比較からの解放
なんか今、どうやったら人と比べるところから解放されるかっていう話をしてて、
で、玄徳さんが物差しをいっぱい持つことじゃないかみたいな。
まあネタですけどね。
いやでも、それが何だろう、具体的に?というか、突き詰めるとどういうことなのかめっちゃ気になります。
自分は、要は何だろうな、自分自身も比較を支開するっていう話なんですけど、自分を保つために。
もう大体のことで負けてる相手がいるとするじゃないですか、もう相手の方が勉強もできるし、
相手もそれもこれもみたいな感じで、それがね、多くの場合はその人に社会的に光が当たってるわけですよ。
良いとされてることができてるから目立ってるし、っていう感じなわけですけど、
でも、その場所さえ探せば、いやここは俺絶対この人に勝ってるなっていうところを見つけることは可能だと思うんですよ。
なるほど。
だからそこは最終的なものがあると思うんですよ。
自分に光が当たる形でその人に勝ちたいとか思うのであればまた別だけども、やっぱり結局事故の完全否定を避けるっていう、
自分の完全上位互換が存在するっていうのは自分の完全否定じゃないですか。
そういう風に自分で自分を認識するというのは。
でもそれをやらないようにするっていう意味では、自分がその人に対するところで一つでも勝てる部分、どんなにしょうもなくてもというか、勝てる部分を見出せればいいのであって、
それを別に誰に言うでもなく、自分の中で思うようにはしてましたね。
多様性と障害の理解
だから自分はそれで言うとハンドフルートっていうのをやるので、それで大体の人間に勝てるんですよ。
分野が新規だという。
だからハンドフルートの買い買いの人だけ個別にゴンゴンゴンって感じでやると、それで自分のメンタルそこそこ守れたかなってなりますね。
もちろん他の人みんなそれで素直にいけるかっていうのはあると思いますけど、結構そこね、一つ二つのことで自分は全部負けてるとか全部ダメだっていうのに思考として陥りやすいので、意外と効果はあると思いますよね。
なるほどね。それは確かにそうだなと思いつつ、私が何だろうな、完全に勝ってる負けてるっていう価値観から解放されたいって思うときがあるんですよ。
上上下じゃない。
土俵が違うみたいな、そもそもみんな違うみたいな、前提に立ちたいな、立てる、そういう感覚を持ちたいなって思うときがあって。
ちょっと前に職場の総会みたいな、みんなで話し合うみたいなのがあったんですけど、障害のない社会とは何かみたいなのをグループワークするみたいなのがあって、
そのときにすごいいいなと思ったのが、先輩が言ってたのが、みんな違ってみんないいねってなることみたいなことを言ってて、それはまあそうだなと思ったんですけど、
でもなんかその、何だろうな、例えばその人はマレー系の人たちがいるところに留学に出たらしいんですけど、マレー系の人たちは同じテーブルでそれぞれ宗教の違うものを食べるみたいな。
なんかそれが当たり前とされてるみたいな。だからこう、違うものを食べてるとかが言われない。でもみんな違って、その人種も信じるものもなんか食べるものもなんか全部違うっていう同票に立ってるみたいな。
なんかそもそもバックグラウンドが違う。だからなんかそれ、なんかそもそも違うっていうことの前提に立ってるみたいな話をしてて、そうなんだよなと思って。
なんか比べるってことは、そもそもそれ以外の条件が同じってみんなしてるってことじゃないですか。何だろう、なんかずるいとかもそうじゃないですか。
なんかそれ以外の条件がこう同じ。で、そこだけできてる、私はできてない、ずるいってなるじゃないですか。でもそもそも違うじゃないですか、全部が。その実感をなんかいまいち持てないんですよね。
みんな比べるし、で、なんか一律の括りの中でそれをしたらずるいからダメとか、なんかそれは人にどう思われるかわからないからダメとか、なんかどうなのかな、私わかんないですけど、狭い国の中だからなのかわかんないですけど、
その条件が同じとみなされて、で、ちっちゃいところで比べられるみたいなものから開放されたいみたいな気持ちがあるんですよ。
うーん、なるほどね。
できる、できないの次元から開放される。まあ確かにできる、できないことができるようになるのは大事ですよね、自分が。
