃないんですけど、
僕は日本伝統公演展っていうのは、本当に日本で言うと歴史の流れの中で、
平安とか平城とかあの時代とかからの流れの一つの延長線上にあると今でも信じてはいるんですよね。
その時に小僧院の宝物が特にそうですけど、誰が作ったか、本当は何だったのか。
基本じゃないところで作られたものが多いので、どこで作られたかもわからないものなんですね。
ものしかない。だからそういう何かもわからないし、いつ誰がかもわからない中で、
残ってきたものだけで伝えていくものがあるんじゃないかというのを目指してるのかなと解釈してるんですよ。
そうじゃないとあまりにも作者が自分の作品について伝える機会がなさすぎるので、
わざとというか意図があってやってるとしか思えない。
そこが何なのかは僕もまだお付き合いが長いわけじゃないので、あまりよくわからないんですけど、
そういう解釈を僕はしてるんです。
岩田さんの鋭い位置づけの話はいいですか?
さっき話した話なんですけどね。
僕がここまでの1エピソード目からの話を受けて、
実際第72回って続けてるけども、展示されている作品の1割ぐらいしか売れてないという状況をお聞きした上で、
ちょっと感じたこととしては、
やっぱり日本伝統工芸会っていう立て付けで続けている組織が、
どうしても内向きな組織の論理が働いて、
ある種なかなかフォーマットを崩せないような形になっていると。
これは良くも悪くもだと思うんです。
悪いことばかりではないと思う。
それによって保存されている保守性みたいなものが、
社会全体から見た時に重要な場面もあると思うんですよね。
だから日本伝統工芸会っていうものの、
社会的な位置づけの重要性っていうのは多分1つあると思っていて、
これは須藤さんからの僕ら3人に対する質問が、
倉田氏ラジオで工芸のことを3年とかやってきている中で、
あの展示場に行ってどう感じましたかっていう質問をやったんですけど、
それに回答すると、
工芸っていうワードで括られるものも相当広い。
その中では、例えば中川雅志商店さんみたいな、
かなりポップでライトな形で、
工芸品を手に取って普通に買って使ってっていうことができるマーケットを、
築き上げるっていうことをやっているプレイヤーがまさにいるっていう状況の中で、
全く物は売れないけども、そこそこの人は身には来てて、
ある何か文化を保存しているみたいな伝統工芸展があると。
ここに中川雅志商店に来ているような人たちを呼び込んで買ってもらいましょうっていうのは、
言ったら工芸界の左右翼に左右翼からお客さん連れて行きましょうみたいな、
右と左のメタファーもそんなにずれてない気がするんですけど、
何回聞いてもいいから。
それは結構無理筋なような気もしてて、
しかも別にやるべきでもない気がしてるんですけど、
ただ左右翼には左右翼のお客さんがちゃんとついているのに、
その人たちは別に買わないっていう状況は、どう考えても作り手にとっても、
その周りで見る人にとっても健全な状態ではないだろうというところまでが僕のまとめです。
作品を作る上で市場性を持たせるっていうのは非常に大きな足枷なんですよね。
僕は売れなくてもいいと思って作ったんです。
売れない作品ってどう活かすんだという話が、
何の価値も生み出さないと作るのはしんどいんで、
僕はまだ作品を作り始めて5年くらいなんで、
自分が何者なのかを出す作品、過去作でも写真出してくださいって言われてもないんですよね、ほとんど。
これでこれとかあるんですよって出せれば、すごく活躍してくれるんで。
何だったら普段のお仕事のお客さんにも、こんなのとか作ってるんですって現物を見せれればね、
信用もね、もしくはそういういろんな新しい仕事も生まれるかなと思って。
営業マンだと思ったら、入力の営業マンをキープするために頑張るっていうのはすごく自分の動機づけにはなるんで。
だから売れなくてもいいという気持ちがあったんで、要は営利目的じゃない自由さはあったんですよ。
でも多くの電動工芸店に出してもらう方は、今こんな売れてる率がこんなんだっていうことは、
もう売れると思って作ってないと思うんですよね。
じゃあ何をさせるつもりなんだというこの作品に。
それもあんまりなくなってきてるのかなと思って。
それならやっぱり何かしらの役割を見つけていくか、もしくは市場性を持たせるだけの市場活性化していくか、
何かしらはしないといけないと思ってて。
