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2024-06-04 1:03:48

BC091『センスの哲学』

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今回は二人ともが読んだ『センスの哲学』について語ります。

書誌情報&概要

* 著者:千葉雅也

* 出版社:文藝春秋

* 出版日:2024/4/5

単純に言えば、同じ出版社から出ている『勉強の哲学』の後続、より大きな流れで言えば、『勉強の哲学』『現代思想入門』に続く、哲学三部作の三作目として位置づけられます。

私(倉下)とごりゅごさんは二人ともこの三冊を読み、それぞれにしっかり影響を受けております。

ちなみに、本編でカントの三批判書の話題に触れておりますが、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三冊のことで、最後の「判断力」は、感性と悟性を媒介するものであり、本書が芸術と生活を(あるいはセンスとアンチセンスを)結びつけようとする試みと構造的類似性を感じたのでした。

詳しい話は本編をどうぞ。

意味とのどう付き合うか

個人的には、本書は「意味」を巡る冒険であり、その点が作品鑑賞および作品制作に大きな影響を与える内容になっていると感じます。

私たちは(あるいは私たちの認知機構は)「意味」をフィルターとして使います。意味があるものを受容し、意味がないものを排除する。そうでもないないと、この世界には”情報”のもとになるものが多過ぎて対応できません。私たちが、生物として生き残るために必要なものを見極める機能を持っているのは当然のことで、その機能を呼ぶときに「意味」という言葉が使わるわけです。

もちろん、私たち人類は文化的に複雑でややこしいことをやっているので、直接的に生存を左右しないものたちも生成し、そこに同じように「意味」を見出します。そこで価値判断を行っている。

それ自身は悪いことではありませんし、むしろ無ければ生そのものがなりたたないでしょう(ビュリダンのロバ)。「意味なんかないんだ」という逆貼りめいた発言もよく見かけますが、その文自体が一つの「意味」を有しており、また文全体で一つの価値判断を下していることを思えば、私たちが「意味」から逃れられないことがよくわかります。

そのような意味の捕らわれから逃れるために、禅の公案というものがあるのでしょう。言葉を通して思考すると、ぜったいに答えられないといをぶつけることで、自分がそうした「意味」に捕らわれていることを自覚させる。そういう効果があるように思います。

本書でも、「意味なんかなくていいんだ」という極端な主張はなされていません。そもそも、どういう並びであっても、読み手が「意味」を生成してしまうのですから、意味ゼロの状態は作り出せないわけです。一方で、自分が「意味」だと思っているものに必要以上に捕らわれる必要はないことも説かれています。

もっと自由に(つまり、自分が先入観として持っている「意味」に捕らわれることなく)並べていくことを、そしてそれはそれで「あり」と言えることを本書は教えてくれます。

意味と出会い直す

意味フィルターの問題は、それが私たちの認識の門番の役割を果たすことで、「意味がある」ものが認識され、「意味がないもの」は除外される点です。言うまでもなく、そこでの「意味がある」ものとは、真実に属するものではなく、その時点で自分が意味があると思っている(≒判断したもの)ものに過ぎません。つまり、別のものにも「意味がある」と思える可能性はあるわけです。

しかし、意味フィルターが強く働いていると、意味がないものは除外されてしまうわけで、そうなると「意味がない」と思っていたものに新しい意味があることを発見する機会が失われます。だから、意味から半分降りるのです。意味から半分を降りて、形そのものに注目する。全体ではなくディティールに着目する。

そのような見方は、意味フィルターをバイパスする形で対象と出会うことを可能にしてれます。そこから、新しい「意味」の認識が生まれる──可能性がある。私たちは、半分意味から降りることで、意味と出会い直す可能性がある。

そうした行為においては、常に新しい意味生成の準備が為されており、同時に少しメタな視点からの「意味とは何か?」という問いかけが行われています。そうした視点の持ち方は、観賞および制作において重要な役割を果たすことでしょう。

ということを長々と考えてしまうくらいにはグレートな本です。



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サマリー

ブックカタリスト第91回では、「センスの哲学」が取り上げられています。この本は3部作の一環であり、千葉先生の思惑に基づいて構成されています。読者には、すべての本を読むことをおすすめしています。この本は意味の再構築を促し、新しい立ち上げや意味変容を支援し、人間の判断力や意味観を変える提案をしています。また、AIの進化と人間らしさの関係についても考察されています。音楽や漫画などの芸術作品において、同じ作品を何度も楽しむことが意味を持つ一方で、その意味を求める人は少ないと述べています。文章のセンスについて考えながら、人間の持つ自由と制約の関係や、独自の書き方と芸術的行為の関連性についても議論されています。センスとアンチセンスが重なる場所に真の何かがあることを示唆しています。

