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第17章「信長の覇業は父親のおかげ⁉️"尾張の虎"織田信秀とは⁉️」
2026-04-11 23:58

第17章「信長の覇業は父親のおかげ⁉️"尾張の虎"織田信秀とは⁉️」

今回は知り合いの方からテーマをいただきまして

「織田信秀」

について話しております


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サマリー

このエピソードでは、織田信長の父である織田信秀に焦点を当て、彼の生涯と功績を詳しく解説しています。信秀は「尾張の虎」と称され、戦国時代のゲームでは戦闘力は高いものの政治や知力が低めに設定されがちですが、実際には非常に優秀な人物でした。彼は、守護代である織田家の中でも分家でありながら、津島神社の領有を通じて経済的基盤を築き、商業を発展させることで領国を豊かにしました。この経済感覚は息子である信長に受け継がれ、後の天下統一の礎となりました。 信秀は、他の領主との争いを経て講和を結ぶことで自身の力を示し、上層部へのアピールに成功しました。また、名古屋城を策略で奪取し、厚田を支配するなど、領土拡大にも積極的に取り組みました。彼は拠点を頻繁に変え、美濃や三河にも手を伸ばし、斎藤家や今川家といった強敵とも渡り合いました。しかし、分家としての立場や、上の命令に従うという古き良き伝統を重んじる姿勢が、彼の野望を制限する要因ともなりました。 信秀は40歳前後で亡くなりましたが、その短い生涯の中で築き上げた経済力、戦闘力、そして息子信長に与えた影響は計り知れません。彼の革新的な考え方と、上を敬うという教訓は信長に受け継がれ、信長が織田家を天下統一へと導く原動力となりました。信秀は「天下人の父」というよりは、「天下人を生み出した男」として、戦国史に名を刻む偉大な人物です。

番組紹介とテーマの導入
おはよう、こんにちは、こんばんは。 武将について喋るラジオ、略して武将ラジのうっちーです。
この番組は、学生時代に学芸員を目指そうとも考えていた、歴継ではある私、うっちーが、
毎月11日、ソロボトキャストの日に、様々な武将について話をするという番組です。
どうぞよろしくお願いしま〜す。
今回はリスナー様と言いますか、知り合いの方からテーマを頂きました。
先日、薬剤の知り合いなんですけども、勉強会とかをしている時に、
その休憩時間とかに話をしていまして、
戦国武将好きなんだよね、という話を振られまして、
あ、そうですよ、武将についての番組やってるぐらいです、という話をしたんですよ。
そん中で、戦国武将の血縁関係で面白い人っているの?という話をされたんですね。
例えば、信長とか秀吉とか家康とか、
そういった人物たちのお父さんとかってどんな人だったの?という話を振られましたと。
正直、秀吉公の父親に関しては色々分からないところもありまして、
こんな感じの人だったらしいですよ、という話しかできなかったのと、
徳川家康の父親はいろいろと優秀だったのかどうだったのか、
ちょっと不明な点が多すぎると。
ただ、その中でも信長のお父さんは結構面白い人ですよ、というので、
信長のお父さんについて話をさせていただきまして、
せっかくなので、今回武将ラジでも話をしてみたらということで、テーマをいただきました。
ということで、テーマをいただきました知り合いの先生、真琴長でございます。
ということで、今回は、織田信長の父親である織田信秀という人物で話をさせていただきます。
織田信秀の出自と尾張の状況
織田信長、ほとんど天下を制したと言ってもいいような形なんですけども、
ただ、天下人に正式に慣れてないという形なんですけども、
時代の革命時とか、結局信長がやったことを引き継いで天下を統一したのが、
秀吉ということもありまして、やはり織田信長の偉業というのはとてつもなくありますよ、
ということなんですけども、
この織田信長の父親である織田信秀、彼はどんな話だったのか、
彼もまたすごい優秀でした。
むしろ、秀吉が天下を作るための礎を築いたのが信長ですけども、
ただ、その信長の位置杖を築いたのがまた織田信秀という人物でした。
なので、信長があれだけすごい人になれたのも、
この織田信秀あってのことなので、とても優秀な方です。
では、この織田信秀、どんな方だったのかという話をさせていただきます。
それでは、今回話をさせていただきますタイトルはこちら。
信長の覇業は父はのおかげ、終わりの虎、織田信秀とは。
