では早速タイトルコールさせて頂きまして、内容に入らせて頂きます。
今回話をさせて頂きますタイトルはこちら。
過酷な眼鏡を乗り越えるため、人を大切にした名称、武田信玄。
武田信玄、真津桃山時代の戦国時代が好きな方であれば、
知らない方はいないんじゃないかなと思うし、
聞いたことないよという方はいないんじゃないかな、
それくらい有名な方でございます。
またこの武田信玄、前回の孫子の時にも軽く触れましたけども、
孫子に非常に影響を受けていたと言われます。
例えば孫子が残した言葉である風鈴火山。
進む時は風のよう、静止する時は林のよう、
攻める時は火のよう、動かざる時は山のようにという風鈴火山を
対応していたことも有名かなと思われます。
この風鈴火山という言葉はいろいろ解釈されることもありますけども、
基本的には物事を進める時には状況に応じてメリハリをつけて
行動しましょうねということで、
現代でもビジネス用語とかして使われたりもしております。
この風鈴火山を日本で広く広めたということでも、
武田信玄有名じゃないかなと思われます。
その他にも武田信玄自身が残したと言われる言葉の中には
人は城、人は石垣、人は掘り、情けは味方、あだは敵なり
なんていった言葉もあったりします。
これは立派な城とかを建てるよりも人材の方が大事だよ。
人こそが城であり石垣であり掘りである。
だから城を作るよりも人を大切にしましょうということでありますし、
また情けをかけることで人は味方になってくれるけども、
逆に恨みを買うようなことであれば人は敵になるんだ。
なので人との信頼関係は大切にするんだよという意味で、
こちらも教育面とかでよく使われる言葉だったりします。
また今回カラスさんからメッセージでもありましたけども
背反語録、これ読み方とかも実は正しくはない。
正反語録とも言われたりもするんですけども、
そもそも尺尺も出典も不明なので、
正しい読み方すらも不明なんですけども、
ただこの背反語録もビジネス用語とかだして有名でございます。
その中でも背反語録の中でも、
武田信玄が残したと言われる言葉の中のうちに、
一生懸命だと知恵が出る、中途半端だと愚痴が出る、
いい加減だと言い訳が出るといった言葉があったりします。
これもどんなことをやるにしても一生懸命やる方が大事だよということで、
これもやっぱりビジネス用語とかして使われますけども、
この言葉もやっぱり遊びであろうと仕事であると、
常に一生懸命であるオモライさんっぽい言葉だなと思います。
努力の大切さとかを説きまして、
何事にも真剣に取り組むことの重要性を示唆してくる教訓として、
武田信玄の言葉はよく使われたりもしております。
こういったように武田信玄って、
現代に通じるような様々な言葉とか、
特に人材育成とかビジネスに使えるような言葉、
そういった言葉を残しているのでも有名だったりします。
この武田信玄なんですけども、
本当に人材育成とか、人を見出すところとかに
すごい長けてたということで有名な方なんですけども、
この武田信玄がどういう人物であったのかというのを、
ざっとですが紹介させていただきますと、
武田信玄、正式には水戸の春信ですけども、
生まれの時期が今と異なったり、ずれが出てるりするんですけども、
1521年の11月から12月に、
貝の国の守護である武田信虎の次男として生まれます。
ちなみに、用名は太郎でございます。
この武田信玄こと水戸の春信ですけども、
兄がいたんですけども、兄は早くに亡くなっております。
なので、春信が2歳か3歳の頃には、
着南、武田家の後継者として育てられるようになります。
ただ、この後1525年に、
弟である武田信繁が生まれるんですけども、
そうすると父の長愛は信繁の方に移っていきまして、
春信と父との関係性は悪くなっていったと言われます。
そこ、1536年に春信現行します。
その時に室町幕府十二大将軍足利義春から、
この春の字を賜りまして春信と名を改めます。
さらに、朝廷の権力者、左大臣である三条金頼の娘を妻に迎えるなどもしております。
