福岡新一の思想
本日は2月の14日の朝でございます。
気温はですね、天気予報とかだとめちゃくちゃ低いんですけど、日差しが出るところに来るとやっぱり暖かいですね。
で、今日はですね、なんか鳥の鳴き声が結構いろいろすごくてですね、
なんかよく聞くと、なんか同じ鳴き声といわゆる呼び合ってるような感じの声が、ちょっと今日は目立つなという感じですね。
春が近づいてきて、鳥たちも恋の季節みたいな感じなのかなと思ったりしております。
はい、でですね、前回、孔子ですね、中国の古代思想家の孔子が論語で述べていると言われている、
始終にして惑わずという言葉は、惑わずではなくて始終にして囲わずということではないかというようなお話と、それについて僕は思っていることなどをお話しさせていただきました。
そのエピソードの最後に、ここからつなげて、また僕が非常に好きな方のお話をご紹介したいと思いますということを言いましたが、
今回はですね、そのお話をさせていただきたいと思います。
今回僕が紹介したい方というのはですね、福岡新一さんという方です。
僕はもう福岡先生というふうにおっしゃってますけども、直接僕がその方に習っているというわけではないんですけれども、
この方はですね、生物学者、そして作家でいらっしゃる方で、生物の研究のキャリアを持ちながら、非常にアートなどにも造形が深くてですね、様々な視点からの著作を出されております。
僕はこの方の考え方がとても好きで、何冊も著作を拝得しているんですけれども、
どういう方かと言いますとですね、一番福岡先生がおっしゃっていることで有名なフレーズというか、キャッチフレーズにもなっている言葉にですね、動的並行という言葉があります。
動は動くの動ですね。敵は的の敵です。何々敵というようなものですね。
つまり動的というのはダイナミックな動き続けるというような意味ですね。
並行というのは、これは数学とかで2つの線がいつまでも交わらないあの並行ではなく、バランスが取れているという状態の方の並行ですね。
つまり動的並行というのは、常に動いているんだけれども、結果として全体のバランスが整っている、みたいなことを表しています。
そして福岡先生はですね、この動的並行こそが生命であるというようなことをおっしゃっています。
福岡真志先生の名前でググっていただけるとですね、多分すぐに先生のホームページにたどり着けるかと思うんですが、
そのホームページのトップに出ている動画をご覧いただくのが多分一番手っ取り早くわかりやすいかなと思います。
どういう動画というと、ちょっと口で説明するのは難しいんですが、
人が歩いているというような白黒の動画なんですけども、
人というのがですね、いわゆるイラストで人の形がかっちり書いてあるというのではなく、
たくさんの大小の粒が集まって、全体として人のような形になっていると。
そしてその粒は新しいものが入ってきたりもすれば、そこから出ていくものもある。
つまりこの粒の出入りがあって常に動いているんだけれども、
トータルとしてその出る量と入ってくる量のバランスが取れていて、
相対としては常に人のようなシルエットが保たれているというような動画なんですけども、
これこそが生命の営みであるというのが先生の主張ですね。
実際僕らが日々食事を食べていますけど、
結構僕らの考えている感じですと、
僕らが食べたものはまず栄養になって、
体の中で既にある肉とか骨とか脳とかっていうものに、
あるときはエネルギーとして、あるときは体を作る材料として、
補助的に使われていくんだろうなというようなイメージを抱きがちなんですけど、
実際研究で分かったこととしてはですね、
僕らが食べたものはもうすぐに体の一部になっていく。
逆に言うとその分体から捨てられるものがあるわけですね。
だから僕らの体っていうのは想像以上に入れ替わりながら、
日々生きているということになります。
これはつまり、破壊し続けることで、
つまり常に今までのものを捨て、新しいものを取り込み続けることで、
同じ状態を保っているということでもありまして、
これこそが生命であると。
つまり、ある特定のものをですね、
いわゆる自然のすべてのものが変化し続ける中で、
ある特定の仕組みを維持しようとするっていうのはすごい難しいことなんですね。
あるものを一回作って、それが衰えもせず、壊れもせず、
