1. 武将ラジ〜武将について喋るラジオ〜
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2025-06-11 29:38

第7章「太公望から孫子へ、斉の国が繋ぐ天才達の系譜‼️」

テーマをいただきましたぉにっくさん(https://x.com/@hm_ef1 )誠にありがとうございました😭


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今回は孫子を中心に、太公望から孫子へ繋がった天才の系譜について話しております


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サマリー

今回のエピソードでは、兵法家の損子とその伝説の起源、また彼の先祖である損武について詳しく語られています。さらに、中国の春秋戦国時代における彼らの影響力や、損敏という子孫の謎についても触れられています。このエピソードでは、損敏と彼の戦略が聖の国における権力の変遷にどのように寄与したかが紹介されています。特に、太公望や孫子といった天才たちが聖の国を中心にどのように集結し、著名な戦いを通じて影響を与えたかについて詳細が述べられています。太公望で知られる呂将が聖の国での政治を通じて商工業を発展させ、多くの天才を育んだ歴史についても触れられています。聖の国はかつて秦と並ぶ二大強国と呼ばれ、孫子などの賢人が生まれた土地の重要性が強調されています。

00:01
おはよう、こんにちは、こんばんは。
武将について喋るラジオ、略して武将ラジオのうっちーです。
この番組では、学生時代に学芸員を目指そうとも考えていた、歴史好きである私、うっちーが、毎月11日、ソロポッドキャストの日に、様々な武将について話をするという番組です。
どうぞよろしくお願いします。
今回のテーマは、ジャガジャガラジオのニックさんです。
ジャガジャガラジオさんから、武将ラジにおきましては、前回の吉田松陰、その前々回の北条敬之を、ハリートさんからいただきまして、本当にありがとうございます。
ジャガジャガラジオさんは、様々な番組や企画に顔を出されておりまして、ポッドキャスト界を盛り上げてくださっております。
肉坂を家庭料理にできないことを、ニックさん、ハリートさん、さきちゃんさん、えみのしっぽさんの、女性4名でされております番組でして、
様々な話題、キュンキュンするような恋愛話であるとか、日々の出来事の話、漫画の話や映画の話、最近ではドラマに関する話などもされておりました。
勉強になるなぁということや、懐かしいなぁと感じたり、本当に素晴らしい番組でございます。
様々な話題を楽しく明るく好きなものを話す雑談番組ですので、明るい気分になりたいなぁ、そんな時にお勧めの番組様でございます。
損子とその影響
そのジャガラジオさんのニックさんから今回いただきましたテーマと言いますのが、損死でございます。
損死で、例えば漫画にもなっている損便、損死遺伝という漫画がありますけども、そこら辺で話をしてみてくださいということでテーマをいただきました。
その損死に加えて今回中国誌における大天才を交えて話をさせていただこうかなと思っております。
それでは今回話をさせていただきますタイトルはこちら。
大工房から損死へ、生の国が繋ぐ天才たちの系譜とは。
今回ですがあらかじめですけども内容を簡単に話させていただきますと、主に損死で話をさせていただきます。
損死、特に損便で話をさせていただきます。
その損死に加えて大工房とも呼ばれる人物、漁商についても少し触れさせていただきます。
ただ漁商で話をしようとしますともう延々止まらなくなりますので、あくまでメインは損死でありまして漁商は軽くだけ触れさせていただきます。
まず損死をご存知でしょうか。
有名なもので損死という書物がありますけども、この損死、意識高いビジネス書家ですと損死から学ぶ計画とか損死から学ぶビジネスとかそういった本がちらほら見ます。
この傾向なんですけども日本とか損死の生まれの中国だけではなくて西洋諸国でもこの傾向あります。
有名な世界的な経営者の中でも損死を転んでいる人は多いですし、世界中で損死に関わる本の出版だけではなくて損死の研究も世界各地で行われたりもしております。