1個の方向性としてね、どうやったら売れていけるんだろう、売れていくかになってほしいと思いながらも、
売れるっていうのは、僕も今回賞賛がすごくいろんな方に褒めていただいて、
全然知らない人に感動したよとか言っていただいて、当然誇らしかったです。
だけど買ってくれたっていうのはまたちょっと違う次元の喜びがあるんですよね。
やっぱり嘘でも褒めてはくれますけど、だけど嘘では買わないんで。
やっぱりいいと思って買ってくださったんだなっていうのは、
当初の目的がちょっと果たせなくなるので、また作らなあかんのかと思ってますけど。
だけどやっぱり嬉しいわけじゃないですよ。
だけどそれは一旦置いておいて、
芸術の世界、アートの世界でも売れるか売れないかっていう切り口では全然ない部分で、
非常に重要なことをやっていかないといけないことってあると思うんですよ。
僕は海井さんと志穂さんがやっておられた展示東京まで見に行きましたけど、
ありがとうございます。
これで金は稼げるようになったとすごく思ったんですよ、正直。
売るつもりで作ってもらえないですね。
そういう切り口もあるんじゃないかなと思ってるんです。
伝統工芸も売ることを最初から諦めてしまって、
それをやって成し遂げたからには何かしらのものをちゃんと保証していくような、
いわゆる日本工芸家がよりしっかりとしてお金を集めるシステムを作って、
より良いものを作っていくことを奨励していくという方向もあると思うんですけど、
そうなると、さっきの岩田さんの話で言うと、完全に極右ですよね。
市場性なんて全く否定してるというような。
多くの人に見てもらうって価値もあると思うけど、
売れるような見せ方では明らかにないけど、今の状況は。
でも全然簡単にできると思います。
すごく、こうしたらいいのにってめちゃくちゃリストバーって言えって言ったら言えるぐらい、
改善面がめっちゃ明確だから、
例えば会員のお金を取るとかよりはむしろ、
ちょっと体験を作ってあげるとかで買う人って全然出てくると思う。
まず展示を良くする、配置の仕方、台を作れ、空間の置き方、下手くそよって思ったけど、
その作品の台詞も関係なく置いていって、誰がレイアウトを考えているのかもやもやしながら見たんですけど、
それを良くしたら全然良くなるし、あと説明に立たせるっていうことはすごい重要だし、
やっぱり話を聞いたっていうことがかなりみんなが、やっと見たらいいなっていうのはわかるんですよ。
だけどやっぱり話を聞いたら、そこに須藤さんがこの模様に込めた糸なんかを知っちゃったら、
さらにすごい自分の喜びが爆上がりするので、
それはもう買いたいって気持ちになるじゃないですか。
そういうのを、毎日とは言わないけど、有料の体験とかにするとか、
してでも買いたいって思う人だったらチケット買いますよ、特別ツアーとか。
何でもそうだけど、一回知っちゃったらもう元の自分には戻れないっていう経験が誰でもあると思うんだけど、
工芸でも当然そういう領域ってあると思うんだよね。そういうのは確かに思いますよね。
たまたま前回が徳井さんっていうAIの研究者の方で、メディアアーティストでもあられるというところで、
今の話で言うと、よくそこで言及されてたオーストラリア・リンツのアルス・エレクトロニカっていうメディアアートの芸術祭があって、
それが虚空なのか虚草なのかわからないですけど、
例えばアートバーゼルっていうのがあるとするじゃないですか、スイスで。
完全に売っていくという、ある種のそっちはそっちで売っていく伝統みたいなのがあって、
普通に考えても客層が全然違うわけじゃないですか。
アルス売ってないからね。
そうそう、まさになんですけど、でも須藤さんが言っているように売れないからこそ、
結構自分のネジとかを完全に開放してやれる表現だったり研究だったりっていうのが多分あるでしょうし、
すごい広い意味で言うと、メディアートと工芸って共通点がすごい多いなって個人感覚ですごい思ってるんだけど、
何が違うんだろうなってずっと話聞いてたんですよね。
アルス・エレクトロニカの方だと作家同士自体が連帯してその場を盛り上げていこうっていう感じがすごいあるんですよな。
昔はもっとあった、今より。かなりあった。
やっぱり言いづらいんですけど、伝統工芸展とかでもしかしたら感じるかもしれない閉塞感みたいなものは、