ちゃんと機能し続けるっていうことは非常に難しいので、
だったら壊し続ける、作り続けるっていうことを続けたらいいじゃない、
というのを選択したのが生命であると。
というのが、僕なりにざっくりとした福岡先生の主張の説明なんですが、
いや本当その通りだなっていう、いつものごとくすごい腹落ちしましてですね、
福岡先生のことが好きになってしまったわけなんですけども、
僕としてはですね、今の福岡先生の論語を代表する、
この動的並行というフレーズよりも実は好きな言葉がありまして、
それが今回のエピソードのタイトルにさせていただいた、
世界は分けてもわからない、という言葉なんですね。
これですね、福岡先生の実はたくさんある著書の中の一つ、
一冊のタイトルを失礼ながらそのまま使わせていただいているんですけれども、
世界を分けてもわからないというのは、書籍としてはいろんなエピソードをまとめた、
エッセン集みたいな形をとっているんですけれども、
その中でといいますか、福岡先生の各著書ではよく語られるエピソードなんですが、
なぜ福岡先生がですね、そもそも例えば動的並行にしろ、
世界は分けてもわからないというふうにしろ、
そういうような考え方に至ったのかというきっかけのエピソードが紹介されることがありまして、
これも詳しくは実際に福岡先生の本を読みいただければと思うんですが、
ざっくりとお話しさせていただきますと、福岡先生はですね、
生物学者の中でも遺伝子周りの研究をされていて、
ある特定の遺伝子の役割を解明しようとしたと。
この遺伝子研究の時の譲渡手段というのが、
例えばAという遺伝子があって、これが担っている役割を確認したいという時に、
じゃあこのAという遺伝子だけを持たない、
あとは通常と同じという遺伝子を持ったマウスですね、
実験用のマウス、これをノックアウトマウスと言うんですけど、
つまり特定の遺伝子、機能を調べたい遺伝子だけノックアウト、
要するにやっつけちゃって、それが入らないような遺伝子を持つマウスを
作り出して、そのマウスと通常のマウスを比較することで、
その遺伝子が働いているものはどういう役割なのかということを調べるというのが譲渡手段となっています。
つまりイメージとしては、生物という複雑な仕組み、
つまり歯車、たくさんの歯車、いろんな大きさとか形の歯車が組み合わさって動いているような、
機械のようなものをイメージしていて、この歯車が果たしている役割を知りたければ、
この歯車を取った後に全体の機械の動きがどうなるのかを見たら分かるんじゃないかというような発想ですね。
これで研究されていたんですが、このノックアウトマウスをそもそも作るという実験の準備段階が
かなり時間とお金がかかることでして、福岡先生と研究チームの方々は頑張ってそれを作りました。
じゃあこれで普通のマウスと、僕らが調べたい遺伝子だけが欠けているノックアウトマウスの行動とかですね、
寿命とか病気になりやすいのかどうかみたいなのを比較するぞって言って調べたらですね、
何も変わらなかったと。普通のマウスと何にも違いが見られないと。
福岡先生がノックアウトさせた遺伝子っていうのは結構重要な働きをしてるんじゃないかという仮説があったものだそうなんですね。
なのに全然普通のマウスと変わらないと。
しかも何だったら寿命を普通のマウスよりちょっと長く生きちゃったりもすると。
これどういうこと?みたいな感じで、実験としては大失敗ですよね。
特定の遺伝子の役割を解明しようとして、もう本当に時間もお金もかけて頑張った結果が全然想定通りにならなくて、
なんか無意味だったみたいな風に一度落ち込まれたそうなんですけど、そこで待てよと気づくんですね。
これはそもそもの発想が間違ってたんじゃないかと。
つまり結局遺伝子が確実に一個欠けてるのに、
普通のマウスと何にも変わらない生命の逸並みを見せたそのマウスというのはですね、
つまり欠けた遺伝子の役割を残ったものが代わりに補ってるということですね、ある意味勝手に。
つまり生命とは何か個々の役割が必須で、それを抜いたらその機能だけが欠けるっていう歯車の集まりみたいなものじゃなく、
言ったら人間のコミュニティとかもそうですけど、何かが欠けてしまったら周りが頑張ってその穴埋めを勝手にしようとする、
そして全体のバランスというかシステムの仕組みをキープしようとする、