そこはね、言いたいことはなんとなくわかりますね。
ただね、まあね、やっぱりその、現実考えるとやっぱ厳しいなとは個人的には思うので、
っていうのも、やっぱりそういう、なんていうかな、比較できるような形で横並びに複数の人を置いてスタートするっていうことで社会が回ってるっていう側面は少なからずあると思っていて、
そこの前提をばらしちゃうっていうことを根本的にやってしまうと、やっぱり社会がね、だんだん回らなくなりかねないと思うんですよね。
さっきの、なんていうかな、宗教が違うとかっていう話とかっていうのも、逆にね、そこまで違ったらね、いけるんですよ。
あとは、要は、手帳があるなしっていう意味での障害者の方と、健常者というか障害者ではない方っていう線引きであるとか、
特に今問題になっているのは、そこの間に近くにあるところの部分が、しんどいわけですよね。
逆にそういう、手帳を持っている人っていう風になると、実は一気に制度上以外の部分で生活が楽になっていく部分がある。
強みと弱みの活用
そういうのは実態としてあると思っていて、ただそれを全ての人にそういう形で区切ってしまうっていうのをやってしまうと、
結局今度は、結果として区切りがなくなってしまうはずなんですよね。
だから、結局持っちゃうんですよ。
っていうこともいろいろ考えると、そういうね、比較ができてしまうようなベースっていうのをなくすっていうのは、
人間社会の形上結構難しくて、その中でいかにまず自衛するかっていうのもあるし、
自衛の方法をいかに伝えられるのかっていうのもあるし、
その中で、やっぱり教育の部分かもしれないですね、そういう部分とかっていうのがどうできるかっていうね、
それこそやっぱり、比較といえば資本主義みたいな感じがよくあるんですけど、
そういう中で教育自体がね、そういうふうに強調されがちなところがあると思うので、
そこはね、やっぱりなんとか教育でカバーしたいはずのところですよね。
確かに。区切りがなくなるっていうのだったら、
それこそはけんたくさんの言うフィールドを変えるみたいな感じで、
いろんな人がいろんな区切りを変えれるといいですよね。
この場ではそういう区切りで生きてるけど、違う場では違う区切りで生きてるみたいなことが変えれるといいかなみたいな話ですよね。
もっと言うと、ちょっとビジネスっぽい言葉使っちゃうけど、強み弱みって誰でもあるじゃないですか。
その比較っていうのも強み弱みとは関わりがあるじゃないですか。
強み弱みっていうのは他の人よりもできることが強みであって、
他の人を一般、平均点よりもできないかなとか、
そういうふうに感じる部分が弱みであるっていう言い方はある程度できて、
そういうふうに考えたときに、
社会の理想の形って、いろんな人が自分の強みを活かして、
弱みを使わずに生きていけるってことを考えたら、
そういう意味での比較は多分あったほうがよくて、
あっちゃいけないのは、自分はこの人のとか他の人の完全介護官だっていうふうに自分を認識して、
自分を貶めてしまうとか、あるいは人にやってしまう。
お前はダメ人間だみたいなことですね。
そういうのをやってしまうのが良くない。
はいはいはい。確かになぁ。
なんかあれですよね。その先輩も言ってたなと思って。
自分の得意なことを活かしてみたいな。
開いて言うとそういうことですよね。と思ったんですけど。
確かになぁ。なんかそれを活かせる。
でも結構私、個人的な話で言うと、
得意なことを活かすっていうのめっちゃ苦手なんですよね。
私にはキャッチーな特技もないし、
得意なことはないっていう実感で生きてるんですよ。昔から。
でもやっぱり対応力というか、
その場に合わせる力が非常に高いっていうのはあると思いますよ。
多分この話をすると、いまいちピンとこうへんなとか、
そうかもしれないけど、自分がそんなに頑張ってやってるわけじゃないんだよな、
みたいな感じになると思うんですけど、
多分それが得意なことだと思うんですよ。
確かにね。頑張ってやってないことが自然とやってて、
人よりもできるっていうこと。
だから意外と得意なことの発見って難しくて、
逆に好きなことの発見ってそんなに難しくないんですよ。
どうなんだろうね。私結構そこが弱いのかもしれないですね。
得意、好きの弱さ。
でもそれといったら話すことって好きなんじゃないですか?
