▼チャーケンのMCH超会議▼
【💪チャーケン🌋のMCH超会議LIVEアーカイブ】2025/3/4
https://stand.fm/episodes/67c68be6dd550a5a48b29bc0
▼岡田斗司夫のYouTube▼
加害者叩きは正義か悪か?
「そもそも道徳の定義を知らない人が多いんですよ」
サイコパスが教える「正しさ」の話。【岡田斗司夫 / 切り抜き / サイコ...
https://youtu.be/AtL6YPQcz1E?si=18xlnFxs34PKeeNl
[BGM: MusMus]
#毎日配信
#ごんぎつね
#倫理
#道徳
#子育て
---
stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。
https://stand.fm/channels/63804647b4418c968d353e65
【💪チャーケン🌋のMCH超会議LIVEアーカイブ】2025/3/4
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「そもそも道徳の定義を知らない人が多いんですよ」
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サマリー
このエピソードでは、ゴンギツネに関する小学生の感想文が話題になり、倫理観と道徳力の違いについて考察されています。特に、物語の内容を通じて、個人の感情と集団の価値観のギャップの重要性が強調されています。ごんぎつねの教材を通じて、読解力と倫理観の重要性について論じられています。また、感情を察する力が読解力とは異なることが強調され、道徳教育の必要性についても語られています。
感想文の問題提起
Chikaraチャージ レイディオ💪
こんにちは、Chikaraです。緊急放送を撮らせていただいております。よろしくお願いします。
いや、何の緊急放送かというとですね、
今日のライブで三宅さんとの、毎週やっている、1時からね、火曜日1時からやっている、
千葉県のMCH長会議の中で、僕がですね、
なんていうことか、スマホの電源が完全に落ちてしまって、
最後の三宅さんとの、せっかく三宅さんが提示いただいたトピックについて、
しっかりディスカッションできないまま、意見交換できないまま、
会議が終わってしまうという状況を作ってしまって、本当に大変申し訳ございませんでした。
いや、一応充電少なめかなとは思ったんですけど、
半分ぐらいの電池があったので、1時間ぐらい持つかなと思ったら、
気づいたら一気に電池がなくなっていて、
再度電源を上げてもすぐにバンと落ちるっていうね、
そのぐらいまで電池消耗しきってしまったということで、
もしかしたらマイクが電源を使うから、
すごい電池を食ってしまっているっぽいですね、たぶんね。
だからちょっと気をつけないとなと思ったんですけど、
今日はその話じゃなくて、
MCH長会議、茶会見で最後議論に宮剣さんが提示していただいてたトピックについて、
僕なりの言おうと思ってたことをお伝えしたいなと思ったのでこの放送を撮っております。
なので前段の話とか説明とかはちょっと完全にきれいに説明できないかもしれませんけども、
ぜひ概要欄にリンクも貼っておくので、
MCH長会議のそちらの話も聞きながら、
僕の一つの視点として聞いていただければと思います。
ぜひ茶会見を聞いていただけた方や、
特に宮剣さんに聞いていただきたいなと。
その上でまた何かつながる話のようなものが出てきそうであれば、
また来週、続きもできればなと思いますがよろしくお願いします。
何の話だったかというと、
Xでちょっと話題になっているか炎上しているということで、
ゴンギツネという小学校で習う本の感想文を書くという問題で、
ある小学生が、自分が昔小学校だったときに書いた感想文が、
先生からはちょっと残念と、
そういうことじゃないからもう一回読み直してほしいな、
みたいな先生からの指摘だったことになったようで、
それについて賛否が盛り上がっているという感じの話でした。
倫理観と道徳観の違い
ゴンギツネは僕は全然内容を言われても覚えてないし、
どんな話だったかもわからなかったんですけど、
かいつまむとゴンギツネという悪さをする狐がいました。
その狐がうなぎを盗んでいったと。
村人のある家から盗んでいったんだけど、
実はそのうなぎが、その家で寝込んでいるお母さんか誰かに対して、
元気になってほしいと、せいをつけてほしいということで、
村人の男の人、お父さんか息子さんが用意していたうなぎだったのに、
ゴンギツネが盗んでしまったと。
