というわけで。
なんでこのタイミングで須藤さんを呼びしてるかというと、おめでとうございますってことで。
おめでとうございます。
バイバイ。
夏ですかね、発表されたのって。
そうですね。
8月に伝統工芸展、新人賞ってことで。
ちょっと笑いが出る感じかなと思って。
新人賞ですよね。
メディアアートシーンのエキソニムが新人賞をもらったような感じの違和感がちょっと私の中にはありますけど。
これからもお話いっぱい聞いていきたいんですけど。
今まで聞いてこなかった人もいると思うんで。
どっちかというと須藤さんは金属工芸に関することの知見みたいなかなり広いレンジで持たれつつも、
ご本人も技術的にはかなりの経験を積まれている。
かつ、千数百点でしたっけ、古美術の種族のご経験とかもあられて。
金属の加工のことは何でも聞いてもお答えもいただくような感じなんですよね。
伝統工芸っていうカテゴリーみたいなところっていうのは、
金属の工芸の関わりの中の一つのパートというか、
いろんな金属工芸の生息域がある中で一つのカテゴリーだと思うんですけど。
そこに接近しつつあるっていうふうな言い方でいいんでしょうか、須藤さん。
1回目、2回目って出させていただいて、話す内容とかもまだおぼろげにしか覚えてないですけど。
ただ、意識としては1回目に出た時は、自分が伝統工芸とか関わらず、
工芸というものの、大きい工芸というものの中の自分が完全に中心、基準みたいな位置にいると思ってたんですよね。
一番普通の工芸家って誰なんだって言ったら俺だろうと思ってたんですよ。
やっぱり立ち位置って相対的なものなんで、それだけつまり付き合いが狭いというかね。
すごくマニアックな世界にいたんで、当時はね。
だんだん広まってきて、工芸というのは生活工芸の人がこんなにいるんだとかっていうのは、
このラジオを通しても含めていろんな人と知り合ったりとかして、
どうやら伝統工芸ってだいぶ端の方にいるんだな、工芸の中で言うとね。
ただ伝統工芸の中で言うと、結構真ん中の方にいるというのが、2回目もしくは3回目ぐらいの意識だったんですけど、
今回その伝統工芸展を初めて出品して、
でもその伝統日本工芸界の人たちっていうのは、今の伝統工芸の基準を作っている人たちなんで、
結構浮いてたんですよね、その中でも。
そうなると、だいぶ端っこの方にいるんだなっていうのは、
ここ数年で、自分ってこういうところにいるんだっていうのはね、すごく認識が変わったんですよね。
正確に言うとあれですよね、全国の希望の伝統工芸展にこのたび新人賞で取られて、
近畿展の方では今年はお正月ぐらいに近畿展の中でも新人賞を取っての連続受賞じゃないですけど、
そんな2ヒットコンボみたいな、2025年ですよね。
ちなみに、リスナーさんも含め、私も含め、あんまり会っていうことがどういうものなのか分かってないから、説明してほしい。
伝統工芸展。
入賞するとか、どういうことなのみたいな、展覧会、ただの展覧会じゃないのかとか、その辺を教えてほしい、まず。
僕もあんまり分かってないので無責任なこと言えないんですけど、やっぱり工芸もいろんな切り口があったのも昔からあって、
例えば日展の中にも工芸部門があったりとか、その中でもう少し用途を持たせたようなもの、
いわゆる置物とかを金属で作って均衡だって言うよりは、
ちょっと用途を持たせたようなものを新しく評価していこうっていうのがもともと長いなっていうふうに僕は聞いたことがあるんですけど、
だから言うと、いわゆる伝統工芸というものの中に用途がいるんじゃないかっていう考えが一つあるとしたら、
それが一番大きい回なんですね。
あとはあれですよね、一番最初に出ていただいた頃の須藤さんの作品の、
須藤さんの仕事としての世に出にくさの一つの要因としては、作品ってものを作ってこなかったっていうことが一つあったと思うんですよね。
金製のものの修復とかで、それはなんかもう欠損してるからかなりの創造力で埋めててほぼ作品みたいなものがあるんだけど、
ドライに言ってしまえばクライアントワークだから、それは誰の仕事と言えばクライアントの作品というよりはっていうところがあったとは思うんですよね。
自在の修復にもおいても。
ここは我々も結構知り合って気が付けば何年も経ちますけど、5,6年だか。
