アートルームへようこそ。この番組では、部屋に描けたいアートを紹介しているDE アートの活動の一つとして、作家紹介や展覧会情報をお届けしています。
今回は、画家の川田祐子さんとの対談をお届けします。 川田さんの方から、一緒に対談をしましょうとお誘いがありまして、二人で対談をすることになりました。
以前から川田さんの活動を私は応援していて、作品も一つ持っているんですけれども、油絵ですとハッチングっていう技法だったり、スクラッチっていう技法だったり、
すごく細い線で描く表現というのも素敵なんですけれども、お花とか植物っていうのをぼやかして描くような技法もされていて、
油彩もとても素敵で題名もみんなそれぞれ面白いんですけど、私が持っている作品は春町草という作品で、植物を描くような作品とか風景とかお花とか植物をそのまま細密に描いているのではなくて、
イメージの中に出てきてくる細密なような、なんて言ったらいいですかね、ぜひYouTubeやウェブサイトをご覧いただきたいと思います。
概要欄の方に川田さんのウェブサイト、YouTubeの方を貼っておきますので、ぜひご覧ください。
今回の対談では、川田さんが私のことをどういう人だろうということで、どちらかというと、私のことを話している回になっています。
川田さんのYouTubeの方でも動画として流れていますので、ぜひそちらもご覧ください。
前編後編でお届けします。
ではお聞きください。
木村さん、今日はどうもありがとうございます。
ありがとうございます。お呼びいただき光栄です。
一番最初に初めて1月の7日でしたっけ?
はい、今年の1月7日に応援しました。
お話聞いて、すごいなもみつな話を聞いちゃって、私一人で聞くのは本当にもったいないなと思ったので、
今日はじっくりとお話を伺おうと思うんですが、木村さんはそもそも現代アートの世界をどういう形で出会いましたか?
そうですね、一番初めに現代アートに触れたのは高校生ぐらいの時で、近所にできたギャラリーに出入りしたことがきっかけで現代アートを知ったっていうのが一番初めでした。
私がその高校生ぐらいの時には、それこそ日本ではラッセンとかヒロイン・ヤマカタっていうすごい大量生産される版画っていうのが流行っていた時期で、
私は美術の教科書と、見る潮流の流れでラッセンとかっていうのを見ていたっていうぐらいの知識しかなくて、
その時にすごい前衛的なギャラリーがたまたま近所にできて、そこでちょっとわけがわからないけど面白いっていう展示をたくさん見たことで、
現代アートっていうのがあるんだっていうのを知ったのはその時期でした。
どんな作品がそこでは展示されていたんですか?前衛って言われてましたけど。
そうですね。モノハって言われる方の立体デリーフとかそういう作品から、あとは、私その時全然よくわからないで見てたので、
今思い返してあれは何だろうっていうのはちょっと言葉に言えないんですけど、
写真は写真でも何か実物が写ってる写真じゃなくて、ぼやけたものの写真と言葉がセットになって展示されていたりとか、
あとはその抽象画って呼ばれるものがあったりとか、
言葉にはできないけど、なんかそこにいる大人たちが何か話してるのを聞いて、なんか面白そうだなって思っているっていう出会いです。
そのわけのわからない話をされている人たちっていうのは、サッカーとかサッカーの友達とかだったわけですか?
そうですね。そこにいる方たちは美術家だったり、美術家の方とか陶芸家の方とか書家の方とか、
あと普通に保育園の先生とかもいて、そのなんかいろんな人たちがいる中で話をしているのを近所の高校生が聞いているみたいな感じでした。
そういう話の中に木村さんは入っていけたんですか?
そうですね。ただ聞いているだけですけど、そこに全然いていいよって感じだったんで、高校生私しかいなくて、
あとみんな50代以上がいる人たちがいるみたいな。サッカーさんも若くて30代ぐらいなのかな、みんな大人の人たちっていう感じで、
そこにただ行ってたっていう感じです。
それはもう毎日のように行ってたって感じですか?
大体週替わりか2週間ぐらいに1回展示が変わるので、それごとに気になるので、今回何やってるんだろうっていう感じで見に行ってたっていう感じです。
ギャラリーの人とは親しくなりましたか?
