1. 武将ラジ〜武将について喋るラジオ〜
  2. 第9章「裏切りは決まっていた⁉..
2025-08-11 31:45

第9章「裏切りは決まっていた⁉️家よりも愛を選んだ男"小早川秀秋"」

テーマをいただきましたマインさん誠にありがとうございました😭


今回は「裏切り」「優柔不断」などイメージが悪く言われる「小早川秀秋」

彼が西軍を裏切ったのは、高台院のためだったという話をさせていただいております‼️


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サマリー

このエピソードでは、小早川秀秋の裏切りの背景と彼が愛を選んだ理由が語られています。関ヶ原の戦いにおける彼の決断や、秀吉との関係が彼の選択にどのように影響しているかが探求されています。また、秀次切腹事件が秀秋の人生に与えた影響についても触れられています。エピソードでは、秀秋の裏切りの動機が考察され、彼が愛と忠誠の間で葛藤した結果、徳川家への寝返りを選んだことが示されています。関ヶ原の戦いにおける彼の決断が歴史に与えた影響も掘り下げられています。第9章では、秀秋の人生と裏切りが考察され、彼が家族よりも愛を選んだ背景が探られています。

小早川秀秋の背景
おはよう、こんにちは、こんばんは。武将について喋るラジオ、略して武将ラジオのうっちーです。
この番組では、学生時代に学芸員を目指そうとも考えていた、歴史好きある私、うっちーが、毎月11日、そのポトキャストの日に、様々な武将について話をするという番組です。どうぞよろしくお願いしま〜す。
今回のテーマは、リスナー様より頂きました、誠にありがとうございます。テーマを頂きましたのは、マイン様。
頂きましたメッセージ、読ませて頂きますと、番組、聞かせて頂いております。武田信玄、植杉謙信など、それぞれの武将の背景などを聞けて、とても楽しんでいます。
今回、リクエストがありまして、メールいたしました。リクエストさせて頂きたいのは、小早川秀秋、です。
赤柄の戦いでは、東軍からも西軍からも引き抜かれるほど、それほど重要な人物だったと思われるのに、赤柄の後では、西軍を裏切った、優柔不断だ、など悪いことを言われることが多い武将ですが、
実際どうだったのか、ということを聞いてみたいです。よろしくお願いします。というメールを頂きました。誠にありがとうございます。
ということで、今回話をさせて頂きますタイトルはこちら。 裏切りは決まっていた、いやよりも愛を選んだ男、小早川秀秋
今回話をさせて頂きますのは、小早川秀秋。赤柄の戦いを扱った創作物では、必ずと言っていいほど、名前が出てくる武将じゃないかなと思われます。
松尾山で1万5千の兵を携えて陣取っていた。 東軍西軍が戦っている時に、どっちに味方しようかなと悩んでいた。
それに痺れを切らせた徳川家康が、大量の鉄砲を小早川秀秋のいる方に向けて撃った。 それにビビった小早川秀秋が東軍の味方になったよ。
小早川秀秋が西軍を攻めたことで、西軍は総崩れになった、という逸話。 聞いたことがある方も多いんじゃないでしょうか。
ちなみに徳川家康が小早川秀秋のいる方へ鉄砲を放ったのは、問い鉄砲。 お前どっちの味方になるんだという問いの意味での鉄砲を放っているので問い鉄砲なんですけども、この問い鉄砲は創作の可能性が非常に高いです。
と言いますのも関ヶ原のことを記した記録とか、特に江戸時代に入ってすぐに関ヶ原のことをまとめた文書とかにも、この問い鉄砲のことは特に書かれていないとか。
また家康の本陣付近から小早川秀秋のいる陣営に向けて鉄砲を放ったとしても聞こえないとか、家康が小早川陣営に鉄砲を撃っていると認識することができないんじゃないかということもありまして、
問い鉄砲というのは後になって関ヶ原の話を面白くするために作られた創作の逸話と言われております。 ただこの問い鉄砲が創作だとしても、昔の資料等でも関ヶ原の戦い、これが始まった段階では小早川秀秋陣営は
当軍についているという印をつけてなかったと。 関ヶ原の戦いが始まってから当軍についたということがはっきりと認識されたであろうということであったり、
また関ヶ原の戦いが始まる前、前哨戦ともいえるいくつかの戦い、その中でも小早川秀秋は西軍の将として働いていた形跡が非常にあると言われております。
なので前哨戦の時には西軍の将だったのが、本番の関ヶ原の戦いでは当軍についたということもありまして、裏切り者というイメージ、これ間違ってはないです。
