1. 武将ラジ〜武将について喋るラジオ〜
  2. 第14章「本能寺の変は起こるべ..
2026-01-11 46:19

第14章「本能寺の変は起こるべくして起こった⁉️"明智光秀"の苦労と野望とは❓」

テーマをいただきましたリンス様誠にありがとうございました😭


今回は「本能寺の変がなぜ日本史史上最大の謎と言われるのか?」というテーマで「明智光秀」

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サマリー

第14章では、本能寺の変に関する明智光秀の人生とその背景を探求しています。明智光秀はその出生や成り立ちに謎が多い人物であり、彼の野望が本能寺の変にどのように繋がったのかについて考察されています。このエピソードでは、明智光秀の困難な背景や野望を探求しており、特に義輝を将軍に擁立する過程や、光秀が果たした重要な役割に焦点が当てられています。信長と義輝の間の微妙な関係が、明智光秀の運命を大きく左右します。 本章では、明智光秀の野望とその苦労を描写しています。光秀は織田信長との信頼関係の中で数々の任務を遂行し、多くの功績を挙げる一方で、1582年の本能寺の変によって織田家を裏切ることになる経緯が語られています。本能寺の変の背景には、明智光秀の複雑な感情と織田信長との関係が存在しています。光秀が多くの労働を強いられたことや、信長の権力と財力に対する欲望が、変を引き起こす要因として考察されています。

本能寺の変の前触れ
おはよう、こんにちは、こんばんは。武将について喋るラジオ、略して武将ラジオのうっちーです。
この番組では、学生時代に学芸員を目指そうとも考えていた、歴史好きである私、うっちーが、毎月11日、ソロポートキャストの日に、様々な武将について話をするという番組です。どうぞよろしくお願いしま〜す。
今回、リスナー様への提問をいただきました、マクドナルドです。
今回、提問をいただきましたのは、リンス様。リンス様からは以前にも、スイコレの倉庫について提問をいただきまして、その説明を本当にありがとうございました。
今回、リンス様からいただきましたメッセージ、読ませていただきますと、
うっちーさん、先日はテーマを採用いただきまして、ありがとうございました。
今回は、また聞いてみたいことがあり、メールを送らせていただきます。今回聞いてみたいのは、本能寺の編です。
本能寺の編は、日本史史上最大謎などとも言われていますけども、なぜ謎と言われているのでしょうか。
下国城が多いと言われる戦国時代ですし、家臣が自分の上司というべき人を打ち倒すのはよくあることではないでしょうか。よろしければ話を聞いてみたいです。
というメッセージをいただきまして、誠にありがとうございました。
ということで、今回本能寺の編で話をさせていただきます。
本能寺の編が、なぜ日本史史上最大謎と言われているのか、そんな話を今回させていただきます。
それでは、今回話をさせていただきます。タイトルはこちら。
本能寺の編は、怒るべくして怒った?明智水平の苦労と野望とは。
ということで、今回本能寺の編について話をさせていただきます。
ただ、あらかじめ注意をさせていただきますと、本能寺の編がなぜ起きているのかなどは、まだ解明されていない部分が非常に多いです。
いつもそうなんですけれども、今回はいつも以上に僕の意見が入った話になっておりますので、その点ご了承いただければと思っております。
今回本能寺の編で話をさせていただきますけれども、本能寺の編となりますと、
尾名の宗の散り際、創作物とかでよく燃え盛る本能寺の中で集まりを待っていたと言われたりもしますけれども、
本能寺の編がなぜ起きたのかという話になってきますと、明智光秀の方が主役になるんじゃないかなと思いますので、
今回は主に明智光秀の話をさせていただきます。
そしてなぜ本能寺の編が日本音習史上最大謎なんて言われているのか、そんな話をさせていただこうと思います。
まず明智光秀がどんな人物かというのを話させていただきますと、
明智光秀は時氏という身の、今でいう岐阜県あたりの一族の流れを組む明智氏の中で生まれたとされています。
生まれたとされていると言いますのは、この明智氏で明智光秀で後になる人物が生まれた、これ信頼できる資料があんまりなかったりもします。
なのでこの明智光秀という人物は、生まれも定かでない部分が非常に多かったりします。
もともとこの明智氏は名門です。名門と言いますか、それぞれの家の核のある家でございます。
時氏の流れを組むということですけれども、時氏も斉藤道三に後に身の納める立場を取られますけれども、
それまでは時氏というのは鎌倉幕府から身の守護、身の納めていいですよというお墨付きをもらっていたということで、身の周辺でとても力を持っていましたし、
その流れを組む明智氏も奉公衆という足利将軍家に仕えて仕事をするという、それなりの役職に名を連ねておりました。
ただ明智光秀は奉公衆である明智氏とはまた別系統とも言われたりはしているんですけれども、
ただ明智氏自体も直接将軍に仕えられるということで、それなりに家の核があるはずです。
分家とか別れているとは言っても明智氏はそれなりの資料が残っているはずなんですけれども、
ただそれでも数々の資料の中でも明智光秀の生まれについては定かではない部分が非常に多いです。
例えば西暦で言えば明智光秀は1516年に生まれたという説もあれば、いやいや1528年だよという人もいますし、
いやいや1540年に明智光秀は生まれているよということで、生まれの時も定かではなかったりします。
生まれた場所も美濃の国周辺であったのは確かだろうと言われているんですけれども、正確にどことはっきりはしていないです。
明智城で生まれたんじゃないかと言われたりもしますけれども、それも明確ではなかったりします。
