面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第49回の本日は、物語とどう付き合うかについて語ります。
はい、よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
今回はクラシタの担当ということで、恒例でもないか、2回目の2冊本シリーズということで、2冊の本を取り上げてワンテーマにつなげたいなと思うんですが、
1冊目がストーリーが世界を滅ぼすという本。詳細は後々語りますが、東洋経済から出ている単行本です。
もう1冊が物語の鍵。読むが10倍楽しくなる38のヒントという本で、ユーチューバーのスケザネさんという方が書かれた本で、
片方は社会批評の本で、片方が読書ノウハウの本なんですが、この2つを紐付けて語れたらなと思います。
見るからにジャンルは違うんだけれども、キーワードとしてはどっちも物語。
そうですね。ストーリーないしはストーリーテリングというところがキーワードになっている本ですね。
これはあれですね、こういうふうに本の関連とか見つけて面白がれるんだぞっていうネタとして良さそうだなって感じがしますね。
タイトルが一緒ならヒントも見つけやすいし。
そうですね。一緒といってもストーリーと物語なので微妙に変換が挟まってますが。
副題に物語が入っているからいいんじゃないか。
確かにね。確かにそうだ。
だからミニトピックライティングというかね、読書の面白さっていうのがこの辺から立ち上がってくる。
読書の新しい面白さがこういう関連読みから立ち上がってくるんじゃないかなと思うし。
僕自身もこういう読み方が楽しいと思うので、2回目としてチャレンジしてみたいと思います。
1冊目なんですけど、ストーリーが世界を滅ぼす。物語があなたの脳を操作するというだいぶキャッチーな放題になってるんですけども。
現代がThe Story Paradoxというタイトルなんですね。
なのでだいぶ威厄が入っているんですが、その辺は売り出すためのマーケティングの名前の付け方だろうと思います。
著者がジョナサン・ゴッドシャルという方であまり知らないんですけども、
ワシントン&ジェファーソン大学英語学科特別研究院ということですが、別に英語学の本ではありません。
まだ翻訳されてないんですけど、彼の前の本、店長がThe Storytelling Animalということで、
人間が物語る動物であるということを比較的肯定的な側面から扱った本で、
本社はその続編で、逆に否定的な、否定的というか副作用があるというような観点からストーリーテリングする動物っていうのを語る本になっております。
重要なことじゃないんですが、翻訳者の方の名前を見たことがあるなと思ったら、
ランベターを翻訳しているっぽいです。
つきたに、まきさん。
なんていうんだろう、ブック語りとつながりでもあるわけですね、それで言うと。
確かにね。
スクラップボックスのリンクが赤字になってないから気づかなかったな。
そういうところで、この本は物語あるいはストーリーテリングの危険性について語っている本なんですけども、
この本自身が自覚的にストーリーテリングをしてるんですね。
自覚的にしている。
一つのテーマを徐々に論説していくというよりは、物語の構材ってこういうところがあるよねというのを多角的に語っている本なので、
正立てを追っていったら話が理解できるというタイプの本ではあんまりないです。
そうか、だから構造的に書かれているというよりも、もうちょっと物語的に書かれている?
