織田信長、ほとんど天下を制したと言ってもいいような形なんですけども、
ただ、天下人に正式に慣れてないという形なんですけども、
時代の革命時とか、結局信長がやったことを引き継いで天下を統一したのが、
秀吉ということもありまして、やはり織田信長の偉業というのはとてつもなくありますよ、
ということなんですけども、
この織田信長の父親である織田信秀、彼はどんな話だったのか、
彼もまたすごい優秀でした。
むしろ、秀吉が天下を作るための礎を築いたのが信長ですけども、
ただ、その信長の位置杖を築いたのがまた織田信秀という人物でした。
なので、信長があれだけすごい人になれたのも、
この織田信秀あってのことなので、とても優秀な方です。
では、この織田信秀、どんな方だったのかという話をさせていただきます。
それでは、今回話をさせていただきますタイトルはこちら。
信長の覇業は父はのおかげ、終わりの虎、織田信秀とは。
すごい優秀な人だったともありまして、
あだ名が終わりの虎でございます。この織田信秀。
戦国のゲームとかですと、この織田信秀なんですけども、
異常に戦闘力はすごいあるんですけども、
なぜか政治とか知力がちょっと低めに設定されたりするんですけども、
いやいやいやいや、どう考えてもこの人政治とか知力半端ないでしょっていう人でもあります。
まずこの織田信秀につきまして、どんな方なのかっていうのをざっとですけども話をさせていただきますと、
織田信秀、生まれは1511年に織田信貞の長男として生まれたとされます。
この織田信貞というのは清洲三部行の一人なんて言われますけども、
終わりの守護台である織田市の中でも、その中の織田大和の森家に使える文家ですね。
言ってしまえば。そこの長男として生まれております。
織田信長自身もそうなんですけども、織田信長家徳を継いでから終わりという、
今でいう愛知県のあたりを自分の領土としますけども、
その時には同じ織田家の中で戦ったりしております。
当時の終わりっていうのは織田信長家徳を継ぐ前、織田信秀の生まれた頃とかの終わりってすっごいぐちゃぐちゃしてるんですよ。
終わり、今の愛知県西のあたりですけども、
例えばここを収めていいですよっていうのが守護と守護台っていうのがいるんですよ。
守護っていうのが正式にそこを収めていいんですけど、守護台はその代わりですね。
守護に何かあった時とか代理で収めてもいいですよってなんですけども、
守護が柴氏、柴氏か柴氏、柴氏ですね。
守護台に終わり家となっています。
守護が一応幕府が任命する、ここを収めていいですよって人なんですけども、
ただその守護は基本的には京都にいます。京ですね。
京にいて幕府の拠点のところにいまして、
基本的にそこに住んでるんですけど、終わりはあなたのものですよというふうに。
あなたは偉い人だから基本的に京、幕府の中心の方でも仕事してくださいねということで、
京から離れるなよ、京で仕事しろよと言われております。
じゃあせっかく領土をもらっても、自分が領土にいなかったら国が荒れちゃうじゃん。
ということで守護の代わりにそこを収めているのが守護台でございます。
守護の代理で守護台なんですけども、
なので守護というのは正式に終わりを収めているのは柴氏で、
その代わりの守護台が織田家なんですけども、
そして織田信秀の父親である織田信貞はあくまでこの織田氏、守護台の織田氏の中でも文家なんですよ。
文家なので全然終わりを収めてもいいっていうのから離れてるんですよ。
正式に終わりを収めていいのは柴氏で、あくまでその代理であるのが織田家。
ただその織田家の中の文家、本家じゃないよ文家なのが織田信貞でありまして、
その子供織田信秀、そして織田信長と続いていきますと。
なので大名とかでは全然なくて、言ってしまえば強い領主ぐらいですね。地元の領主ぐらいの方なんですよ。
現代風な言い方でしますと、例えば終わりを収めるのが県知事とかそういう風に言い方するとしますと、
織田信秀ってどんなもんかと言いますと市長ぐらいですね。市長もすごいんですけども、
すごいと言っても県知事とかと比べては全然離れてますよね。それぐらいの立ち位置の方なんですよ。
ただそれでも持ってる地域の良さもあったんですけども、
この織田信沙羅、信秀の地って信沙羅なんですけども、津島辺りを持ってたんですよ領土として。
これが本当のちのちの織田家、織田信秀、信長と続いてくるのはとても良かったんですよ。
この津島って何かと言いますと、津島神社の辺りなんですけども、
この神社を領土で持っている、しかも大きい神社を持っているというのがとても有力になるんですよ。
当時神社仏閣というのはとても力を持っていました。
