自然と生きるを考える 自然資本論〜
この番組は森で働くことを愛する高橋と奥田が、マーケティングやデザイン視点を持ちながら、森、海、里など自然資本を巡る話を面白おかしくしていく番組です。
はい、北国の高橋です。山東の奥田です。よろしくお願いします。 よろしくお願いします。
はい、今回も前回に引き続きまして、うっしーさんに来てもらっております。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
そうですね、うっしーさんがめちゃめちゃ森の人になってました。
もうちょっと都会っぽいイメージでしたか?
いや、というかコミュニティとか教育の人だと思ってましたけど、やっぱり自分たちの暮らしをどうするかっていうのを真剣に捉えしていく中で、
基本的に森のまつわる現状やら、難しさみたいなのはむしろ体感しているっていう感じが。
田舎に行けば行くほど生きることに必死になってくるんだね、やっぱりきっと。
なるべくゆるふわ系でいきたいんですけど。
あー、わかる。
でもなんか、ちょっと力抜くと逆に目に力が入ってくるというか、いやこっちはガチですねって言って。
ちょっと気をつけないと。僕もそれあるんですよ。
そう、コミュニティって言うと共同体っていう風に訳すじゃないですか、一般的には。
秋田の公立美術大学の石倉俊明先生という芸術人類学者の方がよく5畳目でも一緒になるんですけど、よく一緒に遊んでくれる方なんですけど、彼が共異体っていうその共同体の同を異質の意にして共異体っていう風な言葉をよく使われて、
それはつまり人間だけのコミュニティとか同質性の高いコミュニティだけじゃなくて、もともと元来コミュニティっていうものは人間が生き延びるため、豊かに生きるために人間や人間以外の存在、
もしくはその死者や未来世代も含めた、ある種の異質さの中で一つの共同体感覚のようなものを持ちながら、なんとか人類がここまで生き延びてきたんじゃないかっていう、ざっくり言うとそんなことを話していて、
その共異体っていう言葉だったりとか、人間の内蔵に対して外蔵っていう言葉をなされていて、人間って結局口から肛門までチューブのように世界に開かれていて、外から来たものを食べて排出してっていう風に閉じてる系ではなくて、ある意味開放系だとすると、
目の前にある森とか田んぼとか畑とかっていうのは、人間の内蔵に対して外についてる臓器みたいな風に見立ってることができて、そういう意味だと森も農作物も自分の体の関係しているものであると、異質な存在をとともに生きているのであるみたいな話をして、
なんかそんなあくまで言葉の一つの使い方に過ぎないんだけど、前半のまたぎが授かるみたいな言葉を使うみたいなことも含めて、この自然と関わり合うとか森で遊ぶみたいなことと、この言葉とか概念みたいなのが設置してくると、おってなんか腑に落ちたりするなと思ったりして、なのでコミュニティの人と森の人っていうのは実は近接しているのではないかと最近思ったりしてる。
いや、いいっすね。それこそ与郎先生の記事か何かでも、その田んぼを見たときに、その風景が自分の体を作っているって思えないのは不自然だって話をされてたんですけど、野菜とか米とかいろんなものを食べて生きてるのだから、それ風景が自分の体だろうみたいな話をされたときに、
本当に膝をポンと打ちたくなるような感覚がありつつも、その感動を知人友人に話したときに全く共感されなかったり、なんか頭ではわかるけどみたいな話をすごいされて、そういうとこだぞって。
そういう意味だと、やっぱり身体で感じないと生まれない知性っていうのがおそらくあって、それは身体的知性とか呼ばれてたりとか、もしくは教育とか心理学だと記号設置みたいに呼ばれていて、その概念と自分の身体が設置していないと本当の意味でそれが何かわかんないと。
例えばよくAI研究で出てきた言葉なんですけど、記号設置っていうのは、その大量にAIが機械学習していったときに、このリンゴっていう画像を見せられて概念とラベルを自分で紐づけることができるんだけど、身体がない場合は本当にリンゴがどういうものなのかっていうのは本当の意味で理解しにくいみたいな、理解できないのではないか。
子どもたちの教育の話にちょっとずつちょっと移っていくと、子どもたちにとってもクラスルームの中で身体がなく、教科書で概念を学ぶとかテストで反射的に計算をするとか何かを記憶するみたいなことだけでもし教育システムが成り立っていたとしたら、