ようやくしたりとか、例えばその収書だけを読んだら言いたいことがわかるというタイプの本ではないので、
正立てごとに追いかけていくというよりは、本の内容を再構成して重要なところをまとめたいなと思います。
一応正立てを追いかけると、序章が物語のカタリティを絶対に信用するな。
だが私たちは信用してしまう。
第1章がストリーテラーが世界を支配する。
第2章がストリーテリングという闇の芸術。
第3章がストーリーランド対戦。
第4章がニュースなどない。あるのはドラマのみである。
第5章が悪魔は他者ではない。悪魔は私たちだ。
第6章が現実対虚構。
最後の終章が私たちを分断する物語の中で生きに行くという感じで、結構タイトルからでは中身がわかりづらいと思うんですよ。
実際読んでみても、わかりづらいところが。話がとっちらかってるというわけじゃないんですけど、滝に渡ってるので、全体のテーマを章ごとにつかまえるのが結構難しいなという本です。
序章のタイトルを見て、スティーブ・ジョブズを思い浮かべてしまって。
なるほど。
スティーブ・ジョブズって魔法をかけるみたいな。社員たちも夢に落ち、夢に巻き込んでしまうというのかな。
ストーリーテリング力がとてつもなく素晴らしくて、ジョブズがこんな風になったら世界が素晴らしいだろうって言われたら、
社員たちは騙されてしまって、とんでもなくきつい仕事をさせられることになって、今度こそジョブズの無茶には答えないって思うのに、またすごい話をされるとやってしまうみたいなことがありそうだなっていう想像をして。
確かにね。それぐらい物語の力が強いということなんですが、この序章のメッセージというかケークというのは、実は最後で多少反転するというか、実はこういう意味だったんだよっていうある種のトリックが仕込まれてるんですが、
ネタバレになるから言うかどうかわかりませんが、気に留めておくと面白いフレーズですね。
例えばこの本って物語、このストリーテラーとか物語とかは何かっていうのを、例えば一章で定義してそれを使っていくとか言うのではなく、とびとびに物語とは何かみたいな話が出てくるんですね。
定義しているというよりは、例えている物語というのはこういう力があるみたいな例えを随所に出してくるんで、わりかし簡単には言えないんですけど、一応主要なところだけをピックアップして言うと、物語っていうのは何をしているか。
なぜ僕たちが物語というのを語るのかっていうと、なびかせるという、ひらがなでなびかせる。つまり他人の心に影響を与えるために僕たちは物語というのを使っていると。
一番わかりやすいのはさっきも出てきたようにそういうカリスマ的なものとか、あるいはセールスパーソン、ないしは政治家の物語、ストーリーテリングっていうのはわかりやすいですけど、実際もっと日常的なレベルでも僕たちは誰かに何かをしゃべるときに物語の構造なりその語りを使っていると。
それは打算的なものというよりは、社会的協力関係を構築するために使われていると。サピエンス全史のピラミッドを作ったときの話に、僕たちが虚構を信じるからこそ、ああいう偉業が成し遂げられたという話が出てきましたが、さっきのジョブズの話でも一緒ですよね。
だからそういうふうにしてチームを作ることができる。人を動かすことができる。仲間を作ることができるという物語の力があると。
ないものを勝手にみんなで一緒に想像できてしまうようにさせる。
人間の認知をある方向に動かすことができてしまうわけですね。物語というのは。
それが協力するための物語の使い方もあるのと、同時に分断するためにも使えてしまうというところが、この物語の良いところであり、怖いところであると。
そういう両面性を指摘して、本書のタイトルであるThe Story Paradoxという言葉が使われるんですけど、これあんまりピンとこなかったんですけど。
酸素パラドックスっていう言葉があるらしいですね。人間に生きていくためには酸素って必要なんですけど、あれ毒なんですね、すげえ。
酸素がないと死ぬけど、酸素のせいで人間は死ぬんですよね。
どんどん酸化して老化していくし、酸素ばっかりになると逆に死んじゃうと。
つまり、必要不可欠な毒っていうのと同じ力を物語は持っていると。
僕たちは生きていくために物語っていうものが必要だけど、それが多すぎたりとか、その作用の反動によって悪いことも起きてしまう。
そういうのを捉えるのが本書のタイトルのThe Story Paradoxなので、日本語のタイトルだとストーリーを悪くやってるけど、実はそうじゃない。
両面性に焦点を当てているっていうところだけは踏まえておいたほうがいいなと。
タイトルでさっきの酸素の話で言うならば、酸素が世界を滅ぼすって書いてあったら、酸素がないと死ぬけどねっていうツッコミができる。
ストーリーも同じようなことなんですよね。
必ずなんでがある。
透明なナラティブはただ事実があるだけなので、そこには物語的な雰囲気はあっても説明はない。
この説明がさらに、大体の場合、道徳と正義に関係している。