その地域から例えばお父さんとかお金を集めて、それでお祭りを開くとか、お祭りを開いたりとかして、
それでお金を回すということで神社を持っていることは経済的にめちゃくちゃお金に乗って有力なんですよ。
その津島神社という大きいところを持ってたということで、
それで織田信秀というのはなかなかの有力者になるきっかけを持っていました。
正式には信秀はこの信秀の、まだ生きている時なんですけども、
家徳を継ぎますと1526年から27年の間ぐらいと言われているんですけども、
この間に家徳を譲られております。
この時に生まれて15、6歳で信秀は当主となっております。
この信秀が当主としてなってから、まだもちろん市長ぐらいですよ。
市長ぐらいとなってから何したかと言いますと、とりあえず他の市長と喧嘩して交話したと言っているのを結んでいます。
何で喧嘩しているかというと、要は同じ織田家の中でも文家がいくつかあるんですけども、
その中でもお互いに権力どっちが強いかというのを争っているというのがあるんですね。
強い方にやっぱり民が付きやすいと。
同じ隣同士だったらば、あれこっちの市長の方が強くね。
じゃあこっちに織田市長がこうなっているのがあるんで、結構そういった勢力争いが大事なんですよね。
喧嘩はするけどしっかり交話を結ぶっていうので、武力、自分は力を持っているよと指名しつつも、
でも本当は喧嘩する気はそこまでないんですよ。一族仲良くしなければいけないですよねという感覚を持ったんで、
上からのこいつは使えるんじゃないかというアピールになったんですよ。
あくまで今の織田信秀は市長なんですけども、
例えば副知事というか守護台の本家とか、さらに上の守護である、本当の正式な県知事である柴氏からすると、
一族の中で喧嘩をする気は本当に喧嘩をする気はないから、一族思いのあるやつではあるな、
でもなかなか力がありそうだなということで、織田信秀っていうのは使える人間なんですよというのをアピールしておりました。
力を持ってそれで喧嘩して交話するっていうのを繰り返すのも危ないやつって感じなんですけども、
当時の戦国時代からすると喧嘩早いとか、それで実際喧嘩が強い、なおかつしっかりと交話とかそういった感覚を結ぶ、
なんだかんだで仲良くできる感覚を結んでるっていうのはやばい、手下にしておくにはとても使えるなと思われておりました。
それで力をアピールしつつ、さらに実際にどんどんどんどん力をつけようということで、織田信秀がやったことは、
父親から受け継いだこの津島という地域の繁栄でございます。
実際、確かに神社に金は集まるっていうのは何となく当時でもわかってはいたそうなんですけども、
でも実際それをどうやって自分たちに結びつけるのかわからなかったことです。
神社にお金集まるって言っても、そういった神社とかからお金を徴収するの難しいなとかそんな感覚だったらしいんですよ。
でも織田信秀はそこに商業、しっかりと商売に力を入れようと考えました。
神社の周りを発展させました。町とかをしっかり作りました。
となりますと、お祭りとかがあった時にそこらへん一帯がふわっと震えますよね。
あそこで津島のあたりで大きい祭りがあるぞとなると、人がこぞって集まってきます。
そして人がこぞって集まってお金を落としていきます。
確かに神社とかからお金の徴収とか直接的に難しいところはあったらしいんですけども、
神社周りとお店が儲かると。神社周りのお店とかを整備してたのは織田信秀なので、織田信秀はそこから税収を得ておりました。
そして神社としましても祭りとかで人がやってくる。人がやってくることでお金を落としてくれる神社としても潤う。
潤うということはじゃあお祭りとかいろんなものをもっともっと派手にできるよねってことで神社がどんどん発展していく。
神社が発展していくことで祭りとか様々なこともどんどん派手になる。
ってことはもっと儲かるよねってことで神社周りのお店とかをどんどんどんどん整えていく。
そうやってお金とかを回るようにしていったのが織田信秀でございます。
もちろん他の大名とか大名じゃなくても例えば信秀のように市長ぐらいの方でも神社の地域持ってるよって人もいたんですけども
そこまでしっかりと神社周りを発展させるっていう考えにはいたってなかったそうです。
織田信秀は金が今後の力になるよと考えたので、金を儲けるためにはどうすればいいのかって言ってその神社を利用する。
人と金が集まる場所の周りを発展させていくっていうのを考えていたそうです。
この経済感覚はしっかりと信秀の息子信長に受け継がれます。
実際この津島や後に厚田神宮あたり、ここらへんをどんどん発展させてお金をどんどん稼いでいくのは信長でございます。
