-
-
スピーカー 2
まあそうね、自分もちゃんとわかってないんだけど、学校衣装っていうのはその学校が内面化させるような価値観みたいなのを引きずってる大人みたいな感じなのかな。
そうですね、なんかあの、なんか抜粋したやつを読むと、学校衣装とは学校という制度空間が長期に渡って、子供の体、内面、関係性に刻み込んだ規範、評価、序列、管理の痕跡が、学校を離れた後も無意識の行動パターンや感情反応として作動し続ける状態を指すということでした。
なるほど、わかりやすい。
スピーカー 1
そうそうそう、だから別に学校を卒業した後でも、いや本当にもうなんか社会全体が、なんかそういう学校のような、なんだろうな、囚われ方、だから本当にそれはその考え方だけじゃなくて、体の反応、なんか体がそこに染められてしまってるみたいなイメージでしたね。
そうそうそう、なんか本当に書いてあるんですよ、どういう例がいっぱい書いてあるんですけどね、本当になんか、大人になっても勉強に苦手意識がある、計算が苦手、常に正解を探そうとしてしまい自由に考えることが苦手とか、誰かに評価される状況になると緊張するとか、人から注意されると過剰に反応してしまう、球技が苦手、球技が苦手って書いてある。
解像度と思って、球技が苦手、グループ行動に苦手意識がある、人前で話すのは苦手、人前で歌うのはちょっと無理、体の動かし方を人に見られるのが苦手、いつも私は姿勢が悪い気がする、服装や髪型は清潔、控えめにがしみついている、みんなと同じでないと不安、過剰に空気を読みすぎる、場のリーダーへ余計に苦手意識があり、自動的に避けたり従ったりしてしまう、沈黙が怖いとか、
本当に解像度っていう感じなんですけど。
スピーカー 2
なるほどね。
スピーカー 1
いろいろ縛られてる価値観みたいなのがバーっとされてて、
それは本当に自然な反応としてあるなっていうのを思ったのと、
あとはなんか、結構当たり前とされてることとかにも疑問というか、
例えば背の順っていうのは人権侵害だみたいな話をしてて、
子供を身長順に並ばせるっていうことが、よく考えてみたらどうなんだっていう話。
前の人が見えやすいじゃないですか、ちっちゃい子も見えるっていう合理性で言うならば、大人のライブ会場とかも全部背の順になってるはずですよね。
でもその、なんで大人は背の順で管理。
でもそのライブ会場が背の順になったら多分結構な批判が来ると思うんですよね。
スピーカー 2
それなのに学校ではそれが起きてると。
スピーカー 1
そうそうそうそう。
なんかそれがなんでかっていうことを多くの人は考えないみたいな話とか、
あとは時間割り、時間を公平に区切るっていうことに問題があるみたいな話とか。
スピーカー 2
時間割りってことね。
スピーカー 1
そうですね。
結構ね、とばさんの塾だと無時間割りみたいなのやってるらしくて、
やめたくなったらやめるとか、飽きたらやめるみたいなのが結構やってるらしくて。
まあでも人によって違うじゃないですか、処理速度とかって。
だし、今ちょうどできるようになってきたのにみたいなのが、あるタイミングでやめさせられたりとか、
やっぱ時間を区切って管理するっていう目的が結構大きいから、
本当に学習するときに時間割りっていうものが必要なのかっていうと、それはちょっと微妙だなと思うんですけど。
スピーカー 2
確かに面白いね。
自分も話聞いてて思うのは、自分は今会社でホワイトカラーで仕事してるけど、
そういう人たちは結構ね、仕事が時間割り的になってると思う。
例えば定例の会議みたいなのが、例えば月曜日の午後3時から1時間毎週ありますみたいなものであったりとか、
それってもうスケジュールみたいなのに予定を入れていくんだけど、
それの入れ方っていうのがやっぱり基本的には、きりよく1時から2時、2時から3時みたいな感じで1時間の枠で入れていくじゃないですか。
その感覚が完全に小学校の時間割りの感覚と一緒だよね。
それがもうフレキシブルになっただけっていう。
スピーカー 1
確かに会社も学校なんですよね。
だって12時から1時が昼ご飯とかあるじゃないですか。
休憩、毎日それで休憩1時間だし。
そもそもその管理下に置かれてる仕組みのままというか。