結構ここにいる人たちみんなそれであった頃の立場がガラッと変わってる中で、
須藤さんもまあまあここ数年で変わったなって思うのが、
この作品を作っている作家さんが須藤さんですっていう知られ方をするようになったきっかけってここ数年の流れでは結構大きいと思うんですよね。
そういうところから例えば、須藤さんが直接お話いただいた方がいいと思うんですけど、
知られるようになったから出してみないかみたいなお声掛けがあったようにも聞いてるんですけど、その辺のきっかけとかってどうだったんですか。
そうですね、やっぱりずっと昔から可愛がってくれてた伝統工芸界の金工具、特に金器の金工具を盛り上げたいという方が、
作家さんがやっぱり地域も含めて、この地域でこの工芸を通して学ばせてもらったものがある以上は盛り上げる力をつけたんだから、
それを今度は構成も含めて責任を果たしていかないといけないんじゃないのという。
断りにくいですね。
絶対断れない。
断れないよ。
もうちょっと言うと、君のために今のタイミングで伝統工芸展に出しといた方がいいよって言われたら断ろうと思ってたんですよね。
それはもうその後ご本人にも正直に言ったんであれですけど、僕の今のことを考えると仕事をやったりとか、
もしくはオーダーいただいている作品を作って確実に売っていく、もしくは稼いでいくというのは今のタイミングとしては大事なタイミングなんで、
なのでそれを仕事も作品も納品を待っていただきながら新しく作品展を出すなんていうのはやるべきじゃないんですよね。
なので自分のためだと言われたら今の状況を言って断ろうと思ったんですけど、
一言目にスノークには何のメリットもないけど、だけど出してほしい。なぜならというのが先ほどの話なんですけど。
その中に会の運営の方針、いいとか悪いとかではなくて、活動としてやっている人が多い中で、その方はビジネス的な見方というかね。
もうちょっと出す側のメリット、受賞する側のメリット、関わってくる人たちのメリットが生まれるような動きってどういうものがあるのかというのを探りたいんだという。
ちょっとそういうニュアンスもあってね。
本当に単純に自分たちの利益だけではなくて、もっと大きい流れで考えると、今出してもらうのはすごく大事なんだというのを。
それが年末まで言ってなかったけど、12月何日かに言われて、1月20日が締め切りだったので、もう1ヶ月ぐらいしかないですよ。
作品の提出が1ヶ月?
そうだったんですよ。
ちょっと何作ろうかと思っていたら、今まで何個か作っていた巾着の形の、あれとか出してくれて嬉しいなというので、あれでいいんですかと言って。
ああいう伝統工芸店ダメなんじゃないんですかと言って。
全然もう、あんなの出してくれて嬉しい。
素人にはわからんつもりですね。
説明必要ない。
とりあえず、須藤さんが今回新人賞を受賞されたのが、正確な名前で言うと第72回日本伝統工芸店の新人賞を受賞されたということで。
今お伝えさせてもらったのは、その前にあった54回だと思うんですけど、近畿支部だけの日本伝統工芸近畿展というのがあるんですけど、それに出させていただいたときで、
なんとか作って、ひと月作って出して、松下幸之助記念賞というのが賞としてあって、それをいただいたんですけど、松下幸之助っていうのがパラソニックの創業者の方なんで、
やっぱり機械加工のベースにあるもの、加工技術っていうのの本当の故郷みたいなものが伝統工芸だから、守らないといけないというので、伝統工芸を特に関西地区はね、大阪の会社なんですけども、
関西地区は盛り上げるようにずっとサポートしてくださっているらしくて、そのパラソニックの今の文化部の方が、この作品が松下幸之助が生きてたら選んでただろうなと思ったんで、選びましたって言って。
それっぽいことを。
そうそう。響きもいいですって言って、すぐに言えちゃったんですけど。
嬉しいね。
まず聞いてる方に言うと、須藤さんの作品がどういうものかっていうことと、今須藤さんがおっしゃった、これ伝統工芸展出せるんですかっていうところのニュアンスが、ちょっとひとまず僕も全然わかってないんですけど、聞いてる人が実際のものを見ながら聞けるとするならば、
この第72回日本伝統工芸展のリンクを概要欄に貼っておくんですけど、ここで受賞作品、入選作品が全部画像で見られるんですよね。