喋ることは好きなんですけど、
好きな場とそうでもない場がある。
だからこう、すごい疲れてるのにひたすら気を使って
喋り続けてる時とかもあるので、
好きと言えば好きだし、しんどいこともあるっていう感じではあるんですけど。
全然好きなことの話になっちゃうけど、
全然それで話すこと好きじゃないかもなってするよりかは、
私は一対一で、このポッドキャストの場でもいいけど、
決まる人と喋ることが好きですって言った方が多分よくて、
確かに自分の言い方も悪くて、話すこと好きですかっていう言い方は
あまりにもいろんなものを含みすぎるのは良くないってあるけど、
なんかそういう風に、基本的にそういうもんじゃないですか。
全般が好きっていう人はあまり多くなくて、極端な話で
テニスの中でもテニスのサーブだけ好きみたいな人もいるかもしれないですね。
でも別にそれはいいわけですよね。
それをテニスが好きと言ってもいいわけだし、
テニスのサーブのところが特に好きでって言ってもいいわけだし。
確かに確かに。
なんかそこの縛りの不自由さかもしれないですね。
私は結構なんか、え、でも現代の若者そういうとこありますよ。
なんか好きっていうことに対しての抵抗みたいな。
それはもう好きもそうだし得意もそうだと思います。
はいはいはい。そうですよね。確かに。
好きって言っていい、得意って言っていい、
あとはできるって言っていいのレベルがやっぱハードルが上がってしまっている。
それはもうSNSが多分あると思います。
できる人、好きな人、得意な人の手本みたいな人がいっぱいSNS見て、
そういう人がたくさん人の注目を集めるわけなんで、
やっぱそれに対してっていう、そこでは比較が起きてしまうっていうのはね。
確かに。
ありますけど。
なんかふと思い出したのが、知り合いに聞いた話で、
その人が大学の授業で先生が言ってた話なのでまた劇のまた劇なんですけど、
なんか自分の得意とか苦手とかをでっかい話で、
例えばこの人と話すのが得意ですとか、機会を何とかするのが得意ですとか、
でっかい話とか1位を取るとかじゃなくて、
なんかちっちゃいことをできるって思えた方が格段にいきやすくなるみたいな、
何とか詳細忘れたんですけど、
自己認識の重要性
だからこう自分は人より元気に挨拶ができますっていうことを思えるというか、
それを認めることが一番大事なんじゃないかみたいな言ってて、
なんかそれすごいいいなと思って覚えてるんですけど、
めっちゃいいと思います。
なんか他の人と比べてっていうか、そういう条件ではあったかじゃなくて、
もう今自分ができてること。
それはめちゃくちゃ大事だと思います。
それはまた比較される中で自分を保つ方法の一つとしてとても大事だと思います。
だからさっき自分が人に勝てる部分を探すみたいなとか、
そういうのも一つだし、それとセットにしてそういう考え方を持って、
自分には少なくともこれができるみたいなのを持てると、
ちょっといきやすくなるっていうのはあると思うし、
自分もそれはやっちゃうと思います。
確かにね。
誰に認めてもらうとか言う必要はないってことですよね。
だって自分で自分を認められることが一番大事なんで。
難しいですよね。
作ることの楽しさ
でもどうですか?
