おもしろかった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。 まずは今回いただいたコメント、お便りなど紹介したいと思います。
はい、お願いします。
SHさん、お便りをいただきました。
いつも楽しみに聞かせてもらっています。 『お気配的と手に負えないの回』とても面白かったです。
ちょうど自分が人生について鉛筆のメタファーを思いついていて、それとの連関で書くこと、作ることについて思いを巡らすきっかけになりました。
人生は書かないと進まない。そして書くことによって必ず削れていく。人生は鉛筆は短くなっていく。
それでも書くことがすなわち生きることである以上、私たちは書かざるを得ない。
そして書いた結果は作品として残る。決してそれが公表されるものでなくとも、誰かにとっての作品となる。
つまり何かしらへの対抗軸というよりも、メッセージとしてよりよく生きることの、存分に生きるということのために書くことは、作ることは欠かせないのだろうと思いました。
最近面白く読んでいるのは、蘇我異論入門です。次回もまた楽しみにしています。
長いコメントありがとうございます。深い話でしたね。
削ると鉛筆というメタファー。
鉛筆という人生が削れていっていずれなくなってしまうけども、書かれたものにはこのように残っていくということですよね。
非常に素晴らしい。
そして、書かねばならない。鉛筆のみのメタファーにすると、書かないとそのまま生きながらいることができてしまう感じになるけど。
時間とともになくなっていく鉛筆というやつですね。
そういうところで、生きることは鉛筆が動いているみたいなイメージにするといいのかもしれないですよね。
僕ら自身が鉛筆そのものであり、僕らがアクションするたびにどこかに痕跡が刻まれていくのだという感じがしますね。
神殿図のあれみたいなやつが一番近いのかもしれない。
なるほどね。
そこでいかなる図を描くのか。
自分自身の足跡を残すのか、誰かのバズル要求に合わせた軌跡を描くのかは、僕らのまだ選択肢としてあるので、どっちを選べますかという話ですけどね。
そして、疎外論からおそらく実像につながっていく話とかっていうのもちょうどタイムリーな感じですね。
そうですね。この疎外論は僕もちょっと読み終わって面白かったですけど、
どっちかというとマルクス論ですね。
ヘーゲルじゃないんだ。マルクスの方なんだ。
ヘーゲルから来ているという説明もあって、ヘーゲルの疎外論とマルクスの疎外論がどう違うのかということで、
全体的にマルクスの疎外論が他とどう違っているのかという感じで論じられるので、ほぼマルクス入門と思って読んだらいいと思いますね。
じゃああんまり実存の話ではないですね。
どっちかというと経済とか労働とかの話が強い。
そっちの観点の疎外ね。
でもこれは考えるべき問題だと思いますね。
特に僕は生成AI時代における疎外論はちゃんと考えた方がいいと思ってますけど。
そうか、そういうふうにも取れるか。
僕らが書くということから疎外されるというのはどういうことかというのはちょっと考えられるテーマだと思いますけどね。
はい、ということとつながるのかな。
まず前回と一緒で、それぞれの本をざっとパート1で紹介して、パート2でそれぞれの本から何か抽出できることがあったらいいなというフレームをなぞりますが、
まず1冊目、言語化するための小説志向ということで、小川さとしさんが書かれている本でして、これこそもアフタートークで僕ら2人がよく名前を出す。
そうですね、作品数一番多いに近いかもしれない小説家で言うなら。
日本人小説家では一番言及しているのが多いと思うんですけど、プロフィールをざざっと見ると、
1986年の千葉生まれで東京大学理科一科から東京大学大学院総合院文化研究博士家庭大学というところで、
その後2015年にユートロニカのこちら側で、早川のSFコンテストの大賞を受賞してデビューし、その3年後にゲームの王国で日本SF大賞を受賞されているということで、
1986年生まれの方が2015年にデビューしているということは、
大学中じゃなかった。
30になる前にということですね。
デビューされて、そこからもう3年で大賞を、いろんな賞をそう並みにするようなものと書かれて、連続的に結構書かれてまして、
ゲームの帝国は僕、買ったけど読んでない本なんですけども、
えっと、地図と拳って読むのかな?これ剣って読むのかな?もう結構暗号本になってたと思いますけども、これも人気で。
で、たぶんゴリコさんも読んでおられたかなと思います。君のクイズがありますね。
映画になってたの?
そうですね、最近実写映画化された本で、結構キャッチーな感じで、
一文字も出題されてないクイズに早押しクイズで答えられたのはなぜ?みたいな感じで始まるミステリー系の作品で、それ以外にもいっぱいありまして、
嘘と短編という短編集かな。
嘘と製編。
僕はこれ、たぶんチョフさんの中で一番好きな短編集かなと思います。この作品が。
一応SF的な仕込みもありつつ、ミステリー的な謎解き感もあって、非常に面白い作品が集まっているのと、
あと君が手にするはずだった黄金について、2023年に出てまして、確かに今年の6月にも単行本がちょうど出たばっかりなんで、入手しやすいと思うんですけど、
これも連作3編という感じかな。なんかちょっと似たテーマについて。
君が手にするあれでしたっけ、自分っぽい人が出てくるやつでしたっけ?
