そのスタッフの方を抱えて、スタジオをやって、ブルックリンで、
ドキュメンタリーのときの金額は確か月700万円とかスタジオのありましたけど、
いわゆる組織っていうキーワードで、なぜスタジオを作り、チームで、
全部が全部チームじゃないと思いますけど、創作するんでしょう、このきっかけも含めて。
当然一人でやっていくっていうこともあり得ると思うんですね。
いろんな意味で、人をマネジメントしたり、当然お金のこともそうですし、
クリエイティビティを一人でドーンと集中したものの方が、
それこそコロナ対策、大きい方のクラスターも拝見して、
やっぱりああいうものの素晴らしさっていうのはわかりますし、
僕もチームで仕事することの価値はわかるんですけど、
それでもなぜかなっていうのを改めて伺いたいんですけど。
ニューヨークがちっちゃい町だからなんですよ。
ちっちゃい町?
本当にニューヨークってちっちゃいんですね。
東京と人口はほぼ同じなんですけど、
都市機能として文化機能、経済機能を果たしているエリアっていうのは、
僕は東京って結構世界で一番大きい都市だと思ってるんですけど、
実際マンハンタンってちっちゃい島で、
その中でそういう機能があるのって、
ウォール街くらいからタイムスクエアくらいまでなんですよ。
それって数キロ範囲なんですね。
その中で文化ってなると、さらに上下がなくなって、
本当に半径2キロくらいのエリアなんですよ。
東京で言うと、本当に新宿、原宿間、渋谷も行かないです。
なんだったら行駅の途中くらいまでなんですよ。
そんなちっちゃい町の中ですよ。
縦は高いですよ。建物もいっぱい高くなっていくんで。
そんな中でニューヨークって、
外遊に行けるんじゃないかってみんな思うんですよ、自分は。
だってもう見渡せるわけですよ、自分のフィールドが。
サッカーフィールドぐらいのように感じるわけですよね。
だから自分もゴール一発決められるんじゃないかと思うと、
全然決められないんですよ。
実は後ろで繋がれてて、一歩前に行かせてくれない。
行っても行っても届かないから、層の厚さっていうのを年々感じていくんですよね。
ニューヨークってすごいタフな町なんで、そんな中でみんな気落とされていくんですよ。
そうした時に、世界のちっちゃい限りにニューヨークで自分のポジショニングを取れれば、
世界でのポジショニングになるっていうことの距離感を、実は地球南進するよりも遠かったっていうことがわかったんですよ。
一人じゃ絶対できないって痛感したんです。
じゃあ人の力を借りるっていうことでもなくて、僕のやりたいことっていうことをニューヨークでできれば、
アーティストが残りたいと思う歴史のチャレンジもできるかもしれない。
世界各国に自分の作りたいっていう言語を共有できるかもしれないっていうのが、
ニューヨークで世界で一瞬に伝染できると思ったので、
そうした時に一人じゃ自分の限界があるっていうことだったりとか、
ありがたいことにニューヨークで同世代でバンバン活躍したアーティストを見てた時に、
やはりチームっていうよりは、自分が作れる環境を整えるっていうことなんですね。
その中ではコミュニケーションを図れるプロだったりとか、
いろんな人がいることで、より自分が自由になっていくんですよ。
だから日本でアーティスト授業を持ってやってると、
すごくビジネスマン的で経営者と思われるんですけど、
実は逆で自分のクリエイティビティを高めてるんですよ。
ものづくりの中で、例えばパブリックアウトでモニュメントを作るってなると、
何十人の人が関わって、ゼネコンさんも関わっていった時に、
僕はいい意思決定だけをしたいんですけど、
そこで意思決定を図ってくれる強力なチームがあって、
意思伝心で僕の持っていることをみんな一個になってできれば、
すごい作品がどんどんできていくんです。
自分の中で名作って言われるものを100点作っても、
200点、300点作るモンスターがニューヨークにはゴロゴロいるんですよ。
だから今、日本目線ですごくこう言っていただけるのはありがたいんですけど、
僕なんかもニューヨークに自分がいると、
全然自分がやってるパフォーマンスとか規模感に打ちのめされるんですよ。
何やってんだろう、こんな時間も努力も費やして、
まだこんぐらいしかできてないのかって。
それってこんだけ作りたいとか、自分が出世したいっていうことよりも、
こういう作品作りたい、生きてる間にこれぐらいの作品作らなきゃいけないんだっていうのは、
ニューヨークにいると見えてしまうんですよ。
みんなニューヨークの戦いに挑戦しに来て破れていくんですけど、
あれだけやってこれだけかとか、
それでもう絶望をくれる街なんですよ。
僕はニューヨークって永久に片思いの街って言うんですけど、
行けば行くほど、長くいればいるほど、永久に振り返ってくれない。
たまにちょろっと振り返ってくれて、
あ、もうちょっと走れるかも思わせてくれる街で。
すごいなあ。
2キロに全部が見えてるというかね、
手が届きそうで一番だから、世界で一番近くにそこにあるけど、
世界で一番遠く感じるかもしれないみたいな場所なわけですよね。
本当に嫌な街ですよね。
一瞬見せてくれるんで、夢を。
僕もニューヨークでいろんな各界のプロフィッシャーの人、
20年くらいやってる方にお話されてますけど、
みんな同じことをしてますね。
もちろんそこでチャレンジしていろいろやってて、
世界に伝播できるというか、その価値がもちろんあるけど、
何て言うんでしょう、常に苦しいというか、
ちょっと酸欠じゃないけど、
それがなくなった日はないみたいにみんな言ってるんですけど、
やっぱりそういう感覚はあるんですか?