だってそもそも週2が休みですもんね、土日が週2、休みでっていうのも一つだし。
いや本当にそう、それもね、なんか言ってましたよ、なんだっけ。
学校給食の話か。
今昼休みが12時から1時みたいな話をしたと思うんですけど、
学校給食っていう制度も呪いみたいな話をしてて、
正しい生活っていうものを身につけさせようとしてる。
だから海外に行った時に思ったのが、何時からご飯っていうのがない。
だからご飯、13時とか回ってご飯食べないんですか?みたいなの言っても、
ご飯は好きな時のお腹空いた時に食べるんだよ、みたいな感じで、
何時から、日本人は本当にそこの辺の時間意識が学校教育の影響でしっかりやるけど、
もうお腹減ったら食べるし、別に3食も食べないし、
スピーカー 1
休食だと味噌汁、ご飯、魚とか栄養バランスがちゃんとしてるじゃないですか。
でも海外だと普通にバンって大皿一つとか、
そんなに日本ほど栄養バランスをしっかり考えられた食事っていうのは普通に少なくて、
だからお母さんとかが栄養バランスをしっかり考えてない食事を出した時に、
ごめんね、みたいな罪悪感になったりとか、
正しい生活ができてないみたいな思い込みがあったりするけど、
そもそもその正しい生活っていう擦り込みがやっぱり学校給食なんじゃないかみたいな話をしてて、
時間も量もそんなにちゃんとしてなくていいのに、
ちゃんとしなければいけないっていうのはやっぱり学校給食の流れなんじゃないかっていうのがあったんです。
スピーカー 1
あれは学校の問題というか、
学校全体というよりはあの学校の問題な気がするんですけど。
スピーカー 2
やっぱりそれだけ日本の教育において、
学校っていうものがとても中心的というか、
なくてはならないというか、
そういう存在にやっぱりなってるっていう、
そこがやっぱり国民の中で内面化されてるっていうのがまず一つあるし、
スピーカー 2
そこから学校による教育っていうのを要するに内面化して、
人が大人になってるっていうことがやっぱり循環してるっていうことなんだろうね。
スピーカー 1
そうですね。
なんか結構、何だろうな、
他にも表現することに苦手意識を持ってる日本人が多いのも、
学校の常みたいな話をしてて、
これは本当にね、玄関さんの言ってたことと繋がるなと思うんですけど、
例えば、自由に表現してくださいっていう場ってあんまりないじゃないですか。
基本的に人に見られてて、いつでも人に見られて評価されるっていうのがあるから、
体がこわばるじゃないですか。
だから自由に上手い子、下手な子っていうのがやっぱり序列として存在するわけだし、
だからどんどん表現っていうのにこわばりが出てくるみたいな話で、
例えば海外、
そばさんがおっしゃってたのが、
キューバとかインドとかに行ったときは、
他の国でもあると思いますけど、
みんなが踊ったり歌ったり大人が平気で、
みんな路上とかでやる、
人前で歌ったり踊ったりするのをやるけど、
日本人で人前で歌ったり踊ったりできる大人ってかなり少数派ですよね。
当たり前のように、
人前で自分を表現することが苦手な人が多いっていう話をしてて、
これはポッドキャストの一番最初に話したことだよね。
嫌なと思って。
いつの間にか、
小学校のときぐらいまでやってたけど、
いつの間にか辞めるようになったみたいなのを、
ポッドキャストでも表現について、想像について言ってたと思うんですけど、
スピーカー 1
もっとその前からやなと思って。
小学校の仕組みというか、
学校でやってることによって、
どんどんそれがもうすでに奪われていってたんやなっていうのはすごい思いましたね。
スピーカー 2
それはね、
自分もね、人前で表現ができる人カウントされてしまうのかもしれないが、
それはあくまで一部的なものであって、
自分人前で歌は無理だし、歌無理、絵が無理、
あとはめちゃめちゃ細かい絵っていうか個別の話で言うと、
高校生のときに国語の先生が一人一個、あれ何だったかな、
普通にあれだったかな、
やばいパッと出てこないけど、何だっけな、
単歌の方だったかな、単歌の方か俳句の方か忘れたけど、
どっちかが一人一個作ってみたいな感じになって、