金鉱っていう分野で選択すると61作にずらーっと見れるので、須藤さんの受賞されてるので一番上に載ってるんですけど、そこずらーっと見ていただいたら、この日本工芸界が選ぶ金鉱っていうもののジャンルの中でどういう幅があるかは、ビジュアルでひとまず聞いてる方には見ていただけるので、
ちょっとそれを見ながら、何が伝統工芸的でないと須藤さんが思われてたのか、みたいなところをどういう切り口で聞いていたいかわからないですけど。
言葉をだいぶ選ばないと言いにくい部分もあるんで、ちょっとうまくしゃべっていきますけど。
作品をちょっと口でも説明しうる限りでできる。茶道具の茶入れを包むような、私服っていう布でできているようなものを金属で作るっていう、結構、僕が昔聞いた限りでは須藤さんのわりかし渾身のギャグじゃないですけど、
っていうところから多分発想の厳選にあられたような気がして、簡単に言うと一見見たら、実際布でできたものと見守るもの、でも結構金属で実はできている。しかも細かいところまでできているっていうのが一番雑な説明としてはあって、言ったら模穀って言ったら変ですけど、携帯模写とも言えるかもしれないし、
そういう作風は僕は知っているからなんですけど、須藤さんの表すもののごく一部なんですけど、世に出方としては私服の須藤さんねってもしかしたら思われている可能性も含めて、ちょっと多分その話をしてもいいのかなとちょっと思いました。
ちょっと乱暴な説明になるんですけど、ちょっとそれを各語で言いますけど、人間国宝という人たちがいるんですよね。工芸にもちゃんといて、その人たちって何の技術を持っている人なのか。
人間国宝で、人間国宝なんですけど、正式名称は重要無形文化財保持者という。つまり、今回受賞している他の方が説明されてなるほどと思ったのでそのまま言うと、人間国宝というのは通称であって、無形文化財を保持している人なんだ。
文化財というのは技術に対しての評価であって、その評価されている技術を持っている人なんだというたてつけになっていますとおっしゃっていたんです。つまり技術なんですよね、その評価されているものって。
じゃあ技術って何なんだって言ったら、この人はこの技術について習得していると認められていますっていうのがちゃんと書いてあるんですよ。それが均衡というような大きい芝居じゃなくて、腸筋とか胆筋とかかまとかそうやって細かく分かれているんです。
だから、自分の持っている技術を駆使したものを基本的にはみんな出してこられるんですよ。僕が目指しているのは複合的な技術を込めている作品なんですよね。
そこにまず1個ちょっと自分のこの習得の特に作品が認められるのかどうなのかっていうののひとつちょっと引っかかりがあったというか。ただその長い今の世間の流れの中で文業生というのがなくなっていって、作家は結構複数の技術を身につけている方が多くなってきているので、
外中でやっている方もおそらくおると思うんですけど、だけど自分でやっている人も多いんでね。だから難しくもなっていて、何というか、胆筋の人がちょっと腸筋を入れようと思うとそれだけでやっぱり非常に難しい技術なので、どうしてもシンプルなものになっていくというかね。
だから複雑なものにしにくいというのが、全部自分で作ってしまいそういうことなんですよね。だからそれを伝統工芸的だというふうに僕は捉えていたんです。シンプルになっていきがちだというのが必然なのか、もしくはそういう方向性なのか、あまりまだ実はよくわかっていないんですけど。
保持している技術がわかりやすい作品ってことですかね、今の須藤さんの話を。
言ったらそういうことになりますよね。
須藤さんの作品だと思うんですけど、まず胆筋の成形技術があって、飾り付けの加飾の技術がありますよね。加飾の技術も何個かあって、7個の布に見える作業もあるし、片手で銀を埋め込む造眼の技術もあるよね。
かなりの技術が詰まっているわけだし、もっと言うと文様の知識とか、布を形態模写している作風上、私服はどうだったのかというナレッジというか教養も必要なんじゃないかなって思われるわけですよね。
だから須藤さんが一つのことに絞らなきゃいけないんじゃないかなっていうことの迷いは今の話でわかりました。
これはちょっと語弊があるかもしれないですけど、自分の個展ではないんでね。個展をやるなら好きにやってもいいじゃないですか。
