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第18章「義理に厚い‼️という評価は娘達のおかげ❓"浅井長政"の失敗とは❓」
2026-05-11 28:58

第18章「義理に厚い‼️という評価は娘達のおかげ❓"浅井長政"の失敗とは❓」

今回は知り合いの方からテーマをいただきまして

「浅井長政」

について話しております


よろしければお聴きくださいませ



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サマリー

今回の武将ラジオでは、浅井長政の生涯と、彼が「義理に厚い」と評価されるようになった背景について掘り下げています。長政は織田信長を裏切ったことで有名ですが、その行動の裏には複雑な事情がありました。番組ではまず、浅井家のルーツと、戦国時代初期の京極氏の没落、そして浅井氏が六角氏の配下となるまでの経緯を解説します。特に、浅井家と朝倉家の同盟関係は、当初は朝倉家が六角氏を支持していたことや、朝倉家が浅井家を助けたのは六角氏との隣接を避けるためであった可能性など、必ずしも強固なものではなかったことが指摘されています。 次に、長政が家臣たちのクーデターによって若くして家督を継ぎ、六角氏からの独立を目指した「野良田の戦い」での勝利について語られます。この勝利により浅井家の独立と評価が高まり、織田信長との同盟へと繋がります。しかし、長政は後に信長を裏切り朝倉氏につきますが、その理由については、信長が旧名門の京極氏を重視したことへの疑念や、織田家への従属化への懸念など、複数の説が紹介されています。最終的に浅井家は滅亡しますが、長政の娘たちが豊臣家や徳川家の権力者と結ばれたことで、江戸時代には長政が「義理に厚い」人物として再評価され、そのイメージが形成されていった経緯が明かされています。

番組紹介とテーマの提示
おはよう、こんにちは、こんばんは。
武将について喋るラジオ、略して武将ラジのうっちーです。
この番組では、学生時代に学芸員を目指そうとも考えていた歴史好きである私、うっちーが、
毎月11日ストロボトキャストの日に様々な武将について話をするという番組です。
どうぞよろしくお願いしま〜す。
今回は知り合いの薬剤師の方からテーマをいただきました。
先日薬剤師の飲み会で、その方と話をしていたんですけども、
その方、大河ドラマのトヨトミ兄弟を見ていたりだとか、
あとは歴史ゲームの信長の野望をちょこちょこやってるよという方でした。
なので、歴史のことは元々好きな方だったんですけども、
その方から、浅井長政って何なの?ということを質問いただきました。
織田信長を裏切って朝倉と共に織田家を倒そうとしたということで有名ですけども、
朝倉との同盟関係をすごい大事にしたんだ、義が厚いとか、義の男だってよく言われるけども、
家を残すためだったら朝倉放置しても仕方なかったんじゃないのかということであるとか、
そもそも裏切ったってことだから、卑怯者とかもっと言われてもいいと思うけども、
浅井長政っていい奴みたいな義があるとかそういう風に言われるけども、
実際どういうことなの?と。裏切り者なんだからもっと悪く言われてもいいんじゃないの?
ということで疑問を持ったとのことでした。
実際浅井家と朝倉家との同盟関係ってそこまで強固かね?って本当に難しいところなんですよね。
いろんな判断があって織田家を裏切ったと思うんですけども、
ただ確かに後世、今現在では浅井長政っていうと義の男とかでその悪く言われることはないんですけども、
なんで悪く言われないのかとかそこら辺の話を今回させていただきます。
それでは今回話をさせていただきますタイトルはこちら。
義理に厚いという評価は娘たちのおかげ?浅井長政の失敗とは?