それこそ今までポッドキャストを十何回くらいやってるじゃないですか。
そういうのも含まれるじゃないですか。
そうですね。
それは事実としてヤギリンさんがどんなに嫌がっても変えられる事実。
嫌がっても。
でも本当にやっぱり自分のことになるとバイアスがかかるっていう人ってたぶんいっぱいいて。
まあそうです。
旗から見たらできてるじゃんって感じのことが
自分の中ではできないできないって言ってる人に対して
このやり方ってとても有効なんですよ。
いくらヤギリンさんが
私はもうポッドキャストなんてできないって言っても
それは否定されるわけですよ。
確かにね。
嫌ってるからね。
だからこれにはとても大事なことで
だから自分は何かを作ってみるとかっていうのを結構お勧めするんですよ。
確かに確かに。
何かをこう
まあ多分喋るとかは好きなんですけど
何だろうな。
なんかめっちゃちっちゃい話なんですけど
例えば
なんか
何だろうな。
作る
手で物を作るとか
あとあの
色を塗るとか絵を描くとか
割とこう下手なんですけど
なんかそれを
でも作るのとか好きなんですよ。
可愛いのを作りたいなという気持ちもあるんですけど
何かそれができないと
できないって思ってイライラしてくるんですよ。
何だろうな。
何かこう色んな
私結構できないことが多いんですよ。
割と何だろうな。
それは
何だろう
それは裏返して言うと
自分のやりたいと思うことに
自分のやりたいと思うことと
やりたいと思うクオリティに
自分の現状が追いついてない状態って
それもあるんですけど
割とこう
とっつきとかが悪い
あと不器用なんですよ。手先が。
そういうことだよね。
やりたいことに対して
自分が不器用っていう状態だから
もしかしたらパッとできる人もいるかもしれないけど
自分はできないっていう感じ
そうですね。
でもなんかその経験は昔からあって
何か
何だろう置いてかれるとか
何だろうちっちゃい時から
お弁当を
遠足の時みんなでブルーシートひいて食べてて
私が食べるの遅すぎて
先生がブルーシート片付けられないみたいなのが
しょっちゅうだし
あと
それこそ小学校でも体育とかついていけない
できなくて残されるとかもずっとだし
あと家庭科とかも
ミシンを壊して呼び出されるとか
すごいやってたし
何だろうな
普通にしてるつもりなのに
不器用で目立つみたいな方が多くて
嫌なんですよ
成長過程の楽しみ
中学のスキー合宿に行って
スキー初心者の中で
初心者の中でダントツで下手みたいな
転んだら起き上がれないみたいな
先生たち3人がかりで起こされるみたいな
リフトから降りれず
先生に背中を押されて転がされる
怖いでしょ
まず不器用なんですよ
結構ペットボトルのフタとか開けられないとか
何だろうな
放送剥がせないとかが多くて
友達とかにやってもらうとか
そういうのができないと
置いてかれることって多いんですよ
小学校とかで
私小学校1年生の時とか
名札付けれなくて泣いてましたもんね
名札張りの時
そうです
あんな小一でできる人いるんですかと思ってたんですけど
私はできなくて
安全ピンって別に安全じゃなくて
安全じゃないですよね
めっちゃ危ないですよね
できなくて泣いてたんですけど
でも誰も助けてくれないし
助けてくれても
不器用やなぁみたいな感じで
助けてくれたりとか
それは良くないですよ
それで自分は人よりできない
みたいな思い込みがあるんですよね
人よりできないというか
とっつきが悪いんですよ何事も
逆に妹とかは
人からパッて話を聞いたりとか
例えば踊りを見せられてパッと踊るとか
何だろうな
見て学ぶことが上手なんですよ
すごい
で容量を掴みやすいみたいな
逆に妹はそれで悩んでるんですよ
そっから伸びないみたいな
最初は君筋いいねみたいな感じで
目立って褒められるけど
そっから器用貧乏みたいな
伸びないでそれ以上にならない
でそれ以上好きなこともない
っていうので悩んでるんですけど
私は結構とっつきが悪い
で妹はすぐ何でもできる
習い事でもすぐ妹に抜かれるし
何でもできないみたいなのがあって
何だろうな
何に繋げようと思ったっけ
具体例を出してるうちに
繋げようと思ってくださったんですけど
また思い出したいんですけど
でも本当にね
いろいろあれじゃないですか
できないことの中で
これはできないと
さすがにまずいでしょっていう
やらなきゃいけないこと
生活上で必要なこととか
そうですね
だから一人暮らしとかで
結構誰にも邪魔されないで
最後までできない嬉しくて