やっぱり会の目指す方向というのもあって、一般の人でもおそらく金具がすごくいっぱい付いている木工の箱みたいなものがあって、金具も木で箱を作るのも全部一人でやってますという人がおられたとして、それを伝統工芸展に出すとなると、
ありなのってなる感覚は共有できると思うんですね。木工部門というのがあって、金工部門というのがあって、それを作業量でもまたいじゃってるようなものっていうのが、そういうのじゃないんじゃないのっていうのはわかりやすいと思うんですけど、金工の中でもあまりまたいでるとどう見たらいいんだろうっていうのがあるんじゃないかなっていうのは感覚としてはあったんですよね。
個人で私はいっぱい金属使ってるけど木工なんでとかそういう風に勝手に言う空気感じゃないってことですか。
言う空気感じゃないと僕は感じてません、今のところは。
結果、新人賞ということで、トントンと金木展と全国のやつ取られて、今日おめでとうございますって言ったのがそういう回だったんですかね。
やっぱり審査員の中でも、言うとね、初日に研究会っていうのがあって、各部門、金工は金工部門、木工は木工部門、各部門に分かれて、どういうところを見て審査したかっていうのを説明される会があるんですよね。
その中で、やっぱり葛藤があったのは感じたんですよ。自分の作品を評価するにあたって。葛藤があったんだろうなという審査員。それぐらいちょっと浮いてたんですよ、作品、展示会場で見たら。
どの辺に葛藤があると感じられたのか。
やっぱりね、コース数は一番多いぐらい多かったと思うんですよね、出品数の中で。それ単純に説得力があるんですよ。迫力も出てくるんですよ。
だから、わかったっていうのは思ったと思うんですよね。これ予想ですよ。だけど、会の趣旨とはだいぶ外れてるなっていうのが。会の趣旨とは外れてるけど、作品としては認めないといけない部分もあるなっていう時って、審査員がどちらを重視するかって結構難しい話だと思うんですよね。
伝統としてっていうポイントなのか、そうじゃないカテゴリーの見方っていうか。
既存のカテゴリー、というか既存の基準では当てはまるものがないって思った場合ですよ。
その基準っていうのも別にその方々の個人の裁量に委ねられてるわけじゃなくて、ずっと引き継いできた理意識があるんですよ。
73回?70何回目?
そうですね。
2年やってるってこと?
毎年やってます。
毎年やってます。
そういうことですよね。
だから、72年やってるってことですね。
だから、その中で勝手に変えられないわけですよね。
で、そこのジレンマもあると思うので。
例えば入選率みたいなものもあるんですけど、それも前年とあまり変わったらダメみたいで。
すごいモヤモヤするね。
今年は均衡全員合格ですとか基本的にダメだと。
だからやっぱり大きい会の中で各部門で、でも例えば均衡の人は基本的には均衡しか審査できないので。
なのでそこは考えてやってくださいと。
ただその審査の人たちもやっぱり自分は何の専門かっていうのが一応決まってる方たちなんで。
どこの専門にも属さないようなものが出てきて、手は込んでるかもしれないけど、
一質なものがポンって出てきた時に、どう審査するかっていう審査員の葛藤はすごく感じたんですよね。
言うとこういうのじゃないっていうような趣旨のことをやっぱりはっきりおっしゃってましたね、審査員たちは。
おっしゃってる。
だから僕も前もった知識がなくて出したし、前もった知識がなくその研究会に行ったんで、余計に何を言おうとしてるかその時あまりよくわからなくて、
なんだよとかって思ってましたけど、後々ずっと考えていくとやっぱり、
彼らというか先人たちも含めて何をしようとしてきたかっていうのがある中でそこはまだ理解しきれてないんですけど、
自分が少なくとも一質だっていうのだけははっきりわかったんですよね。
それがいいかはいいかっていうのはもうこれは誰にもわからないことなんで、
その中でよく賞をつけたらっていうのはすごく感じましたね。
これ宣外ってなったらまずいとは思ったんでしょうね、少なくからされたほうが。
宣外になった人がなぜ宣外になったか説明してもらえる権利はあるんですよね。
その時にやっぱり入れとくかとなったんだと思うんですけど、完全な予想ですけど。
なのですごく難しいところだと思うんですよね。