奥美の国、いまり滋賀県の奥美辺りで生まれたんじゃないかという説もあったりします。本当に謎の多い部署です。
謎が多すぎまして、明智光秀はどこかで別の人物が成りかかったんじゃないかという説を唱える人もいます。
何かの戦いに巻き込まれて戦死した人物の代わりに、その死んだ人物の身分を偽るという人も当時いたとされております。
明智光秀でも誰かが身分を偽って名乗っていたんじゃないかという説も出るぐらい、出生に謎がある人物が明智光秀だったりもします。
なので明智光秀、幼少時代とかのエピソードがよくわからないという人物でもあります。
ただ歴史の中で出てくるのは、明智光秀は美濃の守護のあった時氏の一族であったよと言われておりまして、そこから時氏から美濃の国首となりました斎藤道山。
斎藤道山に明智光秀は仕えていたと言われます。
ただ、1556年に斎藤道山と斎藤義経の親子の争い、長良川の戦いなんて言われますけども、ここで明智光秀は道山側についていたと言われます。
ただこの戦いの勝者は義経、息子の方でして、その息子が勝ったことで明智城を攻められて、明智一族は離散したと言われております。
謎が多い明智光秀ですけども、この長良川の戦いでは道山側に就いた武将として明智十兵衛という後の明智光秀の名前が載っていたりもします。
斎藤道山が討ち取られた後、明智光秀は越前の国、北陸の方ですね、そちらの朝倉義経の下で10年間仕えていたと言われます。
時氏は朝倉家との関係性も非常に良かったと言われます。
時氏が斎藤道山と戦う時には朝倉家からの支援も大いにありました。
その流れもありまして、光秀は朝倉家の元にいたんじゃないか、その骨を使ったんじゃないかと言われております。
ただ斎藤道山が敗れまして、朝倉家に身を寄せるまでの間に明智家の離散ということもありまして、一家がバラバラになる傾向をしますので、かなり辛かったと言われます。
明智家に仕えていた家臣も知事になったりだとか、収入もなくなったことで貧しく苦しい思いをしていたと言われております。
また明智光秀が朝倉家に仕えていた時も、そこまでの評価はされていなかったと言われています。
朝倉家に仕えてからもそこまで良い生活ができなかったのではないかと言われております。
足利義輝の苦難
ただ朝倉家に仕えてからの後、1565年の5月、三好三人衆や松永久秀、彼らによって将軍足利義輝が殺害されます。
英録の編なんて言われるんですけども、時の将軍が殺害されるという事件が起きます。
その際には将軍家の秩父ということもありまして、足利義輝の弟であります足利義輝も命を狙われます。
ただこの時には朝倉家の働きかけもありまして足利義輝は助かることになります。
助けられた足利義輝は兄も死んだということで、次の室町幕府を継ぐのは自分だ、将軍になるのは自分だということで、
足利義輝は自分を将軍とするように全国各所の部署に働きかけます。
いくら将軍家の秩父を継いでいる、確かに将軍として次に継いでもいいかもしれないと言っても、誰かが将軍として盛り立ててくれないと意味がないです。
例えば朝廷から次の将軍は君だねというふうに指名されるとか、他の大名たちがあなたこそ将軍ですよというふうに盛り立ててくれないと将軍としては意味がないです。
いくら口では自分が将軍と言っても本当の将軍のように皆が扱ってくれないと意味がないです。
立場が上になるというのは立場が下になる人ができてやっとなれるものなので、立場が平等であれば上下というのは生まれませんよね。
自分を盛り立ててくれっていうのを全国の大名たちに義輝は頼み込みます。
またそのためにも当時の政治の中心地でありますが京、京都でもいいんですけど京ですね。
京へ行きまして義輝が将軍になれるようにいろいろ準備をしてくれ、義輝を将軍のように振る舞うようにしてくれというふうに各種の大名お願いするんですけども、ただなかなか各種の大名たちも腰を上げてくれません。
当時は戦乱のようであります。あちこちで戦いが起きておりまして、そんな中で自分の領土を空けて将軍のために何かをするというのは難しいです。
自分が留守をしている間に誰かに国を乗っ取られたらどうしようとか、そういうのもありましてなかなか各種の大名も腰を上げてくれませんでした。
ただとりあえず将軍家の生徒なち筋で将来将軍になる可能性があるような義輝、だから義輝に恩を売っておこうということで朝倉家としましては義輝を越前の国に迎えることにしようとします。
朝倉家としてはとりあえず義輝に越前に来てください。そしたら生活に不自由はさせませんよということを約束します。
この時にかつて明智氏は将軍家の奉公主、将軍家に仕えていた家ということもありまして、そこを代わり明智光秀が義輝と朝倉家の取り継ぎをしていたと言われております。
ただ当時の越前、朝倉家の政治により栄えていたと言われるんですけども、それでも当時の中心地は京でございます。
朝廷の人々も京におられますし、京に戻りたいという思いもありまして、義輝としては京への応えが強くなかなか越前には来ないと。
むしろ朝倉家に対していやいやお前らさっさと京に来いよ、俺を盛り立てろよというふうに言ってました。
全く意見の並行性なんですけども、この取り継ぎを明智光秀が行っていたと言われます。
そしてこの頃の京では三好三人衆と今度は松永久秀、強力をして将軍義輝を殺害した三好三人衆と松永久秀、今度はこの三好三人衆と松永久秀で戦いが起きておりました。
それによりまして京の周辺はどんどんどんどんボロボロになっておりました。
実際、義輝自身も京にこだわりはありました。
ただそれでも六角市という今でいう青海あたりですね。
青海とか滋賀あたりとかに領土を持っていた名物の家なんですけども、この六角市の行為で青海国内の靖国八島というね、そこに義輝も移りました。
京では近いんだけども京ではない場所に避難するようになりました。