すごい優秀な人だったともありまして、
あだ名が終わりの虎でございます。この織田信秀。
戦国のゲームとかですと、この織田信秀なんですけども、
異常に戦闘力はすごいあるんですけども、
なぜか政治とか知力がちょっと低めに設定されたりするんですけども、
いやいやいやいや、どう考えてもこの人政治とか知力半端ないでしょっていう人でもあります。
まずこの織田信秀につきまして、どんな方なのかっていうのをざっとですけども話をさせていただきますと、
織田信秀、生まれは1511年に織田信貞の長男として生まれたとされます。
この織田信貞というのは清洲三部行の一人なんて言われますけども、
終わりの守護台である織田市の中でも、その中の織田大和の森家に使える文家ですね。
言ってしまえば。そこの長男として生まれております。
織田信長自身もそうなんですけども、織田信長家徳を継いでから終わりという、
今でいう愛知県のあたりを自分の領土としますけども、
その時には同じ織田家の中で戦ったりしております。
当時の終わりっていうのは織田信長家徳を継ぐ前、織田信秀の生まれた頃とかの終わりってすっごいぐちゃぐちゃしてるんですよ。
終わり、今の愛知県西のあたりですけども、
例えばここを収めていいですよっていうのが守護と守護台っていうのがいるんですよ。
守護っていうのが正式にそこを収めていいんですけど、守護台はその代わりですね。
守護に何かあった時とか代理で収めてもいいですよってなんですけども、
守護が柴氏、柴氏か柴氏、柴氏ですね。
守護台に終わり家となっています。
守護が一応幕府が任命する、ここを収めていいですよって人なんですけども、
ただその守護は基本的には京都にいます。京ですね。
京にいて幕府の拠点のところにいまして、
基本的にそこに住んでるんですけど、終わりはあなたのものですよというふうに。
あなたは偉い人だから基本的に京、幕府の中心の方でも仕事してくださいねということで、
京から離れるなよ、京で仕事しろよと言われております。
じゃあせっかく領土をもらっても、自分が領土にいなかったら国が荒れちゃうじゃん。
ということで守護の代わりにそこを収めているのが守護台でございます。
守護の代理で守護台なんですけども、
なので守護というのは正式に終わりを収めているのは柴氏で、
その代わりの守護台が織田家なんですけども、
そして織田信秀の父親である織田信貞はあくまでこの織田氏、守護台の織田氏の中でも文家なんですよ。
文家なので全然終わりを収めてもいいっていうのから離れてるんですよ。
正式に終わりを収めていいのは柴氏で、あくまでその代理であるのが織田家。
ただその織田家の中の文家、本家じゃないよ文家なのが織田信貞でありまして、
その子供織田信秀、そして織田信長と続いていきますと。
なので大名とかでは全然なくて、言ってしまえば強い領主ぐらいですね。地元の領主ぐらいの方なんですよ。
現代風な言い方でしますと、例えば終わりを収めるのが県知事とかそういう風に言い方するとしますと、
織田信秀ってどんなもんかと言いますと市長ぐらいですね。市長もすごいんですけども、
すごいと言っても県知事とかと比べては全然離れてますよね。それぐらいの立ち位置の方なんですよ。
ただそれでも持ってる地域の良さもあったんですけども、
この織田信沙羅、信秀の地って信沙羅なんですけども、津島辺りを持ってたんですよ領土として。
これが本当のちのちの織田家、織田信秀、信長と続いてくるのはとても良かったんですよ。
この津島って何かと言いますと、津島神社の辺りなんですけども、
この神社を領土で持っている、しかも大きい神社を持っているというのがとても有力になるんですよ。
当時神社仏閣というのはとても力を持っていました。
その地域から例えばお父さんとかお金を集めて、それでお祭りを開くとか、お祭りを開いたりとかして、
それでお金を回すということで神社を持っていることは経済的にめちゃくちゃお金に乗って有力なんですよ。
その津島神社という大きいところを持ってたということで、
それで織田信秀というのはなかなかの有力者になるきっかけを持っていました。
正式には信秀はこの信秀の、まだ生きている時なんですけども、
家徳を継ぎますと1526年から27年の間ぐらいと言われているんですけども、
この間に家徳を譲られております。
この時に生まれて15、6歳で信秀は当主となっております。
この信秀が当主としてなってから、まだもちろん市長ぐらいですよ。
市長ぐらいとなってから何したかと言いますと、とりあえず他の市長と喧嘩して交話したと言っているのを結んでいます。
