1. 茶の湯推しエンジニアのつぶやき
  2. #17 ○○道の共通項とは?
2025-02-16 20:07

#17 ○○道の共通項とは?

茶道、華道、剣道、柔道、はたまた最近は野球道みたいな近現代のジャンルのものも含めて、「○○道」と呼ばれるものは色々とあります。僕もいわゆる「茶道」と呼ばれるものを学んでる身として、この“道“が付くものってどういうもんなんだろうねということを話してみます。

00:00
実は、2月の16日の日曜日ですね。
今日も散歩で明治神宮に来ておりますが、さすがに日曜日の午前中なんですけども、今は。
ということもあって、いつもより人が多いと言っても全然混んではいないんですが、
皆さんそれなりの距離をお互いに空けながら、一人の空間を楽しんでいらっしゃるので、
ちょっと個人で喋ることができるスペースをですね、
今日はちょっと頑張って探して、今ちょっとロークオンしております。
さて、今回なんですけども、○○道というものが持っているものには、
結構共通項があるんじゃないかなということで、ちょっと考えていることをお話ししようかなと思います。
どういうことかというとですね、
例えば、僕はタイトルの通り茶の湯を学ばせていただいているわけなんですが、
一般的には茶道ということが多いんですよね。茶の道と書いて茶道です。
例えば、僕がよく散歩に来る明治神宮には宮道場があるんですね。弓の道と書いて宮道ですね。
同じように日本の武芸の系ですと、例えば剣道ありますよね。
柔道とかありますよね。こういうふうに○○道とつくのはいろいろあります。
特に、いわゆる伝統文化系と呼ばれるものに多いですかね。
もちろん花道ですね。お花の道もあれば、香道っていう香りの道とかもあったりしますね。
最近は、ご自身が何か打ち込んでらっしゃる分野について、○○道みたいな。
野球道とかですね。他のいろんなジャンルで使われたりということもあるかなと思います。
この○○道、つまり道とつくものなんですけども、
僕自身、いわゆる茶道というものを学んでいるわけなので、
この道って何なんだろうね、みたいなことは考えたりするわけです。
ここについての考え方っていうのは、これまた人それぞれかと思うので、
これからお話しすることもあくまで、僕個人が現時点で思っていることということで、
お聞きいただければと思うんですけれども。
結構ですね、ちょっといろいろ考えた結果として、○○道とつくもの、
つまり道とつくものには結構この部分が共通してるんじゃないかっていうところを思いついたことが一つあります。
逆に言うと、この部分があんまり当てはまらないものっていうのには、
考えてみたらあんまり道とかついてないなっていう。
03:03
例えば、これまた伝統芸能の文脈で言うと、
能がありますよね。おのうですね、お面かぶって舞台の上で踊ったりするものですけども、
あれは能力の能ですね、漢字を書くと。
だいたい能と一文字で言ったりとか、能学、能を学ぶとか言ったりしますが、
あれは能、道とは言わないんですね。
そういうものと道がつくものの違いは何なのかっていうふうに思ったときに、
2点ぐらいポイントがあるかなと思っていて、3点ぐらいかな。
ちょっとポイントを抑えながら順に話しますと、まず何々道ということでやろうとする内容ですね。
これは例えば行為だったり、動作だったりっていうことですが、
まずこれがやろうと思えば、基本的には誰でもできるような内容のものであると。
例えば作動の所作とかというのも、手順とかがいろいろあるので覚えるのは大変ですけども、
行為としては別にそんな難しいことはやってないわけですよ。
道具を丁寧に持ち運んで、きちんとした手順とかで扱って、茶碗にお抹茶を作って入れて、
そこにお湯を注いで、シャカシャカと混ぜてお客様にお飲みいただくと。
これだけと言えばこれだけですね。
お茶をシャカシャカやって立てるという行為自体はそんなに難しいことでは別にないです。
例えば剣道とか柔道みたいな武術ですね。
これももちろん強い方と全くの初心者ということでは全然違ったりしますけども、
よっぽど特殊な身体性を持ってない限り、例えば背負い投げとかですね。
僕は柔道は高校の時に中高で体育で学んだぐらいなんですが、
剣道は小学校の頃に2年ぐらいやってた時期は一応ありまして、
逆に言うとそのぐらいの感覚でしかないんですけども。
例えば道着を着て相手と向かい合って、ちょっと背負い投げとか足払いといったことをすると。
あるいは竹刀を持って防具をつけて相手と打ち合うと。
もちろんいろんな技とか、初心者がすぐパッとできるようなものではないということではないですし、
それを軽んじるつもりは全くないんですけれども。
例えば剣道とか柔道は小さい子供でもやってたりするわけですし、
例えば超人的な能力とか、ものすごい特殊な才能がないと。
06:02
いやもう絶対あんな無理無理みたいなものではないわけですね。
これは例えば花道、お花を入れるものであったり香道っていう香りを嗅ぐとか匂うとかじゃなくて聞くといったりするんですけども、
というものも同様かなと思います。
つまり個人的にまず道と呼ばれるものにはある一つの、いわゆる型とか呼ばれるようなものですね。