そうそう、いろんな人との関係みたいなのが語られていく。
一個一個は短編やけど、ちょっと通作だよねというような感じがある作品で。
この辺からちょくちょくに著者っぽい人が出てきて、
著者のどう考えてるかっていうような、別に著者そのものではないですけど、非常に理屈っぽい感じの主人公がよく出てくるんですけど、
この言語化するための小説家を呼んでもわかりますけど、こういう思考をする人なんだ。
本当にリアルにああいうタイプの人だったら、付き合ってたらめんどくさいだろうなという感じの。
大体の小説家が俺はそうなんじゃないかと思うんだけど。
ちなみにそのめんどくさいっていうのは、もちろん人間的にどうこうというより、僕も同じようなタイプなんで、
同じようなタイプが2人集まると多分とてもめんどくさいことになるという感じ。
ものすごく仲が良くなるか、ものすごく反目し合うかが可能性が高いですね。
比較的時事問題ではないんですけど、ある程度現代的なネタを扱われておられると思うんですけども、
スメーラーミッシング、これいつも読みにくいんだけど、スメーラーミッシングというのも短編集みたいな感じで、
一個一個はバラバラなんですけど、ちょっとこのタイトル作は陰謀論的な、非常に現代のインターネット&陰謀論的な話題が扱われています。
たぶんあれかな、自殺云々みたいな話で集まるやつとか、それ系のやつですよね。
そうそうそう、そういう系のやつが集まっている。
これちょっとだから、ようこそファクトとか漫画が好きな人やったら面白いかなというところでして、
結構最近に出た、たぶん小説では一番新しいのかな。
火星の女王という作品が2025年に出まして、このNHKドラマーが原作ということで、すごいですよね、ここまでのキャリアとかメディアの発表に。
ものすごい勢いで駆け上がっていますよね。
しかも例えばこの火星の女王は、ジャンルで言うとSFなんですけども、単に指すとしたらSFになるんですけど、
SFかって言われると結構微妙で、純文学かって言われると純文学でもなく、何かっていうとジャンルは小川さとしというタイプの作品でして、
実際振り返ってみても、SFに分類できるものとかミステリーに分類できるものとかいっぱいあるんですけど、
そこの枠組みに収まらない、ジャンルにかすってはいるけども、著者自身が目指しているのはそこではないところなんだろうなと感じる作品が多い作家さんで、
非常に理屈っぽいのが好きな人であれば、この人は好きだろうなという感じがします。
一応小説ではないんですけど、こうやって作家は言葉を紡ぐとか、これは作家にインタビューしたインタビュー集だと思います。
斜め45度の諸説術でも最近出まして、これは初のS説集って言ったかな、S説集ですね。
このあたりがね、小説志向がめちゃめちゃ人気になって、もはや小説家の枠組みすらも越えてきて売れっ子になってきているっていうイメージがしますね、ここ最近の感じで言うとね。
ちなみにこの言語化するための小説志向という本は講談社から出てまして、2025年の10月23日なので去年出た本なんですけど、
新書サイズの大きさで、厚みも新書なんですけど、新書じゃないですね。
講談社から出てるんですけど、講談社の新書レーベルのどれにも入ってなくて。
知らんかった、新書やとずっと思ってた。
新書コーナー探してもたぶんないと思いますね、この本は。
そこに刺されない、そういう場合は。
作家エッセイのところに頑張って置かれているんじゃないかなと思いますが。
こういう多分片破りなことも多分これは意図的にやってるんじゃないかなと。
この著者の作風に合わせてるんじゃないかなと僕は勝手に考えてるんですけども。
探すときはタイトルから探した方がいいと。
新書のところにも端っこの方が置いてあるかもしれませんけど、違うところに置いてある可能性も高いですね。
ちなみにこれ群蔵で連載されていたのを書籍化したものらしいんですが、
群蔵と聞いて思い出すことあります?
この前のやつですよね。
全然知らなかったんですけど、前回紹介したお気配的も実は群蔵で連載されていたらしく。
僕群蔵今まで一回も読んでることはないです。
群蔵ハンドすぎて読める気がせん。
ただ見ると僕好みの連載があるんじゃないかなっていうのを初めてこの2冊紹介して、
その初始情報を調べて気づいたんで。
しばらく買って読んでみてもいいかもしれないですよね。
そうかもしれないなというのを準備してて気がつきました。
本自体は1章から12章まであって、基本的に雑誌で連載されていたものなので、
一個一個単独で読めるけども、小説についての趣向が語られている。
一番最後に書き下ろしかな。
小説についての小説ですよね。
エデンの東という小説が掲示されているセットになってまして、
目次、いろいろ全部読めるとあれですけど、
1個目とか2個目の小説国の法律についてとか、
小説の勝利条件みたいなところがもうダイレクトに
著者が小説っていうものをどう考えて書いているのかが
つまびらかにされていると思うんで、
この辺バラバラと立ち読みされるとこの本買いか買いじゃないかがわかるかなと思います。
2冊目。
理系の読み方、ガチガチの理系出身作家が小説のことを本気で考えてみたということで、
大瀧勉太さんが著者なんですけど、
小川さんは多分僕もゴリコさんも読んでいると思うんですけども、
大瀧さんは多分僕しか読んでない。
これは1冊も読んだことないかな。
ないと思いますね。
チェックしてもらいたいのが、1986年生まれなんですね。
福祉区も同じ年であるわけですね。
福祉区も同じ年なんですね。
大瀧さんは兵庫県出身、関西の方で、
2018年に青は青より、青より青か。
チラザギ文学賞を受賞されて、
そこから5年後、その謎を解いてはいけないというので誕生デビュー。
それ以降にこの理系の読み方という本と花咲かりの方程式というのが出されて、
つい最近に口笛吹きと音楽の犬という、
これは長編かな、の作品を出版されたということで。
同い年生まれて、賞の受賞もちょいと3年ぐらい遅れておりまして、
大きい書を取ったのも、大きいか単行本が出たのも結構後でして、
遅咲きのタイプの方でして、実際それをネタにしているというか、
小説家デビューの話とか、新人賞コンプレックスでの記事を読みたいというサイトで公開されてまして、
これは普通に無料で読めるので、見てもらえたらどういう方かなとは分かると思うんですけども。
こっちの出身の人だと兄弟卒業なんですね、平均的にやっぱり作家は。
基本的に両方とも理系の方なんです。
こっちの方は直接理系って書いてますけども、小川さんも基本的に理科系。
理科系の方が小説という、いわゆるガチガチの文系のことをされているというところで、
似通ったところはあるかなと思います。
この本の発売日も2025年の10月で、さっきほどの本も2025年の10月で、
実は本の発売日もすごい近いんですよ。
別にたまたまの偶然だと思うんですけど、これもちょっと面白いなと思いまして。
内容自体はいくつか雑誌とかいろんなところに書かれていたものを一冊の本にまとめたということで、
単純な連載ではなくて結構中身がバラエティーに富んでいるんですが、
第1回が小説を説くの前編で、後編と続いて小説を禁止するとか使いこなすとか読む、
小説する、小説書くっていうふうに、小説とどう付き合うのかっていうのが8回プラス最終回分が書かれてまして、
あとはブックレビューみたいなのがついてます。
著者は一応ミステリーも書くので、実践編としてミステリー論みたいなのが語られています。
特殊設定ミステリーの話。
結構この辺もミステリー好きとしては面白かったんですけども。
理系といえば、理系の料理を書かれた著者が今ここにいるわけですけども。
おー、俺理系の人だった、そういえば。
その意味で多分この2冊、おそらくこの言語化するための小説志向はゴリコさん読まれたと思うんですけど、
この理系の読み方も多分ゴリコさん面白く読むんじゃないかなとちょっと個人的な予想しておりまして、
著者の小説自身は好み好まないがあると思うんですけど、
この本自体はゴリコさんがむしろどう読むのかがちょっと個人的には気になってますね。
一応作品を紹介すると、まずその謎を解いてはいけないのは、
本格ミステリーと銘打って、いかにも本格ミステリー表紙なんですけど、
全く本格ミステリーではない感じで始まるというとんでもない作品でして、
問題作っていうのはこういう作品につけるんだろうなという感じなんですけど、
シュタインズゲートって知ってます?
大分好きです。
主人公の岡部隣太郎って言ってるじゃないですか。
あれが探偵ですね。
簡単に言うと。
文体とかも下着みたいな感じ?