自分がなかなか出せなかったね。
だからそれはもう本当に、
とばさんの学校行為証そのものだと思う。
出せなかった理由っていうのは、
人に評価されるとか、上手い下手な人とか、
スピーカー 1
それでできなかったね。
なんかもう、教室の中で自由に出してねっていうこと自体が、
もうなんかその評価に晒されてるというか、
これは何なんだろう。
本当に私も人にどう思われてるかを気にする妖怪だったので、
全然もう何もできないですね。
今でも人前で、
なんかそれこそさっき学校行為証の例で出てきた、
人に体の動かし方を人に見られるのが苦手、
いつも私は姿勢が悪い気がするっていうのとかが本当にそうと思って。
私は本当に運動神経悪いので、
結構私が立ったり座ったりするところとか、
動いたり撮ったりするところを誰も見ないでくれみたいな気持ちが本当にある。
一挙手一投足を見ないでほしいみたいな気持ちがめっちゃあって、
スピーカー 1
だから街中とかでも結構嫌ですね。
もうそれぐらい見られるの嫌っていう。
初対面の人と会った時とかにじーっと見られたりとか、
足とかつま先からバッと見られたりとかするのとかめっちゃ苦手で。
だからめっちゃ解像度高って思うんですけど。
スピーカー 2
でも表現の話で言うなら、この番組も表現の一つでありますから、
いつかもしかしたら人前でポッドキャストをするみたいなことも。
スピーカー 1
リアルタイム厳しい。
まだこうやってクローズドな場で喋ったものを後からオープンにしてるからまだいけるんですけど、
それもだいぶ違うんですよ。今まではやってなかったので。
スピーカー 2
もちろんもちろん。全然ね、それとは違いますけど、
いや、もしかしたらね、お客さんを入れてトークイベントみたいな。
スピーカー 1
うーん、確かに。
いやでも本当にね、なんか作るの話をすごいね、してて、
なんか、やっぱりこう作る、見ると作るを取り戻すみたいな話をしてて、
やっぱりこう、なんだろうな、学校校医症を抱えて体が怖ばった大人を、
やっぱりこう、何らかの方法で解放するみたいな視点になってて、
いやそれは、やっぱそういう潮流ってあるんやな、みたいなのを改めて思ったというか。
だから作ることを恥ずかしがらない練習みたいな、
自分の作った、そんなに上手くないものとかを積極的に子供たちに見せていったりとかしてるとか、
あとなんか、とばさんが現代潜流にめっちゃハマっているらしく、
現代潜流を子供たちとやってる。
スピーカー 2
中学生がめちゃくちゃいいやつたくさん作るっていう。
スピーカー 1
そうそうそうそう、それがめっちゃよかったですね。
なんか面白かったのが、なんかとばさんがおっしゃってた、
なんか全生15歳ピーク生ってのになって、
中学生っていうのが一番外界にまだ染められてないというか、
現実に染められてなくて、
でもなんか10歳ぐらいまでの子供っていうのが世界と交わってるみたいな話をされてて、
なんかもう、なんだろう、
現実に染まってなくて、
自分の手で何かがゆらゆらしてるのを見るだけで面白かったりとか、
自分の手で何かをやってみて、できたっていうのを、
なんか純粋に世界と交われるのは10歳ぐらいまでみたいな。
それ以降になるとやっぱり現実に染まっていってしまうんやけど、
それが18歳ぐらいになるともう完全に染まってしまう。
15歳ぐらいから淡いというか、
まだ自分の手で何かしてたりとか、世界と交わってた手触りをまだ持ってる。
持ってるけど、現実ともガンガンぶつかってるわけで、毎日。
だからその真ん中らへんにいるのが15歳ぐらいで、
そういう中学生と線理をやりたかったみたいな話をしてて、
すごい面白い詩がいっぱいあって、
多分ツイッターとかにも上げてありますよね。
スピーカー 2
上げてます、上げてます。すごい面白いですよ。
スピーカー 1
すごい面白いなと思ったんですけど、
なるほどねと思って、
クルーの話がここでも聞けたんだなって。
スピーカー 2
そうだね。
スピーカー 1
なんかそれが本当に、あ、そっか。
戸場さんがこの4回あるのでね、どういう風になっていくかわからないですけど、