朝廷の権力者で、今で言う大臣クラスですね。
大臣クラスの娘さんを妻に迎えたと思っていただければ。
というように、将軍家とか朝廷との関係性もしっかり考えられまして、
武田家の後継者として春信、期待されていたんですけども、
ただ、父である信寅の関係性が悪かったことで、
信寅は可愛がっている弟の信繁の方に家徳を譲ろうかと計画していたと言われます。
少し余談というか補足になるんですけども、
春信の父親信寅はワンマン気質がめちゃくちゃ強かったと言われます。
なので、家臣たちが頑張っていろいろと整えたりとかしても、
自分の独断でひっくり返すことがよくあったと言われます。
ただ、ここらへんは武田信玄、武田春信、源春信が正しいんだとするために、
わざと関係性が悪くなっていた父親である信寅を悪く書いてるんだと言われたりもするんですけども、
実際には武田信寅はそこまで悪い人物でもなかったよと言われたりもしてるんですけども、
ただ、着難である春信は名前を将軍家から賜っていると。
春という字をもらっていると。
さらに妻を朝廷のお偉いさんの娘に迎えているとかね。
そんな状況にも関わらず、弟の信繁に家族を譲らせようというのは、
相当ワンマン気質がないとやらないんじゃないかとも言われております。
現代風に言いますと、地方のとある企業、その地方ではかなり大きい企業になるんですけども、
その企業で次に社長を継ぐのはこの人だなと言われている長男がいます。
しかもその長男は日本有数の大企業のお偉いさんから可愛がられているし、
ある程度認めてもらっている。
さらには国会議員と言いますか、大臣クラスの政治家の娘さんとも結婚していると。
なのでこの企業の将来も安泰かなと思われるところで、
ただ現社長である父親がやっぱり長男に会社継がせるのやめた。
可愛がってる次男に継がせるわということをしようとしたと言われております。
これやっぱり日本有数の企業とか政治家の顔に泥塗るようなこともしているので、
信繁が丈だけないでもやっぱりワンマン気質だったんじゃないかなというのは言われる側だったりもします。
ただこの結局なんですけども、春信は獣神である板垣信方とか、
アマリトラヤスオブトラマサダとかと一緒に父親である信虎の鶴が追放を行います。
父親の方を逆に追放してしまいますと。
それで春信が丈だけの19代目の家族を総督することになります。
現代風で言えば次期社長である長男がその企業の従役たちと一緒に、
現社長の父親をクーデターを起こして追放したということになります。
その後春信は父親のワンマン気質はこれ変えなきゃいけないねということで、
積極的に丈だけの政治を変えていきます。
例えば合議制、いわゆる会議をするようになったと。
今までは信虎がワンマンで決めたというところもありましたけども、
それをやめまして、家臣たちからの意見を広く取り入れるようにしようと。
それで会議を行うようにしました。
そこで家臣たちが様々な意見を持ったり、深く考えるように促しました。
それによって家臣たちが成長していくということで、
人材育成としても合議制を積極的に取り入れていきました。
また父信太郎は国の中での偉いポジションとかを一族、
血縁関係者で固める傾向がありました。
重要ポジションは親戚で固めるということなんですけども、
実際この傾向なんですけども、特に珍しいものではないですし、
むしろ当時の日本とかでは当然の傾向ではありました。
鎌倉とか室町、そこから安土桃山の戦乱の続く日本では、
裏切りとかが多発しました。
祝福のコロコロ帰りようということもよくありました。
なので、要となるポジションは血の繋がっている一族で占めること。
これも本当によくありました。
ただ春信の場合は家柄とかは関係ないし、
また人を好き嫌いで判断しないで、能力に応じて仕事を割り振ったと。
重要なポジションを与えて実力主義を重視しておりました。
それによって武田家は決して豊かではない貝の国なんですけども、
ただ家の力をつけていった、人の力によって武田家を強くしていったと言われます。