たぶんお母さんは病気で亡くなってしまったんじゃないかな。
そうするとその村人はその狐をあいつか!みたいに恨んでいました。
ただゴンギツネは実は、そんなうなぎを盗ってしまった自分が悪かったということを実は気づいて、
せいがつくうなぎを自分は盗ってしまったけれども、
まだそのお母さんが亡くなる前に、
なんとかそのお母さんにせいがつくものをお返ししたいということで、
実は裏で自分が盗れる範囲のせいがつくようなご飯、
栗とか森に落ちてる何かとかを、
家のところに毎回ちょこちょこ持ってきてくれてたそうなんですよ。
息子さんはそれが誰が持ってきたかわからないけれども、
たぶんありがとうということでお母さんに食べさせてあげたりしてたんだろうけど、
ある時にまたゴンギツネが栗とかをお母さんのためにと思って持ってこようとした時に、
ちょうど息子が見つけたと。
その時まだ息子はゴンだったのか知らないから、
両銃で打ち殺したと。
オマイガード!俺の大事なうなぎを盗んだ奴は!って言って打ち殺した時に見たら、
いつも届いてた栗をそのゴンギツネが実は持っていてと。
で、「あ、ゴン、お前だったのか。持ってきてくれていたのは。」みたいな風にして終わっていくという、
そんな話だそうです。ちょっとどうでしょうか。
これについて、園長の元になった作文を書いた人はこんな感想を書きました。
その息子さんは、
ゴンを殺さなかったら、もうちょっと栗とかもらえたのにって残念に思ったんじゃないかな、
みたいなことを感想文に書いたところ、
先生からは、そういうことなのかな、本当に、
もう一回ちょっとゴンギツネを読んでみようか、みたいなことで罰をくらったみたいなことだそうです。
これを聞いて皆さんはどう思いましたか。
この話でもう7分、ごめんなさい、つっかっちゃったけど。
僕がこれを聞いたときに一番最初に思ったのは、
たまたま今朝会社に来るときに、
岡田斗司夫さんの、「倫理と道徳の違いをわかりますか?」っていう動画を見てたんです。
たまたま。それがものすごくわかりやすいなと思って、
この話とちょっと結びついたんですけど。
サイレンがめちゃくちゃ鳴ってますけど。
聞こえますか?
さすがにこのサイレンは拾っちゃってる気がしますけど、すごいうるさいです。ごめんなさい。
大丈夫かな。
岡田斗司夫さんの倫理と道徳っていう話で、
どんな違いがあるかっていうことを説明してくれていたときに、
直接この話に全部が関わるわけじゃないんだけど、
それも概要欄貼っておくので見ていただければと思うんだけど、
要は倫理っていうのは、
その人個人個人がどう思うかどう判断するかの個人の話が倫理。
エティックって言ったかな。エチカとかエティックって言ったかな。倫理。
で、道徳っていうのはモラルだと。
道徳っていうのは、道徳の徳は徳目のこと。
徳というものを積んでいく道筋のことで道徳っていうことなんだけど、
要は倫理と反対で、
道徳は個人じゃなくて集団で本当はこうあったほうがいいよねっていう、
その倫理の要は最大公約数を取っていく教えが道徳であると。
だから個人では本当はこれは良くないと思っていても、
道徳的にみんなが集まる場ではせざるを得ないのもしょうがないかみたいなこととか、
逆に個人的にはそれは、
個人的にはダメだと思ってても、
道徳的にはみんなでいるときにはそっちに従う。
こうしとこうか、右というところが正しいと思うよみたいなね。
だから個人とみんなの集団のときとの価値判断として、
倫理観と道徳観というのがそれぞれ別であるという話をしてたときに、
すごくこれ面白くないですか。
その中で扱ってたのはいじめとかに関する話で、
例で言ってたりしてたけど、
個人的にはいじめは倫理としてはダメとわかっているけれども、
集団で他の人たちとの中でいるときには、
やりはしなくても見て見ぬふりをするぐらいはするケースがあるでしょう。
だから道徳としてはいじめを許容せざるを得ないというか、
そういうこともあったりすると。
だからこの辺の判断は個人の倫理と道徳的な判断と、
無意識か意識しているかにかかわらず、
人は使い分けをしているというかギャップが生まれる可能性があって、
このギャップがまた、
良いときもあれば良くないときもあるみたいなことを言ってたかな。
とにかくそれを思ったときに、
このゴンギツネの話はまさに僕はそう思ったんです。
個人的にどう感じるかっていうのはもう倫理的な話で、
それはもう男の人が殺さなかったらもっと栗もらえたかもしれないって思うっていうのは、
それは思っていいじゃないですか。個人だから。
その感想文を書いた人はそういうふうに感じましたということだから。