こういう考えのもと、現代潜流とかをやってはるんやなみたいなのがすごい印象的だったんです。
スピーカー 2
やっぱり頭だけで生きるっていう話でいくと、
頭だけで生きてると残んないじゃないですか、頭だけで考えたことって。
それがやっぱり残るっていうのはまず大事なんだろうなと思いますし、
やっぱり自分が作ったものが残るっていうのは、やっぱり自分が生きてきた証なのであって、
自分も今中学生の時に作った動画とかが残ってるけど、
それはやっぱりその時の自分が連続性を持って生きてたっていうことだから。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
だからそういう気持ちで当時も作ってたし、
クオリティはもちろん大したことはないんだけど、
そういう気持ちで作ってたっていうことに対してのリスペクトは今の自分からもできるし、
だからそれがすごくやっぱり自分にとっては生きる上で助けになってたし、
スピーカー 1
今もなってるなっていうのはね、思いますよね。
そうですね、なんか作る表現、
私本当にそれをやらなくても生きていける世の中になってしまってるから、
それこそ学校がそれを抑制するじゃないですか、で管理するじゃないですか、一定にする。
スピーカー 2
学校ってそういうのなんか作る場を与える動きは一定あると思うんだけど、
やっぱり学校のほかで閉じてしまうなっていう、残んないなっていう一部のもの以外は。
スピーカー 1
確かに。
スピーカー 2
そういうところにそっちにもしかしたら問題があるのかもしれないなみたいなことをぼんやり思ったりしましたね。
スピーカー 1
確かにね、残んないんですよね。
しかも別に学校自由に作らせてるって言っても本当に自由ですかっていうのは本当に自由じゃないと思うんですけど、
だってもうそもそも閉じられたクラスの中で時間割も決められて、
完全に何時までやりましょうって決められたあの箱の中で何かを絶対に作るわけじゃないですか。
で、先生がいて評価っていうシステムがもうその時間以外でも根付いてるわけだし、
そこで作れって言われて作れるかっていうのは。
スピーカー 2
自分は小学4年生の時に国語の時間で、
放課後になっても小説書いてたみたいな。
スピーカー 1
それはあれですよね、学校の課題ですか?
スピーカー 2
そう、学校の課題であって、それで楽しくなっちゃって、
紙いっぱいもらっていっぱい書いて、近くの友達に見せたりとかしてたけど、
自分はそういうのって気まぐれな子やったんで、
そういうので日がついたらやっちゃうっていうのはあったし、
そういうふうに自分は、そういう意味での恩恵を受けてた部分もあれば、
逆に高校の時の俳句だか単価だかの時みたいに、
全くそれこそ現実に染まりきったのかもしれないけど、
そういう嫌な思いもしたことがあるね。
スピーカー 1
確かに。
残ってもやってもよかったり、そういう環境があったりとか、
残ってやろうって考えたことなかったですね。
とにかく浮くのが嫌だったんで。
何でも遅かったので、行動が。
だからこう、私一人でいれない子だったから、
友達に早くついていかなきゃ、
友達に置いていかれる、移動教室でも置いていかれるみたいな感じで。
とにかく人に合わせてやる。
遅れてしまったら、もう泣いてるみたいな感じでしたね。
だからそもそも厳しいんですよ、学校って。
私、なんだろうな、
それこそ給食を時間内に食べきらないといけないのもそうだし、
体育の移動教室、体育で着替えて移動して、
時間までにグランド集合とか、
とにかく厳しくて、私もめっちゃ不器用なんで、
名札も自分で付けられないみたいな人間だったので、
とにかくいろんな場面で置いていかれることが多くて、
置いていかれるとみじめだし、周りからも見られるし、
先生にも早くしろみたいな感じだし、
学校に行くことそのものが、
そもそも生活のハードルが高いみたいな感じでしたね。
鈍臭いというか、
いわゆるスピードが遅いから、
私が仕事をしてた時とかも、
子どもたちで支援給の子とかが、
おかしい話ですよ、支援給の子たちが通常給に戻るときに、
移動教室を自分でできたりとか、
いくつかのチェック項目とかクリア項目があって、