浅井家の前史と京極氏の没落
今回浅井長政について話をしますけども、ただその前に浅井長政が生まれる少し前から
浅井家がどういう状況だったのかという話をまずさせていただきます。
そこから浅井長政と朝倉とかの同盟関係の話をさせていただきます。
まずそもそもで浅井家が領土を持っていますのは北大見、大見の北のあたりですね。
今でいう滋賀県のあたりとかですけども京都に近いということもありまして、
かなりいいところが土地でございます。
ただそもそもで浅井家というのは京国氏、京国っていうのは京国立彦とかの京国で
京都の京に極めると書いて京国ですけども、
この京国氏というのに仕えている地元の領主の一人という感じでございました。
この京国氏というのがとんでもない名門でございました。
この京国氏は室町幕府、滋賀将軍とかの幕府におきまして、
司司貴と呼ばれる。司司貴の氏は関数字の四に、
司貴は職業の職で司司貴と言うんですけども、
これ幕府の養殖に就くことができるという、
すごい良い家柄の一つだよということでございます。
実際この京国氏っていうのがこの大見あたりであるとか、
他にも出雲の方とか日田とか、
そういった様々な国の守護、その地域を治めていいよという、
いくつもの地域を治めてもいいよという、
名門中の名門でございます。
実際今幕府の養殖に就けるというところもありましたので、
足利将軍家とかを支えるエリートでございます。
でもこの名門である京国氏が没落をします。
戦国時代に入るきっかけとなります。
黄泉の乱。
ここは足利将軍家がいろいろ割れまして、
それで東軍西軍とかで争いを十何年間もすることになるんですけども、
この時に京国氏もこの黄泉の乱に巻き込まれたりするんですけども、
実際に言いますと、
京国氏自体はこの黄泉の乱の最中に、
当主と着難が拍子します。
一族のトップとその後継者が次々と拍子をしたということで、
そうなりますと正式な後継者というのが空白になります。
その時に誰が後継者となるべきかということで、
京国氏という名門の家の中で激しい家族争いが起きます。
もともと黄泉の乱で東軍とか西軍とかでいろいろ、
しかも黄泉の乱は味方が入り乱れる。
さっきまで敵だった人物が急に味方になる。
その逆に味方だった人物が急に敵になる。
そんなのがあるような入り乱れている状況でして、
すごい混乱が起きておりました。
その最中で家族争いを起きるということで、
京国氏の中からどんどん急進力が低下していきました。
もう京国に従ってられるかよということで、
いくつもの家が、
京国氏から自分たちの領土を奪おうという動きが起きます。
その中で阿財家も対等してきます。
浅井家と六角氏、朝倉氏の関係
あとは六角氏。
六角というのは関数字の六に角度の角、
将棋でいう角で六角氏なんですけども、
この六角氏や阿財家が対等してきます。
そして阿財家としましては、
京国氏が持っておりました扇、
特に北扇あたりの領土を奪います。
この時は阿財長政のおじいさんにあたる阿財助政というのが
主に活躍をしました。
阿財家というのはここで、
実力である意味北扇を乗っ取ったんですけども、
ただ実際のところこの時に、
阿財家は確かに北扇の領土を確保はできそうだったんですけども、
この扇の領土をめぐってライバルが出てきます。
というのが六角氏でございます。
六角氏というのは扇の南の方、
南扇を支配していたんですけども、
この時六角氏の方が圧倒的に阿財家よりも格上でした。
と言いますと六角氏も京国氏ほどではないにしても
名門だったんですよね。
しかも六角氏、阿財家もそうなんですけども、
阿財家、六角氏とかは
京国氏と同じ家柄をたどっているんですけども、
それで京国氏がダメだとなったら、
それで次に名門となる六角氏を頼ろうという人が多かったんですよね。
というのもありまして、
六角氏というのはかなり力をつけておりました。
また明君と言われるんですけど、六角貞寄りという方、
この方は楽市、楽座とかで商業の発展とかを行っておりました。
それによってしっかりと政治、お金を蓄えているようにしておりました。
また南扇というのもやはり京都に近い、京に近いというのもありまして、
政治的にも経済的にもしっかりと地盤を築いておりました。
ということもありまして、
六角氏の方が阿財家よりも格上でございました。
ここで六角氏としましては、
阿財家を倒して近江全部自分のものにしてしまう。
阿財家に対して戦いを仕掛けるようになります。
この時なんですけども、
ここでよく言われるのが、
朝倉家が阿財家を助けたという話でございます。
六角氏は阿財家よりも強かったということもありまして、
阿財家の方がピンチになってしまう。
ここで朝倉家、
近江に近い越前、
香川の方とかの方、
あっちですねっていう、
越前の領土を持っている朝倉家が阿財家を助けてくれた。