端的には須藤さんが言っておられた個人的な話しされる方が多いなっていうことと関係しているのかどうかわからないですけど、
個人の問題とかに言葉を選ばずに言うと埋没している方とかが多いのかなというような気もしていて、
それはお互いにあって交絶感とかがあると、
こっちもその熱狂のところに仲間入りできると俺も人生に針が出るなとか、
そういうような鑑賞の仕方もあるような気はするんですよね。
もしも個人の話をするのはダメとは言わないけれども、個人の見解が何かの気づきを与えるっていう相当な自信ない限りは、
あんまり自分の視点から語るとさっていうのはあるんですよね。
僕らの作品が熟考を重ねた上で福原司法の語り口っていう作品を作ったから、それはすごい悩んだんだよね。
本当は嫌だったんですよね。
個人の語り目的な感じの作風にするみたいなのは相当、
僕らもそういう作風にすること自体は勇気がいることだし。
一応キャリア20何年、30年近くあるけど、絶対に自分の語り口で作品を作るってことをやりたくないって決めてやってきたのに、
あそこで覆させられるのはすごい嫌だったんですよ、本当に。
だけど周りから、だけどあなたは自分の体の話してて、
みんな見に来た人はあなたの話だって見ているし、そこに意味性があるってすごい説得されて、
本当に嫌だなって正直思ったけど、
ただやってよかったのはそれでめちゃくちゃ自分が避けてきた理由がわかったっていう。
自分の話をしない。
それはメディアアートっていう、メディアを使ったアートっていうのは、
まず自分というよりは技術、テクノロジーと人間の関係性っていうのを語りたい。
それを個人、一個人とかいうスケールでやってたら、
いつまで経っても人間って話に追いつかないじゃんっていうのがあったんですよ。
基本私は頭でいく感じじゃないですか。
いやいや、多くの人が共有している感覚だと思いますよ。
あとは、本当に昔、メディアアート50人説っていうのがあって、
実際キュレーターが言っているんですけど、一時50人しかいなかったっていう風に言ってた。
ニッチな業界っていう意味ですね。
そう、ニッチな業界。
50人もいたんかっていうのもあるかもしれない。
ってことは、一人一人だけで自分の音がやっているんじゃなくて、
それが危機なんですよ、自分たちの存在危機。
だからプレイヤーになるためには、みんな認め合って、
情報交換し合って場を作っていこうよって。
個人プレイとかいう感じじゃないよねっていうのは、
どっかでやっぱり暗黙に感じてたから、
あとは新しいことをやっている自分たちっていう幻想があって、
その幻想を持っているっていうのはすごく重要なんですよね。
ずっと続けられるエネルギーになるから。
お金がなくても何度かやれるっていうのはそこだから。
フェスティバルってすごくいいシステムで、
そういったふわっとした紅葉感ですよね。
1年に1回同じ志っていうか、同じ興味を持っていて信じている人たちが一同に会って、
お酒飲んだり、ご飯食べたり、作品見合って、
自分が思っていたことをさらにアップデートしている人がいるとかいうと、
めっちゃ気持ちバカ上がりして、
やっぱりまた来年も頑張ろうっていう気持ちになれるんですよ。
それが伝統工芸というのは1年に置き換わった時に、
そういう会話をお互いするっていうところで、
皆さんどんな感じなのかなって。
内輪の会みたいなのがあるんですよね、きっと。
きっとありますね。
さっき自分の作品の話をしていたら言っていたよ。
来年もここの人たちにまた見せるんだよな、私とか思って、
また1年頑張れるのかっていうこともあるじゃん。
そもそもそういう展覧会じゃないのっていう。
目的がね、会の目的、会員の人たちの目的もあまりよく分からなくて、
売れないし、審査基準も明確じゃないから、
完全にここに対する共感シンパシーがあって、
入ってるんだっていうことでもないかなと思ってる。
それをするにはあまりにも会自体の方向性が見えてこないんで。
で、なると、他にないっていうのは1個大きいと思うんですけど、
この規模のものがないっていうのが、
人間心になろうと思ったらこのルートしかないっていうのもある。
それも不思議だよね。
それはちょっとすごい気になった点であると。
それって文化庁の伝統工芸師の認定の枠組みとかとも全然違いますね。
美術工芸の立ち位置とは?ってことだよね。
あとアーティストって、他に工芸の人言い方ないの?