もしくはさらにそこにAIが入ってきて、自動物理性を処理してくれるようになってくると、記号設置の要素がどんどん切り離されていって、結果的に勉強面白くないなとか、もしくは難しくて高学年からついていけなくなるなとか、そういうふうになっていくんじゃないかみたいな話はよく議論に出てたりしますよね。
今そういう世界観になってきているよねっていう問題意識なんですか、それは。
教育のあり方への問題意識みたいなのは教育の会社もやっていたりすると思うことはあるし、この自然界も含めた関係性の中で身体をその中に持ち込みながら遊んだり学んだりするっていう機会っていうのも全体的に見たらやっぱり減ってきてる気がするし、
AIの時代みたいなバズワードで言われているような話も実際の本当に今時代の過渡期でこの新しいテクノロジーがどんどん暮らしの中に入っていくときに、じゃあこれからの人の学びのあり方ってどうなっていくんだろうみたいなのは割と妄想する機会は多いですね。
どういう教育を目指されるというか、子供たちにとって良い学びって何なんだろうみたいなのを考えたときに、虫井さん的には何を提供したいよなっていう感じで今取り組まれているんですか。
小学校とか中学校みたいなその高教育って結構日本はある視点で見ると優れていて、日本中普通裏裏どこに行っても先生がいて、指導要領というその一つのフレームワークに従いながらある程度の読み書きソロ版とか、
もしくは地域との関わり合いみたいなものも、もしくは給食とかも含めて安定した質を提供できている国ってそこまで多くないと思うんですよ、世界広く見ると。
なんかそういう高教育っていうインフラ、次の世代を育てるインフラの優れた面と同時にやっぱり構築化しやすい面というか、今までの昭和時代から続く一つの成功体験だったりとか目的性みたいなところで、明治維新以降は国家に必要な人材育成みたいなところに教育システムが発掘されていったし、
行動成長期は企業に必要な人材をいかに生産性高く輩出するかというふうに教育システムが発掘されていったとざっくばらんに言うとそんなふうに思ってて、これからの時代に国家、ないしは経済、成長っていう資本主義社会みたいなところがまた次のフェーズに入ってきたときに、
いろんな学びの、公教育というこの人類の一つの発明品がどう緩やかに変わっていけるかというのが大きなところでのやってみたいところで、その先の学びの場でどんなものが必要なのかといったときに、これは前半の話でも出てきたような人の多様性とかその人間以外の多様性も含めて、
本当の意味でのそのそういう多様性の中で遊んだり学んだりしていく環境をどう作れるかというのが当たり前のようであんまりできてない気がしていて、例えば同級生と先生と塾の先生ぐらいしか例えば知り合いが教育課程の中でいなかったとすると、なんかそれは多様性のある環境になっているのかみたいなことを言ったりして、
教育機関システムの中に子どもたちのもちろん多様性もあるし、そこに地域のいろんな世代の人たちが関わり合ったりとか、もしくは国語算数理科社会を裏の里山で学ぶこともおそらくできるわけですよね。
森に出かけていって、なんか算数の概念が、副の概念が分かったりするかもしれないし、図工と組み合わせられるかもしれないし、なんかそんな風に捉えると学習指導要領ってフレームワークを柔軟にその地域のそれぞれのグループに応じて再解釈しながらその多様な構成メンバーの中で探求したり遊んだりとか、
もしくは時に何かを知識をインプットするっていうのも必要ないわけじゃないと思ってて、やっぱ一定の量稽古が必要なものだったりとか、一定の知識がこれはあった方がいいよなみたいなものっていうのが常に問い直し続けながら指導要領の変化をし続けているので、
そういったものを変化させ続けながら、もう全部否定せずに受け入れながら、一番現時点で最良な状態を各地のローカルで作り続けて共有し合っていくっていう、なんかそんなことができるといいなと思います。
エリアによっての個別性みたいなものが結構重要になるっていう風に考えられているってことですよね。
共通していくべきものと、個別のその土地やフードやコミュニティによって生成されるものっていうのは多分矛盾せずに同居していくはず。
確かに確かに、そうですね。
その方がいいですね。
そうした時にその学校という存在、学校というのもコモンズの一つだと思うんですけど、学校という存在が今ってそのもちろん第一義的には子どもたちが育つ場所でもありつつ、