これがめちゃくちゃ大事だと思います
できないことで
自分がやりたくないことは
もうやらなくていいじゃないですか
基本的にはね
できなかったことで
ちょっとやってみたいなとか
やってみたいけど
不器用だから難しいなとか思ってることは
それはそれでやっぱり
今は自分のペースでやれるわけなので
それはやったりし
そこで大事なのは
いかに自分の認知のハードルを下げるかですよね
だからそのハードルをとにかく下げ切る
絵を描くんだったら
世の中に存在する
SNSを見たら現れるような絵というものから
自分の絵っていうものを
それを比較しちゃいけないわけじゃないですか
比較したら絶対できないから
いかにそこに関しては切り離すっていうのは
大事ですよね
そのものとして
その学びはあるんですよ
大人になったから
自分のできないことにとらわれなくていい
自分のできないことを
自分のペースでできるようにしていける
みたいな学びはすごいあって
一人暮らしとかで
すごい一人で邪魔されてできるの嬉しいと思ってたんですけど
でも時々やりたいと思ったこと
この間とか塗り絵買ってきたんですけど
塗り絵してたら
私の塗り絵のセンスがなさすぎて投げてきて
私も何やってもできない
何をやってもできないので
作りたい
全部そうなんですよ
ダイソーとかで
手芸のやつとか買ってくるとか
編み物買ってくるとかでも
全部最初のページで投げ出すんですよ
できないんですよ
私に分かるように描いてないから
それはね
その感じでやると
できないですよ多分ね
要はそれで数を重ねれば
塗り絵に関しても
今やぎみつさんが思い描いてる
これくらいできるように
なりたいってイメージがあるじゃないですか
そこに近づくために
すごく根気強く
時間かけてやればできるかもしれないですけど
気持ちがもうまず
社会人やってる上では
ついてこないじゃないですか
そこまでの熱意もない
ただただやってみたかったんですよ
あまりにできないと
昔の何をやってもできない
みたいな感覚が蘇ってきて
嫌になってくるんですよ
また投げ出して嫌になるんですよ
あとは単純に
それはまず本気度確認するものです
本気度っていうよりかは
自分が求めてるのは
作品を自分が作れるっていうことだと思うんですよ
そこだと思うんですけど
そこに対して
自分が間に
たくさんの細かな成長を積み重ねないと
そこに行けないじゃないですか
その間の成長を楽しめそうかなっていう
想定は多分いると思ってて
楽しめなさそう
そうそう
レベル10が目標だとした時に
絶対レベル0だとしたら
0から1、0から2っていうのを経由するじゃないですか
その時に1回1回
ちょっとずつ喜べそうかなって思うこと
それね
私結構何事もあんま思えないですね
だから大学の時か
初心者で吹奏楽部に入ったんですけど
なんだろうな
分かんなくてできるようになる喜びみたいなのが
いまいち分かんない
多分それを好きな人たちばっかりだと思うんですよ
だから色々聞いてみたんですよ
分かんなくて
練習をあんなに1日何時間もやるとか
本番前とか週5なんで
週5でやるとか
それだけなんだろうな
みんなは中学高校からやってた人ばっかりだったので
ある程度できるじゃないですか自由になるから
結構楽しかったのかなと思ってたので
私はできるようになるまでがしんどい
そこまでいけないみたいな話を友達とかにしてたんですよね
友達はいろんな子がいましたね
吹くこと自体が楽しいとか
あと吹いてる
上手くなるために練習してるっていう実感がないみたいな
ただただ毎日吹いてて
楽しいから吹いてるうちになんとなく上手くなってたとか
そういうことを言ってる人たちがいっぱいいて
わかんねえやと思ってやめたんですけど
この話聞きましたけど
自己表現と趣味の楽しみ
大学までやってる人っていうのは
そういう結構
ちょっと先天的チックな
初めた時から楽器そのものが好きとか
音楽そのものが好きっていう人が多そうだな
そうなんですよね
その時にやってて楽しい
集中できる
作業自体が楽しい
なんとなく上手くなっていく
みたいな感覚
私にあんま合ってないかもしれないと思って
でもそれが羨ましくもあるんですよ
それが一番好きなことなんだろうな
っていう気はしてて
いいなって思いつつ
あんまり
そういう
熱中の仕方はできない
って思うんですけど
それで言うと自分はやっぱり
趣味のことだと余計ですけど
一人ではなかなか厳しいなっていうのはあって
一人で頑張ったのって読書習慣ぐらいじゃないかな