何で喧嘩しているかというと、要は同じ織田家の中でも文家がいくつかあるんですけども、
その中でもお互いに権力どっちが強いかというのを争っているというのがあるんですね。
強い方にやっぱり民が付きやすいと。
同じ隣同士だったらば、あれこっちの市長の方が強くね。
じゃあこっちに織田市長がこうなっているのがあるんで、結構そういった勢力争いが大事なんですよね。
喧嘩はするけどしっかり交話を結ぶっていうので、武力、自分は力を持っているよと指名しつつも、
でも本当は喧嘩する気はそこまでないんですよ。一族仲良くしなければいけないですよねという感覚を持ったんで、
上からのこいつは使えるんじゃないかというアピールになったんですよ。
あくまで今の織田信秀は市長なんですけども、
例えば副知事というか守護台の本家とか、さらに上の守護である、本当の正式な県知事である柴氏からすると、
一族の中で喧嘩をする気は本当に喧嘩をする気はないから、一族思いのあるやつではあるな、
でもなかなか力がありそうだなということで、織田信秀っていうのは使える人間なんですよというのをアピールしておりました。
力を持ってそれで喧嘩して交話するっていうのを繰り返すのも危ないやつって感じなんですけども、
当時の戦国時代からすると喧嘩早いとか、それで実際喧嘩が強い、なおかつしっかりと交話とかそういった感覚を結ぶ、
なんだかんだで仲良くできる感覚を結んでるっていうのはやばい、手下にしておくにはとても使えるなと思われておりました。
それで力をアピールしつつ、さらに実際にどんどんどんどん力をつけようということで、織田信秀がやったことは、
父親から受け継いだこの津島という地域の繁栄でございます。
実際、確かに神社に金は集まるっていうのは何となく当時でもわかってはいたそうなんですけども、
でも実際それをどうやって自分たちに結びつけるのかわからなかったことです。
神社にお金集まるって言っても、そういった神社とかからお金を徴収するの難しいなとかそんな感覚だったらしいんですよ。
でも織田信秀はそこに商業、しっかりと商売に力を入れようと考えました。
神社の周りを発展させました。町とかをしっかり作りました。
となりますと、お祭りとかがあった時にそこらへん一帯がふわっと震えますよね。
あそこで津島のあたりで大きい祭りがあるぞとなると、人がこぞって集まってきます。
そして人がこぞって集まってお金を落としていきます。
信秀の初期の行動と経済戦略
確かに神社とかからお金の徴収とか直接的に難しいところはあったらしいんですけども、
神社周りとお店が儲かると。神社周りのお店とかを整備してたのは織田信秀なので、織田信秀はそこから税収を得ておりました。
そして神社としましても祭りとかで人がやってくる。人がやってくることでお金を落としてくれる神社としても潤う。
潤うということはじゃあお祭りとかいろんなものをもっともっと派手にできるよねってことで神社がどんどん発展していく。
神社が発展していくことで祭りとか様々なこともどんどん派手になる。
ってことはもっと儲かるよねってことで神社周りのお店とかをどんどんどんどん整えていく。
そうやってお金とかを回るようにしていったのが織田信秀でございます。
もちろん他の大名とか大名じゃなくても例えば信秀のように市長ぐらいの方でも神社の地域持ってるよって人もいたんですけども
そこまでしっかりと神社周りを発展させるっていう考えにはいたってなかったそうです。
織田信秀は金が今後の力になるよと考えたので、金を儲けるためにはどうすればいいのかって言ってその神社を利用する。
人と金が集まる場所の周りを発展させていくっていうのを考えていたそうです。
この経済感覚はしっかりと信秀の息子信長に受け継がれます。
実際この津島や後に厚田神宮あたり、ここらへんをどんどん発展させてお金をどんどん稼いでいくのは信長でございます。
信長は経済において先進的な考えを持っていたと言われますけども、この信長の経済感覚の元になっているのは父親である織田信秀でございます。
もう少し補足させていただきますと、実際のところ戦国時代っていうのは基本的に年貢っていうのはお米でもらっていました。
お米でもらってっていうのがよく南国、かが百万国とかも言いますけど、それも百万国分の米が取れるとかそういった意味での百万国。
実際のところは米だけじゃなくて、それは経済感覚とかもありますけども。
お米がどれだけ作れるかっていうのもとても大事なんですけども、実際尾張っていうのは平坦な地域なので農業的にも栄えやすいってところだったんですけども、