基本的に語り口、主人公というか主人公の、本当の主人公は助手の女の子なんですけど、
探偵役の人の喋り方はあれ。
岡林の喋り方。
今だと時代遅れだと思うんだけど。
ただ本人もちょっと苦しいなっていう思いがありながら、
っていうところが見えながらの面白さがあってですね。
真面目に。相方の方はそれに対して全部突っ込むという女の子なんですけど、
面白いのは苦労歴史とか中二病を成人男性の探偵がやり、
相方は女子高生の女の子なんですけど、
その女の子が生まれつきオッドアイなんですね。
片方はカラコンでオッドアイしてるわけです。
もう片方は本当にオッドアイで、しかもそれをいじられるのを嫌がってるわけですね。
片方はそれに憧れてるわけ。
その対比の中で進んでいくっていうのが一つと、
苦労歴史探偵というふうに呼ばれてるんですけど、
中二病の探偵はネットの達人でいろいろなアカウントをハックして中身を見ることで、
本人が暴いてほしくない苦労歴史を暴いて笑いにするという、
かなり逆的な感じなんですけど、
この本を読みながら考えたのは、
苦労歴史って僕らがカジュアルに言いますけど、
苦労歴史もまた歴史なんですよね。気が付くと。
逆とかじゃなくて、その人が刻んできたこっぱずかしい話すらも、
やっぱりその本人の人生の一部なんだなっていうことを、
別にこの本では語られてないんですけど、
読んでるとしみじみそういうことを感じるなっていうふうに、
上巻は読んでたんですけど、下巻から急に本格のセリフが始まりまして、
振り幅がすごいんですけど、
上巻は一応ミステリーになっているってことなんですか?それは。
謎みたいのはあるんですけど、
いわゆるミステリーを読む人が好きな謎解きみたいのは、
ほぼないと思っていいです。ほぼギャグみたいな感じで。
そうか。シュタインズゲートは確かある割といきなり事件は起こるけど、
言ってみればただのギャグっぽいシーンとかが結構あって、
あるところから超本格が加速する。
妄想やったものが本物になっていくっていうのがシュタインズゲートですけど、
基本的にその謎を解いてはいけないのは、
上巻は基本的にミステリーのよくある設定の枠組みを使って、
ギャグっぽいものをするんだなというふうに僕は読んでたんですよ。
下巻に行って、急にほんまにシリアスな話になって、
同じ登場人物なのにシリアスなミステリーが始まりまして、
これちょっとネタバレなのかもしれませんけど、本当に殺人事件が起こってしまう。
それを解くという、本当にミステリーの枠組みで。
極力すれば下巻だけでもミステリーとして成立するかもしれない。
ミステリーだけとして成立するなら、下巻だけ読んでも全然成立すると思います。
最後に読者への挑戦情報というのがあって、
一応深く推理しなくても僕はわかったんですけど、
本格ミステリーになっているほど答えはわかるんで、それはすぐわかったんですけど、
上下に分かれていて、一見ミステリーじゃない作品がミステリーになるということ自体が、
この作品のミステリーなんだなというメタ?
多重構造になっているイメージがある。
これは多分意図的に著者がそうやってるんだろうなとは感じたのと、
花咲かれの方程式というのは同じ著者の本の短編集みたいな感じなんですけど、
本当に全然違いますよ。
同じ人が書いたのかと思うぐらい幻想的と言っていいんじゃないですかね。
幻想的な小説でして。
理系作家と呼ばれる人はもちろんこの2人以外にもいるわけですよね。
パッと思いつくのはたぶん森博史先生かな。
有名どころだとそうなるのか。
あと園長さんかな。
この2人なんですけど、森先生は理系で光学的ですけど、
小説の中身って結構幻想的な感じが多いんですよね。
その路線をさらに突き詰めた感じ。
理系の言葉で描く文学世界なので、
非常にポエミーな感じ、詩的な感じが強い小説で。
あのギャグはどこに入ったんだろうと思うぐらい真面目な作品で、
おそらく著者でないと書けないだろうなという。
理系といったって非常に人間の科学の営みであり、人間の紙面であるんで、
そこには非常に直感とか幻想とかイメージとかが働くと思うんですけど、
それをベースに小説作品を書かれていると。
最近出たばっかりの口文と音楽というのは、もっと普通の文学で。
普通の文学か。
テイストというか、枠組みで言うと青春物語というか、
大学生の音楽系の大学、芸術系の大学で、
特に作曲とかを専攻している男の子と、
口笛吹きのミュージシャンの女の子が出てきまして、
プロの口笛吹きって世の中にいるってことは僕初めて知ったんですけども、
その女の子が口笛というものを一つの楽器として認めさせたいということで、
コンクールに出ると。
口笛を一つの楽器としてオーケストラの一つの楽器として使われるようになるぐらいの形を目指すということで、
音楽的な話を中心としているんですけど、
要するに多分メタファーだと思うんですけど、
口笛っていう主流からは楽器として認められていないもの。
つまり文学から言って暴流と呼ばれているものの、
持っている文学性を再発見する、再構築するっていうことが、
一つメタファーとして語られていると僕は思ったんですけども。
なので、青春ものの枠組み使ってますけど、
基本的には芸術とか作品についての小説かなというふうに読みまして、
ある枠組み、ジャンルの枠組みを意識して使ってるけども、
あえてそれを乗り越える、逸脱するっていうことを書かれる作家でして、
2人、合わせて紹介したこの2人は両方とも、
ジャンルに収まりきらない作家だと多分言えると思うんですけど、
収まりきらなさがどうも角度が違うんですね。
小川さんの場合は、とりあえず自分の思った通りに書いたら、
ジャンルからずれちゃいましたみたいな感じなんですよ。
ジャンルに収まりきらなかったですみたいな感じですけど、
大崎さんの場合は、ジャンルっていうものを深く考えて理解した上で、
それを崩していくという感じで、
同じ枠組みに収まらない作家といっても、これぐらいアプローチが違う点が、
個人的に2つの作家の本を読んでて、面白いかなと。
そこのジャンルとしての付き合い方は、
たぶんこの2人が理系であることが、理系とか理系的な考え方をするところが、
ちょっと関係しているんじゃないかなというところで、
本の紹介はこの裏にして、本編というか第パート2に入りたいと思います。
一応細かく内容を全部は見ていけないので、
僕が気になったことをパッと拾っていくんですけども、
言語化するための小説思考ということで、
英語タイトルがついてるんですけども、
How to put into words what's in my head.