特に都市圏だとその塀に学校が囲まれていて、その学校に入るっていうこと自体も結構ハードルが高かったりとか、
学校ボランティアに登録して、ちょっと意識が高めの人じゃないとなかなか入ってきにくいっていう、なんかそういった状況ももちろんいろんな事件が起きたりとか、
SNSでなんかいろんなことが言われたりする中で閉じていく方が安心できる、守れるものももちろんあるのかもしれないけど、
その学校っていうそのコモンズの役割をもう一度再定義していくべき時期にもある気がしていて、
それは子どもたちに加えていろんな世代の人たちが学校っていうその共有空間の中で、例えば学校の中にライブラリーがあって本を読みに来てもいいし、
学校の食堂やランチルームが街の食堂として開かれててもいいと思うし、場合によっては過疎地で、今、簡易郵便局の成り手があまり多くないっていう話を、
郵政さんとかがされたりして、もう学校の中に郵便局入ってて、年金卸しに学校に行ってきますみたいな世界線も結構いいなとか思ったりするんですよね。
で、そういう学校の再定義みたいなのが起きながら、しっかりと子どもたちがその環境の中で育っていくと。
そうすると、そらくさっきの外像的な近所の工作法基地とか農園っていうところも、例えば給食とか食育的な視点では確実に絡んでくるし、
もしくは子どもたちが一定数住むと住宅需要とか、もしくは食品の需要なんかも増えてくると思うので、
そこで飲食店が成り立つかもしれないし、森の木をちゃんと生きないで小さな半径で切り出して住宅やエネルギーを作って経済を循環させることもできるかもしれなくて、
学校が再定義されて生き生きとしていくほどに、その小さな半径とか流域圏の自然資本までが良い循環が巡り始めていくような、
そんな学校の概念の拡張ができるといいなという妄想をしています。
すごい。めっちゃすごいね。
でも民間とかともう学校とか、公共教育とかが混ざり合う状態を作っていくってことですよね。
そうですね。今まで分断されていたものがまた新しい関わり合いを持っていくっていう、そんな風に思っているし、
公教育とか、もしくは保育園、子ども園みたいな次の世代が育つコモンズって、あんまり立場とか価値観が違えど、結構人がある程度一致団結しやすい場所でもあると思うんですよ。
かつそれが日本中つつ裏裏まで付接されているっていう、この日本のいい意味でのインフラの広がりっていうところを、
両方の視点で見ると、学校とか保育園とか子ども園とか幼稚園みたいな、どの町にでもあるものがアップデートされることで、
良い影響が生まれて生きうる、一番その新現地のスケールする新現地になるんじゃないかみたいなことを思っています。
すごい。じゃあ本当に小学校が、いきなりの循環だったり地域の風土の中に、むしろ今は一個外れた場所に置かれているのをもう一回置き直して、
むしろ中心に近いところで子どもたちと共に考えたり、一緒にその地域を作っていくっていうことをやっていけるだろうし、
昔はそういう側面もあったんじゃないかみたいなところもあるんですよね。
そう思いますね。今年間で日本全国廃校が400校以上毎年量産されてるんですけど、
毎年400がすごいですね。
このハードウェア自体はある意味すごく大事なストックだったりもするし、
学校がなくなった地域ってやっぱり結構苦戦するんですよね。
その土地に住む次世代がぐっと減っていくし、里山とか森林の資本という視点で見ても、
そこに次の世代がいないっていうことは、ここの里山はいかみたいになりがちでもあると思うので、
なので日本中すべてを同じレベルで作ってインフラを維持するかっていうと、そうじゃないとは思うんですけど、
ある程度豊かなコミュニティとか自然資本が残っている場所で、
例えば廃校になりそうな学校があったりとか、廃校になったけど何とかもう一度再生できるんじゃないかっていう場所は、
まだ可能性はあるんじゃないかなと思ってて、
廃校の廃っていうのを再生させる学校です。
廃校っていう風に呼んでたりして、それが横文字で言うとリジェネラティブスクールみたいな感じで、
人間性を回復しながらその中辺の社会関係資本や自然資本までも再生していくような学校のあり方と、
そのムーブメントみたいなのが起きるといいなぁなんて思ってます。
いいですね。
再校した事例ってあるんですか?どっかで一回終わったけどもう一回学校。
すごいね。
子供増えてきたんで。