それこそバイメルさん用語で言えばクラフトアーティスト。
クラフトアーティストだ。
アルティザン。
アルティザンじゃダメな。
マスターアーティストじゃなかった?
アーティストって言っちゃってるじゃんかっていうのも前からすごい。
もやもやしてて。
アートって要するに術ですっていう風に。
美術の術、芸術の術、術を持ってる。
技術っていうのも技を持ってる人もアーティストですよっていう風に
ちゃんとみんな日本語でアーティストっていう意味を拡大解釈できるんだったら全然問題ないと思うんだけど。
できないと思うよ。
どうしたもんなこれ。
っていうのが塩さんの素朴な疑問でございました。
ずっとこれから私やっててもやもやしてて。
それはシーズン2に出てた時に言わせてもらったことと一緒で
海さんがNFTでしたっけ?
顔と髪の毛と服の色を組み合わせ変えたやつ何千枚とか出してる。
1枚500円とかで。
こんなもんアートでもなんでもないだろうって思ってるんでね。
アートに対する挑戦だろうと思って。
その時は塩さんは私もそう思ってる。
あれは確かに挑戦ではあるNFTアート。
それは一旦置いておいて。
ある意味そういう活動だと思うんで。
アートというか絵画とかでもインテリアになるような絵を
ある意味インテリアとして売るために描いてる方がおると思うんですよね。
それっていわゆるアーティストというよりは
インテリアを作ってる仕事だと思ってる。
表現行為ではないと思ってる。
ただ人々の生活に彩りを与えるアイテムを作ってる人っていうことで言うと
工芸家とすごく近いなと思ってる。
でもこの人は画家ではあるじゃないですか。
その感覚とちょっと似てる。
だから日本は基本的にそうだったと思うんですよね。
日本的には例えばカノハとかおられても
フスマとかに描く絵だから
それこそインテリアの仕事っていうちゃんとジャンルがある。
例えば消失したり水こぼしたりとかしたら
また何かしらで置き換わるものじゃない。
要は5個の絵がなくなったらそれの代わりがないっていうものではない。
インテリアのフォーマットだから。
それ言ったら置き換え可能って言ってるような。
完全な置き換えは可能ではないんだけど
違う形で継いでいくような感じのものなんじゃないかな。
だからアーティストってその唯一無二さ。
だからゴッホだったりピカソだったりとか
今ちょうどゴッホ展やってますけど
実際なんでゴッホが出来上がったんだっけみたいな展覧会らしい。
家族がいたからゴッホって今価値があるよねっていう。
家族が全くゴッホの作品とかゴッホについて伝えてなかった今の価値
そもそもオランダでそんなに残されなかったんじゃないかっていう風によく言われるじゃん。
弟の奥さんとか。
だから今の伝統工芸って
その頃のレベルの脆弱さになってるんですよね。
今アートってもうちょっと進んでると思うんですよ。
家族の理解がないぐらいで
人類の宝になれるものが何の評価も受けずに消えていくっていうような
そんな弱い市場じゃもうないと思うんですよ。
きっちり評価を与えていって
ある意味第三者がちゃんと利益を得ていくシステムが
長い時間かけて育てられたと思うんですよ。
工芸はどちらかというと昔はもうちょっと潤ってた人たちがいたと思うんですよ。
それが逆行して本当に家族
僕が例えば全くの貧乏な家だったら
そもそも弟子入りした時も生活費がないんで
スタートしたら切れてないわけじゃないですか。
そういうような非常に不安定な業界になってしまってるという
人類の宝になるかもしれないような作品を生み出し売る人でも
本当に材料が買えなかったりとか
パートタイマーで働きながら作ってるから
一年で作れるの、このレベルしか手が切れないんですっていうのを
毎年出されてるとかいう事情もあると思うんですね。
何かしらで解決していかないと
このままだったら金持ちの子供しか続けられないような
それはアート界あるあるの話なんだけど
大規模にいける人ってお金持ち
今でもそうなんですか。
そういう側面もあります。
僕の恩師、師匠は昭和1年か2年間に生まれた人ですけど
僕らの頃は芸術って極童商売って言われて
それは道を極めるからじゃないですかって言って
医者かボンボンしか行ってへんねん
