マンデラの生い立ち
こんにちは、ちょっと常識ハンズレでパタヤブリな語学コーチちじゅ|です。さて、今回も【Echo of Life】EoLをやってまいりたいと思います。
今回はですね、ネルソン・マンデラです。ネルソン・マンデラですね。
言わずと知れた南アフリカの大統領となった方なんですけれども、この名前のDeのあたりをね、強く言うということだけ覚えてもらえたらいいと思います。
ネルソン・マンデラ、英語名ですけどね。ネルソン・マンデラでございます。で、今回紹介する引用文は、
【私は決して負けない。勝つか学ぶかのどちらかだ】という言葉についてご紹介したいんですけど、これも後ほどね、英語でちょっと見ていきたいと思います。
ではね、この言葉なんですけども、27年間の極中生活を経て南アフリカの大統領となったマンデラの逆境に対する不屈の精神を表した言葉という風になっておりますので、
人物についてちょっとご紹介をまずしたいと思います。
1918年7月18日、南アフリカ東ケープ州の小さな村ムウェゾで一人の男の子が生まれました。
レンブ族の族長の息子として生まれたロリ・フラフラ・ネルソン・マンデラ。
幼少期の彼を知る人々は、この少年の中にすでに波外れた正義感と勇気を見ていました。
9歳で父を亡くした彼は、天武族の拙将の下で育てられます。
拙将の宮廷で、彼は様々な部族の長老たちが集まって議論する姿を見て育ちました。
全員が発言し、合意に至るまで話し合いを続ける伝統的な民主主義を目の当たりにしたのです。
後に彼が語ったように、これが彼の政治的思想の基盤という風になりました。
アパルトヘイトの現実
大学時代、学生運動に参加した彼は、低学処分を受けます。
22歳でヨハネスブルグに出た彼を待っていたのは、アパルトヘイトですね、人種隔離政策という厳しい現実でした。
黒人は白人専用の場所に入ることも、質の高い教育を受けることも、政治参加することも許されない。
この理不尽な制度に直面した時、若きマンデラの心に、確固たる決意が芽生えました。
彼は弁護士となり、差別と戦うための活動に目を投じます。
1944年、26歳で彼はアフリカ民族会議ANCに参加。
最初は平和的な抗議活動を信じていましたが、
1960年のシャープフィル虐殺事件で、69人の非武装の抗議者が警察に射殺された時に、彼の考えは変わったんですね。
暴力に対しては、暴力で追いずれるしかない時もある、というふうに、武装闘争組織民族の槍を設立したんです。
しかし、1962年、国家反逆罪で逮捕。
法廷で彼は堂々と語りました。
私は白人支配と黒人支配の両方に反対してきました。
私は民主的で自由な社会という理想を抱いています。
それは全ての人が調和して、平等な機会を持って生きられる社会です。
この理想のためなら、私は生きる用意があります。
そして、もし必要なら、死ぬ用意もあります。
和解の道
就寝刑を宣告され、路弁等の監獄に就管された時、マンデラは44歳でした。
独房は畳1畳ほどの広さ。
床に薄い毛布を敷いて寝て、バケツで用を足す。
石灰岩の採掘作業で目を痛め、粗末な食事で体重は激減し、家族との面会も厳しく制限されました。
それでも彼は希望を失いませんでした。
国中で法律を学び、監視たちとも対話を重ね、時には彼らの家族の問題の相談にも乗ったんですね。
彼はこう語っています。
苦しみは私たち共通の絆だ。
それは同情や恩恥せがましさではなく、希望へと変える方法を学んだ人間同士として私たちを互いに結びつけるものだ。
驚くべきことに、彼は復讐心ではなく和解への道を模索していったのです。
同胞の政治派たちと共に勉強会を開いて、路弁当大学と呼ばれるほど知的な議論を交わし続けました。
27年間という気が遠くなるような歳月を彼は自己研磨と和解への準備に費やしたのです。
1990年2月11日、71歳のマンデラがついに釈放されたとき、世界中が片づを飲んで見守り出した。
復讐を叫ぶのか、それとも?