だから阿財家は家の滅亡を防ぐことができたんだ。
だから阿財家は阿財家に恩を感じているというのはよく言われます。
また、阿財家と六角家の戦いの時に、
朝倉家の戦闘ぶりを見て、
特に朝倉家の名称、
朝倉総敵の戦いぶりなどを見て、
阿財家は朝倉家から戦いの方法などをしっかりと学んだよと言われております。
ということもありまして、
阿財家としましては、
阿財家は自分たちを助けてくれただけではなくて、
自分たちを鍛えてくれたんだということで、
朝倉家に恩を感じていると言われます。
なので後々に、
織田家は裏切るほどの朝倉家の恩を感じていたんだというふうによく言われております。
ただ実際のところなんですけど、
ここに関しましては、
朝倉家はそこまで阿財家のことを堅入れはしていない。
むしろ六角氏に最初は堅入れしていたとも言われます。
朝倉家というのも、
奥美に比べると今日からは遠いですけども、
朝倉家はとても名門でした。
後に将軍が身を寄せるぐらいというのもありまして、
経済的にも発展しておりますし、
室町幕府においても養殖とかにもつけるような名門でもございました。
なのでその幕府に近い関係性ということで、
朝倉と六角は比較的仲が良かったと言われております。
なので六角と阿財家が戦っている時も、
最初は朝倉家は阿財家ではなくむしろ六角側に堅入れをしていたと言われております。
ただ実際のところなんですけども、
阿財家が潰れてしまう。
六角が奥美を全部領土にしてしまうとなりますと、
六角と朝倉が隣接することになります。
そうなった時に兄弟の力を持つ六角と隣接したくないなという考えが、
朝倉家に働きます。
といったこともありまして、
当初は六角側に堅入れしていた朝倉としましても、
後に阿財家にもサポートをするようになります。
その結果なんですけども、
六角と阿財の底線とか、
朝廷を朝倉家が仲介を務めることになります。
阿財と六角の戦いにつきましては、
もう底線しなさいよということで朝倉が間に入って、
結局その底線を結ぶんですけども、
ただこの時には結局、
阿財家は六角の下に入りなさいで、
従属しなさいねというふうに、
そういった交渉を結ぶことになります。
なので実は朝倉家というのは、
完全に阿財家に味方をしていたというわけでもなかったりします。
むしろ所々では、
六角の方に堅入れしていたというところもあったりもします。
なので事実、
そこまで強力な同盟を後に結ぶほどかとか、
阿財家ってそんなに朝倉に恩を感じるところあるか、
という説もあったりしますので、
ここら辺実は朝倉と阿財の同盟関係というのは、
ちょっと難しいところだったりもします。
結果的に朝倉としましては、
自分たちが六角と隣接したくないから、
阿財家を生き残らせたという感じでございます。
とは言いましても、
浅井長政の家督相続と独立
阿財家としましても、
六角氏の背下という形で生き延びることはできます。
そして阿財長政の父親にあたる、
阿財久政の代理におきましては、
完全に六角氏に従属しているという形になっています。
息子である阿財長政も、
長政を名乗る前は方政という名とっておりました。
この方政の方は賢いという字なんですけども、
これは六角義方の方から取っていたと言われております。
なので阿財家としましては、
六角貞よりの息子六角義方が、
その後の六角家の党首となるんですけども、
その六角義方に息子阿財方政も忠誠を使います、
ということもありまして、
その方の字をいただいているという経緯もありました。
ということで、阿財長政が党角を表す前の段階では、
阿財家は完全に六角の配下でした、
というところでございます。
ここから阿財長政、当時は阿財方政が党角を表していくことになります。
名前が紛らわしいですので、
阿財方政はもう阿財長政として話をさせていただきます。
阿財久政、父親の方ですね。
長政にとっての父親久政は、
完全に六角に従属しているということに対して、
阿財家の家臣たちが不満を持っていました。
久政のままでは阿財家が潰れてしまうという風に、
阿財家の家臣たちは考えました。
そして久政を強制的に隠居させまして、
まだ当時15歳の長政を党首にしようということになりました。
長政自身もこのクーデターというのに乗っかります。
長政はその時に奥さんがいたんですけども、
この奥さんは六角家の家臣の娘を妻にしていたんですけども、
その妻を六角家のその家臣の実家に返すという。
なので六角とはもう縁を切りますよという絶縁宣言を行います。
ただこれに対しまして、六角家は当然と言えば当然ですけども怒ります。
なので六角氏側が軍事制裁、
阿財家を攻めようということにします。
それが1560年、北近江の阿財家、南近江の六角家で派遣を争う
野良田の戦いというものが起きます。
この時六角側の軍は2万の兵がいました。