ただこういったビジネスと聞くと損死が商売人のようにも感じてしまうんですけども実際には損死は兵法家です。
戦いにおける戦術であるとかそもそもね戦争を行う時の準備であるとか心構え対局感そんなことを唱えている方でございます。
損死において有名なフレーズとして戦わずして勝つというものがあります。
全く戦わないというわけではないんですけども敵の弱点をついたりとか交渉とかを巧み利用して最低限の戦いで勝利を勝ち取ろうというものだったりもします。
損死に影響を受けた人物としましてはフランス皇帝のナポレオンであるとか日本の戦国武将武田信玄なのが有名じゃないかなと思います。
武田信玄も戦の前の準備が大事であるということをよく歌神たちに話していたと言われておりますし、武田信玄といえば有名な風鈴火山。
この風鈴火山も損死の残した言葉の一つだったりもします。
個々の存在、様々な人物に影響を与えている損死ですけども、この損死、書物としての損死を生み出した人物が損死と呼ばれております。
損死が残した書物ということもありまして損死として語り継がれているんですけども、この損死、人物の方の損死ですけども2人いると言われます。
一人目は損武という方。一般的には損死と言われますとこの損武を表すことが多いんですけども、この損武と別でもう一人損死がいましてそれが損敏と言われる人物でございます。
この損敏は損武の子孫と言われております。
実際この2人それぞれ損死と呼ばれる書物を残しております。先祖である損武の方の損死を護損死兵法、子孫である損敏が残した損死を生損死兵法と呼んだりもします。
2つもあるのか、じゃあ今現在親しまれている損死ってどっちなんだ?両方混ぜたものかなと思われるかもしれませんけども、現在伝わっている損死という書物は中国の三国誌で有名な曹操。
この曹操がこれらの損死を読んだ上で様々な注釈を入れたり変算をしたものが伝わっていると言われまして、今なお世界中で愛されている損死は損死のオリジナルというよりは曹操が編集したものではあります。
ただ何にせよそのオリジナルを生み出した損死が偉大な人物であることは間違いないです。
損武の伝説
この世界中で今も愛されている損死を生み出した2人の損死について少し話をさせていただきますと、まず先祖の損武の方。
生まれが定かではないところが多いんですけども損武は紀元前540年頃に中国の西の国で生まれたと言われております。
今から2500年くらい前の方ですね。漫画キングダムとかが好きな方だとピーンとくるかもしれませんけどもこの頃は春秋戦国時代の頃でございます。
秦が中華統一をするのが紀元前221年ですのでその300年以上前の人物が損武でございます。
キングダムでもよく出てくる戦国七雄、遠征、宗慎、漢義長の7つの国ですけどもそのうちの一つ西の国で生まれたのが損武でございます。
損武は詳しいことが不明な部分が多いので逸話とかも少ないんですけども西の国で生まれたものの一族内での争いがあって西の国から後の国へ移ることになると言われます。
場所で言いますと中国という国では北東の地域から南東に移ったんだと思っていただければいいかなと思います。
損武が後の国に移り住んでからしばらくしてすごい人がいるよ、頭がいい人がいるよ、兵法が優れている人がいるよという噂が流れます。
その噂が後の国の王であるとかその家臣たちにも届きまして、王たちの前で損武の考えを披露する場というのがあります。
その損武の知能とか白色さに驚きまして後の国で家臣ならないかと誘いを受けるようになります。
ただ確かに語っている内容は素晴らしいものではあるけどもこれ本当に実践できるのか損武という人物口だけなんじゃないかという件もありまして
そういった悪い意見を跳ね返すためにも実際に損武試してみてくれよとなります。
その試す内容というのは後の国の救助180人を訓練してみろというものです。
救助というのは王のお妃様とかその妃の手伝いをする方とかでありまして日本で多くの女性たちとイメージをしていただければいいかなと思います。
本当に損武という人物がすごいのであれば戦の素人どころかまともに訓練を受けたことないし、王の妃たちなんてわがまま放題のような女性たち。
そういう女性たちを鍛えてみたら損武ってすごい人だよねというふうになります。
はっきり言えば損武に対する嫌がらせですね。こんなん無理でしょうということで課題を出されます。