頭の中にあるものをいかにして言葉に置き換えるか、
みたいなことだと思うんですけど、
小説の初文字も知らないんですが、
言語化の方法みたいな感じがするんですけども。
意図的にそういう英語タイトルをわざわざつけてるってことですよね。
でも基本的に本を読むと確かに言語化というよりは、
小説的思考というのが近いかなと思います。
冒頭もいきなりダイレクトに書いてあるんですけど、
文章の価値を決めるのは他者という話がありまして、
文章というのは他の人のため、あるいは作品のために書かれるべきであって、
自分を大きく見せるために書かれるべきではないと。
どんな芸術でも言われることですね。
真剣が書かれてまして、
もちろんその文章というのは自己表現でもあるわけですが、
それと同時にその自己表現に、
他者がどれだけ感心したかという側面を持つと。
これは非常に当たり前のように思われますけど、
そこのことをなぜ強調するのかというと、
著者は小説家以外になれなかったので、小説家になったという話がありまして。
素晴らしい。
満員電車とか無能な上司とか社会的なものがもうどうしても嫌で、
そういう選択肢を全部外していったら、
もう小説家になるしかないという。
つまり初めから小説家になりたかったわけではない。
つまりこういう伝えたいメッセージがあって、
それを伝える手段として小説を書こうと。
どうしても僕はこれをこの小説で世に説いたいというものがあったわけではない。
だから小説家になりたいと思ってたわけじゃないんで。
ひょっとしたこと言えば小説書きたいわけでもないってことですよね。
それはあるかもしれない。
だからそもそも小説ってなんだろうっていうのが、
はっきりした答えを持たないままにある時期に、
例えば3歳頃から小説家になりたいと思って小説を書いてきた人は、
その中からもう小説家のビジョンがあるわけですけども、
そういう道を辿ってないんで、
そもそも小説って何かっていうのがわからないんで、
ずっと考え続けていると。
実際答えがないからこそ色々やってると思うんですけど、
その小説ってなんだろうっていうのを考えながら進めていく、
そのプロセスの話が本章で語られてるんで、
著者曰くこの本はいわゆる創作術の本とは違うかもしれないと。
で、著者が言う創作術の本っていうのは、
三脈構成とか小転結とか、
一行目はカッチにしろとか、
何人連れてこなかったっすね、そういう話はそういえば。
そういうのではなくて、むしろ語る著者が、
どう考えながら、どういうプロセスを辿りながら
どんな言葉っていうのが生み出てくるのか、
ということが中心として語られていると。
これは作家がよく言うんですけど、
僕はあんまり創作術の本は読んでませんって、
色んな作家が言って、
僕はそれ全部本当だと思ってるわけですけども、
そういうのを勉強してきたわけじゃなくて、
著者のありのままの野生の小説思考が本章では語られていると。
1つ目が多分すごく勉強になる第1話の話なんですけど、
小説には法律があるとドドンと。
法律ですね、ローですね。
しかしその小説法っていうのは人によって違うという話で、
小説法っていうのは是非を判断するもので、
例えば、さっき言った本格ミステリーが書かれていると、
謎解きになって、謎を開示して、
実は透明になれるんですっていう解決はダメなわけですね。
特殊設定ですね。
それは初めからそのように書いてくれないと困るっていう判断が働くけど、
それは新しいタイプのミステリーだとか、
これは前衛小説なんですっていう定義なら、
それは成立するわけですよね。
だからある人がある価値判断をするときに、
後ろで働いているプロトコルみたいなものがあって、
それはある程度傾向はあるとは言うものの、
読んだ人にそれぞれによって違うと。
これは感覚的に好みの話なんだろうというようなことなんですけど、
法っていうメタファーを使って説明しているのが秀逸だなと思うんですけど、
法律は改正できるんですよね。
本来は多くの世界では。
実際は著者はそれをやってきているわけですけども、
法律を改正できるから、
それを好みって言うと好みを変えるって言うと、
非常に人格操作的な嫌な感じがするんですけど、
何かがある小説としてあるジャンルとして成立しているかどうかという、
規範性イコール小説法というのは、
完全にいくらでも改正できるわけではないにしろ、
それは現実の法律だってそうですよね。
明日から日本国憲法を全部チャラにして、
一から中のは無理なわけですけど、
部分的に法律っていうのは変えていける。
自分が何かこれをこのように読むということは変えていけるし、
書き手も読み手がこう読むだろうということを見据えて、
つまり読者の小説法に沿って書いていくことが必要で、
自分の法律、つまりここで言うと小説がどうなっているのか知っておくことは、
小説を書く上でも読む上でも役立つはずだという話があって、
これはまさに読むと書くがピタカさんの話なんですけど、
僕らが小説に対して、
例えば怒りを感じたりするときは、
まさに自身の小説法に触れているわけですね。
違反している。
でも結局、たぶんそれはこういうものだとして読めば、
たぶん全然読めるものだ。
少なくとも面白いと思うかどうかは別にしても、
怒りみたいのはたぶんないと思うんですよね。
だからむしろ自分が何かの小説を読んでビビッときたら、
自分の小説法を知るチャンスなんですよね。
そこで初めて、
僕はこういうものを小説だと考えている。
あるいはこういうのは小説だと認めていないという、
その法律を知ることができるし、
もう全然書く人によっては、
それを逆手に取った上で、
いかに読まれるかを意識して書いていく。
そのプロトコルに沿って書いていく。
これは法律なんで、
たぶん時代とともに全然変わっていくものですし、
一人の人間の歴史の中でも変わっていくものという感じがするので、
まずここの小説法の意識というのは、
読み手にも書き手にも面白いかなと思うんですけど、
これ自身が非常に分析的ですよね。
面白いかどうかで済ませるんじゃなくて、
自分がそこに動いているものとか、
あるいは読者が自分の小説に対して何か言うこと、
例えばキャラクターに共感ができないというような感想が出てきた時に。
出てきましたね、その話。
小川さんはそもそもそんな風に小説を読んだことはないから、
そんなこと言われても困るっていう時に、
俺はこれ俺の世界だから、
それを知らん奴は知らんって言うんじゃなくて、
ああそういう小説感というのがあるんだなと知った上で、
じゃあどうしたらいいのかっていうのをステップで考えていく。
その時にもちろん自分の法律を全面的に読者の法律に合わせる必要はないですけど、