さらにそこで商業を発展させようと考えたのは信秀でございます。
他の大名とかは結果的にお米がどれだけ取れるかどうか大事だったんですけども、信秀はしっかり金稼げば米も買えるじゃん、武器も買えるじゃん、その感覚をちゃんと持っていました。
確かにお米でもらって、それでみんなの飯を稼ぐのも大事なんだけども、そもそも金稼げば米買えるじゃんっていう、ちゃんとそのことをわかっていました。
今にして思えば当たり前かなと思う感覚なんですけど、当時からしたらお米自体がお金と同じ価値だったので、いかにお米を稼ぐかしか考えてなかったところに対して、
お金も大事だよね、お金そのものも大事だよねって感覚を持っておりました。
もちろん他の大名もこの感覚を持っておりましたけども、信秀が特にその感覚を持っていたという感じですね。
実際この信秀の経済感覚とかのお金を稼ぐことが大事だなっていうのは他の大名よりも波及しています。
例えば伊賀六角市、六角市とかに関しましては楽市楽沢とかで、商人を自分の領土にそれだけ取り入れるかっていうのはとても大事だと考えておりました。
よく楽市楽沢は織田信長の功績と言われておりますけども、織田信長より先に楽市楽沢をやってた大名というのは結構います。
そうやって実際に力持ってますよって上にアピールしてましたし、そして実際に力というか金も稼いでいた織田信で、
何をしていったかと言いますと、ほとんど他の領土を奪いに行ってます。
名古屋城という今川内豊という人物が持っていた居場なんですけども、これを力で奪い取ったんじゃなくて、地略で奪い取ったと言われます。
これどうやって奪い取ったかがちょっと不明な点もあるんですけども、一説によりますと今川内豊に有効的に近づきました。
今川内豊が趣味で歌を読むとかですね、あれがすごい好きだったと思いました。
自分も歌好きなんですよということで近づいていたと。
今川内豊がこいつ歌も好きなんだということでどんどんどんどん仲良くなって、じゃあいっそのことを語り明かそうぜって。
今川内豊に大田信秀お前いい奴だわ、語り明かそうぜってせっかくだから自分の城に泊まったらってことで、名古屋城に何日も泊まれるような有効関係を結びんだと言われます。
で、そうしてから泊まってる時に兵を呼び入れてその間に名古屋城を奪ったと言われます。
騙し討ちですねって。
これは本当かどうかという不明点もあるとは言われてるんですけども、ただ大田信秀がこの今川内豊が持っていた名古屋城。
ちなみに名古屋城は今の言う名古屋城のこの名古屋じゃなくてもっと前の古い字なんですけども、
那覇の那に古は古いって書いて、野は野原野野、野球の野なんですけども、
この名古屋城これを突然奪っているということで何かしら地略とかに長けていた人なんだろうなとよく言われております。
でも名古屋というもともと自分たちは住んでたところよりもいい城を手に入れたりします。
さらに勢力を拡大していきまして、今度は厚田を支配します。
東海道53都議の中にも入っている厚田でございますねっていう。
厚田神宮、後に織田信長がどんどんどんどん発展させたという有名な厚田神宮なんですけども、
この厚田に織田信秀は目をつけておりました。
この厚田もどんどんどんどん経済伸ばせるよねということで。
そして実際この厚田を支配して経済基盤をさらにもとでを作ってみました。
そうやってどんどんどんどん勢力拡大していくんですけども、
この時代の大名としてはなかなか珍しいんですけども、
この厚田信秀ってどんどんどんどん居場を変えています。
例えば名古屋を奪っていますとか、その後に末森城とかを作ってたりするんですけども。
名古屋城って大きい城なんですけども、信長がある程度成長してきたら信長にさっさとその城を譲ります。
じゃあお前名古屋城住んでいいよという風にしますと。
自分はいろいろと拠点変えるから末森城とかあちこちに変えたりもしております。
これなんでこんなにあちこち拠点を変えているかと言いますと、
終わりだけじゃなくてその先を信秀は見ておりました。
終わりっていうのはとても豊かな地域だと。
米もたくさん獲れる厚田とか経済基盤になるところもある。
だから終わりはすごい儲かるところなんですけども、さらにもっと領土を広げたいよね。
ということで小田信秀は三河とかその反対の美濃の方にも手を伸ばしております。
三河っていうのはその愛知の東の方とかになってくるんですけども、美濃というのは今で岐阜のあたりです。
愛知県からしたら東の方とか北の方とかあちこちあちこち行ってるんですよ。