それをクリアしないと通常給に戻れないみたいな、
なんだそりゃみたいな感じなんですけど、
とにかく学校という集団行動、
管理者に置かれている集団行動をクリアするハードルが高いというか、
それに馴染むことに何の意味が、
それより大事なことがあるのでは、
自分のペースで勉強したほうがいいのでは、
みたいなところはすごいありますけど、
それがストレスでしたね。
スピーカー 2
なるほどね。
スピーカー 1
今でも、そういうことをすごく多いでしょうかもしれないですけど、
やることが早かったりとか、何でも飲み込みが良かったりとか、
位置を聞いて自由をできるタイプ、
例えば家庭科の授業でバッと説明聞いてバーってやったりとか、
計算プリントバーってやって全部丸付けして出したりとか、
スピーカー 1
物分かりが良くてパパッと理解して動ける器用な子に対しては、
ものすごいコンプレックスがありますね。
スピーカー 1
君は器用だから何でもかんでもできてきたかもしれないけどな、みたいな。
こっちの気持ちなどわからんやろ、みたいなコンプレックスがありますね。
スピーカー 2
それで言うと、自分気が使える人、すごい気が回るみたいな人が、
自分がまず気づかない人で、自分が仮に気づいたとしても、
自分が気づくっていうことは周りの人はもうとっくに気づいているのであって、
スピーカー 2
であればそれで何もしてないということは、
ここで自分がそれを対応するのは間違いなのではないだろうか、
みたいな感じの思考にブルブルなって、
自分の中で飲み会がすごいダメなんですよ。
スピーカー 1
でもわかります。
わかる。
スピーカー 2
これポッドキャストで言ったことあるかわかんないけど、
飲み会とかで、人の飲み物次何しますかすら聞けない。
スピーカー 1
私も聞けないですよ。
スピーカー 2
それが聞けないっていうのが、
言ったことがあるんだけど、周りの仕事の人とかに。
だからそれがやっぱり理解余されないくて、
スピーカー 1
そうなんですか?
スピーカー 2
サラダの取り分けも自分からできないし、
飲み物次何しますかとかも聞けないんだけど、
それがなんかやっぱりよくわかんないみたいな感じになる。
多分それは、
スピーカー 1
なんで?
スピーカー 2
自分の中での学校行為症的な部分が多分あると思う。
スピーカー 1
確かに周りに気がついた人からやる、
だから気がついてる人が評価されてて、
でも全然わかりますよ。
私、サラダの取り分けもできないし、
飲み物何しますかも聞かないですよ。
完全に受け身で言ってるんです。
でも言ってることに、
居心地が悪いというか、罪悪感があって行きたくないです。
スピーカー 2
でもそれでも自分は、
全く行かないっていうことの方がマイナスがでかいと思って言ってる。
その場に居すらしないよりかはマシと思って言ってる。
失礼を働くっていう。
スピーカー 1
いや、失礼じゃないと思いますけどね。
多分誰も気づいてないんですけどね。
自分だけが気にしてるとは思いつつ、
本当に私も全然できないです。
なんかキャパオーバーになります。
人がこっちで話してる、
こっちでもなんか話してる、
何々さんがこっち見てる、
食べ物が何かある、飲み物ないみたいな状態で、
飲み物ないですねってチェックというか、
ピックアップできないんですよ、情報から。
スピーカー 2
自分が気になってるのはそこで、
その学校行為証っていう言葉を立ち上げてやっていくことによって、
その今まで変わってこなかった、
その学校とかそういうものの基本的な部分っていうのを、
変えていきたいっていうふうに思っているのか、
なんかそれはわかんないなと思って、
で、学校行為証っていう話だけ、
その言葉の解釈だけでいくと、
要するにその対処療法的な感じがするのね。
要は今まで学校教育を受けて大人になった人たちへの処方箋、
みたいな文脈で語られてると思ってて。
スピーカー 1
今のところはね、今は第1回なの。
スピーカー 2
だからそこがそういうところに留まるのか、
留まらずに留まらないのだとしたら、
やっぱりどこまでそれを考えて何を主張していくのかっていうのが、
やっぱり一番大事だと思うし、