かといって何も変えないでいくっていうのは、
たぶんプロの小説家としてやっていくのは難しいので、
こっちを自分の法律を知った上で、読者の法律を知った上で、
どっかこう合わせられる部分っていうのを探していくことで、
読んでもらえる、あるいは価値を読む小説になるんじゃないかなという話が、
たぶん1位の大まかな話なんですけど、
これ正直に限らず、コンテンツビジネスにおいては非常に良いというような話かなと思います。
全てにおいて思うし、
さっき言ったキャラクターに魅力が感じられないとか、
作る側の目線で言って、知らんがなっていう。
まさにそうで、あなたが魅力を感じないわけであってっていう次元の話と、
さっき言った法律でいう、
キャラクターに魅力がないといけないという法律は知らんがなっていうところと2段階あって、
これを読みながら思ってたのは小川さんは、
俺と同じく知らんがなって思うのを、
どうにか折り合いをつける言語化をしているんだなっていう。
そのための言語化思考が、
本編、この本通じてずっと行われていると思うんですけども。
基本的に小説的、小説とは何かとか、小説はいかにして立ち上がっているのかの分析がずっと続くんですけども。
2個目が、将棋AIの話がありまして、
これ僕読みながら非常に共感してたんですけど、
僕テレビで将棋の対戦とか見たことがないんですけど、
最近上の方にAIの状況判断みたいな、
どっちが優先かっていうのが出てくるらしいと。
小説とか文章を書くときに難しいのは、
それが全くないことなんですね。
自分がこの一文を書いたと、
これは自分が表現したいものにプラスになったのかマイナスになったのかが全くわからないと。
そういうのがあったらいいんじゃないかなという話とか、
実際だから自分が目にしたものから、
それを小説に置き換えたらどうなるかっていうことをずっと著者は考えてるんだなという話で。
3個目が、急にベンチャー企業家との対話が始まるんですけど、
それは全く架空の人で、
著者が自分の頭の中で擦られた人との対話なんですけど、
これ僕もよくやるんですよね。
頭の中に見知らぬ誰かとか、
ゴリゴさんバーチャルとかタクさんバーチャルみたいなのが頭の中にいて、
その人の話しかけて一人で応答してるんですよね。
全部自分の中で行われてるはずですけど、
出てくる答えが結構意外だったりするのが面白いんですけど、
脳内にあるイメージを立ち上げて、
その展開を見守りながら思考を進めていくということが結構行われてます。
それを文章の形で起こしていくということがあって、
いくつか面白いティップとそれ以外にもあって、
1個だけ拾うと複線という言葉が嫌いという話がありまして、
なぜ嫌いかというと、みんなが違った意味で使うからだと。
定義が統一されていないことが嫌だという話で、
ここも非常に理屈可能な人だなと思うんですけど、
むしろ例えば哲学なんて、むしろそういうことの宝庫というか、
同じ言葉は全く違うように使ってからかと思考が展開するんだと思うんですけど、
このいろんな人が使うから嫌いということも含めて、
著者はそもそも複線というのはあんまり意識せずに書いていると、
特にプロットを作らずに文章を書いていると述べられてまして、
印象的だったのが、自分が前もって書いてしまったものを物語の途中で、
あれを複線にすればいいんじゃないかなという風に
アイディアを使うという話が出てきまして、
複線を仕込むというよりは、複線を後から見つけるという、
後から複線、泥縄式複線の書き方を紹介されてまして、
僕基本的に小説を書くときはプロットを書かないんですけど、
全く同じように。
タイプが似ているんだ、2人して割と。
だいたい読んで、全部だいたい読みながら、
こいつめんどくさいなと思いながら、
俺と一緒やなと思いながら読んでたんですけども。
で、中盤あたりかな。
自分は小説家なんで、
よく周りの人が小説になるようなアイディアが、
小説にできるアイディアがありますということを、
よくアイディアを持ってこられると。
ただ残念ながらそれを…
これめんどくせえなって毎日思っとるやろ。
だってすげえ覚えましたよ。
ほぼ使えないと、そういうアイディアが。
で、なぜ使えないかには2つのパターンがあると。
1つが専門性が高すぎるということで、
例えば下界の人が知っているニッチなネタっていうのがあったとしても、
小説のネタにはできないと。
逆に専門性を低くして一般性を高くすると、
今度はもう誰でも思いつくチンプのネタになってしまうと。
この両極端の振り幅をアイディアとして持ってこられるから、
使えませんよと。
ここで1人の人間が机の上で頭を抱えて出すことができるアイディアなど、
面白い小説になりようがないと。
つまり100人いたらパッて考えて思いつく、
机上のアイディアっていうのはほとんど似通っていると。
どうするのかっていうところで、
著者の来歴とつながるんですけど、
主題や設定から入ろうとしないと。
こういうことを言いたいとか、
こういうアイディアはどうかっていうところからは入らないと。
そうじゃなくて、これについて書いてみたいなとか、
これしたらどうなるかっていう考えてみたいことから、
物語を始めていくと。
これ結局例えば、
脳内ベンチャー企業との対話っていうのとほとんど同じなんですよね。
同じことですよね。やってることが。
それを例えばエッセイの風に起こすのか、
小説っていう入れ物に入れるのかという違いがあって、
やってることは全てこの脳内であるシチュエーションを立ち上げる、
あとは転がりに任せて、
途中でなんとかオチになるものとか、
伏線として機能するものを見つけて、
小説として仕上げるという過程を取っておられると。
とにかく、
素晴らしい主題とか設定から入ろうとしないんじゃなくて、
転がしてみるっていうところが大切だという話と、
いかに考えるのかっていうところで、
意味ある分析、質の高い分析が必要だということで、
これもよく分かる話だけど、
異世界転生が今流行ってるってことを知ったときに、
じゃあ異世界転生を書こうっていうのは、
ほぼ分析してないか。
分析ではない。
質の低い分析しか行われてないんですけど、
そこでなぜ流行っているのかとか、
どういう要素が引き付けているのかということを考えて、
理解しておくと、
何かアレンジができるんじゃないかなという話で。
この分析とか、
さっきの伏線を見つけるとかっていう視点、
全部同じことだと思うんですけど、
アイデアは生み出すものではなく、
見つけるものであると。
そこにもうすでにあるものをいかにして捉えるか。
つまり視力が問題であると考えているという話がありまして、