こういった実力主義で人材投与をする例として、
軍師山本勘助とかはよく例に出されます。
山本勘助は優秀だったと言われるんですけども、
容姿が悪かったということであったりとか、
偉い人に対しても自分の考え、正しいんだという意見を
当時として革新的なことをしたのが武田信玄だと言われております。
そして、革新の話を聞き入れまして、
春信は父親信玄時代とは方針とかも大きく変えていきます。
例えば武田家、信玄時代は北条家との関係性が悪くて、
北条家と戦を繰り返していました。
信玄は北条を倒して関東への進出を考えていました。
これ位置関係で話しますと、
武田家は貝の国、山梨県あたりでございます。
北条家は東京とか神奈川とか、今ほど発展はしてないですけども、
東京とか神奈川とか広く領土を持っていまして、
その北条家を倒して関東へ進出しようと考えていたのが父親信玄でした。
ただ春信は家徳を継いだのが1541年6月頃と言われますけども、
家徳を継いでからは北条家との関係性が悪くなります。
もう戦をやめようと、お互いに仲良くしましょうという風に持っていきます。
それで、品野の方、今でいう長野区圏の方へ領土を広げるように方針を変えました。
父親時代には戦い継ぎた北条とは家徳を継いで、
2、3年後の1544年には正式に北条家と和睦をします。
またその翌年1545年には武田家が北条と今川の対立を仲裁しています。
なので北条家と今川家の関係性の改善などにも努力をしまして、
それができるぐらい武田家は北条家との関係性が修復できていたと言われております。
こういった動きも後の江蘇遜三国同盟という武田北条今川の3つの大国が同盟を結ぶことにつながっていきます。
また先ほどチラッと触れましたけども、武田家が治めております貝の国は豊かな国というわけではなかったです。
と言いますのも貝は山ばかりの土地で平地、平らな土地が少ない地域でした。
平らな土地が少ないため田んぼとかを作るのに向いていませんでした。
なので貝の国とかは土地の広さの割には米を作るのが難しかったです。
また平らな土地が少ないだけではなく山が多いため急斜面も多く水の流れが急激な場所が多かったです。
水の流れが急激になっているためそういった水を引くなどコントロールするのが難しい地域でしたし、
大雨とかですと水の流れが急になりすぎて川が氾濫してしまう。
それで田畑に多大な影響を与えてしまうそんな土地でした。
そういったこともありまして貝では米などの作物を作るのが難しい土地でした。
ただ武田春信は家徳を継いでから農作が難しい地域だけども少しでも農作をしやすいようにということで様々な改革を行っていきました。
水の流れが急激であったりするのでそれが水害などを起こすので川の流れを制御するための堤防などを作っていきました。
これが震源づつみなども言われましてこの堤防の基礎となるものは今もなお残っております。
またその他にも霞堤という切れ目を入れた堤防。これによって切れ目から水が溢れ出せるので水の勢いを調節する堤防を作っていました。
他にも清牛などの水の勢いを弱めるための構造物なども駆使しまして貝の国の農業を助けていくことになります。
ただそれでもやはり農業だけでは限界があるということもありまして金山金の山とか金が取れる山ですね。
その金山に活路を見出しました。と言っても金山自体は春信が家徳を継ぐ以前よりも貝の国とかでは発見されておりました。
ただ金を掘りそれを加工するのコスト面がかなりかかってしまう。
なので金山はあるけども金山を活用するのは重要視されておりませんでした。
ただ春信が家徳を継いでからはそのコスト面などを大幅に改良しまして金山によりまさに金を生み出せるようにしました。
それによりまして本来は貧しい土地でもあります貝の国を峡谷にしていきました。
そういった農業であるとか金山のことなど内政手腕これだけでもすごい優秀なんですけどもそれだけじゃなくて国を治める上での法律もきちんと制定していきます。