型とかスタイルみたいなものがあり、かつそれ自体のハードルは高くないものですね。
入り口のハードルは高くないものというところかなと思います。
そして2番目のポイントというのが、先ほどのように入り口のハードルはそんなに高くないんだけれども、
そこから高いレベルに行こうとすると、なかなか道が険しい、今道って言葉で使っちゃいましたね。
つまり入り口は比較的型としてスタイルがまとまっているので、
その通りにやっていればまずはいいです、みたいなところから入れるので比較的取っ付けやすいと。
けれどもやっぱりやればやるほど、本当にそれをあることをきちんとやろうとしたり、
いろんなものを深めていったりすることは本当にレベルが高く難しいし時間もかかる。
というのが道と呼ばれるものの2つのポイントかなと思っています。
ただ、ここまでの話だと逆に言うと技術的なところだけで言えば、
頑張ってある程度長い期間やっていれば大体はできるっていうところがあると思うんですね。
これはもう古今になっちゃうと、その人の物覚えに関する能力とか理解力がどうこうみたいないろんな要素も関わってきますが、
少なくとも頑張って長い間学んでいければ一定レベルまではみんな上達していけるというところかなと思います。
なので、例えば英検みたいななんとか検定だと、
例えば英検2級とか1級とかになるとかなり難易度が高いですが、
英語を頑張って打ち込んでいけば到達できるんじゃないっていうふうに思えるものではありますよね。
じゃあ例えば英検合格に打ち込むことを英検同と呼ぶかというと、
まあ普通の人はそうは呼ばないかなと思うんです。
ということは、道と呼ばれるものの条件というかポイント要素みたいなものには、
先ほど挙げたまず一つ目、入り口が比較的突きやすいスタイルが決まっている。
英検も要するにこういうテストが出るよみたいな傾向とレベル感はわかるわけですね。
09:05
ポイントの2つ目として、入り口は入りやすいけれども、
そこからさらに上達して深めていこうとするとそれなりに大変であると。
ただこれだけだと先ほどの英検とかと変わらないじゃんみたいな話になっちゃうんで、
僕はもう一つポイントがあって、これが結構大事なんじゃないかなと思っています。
その3つ目というのは、やるべきこととやりたいと思う自分の気持ちが相反する要素があるということですね。
これは正直僕がお茶を学び始めてから本当に実感したことなんですけども、
先ほど言った通りお茶の所作の一つ一つは別にそんな難しい行動ではないわけですよ。
この時に体をこっちに向きを変えてとか、この時に右手でこの道具を取ってとか、
それ一つ一つ自体は別に難しいことではなく、動作の手順も多いんですけど、
それは頑張って覚えたり反復練習したりすれば別に誰でも身につけられるものではあります。
ですけれども、例えば、かまからお湯をすくってお茶碗に注ぐ、この動作一つとってもなかなか難しいんです。
お茶碗にもいろんな形がありますし、お茶室のタイプとかにもいろいろあるんですね。
その中でそこらとの調整をとりつつ、お茶碗に、例えばお茶碗の口に試着をくっつけたりするぐらいでそろそろとゆっくり注げば別にこぼれたりはしないんですが、
どんどんお湯とか冷めていっちゃうじゃないですか。
下手したらお茶碗と試着が触れちゃったりすると、中に入れてるお抹茶が注ぐ時の湯の勢いで試着にペシャってついちゃったりするかもしれないので、見た目的にもあんまりよろしくないですよね。
ということなので、試着ですくった湯を茶碗の上でできるだけ素早くしかしこぼさずに注ぐみたいな工夫になるわけですが、
これはですね、なかなか自分の心との戦いみたいなところがあって、やってることは単純なんです。
でもこちらとしては、お湯が冷めないうちにこぼさずに素早く入れないと。
ただそれだけのことなんですが、でも例えばお茶碗の大きさとか形状だったりとかには、それはお茶碗にはお茶碗の都合があるわけですね。
そんなお茶碗の枠からはみ出てるところで注がれたら、それは俺の枠に収まらんわみたいな。それはこぼれるわみたいな感じだったりもするので。
12:01
つまり、やるべきことをやろうとした時に、なかなか普通の人間の感情だと相反するところが出てくると。
これは武道とかでも一緒だなと思っていて、例えばここについてはこのようにいけば、例えば相手の隙をつけるとか、
次のこちらの攻撃というか行動がしやすくなるとか、頭ではわかるけれども、早く相手に勝ちたい、負けるのが嫌だ、怖い、みたいな感情がいろいろと渦巻く中で、やるべきことがなかなかしづらい。
あとお花とかもそうですね。僕も茶花の方ではありますがやってるので多少はわかるんですけども、やっぱりこういうふうにお花が並んでるといいなっていうイメージがあるんですけど、
花も生き物ですし、それぞれ形とか向きとかも違うので、なかなか思う通りになってくれないんですね。
だからあれやこれやと、自分の中のイメージとそうなってはくれない花たちの間でもモヤモヤするような気持ちを抱えながら花と向き合ったりするんですけども、
そういうふうにやるべきことがあるということに対して、それをやろうとした時に自分に結構やるべきことと相反する感情が生まれてくる。