いかにその分析を立ち上げるのかにおいて、
先入観とか自分の価値観というのが、
基本的には邪魔になってくると。
小説の感想を聞いた時に知らんがなで終えてしまっては、
それでは進めないわけで。
著者は小説ゾンビって言って、
これは哲学的ゾンビのなぞりなんでしょうけど、
小説ゾンビという価値観があって、
自分が小説に持っている小説法を一旦ゼロにする。
多分これ無知のベールを被る。
薄っぺらい小説などという価値観を
外さないといけないって言ってましたよね。
ありとあらゆる価値観で、
今これが受けているんだという事実からスタートした上で、
何か考えられることを見つけていくっていう
フラットな視点で分析することが大切だと。
それは何かを見出されていないものを見出すためには
必要であるという話。
そのような観点から色々見つけていくと、
著者が自分が人生の中の出来事で、
あ、これって小説っぽいなと見つけて、
そこから小説を書き始めると。
小説っぽいなと感じる出来事を見つけた時に、
自分はなぜこれを小説っぽいんだろうなって思って
分析するっていう人生を送られているらしいんですけど。
だからそういう人生を10年送ったらやっぱり
小説の筋力みたいなのが
何でも小説にできるだろうだって思いますよね。
だからやっぱり語彙力とか言われているものももちろん大切なんですけど、
いわゆる今日記の中で言われている言語化能力っていうのは、
実はこの背景にこの分析があるんですね。
分析があって出てくる言語化であって、
この分析を書いた言語化は、
何の意味もないと言うとちょっとあれですけども、
質は高くない言葉が生まれてしまうというところで、
だからもう徹頭徹尾分析の人だなというところが、
この1冊目の本から感じたところで、
言語化の背景に分析あり、
その分析はその視点、眼差し、
しかも自分の価値観をできるだけ抑えて、
あるのはバカらしいなと思う気持ちはあるけども、
それを一旦抑えて考える視点によって、
視力っていうのが鍛えられていくんだろうなということを感じました。
2冊目が入りますけども、理系の見方ということで、
著者は工学系の大学院におられたということで、
このまま工学に行くという道もあったとは思うんですけども、
小説家になられたと。
小説家と学者っていうのは、
テクストの厳密さについての扱いが全然違う。
それは全然違いますよね。
それは全然違うと思います。
2つ比べたときに、
自分はその厳密さの方は向いてないんだなと自覚して、
小説家の方に価値を切られたということなんですけど、
つまり、初めから小説家を目指していたわけではないというパターンは一緒で、
20歳頃までは教科書以外の本はあんまり読んでいなくて、
10代の頃に読んでいた本がたまたま挙げられてたんですけど、
バトルロワイヤルでしょ。
今会いに行きますでしょ。
五体不満足、だからあなたも生き抜いて、
っていう、いわゆるその時代に
ちょっと売れてた本屋と僕は思うんですけど。
岡田さんが怒りそうな本屋という感じですね。
いわゆる若いミーハー向けの本を読まれてて、
一応、罪と罰だけは読まれてたらしいんですけども、
なぜ読んだかというと、
どう頑張ってもドストエフスキーとトロストイが区別ができなかったので、
どっちかの作品を1個でも読んだら、
区別できるんではないんだろうかチャレンジで読んだらしいんですけど、
当然全然わかりません。
そうだとしても区別できん気がする。
いわゆるそんなに尊覚的な読書家ではなかったという歴史が披露された後で、
唯一1冊だけ、空想科学読本だけがどっぷりハマったと。
流行ってましたね。
何冊も出たもんな。
これは小説でもないし、ノンエフィクションでもない、
微妙な立ち位置な本だと思うんですけど、
ある科学とか数字から立ち上げるイマジネーション、
実際にこうなったらどうなる、
例えばウルトラマンが本当に地球上に存在したら自重でどうなるかみたいな、
そういう話だと思うんですよ。
僕読んだことないからわからないですけど、
そういう話だと思うんですけど、
実際にある数字っていうリアルなものから空想的なものを立ち上げる、
その想像力っていうのに惹かれたというエピソードがありまして、
そういうのは読んでたけども、本学的な読書家ではなかったが、
大学院生になって論文とか専門書を、
自分の学問の専門書を読むようになってきたと。
著者は熱力学とか統計力学とか流体力学の主に扱っておられたようで、
ざっくりそれは構造の学問だと、
ストラクチャーの学問だと。
その構造って何かっていうと、
ある一つの全体を作り上げる、それを構成する各要素の関係性を扱うものが構造の学問だと。
面白いんですけど、その集まり方、
さっきの構造の要素の集まり方を決めるのがポテンシャルという概念で、
ポテンシャルって位置エネルギーとかって浮かべたらそれが等しいと分かりやすいと思うんですけど、
ポテンシャルっていう関数を調べることで、
その構造の特徴がつかめると。
大分理系的な難しい話ですね。
何とか分かったけど。
ある構造を作っている原子が、
仮に100個あったとして、
その1個1個100個の運動方程式を全部解かなくても、
そのポテンシャルの関数をチェックすれば、
その構造がどう振る舞うのかが分かる。
関係を見ることで全体の振る舞いが分かるっていうところが面白いという話から、
小説に行くんですけど。
例えば小説を読むとなれば、1文1文の意味を厳格に読み取っていくというのは当然基本的な読み方です。
しかし一方で小説を構成する各文が、
どのような関係性で結ばれるかに着目することで、
浮かび上がる問題もありますと続くんですね。
面白いのは最後が浮かび上がる答えがあるっていうんじゃないですね。
浮かび上がる問題がある。
つまり1文1文を厳密に見ていくんじゃなくて、
文が構成する関係とか構造を見たときに別の問題が出てくる。
どんな問題かというと、
小説っていうのはなぜ欠けてしまうんだろうかという問題が立ち上がるということなんですね。
なぜ欠けてしまうのかという問題が立ち上がる。
あるいはそうやって書かれたものが、
なぜ小説というものになっているのか。
文の1文1文の意味を厳密に追求するのとは別に、
そこに書かれた全体が僕たちが小説だと認識する何かが起きている。
それは一体何なんだろうなということなんですね。
どういう現象なのか。
そういう問いがあって、その問題を解きたいから、
著者は小説のように書いていると。
実践したりとか読んだりをしているというところで、
非常にここが分析的なアプローチなんですけど、
小川さんとはちょっと違う。
ただし疑問の持ち方は非常に似ている。
両方ともつまり、小説とは何ぞやという意味?