ただ小早川秀秋は当軍につくと決めていたのは関ヶ原の戦いより前だったと言われております。
ではなぜ小早川秀秋は当軍を選択したのか、なぜ西軍を裏切ったのかといった話を今回させていただきます。
それにあたりまして小早川秀秋の老いたちなども含めて話をさせていただきます。
小早川秀秋、西暦で言いますと1582年、木下家貞という橋場秀吉の姓氏である後代院の兄の後男として生まれます。
秀吉の奥さんのお兄さんの子供ですので秀吉にとっては老いっ子でございます。
用名は金五と言われておりまして金はお金を表す金という字。
五は関数字の五という風に記されることもあればその関数字の五の下に口を漢字で書いてそれで五ということもあったりします。
この金五は原服した後もそのまま仮名として用いられていたこともあったりします。
その後1585年に秀吉の養子になります。
秀吉には当時後継者ともなる実子がいなかったこともありまして後継者とするために養子となりました。
この金五は養子となりまして秀吉と後代院から大層可愛がられたと言われております。
秀吉が残した文書でも何をするにしても金五のことを心配するそんなものが見つかっていますし後継者として非常に大事にされていたと言われます。
また1588年の4月御養成天皇の呪楽大公行では秀吉の代理として天皇への誓いを受け取っておりましてまさに秀吉の後継者として本格的に扱われていたと言われております。
ただ1589年になりますと流れが変わってきます。秀吉と与度の間に鶴丸が生まれます。
そのことで秀吉は養子である金五よりも実子となる鶴丸のことを大事にするようになります。
この頃から金五のことを気遣う秀吉の残した文書などが圧倒的に減ると言われております。
また秀吉は鶴丸と将来家族争いをしそうな親族を処分するようにもなっておりました。
例えば橋場秀勝は丹波の国という京都に近くて当時としてはかなり格式が高い地位を与えていたんですけども
それだけじゃ領土少ないよということを不満を漏らしていたということもありまして秀吉としては生意気だということもありまして橋場秀勝からこの領土を奪い去っていたと言われております。
金五に関しては直接的な処分というのはあまりされてなかったんですけども
金五が7歳の時に今話に触れました橋場秀勝が所有していた領土丹波の国亀山城この10万国の大名ということに金五はなります。
小早川の選択と裏切り
実際には山口群永山口玄番の名前の方が通りがいいかもしれませんが秀吉の家臣である山口群永に実質的な領地経営を任せておりましたけども7歳にして金五は大名となりました。
大名になるということもありまして秀吉は7歳で原服をします。そしてこの原服をから様々な諸行との付き合いもありましてお酒をたしなむようにもなります。
当時は原服をすれば大人とみなされるので原服をからお酒を飲むようになるのは当たり前なんですけども金五は7歳からお酒を飲むようになっていきました。
ただこのことは生涯にわたって金五小林秀吉を苦しめることになります。
お酒の話は置いておくにしましても7歳で大名になったんだじゃあ秀吉金五って大臣されていたのだと思われるかもしれませんけども
実はこの領土を与えられたこと丹波の国神山城の大名になったことは実質的には秀吉の後継者から外されたという宣言でもあります。
秀吉の場合は漢博という身分で政治を行っていました。 これはいわば茎の身分で政治を行っておりました。
ただここで領土を与えるやや乱暴な言い方になりますけども政治を取りを行う茎から大名に格下げをしたというふうにも取れます。
なのでここで7歳で金五は原服をして大名になったことここは秀吉からはもう後継者じゃないよという宣言でもあったりはします。
ただまたここから話が変わってきます。この2年後1591年鶴丸が亡くなります。
わずか2年と少しでという短い生涯となりますけどもまたその頃の秀吉は54歳ということもありまして
実死を諦めようという気持ちもありましてこの鶴丸の死を大層悲しんだと言われております。
その後秀吉はまた別の老い子である秀次を養子に向かいまして漢博に就任させました。
秀吉こと金五は1592年に中名号に除任されます。 これは実質的には秀次が秀吉の後継者筆頭で
その次が金五が後継者だよという風に形になりました。 金五が正式な後継者に筆頭に戻れなかったのは一度は代名に格下げしたということもあるんですけども
秀次が当時は23歳でまた金五が9歳秀吉は実死を諦めることも考えてまた引退を考え始めていたこともありました。