この三好三人衆と松永久秀で京の周辺ボロボロになっていくことで各地の大名もより腰を上げにくくなりました。
義輝を将軍にしようとすると朝廷と様々な交渉しなきゃいけない。
将軍という地位を朝廷にお願いして義輝につけてあげてくださいよというような交渉しなければいけない。
そのためには莫大な寄附金も必要です。
そうやって義輝を将軍に認めさせる必要がありますし、そういった交渉を自分の領土から離れて行わなければいけない。
そうしますと自分の領土がおろそかになる恐れがある。
しかも京都がボロボロになっておりますので京の町を復興させなければいけない。
そんな状況ですと桜はもちろん各地の代表もなかなか腰を上げませんでした。
ただそんな中でも織田信長、織田家はようやくうちはその役目を勝手に出てもいいですよと意向を示してはいたんですけども、
当時の織田家は齋藤家との戦いの最中でした。
なので織田家としましては上落をして京に行きまして義輝を盛り立てようとしても、ただその前に京に辿り着けない。
終わりの国から京までの間にある美濃の国、この美濃の国と戦いをしている織田家では京に行くことは難しかったです。
ただその後も三好三人衆と松永石井の戦いはどんどんどんどん激しくなりまして、大見の国も戦乱に巻き込まれ始めます。
ついにはここから逃げなければいけないなと義輝は判断しまして、
もうずっと朝倉家はうちに行きませんかと言ってくれていましたので義輝は朝倉家の誘いになりまして越前の国へ身を寄せます。
最初に朝倉家から義輝に対して越前に来たらどうですかと言われてから約2年の時が経っていたと言われます。
越前についてから義輝、ただ義輝はそれでも諦めてませんでした。
朝倉家に対して4へ行ってくれ、義輝を将軍にするようにしてくれというのを言い続けていました。
ただ朝倉家としてはボロボロの境で面倒な仕事をしなければいけないと。
越前の国は栄えていますけれども、だからこそと言いますか誰かに国を乗っ取られるリスクもありました。
こんだけ栄えている国というのもありますので、誰かが自分が国首に乗って変わろうというふうに無謀を起こす可能性もありました。
そういうのもありまして朝倉家としてはなかなか動こっていきませんでした。
こういうように足利義輝と朝倉家の間ではずっと意見が平行線でした。
明智光秀の役割
ずっと意見が平行線なんですけども、ずっとそれこそ2年以上の時も明智光秀が仲介をし続けていたと言われます。
そして朝倉家に身を寄せて1年近くが経ちました。
ついにしびれを切らした義輝は朝倉はもうダメだ、他の代名を頼ろうということになります。
そしてここで美濃を斎藤家から脱出し終えた織田信長の登場になります。
織田信長はもともと上落して義輝を将軍にしようという気もありましたけども、信長が斎藤家との戦いに決着がつけないということで動けませんでした。
ただ1568年頃についに斎藤家の戦いに決着がつきまして、大有と美濃が織田家のものになりました。
なので信長としても上落しますよと意向があったので義輝は信長を頼ることにします。
ただ以前から信長はやる気はありました。ただ美濃を超えられないということでやきもきしてました義輝は。
義輝はそれで信長ではなく朝倉を頼ろうとしていたと思いまして朝倉の方に身を寄せていました。
信長としてはずっとラブコードを送っていましたけども、義輝の方が信長でもラブコードを送ってくれるけどラブコードもダメじゃん無理じゃんってことで、
だったら朝倉行くわという風になったので言ってしまえば義輝としては信長に対して罰が悪い感じでした。
ずっとラブコードを送ってくれましたけども自分がそれを振ってしまってた感じなんですね。
でも自分から今度は信長にすいませんやっぱりお願いしますかとなりますとちょっと罰が悪いなということでそこで明智光秀を義輝は頼ります。
明智光秀は織田信長の性質である能姫と血縁関係があったと言われます。
いとこ関係だったんじゃないかなと言われるんですけどもそういった縁を頼って足利義輝は明智光秀に対して織田信長と義輝を仲介してくれと。
織田信長に義輝を勝負するように頼んでほしいということを依頼します。
織田信長は元々朝倉家の家臣として働いていた明智光秀ですけどもここで足利義輝のためもありまして足利義輝の家臣として織田家の交渉をすることになります。
ということでここで朝倉家から足利義輝の家臣として働くようになります。
この頃に既に朝倉家と足利家両方に仕えているという立場。
当時としては二軍に仕えてあったのかと思われるかもしれませんけども朝倉家の領土の一部を統治しつつまだ将軍吉賀家の御用聞きとかをするっていうことですね。
武業型とか奉公衆なんて言われますけども将軍家に仕える仕事と自分の領土の仕事というのは別で持っていたというのは昔からありましたのでそういった形で足利と朝倉両方に仕えていたのが明智光秀なんですけども。
ただ足利義輝自身はそんなに力もないし当時としては土地とかも持っているわけじゃないということなんですけどもそこまで評価されていなかったとはいえもらっていた朝倉家の領土とかをそれも結局返すことになりまして足利義輝の家臣となります。
そして織田信長の力によりまして足利義輝は将軍に擁立されていきます。
信長との関係
義輝は京に戻ることができましたし朝廷との挨拶各所の大名と連絡などしていくことになります。
織田信長の多大なる献金とかもありまして朝廷からも義輝はそれの格をもらえるようになっていきます。
将軍としての権力を義輝は手に入れるようになっていきます。
その過程で三吉三人衆などによりまして足利義輝が襲われることもありました。
ただ明智光秀は義輝のそばにおりましてしっかり警備をすることで足利義輝は守られていきました。
織田信長としては将軍義輝を自分のおかげで将軍にしました。
その恩を得ることで自分の権力、織田家の権力も増していこうと考えておりました。
なので織田信長にとっても権力を増やしていくための将軍義輝はとても重要人物でした。