ものづくりアーティストってことは全然美しいことじゃないと思うんですよ。
作品もそうしかないですよ。
僕らが作ったものは結果的に美しいと言われるだけで、
ニューヨークで芸術家活動をすることは、
もう苦行以外に何者でもないと思います。
だから、日本人のメディアがアーティスト像というものを
すごく製品で自由奔放になんてものは、
どのフィールドでもそうですけど、
世界の最先端の現場にいたら絶対そんなものは許されないと思います。
本当に自分の全身全霊で人生を投げ打ってやるくらいじゃないと、
それができちゃう人にかなえられないんですよ。
そういう人が本当にすごくいるんで、ニューヨークは。
でもやっぱりやりがいはあるから続けられてると思うんですね。
ニューヨークのいいところはそれでも平等なんですよ。
チャンスはちゃんと平等にあるんで、
あそこほどチャンスがある場所はないんですね。
もう本当に一年間でスターになってしまうっていう人が
アーティストじゃないけどファッションデザイナーでも、
どの世界でもいるのはやっぱりニューヨークなんですよね。
才能に飢えてるっていうか。
その才能に飢えていて、その才能が出たらもう
全部のエネルギーを使って消費しに来るんですよ。
次は消費される顔になるのか、
それを返し飲んでずっと生き残れるだけの
アーティストとしての、クリエイターとしての、
表現者としての体力があるか、展開力があるかですね。
展開力ってもうちょっと詳しく言ったらどういうことでしょう?
時代を描写するっていうのが僕らの仕事だと、
時代は移ろぎやすいじゃないですか。
例えばコロナ前にアートに求められたものと、
今コロナ中でアートに求められているものって全然違うんですよ。
コロナ前ってどちらかというと、経済も世界的に順調に伸びてきて、
みんな世の中のダークサイドっていうものはアートを返して見たい。
それが表現されているものがどちらかというと、
喜ばれた壁はあるんですね。
でも今そんなもの、このパンデミックになって見たいですか?
むしろ逆ですよね。
それはアートに携わっている当事者の我々もそうなんですよ。
要はアートっていうのはポジティブなものであっていいのかっていうイメージが
数年前までは少なかったのは、
今はやっぱりアートがポジティブに人を感化してくれるものであっていいんじゃないかっていう見え方が
時代とともに変わってくるんですよ。
でもその前に最先端のアーティストで、全く真逆のダークな表現をやってきた人が
今こういう時代に今沿っているかというと、
これでさっき言った消費される部分で消えていってしまうんですよ。
次に新しい人がボーンって来た時に、
次にこういう表現をしている人が生まれてきて、
今の時代を捉えているっていって、乗った時に今度
どう振りにかけられて消費されてしまうのか残るのか。
歴史っていうのは本当にすごく残酷なんですね。
だって今日も明日になれば過去になるわけじゃないですか。
今日精一杯我々は生きたいんですけれど、
じゃあ先を見据えて何かものを作ってても、
すごく作者としては本文字ない気もしてしまいますし、
そうした時に展開力っていうのは、
時代に乗るっていうことは大事なんですけれど、
今度乗りすぎると商業的になってしまうので、
その中でどういうふうに自分の作品を自分と素直に向き合いながら、
接点を持っていくのかっていうことができる人っていうのが、
やっぱり大体素晴らしい芸術家なんですよ。
今そのパンデミックコロナの話ちょっと出てきましたけど、
デスクトップユートピア、あれでしたっけ?
京都のホテルにいらっしゃる時に、
そこで作業している自分をモチーフにしたみたいな感じでもないんですか?
あれ違って結果論なんですよ。
良かったです。
番組で見ているとそういうふうにちょっと見えたんですけど。
あれたまたま本当に番組でこの作品なんですが、
この作品が僕は京都で去年のロックダウンになった時に、
たまたま日本であるプロジェクトでいて帰れなくなってしまったんで、
やっぱりその中で創作をしなきゃと思って、
妻の実家が京都だったので、
京都でホテルの一部屋を借りて、
そこをずっとアトリエにしていたんですけれども、
この絵自体はロックダウンになる前から描いていたんですけれども、
蓋を開けてみると自分の描いていたものと、
その以後の潜在意識が見えない中で接点を持っていったという感じなんです。
ここにある観葉植物もその時ぐらいから描こうと思っていたんですけれども、
ロックダウン中に僕はスタッフを10名ぐらい抱えていて、
家の生活をリモートでどうにか作品制作をできないかと思っていたんですけれども、
スタジオに帰れないので観葉植物はほぼ壊滅状態になって、
元気なくしていたのを見ました。
ほぼ枯れてしまったんですね。
植物というものはスタジオにとっては同じ命というか、
スタッフと同じ、自分の中でも愛があるものだったので、
そういうものを結果的にオマージュする形でできてしまったんですけれども、
意図せずなんとなく自分の真相真理が出て、
もうちょっとポジティブになるような絵が描けないかと思って、
こういう作品を作ったんです。
ありがとうございます。
真相真理って出ましたけど、
どうでしょう、このデスクトップユートピアに今ここに映っている男性は、
松山さんと全く他人かというと、他人でもないんでしょうけど、
確か上海か何かで展覧会をやっている時に、
これはあなたですか?みたいな聞き方が違うみたいに言っていましたけど、
これはやっぱりどうなんでしょう?