その中には国の中の掟であるとかどっちも所有年貢再建などそういったのに関することを文書でまとめていたりだとか他にも論語など中国の古典などを引用しましてそれにおきまして
日常的なことなどについての道徳的なことなどもまとめていました。
それによって国としてはこういうふうな国がいいよねというのを文書化することで家臣や民衆にも分かりやすい国、いい国を作っていこうとしました。
この信玄がまとめた文書の中には賢家良政賄という項目があるんですけどもこの賢家良政賄争ったものは程度や理由にかからず処罰するよというものですけども
現代にもこの残る言葉賢家良政賄は武田信玄、武田春信が生み出したものだとされております。また定めた法律の中には統治側も法に従う責務を自ら課すこと
民衆に統治側の不法行為を休断する権利と統治側の是正義務を保障すること
という固い文章でしたけども言い換えれば偉い人も罪に裁かれるんだよ。また民衆が偉い人を訴えたり休断していいんだよということを法律の中で定めました。
これは当たり前でしょう。偉い人も罪に裁かれたりとか民衆が偉い人を訴えるなんて当たり前じゃないかと今では思うかもしれませんけども
この価値観をしっかり明文化したのは武田春信が日本史上で一番早かったんじゃないかと言われております。
と言いますのもこれより前の時代極端な例になりますけども鎌倉時代とかにおきましては偉い武士がそこら辺で歩いてる民を勝手に切ったり殺してしまっても裁かれることはありませんでした。
民衆は偉い人に何をされようと文句を言えない状況でした。ここら辺は鎌倉武士団が野蛮だと言われたりもしてますけども
ただこういった偉い人が何をしてもいいという価値観は戦国時代におきましても残っていました。
ただこれっておかしいよねこれだったら国が良くならないよねということをしっかりと定めたのが武田春信が日本で一番初めだったと言われております。
というように現代にまで残るような様々な価値観を残したことでも武田信玄後の武田春信は有名であったりもします。
話が逸れてしまいました申し訳ございませんけども武田春信の生涯についてまた話を戻しますと
春信は家徳を継いだ後、貝の国のいさまな状態、政治とかを整えながらだんだんと信濃、長野県ですね今でいうそちらの方へ進行していきます。
そこでは諏訪、小笠原、村上などの難敵と戦いまして約10年をかけて信濃の国の大半を領地とすることになります。
ただこの信濃の信濃におきまして村上義経を倒したことで村上義経が越後にいる植杉謙信へ助けを求めることになります。
村上義経が越後の植杉謙信に領土取られてしまいましたすいません植杉謙信様どうか自分の領土を取り戻してくれませんかという風に頼み込むようになります。
そして植杉謙信は村上義経の助けに応じる形で信濃の村上義経の領土を取り返しに行きます。これによって武田家と植杉家での戦いが起きるようになります。
かの有名な川中島の戦いが起きていきます。川中島の戦いは計5回行われたと言われております。
第3次川中島の戦いから第4次川中島の戦いの間1559年頃に武田晴信は出家をして武田信玄となります。
武田晴信が出家した理由というのは諸説ありますけどもある説では京に行くタイミングがライバルである植杉謙信に先を越されたからという説もあったりします。
この頃と言いますのは京へ行きまして将軍であるとか朝廷の偉い方々に配越することで偉い人と仲良くなることで家の格とかを得られました。
格を得てそれによりまして例えばじゃああなたはこの地域を治めていいよといった許可を得たりします。
実際にはこういった頃は主語とか会の国の主語とかその国を治めていいよという許可があったとしても実際には下国城とかで後はもしくは他国から攻められて領土を取られてしまうということはあるんですけども
ただその場所を治めていいよという許可が得られることで大義名分が得られます。
自分はこの地域を治めていいっていう大義名分持ってるよ。今この地域にいる敵は全部排除しますよといったことが認められたりもします。
なのでなんだかんだでそういったその土地を治めていいという許可は武器になったりしました。