その重要人物である義輝をしっかり守ってくれる明智光秀を信長は高く評価していきました。
そして義輝との仲介や警備をさせつつ、義輝の家臣としても働かせながらも織田家の家臣としても明智光秀を投与して、そしてどんどんどんどん活躍させていきます。
実際信長が三吉を信頼していたと言われるエピソードとしまして、三吉は将軍義輝の警備をすることもありまして、京にいる時間が非常に長いです。
一方信長自身は自分の領土である大和、李とか美濃へ定期的に戻って自分の領土が問題ないかを見回る必要がありました。
なので京に長くいることはできませんでした。
そんな忙しい中京に上落した際には明智光秀の家に信長は泊まっていたと言われます。
その家に泊まらせてくれということでやはり光秀をかなり信頼していたと言われます。
そして光秀としましても信長の信頼に応えるようになっていきます。
将軍義輝関連の仕事もします。
例えば将軍家と朝廷とのパイプ役、滋賀家が朝廷と仲良くできるようにというパイプ役を光秀がやりますし、また義輝と織田家とのパイプ役というのも光秀がしていきます。
さらにはボロボロになった京周辺を復興させるために木下秀吉、その後の橋場秀吉ですね、とか三羽永秀名の信長の他の従親たちとともに京周辺の政治を行うようになっておりました。
この頃が1570年頃の話だと言われております。
信長の上落、斎藤家との決着をつけて京に行きましたが1568年頃ですので、
わずか2年の間に義輝も光秀もどんどんどんどん立場が変わってきました。
義輝は将軍になりますし光秀としましても将軍義輝の家臣でありつつも織田家の家臣としてどんどんどんどん仕事をこなしていきまして、そして立場もどんどんどんどん上がっていったと言われます。
ただ将軍になれた義輝なんですけども、せっかく将軍になれたんだからということもありまして、自由に何でもやってしまおうというふうに考え始めます。
信長と違った命令を義輝が出すよということもあります。
そうしますと周りが混乱します。
信長はこう言ってたのに将軍がこう言ってるぞ。
だったら将軍の方を優先しなきゃいけないよなんとかなりますと信長としては困ってしまいます。
いやいやこうしてほしいことが全然違うじゃんっていう。
それで周りも右往左往してしまうという状況になりました。
また自由に振る舞う義輝としましては朝廷が主体の儀式、行事という言い方でもいいんですけどもイベントとかですね。
朝廷主体のイベントとかも義輝は真面目に行わないと不真面目さも出てきました。
朝廷から位をもらっているとか将軍という地位を確保されているにも関わらずその朝廷を大事にしないということで、信長もその義輝の不真面目さにかなり怒っていると言われます。
それから今締めるためにも信長が五箇条のこと書きというものを5つの約束ですね。
これを義輝にさせます。
これも1570年の八明子と言われております。
この5つの約束はどんなものかと言いますと、まず一つ目としましてはざっくりと言いますと、義輝が命令を出した時、まずはその内容を信長に相談してくれというのが一つ目。
二つ目、これまでいろいろと将軍が言ってきたことがありますけど、まず一回出しにしましょう。
リセットしましょう。
また改めてここから命令を出していきましょう。義輝と信長で相談してからまた命令を改めて出しましょうというのが二つ目。
三つ目としましては将軍に忠誠を尽くすものとかそれで良い家臣とかには恩賞とか褒美を与えたいのが分かります。
それで土地がないとか困っている時があります。
それで将軍義輝が勝手に命令を出して土地とかを家臣から奪って自分が悲喜している家臣とかに与えていることがあったのでそれやめましょうと。
土地がないとかあったら信長に言ってくれと。
信長の方でその恩賞となる土地とか提供しますと。
そこらへんも勝手に進めないでくれというのが三つ目ですね。
四つ目、天下のこと将軍になる時に義輝としても自分が将軍になれたら政治のこととか信長に任せる約束を確保していました。
そのことがありまして天下のことは信長に任せたんだから将軍の意思をみんなが伺うのでやめましょうと。
自分の意思を尊重してくれというのが四つ目の約束。
そして五つ目、天下は落ち着きましたと。
京都の周辺とかも混乱しましたけど落ち着いてきました。
なので将軍義輝は朝廷に関する儀式、イベントとかをちゃんと行ってくださいね。
これが五つの約束です。
信長のおかげで将軍になったから信長の意見を大事にしろ。
ただ相談しろとか真面目に仕事しろ。
義輝の追放と光秀の運命
こういったのが五つの約束を信長、義輝にさせるんですけども、
この五カ所のことだけ、将軍の中には光秀が選ばれております。
将軍側、信長側のパイプとしてとても重要人物だったのがここから伺えます。
光秀以外には、あるお寺のお坊さんしかいなかったので、
二人だけが承認なんですけど、その二人のうちの人は光秀ということで、
かなり高く評価されていると言われます。
そして光秀は織田家の中でもどんどんどんどんと関わらせていきます。
1570年5月、神奈川家の戦いという、
麻生家が敵に回りまして、
朝倉家と麻生家に挟み撃ちに織田家が会ってしまうという戦い。
この戦いにおきまして、秀夫と共に光秀は心狩りを務めまして、
みんなが逃げるまでの時間稼ぎですね。
この心狩りを務めることで、無事織田家は逃げ延びることができます。
また続きまして、6月。
光秀は穴川の戦いという、織田徳川の連合軍隊、
麻生朝倉連合軍の戦いに参加していたと言われます。
この時光秀は主に朝倉家の方に戦っていまして、
かなりの戦功を上げていたと言われます。
その後も戦乱が続く京州編におきまして、
奥美の国を中心に政治的に京や奥美を安定させていきました。
またその傍らに、1571年には三義三人衆が四国から攻め上がってきます。