東京芸大行ってた人でしたけど
僕は工芸やってる家に生まれたからな
着るかもしれんっていうので行かせてもらえたけど
普通はそんな今みたいな
そんなヤクザな道進んでっていうような道やでっておっしゃってたんですよね
今でもあんま変わらない
変わらないと
希望がない
基本私の時は完全そうでした
私が美大行くって言ったらまずおばあちゃんから
海外にいるっていうのを聞いて
私そもそもアートやりに留学したわけじゃないから
おばあちゃんがめっちゃ止められて電話で
そんなんで食べていけるわけないとか
海外行った後アートに行こうと思うって言ったら
そうめっちゃ止められましたけど
うちは基本的に裕福な方だったので
当時は
その後めっちゃ莫大な借金作るんだけど
もう4人目だし
後継ぎいるしっていう風に勝手にね
結局後継ぎできなかったんですけど
そういう事情があったけど
例えば留学中に韓国から来た人たちが
一時経済的にちょうど韓国がまずくなった
通貨危機ですよね
一瞬にして帰りましたねみんな
それが象徴してて結局学費払えないです
年間400万以上払えないと
行けない学校だし
それなりだな
今はもっと高いと思うよ
僕もイギリスの留学でしようと思ってて
計算してたことあったけど
400万じゃ効かなかったですね
当時ちょうど3百何十万になっちゃったから
だんだん上がっていってね
だいたい生活費も含めて
少なくとも400万出せないお家は
留学はさせられない
日本の大学に
ウミ君タマビ行ってたじゃないですか
年間学費いくらでした?
言いづらいな
中知の話だよ
調べれば分かるけど
学費だけで200万ぐらいはしますよね
高材とかを買うじゃん
生活費もあるじゃん
3、400万ぐらい必要
僕も親戚の田舎の筋からは
何か社会のスネをかじってる
極潰しだとは思われてる可能性はある
100%思われてる
そういう目線を向けられてる
100%スネかじりですよ
これは認めない
親の骨までしゃぶり尽くしたという状況
日本ってロスジェネがいて
僕らロスジェネですけど
僕らの世代が今の大学生とか
高校生の親なんですよね
いよいよ親に金がない世代になってきたので
これは課題なんで
その中でいかに誇り高く物を作って生かせるか
せめて自分たちの代がやっていかないと
本当はもうちょっと前の代の人がやってもらえたら一番いいんですけど
それは僕らが提案していただいた銀座のギャラリーのオーナーには
全部言いましたよ
ロスジェネがどういう気持ちで生きてるか
それは私たちは本当に何もしてあげられなかったと思っている
だから今やれることを全部やらないといけないと思っている
やって死なないとあかんと思っている
珍しいですよ
そういうこと言ってやってくれる人は
本当にいないよねそういうことはね
実際に今何が起きているかって
美大の話ばかりして申し訳ないんだけど
中国人留学生めちゃ多いんですよ
やっぱり2つ理由があるお金がある
もう一個はビザが取りやすくなると
子供が日本に住んでいれば親とかいられるんで
なんで日本の教育を受けさせて
日本のビザを取らせて家族でいるっていうのが
今流行っているっていうのも新聞にもあるし
美大だけじゃないですよ
普通に他の小学校私立の学校とかも多くて
そうなると何が起こるかというと
日本で勉強している子供たちは日本語を話せる
親とかは日本語を話せない人がもちろんいて
そういう人たちがたくさんになっていくんですよね
近所で日本語が通じない人たちがいっぱい出てくる
今京都実際そうなりつつあってもおかしくない
それは悪いって言いたいわけじゃないけど
須藤さんの言っている日本で作ってきたものを
どうやって誇りを持ちながら寄付するかっていうのは
日本人がやる仕事じゃなくなってきちゃう可能性がある
このシーズン5バイメルさんのゲスト会から始まっていて
すごい強烈な感覚を持っています
話の流れとして
京都に工芸大学校あるじゃないですか
実際日本語できないってしんどい学校だと思うので
あんまり外国人率高くないと思うけど
ただ学校が存在危機になった場合に
1割残したあと9割外国人ですってなった場合に
日本語だけじゃない教育をするかどうかっていうのも選択だし
そもそも先生もそうやってたら