それは僕が切なさを感じるか感じないか。
僕がブレイとゼレンスキーを思うか思わないかっていうのと一緒で、
こんなの大人だってわかんないですよ。
それぞれがどう感じるか、
誰かが話した言葉の裏側にどんな感情が隠れていると察するか察しないか、
察することができるかできないかとかは、
僕自身が今わかることは、答えはわからないか。
だからそれは倫理的な話として、自分でどう感じるかっていうのは、
それはそれで大事なことだし、大事というか教育で変わるものじゃないしと思います。
ただし、ただしです。
集団的にその倫理が別々の人たちが集まって、
最大公約数的に、そうは言っても、
世間一般的にはこっちのほうがよりみんなの意見が合致しそうなところってこの辺じゃないのっていうのを寄せ集めたものを道徳だとすれば、
その道徳というものは理解はしておいたほうがいいじゃないですか。
だから、例えば人を殺したらダメでしょっていう話とかも、
腹の底で言えば、別に殺したっていいじゃんみたいなことを思ってる人もいるかもしれない。
それは倫理的なことでしょ。倫理にあらずだったら不倫かもしれないけど。
それはそれで個人個人の判断はあれど、
でも道徳的に世間の集団で考えたときに、これは許容しちゃダメでしょっていう、
これは許容してもいいんじゃないかっていう判断はまた別にありますよっていうことをきちんとすれば、
僕はそれこそ教育で賄っていく話だろうと思いました。
だからこそ道徳という教育が本当に必要なんだなっていうのは僕はそれを思ったんです。
そうじゃなかったら、好き勝手すりゃいいじゃん。
好きに思ったら思ったらでいいじゃんっていうのが、たぶん今ネットで沸き上がってる意見なんだと思いますよ、一つのね。
なんで自由を束縛するんだとか、好きに考えたことをなんでダメだと頭ごなしに言うんだみたいな意見がたぶん出てるんでしょうけど、
それは倫理と道徳をごっちゃにしてる人の意見かもしれないし、
道徳に言うリベラリストみたいな、自由がベストだ、最高だみたいに言いたい人たちの意見なんだと思いますが、
教育の重要性
それはもう一回だけど、倫理と道徳で言うと、倫理という観点ではそれはそれで一つの一理あるけれども、
教育としては僕は集団で生きていく以上です。
最大公約数的にどの辺のことが落としどころになりそうかっていうのは、
理解をしておく必要はあると思うし、
その理解をしておくためには教育が必要だろうというのが僕は思うというのが言いたかったことでした。
だから道徳の授業でゴン吉に扱ったらどうでしょうかっていうのをコメント欄でライブ中に書いたんだけども、
その意図は僕はそういうことでしたね。
その中で宮剣さんが一つ、別の観点でね。
ゴンギツネという題材は、作った作者か、それを問題にしようと思った人にとっては、
どう考えても普通はこういうふうに考えるでしょう、こう感じるでしょうっていうことを、
わかりやすい題材としてそのゴンギツネという教材を用意しているということの視点でいくと、
答えが必ずこういうふうになりますよっていうのを教えていく。
教えていける基礎教材みたいなもんだから。
だからこそ答えをしっかり、この答えはこれですと教えていくために使う教材であるし、
先生はそういうふうに教えていくことが間違いじゃないだろうという視点で言ってくれてたけど。
もう一回ですけど、その大前提は読解力を養うための教材として、
シンプルでわかりやすいっていうことを一つ言ってたけど、
そこは僕はちょっとどうしても違う意見で。
もう一回だけど、読解力は、人の感情は読解できないです。
できないっていう言い方はちょっとダメだな。
僕は読解できないというのが、この半年くらいではすごくわかりました。
言葉として捉える人は、世の中に僕みたいな人がいて、
その人たちは言葉からは感情を読むことができないというか、
自分に湧き上がってこないものは、
どんなに言葉で覆おうと、僕はものすごい言葉を覆おうとしたけど、
わかんないんですよ。
でも答えはこれですって言われると、混乱しか起きない。
なので読解力は僕はものすごくある人だと思うんです。
文字とか文章を読解するという力は、僕は逆にむしろあるほうだと思う。
例えばチャットGPTとのやりとりしながら、
ゼレンスキーとかトランプとかウクライナの話を一気に2日ぐらいでわーっと読解していって、
チャーケンでも宮健さんが言ってくれてたけど、
僕の今の2,3日から1週間くらいぐらいのチャットGPTとのやりとりで収集した僕の理解力は、
結構なところまでいってるって言ってくれてるぐらいに、
僕は多分読解力はあるけれども、
ゴンギツネの話を読解できるかっていうと、
そこは読解力の問題じゃなくて、