そんなに多くないとは思いますね。
新しい学校を作ろうという動きって各地で少なからずあって、
そういった学校、インターナショナルスクールの場合もあれば、いわゆる一条校って言われてる私立の学校もあれば、
オルタナティブスクールの場合もあるんですけど、やっぱりそういった学びの場を作りたいって人たちが、
この廃校になった場所を生かしていくっていう事例はいくらかありますし、
学校って全部が全部ではないんですけど、結構いい場所に立ってるんですよね。
水害になりにくいような昔から人が住んでた場所とか、ちょっと土地が高くなってる場所に学校が建設されている場合もあるので、
土地の力が結構強いし、災害の時もそこが避難所になり得る場所もあったりするので、
活用できるいい土地にある廃校っていうのは何かに活用してもいいし、
それがもう一回学び場として再生されることで、何かまた変化が起きるっていうポテンシャルは結構あるんじゃないかなと思います。
まさに僕らも廃校を使った。
そうですね。
宿パン屋さんが始まるけど、この10月に。
そうですよね。
でも学びを作ろうとすると本当に色々やれることありそうだよ。
だって学校っていう単位で見ると思いますよ。
地元に戻った時に、僕は子供が確かにいないんですけれど、
子供を持っているお母さん方と喋る機会があった時に、
学校林があるんだけど、どうしていいかがわかんないみたいなことを普通にずっと言ってて悩んでるみたいな。
子供たちと使い方一緒に考えて遊んだらいいじゃないですかみたいな感じで普通に言ってたんですけど。
そういうところで本当は身体性を取り戻せそうなツールじゃないですけど、物理的なものはあるのに、
やっぱり使う側が使い方がわからないというか、
教える側にも身体値がないみたいなところの問題が結構大きくありそうだなみたいなのは感じてて。
それは親の世代も先生の世代もやっぱり30代からちょうど50代くらいの断絶されてしまった世代が多いからっていうことだとは思うんですけど、
そこを結構取り戻すのが、ムーブメントが起こってくればだんだんとそういう風になっていくのかもしれないんですけど、
その辺ってどういう風に考えられてるんですか?
一つが学校っていう共有地は結構みんなが参加しやすいというか、
例えば鹿児島で今開校活用して開こうとしている二度目小学校という場所は、
二度目集落という小さな集落の真ん中にあるんですけど、
やっぱりこの学校をもう一度開こうという時に、
ほんとに集落のほとんどの方々が喜んでくださるし、
イベントをやるというと集まってきてくれて、いろんな手伝いとか一緒に作ろうという風に来てくれたりしてて、
これって多分学校っていうこの共有地が長い時間軸の中で培ってきた多分一つの求心力とか、
もしくは俺らの学校みたいな自分ごと感を持ってるからで、
そういうパワフルさはあるなと思ってて、
その30とか50代が学んでこなかったとか忘れてしまった身体感覚とか、
自然との関わり方みたいなところは、
まさに僕もその世代で、この世代がもう一度それを取り戻していくというか、
幼少期はきっと人間みんな野生的に生まれてきたはずなので、
持ってた間違いだけど、それが何か違うものに上書きされていって、
なんか忘れされていったはずなので、
ビジネスパーソン的な視点でよくリスキリングして、
新しいスキルを見つけるみたいな話で、
学び直すのだみたいなね、スキルをもっと身につけるのだみたいな話して、
結構ビジネス文脈ってあると思うんだけど、
まだスキルとかそういうレベルじゃもはやない気がしてて、
今まで培ってきたことをちょっとアンラーニングして解いて、
本来持ってた生命性とか生命力みたいなのを、
もう一度獲得し直していくことを、
遊びや学びを通じてやっていくことができるといいなと思っていて、
だから学校っていうものが、
似た世代が入ってきてほしいなと思うのは、
そういった意図並みに、
小学6年生までじゃなくても、
何十歳以下になっても一緒に参加していけると、
僕ら世代にとってもリスキリングというよりは、
新しい何かを獲得することができるし、
企業の人材育成とかイノベーション創出とか、
越境人材みたいな文脈で言っても、
一見教育現場って企業にとっては遠いんだけど、
遠い方が学習効果がきっと高いはずで、
そういう意味だと、
もっと産業界が新しい学校像に参画していくことで変容して、
産業界自体の構造と人材も変わっていくみたいなことも、