損武はやってみましょうと言います。
まず損武は訓練をする救助たちに尋ねます。前後左右この4つわかりますわと尋ねます。
さすがに救助たちもそんなのわかるよと。
では損武は前と言えば胸を左と言えば左側右と言えば右側後ろと言えば背中側を見てねと言います。
女性たちはわかりましたよと答えます。
そこで損武は命令を始めまして太鼓を打って右と号令して本来であれば右を見てほしいんですけども救助たちはドッと笑ってその命令を聞こうとしませんでした。
本当にこんなんやってるよって感じで笑ってしまいました。
損武命令が不明確でみんなが徹底しないのは将である自分が悪かったね。
じゃあまた説明するからねということでまた同じ説明を何度も繰り返します。
でみんなもあの命令の内容わかってますわかってますよね。
それを確認した後にじゃあまた始めましょうということで太鼓を打って左と言うんですけどもまた救助たちはドッと笑って命令を聞こうとしませんでした。
次に損武が言ったのは命令がすでに明確なのにも実行されないのはこれは指揮官たちの罪だねと言って
その訓練180人の救助たちの隊長となっていた2人の女性を前に出して斬首、首を切ろうとします。
それを見ていた後の国の王様は驚きます。
いやいやいや将軍待ってくれよと。わかったわかった将軍がすごい人だったらわかったよと。
でもね自分はその2人の姫がいないともうほとんどご飯もおいしくない。
もう本当に心がね傷ついちゃう。だから切るのやめてねと言って王様は損武を止めようとします。
ですが損武は一度将軍として任命を受けた以上、たとえ君主の命令があっても従えない時があります。
ということで王の長愛する姫2人を本当に切ってしまいます。
そしてその2人を切った後に新たな隊長を2人選びまして合礼を行おうとします。
今度の女性たちはこれいずれ自分たちも命令聞かないと殺されるぞという恐怖からしっかりと命令通り動きます。
よく損武と言いますか損主は戦わずに勝つという言葉のイメージが先行してきまして損主は人を殺すのが嫌ってるキャラだなと思われておりますけども
舐められたらしっかりやり返すという武闘派な一面はしっかりあります。
この訓練は無事終わるんですけどもこの訓練だと王の長愛している姫を2人殺したということで王は怒ります。
損武に対してはもうさっさと帰ってくれというふうに言うんですけどもそれに対して損武は王って口では立派なこと言いますけどもこういった実際の訓練とか実践とかやっぱり嫌がるんですねっていうふうに
訓練前に自分がみんなから言ってること立派だけど本当に実践できるのと言われたその意思返しとも言えることを王に対して行う。
これめちゃくちゃ武闘派というか過激な面があるのが損武という人物でございます。
ただこの後実力を認められた損武は後の国の将軍になると言われております。
こんなことをしてもしっかり取り立ててくれる王は立派な人物だと本当思います。
この立派自体は損武の武闘派な面を見せていることと訓練実践などはどんなに偉い人の命令よりも現場の指揮官とかそういった人の指示が大事な時があるし
命令は聞かないとその場の空気が乱れてしまうとかやり遂げたいことがうまくいかない時があるので
起立は大事だよということを伝える偽りだったりもします。
ただこの損武は本当謎が多くて将軍になってからの活躍とかが本当不明瞭な問いが多くどうなくなったかも不明だったりします。
あまりにも不明点も多いので損武って本当は実在しなかったんじゃないか伝説上の人物だったんじゃないかと言われたりもしておりました。
ただ一応その御孫子兵法なんか残っていることからも現在では存在したんだろうなと言われております。
損敏とその謎
そしてこの損武の子孫と言われる人物が世に出てきます。
紀元前4世紀頃損武が活躍したと言われる頃から100年ほど経過した頃損敏という人物が現れます。
ただこの損敏も資料の少なさともありまして謎が多い人物であります。
なので正確な生まれの年とか死亡した年とかさらには正しい名前すらも分かっていません。
伝わっている損敏という名前もこれ本当正しい名前ではないです。
損敏という名前この損敏の敏は両方の足の室外骨、膝の骨ですねこれを切断されて歩けなくなっているという。
これ刑罰で敏刑と言うんですけどもこの敏刑の敏から取っております。