この時に秀次の方が金五よりも大人であるし正当な後継者に秀次をしようと秀次と金五の年齢差が14歳ぐらい
やや離れているということもありまして金五が成長して優秀であったら秀次の次に金五に後を継がせよう
また金五がそうでもないまた秀次の子供が優秀であれば秀次の子供に後を継がせればいいよねということで
様々なことを考えられる豊臣の未来を考えた時に秀次を後継者にした方がいいよねということもありまして
後継者筆頭としては秀次が選ばれたと言われております。とはいっても金五も後継者候補に戻ることはできましたが
さらに話は変わります。1593年秀吉に実死広い丸後の豊臣秀寄が生まれました
このことで秀吉はまた実の子供を後継者にしたいという思いが蘇ります
その結果金五を秀吉の子供ではなく毛利家の養子にしてしまえということになります
秀吉の子供のまま養子のままであればいずれ後継者候補として金五が邪魔になると考えまして別の家の養子にしてしまえというふうに考えます
毛利家には後継者となる子供がいなかったことで豊臣家から後継者候補として金五を毛利家に送ろうと
毛利家としても豊臣家とのつながりを強くできるしこれいいだろうということで秀吉は毛利家に持ちかけるんですけども
これは秀吉にとっては2つの思惑があったと言われます
一つ目は先ほども触れましたけども金五を後継者候補から外すということ
後の秀吉広い丸にとって将来後継者争いでライバルになりそうな男を厄介払いしてしまえという思惑があったことが一つ目
そしてもう一つこの頃金五はアルコール中毒になっていたと言われます
7歳から先をたしなんでいた金五は11歳頃の時にはアルコール中毒になっていて体がボロボロになっていたとも言われます
またアルコールのためか神経系もやられていたのか気分の波が激しい子になっていたとも言われます
この若いアルコール中毒の人間を毛利家に送り込んで毛利家を弱体化させよう
豊臣家の将来ライバルになりそうな毛利家を弱らせてしまうという思惑もあったと言われております
ただこの金五の毛利家の養子に関しましては結果的になりますけども毛利元内の息子の一人で有名な小早川隆が間に入りまして
毛利家の後継者は毛利家内できちんと用意しますと
でこの金五に関してはこの時は秀吉という名前になっていたんですけども秀吉の名前になるまでは金五で通させていただこうと思うんですけども
この金五は小早川家の養子として迎えますということを小早川隆は申し出ます
それによりまして1594年秀吉の命によりまして秀吉こと金五は隆と養子縁組を組むことになります
秀吉としましては金五をよその家に厄介払いできたということでそれで良しと考えていたと言われます
金五としてはかつてとても可愛がられた秀吉から捨てられるような形になります
小早川家の上昇と毛利家との結びつき
この養子縁組で気分を良くしたこともあるのか秀吉に恩を打った金五の簡易は中名古屋にまで上昇します
結果的には小早川家の家の格が上昇することになりました
一応小早川家は毛利家の配下というとまたちょっと表現が難しいんですけども
実質的には毛利家の中の一つの家というふうな感じなんですけど小早川家
ただそれでも小早川家はこのことで毛利家と肩を並べるぐらいの家の格に上昇していたと言われます
ただまた小早川家の大元と言える毛利家としましても金五のことは秀吉の養子であったということもありまして
とても大事にしていこうと考えていたと言われます
なので金五が小早川家に来て間もなく毛利家の当主である毛利寺本の養女
実際には他の武将の娘なんですけどその娘を毛利寺本の娘として迎えて
それで毛利寺本の娘として金五を結婚させます
これによって金五と毛利家の繋がりを強くしましょうねということを行います
秀吉から捨てられたとはいえここで毛利家から可愛がられて安泰した生活を送れれば良かったんですけども
まだまだ波乱は続きます
1595年に秀次切腹事件が起きます
この秀次切腹事件は秀次が感覚としてあるまじき人間だったからという理由で処刑をされていたと言われるんですけども
実際には秀吉が秀吉が将来後を継ぐ時に邪魔になるだろうという理由が強かった
それで秀次やそして秀次の子供たちを処刑しようと考えたのではないかと言われております
秀次切腹事件とその影響
感覚の座はこの時秀次にありました
将来秀次が自分の子供たちが大きくなった時に自分の子供たちに感覚の座を譲るんじゃないか
