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スピーカー 2
二番経営 No.2の悲喜こもごも。
この番組では、なかなかおもてんでない会社の二番 No.2をテーマに
トップのビジョンの実現の仕方や、この仕事の面白さ、大変さなど
No.2の悲喜こもごもをリスナーの皆さんにお届けします。
スピーカー 1
こんにちは、株式会社オーツーパートナーズ 取締役の勝宮誠です。
スピーカー 2
現当社新しい経済編集長のしだるゆうすけです。
二番経営第42回、今回のテーマも前回に続きまして
原録時代のNo.2大石倉之介 中心倉編の第2回、最終回です。
スピーカー 1
はい、前回ですね、中心倉といわれる
あこう事件の一通りの流れを抑えました。
打ち入りの日、12月18日近いということで、前回お話申し上げたんですけども
今回はですね、朝野巧の神っていうその班の中でのNo.1と
大石倉之介という班の中でのNo.2、そして
トップが死んじゃった後のですね、No.2ってのはどういうふうに動いて
何で動いたのかっていうところを中心にですね、ご説明していこうと思います。
あとは、何で二次を起こしたのか、何で打ち入りをしたのかっていう理由のところは
分かんないですってお話を申し上げましたけども
ちょっとそこにも迫っていければというふうに思っています。
スピーカー 2
いいですね。
スピーカー 1
今回、あこう事件が起こったというところで
そこの主人公たちっていうのは、あこう班という組織に所属をしていたことになります。
あこう班っていうのはどんな組織だったのか、どんな班だったのかといいますと
前回もちょっと申し上げましたけども、五万国の班ですね。
このあこう朝の家という五万国の班には
本般と言われるような元々の朝の家がありました。
これは広島にあったんですけども、広島朝の家、これが38万国の国ですね。
そこから独立して五万国のあこう朝の家ができたというところです。
支配関係が別にあるわけではないんですけれども
親族関係がずっと続いているというのが広島。
このあこう班というのは瀬戸内海に面している場所ですね。
今の兵庫県の南西に位置しておりますので
そこの瀬戸内海に面してですね、塩の生産がすごく盛んでした。
品質が高くて、もう班の重要な収入源だったということになります。
この五万国という国高は全266大名中ちょうど100位ぐらいという感じになります。
大きいわけではないんですけども、小さすぎるわけでもないというサイズ感。
そこの当主である浅野匠の神長範という名前のお殿様が認証事件を起こしたわけですけれども
この浅野家というのはどういう家だったのかというところなんですけども
とざまだいようと言われる家ですね。
関原の時に徳川家についてないほうということになりますけれども
この浅野家が起きたのはですね、もともとあこう班にいたわけではなくてですね
1645年まではですね、匠の神のおじいちゃんの長直の時にはですね
今の茨城県の笠間藩ですね。笠間という地名今もありますけども
もともとそこにいたのが浅野家です。
そこからですね、領地替えをしてこのあこうというところに来ました。
1671年にですね、引っ越した時の班主が長直。
その息子の長友というのが後継ぎをしていました。
そこからすぐにですね、継いだんですけども
その長友というのが、もう4年経ったらすぐ死んじゃったんですね。
死んじゃったので、9歳でこのあこう班を継いだのが浅野長直、後の匠の神ということです。
今回の仁城座と起こした浅野巧の神というのは班主になったのが9歳の頃。
この浅野巧の神、浅野長直の性格ですけれども
昔から短期だとも言われる話もありました。審議のほどはわからないです。
ただまあそんなこと言われていたそうなんですね。
あとですね、この1600年代の終わりの頃に
いろんな大名のどんな班なのかっていうのをまとめた初代名名官みたいなものがあったんですね。
正しい署名は土海公衆記っていうすごく難しい漢字のものなんですけども
その中にこのあこう班、浅野巧の神についての記載が残っています。
それをちょっと引用しますと、巧の神は利発な人物で
良民も豊かだが昼夜問わず女色をむさぼり、女性に手を出してですね
その演者を出資させ、政治は過労に任せたままであると見える。
これも伝聞で書いてるって感じですね。
さらに過労の支配も心もとなく
若年の主君が色にふけるのをいましめないような
不忠の心による政治は覆つかないと。
お殿様は女の血ばっかり追っかけてですね
過労もそれを潜めるわけでもなく
適当にやっててもひどいもんだっていうことを言われていますと。
ただ審議の程は不明で伝聞みたいな書き方もしているので
何もわからないっていうのが実際ではありますけれども
この9歳で家族を継いだ浅野巧の神長典なんですけれども
彼が住んでいたのはその兵庫県の男性の阿公ではなくてですね
ずっと江戸で生活をしていました。
当時の266の藩主っていうのは基本的にトップはですね
みんな江戸に住んでいるんですね。
江戸に住んでいて幕府の中でいろんな役職仕事をしています。
お殿様なんですけど幕府の中では一家来として
いろんな職務を担っているっていう状況です。
自分の支配している藩はどうかというと
ナンバー2たる家老職というのがそこの支えをしているという感じ。
この浅野巧の神もですねずっと江戸で育ってきたというところですので
ほとんどこの阿公藩行ったこともないし知らないという状況でした。
当時の阿公藩には武士身分の人が300名いたそうなんですけれども