3部作の一環
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第91回の本日は、『センスの哲学』について語ります。
はい、よろしくお願いします。 はい、お願いします。
今回は、2人とも読んだ回シリーズということで、で、しかも千葉先生の本は2回目かな、勉強の哲学の続いてじゃないですけど、結構回りましたけど、2冊目ということで、
簡単に初始情報だけ語っておくと、文芸春秋から出た本で、4月の5日発売ということで、前月ぐらいに出た、もうちょっとで2ヶ月かつかな、ぐらいの本ですね。
で、千葉雅さんが気に入った方はググってもらったらいいんですけども、一応、同じ文芸春秋から勉強の哲学というのが出てまして、その後に、
高段者現代史書から現代史書入門というのが出てて、で、今回のセンスの哲学が、一応、著者の思惑というか構造の中で、3部作とか3連作になっているということで、
それぞれ独立して読めるんですけど、全部読んでみると、より内容の立体感が高まるんじゃないかなという感じはありますね。
そうですね。1冊目がドストレートに勉強の話で、2冊目はある意味ドストレートに哲学の話。
そうですね。で、現代史書入門という形になってますが、で、実際そのフランス現代史書が語られてますけども、でもまあ一方で千葉先生の考えの下でまとめられているということで、まあ単純な入門書ではなかったという言い方はできると思います。
はい。で、3冊目がセンスの哲学。
はい。ということで、一応、おるこさんも僕もこの3冊とも読んでいると思うんですけども。
そうですね。
どうでしたかね、この本。ざっくりと感想を言うと。
まずですね、一言での感想なんですけど、千葉さんの3作の中で一番大きな影響を受けた。
ああ、そうですか。その実践的なインパクトが大きかった。
そうですね。あの、勉強の哲学…そうだな、順番だな。勉強の哲学、現代思想、入門センスの哲学っていう順番に、より影響を大きく受けている気がする。
影響の階段が強くなってるし、まあだから、逆に言うと読むたびに何か影響を受けてるというかですね、それは。
そうですね。勉強の哲学は振り返ってみると、まあ、あの、なんかね、まだ未熟だったということも踏まえて、結構難しくてね、わからんかった部分がかなり多かったんですよね。
で、現代思想入門になると、今考えたらもう1回変わるのかもしれないんですけど、やっぱね、哲学を学ぼうとした要素が大きかったような気がする。
で、今回のものは結構生活に密着して、何て言うんだろうな、物事の捉え方が大きく変わった。
おー、なるほど。
っていうのが一番印象に残ってて。そういう意味で言うと、少なくとも今年読んだ本で一番影響を受けている本なんじゃないかなって思います。
おー、そうですか。ちなみに僕は勉強の哲学とこの本を読み比べた時に、その実践的な内容もそうですけど、それよりも難しくなかったですか、この本。
あー、そうですね。難しい、難しくないで言うと難しいし、自分が影響を受けているという意味で言うと、言ったら上っ面じゃないかなという言い方もできると思います。
あー、そうか。まあ、それ自身は全然問題ないとか、そういうふうに書かれているというふうな雰囲気もありましてですね。
この本、このポッドキャストを主力に向けて、一回その内容を読書メモでまとめ直そうと取り組んだんですけど、まとめられないんですね、この本って。
結局、この本って、詰まるところ何を言ってんのかっていうのを一言で説明できるかっていうと、これ無理なんですね。
えー、センスが良くなる本。
でも、センスが良くなる本って言ったら、もう、でもそうは言ってもって続く本じゃないですか、これは。
まあまあ、もちろんもちろん。
だから、一言で要約できない本。でもじゃあ、分かりにくいかっていうと、むしろ逆で、ここの話で語られているディティールそのものはすごく分かりやすいし、印象に残るんですよね。
でも、全体として捉えた時に、要約しきれない本になってて。
だから、ここが、結局本書自体が芸術との干渉の仕方として、いわゆるその意味を分かりやすく要約できる意味を求めるんじゃなくて、その細かいディティールに注目するのが良いよということが語られているわけですけど、そういう読み方を可能にする本の書かれ方をされているわけでして。
だから、一般的によし、要約してやろうという読み方をすると、まず歯が立たない本だろうなというふうにはちょっと思いました。
センスの哲学自体が、そのセンスの哲学を理解した上での読み方を可能にする書き方がされているという。
いやだからね、この本はどう理解されるかは分かりませんが、内容と主張の一体という意味でいうと、かなりアクロバティックなことをしている本だなというのが、僕の第一感、第一印象でしたね。
あとはね、最初に3章ぐらい。確か発売日に買って読んでたんですけど、3章か4章ぐらいから、なんかよくわからんってなってきて、もう1回ちゃんとメモを取りながら読んでいたということは覚えていて。
3章4章ぐらいだったかな。分からんことはないというのは、やっぱ分からんことはないっていう感じだったんですけど、でもここまで何だったかよくわからんっていう感じで、もう1回読んだっていうような印象があるかも。
1章2章までは、日常の理解の射程で把握できる内容ですし、まあそう言ってることはわかるんですけど、3章以降からね、その細かいロジックが追い切れてるかというと、読んでてだいぶ怪しいなと思いながらも、でもある種、全然読めてしまうという、その恐ろしい文章の力がこの本にはありますね。
あれですよね。ざっくりとこの本が言ってることが、意味とかに、芸術を見るにあたって意味というものにはさほど意味はないっていうような話で、そうではなくリズムと並べ方みたいな話が出てきた上で、どう並べても勝手に意味を汲み取るって言ってるじゃないですか。
絶対に要約できない本
そうですね、はい。
それ自体がやっぱもう、あの、やっぱ意図的に適当に並べてるというか、どう並んでも大丈夫なんだよって並べてるっていうような印象もあったっていうか。
で、ここでの並べ方っていうのは、いわゆる論文とか分かりやすいビジネス書が提示する分かりやすいロジックに沿って並べられてはいないですけど、じゃあその適当に並べてるかっていうと、もちろんそんなことがあるはずはなくて、非常に深い感性のもとで、この本の承諾もおそらくは並べられてまして。
で、おそらく例えば僕の手元に同じ資料、ドキュメント、アイディアがあったとしても、このような並べ方には絶対にならなかったとはなということだけは確信できる並べ方。まあ、承諾になってて。まあ、それももうセンスに裏打ちされた並べ方で。
で、承諾を見ていても、例えばセンスとは何かっていう定義そのものが1章2章3章と続けるうちに、バージョンアップというか再定義されていくわけですけど、それもなんかより緻密に綿密になるというよりは、この視点から見たらこうだけど、この視点から見たらこうだよね、でも別の視点から見たらこうだよねってある種の言い直しとかパラフレーズによって、その概念の立体感が高まっていくっていうような
書かれ方をしてるんで、で、そのどれが結論というよりは、その視点を変えることで意味が深まっていく広まっていくというそのプロセスそのものがこの本書の体験としてあるんで、だからやっぱりね、要約したところで、なんか全然物足りない内容になってしまうという、まあだから要あの最初から最後まで読むことでないと、そのこの体験が成立しないという意味では非常になんていうかな
いわゆる読書体験っていうのをまざまざと体験できる内容ではないかと思いますね
自分の場合ね、やっぱね、一番ね、生活に密着した範囲で、おお、その通りだって思って、まずやっぱ、表紙にも出てくる絵があるじゃないですか、これがその何がいいのっていうのはドストレートに、なんかね、読んでいてね、そんなもんでいいんだってまず思ったんですよね