秀吉には感覚の座を譲らないんじゃないか
疑心暗鬼になった秀吉が秀次を処刑しまた秀次の子供たちも処刑しようと考えたんじゃないかと言われております
実際この秀次切腹事件では秀次だけではなくて秀次の子供であるとか奥さんたちも処刑されています
この秀次切腹事件は家康をはじめ様々諸公が反対をしたんですけども秀次切腹事件は実行されました
本来であればこういった時に秀吉の暴走を止められる人物がいればよかったんですけども
秀吉を止められそうな弟の秀永は1591年に亡くなっていたということもありまして暴走を止められませんでしたし
秀吉の軍首と名高い黒田寛兵衛こと黒田女髄
彼も秀吉との関係性を悪くしていたということもありまして秀吉を止められる人物がおりませんでした
この秀次は秀次の奥さんたちもいや近い縁者も処刑されていますけども
この時には様々な大名の娘なども嫁いでいたこともありまして
この秀次切腹事件は様々な大名の家族を処刑することにもつながりまして
後に豊臣家が没落することになる大きな要因にもなりました
そしてこの秀次切腹事件の流れで後継者候補の一人であった秀吉こと金吾も処刑されかけることになります
特に秀次は26歳くらいですけども金吾は13歳
13歳ということもありまして比較的広いもある
後の秀吉と年齢が近いこともありましてより邪魔になるんじゃないかと秀吉は考えていたと言われます
もうすでに秀吉の養子ではなかったです小林家に養子になっていましたでも関係ないと
また金吾はもともと橋場秀勝の諸領であった丹波の国の大名
いわば橋場家とか豊臣家とのつながりがある領土を持っていまして
まだまだ橋場家とか豊臣家とのつながりも強く
後の秀吉との後継者争いで邪魔になるんじゃないかということもありまして
金吾は処刑を検討されたと言われます
この時には実際には金吾はある中だったことや幼いこともありまして
領土経営を実質的に行っていたのは山口室永ということもありまして
金吾には領土経営をする資格も能力もないダメな大名だということで
理由をつけられて処刑されるんじゃないかと言われていたんですけども
ここで高台院後の北の満所となります秀吉の制裁が止めたと言われます
高台院からすればかつては自分たちのことをして育てた金吾
彼を処刑するのはおかしいと嘆喚したと言われます
金吾は若くして叫びたいになりまして遊んでばかりでいました
高台院にも多額の借金をするほど遊んでいたと言われますけども
手のかかるほど可愛いとも言われますが
高台院は秀吉が金吾への愛を失った後も金吾のことをずっと気にかけておりました
そして高台院の嘆喚もありまして金吾は処刑を免れます
ただ自分の領土である丹波の国亀山城を手放すことで処刑を免れることになります
自分の領土を失うことにはなりますけども
ただ命を救ってもらったということで高台院に多大なる感謝をしたことや
また高台院の愛によって救われたこと
これが後の金吾こと小林秀吉の人生を大きく変えることになっていきます
小早川秀秋の転機
この後領土を失った金吾は養父であります小林川隆家の領土である九州
蓄善の国首という形で30万国の代名となります
またこの時には丹波の国で領土経営を実際に行っていた山口室長も一緒についてきておりまして
領土経営は山口室長に任せられるという状況にもなりました
また小林川隆家は一応陰居はしてるんですけども
蓄善の国の一部領土を小林川隆家が持ったままでして
何かあればサポートできるという形にもしていたと言われます
命を狙われたこともありましたけども
このまま九州で伸び伸びと生きらればよかったんですけども
ただこの秀次切腹事件を機に金吾が処刑されそうになったこともありまして
金吾は毛利家内で腫れ者のような扱いを受けるようにもなっていたと言われます
小林川家の大元とも言える毛利家としては
豊臣家とのつながりを強くする意味でも
金吾と当初テルモトの娘を結婚させたんですけども
後継者ではなくなったどころか
むしろ金吾がいることで金吾の奥さんを含め
毛利家の人間が処刑される状況が出てもおかしくはなかったです
金吾は毛利家にとってプラスじゃなくて
マイナスに働くんじゃないかと考えられていたと言われます
またどうしても金吾と毛利テルモトの幼女の結婚は
戦略結婚の意味合いが強すぎたということもありまして
夫婦仲はあまり良くなかったと言われます
実際1599年には離婚をしていたと言われます
またこの時奥さんはその後すぐに別の男性と結婚をしていたりもします