宣外にしたら宣外であるってことを説明することが難しい。
とは何ぞや。
とは何ぞや。
ちなみになんですけど、収録もそうだし配信もタイミングを意識してしまってるんですけど、
京都で10月の最初の週か、
そうですね、8日からですね。
その次に大阪でやってっていう中で須藤さんの作品も並んで、
須藤さんご自身による作品の紹介も現地であってっていうのに、
京都の会場で僕らも行かしてもらってお話も聞いたんですけど、
なので須藤さんの作品以外のものも各ジャンルのもの一通り僕らも見回ったわけなんですけど、
僕ら何の利害もないので、
ぶっちゃけというか、普通に一お客さんとして行ってみた感想は普通に話していいかなと思ってるんですけど、
まず均衡のことで言うと、
花瓶とか釜とか箱とか、なぜか箱が多い。
木工でもガラスでも何かと箱が出てくる。
筑工芸とかでも。
なんでみんな箱作るんやろみたいな、普通に素朴な疑問として。
蓋物か箱物か。
何かと箱だよなみたいなね。
さっきでも須藤さん言って用途って持ってるってことがまず伝統工芸で。
そこがそこなんだと思ったんですけどね。
もしも須藤さんの作品が蓋なかったらどういうことなんだっけとかもあるよね。
蓋なきゃダメっていう話でもある。
用途としてなんだろうね。
ありますっていうことは言えないと、
暗黙の了解としてそれは出しちゃダメっていうことですよね、たぶん。
さすがに。
用途が全くないものを、いわゆる本当の用途ね。
それが生活の中にあるかないかということではなくて、
全くの用途がないものは人形だけなんですよね。
人形はそうですね。
人形に何かの用途を持たせるというわけですけども、
人形は人形であるという時点で完結しているので、
例えば僕が金属を用いて人型のものを作って出すのは、
たぶん落とされますけど、ありなんですよね。
人形であれば、人形って人の形って感じでね。
人形であれば出せるんですよね。
そういうジャンルがあるってことですかね。
そういうことはしないようにというのはすごく言われると思うんですけど、
だけど、用途を持たせるというのは難しいところなんですけどね。
工芸のない立ちの話とかにもたぶんなってくると思うんですけど、
もともとそういうものから派生しているんだと思うんです。
用途があるものからそこに装飾生活が加わっていって、
もしくは権力者の権威の象徴だったりとか、
そういう権威的なものが加わっていって、より高みにいったというのが流れとしておそらくあると思うので、
そもそもがそういうものだということだろうとは思ってはいるので、
その中でアイテムとして何が出せるんだといったら、出尽くしてはいるんですよね。
それから柿と箱と鉢とかね。
鉢今回あったかわからないですけど、何点か出たと思うんですけど、その鉢とかね。
文鎮ってありなんですかね。
ただの置物に見えそうですけど、重い塊みたいな。
文鎮は、よほど良かったら、もしかしたら言えるかもしれないですけど。
文鎮って言っちゃったら何でもいけそうな感じもしないでございます。
用途はあるんですかね。
っていうのは、金器店というのが支部店というんですけど、
もしくは部会店というのが金工部とか、全国ですけど金属だけに限ったもの。
本店と部会店と支部店というのがあって、
その中には確かに文鎮のようなものが出てたことがあると思います。
ただ本店というのはちょっと文鎮だけでは厳しいかもしれないですけど、
僕も初めて出しただけで全然よくわかってないんでね。
ただ文鎮を出したら、皆さん作り手の気持ちになって考えてもらいたいですけど、
文鎮を出す、これがアンティテージとして出すんだったらいいと思うんですけど、
入選したいという思いがあるとなったら、文鎮を出す時点でちょっと、
一回そこで審査が入るわけじゃないですか。
これが箱だったら、箱関運とはならないんですよね。
文鎮関運というので、そこをクリアして初めて審査してもらえる、
これ知らないですよ。
そうなりそうだなという気持ちがあるんで、
だからちょっとここはアンパイ動画というかアイテムとしてはね。
だからハードルを分地にすることって上げるだろうということですよね、簡単に。
僕全然文外観なんであれなんですけど、
例えば工芸伝統、今は日本伝統工芸の話ですけど、
アートとかの領域で、そういうふうにすごいセクションがはっきり分かれている、