それと同時に石山本願寺が挙兵します。
本願寺という宗教の宗派。
とても全国各地にいたので、とてもお金も兵も多かったんですけども、
その人たちの一部の軍が挙兵します。
その時には光秀は信長と一緒に義役とも一緒に、
節の国という今でいう大阪兵庫あたりに出陣して功績を上げていたと言われます。
また同年9月比叡山焼き討ち。
麻雀桜が比叡山というところに逃げ込むんですけども、
ここは戦争しちゃいけないよという中立地帯なんですけども、
ここを焼き討ちしたというのが信長の悪行の一つと言われるんですけども、
そこの中心実行部隊として明智光秀は武功を上げたと言われます。
一説では比叡山焼き討ちは明智光秀の方が信長に親権したんじゃないかと言われております。
信長からこれによって功績を上げたということで、
大見の国、滋賀軍の5万国を与えられまして、
坂本城というのを明智光秀は築きます。
この時点で城持大名になるという感じですね。
この時点で尾田家で一番の出世菓子だと明智光秀がなっております。
ちなみになんですけども、将軍義役からも評価をされておりまして、
明智光秀は郷周辺に義役からも領土をもらったりもしております。
なので明智光秀は義役からも信長からも信頼されていたということが伺えます。
ただその後、1571年9月頃、信長は義役に対して義役を批判する意見書、
17条の意見書なんて言われるんですけども、これを出します。
義役が不真面目なところがあるので、お前いい加減にしろよということを17号書き連ねたというものなんですけども、
このことで本格的に明智光秀は尾田信長の田元を分かつことになります。
将軍義役と尾田信長が敵対することになるんですけども、
将軍と信長どちらからも重宝されていた明智光秀どうしたのかと言いますと、
1573年2月、義役が信長に対して拒閉します。兵を挙げるんですけども、
この際に明智光秀は信長の家臣として参戦します。そして戦功を挙げました。
1573年7月、尾田勢はやはりまた義役を攻撃するんですけども、この時にも光秀はやはり従軍しております。
この戦いによりまして、義役は降伏し追放されまして、事実上室町幕府は滅亡することになるんですけども、
光秀としては将軍義役よりも尾田信長を選んだということになっております。
ちなみにこの戦い、義役を追放した戦いなんですけども、
この時には幕府、義役に仕えていた人物も多いです。ただ、義役が追放されたことで、
その家臣たちもどうしようと困っていたところを光秀が多く召し掛かえたと言われております。
光秀の功績と任務
将軍義役を裏切ったという光秀なんですけども、それでも義役に最後まで仕えた人たちとしても、
光秀の友達に仕えたいと思うほど、義役と一緒に働いていた人たちからの評価も、
光秀は高かったんじゃないか、効果の高かったんじゃないかと言われております。
その後も明智光秀は働き続けます。
自分の領土大見坂本城周辺の統治を行いながらも、
京王での政治を助けたりもしております。
また、朝倉氏が滅亡した時には、越前の行政王になっております。
大見や越前、京王、あちこちで政治をしまして、しっかりと活躍をしていると言われます。
1575年7月には、やはりそういったことが評価されまして、光秀は、
これ等という姿勢、朝廷から明治をもらうという姿勢と言うんですけども、
これ等という姿勢をいただきまして、そこで任官、朝廷から官位をもらっております。
朝廷からもしっかりと供えをもらえる、それぐらい活躍に応じて、
支持も与えられていたのが明智光秀でございます。
ただこういったように坂本城周辺であるとか、京都とか越前、
様々なところで政治的に功績を挙げたのかなと思いきや、それだけではなくて、
1575年には高谷城の戦い、長城の戦い、越前一行一騎殲滅戦の様々な戦いに
光秀が参戦しております。
さらには、1575年の6月には信長から丹波の国、丹後の国の平定を任されます。
京都の周辺のあたりなんですけども、将軍吉明を追放したと言っても、
それで織田家のものになるというか、吉明が持っていた土地とかは、
信長のものになるわけではないです。
吉明様に使われていたのに、なんで今更信長の方に使わなければいけないんだよということで、
氾濫する人もいます。
なので政治的に丹後の国、丹波の国など不安定だったので、
ここら辺をしっかり統治を行い、必要であれば敵を追い払えというのを
織田信長から命令されます。
特に丹波の国は織田家よりも足利吉明派の方が多い土地柄でした。
なのでこういった敵が多いところをしっかり織田家のものにしなさいよという
重大任務なんですけども、
これに対しても外交手段によって敵を利藩、
吉明派の方を信長の方に引き入れたりだとか、
必要であれば戦でも強さを占めまして、
だんだん、だんだんと丹波の国、丹後の国を平定していくことになります。
というように政治、戦い、外交など、あれとあらゆる仕事を任されまして、
そして光秀はしっかりこなしていきます。
なので信長からの信頼もどんどんどんどん厚くなります。
だからこそと言いますか、様々な課題を任されておりました。
たださすがに仕事をしすぎたのか、1576年には過労で三井で倒れたと言われます。
それで療養していた時期があったと言われました。
それぐらい仕事をかなり抱え込んでいたと言われます。
またこの1576年の頃には三井での性質であります、
ひろこが病死をします。
一説には三井の看病疲れが原因で亡くなったとも言われております。
また逆にひろこの病気、この看病のために三井が自身の療養と偽って仕事を休んでいたんじゃないかという、
ここらへんに関しては信憑性欠ける説でもあるんですけども、
ただどちらにしろ三井は性質ひろことの仲はとても良かったと言われております。
性質ひろこがなくなったとも三井としてはどんどん働いていきます。
1577年には奇襲罪化攻め、奇襲の罪化衆という信長に敵対していた傭兵軍団なんですけども、