なんかここになんかこういう黒いのがあって、黒いのがちょっとビヨーンって伸びてて、文字が書いてあって、意図的に文字は手書きだったりして、こういう細かい、なんか言ったらなんですけど、黒がかっこいいでもう芸術感情としてオッケーって言ってるわけじゃないですか
そうですね。あの、そういうふうに考えたことがなかったっていう。まあ、そうでしょうね、きっとね。結局ね、自分が人生においてほとんどあらゆるものに対してやたらと意味を求めて意味がわからないものは面白くないものだというニュアンスを感じ取っていたんですよね。ニュアンスっていうか感覚っていうのかな。なんかね、かつてね、友達がなんかちょっとディティールを覚えてないんですけど
なんとかっていう映画のファーって明るくなるところがかっこよかったみたいな話をしていて、こいつは何を言っているんだぐらいに思ってたんですよね。でもその映画も同じで、要するになんか、そういうシーンが印象に残っていれば、それは芸術感情としてオッケーなんだという感覚
それをやっぱり全く持って考えたこともなかった。
おそらくですけど、本書がこの話を提示しているようにそういうふうに理解している人が結構一般に多いということなんでしょうね、きっと。
たぶんそうなんでしょうね。やっぱその物語というもの、例えばその映画とか小説というフォーマットにおいて、なんか物語がなくても大丈夫なんだとか。
まあ純文学って言ってみたら正直、今までもずっと、「で?」って思ってたんですよ。何が面白いんだ。何も起こらんやんみたいな話だったりとか、映画でそのアクション映画ってただドカンドカンしてるだけで何が面白いの?みたいなことを思っていたりとか。
そこに全て意味がなくてよかったというところと同時に気づいてしまったんですけど、自分が音楽を聴くときには一切意味を求めていなかったことを思い出すんですよね。
そこがね、なかなか不思議なところですね。本書でも意味がないっていう意味なしに体験できるもの、しやすいものとしにくいものっていうのがあって、物語とかに文字で書かれたものはやっぱり最初に意味を求めてしがいがちというようなことが言及がありましたが。
だから音楽、絵画、文章の順でどうしても意味濃度が濃くちゃうな。人間が意味を求める度合いが多分高くなるんでしょうね、これは。
求めやすくなるんでしょうね。 音楽はもうだっていきなり耳に入ってきて、その音の強さとかあるいはその単調とか長調だけで感覚を刺激するわけじゃないですか。
つまり意味解釈フィルターを通さずに人の情動に影響を与えるわけやから、このいわゆるそのものそのものという的な形からの干渉をしやすい、
音楽の意味と感覚
そういう練習の場として音楽はあるんでしょうね、きっと。
たとえば音楽にしても歌が入っている音楽って、この歌詞が素敵だとか、西野カナ歌詞とかは超有名じゃないですか。
曲論、あれは詩で売れているというか、曲論というかわかんないけど、少なくとも詩が重要な要素を占めていると感じる人は多数いるし、
ジャスラックでも作詞と作曲の両方にやっぱりクレジットが入るんですよね、ということは社会で言うと同等レベルのものだと認めているってことじゃないですか。
ただ自分は何の意味もないというか、何の興味もないという言い方が正しいのかな、歌詞というものに対して。
それがどんなメッセージを持っているか意味を返さないという感じ?
そうですね、たとえば基本的に英語の曲というか洋楽が好きだったんですけど、たぶんその理由の一つも歌詞なんかわからんくっていいとかがあったと思うし。
たとえば中学生の頃は洋ロックとかを僕もよく聴いてたわけですけど、たとえばMr.Bigの曲の歌詞なんて、曲聴いてても1ミリタイトルもわからんわけですが、まあでもそれはかっこいいが成立しますからね、全然。
あとね、その頃のロックとかの話で言うと60年代から90年代ぐらいまで、特にロックと呼ばれるジャンルの歌詞ってくっそしょうもないものが多かったりするので。
まあそうだね。
王様とかが流行ってたのもまさにそうですよね。
はいはいはい。
深紫の人たちが、なんか俺たちは湖に行ったら火事があったって、そんだけの歌詞だったみたいな。
確かに。
意味の再構築
なんかそういう、だからかっこいい、めっちゃかっこいいのにしょうもないことで、むしろひょっとしたらなんだけど意味なんて知ってしまったらかっこよくなくなるかもしれないと思っていたのかもしれない。
だからある種の言葉の意味性みたいなものから、距離を置けるからこそ洋楽のかっこよさがキープされていたみたいな。
っていう可能性もなんかちょっと今になって思うようになった。
なるほどね、なるほど。
で、そういう楽しみ方ができるなら、あらゆるジャンルがそう楽しめるんだと思えるようになって。
うーん、だから音楽で言うとギターの音のサウンドとかやし、絵画やったらその色使いとかポーズそのもので、「おお!」ってなれるっていう感傷の仕方ってことね。
そうですね。あと、それでいいんだって脳内にインストールされたら、単純なのかね、それでオッケーになれてしまった。
うーん、なるほど。
で、この前のちょうどそのタイミングで、ネットフリックスの3体とかを見ていて、
3体で視覚的に印象に残るシーンみたいなところがあったりして、ワイヤーを引っ張って倒すやつ。
そういうのとかも、なんていうんだろうな、これを映像で表現するとどうなるんだろうという、それって意味としてはあんまり意味じゃないものですよね。
弱い意味やね、それは。
っていうものに興味を持って映像を見ることができた。
はいはい。
それってたぶん今までの自分だったら、極論映画って全部知ってるで終わってしまうんですよね、小説読んでたら。
ああ、なるほど。
が、映像にすることで視覚的にビジュアルとして楽しむという行為を知ることができた。
ほう。
それはね、その後、見終わってないんですけど、Amazonプライムでそのフォーアウトとかもちょっと見たりしたときに、やっぱ思って、物語どうでもいいと思ったら結構どうでもいいぞって気が付けて。
はいはいはいはい。
フォーアウトの場合は、この世界観が映像になっているという、それだけで別に結構いいんだって思ったり。
ああ、なるほどね。
そこからね、やっぱ楽しみが広がった。人生全般の。
まあ、だからこう、どう言ってんかな。
これ、例えばその、ビフォーアフターで言うと、ビフォーオノゴリゴさんで言うと、これって何の意味があんのっていう問いかけが消えて、
自らでその面白さを見つけ出せるようになったという言い方でいいと思いますけど。
うんうんうん。
だから本社は、センスの哲学って言って、センスが良くなる本ではあるんですけど、やっぱりね、これ意味論なんですね。意味に関する。
意味って何だろうっていうことを、再構築する本で。で、これに意味がある、これが意味がないっていうのは、判断なわけですね。判断。
だからその判断、関東の3番目の本の判断力批判っていうのがあるわけですけど。
あ、関東の3批判書になぞらえてましたね、この本も。
まさに3つ目の判断というところが、意味っていう。その判断を規定となっているものがセンスとして定義されている。
で、この判断と意味が密接に絡まり合うわけですけど、やっぱり意味を、これって意味があるのっていう問いっていうのは、
自分の中に意味基準フィルターっていうのがあって、そのフィルターに引っかかるかどうかで見ているわけですね、物事っていうのを。
で、本書のその形に注目しなさいっていうのは、意味がいらないということよりは、書きかっこつきの意味。
つまり、あなたが意味だと思っているものというフィルターを一回外してみましょうよと。
で、細部を見つめることによって、自分が普段発揮させている意味フィルターを取り除いて物事を見ることができる。
そうすると、そのディティールから新しい意味を立ち上げることが。
その新しい意味っていうのは、その爆破シーンかっこいいとかも、結局それは意味なわけですね。
意味の判断と影響
そういう意味があり得るという意味の再構築というか、新しい立ち上げっていう感じかな、を支援してくれる本なんで。