正直毛利家からも奥さんとか家族からも
あまり愛されていない生活を送っていたんじゃないかと
金吾は言われております
そんな中1597年2月21日
秀吉より発来た軍令によりまして
金吾こと秀吉の朝鮮半島への出陣を命じられます
また同年の6月12日
両夫であります小林隆が亡くなります
高賀家は陰居という形で
なんだかんだ金吾や山口室長を補助していたんですけども
その高賀家はもういない
小林家のためにも新規一転として
この時に名乗りを秀吉から秀吉へと改名します
ここで小林秀吉となります
この秀吉慶長の役におきまして
指揮官にも関わらず自ら先陣を切って敵を倒し続けた
それで戦果を上げていたと言われます
秀吉としては活躍をすることで
周りの評価を変えたかった
自分が優秀であることを見せつけたかったんじゃないか
と言われているほど
勇敢に戦ったと言われます
ただこの後帰国後褒められると思っていた小林秀吉は
秀吉から越前の国への原風転風命令が下りました
今の蓄前の国からまず越前の国へ
転風領土を変えろという命令の上に
蓄前の国では30万国あったと言われる領土が
この原風によりまして
12万国ほどまで減らされたと言われます
転勤してなおかつ給料を下げられる
ということを命令されたということです
理由としましては
指揮官が自ら前に出る行為は軽率だと
軍の指揮官としては評価できない
むしろマイナスだったからと言われておりますし
またさっさと帰国しろという命令を
無視して戦い続けたからだと言われております
これが理由の原風とか
転風命令であればかなりかわいそうなんですけども
秀吉が行った朝鮮出兵
結果的に領土を増やしたりはできませんでした
でもいろいろと戦功を上げた人物に対しては
何かしら褒美を上げなければいけないということで
いろいろとイチャモンつけて領土を取られたりとか
領土を減らされる大名たちがいまして
その減らされた分を戦功を上げた人たちに
褒美として与えたりもしておりました
その減らされた大名の中には
小林秀吉が入っていたと言われます
ただここで一応の注釈を入れさせていただきますと
この秀吉の原風の理由は違うという説が強いです
と言いますのも
秀吉が前線で
バリバリ戦ったと言われる戦いに
秀吉参加してなかったんじゃないかと
言われていたりもします
秀吉が参加していたと思われる戦いに関して
秀吉の参加を示す資料があまりないと言われております
でまたアルコール中毒だった秀吉に
そんな戦い方できるかね
というふうな疑問心もされております
なので実際には領土の経営は
歌神山口群永に任せていると
いわば能力のない大名だという理由で
領土を減らされたんじゃないか
前線に戦ったことは理由ではないんじゃないか
とも言われております
でまたこの小林秀吉の領土が
非常にいいところになりました
九州の北の方ということもありまして
朝鮮とか大陸に近いということもありまして
貿易とか公益とかでも非常に重要拠点になると
でこの重要拠点を
豊臣家の直轄にしたかったから
といった理由もあって
秀吉を別の場所に飛ばしたんじゃないか
とも言われております
でこの大幅な原風
30何万国から12万国に減らされたということで
秀吉は多くの家臣を解雇することになってしまいます
でこの中には長くつきしたがっていた
山口宗長もこの時に秀吉の元を離れております
なのでこの時には
慣れ親しんだ家臣と離れることにもなったりもします
ただ実際に1598年秀吉が亡くなった後に
小早川秀明の背景
徳川家康とかの御大老とかが
おかしな原風天風とかの命令を下せなかったか
というのをね
それを見直しなさいという命令を発します
それによりまして秀吉は
蓄前蓄後に複領することができました
なので越前の国が領土になったと言いましても
その後慣れ親しんだ九州に戻ることができました
この時には主に徳川家康とかの御大老のおかげだったので
徳川家康にはすごい感謝をしたと言われております
家康に感謝をしつつなんですけども
小早川秀吉の領土を変えたり大幅に減らされたのは
豊臣家の直轄にしたかった
特に石川三世などの豊臣家の武行たちが
各大名の力を添えた上に重要拠点を豊臣家に占めることで
豊臣家の力をつけようと
豊臣家の政権を万弱にするための策略だったんじゃないか
と言われておりまして
秀吉は家康に感謝
三成たちの武行衆には
恨みを持つようになっていたとも言われております
そしてこの流れから関ヶ原の戦いが起きます
1600年7月18日から8月1日