そういうようなものが生命なんじゃないかというふうに発想の転換に至ったと。
世界の理解
これはよく福岡先生が例えて使われるのはジグソーパズルがありますよね。
ジグソーパズルのピースっていうのは基本的にそれぞれが唯一無二のものなんですけども、
例えばパズルのピースが一個欠けてしまったとなると、周りのピースが揃っていると欠けたものの形がわかるじゃないですか。
つまりどういうものが欠けたかがわかれば、どうやってフォローしたらいいかがわかると。
そして生命の各細胞というのは、その欠けた仕組みを何らかの形でそれぞれ補って全体をうまく回してしまうということに気づいたと。
そこからこの考え方が福岡先生の思想のベースになったというようなエピソードなんですけども、
世界は分けてもわからないというのは実はこの経験から出てきたフレーズでして、
つまり生物を分けると、つまり機械のようにたくさんの歯車が組み合わさったような部品の集まり、
つまりパーツパーツが集まったものとして捉えても生命のことはわからないと。
むしろその複数のいろんな機能を持ったものが集まってこそ生まれるもので動いていると。
つまり個々のパーツがあって、このパーツはこういう役割、こっちのパーツはこういう役割でしかないというのではなく、
AというパーツがなくなったらBというパーツが普段はやらない働きをしてくれるというような相互関係性があるんじゃないかと。
つまり細かく分けたパーツの集まりと考えてしまっては生物のことは理解できないということから、
世界は分けてもわからないというようなタイトルにされたということなんですが、
結局この考え方というのはタイトルにもそもそも生物ではなく世界とついている時点で、
福岡先生もそうだと思うんですけども、何にでも通じるなと思ったんですね。
それこそさっき欠けた遺伝子の仕組みを他の細胞が補ったというのを人間のコミュニティみたいというふうに僕は例えましたが、
人間の集まりの一並みもそうですし、言ったら自然の生態系の仕組みもそうですよね。
全てが単なるABCDというような個々のパーツがただ集まっているだけではなく、
つまり1たす1は2ではなく、1と1だけでは生まれないものが2になることによって生まれる。
そういうものがこの世界なんじゃないか、みたいなお話ですね。
人間の生き方と生物の営み
この福岡先生の考え方に、まず前回お話しした孔子の四十にして惑わずではなく、
四十にして、要するに四十歳にして、囲わずというふうに言ったんじゃないかという、
安田昇さんの主張とか僕の中でバチッと繋がったんですね。
つまり人が囲うということは、自分の領域とそれ以外を区別するってことですね。
つまり世界を分けているってことです。
自分はこういうものだ。自分ができることはこういうことだ。自分の領分はこういうものだ。
そしてその外にあるのは違うものだ、ということが要するに囲ってしまうということですね。
それを取っ払って、他の自分以外のものと交流したり、あるいは自分というものを再定義する、
新しく考え直す、見つめ直すということで、より柔軟にいろんな形に発展できると。
これは人の生き方、一人の人間の生き方としても重要だと思いますし、
それこそが生物の営みだみたいなことを考えると、これはもう本当に、
結構もう禅の考え方とかともリンクしてくるなって思うんですね。
多様性とその関係性
仏教と言ってもいいですけども、茶道院はちょっと禅宗の考え方をかなり取り入れているので、
やはり禅というとお茶やってる人には、仏教の中でも特に馴染みやすいというものではあるんですが、
ちょっと広めに仏教と言いますと、例えば仏教の言葉で、
四季即是空、空即是四季っていうような言葉がありますね。
仏教の考え方で空という考え方があります。
これは仏陀というより、その5、600年後ぐらいに出てきたリュージュという方が、
改めて仏陀の説いた思想が、その後世の人たちのいろんな意見によってどちらかと言ったのを、
空という、漢字各地空ですね。つまり空っぽだということにまとめたというものなんですけども、
四季というのは逆に現実世界ですね。あるもの、色というものですね。
つまり四季即是空、是というのはこれという意味なので、つまりあるということはないということであり、
空即是四季ですから、ないということはあることであるみたいな意味ですね。
もうざっくり直訳すると、これどういうことってなりますよね。