小田信秀。であちこち行って勢力拡大をしようとしておりました。
なのであちこち戦うので点々と居場を譲っているのでいくつも城を築いたりもしております。
でそれだけ城を作って金大量で戦って今そういった厚さとかそういうのを経済的に基盤発展させていたので
お金とかも持っていたというところですね。
でも実際本当すごいあちこち戦っておりまして実際三河で今川家と戦った時には勝利を収めまして
西三河、三河の西の方の権利を獲得したりしておりまして
美濃で斎藤家と戦った時には大垣城という城を奪ったりもしております。
というようにあちこちで戦ってしっかりと成績を残してるんですよ。
斎藤道山とか今川義元とかに全然負けてないんですよ。
それだけ強い人でもあるんですよ。
よく戦争とかでもしっかり成績上げているので
織田信英というのは戦争もすごいし地略にも優れている。
政治能力もあるよということですごい優秀な人だよとよく言われております。
実際これだけ実際には織田家の中でも
終わり織田家の中でも分家の分家であった織田信英なんですけども
実際的な経済力とか戦闘力においては主権を上回るんじゃないか
それぐらいまで力を伸ばしていきました。
なのでとてつもなく優秀な人ではあったんですけども
ただここが織田信英と違ったところなのかと思うんですけども
織田信英という人物は古き良きをとても大事にしている方でした。
あくまで主権の命令はしっかり守らなければいけないので
そういう固いところを持った人物でした。
あちこち転戦しております。斎藤家や今川家、今川家と後松平家とも
戦ったりもしておりますけども
そういった時に必ずと言っていいほどちゃんと上に追うかかり立ててるんですよ。
終わりの本家説とかの方に自分はこれからこっちで戦うと思います。
戦ってもいいですかっていう。きちんとそういった
自分はあくまで文家の文家でそこを守っていたんですね。
どんなに自分は優秀な人であっても
きちんと自分の上司は立てていたという人物なんですよ。
すごい革新的な人物だけど上を大事にするって
それはそれでいいところあるなって思われるかもしれませんけども
やっぱりそれではどうしても限界が来ました。
結果的に文家の文家という
そういった文家筋の人間というのを守っていたがゆえに
同じ文家の人たちから邪魔をされてしまうとかあったんですね。
自分は今川家と戦いたいっていう時にもかかわらず
同じ親戚の中で反乱が起きた。
今度はそっち鎮圧しなきゃいけないんだということで
思うように今川家を攻めれない。
美濃の方を攻めようと思った時でも上の命令
本家筋の方からいやいや今美濃を攻めないでよ
その代わりにはもっと国内のここらへんの反乱を収めてよ
と言われたらそっちの方に動かなければいけないということになりまして
織田信英自身がやりたいことっていうのは
上を守るからこそ古き良きを大事にするからこそ
できなかったと言われております。
なので実際のところ東の今川家はもちろん
北の台東家だけでなく自分の主君というか
主の命令にもきちんと応えなければいけない
そういった戦いも背負いました。
だからこそと言いますか
あちこち手を伸ばしたはいいもののパンクをしてしまいまして
やがて美川の方の土地は今川家に領土を奪い返されたりもしますし
美濃の方でも台東家はどんどんどんどん力をつけていきました。
なので台東家と和牧と言いますか
土下座外交に近いんですけどほんとごめんなさい
美濃を奪ってすいませんでしたという形で
織田信英が台東道場に謝るような形で和牧を結ぶ
そんな面もありました。
諸説あるんですけども織田信英は38歳で亡くなったとか
42歳で亡くなったという諸説はいろいろあるんですけども
ただ40歳前後で亡くなったと言われます。
相当苦労したなと思われます。
あちこちに戦いをしながら思うようにいかないストレスもあったと思います。
ストレスや疲れもあったのか病気となりまして亡くなってしまいます。
信英が若くして死んだことで
また信長はうつけ者と言われるくらい
自由本望というかいろいろとやらかしていた
青年時代を送っていたので
この終わり期はもうダメなんだろうなと言われていたとも言われております。
信秀の領土拡大と戦略
ただしっかりと織田信英の考え方であるとか
そして織田信英の教訓
上を大事にすることは大事かもしれないけども
ただそれに従ってばかりでは
結局自分が翻弄されてしまう思うようなことはできない。
そういった織田信英の教訓とともに
織田信長は受け継いだと思われます。
それもありましたが織田信長は家徳を継いでから