やっぱりその言葉の射程がやっぱりすごく広くて、
やっぱりすごくいろんな人に刺さる言葉であるだけに、
やっぱりそこにどのぐらい、どのような形で向き合っていくのかっていうのが、
すごい大事な講義になるんだろうなっていう気がします。
スピーカー 1
おー、確かに。
スピーカー 2
やっぱりね、いろんな人が学校行為証っていう言葉で説明できちゃうだけに、
それにやっぱり傷つきを感じる可能性っていうのも十分あると思うんだよね。
そこに対して。
スピーカー 1
それを対象化できるというか、
やっぱり学校、
自分のこういうところって弱さなんだよなというか、
自分こういうところが苦手なんだよなっていうのは思い込みなんですよね。
だからそれを対象化してくれるっていう意味では、
あったほうがいい視点かなとは思ったんです。
何事もそうなんですけど、
やっぱり学校って思わされるじゃないですか。
それこそ小学校とかでもそうですけど、
私はもう中学とかだと、
本当にもうコツコツ努力できないタイプだなとか、
みんなはこうやってるのにとか、
私全然真面目じゃないなとか、
やっぱり思い込まされてるんですよね。
そこで背徳した辞任みたいなのがいっぱいあるんですよ。
でもやっぱそれは、
学校っていう仕組み自体がそもそも
しんどいよねっていうことを、
言葉にできるとできないと違うし、
たぶん学校教育に読されてたら、
背の順っておかしいよねみたいなことにも気づけないじゃないですか。
だから、
自分がそう思わされてきたっていうことに気づくことは、
すごく大事だなって何事に対しても思うんですけど。
ある意味被害者みたいな、
思わされて、こうされてきたんだっていうことを、
でもなんかそこに関して、
そのせいにするな論調っていうのもあるんですけど、
私はそのせいにすることからしか始まらないと思っているので。
スピーカー 2
自分が今ここで全部を詳しく分かりやすく言えるわけではないと思うけど、
学校後遺症っていう言葉で救われる人もいれば、
そうじゃない人もいるんじゃないかなっていう、
それだけの広さを持ったワードだなっていう。
スピーカー 1
そうじゃないっていうのは、例えばどういうイメージですか?
スピーカー 2
なんだろうな。
そこに具体的にこうであーでっていうのが、
存在するわけでは正直ないんだけど、
なんかやっぱり、
そうね、
なんか、やっぱこれだけの言葉の広さというか、
っていうものに、
あんまりね、ここまでの広さの言葉ってあんまできないので、
やっぱりいろんな解釈があり得るんじゃないかなと思ったに過ぎないですね。
スピーカー 1
そうなのか。
この人、なんだろう。
学校というものにものすごく馴染んでいたみたいなイメージですか?
どういうことだろう。
いろんなパターンはあると思うんですけど、
ちょっと私の想定は狭いですけど。
スピーカー 2
いや申し訳ない。ちょっと今パッと分かんない。
分かんないけど。
スピーカー 1
確かに。
それがおかしいと思っていた人にとっては、
なんか救いになると思ったんですけどね。
なんかおかしいと思ってなかった人、
でもおかしいと思ってなかった人は、
無意識なマジョリティでもあるじゃないですか。
なんだろう。
それ自体は悪くないんですけど、
制度の中で無意識なマジョリティになってて、
でもなんか、ありませんか。
自分が悪いと思わされてきたのは、
そういう無意識の強者に対して思わされてきたなって思うんですけどね。
自分の恨みがあるのかもしれないけど。
こういう人たちはそういうことを考えたこともないんだろうなみたいな。
こっちのことを考えすぎだよとか、できないからでしょみたいな目で見てくるみたいな。
だからそれは学校という制度にバチッと当てはまってただけなのに、
そういう価値観を内面化している人がいる。
自分はできるやつみたいな。
そこまでいくとちょっとあれですけど、
学歴とかもそうだし、
社会にバチッとハマってきた人っていうのは、
その自己像を内面化してきてるわけじゃないですか。
でもそれはそれで危なっかしいと思うので、
そういう人たちにも概念として必要なような気がしたんです。
スピーカー 2
まあそうね。