あわよ配ってきたらいいななんてことを思った。
すごい。
連鎖的にね。
確かに関わりたいっていう人は、
学校っていう単位だとめっちゃいそうですね。
地域で森遊びの達人のおじいちゃんみたいなのがいたら、
教えてくれって言ったら喜んで来てくれそうな人。
本当にめちゃくちゃいますね。
確かに30から50の人たちがそこを失っちゃってるとしたら、
明日でもおじいちゃんたちに教わればいいですよね、みんなで。
そういう方が良さそうですね。
僕も秋田に引っ越してきてから、
遊び仲間というか遊びの師匠になってくれてる人って70アッパーばっかりですもん。
70アッパーすごい。
いいっすね。
すごいすごい。
それはすごいわ。
めちゃくちゃかっこいいですよね、みんな。
森で100メートルぐらい歩くだけで、
1時間以上遊んでますよね。
確かに。
洞察力、観察力、知識がね。
人間の知性っていうのが脳で考えるような知性みたいなのがあって、
もう一つが身体性とか身体と知性が絡み合っていくような世界があるとして、
それだけでも語り得ない世界みたいな、
一つの人間の持ってる感覚っていうのがあるんじゃないかっていうのを前、
哲学者の内山隆さんという方がおっしゃっていて、
それを彼は生命性とか冷静っていうふうに表現してて、
冷静とかいうとスピリチュアルになりすぎるから生命性の方がいいかみたいな、
なんかそんな話なんだけど。
ちゃんと距離とってる。
これはなんか頭とか五感って、
五感も本当は人間はもっと感覚を持ってるはずなんだけど、
五感って言葉にされることで5個しかないように思い込んでるけど、
実はもっとあるはずで、
例えば、
シレトコが地元の友人が僕いるんですけど、
彼が森の中歩いてて、
五感では全く認識してないんだけど、
エゾジカが自分のテリトリーに入ってきたら、
自分はなんとなくわかるんですよみたいな話をしてて、
あ、俺、生命性ってやつじゃないですか、
音とか匂いとか全くないのに、
こういう感覚があるみたいなので、
確かになんかこの五感に制約されすぎてるな、
俺みたいな話をその時思った。
テリトリーどれぐらいの距離なんだ?
気になるね。
熟達度でだいぶ変わってくる。
ですよね。
ハンター×ハンターの円みたいな感じ。
確かに。
僕長10mみたいな。
めちゃめちゃでかい。ビル1個丸ごとみたいな。
いやーそうか。
時間もまたあれなんですけど、
最後にじゃないですけど、
ウッシーさんとして子供たちに、
むしろ何を学んでほしいっていうとあれなんですけど、
今の教育もいいとこあるよねの中で、
でも地域に開かれたようなものとして、
学校定義再発明していこうよっていう提案の中で、
子供たちはその身体感覚を持った方がいいだろうっていうのは、
僕も感覚としてはめちゃ思うんですけど、
でも都市でもその違和感を持ってる人多いかもしれないですけど、
都市の教育っていうのはむしろ本当に、
今でも受験に全振りみたいな方向性は変わらないから、
大学の時に結局そこで差がついちゃうと、
その後の人生が親が結構心配するみたいなのが多分あると思うんですけど、
ウッシーさんも自分ご自身のお子さんも含めて、
そうは言ってもこういう人生、こういう学びを何か得てほしいんだよなーみたいなのってあります?
その出口戦略的な意味で言うと、
唯一あるとしたら、今の僕ら世代とか先行世代が持ってる成功体験とか価値観で、
子供たちとか次の世代にこうなってほしいとか、こんな仕事してほしいみたいなところを手放せるかっていう、
その目的を喪失させるというか、手放すことが結構大事だと思ってて、
何のために子供たちが学ぶかって言った時に、
100年前は日本という国家をより多く共栄するために学ぶのです、みたいな言ってたかもしれないし、
その行動成長期は日本が経済成長して、みんな稼いで豊かなになるために勉強して学ぶのですという風に言ってたかもしれないけど、
これからの時代はその目的をある意味手放して、より快晴な世界になって突入していくみたいなことかもしれなくて、
で、あるとしたらもちろん幸せに生きてほしいし、その幸せに生きるっていうのが人間中心の世界だけだと、
気候変動とか、温暖化とか、熊の問題とか、やっぱりそれだけだと解けないものがこれからさらに降り注いでくるから、
そういう意味で自然資本みたいなテーマが、ちゃんとその子供たちが生きていく世界の中に、
ちゃんと一つの仲間として同居していくといいと思うし、なんかそういうところに関わり合えるような身体感覚とか、