その章の中でっていうのはどのくらい分かれているものなんですかね、
アートの世界だったら。
現代美術なのかそうじゃないか的なのがざっくりとかもあるし、
現代美術しか私は詳しくないから、
ちょっと細分化されてはいる。
その使っているものが何だとか、
メディアアートっていうのはもう、
私ずっとディスって聞いてるんだけど、
メディアアートって何みたいな言葉として、
メディア使ってないアートって。
極端な話、何も言ってないみたいな。
メディア使ってないアートってあるんだけど。
メディウムを材料として捉えた時に、
それをハックして表現というところまで高めるという意味で言うと、
広い意味で言うと、工芸も同じようにメディアアートなわけですよ。
なんでメディアアートって何も言ってないですよねっていうのは、
石子さんはそういう意味ですよね。
だったりとかもするし、
デジタルアートってあんまり言わなくなったなとか、
ビデオアートはもうなくなったなとか、
あるんですよ、ビデオアートっていう枠は。
そういうアーティストももちろん、
でも今もういらっしゃらないというか、なくなっちゃってるから、
過去のカテゴリー扱いだし。
だから72年間部門が変わってないっていうジャンルが
逆に探そうと思ったら大変なんだよね。
難しいかもね。
日本画っていうのもだいぶ解釈がかなり広がってきたしね。
だしニカワで説いた何でもかんでもがね、
顔料というか、顔料の概念の領域を広げてる人は広げてるし、
それが例えば明治以降からある日展とか、
例えば定展とか、わりかしそれこそ伝統的な、
画壇って言葉もほぼなくなってますけど、
画壇ってものの改装で考えた時に、
もっといろんなアートの切り口が80年代以降出てしまっているんで。
全英アートって言われたらいつまでが全英なんだ、みたいな。
全英アートって言い方がもう古いとかね、
いろいろ出てきちゃうからね。
あとポストモダンアートとかね。
ポストモダン。
だいぶ擦られてるよな、あれもな。
ポストモダンアートとか。
ポストモダン。
ポストモダン。
だからやっぱり、あとは軽易的な章なのか、
教育現場なのかによって全然違って、
教育現場の方はどっちかというと、
もうちょっとそういうものを壊していきましょう、
みたいな教育の方がアート多いかなと思う。
なるほど。
だから話聞いてると須藤さんが起きてる状況というか、
須藤さんがこれ大丈夫かなって思ってる状況って、
アートを逆に、もうどんどんいけいけ、ゴーゴーって感じで、
特に教育的にはすごいこういうチャレンジしてる人、
見てくださいっていう風に言いたい。
そう、だからこれちょっと僕も本当に、
これは不勉強でね、
今までどういう作品が過去に出されてきたかも、
ちゃんと全然見もせずに出したの。
そこはちょっと神経っぽい。
そうなんです。だから浮いたんですけど、
ただ非常に新鮮に感じたのは、
僕もその作品に関しては割と厳しめのご意見が言われたら、
かつらさんという方が出された作品が、
白クマの形に化色、
白クマの形の金属が増顔されてて、
その白クマがプラチナらしいんですよね。
ぱっと見は銀に銀色が入ってるんで、
打ち出しっていう、
言うとそこにレリーフ状に薄い板を裏から打ち出していく技術があるんですけど、
それなのか、もしくは地下色のものを増顔しているのか、
何なんだろうなと思ったら、
プラチナを増顔していると純プラチナを。
プラチナってありなのかという話も出てくると思うんですよね。
伝統工芸って、その先ほどメディアの話がありましたけど、
メディアも選べるメディア、選べないメディア、
伝統工芸はあるはずなので。
アルミってどうなんだってなったら、
単像でアルミで作っている方がおられますけど、
単金でアルミってどうなんて言ったら、
伝統工芸だったら落とされるんじゃないかなと思ってるんですよね、僕は。
じゃあプラチナってどうなんだっていうのは、
これはわからないわけじゃないですか、僕らは。
その桂藩というのはお人間国宝で、
大ベテランのほうがおじいさんなんでね、当然ね。
こういう人たちがそういう若者が手を出しにくいような素材に
手を出していくっていうのは、一つの正義だと思ってるんですよね。
だから一つここで、
線引きが一つ前に進んだとか、ぼやけてた境目が、