ここらへんは京へ行って将軍とかと会うことは城楽なんて言いますけどもただ一般的に城楽と言いますと織田信長のことはよく言われます。
実際織田信長はしっかりと京都に地盤を固めるために今川義元とか斎藤卿を倒しまして京の方へ大量の兵を引き連れていきました。
そこで京に行って地盤を築いたりしました。ただ実際にはそんな大々的に何万とかの大量の兵を引き連れないでも将軍とか朝廷の偉い方々に会いに行くという武将も数々いました。
家臣だけを連れて数十人で京まで行きました。で偉い人の挨拶回りが終わったらじゃあ自分の領土に戻りましょうという武将も数多くいました。
なので城楽というのはもっと一般的に織田信長のような大々的なことじゃなくても言葉は良くないんですけどもなんというか気軽な感じでもっと城楽というのはできました。
とはいえなかなか当主がその領土から離れるとなりますと他の地域の武将から攻められてしまうということもありまして実際なかなか当主が城楽するというのは難しいこともありました。
ですがこの頃河中島の戦いの頃とかに植杉謙信は武田信玄より先に京へ行き将軍とかに配越していたと言われております。
どちらかというと植杉謙信は品野の武田信玄との戦いもあるんですけども植杉謙信まだこの頃長尾生ではあるんですけど長尾の時越後というのはどうしても反乱とかも多い地なので
この自分の領土での越後を収めるための格を得るために将軍に挨拶に行ったらとかまた品野というよりも関東の方での争いとかを気にしていたので
言われております そういった形で貝の国と品野の国を得られることになりました
武田家ですけどもその頃1560年頃ですね 第4次川中島の戦いが1561年と言われているのでその1年前
今川吉本が桶狭間の戦いで女信長に打ち取られます でもこのことで東海地方の勢力図が大きく変わってきます
今川家が治めていたんですけどもここから後に独立する徳川家がどんどん東海地方 島川家の領土を切り取っていくことになりますしそれを
織田家もバックアップしていくことになります ただまあそういった織田徳川の勢力拡大していくの良しとしなかった
武田信玄としましては高層寸三国同盟という形でかつや同盟を結んでいた相手を裏切る ことになります
今川吉本の主がある8年後 武田家は今川家の領土を奪っていくそのように進行していきます
織田徳川や武田家の進行もありまして今川家といえば継いでいくことになります 後に今川宇島さんは生き残りまして
徳川家康が正位大職になりました 江戸幕府が開かれた頃には今川宇島さんはなんだかんだでいいポジションにいたりもしたんです
けども それは置いといても東海地方のかつては大国を率いていた今川家は没落していくことになります
この時に結局駿河を巡って家康と武田家の関係が悪化していくんですけども ただこの時に織田家が間に入ることで徳川家と武田家の衝突は決定的なものにはなりませんでした
今川義元を打って勢い乗っていた織田信長 武田信玄としてはその織田家と直接戦いたくはないなと思ってましたし
織田信長も織田信長で強大な大国武田信玄とは戦いたくないなと思っていました なんと理解が一致しまして
織田家と武田家の間で婚姻関係 信長の息子と信玄の娘の間で婚姻関係を結びまして同盟関係が作られます
そして織田と武田で同盟関係ができましたので織田が間に入って 徳川と武田も仲裁するようになっていきます
この同盟関係もありまして織田家と武田家はしばらくの間戦わなくなるんですけども ただこの時信玄の長男である吉野部はこの織田との同盟には反対をしていました
でこの時の意見対立が原因となりまして 信玄は後に長男吉野部を拝着
着男でなくす要は吉野部を後継者から外すことになります 武田信玄自身がかつて父親での信寅から着男の座を取り上げられそうになったという過去があるんですけども
まさか信玄自身も自分の長男から着男の座を奪うことになってしまいます しかもなんですけどもこの長男の吉野部を吉は
義とかの正義とかの義なんですけどもこの義という字は将軍足利義輝の義という字から取っています