感情を察することができるかの、察する力の話なので、と僕は思うので、
読解力の問題には適さないんじゃないかっていうのが、
僕はちょっとその会話でふと思ったことでしたね。
むしろだから、僕はそれを読解力の問題だと思って、
僕も教育を受けてきたからこそ、
僕がわからない感情をいまだに文章や理屈や文字で覆うとしちゃうんじゃないかと、
いうのはちょっと今しゃべりながら思いましたね。
でもそれは読解のせいじゃないですよ、と思います。
なのでもう一回だけど、読解力をつけないそのスキルを教育していくのであれば、
物語でやるんじゃなくて、本当にちゃんと理屈で成り立っている文章で答えがはっきり、
文章の中で読解できるもの、小論文的なやつ、
データを読んでデータを説明してるやつとか、わかんないけど、
そういうのを国語で読解力の問題に題材で使うべきで、
もう一回だけど、感情についての話は国語の読解力じゃなくて、
人の道徳として察する力だったり、
だいたいこういうふうにみんな考えていくもんだよなのか、
いろんな感じ方はある前提だけど、
この辺をみんな気になる人はいっぱいいるんだよっていうのを理解したほうがいいよねみたいな、
道徳の教育として言語技術を使っていくのが、
僕はいいんじゃないかというふうに思った次第です。
いかがでしょうか。
だから宮剣さんが言ってることに僕は賛成で、
先生教育の現場では答えを導いてあげるのも必要だろうし、
だからってでも一つの……
あ、でも宮剣さんそんなこと言ってなかったかな。
この辺は宮剣さんと会話しながら意見交換できればよかったところかと思いますけど。
一方的な僕の意見としては、もう一回ですけどまとめると、
ゴンギツネのような感情を察していくような問題については、
それは読解力の問題にはなり得ないというのが僕の今感じたことであり、
ただし必要ないと言ってることじゃなくて、
そのゴンギツネのような題材を使うのは読解力じゃなくて道徳力をつけていく分野で、
教育に使っていくといいんじゃないかというふうに思いました。
道徳教育の意義
そうだね。道徳力。
集団で人間が行動していくときに、理解をしておいたほうがいいものを道徳力としたら、
それはきちんと教育でカバーしていったほうがいいだろうと思いました。
そうじゃなかったら、自分の倫理、自分の正義でしょ、倫理ってね。
自分の倫理、一人の倫理、僕が正しいと思うからそれでいいじゃないかっていう人だらけになって、
今みたいになるわけです。多分ね。
だからね、そうは言っても、人と人が共同で共存していくには、
ある程度の最大公約数として、道徳をお互いの共有認識として理解をしていく教育が必要じゃないかなというふうには思いました。
そういう意味では僕も、今皆さんにスタイフを聞いていただきながら、
皆さんのコメントをいただきながら、僕の今道徳力を磨いているところだと本当に思います。
僕が当たり前と思っていたことが当たり前じゃないかもしれないという気づきをいただいたりしているので、
そういう意味では本当に、
あ、こういうふうに感じる人もいるんだ。
逆に僕が感じるけれども、こう感じない人もいるんだみたいなことをすり合わせていくっていうのはすごく大事な時間だし、
それは小学校とかでもぜひ教育に使ってくれるんだったら、
ぜひそういう時間があるといいんじゃないかなというふうに思いました。
ということで、どうでしょうか。
国語の読解力としては、答えはこれですと。
一つだけの答えを導き出せることがいいと思います。
ただしそのときには本当に読解できる文章じゃなきゃおかしいと思います。
感情的なものは一つの答えにはなり得ないと僕は今わかったので、
そういう物語的なもの、感情を読んでいく、察していくようなものは、
国語で読解の答え一つだけこれって決める問題として扱うのではなく、
道徳としていろんな答えがある中で、みんな正解なんだけれども、
さらにその上で道徳として、集団体みんなで判断するという一つの行き着く答えとして、
道徳的にはこういう答えがあるよねっていう理解を促すっていう場に、
ぜひ使っていただくと、ゴンキツネのトピックはいいんじゃないかと思いました。
ということで、長くなりましたが、以上です。
言いたいことは僕も言えたと思いますが、いかがだったでしょうか。
ぜひ三宅さんには届いているとうれしいなと思いますが、
他の方も、茶犬聞いてない方も、またご意見あればぜひご意見ください。
以上です。それでは行きます。
力チャージ!
今日も力あふれる一日を!
23:43
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