ということは、自分の気持ちをある意味抑えつつ、やるべきことをやらなくてはいけない。けれども、自分の気持ちがなければ本当にいいことはできない。
例えば、常に無心で相手に向かえみたいなことを武道とかではあると思うんですけども、そもそも相手に勝ちたいみたいな気持ちがなければ相手と戦おうと思わなかったりするわけですね。
お茶とかでも、こういう趣向、こういうような道具とかを使ったり、こういうようなものの組み合わせをしたりしてお客様に喜んでいただきたい、こっちの欲望があるわけですね。
なんですけれども、その欲望に振り回されすぎるとやるべきことができなくなるし、かといってそういう欲望が何にもなく、ただもう本当に感情の起伏もなく、例えばお手前をなぞっているだけのお茶っていうのもそれはめちゃくちゃ機械的でつまらないんですよ。
だから、この相反するものをいかに両立させて融合させるかっていうのは、めっちゃ難しいみたいな矛盾みたいな話なので、これをすごい高いバランスで極めようとしたら、そりゃ時間も努力も必要だし、精神的な鍛錬も必要だしということで、これはもう長い長い道を歩き続けるしかないよね、みたいなことかなと思います。
15:09
これ結構僕は道と呼ぶもののポイントここじゃないかなと思っています。つまり道というふうにつくからには、イメージとしての道っていうものがあるわけですね。ここを通っていけばいいという道はあるんですけども、つまり型とかスタイルとかがある程度決まっていて、ここをたどっていけばいいという方向性とか見えるんですが、それがとてつもなく果てしなく長いみたいなものを道と呼ぶんじゃないかなと思います。
じゃあ逆に言うと道がつかないもの、例えばさっきは能ですね、伝統芸能の能を挙げましたけど、どういうものかというと、ああいう舞台パフォーマンス系のものは、もちろんあちらにも基礎的なものとか演目も既に昔からあってこれをやるというものはあるんですけれども、やっぱり生き物というか水物というか、やってみないとわからない系というものがああいうパフォーマンス系にはあるかなと思います。
そうなると既に決められた道をただたどればいいというよりは、むしろ道なきところに道を作ったり、道のない平野を自分があえてどう進むかを自分で考えて動かなければならない、みたいな側面の方が結構強くなってくるのかなと思っています。
なので逆にそういうものは、たどろうとする道がそもそもないということから何々道と言ったりすることはあんまりしないのかなと。
例えば、冒険することを冒険道とかとは言わないんですよね。
それは冒険というのがどうなるかわからない、要するに不安とワクワク感がないまぜになったものをたどっていく、そういうものをベースにして行動するのが冒険だということであると、そもそもそこに決められた道はないわけですね。
なので冒険とかそういう不確定要素が多い、前例がない、どういうふうにたどっていくか自分で考えて決めていくものだという要素が強いものについては道とあんまり言ったりしないのかなというふうに思っております。
以上が僕が考える〇〇道というものの共通項というかポイントと、そうじゃないものの違いみたいなところになるんですが、最後に僕が茶道と言わずに茶の湯と言ってるのは何でかっていうことをお話ししようかと思うんですが、
僕はこのポッドキャストのタイトルに茶の湯推しエンジニアのつぶやきと書いてますね。これ茶道推しというふうにあえてしてないんですね。でも一般的には茶道っていう方が通りがいいんですよ、明らかに。
18:05
じゃあなんで僕は道とついてる茶道の方を使わずに茶の湯というふうにあえて言ってるのかというと、自分の中ではなんとなく茶道と茶の湯の違いっていうのは感じてはいるんですが、あんまりちゃんと言語化できてなくてですね。
実は先ほどの〇〇道とそれがつかないものの違いっていうのをちょっと自分の中でまとまったときに、これかなって思ったんですね。どういうことかっていうと、あくまで僕のイメージですよ。イメージと今の考え方ですけども。
茶道というのはやはり決められた教えとか手前とかがあって、それをたどりながらその中で自分を高めていくというような要素が強い言い方かなという気がしています。
もちろんそれは大事なことですし、僕はエンジニアとして良い意味でシステマチックな茶道っていうのにも魅力を感じているのでやっているわけなんですけども、と同時に僕は茶の湯というのはコンテンツではなくプラットフォームであるっていうエピソードでもちょっとお話をしましたが、結構お茶には無限の可能性があると思ってるんですね。
特に現代及びこれからの社会において。そういうふうに考えると、僕にとってお茶をするっていうことはフロンティアなんですよ。目の前に未開拓のワクワクするような冒険の地平が広がっていて、そこをどうやって僕は進んでいこうかみたいなワクワク感がすごいあるんですね。
なので僕はおそらくその道なき道を進むフロンティア感というのが、多分茶の湯という言葉の方により含められている気がするので、こっちを好んで使っているんじゃないかなというふうに個人的にちょっと思ったりしています。
以上で本日は終わりとさせていただければと思います。お聞きいただきありがとうございました。
20:07

コメント

スクロール