一方の阿財軍は数千だったと言われております。
兵力に関しまして数倍の差がありました。
ちなみにこの時、朝倉家としましては六角にも阿財にも
どちらにも偏りをしていないと言われております。
朝倉としましては阿財でも六角でも勝った方と仲良くしていけばいいかな
そういうスタンスをとっておりました。
なので純粋に六角対阿財という風になるんですけども
この兵力が数倍も違うというものを
若き阿財の党首長政が阿財軍を勝利に導きます。
この時党首である長政は自ら先陣に立ちまして
部下をこぶし、そして士気の高さもあって
阿財軍は六角軍を倒したと言われております。
実際この時の戦い、野良団の戦いにおきましては
六角側は2万もの兵を集めたと言っても
どうしても短期間で集めた寄生集めだったよと言われております。
一方の阿財家は六角とは縁を切ると決めた段階で
いつか六角と戦うことになるなということで準備を進めていたという
この準備の差もあったと言われておりますけども
ただそれでも数倍もの差があるこの戦いにおきまして
阿財家は勝利を収めます。
これにより阿財家は六角市からの従属関係をやめることが成功しました。
なので独立することができます。
またこの時傍観を決めていました朝倉家としましても
織田信長との同盟と裏切り
阿財家とこれから仲良くやっていこうかということで
阿財家の評価が朝倉家の中でも高まったと言われます。
この野良田の戦いにおきまして阿財家の名は
特に東州長政の名が広まったんですけども
ここでさらに別の大人物からも阿財家をすごい評価されることになります。
それは織田信長でございます。
織田信長としましては
終わりや美濃を平定した後は京へ行きたい。
上落をしたいという時なんですけども
その時には終わりや美濃、愛知や岐阜からすると京都に行く時には
滋賀県あたり大見あたりを通るのが不可欠ということもありまして
大見あたりで有力者を探しておりました。
その有力者と仲良くしようと織田信長も考えておりました。
そしてここで若き阿財長政が台頭してきたこともありまして
阿財家と仲良くしようということで
信長は自らの妹である愛知を阿財長政の奥さんにするようにということで
そして同盟を結ぼうということで持ちかけます。
この時に阿財長政
その時はまだ阿財方政だったと言われているんですけども
信長との同盟もありまして
信長の長から長政に変えたという説もあります。
他にも武運長久という戦いにおける幸運ですけども
これが長く続くこと
長く久しく続くという長久ですけども
ここから長という字を取って長政にしたという説もあったりもします。
尾田家としましては尾張や美濃を持っている地域で大大名でございました。
そこと同盟を結んだということもありまして
阿財家としましては自分たちの地位を確固たるものにすることができました。
阿財家に中途半端に手を出そうものなら
尾田がバックにいるようとなりますと
他の家としてもなかなか攻めることができない
ということで六角ましても
阿財家にまた攻めようというのは難しくなっていきます。
ということもありまして
阿財家としましては自分たちの地位を確固たるものにすることができたという意味でも
尾田家との同盟はとても重要なものでございました。
ただそんな阿財家ですけども
尾田家を裏切ることになります。
西暦で言いますと1570年頃の4月
信長が徳川家康と一緒に
若さや越前の朝倉家の方へ
攻め入ろうということになりました。
そして一説によりますと
この朝倉へ攻め入る時には
しっかりと足利将軍家からの命令があった
足利将軍の命令の下で
尾田家や徳川家が攻めるということもありますので
これに歯向かうということは
足利将軍に歯向かうことになるということもありまして
誰も歯向かうことはできない
朝倉滅亡待ったなしということでございました。
なので信長としましても
当然阿財家もこの将軍の命令があるんだから
阿財家は何も文句は言わないだろうと思っておりましたが
阿財家は尾田信長を裏切ることになります。
阿財と朝倉でハサミ打ちという形にしまして
尾田徳川を壊滅させようとなるんですけども
結果的には秀吉や光秀徳川家康の活躍もありまして
尾田家は生き延びることになります。
この阿財家の裏切りに関しましては
戦国でもかなりの謎が残っていると言われております。
朝倉家との同盟関係を重要視したんだという話もありましたけども
ただ実際に朝倉としましては
六角と阿財をどっちもどっちで見ていたということもありまして
特別阿財家を重要視してたというわけではない。
またこのことなんですけども
阿財家は一応独立したと言われてるんですけども
朝倉家に従属していたとも言われております。
これは阿財側が朝倉側のことを
親方様と呼んでいた。
つまり阿財のよりも朝倉の方が明らかに上として見ていたという
