スペリング力の告白
おはようございます。英語の歴史を研究しています堀田隆一です。 このチャンネル、英語の語源が身につくラジオheldioでは、英語の先生もネイティブスピーカーも、辞書も答えてくれなかった英語に関する素朴な疑問に、英語史の観点からお答えしていきます。
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ぜひフォローしていただければと思います。またコメントやシェアの方もよろしくお願いいたします。 今回取り上げる話題は、
英語のスペリングを研究しているのにスペリングが下手になってきまして、 という話題です。これ私のことなんですけれども、
Voicyのハッシュタグ企画、Voicyがお題をキーワードで出してくれまして、 それに乗っかって、それについてお話をするというようなハッシュタグ企画なんですが、
今週のハッシュタグ企画のお題が告白しますということですので、私自身のことなんですけれども、 英語のスペリングが専門的に研究している大きなテーマの一つなんですね。
主にスペリングの歴史ということなんですが、振り返ってみると、この直近に書いた論文ですね、 3つぐらい読みますと全部スペリング絡みなんですね。
なので他のことも関心があってやってるんですが、どうもスペリングの話題に最近は寄ってきているな ということを感じまして、
実際、2017年にはスペリングの英語史という翻訳したもので、 もともとサイモン・ホロビンさんというオックスポート大学の英語史の先生なんですけれども、
彼が書いたThe Spelling Matterというタイトルの英語のスペリングの歴史を描いたものなんですが、 それを翻訳したんですね、日本語に。2017年ということで。
そこで、もともと持っていたスペリングへの関心にさらに火がついて、いろいろと研究しているということなんですけれども、 このようにスペリングを割と専門的なところとして研究している割には、
ここ数年でどんどん私自身のスペリング力っていうんですかね、 単語を綴る能力がガクッと下がってきているのを感じるということなんですね。
日本人のスペリング習得
それほど悲しんでいるわけでもないんですけれども、スペリングを研究しているやつが綴れないということはですね、 一般的にはあまり聞こえないものじゃないのかなというようなところは、ちらっと心配しなくもないんですけれども、どうも下手になってきている。
この理由を考えますと、いろいろあるのかなと思うんですけれども、 学生の頃から英語を学んできて、スペリングかなり得意な方だったんですよ。
得意であまり間違えないと言いますかね、単語テストみたいのは割と好きでしたし、 正しく綴るという、一文字一文字割とちゃんと覚えてきた。
この一文字だけ違うのに違う語になってしまうみたいな、あれも割と得意であったと。
一般に日本人の英語学習者は、スペリングはネイティブに比べて、 ずっと上手だというふうに言われますよね。
話せないけれども書くのはしっかりできる。少なくとも単語のスペルは書けるみたいな、 いうことはよく日本人言われると思うんですよね。
一つには漢字の練習で慣れている。細かいところ、はねとかとめとかですね。 そこまで含めて、あるいは送り仮名とか、そうした細かい書き言葉のルールみたいなものに、ある意味慣れている。
ひたすら書き取り練習をして、同じ文字を何十回間違えると、原稿用紙に同じ文字を ひたすら練習させられるなんていうことを、小学校の時、私なんかも経験してますし。
この漢字を覚えるという組織があって、全体として日本人は英語を学び始める前に、母語である日本語とか漢字、漢語が多いわけですが、それを書き取るという、ある意味試練を経てきているっていうんですかね。
なので、スペリングに関しても、わりとセンシティブな感性を持って、スタートから学び始める。逆に書き言葉にこだわって話すことができないとか、そういう弊害もあるのかもしれませんが、全体的に得意な人が多いと思うんですよ。
私もスペリングみたいなものは好きで得意で、結局その時の関心が今にまで続いて、スペリングの研究をしているわけですよね。
ところが、いつ頃からかは変わりませんけれども、ある段階からガクッとスペリング力が落ちてきたような気がするんですね。
授業なんかで黒板とかホワイトボードに、この単語ですよって書いたりするわけなんですが、ふと手が止まるんですね。これERだったかな、ORだったかなとか、細かい何とか&っていうときにENTなのかな、ENT語尾ですね。
典型的にKO字の語尾になるわけですが、どっちだったかなというようなことが、迷う機会が増えてきた。
これは一つには、タイピング、英語を書くときも手書きっていうのがめっきり減ってタイピングするわけですよ。
そうすると間違えても、最後の正書の段階でちゃんとスペルチェック等をすればいいので、自分の脳みそに頼るというよりは、スペルチェッカーみたいなところに頼るっていうことがまず多くなって、
緊張感がなくなったっていうのが一つですね。それからやっぱり手書きが少なくなったっていうことで、単語をいちいち覚える、暗記するっていう際も、
昔は学生時代はやっぱり紙に書いて発音もしてっていうことで、手を動かしてきたと思うんですね。そういう機会がめっきりなくなって、
画面で辞書を見て、これ新しい単語でこういうズリなんだなと思っても、手を動かしていないし、自分で打ち込むっていうこともコピペすればいいので、
自分で打ち込む機会も減ったので、やはりスペリングに対してだいぶセンシティビティがなくなったっていうんですかね。
実際に触れて書いて、しっかりスペリングを暗記するような機会が減ってきたっていうようなことですね。これが一つ大きい理由があると思うんですが、
もう一つは、実は職業病と言えるようなもので、私が主に扱っている時代は中英語の時代っていうふうに言って、1100年から1500年ぐらいですね。
今からざっと500、600年ぐらい前というイメージなんですが、この頃は実は標準的なスペリングっていうのがなかったんですね、英語に。
一つの単語に、今だったら辞書にしっかり載っている決まった単語のスペリングがあるわけですよ。
ところが当時は一つの単語について、いくつも異なる書き方がある。
なんとか&だったらantでもentでもいいし、なんとかerでもorでもいいし、みたいなかなり緩いんですね。
基準とか標準っていうものができる前です。それができるのは近代になってからなんですね。
中世の時期は一番カオスで、私が調べた中では、through、何々を通り抜けてっていう前置詞ですが、
これ探すと、なんと515通り、これ私数えた限り515通りのthroughの書き方があるんですよ。
今では基本的にthroughというのが標準的なスペリングということで定まっていますけれども、515もあった。
これもカオスですね。逆に515通り、強引に書けと言われても普通書けないぐらいだと思うんですけどね。
そんな英語を普段研究している、読んで研究しているということで、どうもこのカオスに慣れてしまったと。
読む分には結構、耳から聞く鉛っていうのもだんだん耳が慣れてきますよね。
同じように書き言葉の場合も目から見る鉛っていうんですが、鉛っててもあれのことだなって見当がつくようになってくるんですよね。
じゃあ今でいいよこれかみたいな勘が冴えてくるのはいいんですが、その勘の冴えと反比例して現代の標準的な基準としての一つに定まったスペリングに対する順法精神っていうんですかね。
あれに従わなきゃいけないみたいな発想もどんどん自分の中で弱まってきていると言いますかね。
もちろん現代語を書くときにはちゃんとした一つの標準的なスペリングで書かないと馬鹿にされると間違えて言われるというぐらいの緊張感はあるわけなんですが、それはスペルチェッカーに任せてしまえみたいな。
ということでたまに手書きでちゃんとこの難しい単語のスペリング書きなさいと言われても出てこないことが多くなったと告白いたしました。