そこから獲得される知性とか、さっき話していったような生命体みたいなところが、やっぱりちゃんと幼少期の中で獲得されたりとか、
もしくは忘れていかないような環境を作ることができると、もうその先はその先の世代が作っていくし、
その時どんな仕事があるかとかも全く僕らではそんなことできないから、もうなんか好きに生きてくれみたいな感じっすよ。
いいですね。確かに。目的、こちらの何か意図目的を外して、どれだけ子供たちの何だろう、
そういう感度とか関心とか好奇心に対してアクセスできるかっていうのが大人側の課題でしょうね。
そうね。思惑を押し付けようとしちゃうからね。
自分たちの世代のやっぱり成功体験とか、もしくは上手くいかなかったことみたいなのを晴らすような話っていうのはよく聞いたりするから。
今日ちょうど下手屋のサーカスをやってる曽我さんっていう方とお話をしていて、その方も教育のことをいろいろやっているっていう中で、
学術的にも教育というか幼少期の経験体験が聞いてくるのは実は40代ぐらいであるみたいな研究結果が出てて結構残酷だったみたいな話をしていて、
すごい面白いなと思ったんですけど、やっぱり教育で見ているのは多分ちょっと18歳とか20歳とか、その辺までにどういう成長するかみたいなことだと思ってたら、
3、40歳ぐらいで結構病んでくるというか、今何のためにやってるんだっけみたいな話をしてて、
そのやっぱり人間の一生で考えた時に短期的な目線で見ない方が何事もいいんじゃないかって思った。
人間もそうなんだね。
そうそうそうそう。すごい面白いなと思ったんで、うしさんの話はすごい納得というか、そうだよな。
押し付けられるからしんどいよな。
しんどいよね。
逃げたいよなって思いますけどね。
なんか、学力とか体力とか、どんな仕事をしてるかみたいな、僕らの時代やその前の時代の一つの物差しみたいなのっていうのは、
もうちょっと相対化されていく気がしているので、なんかその短期的に見たらテストの点数がとか、行ってる学校がみたいな話って、
思うことも人によってあるかもしれないけど、長い目線で見たらもう誤差みたいなものになってるし、
物差しが単位化してたら別に、なんかそこで同じ土俵で戦わなくてもよかったりするし、
なんか最後の最後に残ってたらいいなっていうのは、やっぱりその自然豊かなこの火山列島で暮らしている状態の中で、
クマともいい距離感で暮らしていけるし、うまい飯が食べ続けられて、一緒に飯を食う仲間がまあちょっとでもいるぐらいな感じでいれば、
まあ人間それなりにハッピーに生きていけないかなと思ったりはしますよね。
ですよね、ちゃんと川に魚いたらいいよねっていう。
逆に川に魚がいなくなった方が悲しいもんね。
本当やばいよな。
やばい、水がなくなり魚がいなくなるみたいになったらもう本当絶望しか感じないよね。
困ったら川行けばいいやみたいなメンタリティがあったのに川が枯れちゃったみたいな。
国破れて産がありみたいなやつの産がもなしってなるとちょっときついっすね。
きついです。
マトリックスの世界みたいな感じでもうなんかデジタル化の中の自然で森林浴してるみたいな感じで。
寂しいな。
つらいつらい。
岩のエキスとかを注入されて。
うまいな。
自然を感じるみたいな。
いや、もうちょっと豊かに生きたいですね。
そうですね。
いやでも本当にそこの、なんだろう、世代を超えた小学校なりようみたいなのがめちゃめちゃヒントというか。
そうだね。
大事だと思うし。
そこから多分地域の食文化とかそういうものもじいちゃんばあちゃんから聞いて、その土地の風土みたいなものに愛着を持って、これなくなったら悲しいよなって直感的に思えるっていうのが、そういう人が増えるといいなと思うんで。
うしーさんも行ったり来たりしながら大変だと思うんですけど、是非その活動も応援してますし、稲もそういう意味では稲生っていうチャイム通信もなしみたいな。
すごいよね。
なんかね、その教育要項の読み方で結構できるんだよみたいな話は全く知らなかったので、稲生の話聞くまで。
稲生はもう先駆者ですね、完全に。
やっぱりそこの先生たちが考えたり子供たちと対話するってことに対する大変さじゃないですけど楽しさでもあり、それをやりたい先生たちが増えていくっていうのも多分大事なんだろうなっていうのは思いますし、