プラチナまではオッケーになった。
切り金とかでは金箔と一緒にプラチナ箔を使ったり、
あの漆でもそうですし、するので、
プラチナ自体がそんなに今や工芸の中では浮いた存在ではないんですけど、
金鉱の作品の中で積極的に使っていく印象がなかったので、
そういうところも、ぼわっとしながらも、
どこまでがいいのだろう。
だけど皆さんもおそらく、
アルミっていいんかなって思われる感覚っていうのはあると思うんですね。
ありますね。
だから、アイテムも同じようにこれってアリなのかなっていうのがあるんですよね。
そこらへんがほわっとしながらも、
でも伝統工芸でこういうのだったら、
大体このぐらいの範囲に収まるかなみたいなのっていうのは、
一般の人もそこはあかんのちゃうっていうのを、
もしかしたら一般の方の方がより強く持ってたりする部分もあると思うんですね。
お話聞いてて、
伝統工芸店に関しては伝統っていうのが、
会の名前に入っているわけじゃないですか。
それを72年とか運営している運営サイド、
当然その中の人もどんどん世代交代しているわけですけど、
どう考えるかっていうことをトレースすると、
やっぱり僕ら実際に展覧会行って、
一通り回らせてもらって、今の話とかも聞くと、
やっぱり過剰にセクショナリズムが強いっていう風に感じるし、
一方でそのセクションを分けるルールがめちゃくちゃファジーだ。
言語化できないみたいな。
伝統って頭につけた会が72年維持しようとすると、
過剰に前例当衆的になるというか、
誰かこの世代のスタッフの一人が、
これは良いでしょって言ってしまったことによって、
何かが壊されることを、やっぱりみんな恐れているんだと思うんですね。
これは別に批判とかじゃなく、多分そういうもんだなと。
多分それはそれでこの会として、
そういう形で残っている意義がおそらくあって、
この世界は嫌だと思ったら、別の現代アートとかの分野に、
自分の技術を持って出ていったらいいわけじゃないですか。
逆に今すごい状況として面白いなと思うのが、
その伝統工芸展という分野にほとんど何の縁もなかった須藤さんが、
もうスッと入って一発目で新人賞を取ったっていう。
その中でその人たちがやっている解釈を、
表現をどう解釈していくかっていうのを審査の人たちはやってるんだろうなと。
そこに下手がうまとかいうのもあるし、
良い味みたいなのは、伝統工芸では良い味はダメ?
それはちょっとこの間全然違うけど、
同じ話なんですけど、書の話なんですけど、
久々に初夜で東京に行った時に、
池尻の昔あった中華料理屋が店の名前も変わってたんだけど、
店の名前は別にあるのに、
表にビャンビャン麺って書道書いてたんですよね。
これ今の時代に書きたかったんだろうなと思って、
難しい漢字があるんですけど、書く数がめちゃくちゃ多い。
創作漢字にも見えなくないけど、
これを今多分書きたかったんだろうなっていう、
ご時世も踏まえた上での。
それはある程度店の看板なんで、
物を売りたいっていうのももちろんあるんですけど、
一つのコミュニケーションの接点として、
店の名前じゃなくて、ワードを選んだっていう感じのことを、
僕もそんな深く考えるところじゃないんだけど、
考え込んじゃったなって思いました。
それと私の良い味は全然話違う。
だからそれは、ビャンビャン麺って見たことない漢字を見ても、
下手かどうかは分かるわけですよ、須藤さんの話でいうと。
これは良い漢字かどうかっていうのは少なくとも、
信仰の払いとかそういうのぐらいは、
吉橋を判断できる感性はあるって話なんでしょうか。
僕は須藤さんの話はすごくよく分かって、
イギリスだと思うんですけど、
番組とかを日本でたまに流してる、
イーテレとかで流してるのがあって、
ソーイングビーっていう番組があるんですかね。
イギリスの料理番とかもありますよね。
あれで即席である材料で2日間とか1日とかで作らないといけない時に、
やっぱりここの上がりが悪いっていうのを厳しくチェックしていくんですよね。
表現と服が多いですけど、
服として良いかどうかっていう評価と、
ここがすごく詰まっちゃってるとか、
縫製が悪いとかっていうのがすごくダメ出しがあって、
そこが綺麗な時も過点があって。
僕はヘタウマは、
これは民芸の回もしくはポップアートの回とかでも話しましたけど、