そうですね。ギャラリーの方が美術にすごい精通している方ではなかったので入りやすかったです。
ギャラリーの方は一旦自営業していたところをお辞めになって、次の人生として自分の好きなことをするというので始められた女性のオーナーの方で、
その方がコーヒーを入れてくれて、そのオーナーの方はそんなに美術に精通してなくても、すごいなんか包容力があって、
いろんなことを言ってる作家さんたちを外から温かく見てるみたいなギャラリーのオーナーさんで、
私もそっち側の目線で、私もちょっとよく美術その時はまだわからないけれども、外側から見ていて、いいよいいよみたいな感じでそこに出たので、一緒にいるっていう感じでした。
女性の方だったんですか?
そうです、オーナーの方は女性の方でした。
それで木村さんは、いろいろその後美大に行こうかとかいろいろ考えたんだけど、結局そういうふうにはならなかったっていう話はちょっと別に置いといて、
それであるギャラリーというか美術館というか、そことの出会いの話をちょっと知ってもらいたいんです。どういうきっかけで?
私は都道美術館っていうそことまでは銀座にあったギャラリーにスタッフとして勤めていたんですけど、きっかけは、
私は専門学校に行って出版社で営業の仕事をしてたんですけど、ちょうど20歳ぐらいの時に。
その時に2年ぐらい営業して、やっぱり絵のこと何かやりたいなって思って相談したのが、
一番初めに私が近所にできたスペースユーっていうギャラリーだったんですけど、そこですごい親しくしていただいた、その方も女性の作家さんなんですけど、
その作家さんに、実は仕事を辞めて絵を描こうと思ってるんですっていう話をしたら、ちょうどちょっと人手が足りないところがあるから行ってくれるって言われたのがスペースユー。
その美術館の女性の方と、その都道美術館の奥様が大学時代から親しくしてたってことで、その都道美術館を応援する一人だったんですよね、作家の方が。
なので、そのつながりで都道美術館に行って働くことになって、そこからまた現代美術とがっつり向き合うことになります。
都道美術館のことを、私もちょっと接点があって、1998年頃に一度この展をしてるんですよね、都道美術館でね。
でも都道美術館っていう名前のギャラリーなんですよね。
でも、もともとは町谷のつくし野にご自分の自宅をギャラリーにして、いろんな方が出入りするようになって盛り上がって銀座に移ったんですよね。
そうなんです。
一枚の絵との出会いから、美術の世界に入っていくんですけど、須藤一郎さんとのりこさんというご夫妻で、池田二重ステーキ美術館で菅総吉展っていうのをたまたま見た。
旅行の会議、たまたま見ただけなんですけど、そこで衝撃的な出会いをしてしまって、そこからその絵の世界に入っていくっていうお二人で、
自分たちでコレクションしていくうちに、これは自分たちだけで見ているのはよくない。いろんな人に見ていただくべきだって思って、町谷のつくし野で自宅を開放して作った美術館が須藤美術館の始まりで、
そこから10年経って銀座にギャラリーを構えて、そこでまた10年ギャラリーとしてやっているときにちょうど河田さんの個展があったり、私も河田さんの個展のちょっと後ですね、2000年くらいからスタッフとして働いたりっていう時期がありました。
主にどんな仕事をされていたんですか?