日本人じゃない先生がいつかいっぱいになってくるかもしれないし
それをどうとるか
僕はバイメルさん初めて海外の方
アジアの人も含めてお付き合いあるので
決して日本の美意識が海外の人が理解できないと思ってないんです
それはそんなことはないと思っているので
ただ非常にハードルが高いと思っているんです
バイメルさんが理解しているレベルのことを
それが露見しましたよね
つまりそういうスパンでやってたから
そういうあまり価値を生まないものをいっぱい作っていかないといけない
絶対そうなるでしょそれは
ラフシュモンズとか位置抜けたみたいなデザイナーとかもね
僕は少し前の議論で
須藤さんの作品によって新しく知った方から
アーティストっていう見え方をする場合があって
っていう話を受けてちょっと思ったのは
僕から須藤さんのお話をたくさん聞いてるからなんですけど
僕には須藤さんはめちゃくちゃ優れた翻訳家に見えてる
1800点とかの古美術の修復をして
そこの言語に誰よりも熟達してて
それがさっきも出たキーワードで
ロスジェネーズ世代の人が明治とかさらにもっと昔のものを
めちゃくちゃすごい解像度で理解してるものを
理解もそうですけど
それがちゃんと手としても備わった人が
ただ今ロスジェネーズ世代として
この2020年代を生きてる感覚の中から生まれたのが作品なんだっていう感じ
だからそこには須藤さんの作為っていうかアイディアみたいなものって
極端な話入ってないぐらいに
今まで習得してきた文化的な言語を
今の時代に翻訳して出したらこうなったみたいな風なものに見えるんですよね
それこそ須藤さんがおっしゃったように
それを次の今の20代とかの世代が同じ風にできるかといえば
古美術のマーケットが須藤さんが若い時ほど回ってなかったら
それだけの経験も詰めないし
同じことは難しいかもしれないですけど
でも年に3回自分の作品として出さないといけないみたいなことに
そのサイクルに巻き込まれたら
過去の文化的な言語を学ぶっていう機会さえ永久に訪れますね
これはやっぱり工芸っていうところの分野でいうとまずいですよね
だから僕は皆さんというよりは若いリスナーの方に伝えたいんですけど
前回ゲスト呼んでた時もその前も多分言ったと思うんですけど
アーティストって所有欲を満たす人じゃないと思ってるんですよ
この作品が今の時代に生まれたことに既に意味があって
誰かに所有されなかったとしても
これが今生まれたことを人類全員で誇るべきだと思う作品を作れなかったら
自分でアーティストって言わない方がいいと思ってるんですよ
だからどれだけ高かったとしても
個人の所有欲を満たすためのものを作ってる人っていうのは
インテリアを作ってる人と全然変わらないと思う
それが良いとか悪いとか全然下とか上とか言ってるんじゃなくて
アートをやってる人っていうのは
そういう使命感を自分で覆っていかないといけない人だと思ってて
海さんは聞いてくれましたけど
アーティストとして扱えたらどうですかっていう時に
自分が今回の作品については
今岩田さんもおっしゃってくれましたけど
2020年代にロス・ジェネレラとか行くことも多いと思いといて
この40代の作り手がこの作品を残そうとしたことについては
少なくとも自分一人では絶対生み出せなかったものだと思ってるんで
だから日本人もしくは
さっきも言いましたけど模様とか中国から伝わってきてる
道具とかは実はフランスとかスイスで使ってるような道具も
結構使って止めたりしてるので
いろんな国の英知が入ってるんですよ
その人たちにも一緒に誇ってもらいたいんですよ
この作品については
この作品だけについては自分がというよりは
みんなが誇れるものを生み出した人間として
アーティスティックだと思ってはいる
そこの責任を満たせられるのって
伝統工芸のある意味優位性があると思ってるんですよね
そういう部分を満たしていってほしいなと分かってた人にも
日曜美術館の坂本美恵さんの話に戻るんですけど
同じ年代だからのシンパシーがあったっていうのを言い換えると
この作品ができた時代に一緒に生きててよかったという喜びがあると
そう思ってることと一緒ですね
受け取ってほしい感覚ってそういう感じのことなんじゃないかなと