コート材がある材の部分だと思ってて、
縫製が悪い服を味だっていうのは、
ファッション業界は少なくともほとんど言ってこないんですよね。
やっぱりそれは、
例えばこうヴィンテージ風だとかっていうのは一個商材としてありますけど、
だけど縫製が悪いのがヘタウマでいいよねっていう売り方は絶対してこないので、
きっちりしてるっていうのは大前提としてどうなんだっていうのを、
工芸はそこになんか素朴さだったりとかね、
っていうのを入れようとするのはやっぱり、
大きい長いとしてはネガティブな方が僕自身は。
だからリックオウエンスっていうブランドありますけど、
擦ったそばからどんどんほつれていく服。
それですら確かに縫製のことは言わんもんなとは今思う。
で、それを例えば、
そういうのもあっていいと思うんですよ。
ヘタウマもヘタウマもあっていい。
なんかこう、なんですか、
ちっちゃい料理屋のトイレとかに貼ってる、
絶対に出てくるだろ。
ああいう層もいいじゃないですか、別に。
素朴で味があって。
それがダメだっていうことじゃなくて、
それを日本なんとか店、
例えば日展の書道部門で評価してしまったら、
それは違うだろっていうのは多くの人は感じると思うんですよ。
日本がもういろんな解釈があるけど、
一番保守的な、いわゆる、
これはもう何度も言いますけど、
いつの時代も新しくも古くもならないものを
誰かが作ってはいかないといけないので、
だから小僧院とか、もしくは平安とかね、
ずっと大きい流れの中で、
どの時代の中にも違和感なく、
それは厳密には違和感がありますけど、
違和感なく混ざっていけるものっていうのを、
誰かが作って続けていってるっていうのが、
やっぱり伝統工芸店の意味でもあるかなと思うので、
だからそこにあまり創作性を入れてしまうと、
だから書道店にビャンビャン面でしたっけ、
出してこのチョイス面白いとかっていう解釈を入れてしまうと、
やっぱりそれは別のところでやっていただいて、
伝統工芸店は今の流行りとかって、
言うと10年後の時代遅れになっちゃう可能性があるので、
そうならないような評価基準を一つ作ろうとしているというのは、
自分なりに何でダメ出しされないといけないんだという答えなんですけど、
だからその中でプラチナを使おうとする姿勢、
今後プラチナを使ったやつがどんどん出てきた時に、
いいのかこれって誰がやり出したんだってなりかねないわけですよね。
その出された方というのは人間国宝なんで、
落ちないんですよ。
落ちないとか自分が出したくなくても出さないといけないんですよ。
出さないといけないんだ。
だから出して並べないといけない。
そういう方のご自身の役割も分かってらっしゃる上で、
そういう方がその素材の線引きの了解を探っていると思うと、
頼もしいと言えば頼もしいですね。
その人がそうやってやっている方や僕みたいなまだちゃんと分かっていない方が
無茶してきて、これどうするねんっていうのは多分あったと思うんですよ。
実際に聞いてみたいですね。
聞いてみたいですね。
僕はでも、それでも賞をくれたんだっていうのは、
どんなことを言われても、だけど評価したから賞をあげてるでしょうっていうことなんで、
どんなことを言われてもお礼を言ってきましたよ。
伝統工芸の捉え方はいろいろあるんだなって話を聞いて思ったんだけど、
とある伝統工芸をやっている人たちとコラボを昔してた時に、
伝統っていうのは壊して変えていくから残るんだっていう風に言ってた人が一人じゃないんですよ。
結構いる。
それはよく聞くフレーズでもある。
よく聞くフレーズでもある。
でも今の須藤さんの話だと、時代性とかを感じさせない、だから永遠にあるものを守っていくっていうのが伝統工芸だとしたら、
壊した新しいものを作るってまさに真逆。
僕は壊して変えていくっていう行為って、言い方変えると、
残すものをチョイスしてそれ以外を変えるっていうことだと思うんで、
残すものを選ぶことからまず始まると思ってるんですよ。
それをはっきり出せてないので、伝統工芸展が。
だからコピーばっかりは一人歩きしてて、変わっていかないといけないというニュアンスの話をしてるんですけど、
だけどガーンて無茶苦茶変えるのは嫌なわけじゃないですか。
だから残すものを先決めて、それを宣言してほしいと思ってるんですよ。