取り組んでおられる。
小説っていうものが前提ではなく、
むしろ説くべき解になっている。
例えばですけど、
近代の小説家に憧れて小説を書こうという人は、
近代の小説を模範として書くと思うんですよね。
そうはなっていないわけですよ。
そうか。
二人ともそういう意味でお手本に習っているわけではない。
ではない。
むしろ自分自身が新しい小説を発明している。
でもって僕が思うに、
小説っていうのはノベルっていうのは新しいという話をどっかしましたけど、
新しい媒体やという話を第何回かにしましたけど、
まさにこれこそが小説なのではないかなとも思いますね。
例えばですけど、
音楽というとロックっていうジャンルがあるわけですけど、
ロックっぽいロックはロックなのかという問いがあるわけですね。
ロックもはやそうではない。
ある種の反抗とかっていう意味で使われるロック精神みたいなのがあった時に、
これをやったときはロックっぽいでしょっていうのは、
ロックマインドではないかなと僕は思うんですけど、
僕はそれはたぶん小説マインドにも同じことが言える。
小説がもし新しいということを意味するんであれば、
小説とは何かを再定義していくことこそがやっぱり小説を書くことだと思うんで、
この2人はたまたま力合ったからかどうなるかわかりませんけど、
それにチャレンジされている2人の作家でして。
デビューまでに長い年月がかかる人間は、
どうしても何か寄りどころが必要として、
新人賞に応募したりとか、あるジャンルに特化したものを書くみたいなことをチャレンジするけども、
さっき言ったように大瀧さんは特定のジャンルを書いていなくて、
ある時期はミスリっぽいものを書いてるし、SFっぽいものを書いてるしみたいな感じで移って来られて、
それをガリバー旅行記のようだと言っておるんですけど、
ガリバー旅行記を読んでないとわからないんですけど、島を移っていくということですね。
いろんな島を探検していく。
いろんな世界のいろんな島に。
いろんな島をっていくっていうそれをイメージされて、
特定のジャンル作家じゃなくて、ジャンルを動いていく作家ということで、
要するにこれも、ジャンルは何ですかって言うと大瀧美人というジャンルを作られている方でして、
本全体の内容も基本的にこのような分析的アプローチが続くんですけど、
一番最初に出てくる小説を解くという話。
解く、ソルブですね。解決するの解く。
小説にはまず謎があるという話がありまして、
ここでいう解くっていうのはどういうものかっていうと、
奇妙にこんがらがったものをすっきりさせるというようなニファンスがあると。
その解く行為において必要なのは、実は問題ではないと。
何が必要かっていうと、奇妙にこんがらがったものがまずベースにあって、
僕たちが問題と読むものは、その奇妙にこんがらがったものを成形して、
解けますよっていう形で出されたものが問題として定義される。
だから、より大きなのは奇妙にこんがらがったもので、
その特殊な形が問題というのが構図として整理されています。
大体のことは複雑な形でそこら辺に転がっていますが、
僕らは普段それに特に注意深く見たりはしません。
しっかりに入っていってもそれを問題として認識することはあまりありませんという話があって、
これは前回の手に負えないを編み直すで紹介した話とたぶん全く同じでして、
僕たちは日常に目に触れる複雑なものをほぼ無視しているので、
複雑でこんがらがったものをなかったことにして進んでいくけど、
そこに注意深く目を向けると、奇妙なものが見えてくると。
その奇妙なものを一つの解くべきものとしてスタートしていく。
そこで書かれるものが一つの小説であると。
当然ミステリーは問題がはっきりしているわけですね。
特にメイタンデからの挑戦みたいなのがあるやつは確実に問題がはっきり提示されていると。
でもそれ以外の小説でもそんなはっきりした質題は行われていないが、
でも何かしの謎みたいなものがある。
ある謎と読んで差し支えないものがそこにはあると。
これ苦手な読書が好きになるゼロからの読書教室っていう読書ザルさんの本を紹介したときにも、
読書感想文を書くときに自らの謎を立てて、それに答えるように書けばいいよという話がしたと思うんですけど、
全く同じ話でして、何か謎があるんですね。
謎っていうのは奇妙にこんがらがったもの。すっきり負に落ちたいもの。
夏目漱石の心を読んだときに、なぜ先生は自殺したんだろうって胸にわだからもりがあるとしたら、
それが奇妙にこんがらがったものであり、小説が持っている謎。
あるいはその説かれるべきものとして立ち上がってくると。
この小説を読くっていうのは、先ほど読書感想文の、つまり読んだ人の話ですけど、読んだ人の話だけじゃないですね。
著者が言うには、しかしある状況を与え、その中で登場人物を動かしていくと、見たことのない奇妙なことが起こります。
小説を読くとは、この奇妙なことを発見し視野に収め、ピントを合わせ、解像度を高めていく行為です。
言い換えると、問題未満だった物事を問題化するために想像力を費やす行為です。
そして面白いことに、これは作品に対して、作者からではなく、読者からも働きかけることができ、その場合は特に批評と呼ばれたりします。
つまり、読者側からもできるし、著者側からもできる。
著者側からする時も、あるシチュエーションを思い浮かべて、なんか変なことが起こってるなっていうのに進めていくと、物語が展開して、それが何か解かれるっていうのは、
小川さんの小説の書き方とほぼ同じなんですよね。表現の仕方は違いますし、こんな直接的に書かれていませんけど、
たぶん脳内で行われることが全く同じ。この問題化するというやり方と、小川さんなりの小説の進め方というのはほとんど同じなんですね。
あるプロットでカチカチに締めてどうのこうのというよりは、これって何だろうっていうことを作者自身が思いながら書いていく。
心がその作品の中に興味を向けながら書いていく。だから完成した世界を、モーツァルトってその頭の中に出来上がった音符をただ移していくだけだっていう逸話がありますけど、
そうじゃなくて、一文書いたシチュエーションが立ち上がった、それは次どうなるんだろう、どうなるんだろうかって展開させて書いていくっていうところで、
それを象徴的に合わせるのが最初に出てくる1と2なんですけど、カフカの変身という小説がありまして、短編がありまして、
たぶんご存知だと思うんですけど、変な虫、微妙な虫になって。
毒虫っていう役が定役なのかな、具体的に。
どんな虫かっていう研究があるんですけど。
それすらもある意味でいうと書かれてないというか、想像しないといけないですよね。
そのカフカの先進を最初に著者が読んだ時の感想が、分子シミュレーションみたい。
全然わからん。
分子シミュレーションっていうのは、ある状態、分子の状態を作って、
ある計画が始まって、それがどう時間的に変化していいのかを見ていくものなんですね。
強い非平行状態から無数の衝突を経て、平行状態に遷移する。
つまり、強い非平行状態というのは偏りがある状態。
分子の並びとか偏りがある状態が、いずれかそれが平たくなっていくっていう、
その推移を見ていくっていうのが、分子シミュレーションの一つの使い方としてあった時に、
カフカの変身は、一番最初オープニングでものすごい奇妙な状態が始まりますよね。
そのままでは言ってられないような状況が始まって、物語が非常に進んでいって、
最終的にネタバレになっちゃいますが、主人公はその家族から排出されてしまい、
家族の中ではめでたしめでたしになるという話なんですね。
そんな風だったっけ?
はい、そうなんです。
なんか俺覚えてるのは、会社行かなあかんみたいなことをずっと考えてたっていう印象だった。
序盤ではそうで、妹とか家族が病者があって、
結局徹底的に無視されるんですね。
あんな奴はいないものとして扱われて、やがて死んでしまう。
家族は彼なんかが初めからいなかったかのように平和な家庭に戻り続けますっていう、
胸にぼんやりしたものが残るエピソードなんですけど、
その状態は非常に異常な状態があって、
いろいろ家族と衝突して、何事もなかったように平行状態に移動するっていう、
奇妙な状態が慣らされていく過程として、
著者は見たと。
それを分析シミュレーションみたいに表現して、
そういう分析っていうのは、
分析の過程がありまして、
経営システムですね。経営エコシステムとかの徹底があって、
まずそれが経営が閉じているのか閉鎖経営なのか、開放経営なのかっていう、
閉じた経営か閉鎖経営なのかがまず。
議系ですね。めっちゃ面白いですね。
面白いでしょ。
箱の中は落ち着いているかどうか。
つまり平行状態なのか非平行状態なのか。
箱の中は変化するのかずっと同じなのか、
それとも時間とともに変化していく。
定常化非定常化ってこの3つの系によって、
3つの要素によってその系が分析できると。
その分析に当てはめたときに、さっきの科学科っていうのは、
そういう風に分析できるのっていう風に、
読み方が書いてあって、
そんな風に読むのが、著者なりの読み筋であると。
小説を読むっていうソルブっていうのは、
読書感想の書き方のようなもんだから、
でもそれは、自分がその読んだっていう回を、
これが正しい読み方ですと主張することではないと。
注目しているのは、私はなぜこう読んだのかの、
そのなぜの部分であると。
こう読んだ方じゃなくて、なぜの方なんだと。
このなぜの方はみんな違っているほど面白いと。
個性で読めみたいな言い方になるのかな?
