言語学の出発点
おはようございます。英語の歴史を研究しています、慶応義塾大学の堀田隆一です。
このチャンネルでは、英語の先生もネイティブスピーカーも辞書も答えてくれなかった英語に関する素朴な疑問に、英語史の観点からお答えしていきます。
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今回取り上げる話題は、言語にとって最も重要な意味はどう研究されてきたの、という問題です。
ちょっと硬そうな言語学史の話ではあるんですけれども、これを取り上げたのはですね、昨日、私と井上一平先生、同僚の井上一平先生が先週に始めたですね、
YouTube、これの第3弾が公開されました。タイトルはですね、必殺営業トークは言語学のネタになるのか、英語学への入り口井上編というものなんですけれども、
これ、中身を聞くとですね、見ると分かるんですが、本質的にはですね、意味の研究、言葉の意味って何なのかっていうことが、
どのように研究されてきたかっていうことの、一種の言語学史みたいな話になっているんですね。
これを硬くなく、できるだけ柔らかく話したつもりなんですけれども、これ、やっぱり言葉にとって、形、形式、例えば発音とか綴り字がそれなんですけれども、
これがないと中身が通じないので、当然形式っていうのはあるんですが、結局のところですね、それは経由して最終的に伝えられたいのは意味なんですよね。
つまりAさんとBさんが会話しているときに、Aさんの頭の中に浮かんだ意味になるものね、形のないものですよ、概念です。
これをそのままBさんの頭の中にコピーしたいという思いで、異心伝心とかですね、テレパシーっていうのが基本的にできないので、しょうがないから音に託して、あるいは綴り字、文字ですね、文字に託して、間接的な形でBさんに伝える。
それがそのままAさんの思い通りにBさんの頭の中にポッと概念が浮かべば、これ大成功ってことになる。これがコミュニケーションであり、言語の最終目的なんですね。
なのであくまで経路として、手段として必要なのが形式であって、本当に伝えたいものはですね、意味っていうことです。
だからここを責めないと言語学ではない。言語っていうのは意味を伝えることなんだということであれば、言語学は意味を伝えるにはどのような方法で人間は意味を伝え合っているんだろうっていうこと、これを明らかにすることがポイントなんですが、実はなかなかこの意味というもの、形見えないですね。
頭の中にある概念というふわっとしたものですから、これ直接観察することができない。それに引き換え、音っていうのは音響装置で物理的な存在なので捕捉することができるんですね。文字なんかもっと視覚的に残りますし、調べやすいということで、どうしても意味と形ということで言うと形の方が研究しやすいので、
ずっと言語学の研究の中では形の方が優先されてきたんです。ですがこれはあくまで方便であって、本当のところは意味を知りたいということで、間接的に観察しやすい形式に集中してきたのが言語学の歴史っていうことになるんですね。
今回の第3回YouTubeの中でもお話になったんですが、最近になって意味の研究が復権してきたっていう言い方をしたんです。
意味論の発展
今までずっと意味はないがし論されていて形式の研究ばっかりだった。それが20世紀後半以降、そして現代21世紀の現代まで意味がだいぶ復権してきたというような言い方したんですね。
では20世紀とかそれ以前本当に意味は研究されてこなかったのかというとそういうわけでもないんです。あくまで意味と形と分けると相対的に形の方が優先だった時代っていうのが20世紀だったんですけれども、意味の研究が完全になくなったとかスタビになったとか見られないということではなかったんですね。
やはり言葉といえば意味ですよ。なので意味の研究はずっと続いてきました。ではこの意味を研究する分野での意味論、英語で言うとセマンティックスって言うんですが、この歴史どういうふうに研究されてきたのかということをざっと外観したいと思います。
近代の言語学っていうのは18世紀の後半から始まるんですね。210数年前っていう感じです。実際に近代の言語学が交流してきたのは19世紀になってからと言っていいと思うんですが、この頃は基本的に形式なんです。形。
先ほど述べたように語形であるとか形のあるものが研究しやすい。ただやはりその頃から言葉って意味でしょっていう発想の言語学者はいくらでもいて、形式重視の時代であってもちゃんと意味というのを考えようっていう流れそのものはちゃんとありました。古くから。
特に1883年にまずフランスのミシェル・ブレアルという人ですね。この人が意味論を創始したというふうに一般的には言われています。
この意味論、当時の意味論は時代の流れですね。時代的なところがあるんだと思うんですが、進化論、ダーウィンの進化論に反を得た意味論で、意味というのは進化していくんだ。一般的に意味変化の経路っていうのもあるもんだというような考え方だったんですね。
これは今にももちろん受け継がれていますが、厳密な一般法則であるとか一般的な方向っていうのがあるわけではないってことは今わかっていますので、今から思えば現象的な形だったと思うんですよね。ですが非常に重要な仕事をブレアルっていうのはしました。
一方で意味っていうのは文化であるとか歴史と非常に関係が深いっていうところからですね、この一般的な法則というよりはその言語なり民族文化と密着してですね、変化していく、進化していくもんだという発想から、歴史的、社会的な現象であるというようなところでですね。
意味論の自身の立場を見出したっていうことになったわけなんですが、そうするとですね、もうこれは言語学ではないと、もう歴史社会学であるというふうになっていて、ちょっと言語学のノリを超えたっていうところがあった気がしますね。
さあ、このように自然科学的な方向性ですね、意味っていうのはこういうふうに変わるものなんだ、一方向で変わるものなんだということと、もう一方で歴史的、社会的な方向での発展っていうのを意味論は遂げたんですけれども、20世紀になるとですね、今度は構造言語学、構造主義言語学という時代になるんですよ。
これはですね、とりわけ構造主義っていうのは形式を重視するっていうことなんですけれども、同じ発想で意味も扱うことができなくもないだろうという、ここを見る人がいてですね、1931年にトリアーというドイツの学者がですね、構造主義の発想で意味を考えてみるっていうことをやったんですね。
これはなかなかの試みだったと思います。意味もちゃんと構造的に捉えられないものではあるんだけれども、うまくですね、分類、整理すればやっぱりきれいにまとまるものであるというような発想です。
基本的には。これ、我々にとっても実は非常に分かりやすい発想ですね。例えば反対語とか同義語、類義語みたいなことをうまく説明できるんですね。その後、20世紀後半になると、今度は生成文法の時代になります。生成文法というのは本当に文法形式に集中するわけなんですが、それの反映として意味っていうのを考えてもよかろうということで、
生成意味論というものが立ち上がるんですが、これはなかなかうまくいかなかったというところがありますね。むしろ形式との間で喧嘩してしまったというところがあります。
そして、ある意味そのアンチ、反省を受けてということなんでしょうけれども、20世紀後半、70年代以降になって、ついに認知言語学という意味をプロパーとする、つまり意味から入る言語学というものが新しく生まれた。これが言わば今回のYouTubeで述べている意味の復権ということです。ではまた。