なので損敏という名前は敏刑を受けた損死の子孫という名前でありましてこれ本名ではありません。
なんでそんな刑罰を受けたかという話をさせていただきますと損敏は若い頃から頭が良くて兵法とかを学ぶ場でも注目されていたと言われます。
同じように今その様々なことを学んでいる学友学校の友達ですね。
その一緒に学んだ友人の中で宝剣という人物がおります。
この宝剣は損敏の才能を本当高く評価しました。
一方で寝たましくも思っておりました。
損敏が世に出てきたら自分などは霞んでしまう。
自分のことなんて世に残らなくなってしまう。
損敏を落とし入れたいと考えるようになります。
そんな折、宝剣は儀の国に使えることになります。
そして当時儀の国、遠征宗親官儀長で春秋戦国時代、キングダムとかにも出てくる儀の国ですけども。
当時の儀の国は人材投与とかを積極的に進めておりまして戦国時代の中でも儀の国が一番強いという時代でした。
その儀の国に使えたということで宝剣も優秀な人物なんですけども。
その宝剣は損敏を罠にかけます。
宝剣は損敏に対して連絡をしましてこれから儀の国がもっと強くなっていくには損敏の力が必要なんだよと言いまして
是非損敏、儀の国に来てくれないかというふうに招きます。
損敏の運命
損敏も学友からの誘いだったということと、儀という強国へね強い国へ叱観できることということで喜んで儀へ向かいます。
ただそこで宝剣は損敏に対して言われのない罪をかぶせまして罪人としました。
その結果損敏は両足の膝も骨を切断されるという便刑を受けます。
さらに顔に罪人の証である入れ墨を入れられる芸罰と言うんですけども、この罰も受けることになります。
なので歩けなくなった上に顔に罪人の証の入れ墨を入れられたという状況ですね。
余談になりますけどもこの芸罰、後の予報と竜宝の戦いの際に活躍したエーフという武将がいるんですけども
彼も芸罰により顔に罪を入れられていたことで芸夫とあたらされたりもしておりました。
ちょっと余談をここまでにしまして話を損敏に戻しますけども両足の膝で骨と切断されるとかね顔に罪というねことを入れられて
これのままにはもうどこの国でも叱観が叶わないという風に渡航に暮れてしまうんですけども
ただそれでもそんな損敏を自身の生まれである聖の国に高く評価をされます。
聖の国にはデンキという将軍がいるんですけども彼と仲良くなりましてさらには彼にちょっとしたアドバイスで大儲けをさせます。
それでデンキ将軍に歌詞を作ったこともありまして聖の国で使えられるようになります。
ちなみにそのアドバイスと言いますのがデンキは競馬にハマっておりました。
競馬といっても現代の競馬のような機首一人が馬を乗って競争というものではなくて複数の馬で馬車を引かせるとかそんな感じのレースなんですけども
金持ちたちは自分でその競馬のチームを持ってまして他のチームと対戦をしてお互いに賭け金を払って勝った方がその賭け金をもらうということをしておりました。
当時としましては各人それぞれが3つのチームを持っておりましてその3つのチームを1対1で戦わせまして3回勝負をして2勝した方が勝ちというルールが一般的だったと言われます。
そこでソンビンはデンキが持っているその競馬のチームその3つのチームを早い順に上中下という風に分けました。
対戦するチームも上中下で早い順に3段階に分けて考えましょう。
向こうの上一番早いチームにはこっちの一番遅い下のチームを当てるようにしましょう。
向こうの中真ん中ぐらいの速さのチームにはこちらの一番早いチームを当てましょう。
向こうの下一番遅いチームにはこちらの真ん中ぐらいの速さのチームを当てましょう。
そうすると2勝1敗いけますよ。この2勝1敗を常に心がけたらいいですよというアドバイスをしましてそれによってデンキは大儲けをしましてソンビンに借りを作ることになりまして
結局は聖の王様にソンビンを合わせそしてソンビンは聖の国に使えることになります。
軽量の戦いの策略
そしてその後ソンビンは2つの義徒の戦いに参謀として参戦します。
軽量の戦い馬量の戦いこの2つでございます。
この2つの戦いでソンビンの名は天下に轟くことになります。
まず軽量の戦いこの時は義の国が聖の国を攻めます。
攻められた聖の国は聖の国に対して応援を要請します。
当時義の国は強大だったため聖の国に助けを求めます。