明らかにこの理系的な分析、
特にその分析シミュレーションみたいなっていうのは、
その、著者の歩んできた学歴とか、
学問の履歴とかによって立ち上がってくるものですよね。
そのなぜの部分は、どうしたって個性的にならざるを得ないから、
そこが面白いと。
だから、こう読めっていう、
こう押し付けられると非常に苦しいわけですけど、
あなたどう読みましたかのそのどうの部分、
その本が面白かったかどうかの至るその手前の部分、
そのプロセスの部分は非常にみんな違うし、
その話をしたきっと面白いという話があって、
これは非常に、
例えばブログとか書評記事とか書くときに、
ためらわれる方がいると思うんですけど、
その感想が面白かったかの以前に、
どういうスタンスで読んだのかを提示すると、
その唯一の正解を主張して、
私が正しいんだの争いの手前できっと楽しめると思いますね。
まさか分子シミュレーションみたいに読む人がいるなんて、
僕は思ってもいなかったですけど、
でもこの説明を聞いて確かに一つの理論は立つよなと思ったので。
言われて納得はできた。
そんな風に考えたことはなかったけど。
なかったっていうところがやっぱりいっぱいあって、
その本の読み方って人の頭の中なのでわからないですけど、
だから面白かったとか面白くなかったの、
手前にある話をすると非常に面白いというのが本書の面白い話で、
最後に書きたいこと問題っていうのが上がってきて、
小説を書いてみたいけど書きたいことがないというのが常々疑問だったと。
著者自身も別に書きたいことっていうのは特にないタイプだと。
世間に対して主張したいことはないと。
でもこういう形式の小説を書いてみたいというものがあって、
つまりこう書いたらどうなるんだろうかっていう、
この設定で始めたらどんな風に進んでいくんだろうなっていう意味での書きたいことはあって、
そこで立ち上がってくる意味、
その小説のこれはこういう意味を持ってるみたいなものは書きながら見つけたもので、
事前に用意していた主張ではありませんというところも、
やっぱり岡田さんと一緒なんですね、これは。
だから理系のアプローチ、
この2人だけで代表するのはNが2個しかないからあれなんですけど、
でもこういう物語のライティングの仕方は別に珍しいものではない。
もちろん先に主張があって書くタイプの人もいるとは思うんですけども、
別にそれだけが始まりではない。
面白いのは非常に両者とも分析的、理系的、工学的、エンジニア的なんですけど、
書き方は出たほうがお任せなんですよね。
小説を書くときは出たほうが。
で、僕はもう日頃分析的やから、
出たとこお任せが成立するんだろうなと思います、これは。
これは日頃ちゃんと練習してる人やから、
アドリブの演奏ができるっていうのと多分同じことだと思うんですけど。
型とかをきちんと身につけていて反復をしている。
小説は何か、こういうものが出たら小説的だと言えるとかっていうことをずっと考えてるから、
ある人が出るに任せて書いたものが小説として成立するようになっているというところで。
だからこの部分、一文からただ出まかせに書きゃいいということではなくて、
小説観を探りながら小説とはどうやって成立するんだろうっていうのを、
自身に問いながら考えていく人であれば成立するやり方ではないだろうかというところで。
一応2人とも理系なんですけども、理系的アプローチの濃さで言うと、
明らかに大瀧さんの方が理系工学的なアプローチをされてまして。
本に工学がありますね。思考の根本に工学があるって感じがする。
こっちのやっぱりちょっと人を選ぶかなと。より理系の人でないと受け付けないところはあるかなと思います。
大瀧さんの方がもうちょっと理屈好きの人であれば多分読めると思うんですけど。
でもどちらを読んだとしても出てくるアプローチは似ていまして、
メッセージとか別に無くてもいいとか先に無くてもいい。書きながら見つけたらいい。
伏線でも意味でも書きながら見つけていけばいいし、それは見つけられるものであって。
それは両者支えるのは眼差し、視点、視力の高さでこそあるから。
やっぱり小説家というのはそこを日常的に、小説家というか文章を書く人間は、あるいはコンテンツを生み出す人間は、
そこの視力イコールセンスっていうのをいかに鍛えるのかっていうことが重要だということが分かる2冊でして。
いわゆる純文学大好きっていうのではないアプローチで小説を書く手法というか考え方を教えてくれる2冊だと思います。
めっちゃ人生論にもつながりそうやなっていうまんまですよね。
1個前か2個前のらしささんが言っていた、コメントもらった回のやつですね。
はいはいはいはい。
そう、お気配適当、手に弱いな。結局作る、作るということに目的がなくてもいい。
生きるということに目的がなくてもいいというところまで広げられるような感じがして。
作っていく中で、生きていく中で意味が立ち上がっていく。
あるいは自分がその中で意味を見つけ出すことができるということが一つの教訓というか人生哲学として得られるんじゃないかなと思います。
とりあえず生きてみようっていう話ですよね。
目を凝らして生きてみよう。
とりあえず生きるではダメなんだよね。
分析的に生きてみよう。
この分析はもう非常に広い意味で取ってもらっていいと思います。
いわゆるコンサルタントでやる分析だけじゃなくて、
ほならないについて考えるということを広くしていけばいいんじゃないかなという感じですね。
やっぱりアプローチの一つが結局日記に戻ってくるんじゃねえかっていう気もするし。
日記を書きながら昨日の一日の意味が立ち上がってくるということはあると思いますね。
そこから自分の人生の意味とか人生の主張みたいなものが
やりたいことなんて特になくても見つかるのかもしれない。
そうですね。だから先にヤイヤイ考えすぎるよりは
歩きながら考えるというところがいいかなという感じがしますね。
あれですね。最近のやつはだいぶつながっていることが多いですね。
根底に何かあるんでしょうね。回ごとのつながりみたいなやつも。
ちょっと意識して選んでみましょう。
ちゃんと狙っているからなんですね。俺がだいたい何も考えていないから。
ちゃんと考えていると何も考えていないの間ぐらいです。これも一緒。
やりながら見つけるやつね。
これ次いけそうやなみたいな感じで選んでいる。
これとちょっとつながるかもしれない。そうしたら案外いけるやんって。
意味のネットワークが後付けて出来上がっていくという感じですね。