そうですね。作家さんが展覧会をするので、作家さんの展覧会の準備から、準備っていうのはDMを作ったりとか、あとはお知らせプレスだったりとか、作品が来た販売室もそうですし、あとは販売もそうですし、そのメインの流れとしては作家さんの展覧会っていうのがあるんですけど、
その他に、例えば作品を購入していただく方を企業さんだったりとか、コレクターさんなり、やっぱり作家さんと会一定の方をつなげるっていうのを館長と副館長がしていて、それのサポートっていうか、私たちは絵を運んで持って行ったりとか、そういうことをしていましたね。
あれですよね、須藤一郎さんっていうのはその時まだ保険会社にお勤めで、それで奥様が中心になって、ギャラリーの販売はされている感じでしたよね。皆さんに勧めているって感じあったかな、私のイメージの中には。
そうですね、町田時代はそうだったと思いますので、銀座に出てきてから店に退職して出てきたので、お二人で始めてという感じですかね。アイディアを奥様が出していて、ご主人の須藤さん、館長が企業さんとかにお手紙書いたりとかっていう、そういう仕事をしていました。
保険会社さんって、やっぱり顧客さんっていうのがね、あらかじめ知っているお会社関係とかをたくさん握っているんですよね、その連絡先をね。
それはちょっと私はわからなかったんですけど。
そうそうそう、だからすごくスタート的にはね、銀座で開くっていう感じでは、すごいいい感じは確かに見てて思いましたけど、ただやっぱり家賃が高いからね、銀座ってどうですか、家賃って。
相当あると思います、相当。
毎月。
毎月、それがすごく大変だと思います。
あの時銀座の4丁目でしたっけね。
6丁目か8丁目か、東銀座の方が近かったんですね、駅で。
そうですけれども、松坂屋、松屋かな、松坂屋の裏かな。
それで3階か何か、2階だったかな。
3階か4階。
4階か。
ちょっと上の方でした。
エレベーターで上がった経験が。
エレベーターで上がります。
だから作品がエレベーターに入らないと展示できないよね。
確かに、はい、そうです。
だから私は展示した時は細長いね、それこそ幅が60センチとかに分割したような、縦長のね、縦は180くらいあるような、そういうのをたくさん作って並べたっていう展覧会だったんですよね。
場所は広いんですよね。
そうそう、なんか結構広くて、で、なんか隣っていうか、たった一つのスペースじゃなくて、ちょっとね、鍵型で脇の方に小スペースがあって、そっちも常設展ができてみたいな。
そうでした。一つ大きくできる会場はあるんですけど、それを二つに分けて、小さい方と大きい方って分けることもできるので、3パターンですね。
小さい、中ぐらい、大きいっていう3パターンに、一つの壁で調節できるっていう作りで、その他に手前に常設というか、ちょっと机を置いてゆっくり見れるスペースがあるんです。そこは常設でやってました。
なんか人が集まる場所があったんですよね。なんかテーブル囲んでね。すごいゆったりとしてるっていうか、贅沢なギャラリーで、それで、なんか同時開催してましたよね。
大きい企画展と小さい方の常設だったり、いろんなグループ展だったり。
はい。いくつかのパターンで使い分けられるような作りでした。
それはレンタルをする作家もいたり、この須藤さんで選んで声かけた作家もいましたよね。
レンタルとしてもやってますし、企画展としてもやっているっていうのは確かにそうです。
年に1回、公募展があって、応募された作家たちのまず展覧会で、その中からセレクトされると、次の年に大きな企画展をやってもらうっていうのもありましたよね。
若き画家たちからのメッセージ展っていうので、それ町田のつくし野で自宅でやっている時代から始まったもので、まず全員館長と副館長面談するんですよ。
作品を見るのもそうですけど、その人がどんな人か、どんなことを思い描いているのかとか、どんな風にやっていきたいのかとか、面談でその人っていうのを知りたいっていうので、
全員面談をして、そこからじゃあお願いします、展示しましょうということで、一時面接みたいな感じです。そこでじゃあお願いしますってなったら、そこで皆さん新作を作るんですよ。
新作を展示するので、新作をじゃあ今回20人展示しますとか、じゃあ15人展示しますとか、結構20人前後が結構大きい企画としてそれをやっていて、1年に1回やるんですけど、
そのメッセージ点で、まずはじめは館長と副館長とか、あと学芸人さんとか、いろんな多摩美術さんとか学芸人さんとか、みんなで見て、どの作品がいいだろうかっていうので対象を決めるんですね。
対象を取った方の得点として個展を開きます。それを重ねているうちに、銀座に来る頃にはもう10年、町田つくし野で経ってるので、