彼が選んだのは和解でした。
私は昨日と同じ人間として牢獄の門をくぐってきました。
憎しみや恨みを抱いていては、私は今でも牢獄の中にいることになります。
1994年、南アフリカ初の全人種参加選挙でANCが勝利。
マンデラは大統領に就任しました。
75歳での大統領就任です。
そして彼が最初に行ったのは、真実和解委員会の設立でした。
復讐の代わりに真実を語り合い、許し合うことで国を統合しようとしたのです。
マンデラはまさに復讐の精神と全ての人を包み込む深い愛を体現した人物でした。
はい、ということなんですね。
1994年にマンデラ大統領に就任したんですけど、
これって私たちのね、いわゆる日本ではもうピーチックパーチックなんかこう弾けてた頃ですよね。
パブリーな時代だったと思うんですけど、
この時に初めてね、全人種が参加できる選挙が行われたっていう、
それまではね、黒人は参加できなかったっていうことなんですよね。
本当に考えさせられますよね。
はい、では今回の話に味わう英語の引用文なんですけれども、
まあ、えーとですね、私は決して負けない、勝つか負かのどちらかだというふうに日本語で最初冒頭お伝えしたんですけれども、
これは英語で元々の文はこんな感じです。
I never lose. I either win or learn.
です。
I never lose. I either win or learn.
ですね。
はい、これまあ、意味はね、私は負けないよと。
I either win.
どちらかだ。
win か
learn か
どちらか、勝つか、学ぶかのどちらかだっていうね。
まあ、普通はね、あのー、win or lose この二択なんですよね。
勝つか負けるかっていうのが世の中でよく言われる、Orで括ったものなんですけれども、
彼の場合は、まあ、lose っていうのはもうとりあえず選択肢にないよと。
で、選択肢はどっちかって言ったら win or learn っていうふうに言ってるんですよね。
win or lose じゃなくて win or learn です。
学ぶかどちらかだっていうふうに、第3の選択肢っていうものを彼は見出しているわけなんですよ。
で、まあ、このマンデラの言葉からね、私たちの英語を学習とか、そして人生に通じる深い洞察を得るっていうこともできるんじゃないかと思います。
失敗か成功かっていうことじゃなくて、学びの機会を与えられたというふうに、第3の選択肢を選ぶっていう、こういった考え方なんですよね。
なので、27年間の極中生活ですら、彼にとっては学びの場だったっていうことなので、私たちもね、何かちょっと失敗したと思っても、
それは学びの機会を得たありがとうぐらいの気持ちでもいいのかもしれないというふうに思っちゃったりします。
また長期的な視線というものがね、この言葉の中にも含まれていると思うんですけど、もう27年ですよ。
それで英語も結構長くやっていくもの、だって英語ってね、変わりゆくものだし、生きてるものなので、生きてるツールなんですよね。
ただのツールというか、ただのツールじゃない、生きてるツールだから、どんどんアップデートされるし、ということで英語もどんどんと新しい視点も取り入れながら、新しい表現も取り入れながらっていう、
まあ長い取り組みが必要になるっていうものでもあるので、長期的視線の大切さというものも教えてくれるし、
で、最も重要なのはね、和解への姿勢っていうことだと思うんですよね。
なので、まあ一応敵と言いますかね、向こう側は27年間監禁したっていう相手じゃないですか。
と、でもまあ敵と見ずに対話の相手として向き合ったっていうことなんですよね。
で、私たちもね、学習をしているとき、英語を学習しているときに、自分をね、できないっていう自分を敵視っていうか、なんかこうね、敵視することあると思うんですよ。
ネガティブに考えちゃう。なんでできないの?とか、なんで聞こえなかったんだろう?とか、なんで覚えられないんだろう?とかって、そういうふうに敵視するんじゃなくて、成長していく自分、できてることに集中をして、
できてること、やれたこと、昨日はできなかったけど、今日はできたみたいな、そういった成長する自分と向き合うっていう、そういうね、和解への姿勢が大事なんじゃないかなというふうに思います。
なので、できない自分をテキストするんじゃなくて、成長する自分に目を向けていこうっていう、そういった和解の姿勢というものも、マンデラが教えてくれるんじゃないかなというふうに私は思います。
はい、そんな感じでね、マンデラの生き方っていうのは、本当私たちに問いかけているんだと思うんですよ。
困難に直面した時、何を選ぶのかっていう、それは私たち自身ができることだと思うんですよね。
恨みと復讐なのか、それとも学びと成長なのかっていう、そういったところだと思うんですよ。
それって私たち自身が、あなた自身が選び取ってできることだと思うんですよね。
なので、英語と彼の人生を比べるのも、本当におこがましい話ではあるんですけれども、
ただ英語という新しい言語に挑戦する私たちにとっても、こういった選択、どっちを選ぶのか、成長するマインドの方を選ぶのかっていうふうな形で訪れるので、
こういうことをちょっとマンデラから学んでもいいんじゃないかなというふうに私は思っておるわけでございます。
それでは本日は以上でございます。では最後に彼の言葉をもう一度言ってお別れしたいと思います。
それではまたね!