やっぱりこれは判断力に関する、そのカントの本と同じことをしているなというのを聞きながら思いましたね。
そうですね。なんかね、やっぱり世界に対する改造力が上がったっていうのが一番でかいのかな。
意味だと思っているものしか意味がないと思っていた?
いや、だから、そこはねじれ構造。自分が意味があると思っているものしか見ないんだよね、人間っていうのは。
ああ、そうですよね。結局都合のいいものしか見てなかったっていう風に言えるかもな。
で、その情報処理の仕方を変えるときに、意味フィルターを外しましょうっていう否定の仕方では無理で、
むしろ形を見ましょうっていう肯定の促ししか多分意味変容っていうのは起こらないから、そのフォーマリズムを本書では進めてますけど。
後半あたり、やっぱり形だけあればいいという話ではなくて、意味も大切だっていうのが中盤あたりで出てくるんですけど。
結局、人はどう見ても意味を立ち上げてしまうわけですから、その立ち上げ方そのものを、その立ち上げるアプリケーションそのものをアップデートというか、違う種類のアプリケーションを導入してみたらどうですかと提案している本で。
で、それはさっき五郎さんが言ってましたけど、日常生活の全般に渡って僕らは何か意味がある意味がないと判断しながら生きてるわけですから、
いわゆる専門的、プロフェッショナル、芸術的活動等に限らず生きていく上での物事の評価、価値判断、まさに判断っていうことを変える内容になってるのは思いますけど。
AIの進化と人間らしさ
やっぱりここまで含めても、やっぱりこの本って表現が難しいですね。何が書かれてたのかっていうところをくっきりクリアに言い切れない。
常に本の書き方でも、「これはこうです。」って書いた後に、「でもこういう部分もありますよ。」って補足が断続的に入るんですけど。
そこで常に複雑さが担保されるその文体で書かれている。だから、内容的にすごく難しいのにここまで読みやすいのはなぜなのかっていうのが、僕の中の一つの大きな命題ですね、これは。
うーん、そうか。俺はあれですね、もっとシンプルに読んでいたっていう印象だな。
へー、そうか。俺はこんなに、こんなに、今で言うと、こんなにもったいないことをしていたんだなって。別にそれはネガティブに感じるわけではないんですけど。
そうか。こんなことでも楽しめるのかっていう意味で、楽しめることも広がった気がするし。
あー、なるほど。だからその、例えばですけど、そのゴリラさんの見方って、本の内容に関する見方じゃないですか。つまり意味の見方ですね。
そうですね、意味ですね。
で、僕はまず文章を見るときに、まず文体を見るんですね。内容じゃなくて、どんな語り口を使っているのかっていう。で、どんな章立てをしているのかっていうのと、それぞれの章にどれくらいのボリュームがあるのかっていうのをまず見るわけですね。
そうすると、この本章も、大体ね、4章、5章あたりが30ページくらい、30ページ超えくらいちょっと長くて、で、その前後の章が20ページ前後なんですね。だから、中盤にかけて話がちょっと盛り上がっていって、で、また下がっていくっていう構造になってるなっていうところからまず見ますね。これ、形を見るという感じですね。
そうですね。4、5が実際、たぶん一番主題になってそうな話で、6にかけて、もっとレベルが上がっていくというか、収束していく感じはある。
しかも、難しい内容になってるのに、文量が短くなってるんですよ。解説の。だからね、ロジックの飛躍というんじゃないですけど、文章の速度で言うと同じように流れてますけど、実際の内容の説明の速度で言うとギアが2段階ぐらいここから上がってますね。7章8章ぐらいがすごいですよ、ここ。
そうですね。6ぐらいから、6章の人間に生物学的なものをベースにした規範があるみたいな話があって、それは非常に面白いというか、感銘を受けて。だから、要するに意味が大事なのも、意味だと思っているものが大事なのも、生物が生き残るために大事な本能みたいなのがあって、
その規範があるから、みんなが面白いと思うものがあるとか、みんなが面白くないと思うものがあるみたいなやつ。芸術が何やってもいいに対するそこの生物学的な、ちょっとアカデミックじゃないや、サイエンス的な観点での人間の分析みたいなやつがだいぶ面白くって。
- なるほど。作品の最終性っていうことはよく批判されるわけですけど、最終性っていうのが生物的な制約に基づく意味付けっていうことと、多分こうするんでしょうね、きっと。
- うん、そう。だから、なんていうんだろうな。つまんねえっていうやつと、つまんないという評価の仕方もちょっと変わったっていうのかな。
- なるほどね。- 生物学的にすっきりしやすいものというものが、つまんないじゃないんだけど、売れるものなんだっていう考え方。
- なるほど。- だから、売れるものを考えるときに、生物学的な観点みたいなのも言えるし、もちろん文化とかいろんな歴史とかはあるんだけど、
その、やっぱ全く意味がわからんと感じるものが全然売れないことはすげえ想像できるし。
- そうだよね。で、例えばある種、自分のこだわり的なものを盛り込めば盛り込むほど、売れなくなっていくわね、単純に考えると。
- でも、超単純なものが売れないというのも、やっぱりそうだよねっていう。美と崇高の話とかも出てきましたけど、やっぱその美では人類はもうつまらんと感じるようになってきてるわけじゃないですか。
- まあその、整った美っていうのはいくらでもAIで生成されてしまうわけですからね、簡単に言うなら。
で、これからはその崇高の時代が訪れるというと、美術世界がもう1回その美と崇高みたいな概念が復活してくるのかもしれない?
- ああ、その崇高っていうのは、ある種そのAIが用いない死と密接に関係した、ある種の怖さと恐れを含んだものってことかな、要するに。
意味の求め方と物語
- そうですね。ちょうど同じぐらいの時期に近代美学入門みたいなものを読んでいて、その西洋はやっぱ、自然というものを怖いというよりはたぶん気持ち悪いものみたいな印象で見てたのかなっていう。
- 支配しきれないからこそ、理性で制御できないからこそって感じなのかな。
- じゃないですかね。が、グランドツアーっていう、イタリア行って帰ってくる修学旅行みたいなことをするようになったら、山って案外かっこいいぞって思うようになって、その山というものをかっこいいと感じられるようになった。
で、これが今のAIと似てるところがあるような気がして。なんか怖いって感じるじゃないですか、多くの人が。なんか気持ち悪いと感じる。とはいえ、たぶん今後数年以内にほとんどの人は一定程度そこに触れるわけで、そういうものを触ってみたことで、
- なんか案外かっこいいぞとか、かっこいいと感じるものがめちゃくちゃ大きく変わりうる。
- うん、そうだよね、確かに。
- で、美と崇高に近い歴史の繰り返し方っていうのかな。
- はいはいはいはい。
- ただバランスが取れていて、調和されたものが良いと感じる時代というのは、おそらくもう一回その大きな観点で終わる時が来て、さらなる、なんていうんだろうな、人間らしさなんじゃないかなってちょっと思うんですけど、
その人間らしさみたいなものをどう取り入れていくかみたいなところに、芸術的とか、あと多分商業的な意味でも、なんか価値が高まっていくんじゃないのか。
- まああとその人間らしさをどう抽出するかよね。
- うん、そこはね、そんな簡単に答えが出るもんではもちろんないですからね。
- まあでも本書にあるように、やっぱりAIそのものは欲望を持たない。逆に言うと、僕らが欲望を持つのは生物だからですよね。生き残るためにそのDNAを組み込まれている。だからそのある人の欲望性みたいなものが、商業的価値とか芸術的価値に、つらーというか昔から芸術はそうやったわけで。
芸術作品の楽しみ方
- 個人の欲望が、ある原点回帰というか、よりクリアーになってくる。その偽行とかを一回置いといて、当人の欲望性そのものが現れてくるとして、再定義されていくかもしれないね。