関ヶ原の戦いの前哨戦とも言える戦いのしつつ
伏見城の戦いでは
小早川秀明は政軍として参戦しておりました
でまたこの後もしばらくの間
主に戦からは離れていますけども
三成たちの命令に従って
軍の配置を変えたりなどしておりまして
政軍の武将の一人
政軍の主力候補の一人として
小早川秀明は関ヶ原の前哨戦を
戦っていたと言われております
正直三成たちとか武行衆に恨みはありました
とはいえ政軍の総在所は毛利家
小早川家は毛利家の家臣という形もありますので
毛利家に従うのは当然でありまして
当初は政軍としての働きを見せておりましたが
8月下旬頃から徳川家の使いが
秀明に接触していたと言われます
この接触要は
政軍から当軍へ寝返りませんか
という誘いが来たと思われています
そしてこの誘いに秀明は乗ることになります
前哨戦では政軍の主力候補として
戦っていた秀明
この誘いに乗りまして当軍に乗り換えます
なぜ乗り換えたのか
小早川秀明は小早川家の人間
毛利家に従うのが当然じゃないか
また後のようによく言われるんですけども
小早川秀明はもともと秀吉の養子だったじゃん
豊臣家守るために政軍に就くべきだろう
というふうに言われたりもしております
ただまずここらへんの話を整理させていただきますと
まず大前提として関ヶ原の戦いは
豊臣家対徳川家という言い方をされることがありますけども
実際には豊臣家の中の権力争いです
豊臣家対徳川家ではなくて
徳川対反徳川という意味合いが非常に強い戦いが
関ヶ原の戦いです
あくまで豊臣家対徳川というのは
過去の結果を知った人たちが
後から当てはめたというものでありまして
この時当時としては
豊臣家と徳川家の対立ではなくて
豊臣家の中の権力争い
なので秀吉の養子だったとは言って
それで徳川に就こうが
毛利に就こうが秀吉としては関係ないです
また毛利家との関係性
かつて秀吉は豊臣家の秀吉の暴走もありまして
処刑されかけた時
それから毛利家との関係性は
あまり良くなかったと言われます
実際関ヶ原の前例には奥さんと離別しております
毛利家との関係性はそもそも良くなかったです
また徳川家に関しては
自分を原風転風命令が下って困っていた時に
助けてくれたのが徳川家康です
自分の領土も戻してくれました
そういった意味で徳川家康に恩を感じておりました
またもともと秀吉の養子だったということもありまして
秀吉の家臣は豊臣家に
ゆかりのあるものが多かったと言われておりますけども
かつて原風された時に
秀吉の家臣は多くがいなくなっています
この時に豊臣家に縁やゆかりがある家臣たちは
秀吉の元を離れております
何だったら家臣によっては
石田水成の配下になっていたりもしました
秀吉からしたら自分の家臣を石田水成に奪われていた
というふうにも感じたと言われます
そういった意味でも
毛利や石田が有力な政軍よりも
徳川の当軍に就きたいという思いがあった
これは自然なことだと言われております
また当軍からの誘いの中で
かつての後代に秀吉なき家族は
北のまんどころになりますけども
秀吉の制裁のことが書かれていたと言われます
後代のために当軍についてくれませんか
という誘い文句があったと言われております
ここらへんもう少し補足しますと
関ヶ原の戦いの決断
政軍としてはどうしても豊臣秀吉を
担い上げたいという思いがありました
秀吉は秀吉の後継者でございます
この秀吉を担い上げることで
政軍の方が正当なんだよって言ってることは
正しいんだよというふうにしたかったとあります
もちろん秀吉の着なんであるので
これは間違いないんですけども
ただ秀吉を大切にするということは
秀吉の母である淀殿を大事にする
重要人物として扱うということになります
そうなってきますと
北のまんどころの立ち位置ってどうなるのか
という不安が生まれます
北のまんどころも実際には淀殿とか
石田水成たちとの関係性が
悪いわけではなかったと言われております
ただそれでもかつて秀吉が生きていた頃に比べると
北のまんどころは軽視されがちだったと言われます
一方徳川家は
北のまんどころとの関係性を
良好に保っていたと言われます
実際北のまんどころは
一応は中立を保っていましたが
やや東軍に味方することが多かったと言われております
そして秀吉は北のまんどころを敬愛しておりました
何かあれはよく北のまんどころに
相談していたと言われます
秀吉は自分の人生において
避けられることも多かったです
かつては愛された者の実施が生まれたから