信長は経済において先進的な考えを持っていたと言われますけども、この信長の経済感覚の元になっているのは父親である織田信秀でございます。
もう少し補足させていただきますと、実際のところ戦国時代っていうのは基本的に年貢っていうのはお米でもらっていました。
お米でもらってっていうのがよく南国、かが百万国とかも言いますけど、それも百万国分の米が取れるとかそういった意味での百万国。
実際のところは米だけじゃなくて、それは経済感覚とかもありますけども。
お米がどれだけ作れるかっていうのもとても大事なんですけども、実際尾張っていうのは平坦な地域なので農業的にも栄えやすいってところだったんですけども、
さらにそこで商業を発展させようと考えたのは信秀でございます。
他の大名とかは結果的にお米がどれだけ取れるかどうか大事だったんですけども、信秀はしっかり金稼げば米も買えるじゃん、武器も買えるじゃん、その感覚をちゃんと持っていました。
確かにお米でもらって、それでみんなの飯を稼ぐのも大事なんだけども、そもそも金稼げば米買えるじゃんっていう、ちゃんとそのことをわかっていました。
今にして思えば当たり前かなと思う感覚なんですけど、当時からしたらお米自体がお金と同じ価値だったので、いかにお米を稼ぐかしか考えてなかったところに対して、
お金も大事だよね、お金そのものも大事だよねって感覚を持っておりました。
もちろん他の大名もこの感覚を持っておりましたけども、信秀が特にその感覚を持っていたという感じですね。
実際この信秀の経済感覚とかのお金を稼ぐことが大事だなっていうのは他の大名よりも波及しています。
例えば伊賀六角市、六角市とかに関しましては楽市楽沢とかで、商人を自分の領土にそれだけ取り入れるかっていうのはとても大事だと考えておりました。
よく楽市楽沢は織田信長の功績と言われておりますけども、織田信長より先に楽市楽沢をやってた大名というのは結構います。
そうやって実際に力持ってますよって上にアピールしてましたし、そして実際に力というか金も稼いでいた織田信で、
何をしていったかと言いますと、ほとんど他の領土を奪いに行ってます。
名古屋城という今川内豊という人物が持っていた居場なんですけども、これを力で奪い取ったんじゃなくて、地略で奪い取ったと言われます。
これどうやって奪い取ったかがちょっと不明な点もあるんですけども、一説によりますと今川内豊に有効的に近づきました。
今川内豊が趣味で歌を読むとかですね、あれがすごい好きだったと思いました。
自分も歌好きなんですよということで近づいていたと。
今川内豊がこいつ歌も好きなんだということでどんどんどんどん仲良くなって、じゃあいっそのことを語り明かそうぜって。
今川内豊に大田信秀お前いい奴だわ、語り明かそうぜってせっかくだから自分の城に泊まったらってことで、名古屋城に何日も泊まれるような有効関係を結びんだと言われます。
で、そうしてから泊まってる時に兵を呼び入れてその間に名古屋城を奪ったと言われます。
騙し討ちですねって。
これは本当かどうかという不明点もあるとは言われてるんですけども、ただ大田信秀がこの今川内豊が持っていた名古屋城。
ちなみに名古屋城は今の言う名古屋城のこの名古屋じゃなくてもっと前の古い字なんですけども、
那覇の那に古は古いって書いて、野は野原野野、野球の野なんですけども、
この名古屋城これを突然奪っているということで何かしら地略とかに長けていた人なんだろうなとよく言われております。
でも名古屋というもともと自分たちは住んでたところよりもいい城を手に入れたりします。
さらに勢力を拡大していきまして、今度は厚田を支配します。
東海道53都議の中にも入っている厚田でございますねっていう。
厚田神宮、後に織田信長がどんどんどんどん発展させたという有名な厚田神宮なんですけども、
この厚田に織田信秀は目をつけておりました。
この厚田もどんどんどんどん経済伸ばせるよねということで。
そして実際この厚田を支配して経済基盤をさらにもとでを作ってみました。
そうやってどんどんどんどん勢力拡大していくんですけども、
この時代の大名としてはなかなか珍しいんですけども、
この厚田信秀ってどんどんどんどん居場を変えています。
例えば名古屋を奪っていますとか、その後に末森城とかを作ってたりするんですけども。
名古屋城って大きい城なんですけども、信長がある程度成長してきたら信長にさっさとその城を譲ります。
じゃあお前名古屋城住んでいいよという風にしますと。
自分はいろいろと拠点変えるから末森城とかあちこちに変えたりもしております。
これなんでこんなにあちこち拠点を変えているかと言いますと、
終わりだけじゃなくてその先を信秀は見ておりました。