そこで聖の国は援軍として将軍デンキが率いる軍が朝へ向かおうとするんですけどもこの時ソンビンはデンキに助言をします。
このまま朝の国に向かっても義の国の兵は強いです。
聖の国の兵も大きな損害が出てしまうようそんな恐れがあります。
今義の国は朝を攻めるために強い兵が朝に向かっています。
ここであえて義の国の都である大理を攻めましょう。
大理には強い兵は残っていない可能性が高いです。
また都を攻められれば朝を攻めている軍も慌てて引き返すことになります。
その朝を攻めている軍が引き返せば朝を救うこともできますし、
ただ義の軍と戦うよりも引き返すとかそういう行動させることで疲れさせることができます。
後進言をいたしました。
さらにこれうまくいけば義の軍が大理に引き返す際に朝の軍が義の軍の背後から襲うこともできます。
それで聖と朝で義の軍をハサミ撃ちにすることもできるということもありまして、
この孫尾の意見は採用されまして聖の軍は義の大理を攻めます。
その結果朝を攻めている義の軍は慌てて義の大理へ戻ることになります。
そして慌てて戻って疲れていた義の軍を聖の軍が待ち構えて倒すことに成功します。
これは異議休朝という義を囲んで朝を救うという故事のもとになったりする話だったりもします。
ただ実際には義の軍はもうすでに朝の都市である関丹を落とすことに成功していたので、
朝を本当に救えていたのかと疑問なところもあるんですけども、
ただ強国として他国に恐れられていた義の軍を倒すことができた。
その意義を成し遂げております。
さらにはこの戦いの時には尊敏にとっては因縁の相手ともいえる封建を生き取りすることもできます。
ただこの時は他国との兼ね合いも色々ありまして封建を義の国に返すことになります。
ただ尊敏をはめた封建にとっては屈辱的ともいえる展開でございました。
馬良の戦いとその結果
その後やがて次にまた義と聖が戦う時が起きます。
馬良の戦いと言われるものです。
この戦いでは今度は朝と義が手を結んで漢という国に攻め込みます。
そして漢から聖に対して援軍の要請が来ます。
今度も聖は漢に対して援軍を出した方がいいかなという風になります。
そしてもし可能だったら経領の戦いのように義の主と大量を攻め込んだら前みたいに勝てるんじゃないかと思うんですけども
今度は義と朝が手を結んでおります。
もしかしたらそこ兵を分けているとかされていますと
前回の時のように疲れ切った状態で戦いはしないかもしれない。
前回のようにうまくいかないんじゃないかなということで
この援軍を出すかどうかで聖の国の中でも意見が割れます。
そして意見を求められた村民が行った検索としましては
漢へ援軍は送りましょう。
援軍を送らなければもし何か聖で困ったことがあった時に聖が助けてもらえないかもしれない。
なのでここは援軍を出して信用を得ましょう。
ただギリギリまで援軍を出さずにおきましょう。
ギリギリまで漢だけに粘ってもらいまして朝と義が非兵した状態で攻め込みましょう。
非兵した敵を倒すことで聖としては援軍を出した。
戦にも勝ったということで良いことつくめですし漢も救えますと検索しましてこの策が採用されます。
その結果援軍出すよ援軍出すよという話をしている間
漢は聖が来るまでの間に一刻だけで朝や義と戦うことになります。
その間5度戦がありまして5戦とも漢が負けます。
それぐらい漢はピンチだという状況になります。
漢としても限界だよというところでついに聖の国が義に攻め入ります。
そして前回のように大量を攻めて疲れた兵を倒そうというふうに考えるんですけども
今度は義としても同じように聖が援軍に来るな。
そして大量を攻めるだろうと予想しておりました。
その時総大将となりますと義の王様の子供だったんですけども
実質的な指揮官はあの奉献でした。
奉献としては過去に生き残された屈辱もありますし
何としても今度の戦いは勝ちたいと考えておりました。
そして奉献の考えた策としては
聖が義の大量に攻め入るだろうと
義としてはその聖が攻めているさらに後ろから聖を攻めようとしました。
後ろからの攻撃となると一気に聖の軍を壊滅できるだろうし
また後ろから攻める軍と大量にいる軍合わせれば挟み撃ちも可能だと考えまして
奉献は聖の軍の後ろから追うことができるように兵を配置していたり準備をしておりました。
ただ尊敏、この奉献の策も見破っていました。