自分のことを捨てた秀吉であれとか
歓迎を最初してくれましたけども
やがて晴れ者のように扱われた
茂利家であるとか
慶長の駅
本当にね慶長の駅参加して
ある戦いに参加していたのであれば頑張りました
でも頑張ったのに
むしろ領土を減らした時
家臣たちを奪っていった
石田道内の武行方
愛されることの少なかった小早川秀吉ですけども
高台院こと北のまんどころだけが違いました
かつては処刑されそうになったのを
北のまんどころは助けてくれました
その子も何かと人生の相談に乗ってくれていました
秀吉の人生においても
しっかりと愛を与えてくれた
かつ少ない人物だったのかもしれないです
その高台院こと北のまんどころの立場が
弱くなっていたこと
これに怒りを覚えて
西軍から東軍へ小早川秀吉は裏切った
とも言われております
結果秀吉は関ヶ原の戦いにおいて
東軍として働きまして
東軍の勝利に大きな貢献をします
この関ヶ原の戦いなんですけども
関ヶ原の戦いのほと直前であるとか
戦いが始まってから西軍を裏切った大名
彼らは勝利後にも
あまり褒美をもらえなかったと
言われるんですけども
事前に裏切りを約束していた大名は
褒美をかなり与えられていたと言われます
秀吉は関ヶ原の戦いのうち
領土をしっかりと増やされております
そのことからも関ヶ原前には
裏切りを約束していたのではないかと言われます
ただ歌詞院の中には
東軍への裏切りに納得は行っていなかった
人物も多かったと言われておりまして
そのために関ヶ原の戦いが始まる段階
この時には東軍であることを
明確にできていなかったんじゃないかと
言われております
なのでどうしても関ヶ原の戦いが起きてから
東軍であることを示したために
裏切り者と言われるんですけども
秀吉の心の中では
東軍につくことが決まっていたんではないか
と言われております
関ヶ原の戦いの後秀吉は
ビゼンの国、三馬坂の国
ビッチの国の東半分であるとか
ハイマーの国の飛び地など
様々なところを与えられまして
九州から離れることになりますけども
それでも55万国に火葬、威風されました
またこの領土を移ってから
かつては領土経営を
家臣に任せていた子供の方秀吉ですけども
この頃には自分自身でしっかりと
経営を取り組むことを行っていたと言われております
そして岡山藩主となってから
民のための政治
特に農民を助ける政治を行っていたと言われます
ただ1602年10月18日お亡くなりになります
去年21歳
後継者のいなかった小林家は
この後解液されることになります
この解液されたことで
大きな領土を持つ代名を減らすために
暗殺されたんだとか
赤柄の戦いで裏切ったことで
呪われていた
だから死んだんじゃないか
というふうに言われることもありますけども
実際にはアルコール依存症による内臓疾患で
亡くなったんだろうと言われております
若くして原服、期待されたからこそ
酒に溺れてしまっていた
周りから疎まれることも多かった生涯となりました
そして今もなお裏切り者として
悪名が広がっています
ただ赤柄の戦いの後に行っていた政治を見たりだとか
高台院への思いなどを感じると
本当は愛を求めていたこと
愛を大切にしていた人物なんじゃないかな
とも思われます
といったところが今回のテーマ
愛と忠誠
小林秀明でして
彼は赤柄の前から裏切りを決めていた
そしてそのきっかけは愛だったんではないか
という話でございました
今回はこんな感じです
改めましてマイン様テーマいただきまして
誠にありがとうございます
小林秀明本当激労人生だと思います
天下人の後継者になるはずだったのから
阿波谷処刑まで本当すごい人生だと思います
赤柄のキーマンとも言えるんですけども
毛利や石田が仮に秀明に
しっかりと愛を与えていればどうなっていたのかな
西軍勝った可能性あるんじゃないかなと思いますし
ただそもそも秀明が裏切りを決めてなければ
東軍の動きも大きく変わったよな
なんて思ったりもします
あくまで歴史のイフでしかないですけども
そういった歴史のイフを考えたとき
非常に面白い人物が小林秀明だと思っております
また何か武将のことでテーマなどがあれば
いつでもご連絡お待ちしておりますので
皆様どうぞよろしくお願いします
今回も最後までお聞きいただきまして
誠にありがとうございました
31:45

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