本読むのだけはね
先生も何もないから
確かに
本読むことはしてるけど
でも昔ほど
好きに本読んだりはしてないですね
昔のほうが
暇つぶしの本を読んでた
自分は社会人になってから
ピアノ、鍵盤をちょっとやったんですけど
その時は
やっぱり
先生の年間
そういう
教室じゃないけど
学習に行って
それはよかったんですけどね
それのおかげで2年続いて
結局自分も
同じように最初にレベル10をイメージ
そんなにしてなかったのかなっていうのが
自分の良くなかったところなんですけど
でもやってみたくて
自分は中学生の頃は
昔は絶対ピアノとかできないって思ってて
それこそ人と比べちゃうから
それを始めることによって
絶対続かないと思ってたっていうのを
それをちょっと乗り越えたかったっていうのが
イメージとしてあったんですよね
自分のペースで自分の
理想の形にやってみたかったことでやってみる
分かりますよ
自分のペース大事
だから学習で
行ってましたし
もちろんペースとしては全然遅いですけど
ゆっくりゆっくり本当に
初心者の指の練習みたいなのを
それも別にね
いつも毎日できるわけじゃないから
それなりにそこそこやって
一応ピアノを練習して弾けるやつは
動画撮りましたよ
動画あげましたよ
そういうのをやって
こうできるんだなっていう
そこの感覚まではできましたけど
それは一人では絶対無理だっただろうな
と思いますね
とりあえずこれをやりましょうって線を引いてくれるし
できてるできてないの判定をしてくれるわけじゃないですか
確かに確かに
それはすごく大きい
だから要はレベル1レベル2っていうのを
やっぱりもっと分かりやすく可視化して
こっちに提示してくれるわけなので
それを一人でやってたら考えられないじゃないですか
ただその
もう楽譜をいっぱい読んでとか
とりあえずやってみようみたいなのを
とりあえずアタックする感じになるから
続かないっていうのはあるんですね
本当になんかやろうと思った時も
なんだろうなちょっとできないと
昔のできない感じが蘇ってくるから
他者の支援の必要性
私は何もできない終わりってなっちゃう
話をでかくして全部投げ捨てちゃうから
だから何にもできないんですよね
なんか続かない
なんか気持ち的に
もう少しそこが前向きにというか
なんだろうね
今の生活を見て
ここに時間が取れそうみたいなとか
なんか当たりをつけられたりとかして
それでその上で先生ついてもらって
こういう感じで管理してもらえたら
いけるかなみたいなのがついたらいいですよね
確かにね
でもなんか多分
可視化してくれる人の存在と
あとはなんかその
なんだろうな
なんか表現に対するハードルの上がり具合みたいな
なんかどうだろう
肩に沿ってできると達成感があるっていうのは
わかるんですけど
そのある意味
なんかそういう風に
なんだっけ
私が好きな作家さんというか
なんだろうな
私が大学院の時インタビューしてた人がいるんですけど
その人がよく対談してる人で
言ってたのが
なんだったっけ
なんか表現
自己表現って普通に喋ることも歩くことも
なんならなんか
声出すことも表情も全部自己表現なのに
なんか表現っていう形が学校とかで決められてて
この美術の時間とか書道の時間とか
なんかそういうものに閉じ込められて
自己表現ができないって言ってる人はいっぱいいるみたいな
なんか話をしてて
いやそうなんだよなと思って
なんか私はもうその手のことが全部苦手だった人だから
だからなんか余計に
何もできないみたいな
気持ちが強いんですけど
なんかそれはそうなんだよなと思って
それで言えば
このラジオっていうかポッドキャストは
なぎりんさんの自己表現ですよね
もちろん僕の自己表現もあるかもしれないですね
そうですね
確かにな
これを1年後とか
今から第1回をこの後余りんさんが引き返してるんですけど
聞いてみてどう思うかとかっていうのは
面白いかもしれないですよね
確かに確かに
そういうふうに自己表現を捉え直して
ある種ハードルを下げる形で考えると
そういうふうに自分をモチベートしていくっていうやり方もあるだろうし
自分がやりたいのはこの表現なんだっていうのが
決まっているのであれば
そういうふうに言ったような形で
人の力を借りながら
自分でもちょっとずつ当たりをつけるというか
やっていくっていうのは大事かなとは思います
確かに確かに
なるほど
一旦納得しました?
落ちきるまでにはちょっと時間かかりそう
ずっとぐるぐるしてる話題ではあるので
一旦考えます