- そうですね、ますます偽行がいらんくなるっていうのは、たぶんほぼ間違いない話ですからね。音楽作るのもなんかついにAIで音楽作れるようになってしまい。
- あとはもう細かいアレンジメントが残ってるとか、最初の主題をどう決めるかのその2つぐらいよね、要するに。
- ほぼ並べ方になるんじゃないですかね、それで言うと。
- あーなるほどね。
- 言ったら曲、どういう順番で並べるかとか、どこに何を持ってくるかだけになってきて、そこをかっこよく演奏するというものが、もちろん無くなりゃしないんだけど、主流ではなくなってくる。
- そうやな、特にインターネットとかでコンテンツだけが流通するという、リアルを介しない場合、並べ方だけで決まる。
並べ方だけで決まるというか、リアルの場も、例えばそのコンサートのセットリストは並べ方ですし、空間をどう使うかも並べ方ですから、結局並べ方の問題から離れることはできないにしろ、
あるクリエーション、コンテンツのクリエーションというものがどう並べるかだけで、ある程度は出来上がってしまう。
例えばその文章の執筆ということで同じことが叶うのかどうかは、ちょっと僕にはわからないんですが。
絵画と音楽にできるんやったら、文学にもできるかな、現実的に言うと。
- チャットGPTにサポートして書いてもらったみたいな人は出てきてますよね。
- 結局同じだと思うんですよね。音楽だってチャットGPTにサポートして作ってもらってるんだし、絵にしたってサポートして書いてて、100%そのままで出している人は、少なくとも今のところ、作品としてそんなものはまだ今のところないと思うし。
でもやっぱりプロンプトをどう書けるかということが、芸術の能力になってくる可能性もあるし。
- だから、並べる素材をどう切り出すかっていう問題が別途残るよね、きっと。
- その辺りですよね。
- 音楽だったら素材集みたいなのがあるわけですけど、当然のように。文章の場合は素材集を並べ替えて作ったものは表説でしかないわけですから。
だから、変な話、普段のメモ作りが断片集を作っている大元なわけですから、知的生産においては、その部分部分っていうのはどう作っていくかっていうことと、それを並べ替えてどうプロトコルにするのかっていう2つの工程が重要になってくる。
正直、文章力とか文体の華麗さみたいなものは、ほとんどどれでも良くなっていくだろうなと思いますけどね。
- 多くの人にとって重要ではなくなっていくであろう。
- あと何なら、ランダムから直していくみたいなのが芸術みたいな言い方もしていたので、素材をちゃんとGPTに丸投げして、何か文章を書いてっていう中から、いかに面白いものを選んでくるか。
- っていうことはあるね。それは一つ。そのほうが開かれたやり方。ある特性の才能に由来しない知的生産の方法ではあるね、きっと。
- 生産っていう概念がだいぶ変わるんでしょうね。言葉としてちょっとニュアンスが変わってくるような気がする。
- そうだね。そもそも実際、知的生産って言われてるものも、極量並べ替えでしかないわけだから。
- まあね。そこを頭を使った感じがして並べ替えているのか、チャットGPTでコンピュータリソースを使って並べ替えているのか。
- だから、例えば昔の人は原稿用紙にリニアで書くことを、書く内容を頭の中でそーっと並べかアレンジしてたわ。
で、今の現代の僕らは、例えばアウトライナーというツールを使うことで、外部的な情報装置を使って入れ替えをして文章を書くということができるようになってる。
そうすると、もう一段階先にさらにコンピューターアシストが進んだ知的生産の方法っていうのが回ってる。
でもやっぱり、どこかで自分の頭のフィルターを通して、最終的にこう並べるというのを決める。
しかもそれはもう、恣意的で何の外的な基準も持たず、俺はこれがいいと思ったからっていうものがベースになる並べ方っていうことをしていくってところだけは避けられないでしょうね、きっと。
この辺りのヒントというかが、やっぱり6章以降ぐらいなのかなっていう感じで、下手と下手馬の違いがモデルに対して届かないのと余っているのみたいな話もすごい面白くて。
そのモデルとの付き合い方っていうのがね、僕は個人的に一番、最初の方に出てきますけど、モデルを横目にした学習みたいな、練習みたいなことが最初の方に出てきますけど、そこが一番響いたというか、こういう説明でいいんかとはちょっと思いましたね。
僕の中でノウハウを研究してる人間としては、やっぱりノウハウをどう付き合うかっていうことがあるわけじゃないですか。
で、基本的にこれまでの日本社会では、モデルを最終的な批判として、それに一歩でも近づけましょうっていう教え方がされてきたわけですけど、それでいうと基本的に僕たちは常に失敗策なわけですから。
モデルより小っちゃいことにしかならないんですよね。
だから、モデルはモデルとして横目に見ながら、あなたの身体勢に任したやり方で作り上げるといいですよという説明が、この本を読んで可能になったなと思いますね。
その、よく言われるピアニスト、クラシックという音楽は楽譜の通りにしか弾いたらいかん、つまらん音楽だよね、みたいな批判とかってよくあると思うんですけど、
それを逆なんだっていう、余っているエネルギーを有限化してモデルに当てはめてやることで、下手馬というかプロになれる、プロの凄さがある。
そこもね、やっぱね、考えたことがなかった。
自分はちなみに一応クラシックとか普通に好きだし、そういう意見を持っているわけではないんですけど、
やっぱりね、そう言われた時に、肩にはまっていて何が面白いんだっていう感想を聞いた時に、それ以上言い返せるものがなかったというか。
あー、なるほどね、なるほど。
そうではないんだっていう言い方ができるんだっていう。
で、実際に面白いのが、クラシックの同じ曲とかを、今だとサブスクで何個でも聴けるじゃないですか。
確かに。
聴いて比べるとね、驚くほど違うんですよね。
まあ、演奏者も違うし、指揮者によっても違うし、そもそもテンポが違うからね、もう。
演奏者によって。
で、そっか、それもでもあれだな、やっぱりその、ただリズムを楽しむみたいなやつだったり、リズムの違いを楽しむみたいな話だったり。
そうだね。
どっちがかっこいいとか、なんか感じられるほどではないんですけど、自分には。
はい。
なんか、そういうのも、やっぱり音楽の楽しみ方みたいなのでも広がったのかもしれない?
ああ、まあそうか。だから意味だけ考えたら、その曲層が違っても同じ曲ということになってしまって、差異が生まれないわけやけど、
その演奏の仕方とかテンポとか、あの作り方を一つの意味として組み込むことができれば、それぞれの曲が違った表現をしていると言えるわけで、楽しむ空間が広がるというのはありますね、これは。
うん、やっぱり同じ演奏を何回でも聴けるし楽しめるし。
まあ、音楽が面白いのが、なんていうんだろう。音楽家が漫画家に対して羨ましいって言われたみたいなのとか、漫画家が音楽家に対して羨ましいって言ってたっていうエピソードが結構面白くって。
ほう。
音楽家は常に新しいのを出しても、昔の曲をやれってずっと言われ続けるんですよね。
でしょうね、きっとね。
で、漫画家は昔の作品を書いていてもダメで、早く新作を出せってずっと言われ続ける。
確かに。
で、お互いその相手が羨ましいみたいな。
なるほど。
確かにね、音楽の話で言うと、やっぱりプロになれるために、特に売れてしまったプロは、1万回とか100万は行かないのか、ずっと同じ曲をやれと言われ続ける。
でしょうね。
で、それを飽きずに続けられないとプロになれないみたいな話を聞いたりもするし、漫画家は逆に新作を出し続けないと生きていけないとも言われるし。
そうだね。
ああ、そうか。だからやっぱりその漫画っていうのはストーリー性を求められるから、そこではやっぱり意味的なものの差異が求められるわけだね、きっと。
多分、漫画というものを多くの人は意味として捉えている。まあそれはそうだよなって思うんだけど。