なので武田信玄は春信も自身もかつて将軍家から授与いただきまして 期待されていた着男時代がありましたでその時に着男の座を奪われそうになった
でも結局クーデターを起こして自分が党首の罪になりました で今度は自分が父となりまして党首となっていた信玄は自分の息子から後継者の座を奪う
ということを起こします 父信寅とは政治の仕方などを全く変えていた信玄ですけども
皮肉なことに自分の父が自分に対して起こしたようなこと 着男の座を奪う拝着を起こしてしまいます
また少し後で触れさせていただきますけれどもこの時長男吉信が危惧したことが現実となり まして結果的には武田家滅亡につながっていくことになります
とはいえ同盟を結んでしまったことで織田家と武田家では争いは特に起きていませんでした ただ織田信長が比叡山の焼き討ち事件を起こします
これに対しまして出家をしていたこともありまして武田信玄は織田信長を避難します そして信長との同盟関係に亀裂が走ります
でまたこの時信長との関係が悪化していた第15代将軍足利義明が信長討伐 例をというのを出しております
それに応じるように1572年には信長討伐のための正常作戦を武田信玄は返します 会市なのにいる武田家
で滋賀や京都岐阜あたりそこら辺にいる 織田家そこを討伐するために西に進んでいくことになります
その作戦の道中で味方が原において徳川家康の軍を撃破します 後世でいうとこの味方が原の戦いでございます
この味方が原の戦いにおきましては徳川家康は死を覚悟するほどの惨敗を期します 徳川家がボロボロにされたということで武田家の強さがどんどん広まっていきます
ただこの味方が原の戦いの前後におきまして信玄は持病が悪化します 遺願だったんではないかとも言われておりますけども様々な説があります
その持病によりまして隔絶中央迫などを繰り返しまして武田軍は進軍を停止します そして信玄は流しの城で療養するんですけども
事態を重く見た家臣たちは撤退を決断します 織田家を攻めないで会に戻りましょうということになります
そして1573年4月会議の期間途中に信玄は亡くなることになります ただ彼は遺言で自分の死を3年は隠せその3年の間に国を整えろと
また本来の後取りである孫の信勝彼が成長するまでは勝よりがその貢献役となれよ そして何か困ったことがあれば
越後の上杉謙信を頼れと遺言を残したと言われます ただ結果的になりますけども信勝に家徳が引き継がれる前に長城の戦いにおきまして
武田家は信長に敗北することやまた 信玄の死によりまして武田一族や家臣団は団結力を失っておりましてそういったのが
重なりまして武田家滅亡することとなりました 滅亡を招いた理由としましては数々のものがあります
例えば構想する三国同盟などがあったにも変わらず その同盟を破棄して今川家を攻めるなどした武田信玄
他にも同盟破棄なのは武田信玄繰り返したこともありまして 他国から信頼されなくなっていた
なので窮地において助けてもらう見方が減ってしまっていたこと 他にも孫である信勝が正当なる後取りとしていたこともありまして
それまでの後継人である武田勝頼に対して勝頼は一時的なものでしょう 正当な後継者は信勝だから勝頼さんは後継者じゃないんですよねということで甘く見られていました
それによって信用がいまいち得られておりませんでした またかつて敗却をしました長男の吉信が考えていたことが結果的には現実のものとなってしまいます
長男の吉信としましては武田家は北に飢えすぎ それと敵対しているし今川家や下手したら北条まで敵に回しかねない状況であると
実際今川家を攻めていたということもありましてすでに今川と同盟関係は破棄していました それを考えると北条家としても武田家を信用できないよね
同盟関係を結んでもいつ破棄されるかわかったもんじゃないよねということで信用がやりにくい ということで周りを敵に囲まれすぎている
ここで織田や徳川と同盟を結んでしまいますとそれこそ武田家としては攻める場所がなくなってしまう
駿河を攻めようにも徳川や織田との関係性を考えたら駿河を攻めることはできない 今川や上杉は兄弟の敵であり