そこの戦いに従軍していますし、また1577年10月には松永久秀郎の茂山城の戦いにも参加して城を落としたりもしております。
そういった足小城の戦いにも参加しながらもしっかりと丹波の国とか丹後の国の平定も続けておりましたし、
もちろん坂本城の整治とかも行っておりました。
また1578年6月には毛利攻めを行うという入吉への援軍として、
張馬の国に派遣されます。ただ9月には丹波の国で大規模の反乱が起きてしまいますので、
それをまた収めるために丹波の国に戻って平定を続けたりもしております。
1578年10月には信長にそぶいた節野新木村氏家、彼を攻めるために有岡城の戦いにも参加したりもします。
常に2つ3つ以上の仕事を並行して行っているのが三井でございます。
そして1579年8月には丹波の国を平定することができます。
さらには細川、藤田川と協力しまして、丹郷の国も見事に平定をします。
というように見事に郷周辺の反乱を鎮めていきます。
吉明派も多くて難しいという仕事を遂にこなします。
信長としてもこの功績を大に評価します。
信長は三井に丹波の国の一国を火葬します。
これによって坂本城と合わせて合計34万国の大名になります。
自分の領土が新たに増えたことで城を作ったりだとか、
また既にある城の増築とかも行いまして、家臣たちに城を与えるだとしていきます。
それによりまして郷周辺は明智関連の人たちが力を持つようになります。
また丹郷の国の細川、藤田川、大和の国の辻巡家などとともに、近畿地方の大名が三井の呂力。
言い換えますと、細川、藤田川、辻巡家の大名を三井の命令下に置いて良いよという許可を信長から受けます。
政治的中心地である郷周辺の大名を自分の部下にできるということで、
三井が織田県の中でも特に信頼されていた証拠と言えます。
その後も1581年には京都御室礼という織田県にとっての一大イベント、一種の軍事パレードなんですけども、
数々の大名が着飾って、銘馬にまたがって、家臣たちと共に郷の街を歩くという。
いかに織田家が銘馬を揃えられますよ、様々な金に物を言わせた衣装とか用意できますよとか、
そういったのを披露するパレードなんですけども、運営責任を三井が任されていました。
しかもこのイベントは信長がやろうよと言ったのではなくて、朝廷がそういうのを見てみたいよねという仕事でした。
朝廷から任されるような仕事を三井が運営責任者ということで、三井が相当信頼されていた証と言えます。
様々な仕事を任される三井ですけども、織田信長のことをしっかりと尊敬とか崇拝していたと言えます。
三井のことを記した文書の中には、瓦礫のように落ちぶれ果てては自分を見知らして、その莫大な人数を預けられた。
一族家臣は子孫にとるまで信長様へのご報告を忘れてはならない。
信長への感謝の言葉が書かれていたりだとか、また様々な社会でも信長からもらった直筆の証を大事にしているんだということをいろんな代名たちに話していると言われます。
それぐらい三井は信長のことを尊敬崇拝していたと言われます。
まさに信長と三井にとっては密月と言いますか、信頼関係がしっかりとなされていました。
ただ、翌年1582年の夏、本能寺の変化が起きます。
織田信長を明智光が打ち取ります。
また、本能寺を囲んだだけじゃなくて、信長の着などにある信田田の下、信田田がいる二条城にも大群で囲いまして信田田も自害に追い込みます。
信長信田田がいなくなったことで、織田家としてはリーダーとその後継者を一度に失い混乱することになります。
本来であれば、郷周辺を固めていた三井がそのまま郷で権力を握り、混乱を収め、国内を掌握できればよかったんですけども、郷周辺の混乱を抑えきれずいました。
理由としましては、信長の死体が本能寺から見つからなかった。
だからこそ、信長は生きているかもしれないとなりまして、信長に敵対した時に怖いなということもありまして、三井の仲間になるのをみんなが恐れたからだというのも言われております。
混乱を収められないでいるうちに、中国地方で毛利家と戦っていた秀吉の軍が郷周辺まで戻ってきます。
本能寺の変の発生
そして秀吉軍と三井家軍の戦い、それによって秀吉に敗れた三井家はそのまま亡くなったと言われます。
誰よりも織田家のために働いた男が織田家を倒したというのが本能寺にありまして、その本能寺の変を起こしたのが明智三井という人物でございます。
ではこの本能寺の変、なぜ日本史史上で最大謎と言われているのかと言いますと、1581年の段階では織田信長と明智三井で信頼関係がとてもあったと言われます。
だからなぜ無謀が起きたのかわからないこの部分でございます。
織田信長は明智三井に最重要地点である郷周辺を任せておりました。それぐらい信頼しておりました。
何かにつけて三井のことを信長は評価しておりました。
例えば織田家に昔から勤めている作間という武将がいます。古くから織田家にいる者の功績をいまいち上げられないでいる。
その時に信長が作間に対して注意する文章を送ったんですけども、その際には文章の中で明智三井のことを高く評価していたことが書かれています。
また朝廷との連絡約、重要な仕事、これを見継いで任せていただくことも織田信長は明智三井を評価していたことがわかります。
また一方の明智三井も信長が書いた直筆の章を大事にしたりだとか、断ることに織田信長への忠誠を言葉にしていたと言われます。
お互いに信頼していたであろうなぜ無謀が起きたのか、これが日本史史上最大の謎だと言われています。
だからこそと言いますか、いまいちどの説も決め手に欠けるんですけども、様々な説があります。
例えば、実は足利義明が黒幕だという説。
かつて将軍にあった足利義明、彼は織田信長に追放されましたけれども、その後も毛利家に身を寄せていました。
そして各所の大名と連絡を取って、織田信長を倒そうと計画しておりました。