意味需要の、意味をまさにストーリーそのものを体感するためのメディアやからね。宿命やな、それは。
そう、原画集とかはね、やっぱり一般的には売れないし人気にならないですからね、漫画家が人気になっても。
そうよね。でも逆に言うと原画集を一度買った人は同じ原画集を何回も読んだりするもんね。読むというか見るというかするからね。
で、まあ漫画とかでもね、そうやって考えてみると、やっぱり結構何回でも読んでたりするので、まあ漫画に限らずだけど。
でもあれは多分忘れてるからじゃない?そのストーリーを僕らの脳が。
うーん、まあそういうふうにも言えるか。もう一回ストーリーを楽しむ。
美味しいものの意味
最悪、だからね、その絶対外れないことが分かっているものを読んでるわけ。
だから、あ、数行じゃなくてビッていう感覚があるのかもしれない。
安定系の中で自分がかつて楽しいと感じたという保険の中で再チャレンジしてる感じがするからね、ちょっと。
うーん、だからそうか、そのリアタイの価値みたいなのはやっぱね、高まっていくというか、そういうのはありそうですよね。
確かに。
とか、あのスポーツが人気になってるのも、それで言うとやっぱ数行みたいなのに近くって。
あーまあね、確かに。
あの、何が起こるか分からないから、ひょっとしたらつまんないかもしれないけどとんでもないことが起こるかもしれない?
だからその人間のリスクを求めてる方の欲求を満たす方やね、そっちはだから。
うん、どんなに応援したって勝てない試合は勝てないですからね。
うん、そうやな。
だからでもやっぱり、じゃあそこに意味がないかって言うと意味はあるわけ。それぞれの人の固有の意味があるわけだからね、そういう応援にも。
そうですね。そして結果的にやっぱ物語になっていくんですよね。
最終的にはそれは物語と回収される。これは絶対そうやね。
物語とか意味づけなんか意味がないっていう言説がありますけど、その意味がないっていう言説自体がもう意味づけなので。
僕らは基本的に物語から逃れないんで。だから、いかに自分の中にあるその先入観的な物語から自由になって別の物語を紡げるようになるのかって。
で、それが多分この戦争を良くするという本で、特に序盤戦で大きく語られてることやとは僕は思いますけども。
最初の方で、餃子と絵が同じだっていう言い方をしているからな。モダニズムと餃子は一緒である。
楽しみ方で言うと、リズムっていうものが多層的に流れていくという点で言うと、似たように干渉できるという。
これも何やろうね、著者のエピソードの上手い使い方というか、文章の上手さなんですけど。
そんなとこを結びつけるのって。もちろん全体的に芸術と生活っていうのを結びつけることが最初からテーマにされてて。
それが随所に見られてる。その一番ビビットな部分じゃないですか、それきっと。
そう。で、同じく、これもやっぱり気づいたんですけど、多くの人は美味しいものを食べることに一定程度の欲求があるじゃないですか。生物学的に。
そして、やっぱりそれに意味を求める人は少ないと思うんですよね。
うん、そうだね。その、なんか、崇高な意味は求める。まあ本書で言うと大文字、大意味?大意味?大意味っていうのは求めないね、だいたい。
まあ、もちろんね、例えばこのワインはどこどこで取れて何百年のっていう。そういうのはでき、それはそれで確かに美味しい、楽しむためには重要ではあるんだけど。
意味と優しさ
でも、確かに味、美味しいとか美味しくないとか、そもそもじゃあ美味しくないものを食べる意味みたいな話にもなってくるし。
確かに。
ああ、そっか。やっぱ意味なんていらないし、でもそこに生物学的な規範が入ってくる。
うん。だから意味がいらないわけじゃなくて、意味は違うな、固定的な…違うな、どう言ったらいいんかな。意味はいいねんけど、その、自分があらかじめ持っている意味とは限らないっていうことかな。
うん。表現が難しい。その、何かをやって満腹やったって感じすることも一つの意味やと僕は思うから。
その、通行な意味じゃなくてもいい。で、いろんなちっちゃい意味っていうのを日常の中で見つけることができるっていう、その、やっぱり意味っていう言葉からかぎかっこを外すっていうことが、
たぶん本書で一番大きい、何かな、意義というかな、それを読んでて感じたことかな。その意味っていうのを再構築するっていう、まあ脱構築かな、するっていう感じかな。
うん。で、やっぱね、ベタなんだけどね、人生全部にこれが繋がっているような気がして。
なるほど。
生きることに意味をどこまで求めているのか。私はなぜ生きているのだろう。
はい。
というのも別にその大意味で、世の中に何かインパクトを残すために生きるなんていうことを必ずしも見出す必要はなくて。
見出してもいいけど、見出さなくてもいいね。
そうそう。ロマン主義的な価値観を消してくれるというのかな。
そうだね。でも本書のポイントはね、ロマン主義がダメだという話でもないというところなんだよね。要するにね。意味の見出し方は人それぞれで、で、僕らは大体そのロマン主義的意味に読されているという言い方はちょっと。
でもそうだと思います。
そこを解体して、意味ってもっとバリエーションとかグラデーションがあるよということを言ってくれてる。
意味がないって言ってしまうと自由だけど、やっぱりそれは行き過ぎなところもあるわけで、やっぱり意味ってあるんだよね。意味ってあるんだけど開かれた意味の在り方っていうのがいろんなレベルで論じられてるし、本書を通して読むと、どこかで意味を再発見する機会っていうのを日中の中で見つけられる内容になってるんじゃないかな。
なんかね、飲みすぎて翌日に頭が痛いと、非常に損した感じがするんだけど、それもなんていうんだろうな、大意味としては損をしているのかもしれないんだけど、小意味としてはね、その時に楽しかったからいいじゃんっていう見方もできるわけだし。
で、そうやって頭が痛くなっていることで、何か人生に対して考え方が変わったとしたら、そこにも新たな意味っていうのがあるわけだから。だから、意味って基本的に後から、訂正可能性という意味で、後から意味付けできるという意味で言うと、非常にフレキシブルなものだからね、意味ってのは。
そう、だからなんかね、そうだな、やっぱり心が軽くなるみたいなニュアンスがかなりあるのかな。結構、どうでもいいは違うな。でもやっぱ雑な日本語でどうでもいい感じがするっていうか、どうでもいいと思えるようになったというのか。
だから本書で言うと、意味付けから半分降りるというような言い方をされてましたけど、それに近いね。だから、全部投げ捨てるというわけではないけど、結構な部分、ちょっとポイッと掘れるっていう軽やかさがあるね、なんか。
そうですね、結構ほっとけるし、あとはあれかな。やっぱりモデルを高くに置きすぎないようにできるようになったとかもあるかもしれないな。
そこがやっぱり重要なことだよね。あらゆる実践においてそれは必要なことだと思いますね。
そう、さっきのロマン主義の話とかにつながるんですけど、ロマン主義ってどこまでモデルを高くできるかみたいな価値観じゃないですか。
そういう競争やもんね、それはね。
考える限り素晴らしい人間、人格、生活を想像して、そこを目指して生きていくことが人生の価値であるみたいな。の真逆でいいんだなっていう。
そういうのもアリっていうことね。真逆もアリという感じね。
だからギターを練習することが下手でよくって、プロになれなくてよくって、絵を描くことが別に似てなくてよくって、楽しければよくて、楽しめていたならばそれで十分というのか。
そこにあるとも、第一階層の意味付けはもうそれでOKで、もちろんそこの2階3階でもっと上手くなるとかもあるし、より自分らしい作品っていう階段を登っていくこともできるけど、
ベースラインとして自分がOKと、ある種の充足感を得てたら、もしそれは芸術的行為としてよしって言えるっていう、どきょうの広さ、懐の広さで肯定。
やっぱり肯定の哲学なんだよね。千葉先生のほうはだいたい全部肯定の哲学なんだよ。