結構受賞者がいるんですよね。受賞者の方たちも審査員になります。
そういう形式だったんですね。
みんなで話し合うんですよ。どうだった?オープニングでみんな作品を見て、みんなで意見交わし合ってどうだった?っていうのを話して、最終的に館長と副館長が、じゃあこの人たちに対象を渡そう。
1人だったり2人だったりする時もあるんですけど、それで決めるっていう感じです。
結構たくさんの作家が集まってきたから、たくさんのお客さんが来るギャラリーだったし、本当に深かったですよね。
ギャラリーと作家さんとの関係とかも、すごくよくコミュニケーションが取れていて、家族のように思ってるっていう感じでしたよね。
そうですね。やっぱりお家から始まっているギャラリーなので、その雰囲気がずっとあって、なんか、いらっしゃいっていう感じで、来た時に、来たねみたいな、久しぶりですみたいな雰囲気がずっとあったので、
作品をただ立ち寄って見るっていうよりは、ちょっと一口お茶飲んで、お茶とお茶菓子をお一人ずつ出すんですけど、頃合いを見て。
展示が低いんです。館長と副館長のこだわりとしては、展示を低くして座った目線で見た時に、ちょうどいい感じにしてるんですね。
座ってゆっくり作品と向き合って、見ていってほしいっていうのがあったので、必ず椅子がそこにあって、そこにお茶を出しして、ゆっくり見ていただく。
で、作家さんもいることがほとんどなので、作家さんと話をしたり、館長と話をしたり。館長とか副館長に会いに来る方もたくさんいて、話に来るっていう。
野里子さんっていう人は、熟の先生だったんですよね、奥さんがね。
そうなんです。私はすごく知らなかったです。でもすごくいろんなことできる方でした。
そうそう。だからね、すごく自分より若い人たちを扱うのはすごく上手で。
そうですね、すごく上手です。
そう、変に気を使わないし、変に子ども扱いしなくて、しっかり大人扱いするっていうか、なんだけども、しっかり自分のやってもらいたいことも指示する。
そうそう、すごい上手です。
すごい。
人を巻き込んでいくのが上手なんですよ。
そうね、すごい、なんていうか、見た感じは普通の主婦の方って感じだったんだよね。
なんかね、肝っ玉母さんみたいな感じで。
それで、アーティストとか美術の世界の人ではないなとは思うんだけども、すごく話しかけやすい感じは確かにありました。
そうですね。
やっぱりそこに集まる人たちも、なんか初心者でもなんか入りやすい雰囲気はありましたよね。
ありました、そうですね。
そんなに専門性を立ってないというか、なんていうか、やっぱりお家に来てくれた人という感じの扱いなんですよ、いつも。
うんうん。
なんか、お別れに来ましたみたいな感じの扱いで、そこに必ず作品が置いてあるっていうだけで、
あんまり賢くなった感じとか、現代アート分からないとか、全然そういう感じがあっても平気っていうのがありましたね、雰囲気として。
私もね、すごくよく、私の知っている作家たちもよくやってたし、
1回やって、様子もよく分かって、話も。
私もね、作品買ってもらったことがあるんですよね。横浜で、ほんとの初期展覧会やった時に、
大喜堂画廊っていうのは横浜にその当時あって、その画廊に須藤さんご夫さんいらっしゃって、
なんかね、このぐらいの作品買ってくださったんですよね。
それがきっかけで行きますっていう感じで、
須藤さんの奥さんの方、本当によく作品を買ってくださっただけじゃなくて、いろんな方に売ってくださったりして、
なんかね、すごい勉強になったっていうか、
どうやって作品をうまく嫌味もなく、嫌な気持ちもしないように、
この積極的に売るかっていうのをすっごいうまくって、
その後の私が、なんか作品が売れたのは、そこで須藤さんの奥さんが、すごく悪気なくね、
なんていうか躊躇することもなく、しっかりとね、もう確信を持って、この作品を買うといいですよって、
勧める姿がね、すごい印象的で、
多分副館長はすごく好きな作品なんですよ。
自分の、これは間違いなくいい作品っていう確信がある時は、多分そうなると思います。
やっぱり確信を持っていい作品って思ってるので、
これをお家に飾ったり、例えば会議室に飾ったり、絶対いいよねってわかってるっていうのが、
多分確信としてあると、私はなんとなく思っていて、
で、館長も副館長も、こう作品を見る時に、
2人よくね、言うんですけど、私たち全然気が合わないけど、作品に関しては一致するって、よく2人は言って、
これはいいっていう作品が、一致するんですよ。
なので、こういいと思ってるものを勧めるっていう、多分そういうモチベーションがあっている気がします。
そうは言うものの、結構やっぱり経営が大変なんだろうなっていう感じもすごくあったんですよね。
そうですね、経営はすごく大変だったと思います。