ここと戦ってもまともに領土を広げることはできない なので領土を広げるには難しい状況となってしまう
一方織田家としましては武田家とか徳川家との同盟があるとそうしますと東側 駿河とか海信濃の方は気にしなくていい同盟があるから気にしなくていい
でそうすると西の方に思い切り軍を進めることができる 西の方に関しましては武田家のような上杉とか今川とか北条とか
そういった強大な敵に比べると織田家が見る西の方は強大な敵が少ないとなると 領土を十分に広げられることができる
なのでいずれ織田家はどんどん力をつけていってしまいき 武田家よりも遥かに強大となってしまう
それを長男吉信は危惧しておりました でその長男吉信の考え通り
武田家が満足に領土を広げられない間に織田はどんどんどんどん領土を広げていきまして強大な力を得ていきます
その結果織田家によりまして武田家は滅亡させられます かつて武田信玄自身が父親である信谷に怠ったような
空手ターがもしも信玄の代に起きて吉信が当主となっていたら 武田家の未来や日本の戦国時代の流れも変わっていたかもしれません
ただ武田信玄は政治面や軍事面 領民や家臣の信頼などがあまりにも優秀すぎました
だからこそ空手ターが起きることはありませんでした 武田信玄優秀だからこそ戒という恵まれていなかった土地を
峡谷に押し上げることができましたが優秀だったがゆえに 結果的な国を滅ぼすことにもなってしまった戦国武将それが武田信玄でございます
こういったところが武田信玄の雑とした生涯なんですけども 武田信玄本当人材育成とか人材投与と言いますか
人を見極める目が本当すごいと思います 貝の国を峡谷にした要因の一つである金山の開発ですけども
この金山開発におきまして多大なる攻撃的を上げたのが大久保長安という武将なんですけども この大久保長安は武士の生まれではないです
猿学士という日本の伝統芸能である能を行っている家の生まれでございます 武田家に能を披露するという猿学士として使えていたんですけども
そこから能力を見極められまして大久保長安は家臣として取り立てられるようになります そして鉱山の開発であるとか税務といった税を扱う職
こういったのを与えられることになっていくんですけども これ今の価値観でもなかなかすごいと思うんですよね
伝統芸能家の方に君は官僚とか役人としての才能がすごいあるよ ということでなのでそっちでスカウトするねってことをしてるんですよ
実際大久保長安は成果を上げております こういった人を見極める目とかが本当すごいと思います
冒頭の方でも触れましたけども人材教育としても様々な名言を残している武田信玄 一生懸命だと性が出る中途半端だと愚痴が出る
いい加減だと言い訳が出るだとか人は城人は石垣人は掘り 情けは味方肌は敵だりだと本当多くの名言を残してるんですけども
本当人をとにかく大事しておりました だからこそ貝の国というのを峡谷にすることができましたし
ただ一方で人を大事にしすぎたからこそと言いますか 武田信玄はクーデターを起こされることがなかったです
また竹田信玄なんですけども人を大事にしていたんですけどもただ人を大事に するしかなかった人を見極めて人を育てるしかなかったというのは事情もあったりします
と言いますのもやっぱり貝の国が残念すぎる特徴がありまして 本当厳しい土地だったんですよね貝の国って
貝の国は先ほども触れましたけども山に囲まれていますというか山合いです となりますとどうしても平地が少ないので田畑が作りにくいという事情はあります
当時といえば年号を収めるといえば米でございます 税金として収めるのも米だったりするのでもほんと米がお金として扱われていた面も
あります なので米が作られないということはその地域の収入が低くなるのでほど厳しくなるという
状況はあります ただこの話聞くとあれと思う方もいるかもしれませんけども
日本という土地はもともと山が多いです なので確かに貝も山が多いけどもいや他の地域だって山で厳しいとこあったろうと