そのうちの70名がこの江戸藩邸に住んでいたということになります。
230名の武士が阿公藩で支援をしていたということになります。
9歳で継いだ巧の神ですけども江戸城での仕事をずっと重ねていて
この阿公事件があった時には35歳で任状沙汰を起こすということになります。
これがですね数少ない情報からあった当時の浅野家
阿公藩のトップ浅野巧の神と。
スピーカー 2
なるほど。
ちょっと伝聞ばっかりで本当はどういう人だったのかちょっとよくわからないという感じ。
スピーカー 1
今度はじゃあナンバー2はどうだったかということで大石倉之助側なんですけども
大石倉之助がいる大石家なんですけども
この大石家というのは先ほど浅野家はもともと茨城県の笠間藩でしたというふうに言ったんですけども
その笠間藩時代から過労食を務めていました。
一番ですねその浅野家とですねつなぎが強くなったのは
この大石倉之助のおじいちゃん大石義孝という代になってですね
そこから浅野永直っていう匠の神のおじいちゃんから
お父さんそれから匠の神まで3代仕える人がろうを務めていたということになります。
まあ代々過労食の家と人がろうの家というところですね。
大石倉之助のおじいちゃんも当然過労食をやったんですけども
じゃあですねそのおじいちゃんの弟に大石頼義重という人がいます。
まあちょっと名前はどうでもいいんですけども
このおじいちゃんの弟がとにかく浅野のお殿様にめちゃくちゃ可愛がられたそうなんです。
笠間藩から赤尾藩に移った時のお殿様浅野永直という人がいたんですけども
この長愛をめちゃくちゃ受けています。
長愛を受けてですね匠の神のおもり役をやったりですとか
あとは大石頼義重っていう過労食の家には子供が生まれます。
その子供をですねお殿様の養子のようにして
浅野藩の文家若狭野というところとまた他にもう一個あるんですけども
そこの文家の養子に迎え入れられて
つまり過労食なんですけども
殿様の家の養子に入ったということで
お殿様になっちゃったみたいなことですね。
なんでそれをやられるぐらいですね
当時の大殿様から長愛を受けていた
そういう一族っていうのが大石家というところだった。
大石倉之介が家徳を継ぐタイミングもですね
大石倉之介のお父さんは病弱で34歳で亡くなっちゃったんですけども
その後おじいさんとおじいさんの弟さんに育てられるような感じで
過労の教育も受けていくんですけれども
そこでですね分部領土を本当にしっかりと学んでいきます。
大石倉之介っていうのは15歳で家徳を継いでいくということになるんですけれども
お母さんも池田家っていうこれも名家の手なんですけども
唯一正しい部家、過労の家。
そこでですねおじいさんとおじいさんの弟の訓導を受けながら
いろんな併学を学んだりですとか
あとは剣術もですねかなり込ん詰めて習っていったみたいで
当時の兵庫県から高松の方まで四国の方まで行って
わざわざ剣術の修行をするぐらい一生懸命やられていたそうです。
この大石倉之介なんですけども19歳の時にですね
おじいちゃんも亡くなってですねこの大石家を継いで1500国の
最初は過労の見習いになって
21歳の時には国我労の定席
筆頭我労になりましたということで
22歳の時にですねこの後半の明治すともにナンバー2になりましたと
というのがこの大石倉之介で
今のところ情報としてあるのはですね分部領土を頑張ったっていうのと
大石家自体がおじいちゃんの代から浅野家ともうべったりくっついている
家同士その浅野家を支えていたというところがわかると思います
この大石倉之介と江戸住まいをしていた浅野匠の神っていうのは
いつごろどういうふうに初めて出会ったのかというところなんですけれども
これはですねもう筆頭我労になった後ですね大石倉之介が
大石倉之介25歳浅野匠の神17歳の時に初めてですね
あこうに戻ってきたそのお殿様と対面したと言われています
8歳年上の部下この時にどんな会話をされたのかとか
2人がどんな関係だったっていう記録は一切残っていないですけれども
どうなんですかね年齢差から考えてちょっと兄貴分のような部下というか
ちょっと頼りになるようなそういう部下っていうふうに思ったのかもしれないですし
ひょっとしたらもうあの殿様と家臣なのでまたちょっと違う見方をされていたのか
どうか分からない2人の心を温まるエピソードっていうのも一切ないという
なるほどなるほど浅野匠の神もそうなんですけども大石倉之介に対するですね
我労自体の記録っていうのは実はほとんど残っていないんですね
その中で唯一と言ってもいい残っているものっていうのが松山城の受け取りという話が
これどういうものかと言いますと四国の松山ですね松山藩というのがありました
このですね藩主がですね急に亡くなっちゃいました
で相続人もその2ヶ月後に亡くなっちゃったということで
継ぐ人がいないということで水谷池というところだったんですけども
そこが親断絶するということが起きたんですね松山藩で
親断絶するとそこに住んでいた家臣団はみんな引き払って幕に返さなきゃいけないことが起きます
城地没収というところですね
でその没収するのは誰かが受け取り人をしなきゃいけない幕の代わり
でその役割が浅野匠の神に来ました
あこうの浅野家が受け取ってきなさいというように幕の命令を受けました
で浅野匠の神は江戸にいますということで
その先行役前振りは家老である大石倉之介がやらなきゃいけないと
でこの松山藩では結構いい藩でですね
五万石だったんですけども独自に神殿開発をして結構潤いを持っていたそうです
めちゃくちゃ頑張ってきたので