従属関係にあったんじゃないかというような文章も近年出てきております。
対等の同盟関係ではなかったんじゃないかと言われております。
なのでむしろ朝倉が滅んだ方が
阿財は独立できるんじゃないかとも言われております。
事実小田信長は自身の妹である尾一を
阿財家に凸がせたということもありまして
阿財家のこと特に長政のことをとても評価しておりました。
なので阿財家としても朝倉家が潰れた方が
いいんじゃないかという面もあったりします。
阿財家が朝倉家に従っていたのなら
朱家のピンチ朝倉のピンチには
阿財家駆けつけなきゃいけないだろうと思われるかもしれませんけども
この時には将軍の命令もあったということもありまして
また小田信長との同盟関係があったというのは明白でしたので
朝倉に援護しなくても大丈夫だろうと
援軍が送られなくても仕方ないよねと判断されても
当然とも言える状況でした。
にも関わらず阿財長政、阿財家は
小田信長を裏切りまして朝倉にすくことになります。
そういった諸々の状況もありまして
なぜ阿財が小田を裏切ったのかよくわからないと
よく言われております。
近年の研究でもいろんな複合的な理由があって
裏切りの理由と近年の研究
阿財は小田を裏切ったんだろう朝倉についたんだろうと言われております。
例えばどういったものがあったのかと言いますと
小田信長は京国家への評価が非常に高くしておりました。
京国家というのは王人の乱の後に
お家騒動もありまして没落してしまいましたが
もともとは王民を含め何カ国も
守護をしていたという名門の家でございました。
小田信長という人物、父親の小田信秀もそうなんですけども
革新的な考えは持っているんですけども
ただ古き良きを大事にするという姿勢がある人物でして
かつての名門京国家を大事にしようという考えが小田はありました。
そういったこともありまして
朝廷とか滋賀将軍系との話し合いをする時などでも
簡易とか暗いにおきましては
阿財よりも京国の方を高くしようという風にしていたと言われます。
朝廷や将軍系としましても
かつての名門京国家の人物がつながりもあったので
そういった人たちの方が近しいところにいた方が安心感もあるだろう
そんな考えもあったと思うんですけども
阿財よりも京国の方を政治的には優位にしようという考えがあったと言われております。
となりますと
近江というものはもともとは京国家が持っていたものということもありますので
もしかすると小田信長はいつか
近江を阿財から京国のものにするんじゃないかという風に
阿財家、特に長政は疑心暗鬼になっていたんじゃないかと言われております。
また他にも確かに小田信長とは
対等な同盟関係を結んでたと言われるんですけども
事実上は従属化させられるのが目に見えておりました。
事実小田家としましては徳川家との関係性を一応
対等な同盟関係とはしておりますけども
小田家の何かあるために徳川家から援軍をもらっている
兵を派遣させているにもかかわらず
徳川家がいろいろと騒動があった時には
小田からの同盟というのはほとんどないこともあったり
あったとしても小田家の規模からするとこれしか出せないの?
そういったものだったりもしまして
小田と徳川の関係性というのも
同盟関係を結んでるけども従属化しておりました。
なので小田家としましては小田家とこのままいっても
小田家の中の従属化させられるっていうのに
そこに目に見えていたのが嫌だったんじゃないかと言われております。
もともと小田家の家臣団としましても
六角に従属しているのが嫌だ
だから独立するべきだということで空出たを起こしていたというのがありますので
小田家に完全に従属化させられるとなりますと
家臣団を抑えることができなかったんじゃないかと言われております。
なので朝倉との同盟関係を重視したというよりは
小田家に従っているのは未来がないというふうに考えてしまったのではないか
というのがよく言われている説でございます。
ただこの後、結果的にですけども
小田家を裏切った後の朝焼けとしましては
大見の姉かは姉かの戦いと言われますけども
小田徳川の連合軍と朝倉連合軍に戦いました。
これも朝焼けは奮戦をしましたけども
朝倉家が本腰を入れてなかったということもありまして
小田徳川連合軍が勝利を収めるとか
またこの後も朝焼けとしましては
三好三人衆や本願寺とも共鳴したりだとか
武田とも共鳴したりなので
信長法維網なども敷きますけども
結果的には信長法維網も失敗に終わります。
1573年7月には地上大の戦いもありまして
朝倉家が滅亡
その後9月には阿財家も滅亡することになります。
この時には父久政とともに長政は自害をしたと言われまして
平年29歳という若さでこの世を去ることになります。
いろんな事情が絡み合って
阿財長政は小田信長を裏切ったと言われますけども
ただ正直朝倉家と小田家で