なんかさっきの企業の話で、僕ら企業、東京にも地方にもいろんな会社があって働いてるけど、災害みたいなのが起こったときに都市部型の働き方をしてる人たちはめちゃめちゃアタフタというか、
今は自分は何をしたらいいかが開幕検討つきませんっていう状態だと思うんですけど、それが企業もそういう自然の中で何をできるのかみたいなことを学んでいくと会社のレジリエンスが上がるような話が見えるというか、
そういうメンバー多い会社って結構何か起こったときに強いなって 強そうだね、確かにそうやって社員一人一人がいろんなところに越境してる方が多分イノベーションが起きる確率が高いっていうのは計画的にもある程度見えてきているし、
災害時のレジリエンスとかBCPみたいな視点で言うと企業単位で2地域居住ローカルを作っておくみたいなのはいいと思いますね、そこで教育留学したりバーケーションしたりとか地域で何かプロジェクトやったりっていう先がみんな1企業1個ぐらい持ってると都市で何かが起きたときにみんなそこに疎開しに行くみたいなのもできる
東京の企業の人にインターンしてほしいわ
それ面白いね
会社にね何か1週間ぐらい絶地暴行、1週間じゃ足りないかもしれないけど2週間ぐらい絶地暴行的に来てもらうみたいなね
いいっすよね
オフィスの一角に一席置いてもらって
スイートグラス1個定時ぐらい貸すわ
イナショーの話はすごい面白いなと思っていつか遊びに行きたいなとずっと思ってたんですけど
さっきのコモンズの新陳代謝が起きていく仕組みをどう作るかっていうのがすごく大事だっていう話が前編であったと思うんですけど
イナショーも時代を越えてカルチャーが続いていくっていうのが結構すごい部層だと思ってて
町長が変わろうと教育長が変わろうと先生が移動しようと残る何かを持ち続けられるっていうのは
もうちょっと科学できると多分他の地域の学校が例えば思いを持ってる教育長とか町長が新しい取り組みをしたけど
先生が移動して元に戻っちゃいましたみたいな事例って結構あるんですよ
ありますあります
これを乗り越えられる知恵がきっとイナに眠ってる気がして
そうですね
確かにねすごいね
二度目賞も鹿児島二度目賞もそれをちゃんと形式地化したりとか
世の中のいろんなコモンズとしてその地を広げていくことの一助になればと思ってるので
イナと一緒にやれる接点がちょっと見えてきた気がします
面白いですね確かに本当に数十年かなり古くからやって
そうなんですね
思いのある校長から始めたんだけどそれが校長変わっても終わらなかったっていうのは確かにすごい事例ですね
効率なのに
だからあれだよねそのイナ賞で働いてた先生の中で移動は当然ある
当然あります
移動すると普通の学校教育をしているってことだよね先生は多分他の学校では
そうですね
もしかしたらその先生がじわじわと周辺を変えている可能性ももしかしたらありますよね
そうですよね確かに
イナ周辺あれどこまで移動するのかちょっとわかんないけど長野県で全域で移動するのか
多分憲法憲法府県などがいくつかブロックがあると
ブロック内で動きます
そうですよね
確かにそれめっちゃ興味ありますね
確かにその組みが
組織が変わっても文化は残るっていう良い事例だ
しかも別にそこに行きたいって手挙げて行かされる行けるわけでもない可能性があるから
もちろん
もともとイナ賞のスタイルに興味もない先生たちが集まっているのに
ちゃんと成り立つ状態になっているって相当すごいですね
多分先生ごとの苦労あると思うんですけど
もちろんね
向き不向きがあるから
だけどちゃんと継承されているのは面白いですね
確かにそこに顧問の継承顧問の更新の頻度が実は一番あるかもしれない
僕も行ってみます話聞きたいなそれ
すみませんすごく面白い
教育の話あんまりする機会がないんですけど
地域の顧問というかそういうふうに捉えて
世代を超えるような場所として確かに一番相応しいのが実は学校かもしれないというのは
すごい実感が持てて面白かったですね
ということで2回にわたってうっしーさんに来ていただきまして
またいろいろ今後もいろいろ話しさせていただけたらと思います
ありがとうございます
ありがとうございました
稲荷に行きます
待ってます
Xでのメンションハッシュタグ自然史本論をつけてのコメントなどでも大丈夫です
自然史本論は各週土曜日に更新されます
最新話を見逃さないためにぜひ番組のフォローもお願いいたします
もし気に入っていただければレビューをしていただけると励みになります
それではまた次回お会いしましょう