田畑を開発しにくい地域だって他にもあったろうと思われるかもしれませんけども ただこういった山合いの中でも特に貝の国が他の地域と比べて
とてつもなく過酷な状況だったという理由があったりします この理由のために他の地域よりもさらに田畑が作りにくいし
田畑が作れないのでお金を生み出せない土地でございました その理由と言いますのが日本重血球中傷別名地方症でございます
日本重血球中傷これ寄生虫による病気なんですけども まず日本は日本なんですけど重点は住む日本に住んでいる
血球中血を吸う虫の症状なんですけどもこれ寄生虫なんですけども この病気かかりますと最初は下痢とか発熱とか
白に肌が黄色くなって腹が大きく膨れましたでやがて 手足が痩せて動けなくなりましたそして最悪の場合死に至ります
でこれなんですけどもこの日本中血球中という寄生虫が皮膚から体内に侵入しました そして肝臓につながる血管内に寄生しまして
毎日数千個の卵を産みます そしてこの卵は血管を詰まらせることで血液が循環しなくなりまして
様々な体調不良を起こしていきます 肌が黄色くなるよく横断ですね腹が大きく膨れる
腹水が溜まるここらへんはやっぱり肝臓を悪くした人の特徴的な症状なんですけども この病気にかかりますとかなりの人が肝肓炎になって死になります
この疾患が発見と言いますかこういう病気があるんじゃないかと言われるようになったのは 明治20年代頃なんですけども
そこからこの疾患の撲滅がされたのは1996年約30年前です 割と最近までこの日本重血球中という寄生虫の問題は日本においてかなりの問題症されていました
これなんですけども寄生虫がミヤエリガイという貝に潜んでました このミヤエリガイとか貝が水田
水田の速攻部分水の部分ですねそこに生息します 特に水際の泥のところとかにこの貝がいたそうなんですけども
この貝があちこちの水田に潜んでおりました で水田で作業している時にその貝から寄生虫が出てきて人に入り込むとそれによって病気を
引き起こしておりました 現代では水田の速攻部分とか水の部分とかをコンクリート性に変えるとか
あと貝を殺す薬とかを使用して ミヤエリガイが生息できない構造を作る取り組みが行われています
これによって現代では撲滅宣言が出ております 昔は人の行き来が今に比べたら少なかったこともありまして
日本全国でこれが猛威を振るったわけではないんですけども ただこの日本重血球中傷
三大流行地が山梨県の甲府盆地福岡県とか佐賀県の 筑豪川領域広島県の現在福山あたりと言われておりましてその中でもこの
甲府盆地あたりは最大の感染地域だったと言われております でこれ現代だからこそこういう病だったんだなというのがわかったんですけども
昔からあるこの病気はもう原因不明として恐れられていました 明治20年頃に何か困難があるかもしれんって言われ始めたというわけでありまして
もっと昔からもうそれほど戦国時代の頃の海の国におきましても この病は原因不明の病として恐れられていました
なので武田信玄も遺願じゃなくてこの日本重血球中傷でなくなったんじゃないかという説も あったりもしますしまた武田24章の一人尾端正森はこの病で命を落としたと
言われております もう田んぼなどの水のところに行くとこの病にかかると言われておりましたしまた
川でホタルを取りに行くと水場で感染したりもしたのでとにかく水場は危険とされていました もしもこの病に感染した地域があったらもうそこに行くなというのも言われておりまして
感染者が出ると村端部のような状況になったと言われております こういったのもありまして長らく海の国では水田をまとうに開発することも難しい状況でした
今現在でも山梨県はフルーツ果物の生産に有名なんですけどもこれもまた田畑を 作るのが危険であったため
作物を作るのであれば果物にするしかなかったそういった一面もあったりします なのでとにかく田畑を作ることは難しかった海の国
田を作れないということは今で言うお金を生み出しにくい土地 そんな辛い環境を乗り越えるためにも武田信玄は人の力人のアイディアでこの苦難を