終わりっていうのはとても豊かな地域だと。
米もたくさん獲れる厚田とか経済基盤になるところもある。
だから終わりはすごい儲かるところなんですけども、さらにもっと領土を広げたいよね。
ということで小田信秀は三河とかその反対の美濃の方にも手を伸ばしております。
三河っていうのはその愛知の東の方とかになってくるんですけども、美濃というのは今で岐阜のあたりです。
愛知県からしたら東の方とか北の方とかあちこちあちこち行ってるんですよ。
小田信秀。であちこち行って勢力拡大をしようとしておりました。
なのであちこち戦うので点々と居場を譲っているのでいくつも城を築いたりもしております。
でそれだけ城を作って金大量で戦って今そういった厚さとかそういうのを経済的に基盤発展させていたので
お金とかも持っていたというところですね。
でも実際本当すごいあちこち戦っておりまして実際三河で今川家と戦った時には勝利を収めまして
西三河、三河の西の方の権利を獲得したりしておりまして
美濃で斎藤家と戦った時には大垣城という城を奪ったりもしております。
というようにあちこちで戦ってしっかりと成績を残してるんですよ。
斎藤道山とか今川義元とかに全然負けてないんですよ。
それだけ強い人でもあるんですよ。
よく戦争とかでもしっかり成績上げているので
織田信英というのは戦争もすごいし地略にも優れている。
政治能力もあるよということですごい優秀な人だよとよく言われております。
実際これだけ実際には織田家の中でも
終わり織田家の中でも分家の分家であった織田信英なんですけども
実際的な経済力とか戦闘力においては主権を上回るんじゃないか
それぐらいまで力を伸ばしていきました。
なのでとてつもなく優秀な人ではあったんですけども
ただここが織田信英と違ったところなのかと思うんですけども
織田信英という人物は古き良きをとても大事にしている方でした。
あくまで主権の命令はしっかり守らなければいけないので
そういう固いところを持った人物でした。
あちこち転戦しております。斎藤家や今川家、今川家と後松平家とも
戦ったりもしておりますけども
そういった時に必ずと言っていいほどちゃんと上に追うかかり立ててるんですよ。
終わりの本家説とかの方に自分はこれからこっちで戦うと思います。
戦ってもいいですかっていう。きちんとそういった
自分はあくまで文家の文家でそこを守っていたんですね。
どんなに自分は優秀な人であっても
きちんと自分の上司は立てていたという人物なんですよ。
すごい革新的な人物だけど上を大事にするって
それはそれでいいところあるなって思われるかもしれませんけども
やっぱりそれではどうしても限界が来ました。
結果的に文家の文家という
そういった文家筋の人間というのを守っていたがゆえに
同じ文家の人たちから邪魔をされてしまうとかあったんですね。
自分は今川家と戦いたいっていう時にもかかわらず
同じ親戚の中で反乱が起きた。
今度はそっち鎮圧しなきゃいけないんだということで
思うように今川家を攻めれない。
美濃の方を攻めようと思った時でも上の命令
本家筋の方からいやいや今美濃を攻めないでよ
その代わりにはもっと国内のここらへんの反乱を収めてよ
と言われたらそっちの方に動かなければいけないということになりまして
織田信英自身がやりたいことっていうのは
上を守るからこそ古き良きを大事にするからこそ
できなかったと言われております。
なので実際のところ東の今川家はもちろん
北の台東家だけでなく自分の主君というか
主の命令にもきちんと応えなければいけない
そういった戦いも背負いました。
だからこそと言いますか
あちこち手を伸ばしたはいいもののパンクをしてしまいまして
やがて美川の方の土地は今川家に領土を奪い返されたりもしますし
美濃の方でも台東家はどんどんどんどん力をつけていきました。
なので台東家と和牧と言いますか
土下座外交に近いんですけどほんとごめんなさい
美濃を奪ってすいませんでしたという形で
織田信英が台東道場に謝るような形で和牧を結ぶ
そんな面もありました。
諸説あるんですけども織田信英は38歳で亡くなったとか
42歳で亡くなったという諸説はいろいろあるんですけども
ただ40歳前後で亡くなったと言われます。
相当苦労したなと思われます。
あちこちに戦いをしながら思うようにいかないストレスもあったと思います。
ストレスや疲れもあったのか病気となりまして亡くなってしまいます。
信英が若くして死んだことで
また信長はうつけ者と言われるくらい
自由本望というかいろいろとやらかしていた
青年時代を送っていたので
この終わり期はもうダメなんだろうなと言われていたとも言われております。