そうですね。勉強にしても何にしても、勉強とかはよく誤解されてるけど、キモくなっていいんだって肯定してるんですもんね、あのほうも。
キモくなって、もう一回次に来るなんだけど、来たるべき馬鹿っていう、だからもう頭がいいか馬鹿か、もうどっちかもわからへんようになるという、両方がいいというよりは、よくわからん様が肯定されるという、非常に独特な肯定のスタイルですね、千葉哲学のスタイルは非常に。
千葉先生の本が優しいっていう評価をされるのは、そういう肯定性があるからでしょうね、きっと。
そうですね。内容、書かれている複雑さ難しさみたいなのに言うと優しくはないですもんね。
全然優しくはないけど、その、テンダーという意味での優しさがある。
ああ、そうです。イージーとかそういうソフトにもやっぱりちゃうもんな。
やっぱり包括的、包摂的な肯定してくれるという優しさがあるね。
日本語はそうか、優しいっていう言葉がちょっと雑ですよね。雑というか、意味が取りづらい。
でも不思議やね、そこが同じ言葉で重ねられているということには、なんか独特というか日本的感性があるんでしょうね。
日本の感性なんでしょうね。
うん、まあ優しい感…ああ、そうですね。そういう意味で言えば、やっぱ優しいだから優しいでいい。
その、イージーな方は簡単って言い換えられるけど、テンダーの方の優しいって言い換えにくいよね。
テンダーの方の優しい。そうだなあ。なんかあの、形容詞じゃないけど包容力みたいな言葉をかけるしな。
文章のセンス
そう、そういう感じだね。
それは違う言葉にしてますもんね。
だから優しいは優しいとしか言えないんだなっていうのを今話しながら気づいたね。
うん。ああ、でもイージーの場合ってあれですよね。漢字にすると違うのか。
うん、そうそう、漢字にすると違うね。平仮名で言うと一緒やね。交互で言うとわからない。区別できない。
で、さらに言うと優しいは優れるなんだもんな。
そうそうそう、優れるなんだ。
それはやっぱ、そうやって考えると日本語は美しいですね。
そこにいる多重の意味が込められてるけど、難しいのに優しいっていうものを射程に捉えきれないっていうところがあるね。だから。
うん。まあ何回も読むことなのかなあ。でも何回も読む、そうだなあ。
いやだから、本書通読する必要もあるでしょうけど、一回読んでもね、結構わかるところがあって。
でもね、まず全体がわからなくていいというのが本書のメッセージだから、全体がわからなくていいくて。
あの、どっかでディティールを捕まえて、そのことが頭によぎって、自分のその行動がそれによって判断が変わってしまったとしたら、もう本書の役割は十分果たしてますし。
でね、説明がスピーディーな割に、なんかわかりやすいんだよな。なんでこんなことが整理してるのかわからんけど。
で、なんかね、本筋に関係ない話がちょいちょい出てくるわけ。この本。
で、例えばその、この本はセンスが良くなる本ですって言った後に、まあそれは一応張ったりだとしてって言って補足が入るわけですよね。
で、補足は本筋じゃないわけ。そういう話がちょいちょい出てくるわけ。でもね、全然引っかからないんだよね、そういうの。これ。これすごいなあと思います。
なんか普通、そもそも例えば編集さんがカットするようなとこなんだよ、そういうのって補足的なものっていうのは。
で、でもそれが残ってて、でもそのむしろスピーディーに読めていけるというのは、あの一見簡単に書かれてるし、その言葉遣いも、あのいわゆるその
哲学者が使う難解な用語を極力避けて身近なエピソードを散りばめて書かれてますけど。
文章のその、なんやろな、技術って言うとちょっと大げさやけど、まあセンスかな。
並べ方ですね。
発揮されてるセンスがね、やっぱりその経験に裏打ちされたものだろうなというのは感じますね。
あの、論文みたいな並べ方がやっぱないですもんね。
うん、全くない。
で、その、そうだな。並べ方、どう並べるかっていうので、あの、多分あとは本人も言ってたように、なんて言うんだろう。
途切れてても勝手に意味を見出してくれるということを確信して途切れさせているみたいな。
っていうことだと思うわ。
だから例えば僕やったら、そのAからDに行く時に、A、B、Aですよね、Bですよね、Cですよね、Dですよねっていうところを、
Aですよね、Dですよねって、立ってもう言い切ってしまうところ、そういうスピード感があって。
でも、ちゃんと読めるんだ、それが。
だからね、そのジャンプというか、飛翔というかは、やっぱり一人の文章家としてすごいなと思いますね。
まあ、どんな並び方をしていても意味を見出してくれるので。
という、読者への信頼があるということだと思いますね。
そうだな、文章術としてもやっぱり読めるってことなんだよな。
予測と読み方
まあ、例えば似たようなことを書いている本と比較して読んだ時に、その全く違うものをやってると思うよ。
だから、正直なことで言うと、この本専用にこういう文体が作り出されていると言っても過言ではないぐらい新しい書き方がされていると思うね。
うーん。なんか、自分が書いた文章とかでも、その話で言うと思うのが、なんて言うんだろうな、結構繋がってなくてもいいんだなって自分で思うんですよね。
なるほど、なるほど。
もうちょっとスムーズにした方がいいと思いつつ、なんか見出しが変わったら全然違う話になってて。
あとからまとめて読んでみると、別にこれでいいじゃんって思える感じ。
はいはい、わかるわかるわかる。
それはやっぱ、もうちょっと意図的にそれをできるようになることがちょっと重要かもなと思って。
まあ、文章にスピード感を出す場合は必要でしょうね。で、現代の人たちはそのスピード感が多分必要なので。
その一つの概念について、4ページも5ページも使って論じるような本は現代的ではないわけですから、これぐらいの超役力というかな、そういうので書けたらいいなとは憧れますけどね。なかなか自分ではなせなさそうですね。
まあ、あとそっちの方がかっこいいみたいな言い方もされてるじゃないですか。
まあね。
その予測外のものが出てくるから面白くて、だからやっぱ丁寧に。流れがいいは必ずしもその良い文章ではないというのか。
まあ、どうなんやろ。だから、読みやすい文章ではあると思うよ。その先が予測できるってことは読みやすいとか、読み飛ばせるっていうことかな、どっちかっていうと。
あー、はいはい。あの、そうだな。ビジネス書フォーマットみたいなやつはやっぱそういうことなのかな。
つまり、パラフラフライティングで書かれてる文章っていうのは行頭だけ読んでいけばいいっていうやつやから。それは論理的形式が整ってるから可能である読み方であって。
でもまあだから、それが一番、それが効率的な文章の書き方という言い方もまあもちろんできるわけやけど。
でもそれ全部一行だけでいいってことですもんね。
結局その、ある種のなんか体裁として中が書かれているだけということももちろんあるわけやから。
難しいけど、センスが発揮される文章の書き方ではないなとは思いますけど。
文章のセンスと自由・制約
あー、まあそうか。センスが必要な文章が必要とされるとは限らない。
そうそうそうそう。もちろん形式でっていう形式があって、そこに人間の持つ自由を制約させて、文章をまとめてねっていうのももちろん一つのフォーマットとしてありですから。
それはそれでいいんですけど。そうじゃない書き方もあって、芸術的行為っていうのはどっちかっていうとそうじゃない方ですよね、きっと。
まあでもあれですよね。制約をつけることによって、そこからはみ出させることにより面白さが生まれる。
だから論文の中でも型外れの論文っていうのは、他の人が型通りに書いてるから型外れの論文として面白いわけやからね、そこは。
うーん。まあやっぱりいろんな分野に応用できる話だなっていう。
うーん、そうよね。
それは意味があまり固くないから?
うーん、そうやな。意味が、意味というのが僕らの生活、ちゃうな。知的情報処理にあらゆる場面で出てくるからですよね、意味というのが。