いつも2人はそれをすごく考える時間が多かったと思います。
お金に関しては、家賃っていうものが必ず発生しますし、
で、コンスタントに売れていくっていうものではないので、絵画とか作品っていうのは。
しかも2人がしていることは、売るっていうことと全然関係ない草の根活動みたいな美術の活動を、
すごく力を入れてやってたので。
どんなことだったんですか、それは。
そうですね、それは、例えば出前美術館って言って、
どこかの場所に作品を持って行って展示して、そこの場所で見ていただくとか、
金沢のガローさんに持って行って、そこでストピース館の展覧会をやるっていうこともありましたし、
あと横浜のラポールっていうところがあるんですけれども、
そこの会館で大きな展覧会をやったりとか、
そういうところは販売しないので、本当に美術とか、
現代アートっていうものを広げるっていう、そういう活動にすごく力を入れてましたね。
あとは若い人たちの応援として、留学制度っていうのを作って、
スペインにいる作家さんと連携してやったりとか、
あとはアーティストインレジェレンスにも力を入れてましたし、
誰もね、ビジネス的なお金になる仕事ではなくて、
やっぱり草の根的な活動っていうところにすごくウェイトを置いていて、
それは特に和田原に移ってからはすごく広くやっていたそうなんです。
私はどうだあの時代にあまりいないんですけど、
その時は高橋たまえさんがもう全面的にバックアップを支えて、
高橋さんは26年ぐらいずっと須藤美術館を支えている方で、
ご自身も作家活動をしているんですけど、
その高橋たまえさんと他の作家さんも支える方がたくさんいらっしゃって、
そこでアーティストインレジレンスを日本でやったり、
海外で招待されるところに作家を招待したりとか、
いろんなことをそれはしていましたね。
私が知っているのは、ちょうどケルのアートフェアに須藤美術館がブースを買って、
出展するっていう話を聞いて、
何人かセレクトした作家さんたちに声をかけて、
ドイツ語をちょっとね、私ができるから、
なんかその話を振ってきた時に、
それで誰がお金を出すんですかって聞いたら、
作家さんたちが出し合うとか、何とかするって言ってて、
それをしたい人がお金を出すっていう方が、
やりたい人が集まるんじゃないですかね、みたいに言ったんだけど、
須藤さんとしては、自分の行ってもらいたい作家に声をかけて、
何とかお金を年出したいんだけど、
それはすごいお金がかかることだからね、アートフェアってね。
どうしたらいいでしょうって言われても、
お金を出していきたいっていう人に、
出してもらうしかないですかねって言ったんですよね。
その辺からなんか大変そうだし、
私も別のギャラリーに移籍したわけではないんだけども、
たまたま声がかかって展覧会やったし、
でも私が母家展、上野の森美術館で選ばれて、
展示している時も見に来てくださって、
須藤さんはまた来てくださいよって言ってくださったんだけども、
なんかそのまんまになってしまって、
やっぱりすごくやりたいということと経営ということが、
なかなかうまくかみ合わないって話はいろんな方からね、
須藤さん以外にも聞いたんですよね。
その辺は木村さんはそこで接点があって、子育てもあって、
そんな深くはわからなかったかもしれないけれど、
どうですか、そこの経営の雰囲気というか、
アートの世界のお金事情とかそういうことって、
何をどう感じてきましたか。
そうですね、普通のプロダクトというか、
普通に日常で使うものみたいにコンスタントに買うものじゃないので、
アート作品って。
やっぱり良かというか、そういう方に回りがちなものだと思うんですよね。
だけど、私もそんなにお金があるわけじゃないけれども、
少しずつ作品を買って、家にかけてっていうことを楽しむことはできるんですよね。
20代くらいから少しずつしていることなんで、
20代くらいまでお金ないので、
だけどそこにお金を出す方がどのくらいいるかっていうと、
結構わからなくて、
だから本当にコンスタントに売れるっていうものじゃないっていうところが、
経営の難しさだと思っていて、
それを欲しいなって思っている方と、
それを売りたいなっていう場所のマッチングというか、
接点もすごく結構狭くて、
その辺が経営に直結して難しさになってるなと思うんですけど、
広く調べている感じではないと感じていて、
ただそこで銀座っていう土地柄もあって、
アートが好きな人たちはいっぱい猫を見に来ると思うんですけど、
やっぱり市場が狭いんですよね。
なので毎回買えるものでもないし、
いいなと思っても、次までちょっと我慢しようっていうこともあるし、
だけど10年間銀座でやって、
その経営の苦労っていうのがあった中で、