そういうとないんです。
このシリーズってインターネットにあるクリッピングとか、
そういった雑誌のクリッピングを持ってきているんですけれど、
描いていくうちに、今の絵というのはデスクトップを見ているんですけれども、
後ろに窓があって、その窓の間に景色が全景が見えるにもかかわらず、
コロナの状態で僕らがテレビだったり、パソコンを介して外の情報を得るっていう。
今まで素直にその状況を描くということに、僕は抵抗があったんですね。
これはニューヨークが素直でいることに抗いみたいな、
現代美術の持っているコンテキストに乗らなきゃいけないという時に、
自分が自分であるとダメなんじゃないかという思いがあったんですけれど、
まさしくこういう時に、真相真理じゃないんですけれども、
自分の素直さというものを作品化することで、
今みんなの見ている今日の景色を作れるんじゃないかと思ったんです。
基本的にはさっき言った通り、僕の作品って今日の景色を作りたいんですけれど、
アプローチの仕方がやっぱり僕の中でも、こういう未曾有の状態で、
自然に変わっていったんですね。
共有を作品で求めることって、すごくいけないことだと思ってたんですよ。
もうちょっとチューニングでわからないぐらいがいいんじゃないかと思ったのが、
もう少し自然体でいいと思って。
伺えてよかったです。これも当てはめちゃいけないんですけど、
私はどうしても小説家の人と仕事する機会が多くて、
小説の中でもいわゆる私小説と、完全な自分を離れて書いているという小説があると思うんですけど、
この間ある小説家の方に聞いたのが、
その方は、いわゆる完全な私小説、自分がそこにそのまま入るのは一切書かないで、
話して書いてるって言ってるんです。
ただ個人的には読者からすると、それでも出てるようなっていうのはあるんですけど、
彼曰く、どっちがもちろんいい悪いではないんですけど、
私小説、自分が入り込んでる人の作品は、結構純文学とかも多くて、
ちょっと読みづらいみたいな、いわゆるさっきの大衆家とはまたちょっと違うみたいな、
あるっていう話はあったんですけど、
またそれとアート、そして松山さんご自身の場合は全然別の話かもしれないですけど、
このデスクトピュートピアっていうのは、そういう意味では今までニューヨークのデスクが抗ってて、
あんまりそのさっきの共有するというか、そういうのを押し付けるみたいなのを持ってたのに、
もうちょっと自然に自分を出したというか、
この作品からさっきおっしゃってた文脈のことも出すようになったのか、
それかこの作品だけは特殊でそういうもので、今の今後今作ってるものは、
またかつての松山智一さん。
いや、進化してると思います。
やっぱりこういう作品を作るアイディアが与えられなかったという、
自分のアイディアが、考えがそこまで及んでなかったということなんです。
それでこういうふうに作ってみた時に、まさか自分がこういう作り方をするとは思ってなかったんですよ。
自分の素直さが他人と共有できる素直さっていうふうな状況が与えられたのは、
個人主義が進む中で、こういう状況というのは皆さんが共有してしまった悪夢みたいな状況じゃないですか。
その悪夢みたいな状況を多くでは捉えたと思うんですよ。
じゃなくて、ちょっとした日常みたいなものを僕も捉えたっていうきっかけで、
一気に物を作り方のビジョンが広がりを持ったというか。
そういう意味では大きく変わった、またポイントは結果論かもしれないですけど、
後から振り返ったらあるかもしれないですよね。
というふうに思いました。
ありがとうございます。
あとはやっぱりこれも伺いたいですね。
さっき結果論というキーワードが松山さんの中に出てきていて、
今日伺いたいのは、才能。
ご自身は才能があんまりってお話もおっしゃっていましたし、
本当にすごい先人で才能の方もいるっておっしゃっていましたけど、
やっぱりいろいろ記事とかを見てても、
アーティストは才能がないとなれないのかとか、
なれるのはなれても食っていけないのかとか、
いろんなものあると思うんですけど、
何かのインタビューで、
芸術家にその才能っていうことは結果論、関係ないっていうふうに、
関係ないってすいません、細かい言葉はちょっとわからないですけど、
結構きっぱりおっしゃってたのがすごく印象的で、
それと同時にやっぱり根性っていうキーワードも結構出てきて、
なんかその辺なぜ言い切れるというか、