小田を選んでもよかったと言われております。
朝倉を選んで死ぬことになったということもありまして
阿財長政の選択は失敗だったとも言われております。
実際阿財長政はいつか奥美を取られるんじゃないかとか
小田家に従属化させられる
そんなことを心配していたと言われますけども
もしかするとという話ですと
小田信長が天下統一をした暁には
小田政権下におきましては最高幹部
一門集の筆頭になれた可能性もあります。
家臣となりますと秀吉とか明智みついては
家臣その中でも暗いがらの重臣とかですけども
長政に関しましては
信長にとって大事な妹の旦那さん
また小田家の次期党首になる信忠におきましては
おじさんというのが長政の立ち位置になります。
小田家特に小田信長は身内にはかなり甘いというところがあるので
身内に慣れていた長政は
身扱いはきっと良かっただろうと言われております。
秀吉とか明智みついてに関しましては
天下統一をした後も朝鮮とか民間の出兵とかで
働かされた可能性ありますけども
小田家に関しましては
もともとの領土で奥美とかは確保してもらえたんじゃないかとか
京都に近いところですし
琵琶湖を使った広域とか重要な場所なので
これは一族の人間にきっと
長政に任せてもらえたんじゃないかとも言われております。
むしろ信長自身が朝鮮民への出兵を重視した場合
信長自身が大陸の方に恐れがある
そうなりますと国内に関しましては
麻生家が任された可能性もあるんじゃないか
京都の朝廷であるとか有力自社との折衝役は
麻生長政に任せられたんじゃないか
といった説もあったりもします。
なので歴史学者とかによっては
麻生長政我慢してればよかったね
という説を唱える方も非常に多いです。
実際麻生長政に関しましては
朝倉と織田を天秤にかけて読み間違えてしまった
判断を失敗した男なんじゃないかと
言われてもいいくらいではあります。
「義理に厚い」という評価の形成
ただ実際後世におきましては
麻生長政というのは
朝倉との同盟を重視した義理の男なんだ
という風に良い人という風に捉えられております。
悪く言われることはなかったりします。
これなぜなのかと言いますと
麻生長政の娘3人いますけども
長女の茶々は後の豊臣秀吉の息子になります。
奥さんになります。
次女の初は京国高杉
今回のテーマで何度か名前出させていただきます
京国家ここの性質としてとついております。
また三女の郷姫の方が有名ですかね
この郷姫は3回結婚するんですけども
3回目の結婚は徳川秀忠
二代将軍徳川秀忠ですね
ここの奥さんとなりまして
しかも郷に関しましては
三代目将軍の家光も産んでおります。
そういったこともありまして
麻生長政の娘たちは
豊臣や徳川の権力者の奥さんとなっております。
そういった背景もありまして
しかも徳川三代将軍家光にとっての
おじいさんということもありまして
江戸時代になってからは
麻生家の長政には
簡易を後から与えられたりだとか
また麻生長政のことを悪く言うのは
禁じられるような空気が出ておりました。
また実際朝倉との同盟は
すごい強固なものだったんだ
昔からすごかったんだよ
こういったのは江戸時代に入ってから
創作物で描かれるようになっていきました。
そういった背景もありまして
麻生長政という人物が
義理に厚いとても素晴らしい人物だったんだ
というのは娘たちの努力によって
作られた評価だったりもします。
もちろん長政自身
野良田の戦いを含めまして
非常に優秀な人物だと言われておりますけども
ただ悪く言われないというのは
こういった娘たちの影響も
あったりするかもしれません。
といったところが今回話をさせていただきました
麻生長政の裏切りに関してでございました。
今回はここまでです。
改めましてテーマをいただきました
薬剤師の先生ありがとうございました。
麻生長政は正直評価が難しい方ではあるんですよね
時勢を見誤った人と言ってしまえば
それまでではあるんですけども
ただそれでも
住族を嫌がったから
クーデターによって自分が党首になったというのもあるので
住族化を嫌がったという背景もあるよな
といろいろと複雑なところもあったりします。
ただこういった複雑なところも
こうだったんじゃないかな
もしかするとこんなことを考えているんじゃないかな
といろいろ考えるのが歴史の良いところだと思いますので
いろんなイフを考える麻生長政は
とても面白い人物かなと思います。
まとめと番組終了
今回はここまでとさせていただきまして
また次回は別の部署で話をさせていただければと思いますし
いつでも部署ラジではテーマ募集しております。
皆様どうぞよろしくお願いします。
今回も最後までお聞きいただきまして
誠にありがとうございました。
28:58

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