意味が発生しない処理って、今だいたいロボットがやってることですから。だから人間に残される作業は常に意味を介するものになってくる。
ああ、そうか。でも意味自体は生物学的なところから結構生まれるというか、意味を求める行為は生物学的な欲求から結構生まれてきたりもする。
で、2階3階の、より複雑な意味付けが文化によって変わって、文化なし個人によって変わってくる。
だから、すごい太い木があって、上にわーって伸びてるのをイメージしてもらうときに、個人的なもの、一番上の葉っぱ部分。
これは一つの葉っぱがだいたい違う形をしてて、ここでいわゆる最下っていう、個性化っていうのがそこで行われるけど、根っこの部分もいくとだいたいみんな一緒っていう。
だからどこの舞台で勝負するかっていう感じだと思いますけど。
大きな意味で、自分が哲学というジャンルに興味を持ったところが、やっぱりそういう細かい具体的な話じゃないから役に立つ。
それをだいぶ字で言っている本というか。
かといって具体的な話がないわけじゃん。むしろ説明は具体レベルなんだよね。
そうですね、そのラウシェンバーグの絵の見方。
具体的なものを通しての抽象的をどう、そういう思考をどう起こすのかっていうことが実践されてるって感じかな。
ってなるんですかね。例えばこれが美術鑑賞の仕方みたいなタイトルがついてたら、やっぱすごくつまんないと思うので。
美術鑑賞ガイドブックみたいなタイトル。
まあやっぱだからそうだな。そこは人文学的なジャンルというものの面白さなのかな。
まあやっぱりセンスっていうのを持ってきたっていうところでしょうね。ちなみにこれが本で、多分企画の最初は制作の哲学として企画されてた本だと思うんですけど。
別に確かめたわけじゃないけど。それが最終的にセンスに変わった。
センスに変わったことで制作だけじゃなくて鑑賞と制作っていうのを2つつなぐことができたという感じに、勝手に今俺は推測しますけど、そういういい土俵が見つかったんだろうなという予測をしてますけども。
そうですねこれ作る人だけだったらやっぱね、届きにくい人はいるし、作るためには見ないといけないですからね。
その2つの視点、だから作る人の視点から見ることができるようになるということが述べられてますけど、まさにその2つって接続するんですよね。
そうですね。作ってみないとわからんし、作ってみてわかるようになることは無数にあって、作ってみるとやっぱ見れることが増えてくるんですよね。
だからそのものを見るという観点で両者をブリッジしたっていう感じの本で、そこもすごいんですが。
センスとアンチセンスの関係
一番最後にですよ。本書は基本的にセンスを開いていきましょうということを言ってるわけですけど、最後にアンチセンスっていう話に帰ってくるんですけどね。
結局センスをどんどん広げていって、いわゆる啓蒙主義的に自由な感性を持ちましょうっていうところを追求していったとしても、結局その人に残ってしまう、その人が得てきた人生経験によるどうしようもなさみたいなのが、
残ってしまうし、そのことを発見するだろうと。そのセンスとアンチセンスが2つ重なるところに真の何かがあるという感じなのですが、
こういう決着のつけ方、このロジックというか、千葉先生っぽいなというのは最後読んでて思いましたね。
針を振り切らないという感じ。さあセンスに目覚めようというところにはいかないというところが非常に現実的な感じがしますね、これは。
そうですね、いつもそうですね。個人的にはやっぱそういうふうに言わんから、好んで読めるっていうのはすごいあると思うし。
ひねくれ者なので、そんなふうに言われたら嫌だよって思ってしまうし、勝手に目覚めろっていうぐらいの距離感という、勝手に目覚めろでもないんだけど言い方は。
そのセンスに目覚めましょうなんて言われたら、やっぱ反発してやらんだろうなと思うので。
常に微妙なニュアンスを共に発言があるっていうところ。
で、やっぱりアルさんの美的感覚の拡大っていうのは、再現がないわけですね、アルシウスと。
意味を見出そうと思ったら無限に見出せるわけですから、それを言って、純粋理性批判でカントが批判した純粋理性の再現ない暴走に近いことになるわけですね。
それを現実的な生活の、僕らが剥き出して持っている生活感覚と結びつけることによって多分落ち着き、ある一定の幅に収まるという感じ。
この矢印が片方に伸びるけど、別の方向で切り返すという構図。これは勉強の哲学でも出てきた構図なんですけど。
この思考回路を多分ね、千葉さんの本をたくさん読んでると、自然に身につけると思いますよ。極端に。
結論と言うと中央なんやけど、単純にバランスを取った中央というよりは、ある方向にすごく行くんやけど、
行き過ぎないで帰ってくるっていう形の、その中央的バランスの取り方っていうのがね、大体多くの本で見かけますね、この千葉さんの本では。
そうですね。現代思想入門が一番それを強くアピールしていたような印象があるかな。なんで、勉強の哲学で一回振り切って、なぜかキモくなっていいんだって勘違いされてしまったので、
そうじゃなくて、間を取らんとあかんのやでっていう、そういうメッセージみたいなものもあるんかなっていう。
本書でもそこが最後に語られてて。僕らは、センスがいい人になろうっていう意味付けで本を読んでしまうから、そうなってしまうわけですけど。
この本はさっき言ったように、簡単には要約できないように書かれてるから、結局どういうことだったろうっていうことを常に思いながら、でも本書に書かれている具体的なものの見方っていうのを実践していくうちに、なんとなく変わっていくっていうことが期待される本で、
やっぱり、振り返っても非常にコンプレックスな複雑な本だなという感じがしますね、やっぱり。
やっぱね、哲学誌じゃなくてね、哲学の本だなっていう感じですね。考え方が広がったっていうのが一番でかかったかな。
でもやっぱり、実際、ものの見方が変わった。しかも具体的にも、実際、例えばその映画の3体の見方が変わったっていう経験が生まれている時点で、大勝利でしょうね、この本としてはね。
そうですね。もうだいぶ、俺たぶんね、絵描くようになったのもね、練習しようと思ったのも結構きっかけになっていると思うので。
やっぱそのコードが読んだ人が何かしらの芸術的行為を始めてくれたとしたら、著者として一番嬉しいんじゃないですかね。勝手に予想してますけど。
そうですよ。ついに音楽をやり、アートをたしなむ人間になってしまったので。
すごいよね。
音楽はまだ理解できるけど、例えば5,6年前のゴルゴさんを知っている人間からしたら、絵を描くとか手書きで字を書くなんていうのは、どっかで人格が入れ替わったのかと思うくらいの変化やからね。
まあそうですね。やっぱね、学ぶと人はこんなに変わるんですっていう。
そういうことやね。
これは結構マジでね、やっぱ勉強しなかったら絶対ありえなかったことなので。
確かに確かに。
まんま勉強の哲学なんですよね、そうやって考えたらそういえば。
なるほど。
やっぱまるっと別物に変わってしまって。
変身するわけね。
だってなんかアートな人とかって俺からしたらやっぱちょっとキモいので。
そのキモさに自分で近づいていったことで、そのキモさそのものの見え方、つまりキモいということの意味付けが変わるということよね。
そうですね。そんなアートな人なんていうキモい人を乗り越えて、もう一回普通の人に戻ってくるっていう感じ。
まあそういう意味では結構あれですね。だから千葉哲学を実践していると言えるかもしれない。
そういうことやな。そういうことやわ、きっと。
はい、という感じでHook Catalyst、番組を支援していただけるサポーターも募集しておりますので、よかったら概要欄などご覧いただければと思います。
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございます。
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