まずは自分の親戚筋である大有、織田卿を次々と倒しましたし
そして守護台だけでなく
守護である柴氏も倒すことになります。
そうやって終わりの中では自分はもう敵がいない
終わりの中の大名という形を取ってから
そこから天下へと続く道を歩んでいきます。
なので織田信長というのは
革新的な人物でありますし
優秀な方であるのは間違いないんですけども
ただその織田信長の人生におきまして
考え方や教訓さまざまなものを残したのが
織田信英という方でありまして
この織田信長の織田家の天下までの道を作ったのは
間違いなく織田信英でございます。
なので天下人の父というよりは
天下人を生み出した男といった方がいいかもしれません。
そんな優秀な人物織田信英
間違いなく戦国史に残る優秀な戦国武将でございます。
今回はここまでです。
織田信英の人生結構短いと言いますか
40くらいで亡くなっているのもありますけども
結構強烈なエピソードがあるんですよね
強烈なエピソードあるんですけども
分かってないこととかが多かったりして
それはミステリアさんなんですね
名古屋城を奪ってるんですけども
どうやって奪ったかの仮定が本当に曖昧だったりするんですよ
本当にこの方すごいなって思うのは
いろんなことを
経済的なこととか戦闘面とかだけじゃなくて
文化的なことも本当に吸収してたんですよね
文化的なことを吸収しておけば
自分や子どもたちが文化人とも仲良くなるきっかけを
作れるんじゃないかっていうのも
そういうのも考えていたんじゃないかと言われまして
実際、織田信秀が家徳を継いでからしばらく
親戚筋と喧嘩して和解してってのをしてた頃なんですけども
わざわざその和解に
今日のお偉いさんの仲間に入ってもらったりしてるんですよ
そうやって今日のお偉いさんに仲間に入ってもらうってことは
この人に動いてもらえるぐらい
この織田信秀っていうのはすごい人物なんだって
周りにもアピールできるんですよね
今日のお偉いさんと仲良くなるためには
文化的なことも学ばなければいけないよね
文化的なことを学んでいたと言われます
すごい多方面に勉強されていた方が間違いないなと思われます
どうしても織田信長の偉業がすごすぎて
織田信秀という人物は霞んでしまってますけども
間違いなく織田信秀の功績がないと
織田信長はそもそも生まれてないというか
織田信長があそこまで成功してないんだろうなと思われます
僕大好きな漫画で
ドリフターズっていう漫画があるんですよね
古今東西ありとあらゆる偉人たちが出てきて
それで戦いをするという漫画なんですけども
その中で織田信秀の名前だけ出てくるんですけども
ドリフターズっていうのは死に方がよく不明な人物でないと
出てこれないっていうのがあるんですよね
例えば織田信長が出てくるんですけども
織田信長って本能寺の辺で死んだと言われてますけども
遺体は出てきてないとか
この作品の主人公である島津豊一さんも確かに
関ヶ原で亡くなったと言われてますけども
死体は出てきてないと言われたりするんですよね
織田信秀って一応病死とされておりまして
死体あったろうと思うんですけども
確かに織田信秀って死亡がちょっと不明説もあるんですよね
病気で亡くなり死後3年間は覚醒と言われたりしてた
という説もあるので
いつ死んだかが不明だったりするんですけども
有名な織田信長のうつけエピソードで
織田信長が自分の父親の葬儀の時に
灰をばら撒いたというエピソードあるんですよね
なんで親父死んだんだって言いながら灰をばら撒いたというエピソードあるんですけども
あれは織田信秀の死体がそこになかったから
死体もないのに葬式してバカじゃねえのということで
そういったけなしもあって灰をばら撒いたという説もあったりはするんですけども
織田信秀の死体がないという説
本当にあったらそれは面白いなと思います
ただ一応拍子とはされております
魅力的な人物であるのは間違いないので
謎は多いというのもミステリアスなのも魅力ですよね
戦国のゲームとかをプレイされた時には
織田信秀もちょっと注目していただければいいかなと思います
今回ここまでと言ってから長々と喋ってますけど
本当にここまでとさせていただきます
部署ラジでは月に1回配信ですけどテーマいつでも募集しております
また気になる部署などありましたらいつでもご連絡お待ちしております
今回も最後にお聞きいただきまして誠にありがとうございました
23:58

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