尊敏としてはこの奉献の軍を聖の軍がしっかり準備した状態で待ち構えよう
それで倒そうと考えます。
そこで尊敏、奉献の軍を油断させるための策を取ります。
軍が進行する際には食事とか休憩を取る必要が当然あるんですけども
その際には火を起こしたりするので簡易的なかまどを作るのが奈良市です。
そしてそのかまどの数で大体の軍の人数とかも把握できるんですけども
尊敏はわざとこのかまどの数を新軍のために減らしていきました。
例えば最初の日は10万人分のかまどを作るけれども
次の日は5万人分にする、次の日は3万人分にするなどかまどの数を減らしていきました。
そして聖の軍を後ろから追う奉献としてはかまどの数が減っているのを見て
これはきっと聖の軍の兵たちが減ってるぞ逃げてるぞと考えます。
なんせその時聖の軍がいるのは当時の戦国時代最強の国義の領土の中でした。
いつ兵も来るかもわからない。そんな状況でしまともに戦ったら死ぬかもしれない。
そう思うのは普通のことです。なのできっと聖の兵が逃げ出してるんだと考えた奉献。
この周りはもしかすると聖の軍が兵が逃げすぎて自然消滅してしまうかもしれない。
尊敏とか将軍たちもいつまで逃げ出してしまうかもしれない。
そうすると戦争で功績上げられないなぁとなると早く追いついて聖の軍を倒さないといけない。
そんな風に考えます。それに一刻も早く聖の軍を倒して自分が過去に受けた屈辱を晴らしたいとも考えまして
奉献は軍の中でも早く動ける部隊だけを動かして重装歩兵とかの強いけど動きが遅い部隊は置いといて
早く動ける部隊だけで聖の軍を追うようにします。
ただ聖の軍はその奉献が来るのを今か今かと準備万端で待ち構えておりました。
そして焦っていた奉献の軍を打ち倒すことになります。
奉献を打ち倒した時には有名な逸話ではあるんですけども
ある木に文字を彫っておいて夜中にその文字を読もうと近づいた奉献が文字をしっかり見るために火をつけたと。
その火をつけた時にそれを合図で周りの隠れた兵が弓矢で一斉射撃をして奉献を倒したと言われております。
そしてその木には奉献はこの木の根元で死ぬというメッセージが彫られていたという逸話があったりもします。
その逸話の真偽はさておいても奉献は実際にこの戦で死ぬことになります。
またこの戦をきっかけとしまして義の衰退が始まります。
そして一方で聖の国がどんどん強くなっていきます。
このきっかけを作った孫敏は一躍有名になります。
ただその後の詳細は不明でして死亡したのがいつかなども不明ではありますけども、
今二人の孫子、孫武と孫敏が残した兵法書、孫子は今もなお語り継がれています。
それくらい偉大な人物たちでございます。
こういった様々な戦略とかを練られる孫子の二人なんですけども、
ただこの聖の国という場所はこの孫子たち以外の様々な天才たちが生まれておりました。
例えば春秋戦国時代で真の英勢よりも先に春秋戦国時代を終わらせる可能性があったと言われる有力者たちの一人に数えられる聖の官公。
またこの官公を皇宿とともに支えた官中という方も生まれは聖ですし、
また戦国子君という王ではないものの春秋時代に名を馳せた大人物たちのうちの一人、孟宗君も生まれは聖であったりします。
そんな天才たちを生み出した国、聖なんですけども、
この聖という国の基礎を築いた人、この方も中国史でも超有名な大天才でございます。
それが太古坊こと呂将でございます。
方針縁起という作品をご存知の方ですと知ってるよという方もいるかもしれませんけども、方針縁起の太古坊その人でございます。
呂将の話をしようと思うと延々と話せるので、長くなりすぎるので今回はほんとさらっとだけさせていただきますけども、
昨今よく言われる軍師、軍の指揮をするとか兵を鍛えて戦場に送り出す、戦場においては様々な戦略を考えるという軍師ですね。
この軍師の大元、始まりの軍師と言われるのが太古坊こと呂将でございます。
この呂将、紀元前11世紀頃という今より3000年以上前に活躍しながらも今もなお語り継がれる人物です。
例えば呂将が行った戦略の一つでは様々な作品でありますけども、戦争において味方の軍が敵に比べて数が圧倒的に少ない。
普通に戦えば負けてしまうよという状況で戦略を練って逆に少人数で大人数の軍を囲んでしまう。