追放されはしましたけれども、元将軍ということもありまして、それらに影響力もありましたので、信長も無視できない人物でありました。
その足利義明はかつて明智光の主人になりました。
なので明智光としても足利義明から何かしらの威力があったのではないか。
それがもとで無謀を起こしたのではないかと言われたりだとか。
また他には織田信長は正位大将軍、いわゆる将軍の立場ですね、これを朝廷から認じられようとしておりました。
ただ織田信長はそれを辞退したと言われます。
もしも正位大将軍になれれば、織田家が敵だとした相手は朝廷の敵ということで、天皇権を認める敵ということで、国全体の敵として扱うことができます。
なのでとんでもない権利なんですけれども、これを信長は断っております。
これは信長が正位大将軍のように朝廷から認じられる権利とは別の方法で国を治めようとしていたからだと言われるんですけれども、
無謀の背景と謎
そうすると官位を与えるとか、それこそ正位大将軍とか右大臣のように朝廷が様々な大臣たちに覚悟をつけるための権威を授けているんですけれども、
それと関係ないところで織田信長は政治を行うと言われれば、朝廷が意味をなさない存在になってしまう恐れがある。
そう考えた人たちが明智光秀を外の化して光秀に無謀を起こさせたんじゃないかという朝廷が黒幕説なんていうものもありますし、
他にも明智光秀は四国の兵庫のために張祖壁という主に都参にいる戦国大名に織田家としても支援をするという中間役をしていたんですけれども、
その張祖壁家が四国を統一していいよというお墨付きを信長から引き出したのが明智光秀なんですけれども、後にこの約束が破られます。
織田家は張祖壁家を倒そうとするために兵の派遣もしておりまして、明智光秀としては顔に泥を塗られる形だった。
それに対して光秀は怒った説があるとか、他にも明智光秀は織田家の同盟国である徳川家の接待役を任されていたんですけれども、
その接待に不敵があってそのことを信長から激しく急断された。それも皆がいる前で急断されてそれに対して光秀が信長に対して怒りが湧いたといった説もありますし、
他にも明智光秀は当時の政治の中心地、京周辺で領土を持っていましたけれども、信長からその京周辺の領土を没収されると、
その代わりに毛利家と戦って宝石をあげたら毛利家の領土をどれだけ取っていいよと約束されていた。
ただ京という政治の中心地から引き離されることで自分の織田家の中の評価は高くないんじゃないかと不安になったから宝物を起こしたんじゃないかという説もありますし、
他にもとある城を攻めている際、相手方が城を明け渡す代わりに身の安全を保障してほしいよと願いが出てきました。
その相手方の身の安全を保障するためにも人質として明智光秀の母を向こうに人質に出しました。
本能寺の変の背景
ただ織田信長が約束を破ったことで相手方の武将を処罰してしまったことで人質だった明智光秀の母も殺されてしまった。
その恨みがあった。本当様々な説があります。
ただどの説も正直決め手に欠けます。一時資料がなかったり、創作だろうという説もあったりもします。
いろいろな説が出るくらいなぜ無謀が起きたのか、明智光秀の母の中って信頼関係あったじゃないか。
それぐらい驚かれるくらい本能寺の変が起きたのか謎と言われております。
なぜ本能寺の変が起きたのかという様々な説がある中で、個人的に推している説としましては、
僕は消毒的な無謀、突然チャンスが舞い降りたから無謀を起こしたのではないかという説を推しております。
根本的なんですけども明智光秀でめちゃくちゃ働かされていました。
2人いるんじゃないかという説が出るくらい働いております。実際過労で倒れておりますしね。
織田信長としては日本国内を統一した後は大陸の方に渡って、大陸をどんどん侵略していくという考えを持っていたと言われます。
その考えがあるからこそ、秀吉や水秀に中国地方とか九州を侵略させると。
その後九州というのはどうしても大陸に近いところですので、大陸の方に攻めようとすると九州はとても重要拠点になります。
そこを明智光秀や秀吉のような有能な部署に管理させて大陸への足掛けにしたかったのではないかと言われております。
だからこそいずれは光秀や秀吉は領土を募集されて九州や毛利家領土に蔵買いさせられるんだろうという説は信憑性にやや欠けるんですけどもあったと言われます。
秀吉も嫌だったから本能寺の辺の黒幕に秀吉がいるという説もあったりもします。
また九州平定後、今日周辺の領土を募集されるかどうかを置いておくにしても九州平定後大陸の遠征に駆り出されることになると思います。
特に秀吉や光秀のように優秀な部署は間違いなく生かされたと言われます。
かつて過労で倒れた光秀としましてはさすがに嫌気がさせていたのではないかという説があります。
明智光秀の生まれは色々不明ですけども1528年生まれとしますと本能寺の辺が起きた段階では54歳。
当時としては結構いい年齢になっております。
しかも今日周辺という権力的にもかなりいい場所を持っていた光秀が、
今日から離れたという場所だけではなく場合によっては違う国へ駆り出さなければいけない。
それやっぱり嫌だったんじゃないかと言われております。
また当時の小田家は財力とかもすごくありました。
日本国内の4分の1くらいの財力が小田家には集まっていたと言われます。
当時の全国の国高、どれくらい米が取れるかというものを当たすものでは
全国合わせて1800万から2000万国と言われるところ小田家は350万国から400万国ありました。
全国の5分の1くらいの米が取れておりました。
さらに米だけではなくて現金をめちゃくちゃ小田家は持っていました。
小田信長の父親は信秀の頃から小田家は経済感覚がとても優れておりました。
信長自身もめちゃくちゃ経済感覚が優れておりまして
京都や堺などの商業都市を抑えたり、琵琶湖周辺を領土にしての交易ルートの確保、