よくわけのわからない矛盾したような問いを禅問答って言ったりしたりしますけども、
四季即是空、空即是四季っていうのを地面で捉えると、本当にこれどういうことってなるんですが、
これはもちろん僕なりの解釈ですけども、僕がもし四季即是空、空即是四季という言葉だけではさっぱりピンとこないので、
これが表しているところをですね、小学生にもわかるような言葉で言ってくれないかと言われたら、
僕は世界は分けてもわからないということだと思いますと言いますね。
つまりあるとかないとかいうふうに分けてしまって、これとこれとは違うものだっていうふうに考えてしまうところからして、
そもそも全体像を理解できないんですっていうことですね。
空というのはないという中に無限の可能性があるということでもありますし、あるということは個々のものがパッと見はあるんですけど、
それらが組み合わさって大きな一つの仕組みとか流れを生み出しているっていうところで言うと、
一つ一つのものは別にその個体として存在しているわけではない、要は歯車としてあるわけではなく、
全体としての一部としてしか存在しない、つまり個々のものとしてはないも同然であるみたいなふうに言えるかなと思います。
これは僕のエンジニアとしてのやってきたところからも非常に風に落ちるところでして、
プログラミングの行動っていうのはどっちかというと発想的にパーツの寄せ集めみたいな感じで作るんですね。
こういう処理を担当するのがこれ、こういう処理を担当するのがこれ、
これらを組み合わせて最終的にはこういう機能を動かそうみたいなことがエンジニアの基本的な考え方なんですが、
そういう個々のパーツの行動を寄せ集めて作っていくとですね、
全体としての動きっていうのがまた別物として出てくるんですよ、これが不思議なことに。
例えば1回組んだ仕組みをですね、ここだけちょっと変えたいなってなったときに、
部活にいじれないんですね、僕らは。
何でかっていうと、例えばこのあるAっていう行動の機能だけをいじって変えれば、
要するにそこだけ内容チェックすれば別に済むじゃんって話なんですが、
そこが変化したことによってそこと関わってる他の処理が繋がって繋がって繋がって、
思わぬ結果を生み出すことっていうのが往々にしてあるんですね。
だから僕たちはそういうのにすごい気をつけながら変更しつつ、
もちろん変更した後は必ず動作確認をするんですね。
で、よし大丈夫ってなってから、じゃあこれでいきましょうっていう風にしてるんです。
じゃないと本当に、ここの変更がそんな全然違うところに影響出るのかよみたいな風に驚くような不具合に繋がったりすることがあるんですね。
これはもう先ほどの話と一緒だなと。
つまりコードっていうのを単純に役割の違うプログラムの集まりと捉えてしまうと今の話は説明ができないというか、
あんまり柔軟に考えられないんですね。
Aのコードを変えたんだったらAしか関係ないでしょみたいな。
要するにAの変更がBとかCとかあるいはそれらが組み合わさった仕組み全体に通じるっていうのは、
結構ある程度エンジニアとしてのキャリアを積んだ後じゃないと腹落ちしないというか、
頭ではわかるけど実感しないみたいな感じなんですが、
そうなってみると先ほどの世界は分けてもわからないっていうのは本当に何にでも通ずるところだなという風に僕は思います。
世間的にはダイバーインクルージョンとかダイバーシティとか要するに多様性の時代だとか言われてますけれども、
多様性といっても違うものがただ集まってるよねっていうだけだと、
いろいろとむしろ衝突の方が起きやすいかなと思っていまして、
混ぜるのは危険というやつですね。
それぞれが違うことをきちんと認識もしつつ、
その違うもの同士が関わり合ってるということで生まれる流れだったり仕組みだったりというものがあるよね。
だからそこをちゃんと動かしてスムーズに回していこうねというような、
やっぱり個々人の意識というものがあってこそ、
いわゆる多様性の社会がうまく回るんじゃないかなという風に感じたりしております。
こういったモロモロのところに、
本当に全部に通ずる形でビシッとつながる世界は分けてもわからないという言葉は、
本当にいい言葉だなっていう風にしみじみ思ったりするわけです。
ということで本日は以上とさせていただきます。
お聞きいただきありがとうございました。