囲んでしまってそれで戦争勝利に導くという様々な作品が出てきますけども、これを最初に実戦で行った人が呂将です。
戦争の後のようでしばらくの間一般的なんですけども兵に普段は農業させてその農業の時に体を鍛えておき、さらに農業をすることで作物を収穫できるというこれですね。
こういった兵と農民を一体化させるという考え方もこれは呂将が最初に考えたと言われております。
呂将は聖宗の文王武王を支えまして陰という国を倒しまして宗という国を作るきっかけとなりました。
呂将の政治と聖の発展
後に出てくる天才軍士たち朝霊とか諸葛孔明にも多大な影響を与えておりますし、太古王の残した陸刀は中国史でも有名な兵法書の一つでございます。
その中でも古刀と言われる部分、門外不出の内容が書かれているという部分なんですけども、この古刀という表現、現代風に言いますと虎の巻と呼ばれたりします。
陸刀とか知らなくてもあれこれ虎の巻っていうワード聞いたことあるよそんな方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。
現代にも残るくらい様々なものを残した太古王こと呂将なんですけども、この呂将、隕州戦争が終わった後、聖の国に封じられます。
ただ当時の聖の国は偏僻なところで貧しい土地でした。
さらに太古王が聖の地に封じられた時には別の有力者が聖の国を牛耳っておりました。
州の建国に多大なる功績があったにもかかわらず、そんな偏僻な地に封じられたのは呂将の影響力がありすぎるからだ。
力を持たせたくないからだなんて言われたりもしております。
それぐらいの大人物なんですけども。
ただ呂将はそこで有力者と争いに勝ち、しっかりと政治を取り行います。
その時に強引に土地の種族、その土地の人々が慣れているとか生活とかに、そういうのを無理に変えたりはしませんでした。
無理な改革はしないでその土地にあったことをしようと。
痩せた土地であると。であれば無理に畑を耕すとか耕作とかをしようとしないで。
海に近いであれば漁業とか塩を作ることをしようと。
そういったふうに土地にあったことをしましょうねと。
その結果、聖という国は商工業が急速に発展しまして、農地が痩せているにもかかわらず人民が集まっていきまして強国になっていきます。
そして人が集まっていくことで文化や学問も栄えていくようになります。
そうやって大工房こと呂将が作り上げた土地から孫子などの天才たちが生まれていくことになります。
最終的には聖という国は春中戦国時代末期、黄金という秦の武将に責められまして、その歴史は幕を閉じます。
一度秦の滅亡のゴタゴタの時に復興するんですけども、それもすぐに漢秦という武将によって責められてしまいましてやはり滅ぼされてしまいます。
孫子と聖の賢人たち
ただかつては聖は秦とともに二大強国とも言われる時代もありました。
大天才やる大工房が作り上げた土地、そしてそこには確かに様々な賢人、孫子たちが生まれていきました。
大工房から孫子たちで、古代中国でも屈指の知能が受け継がれていった土地、それが聖でございます。
今回はここまでです。改めましてニックさんのテーマをいただきまして誠にありがとうございます。
孫秉漫画にもなっておりますけども、本当すごい激論事実をやるんでいると思います。
孫子という書物はビジネス書とかのイメージも強いんですけども、人生として学ぶ考え方も色々あるので本当に面白いなと思うんですけども、
書物の生みの親という孫秉が本当に面白い人物だと思います。
また今回孫子の話をするのであれば、どうしても大工房の話も触れたかったんですけども、
大工房旅章で話をするとどうしても長くなるので、大工房旅章で詳しい話はもしまた機会があれば話をさせていただければなと思っております。
また次回なんですけども、次回は別のテーマですでにいただいております。本当にありがとうございます。
次回は今回も話の中で触れておりますけども、武田信玄で話をさせていただこうかなと思います。
武田信玄は人を大事にしていたということで有名なんですけども、これには人を大事にするしかない。そんな過酷な環境が武田信玄にはあったんだ。そんな話を次回はさせていただこうかなと思っております。
今回も最後まで聞いてあげまして誠にありがとうございました。
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