伊勢板を使っての交易などめちゃくちゃ経済的政策が優れております。
特に堺や京都は当時の日本全国の3割から4割くらいの金が集まってきていたと言われております。
この京都や堺を抑えていた小田としましてもかなりの金を持っていたと言われまして
小田家としては国全体の4分の1くらいの財力があったと言われます。
また小田家は財力だけでなくて権力もありました。
強大な財力を使いまして頂点にも幅を利かせていたので小田家は。
信長が辞退したとはいえ信長が正義大将軍に任せられる他にも様々な感触を得られるそんな状況でありました。
すごいざっくり話しますと小田家は地位や名誉をいくらでも手に入られる状況。
金も名誉も地位もある小田家。この小田家乗っ取れたらどうなるだろうか。
かなり魅力的な話なんじゃないか。こう思っても不思議ではないと思います。
しかも光秀自身は朝廷や元将軍の足利義明、京都周辺の大名たちとのパイプもあるということで
信長さえほぐれば何とかなると考えていた人もあったんじゃないかな。
そこは不思議じゃないんじゃないかなと思います。
ただこれはあくまでそうだったらいいなーくらいだと思います。
もしもここのから本当に思っていたのであれば、もっと計画的に本能寺の変が起きていたと思います。
本能寺の変などの対応はあまりにもチグハグすぎます。
本能寺の変の時に信長の死体を見つけないと、信長が生き延びていると思われてしまったら
味方になる人が減ってしまう。信長が生きていると思ったら水井でについてしまったら信長を裏切ることになる。
それが怖いから水井の味方にならないよって人は絶対出てきます。
だからこそ信長の死体を見つけなければいけないのに、本能寺の変で水井では信長の死体を見つけることができませんでした。
結果的に京周辺の部長たちを仲間にすることも失敗しまして、当時の経済政治の中心地である京を固めることができませんでした。
また足利義明との連携。
もしも義明との連携ができていたなら、守り家と通じていた義明を通して、
秀吉を足止めするなり、秀吉が京周辺に戻ろうとしたら、その後ろから追撃することは絶対できました。
秀吉を自由にすることはできませんでした。
でも秀吉の足止めもできていないということは、元将軍である義明との連携も取れていない。
また朝廷との連携。
三井秀吉が朝廷との連携ができていたなら、信長を討った後、朝廷から正義対象軍の官職を得て、三井秀吉を天下人として認めてもらえるはずなんですけれども、
本能寺の変な後に三井秀吉が朝廷に多大な献金をしても、官職を新たにもらえたりはすぐにはできませんでした。
朝廷としても織田信長からそもそも多額の献金がありました。
朝廷が望む行事、それこそ京都の御揃いなど、織田家が朝廷の望むイベントも行っておりました。
織田家は朝廷との関係をよくしていたと言われます。
朝廷としてもすぐには三井秀吉のためにことをなせなかったと言われております。
明智三井はとても本来仕事ができる方です。
多くの仕事を行うのにもしっかりと事前準備をしている方です。
もしも以前から信長を殺そうと本気で考えていたのであれば、ここまで信長を殺した後にちぐはぐなことにはならないはずです。
だからこそ本能寺の変は計画的な犯行ではなかったんだろうなと思われます。
事前に誰かの計画を考えていたとすると、あまりにもちぐはぐな点が多すぎます。
なので偶然舞い降りたチャンスに乗っかったというのが本能寺の変だと思います。
織田信長は明智三井をとても評価していますし、明智三井でも織田信長を尊敬していると言われます。
だからこそ本能寺の変は日本史史上最大の謎と言われますし、三井を操った黒幕が絶対いるはずだと言われます。
光秀の計画と偶然のチャンス
でも数々の黒幕説がどれも実際には決め手に欠けております。
謎ばかりの本能寺の変と言われております。
ただ黒幕がいるのであれば計画がずざんそぎまして、織田家という莫大な地位や名誉、金が手に入るチャンス、
しかも自分が過去に過労で倒れるほど働かされておりまして、今後も働かせられ続ける。
国内止まらず大陸を渡っての先頭が今後待っている。
そうなると明智三井としても、突然のチャンスが目の前に来たら乗ってしまっても仕方ないんじゃないかなと思われます。
だからこそ、日本史史上最大謎と言われる本能寺の変ですけども、実際には出来心であるとか、偶然のチャンス、そんなものじゃないかなと思われます。
といったところで今回話をさせていただきまして、本能寺の変でございまして、その盾役者とも言える明智三井への話をさせていただきました。
今回はここまでです。改めましてテーマにつきましては三井さんの誠にありがとうございます。
明智三井で出世謎があるというか、本能寺の変とか本当にロマンというか魅力がありますよね。
僕は学生時代に小説を書くのが趣味だったんですけども、その頃には明智三井は双子ですよって、片方が山崎の戦いで戦死しますけども、
もう一方は南高坊田園会として生き残るとそんな小説を書いたのは懐かしいなと思います。
本当に二人いないとおかしいくらい明智三井で働いてるんですよ、この方。
本能寺の変の黒幕説で僕が一番好きなのは橋場秀吉が黒幕説ですね。
いろんな作品でも秀吉黒幕説ありますけども、例えば平家物とか、少し方向性が違いますけど信長コンセルトとかそうですよね。
秀吉黒幕説も正直信憑性薄いんですけども、よくできてるなと思います、本当に。
いろいろと言われますけども本能寺の変は面白いですし、やっぱりロマンがあるなと思います。
また今回のように歴史の事件などでもテーマをいただければ幸いでございます。
皆様どうぞよろしくお願いします。
今回も最後までお聞きいただきまして誠にありがとうございました。
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