例えば桃太郎は、とりあえず鬼が悪いですよね。
鬼が悪いことをしたから。
【佐藤】説明ないですよね、ちなみに言うと。なんで鬼が悪いのかは。
【おだしょー】でも、確か村を襲ったって話があったのかな。わからないけど。
とりあえず村の財産を取り戻したっていうような結末があるから、鬼に財産を奪われてたんですよね、村が。
だから村に対して悪いことをした鬼が桃太郎という正義によって退治されるっていう、ある種の道徳感をそこで表明していると。
で、浦島太郎は亀を助けたけども、開けてはならない玉の箱を開けちゃった。
開けたならないという禁忌を犯したので老人になっちゃったみたいな感じで。
【佐藤】全ての物語ではないですけど、僕たちが広く受け入れたり、心に浸透させる物語っていうのは、
大体その説明プラス道徳的ないし正義的なものを含んでいると。
【おだしょー】それで言うとあれなんですよね、金太郎って全然残ってなくて。
【佐藤】ああ、確かに。
【おだしょー】あれ予想なんですけどね、何もしてないからなんですよ。
【佐藤】うん、確かに。
【おだしょー】熊と相撲を取っただけで、何も悪いものを倒していなくて、
足柄山で元気な子でした、わんぱくな子でした、以上で終わっていて。
【佐藤】その同じ話はね、地球温暖化の話にも言われてるんですけど、
結局あれは敵がいないんですよね、地球温暖化をどうにかしようっていう時に。
明確な敵がいなくて、具体的な僕たちの行動っていうのがイメージしにくいから、
もっとわかりやすい陰謀論の方を、大衆は受け入れてしまうっていう話があって。
だから物語の中でも、より人の心に訴えかけるものがあって、
それは大体、加工されたナレティブで、
正義と道徳、あるいは人のこうしたらいいんだよっていう行動を起こす壺を押してくれる物語の方が生き残りやすい。
【佐藤】じゃあ、悪徳企業が氷を溶かして地球を海に沈めようとしているみたいに言った方が脅威になりうるかもしれない。
【佐藤】そうですね。そういう人が納得する形で提示した方が脅威にはなるとは思う。
ただ、それが正しいかどうかわからないけど。
【佐藤】正しいとは思えないかな。
【佐藤】結局、そういう物語というある種の構造を作ることで、
僕たちは人間から見たら無秩序な状況に対して一定の秩序を与えることができる。
だから必要なんですね。絶対に。
人間の脳が情報処理する上で何かしらの構造がなければ、
天野案にすることは間違いないわけで、
それが脳の情報効率の階として物語というのが好まれているし、
それは生物学的におそらくそうだろうと。
古来から物語というのは使われてきた。
それこそ狩猟民族の時代から人々は物語を語って、
例えば狩りの知識とか、あそこは危険だよみたいなことを
情報伝達として昔から物語は使っているし、
僕らはそのまま現代人になっていると。
面白い指摘なんですけど、
例えばホラーとかサスペンスの物語を
没頭して読んでいる人の心拍数とかっていうのは
物語と連動するんですね。
当たり前の話かと思うんですけど。
事実じゃなくて、
一つの物語として語る。
何しろテレビがそういうストーリーを語るっていうことによって、
僕らの価値観が醸成されてしまう。
あるいはその価値観を変更できる深さ、
心の深さに物語っていうのは入り込むことができると。
使い方次第といえばもうそれ以上のことはないんですけど、
人の価値観をある方向に運んでしまえる力がある。
その運ばせるっていうのを最初に言った、
なびかせるっていうこと。
物語の力として人の心を動かす力があると。
この話は理性と直感の対立にだいぶ似てますね。
ほぼ同じかもしれないです。
直感的なものは大体物語的っていうことと一つ言ってもいいかもしれません。
ここで一番の根拠のポイントなんですけど、
例えばSNSを僕たちは問題視しますけどよく、
著者が言うにはSNSが問題ではないと。
SNSを流れる物語が悪いんだと。
SNSを流れる物語。
SNSで語られている物語が悪いんだと。
同じように政治家が悪いというよりは、
政治家が語る物語が僕らの価値観を決めてしまう。
あるいは影響を与えてしまう。
負けたが語るファンタジー。
こうしたら成功できますよ、素晴らしい人生が語られますよという、
その語りが僕らの価値観に影響を与える。
つまり、そのようにすればそれが手に入るのだという考えが、
考えに影響されてしまう。
わかりやすい完全懲悪な物語も見たらすっきりしますけど、
それはもういやをなしに、僕たちが世界を見つめる視点も、
完全懲悪にしてしまう。
だから、著者は物語をなくそうという視点ではなく、
どうしたら物語から世界を救えるのかという視点に立って、
本書を書いているというのが一番面白いところです。
どうしたら物語から世界を救えるのか。
物語から世界を追いやったらどうにかなるということじゃなくて、
物語に侵食されているこの世界をどうしたら救えるのかという視点なんですけど、
ここでプラトンが出てくるんですね。
プラトンの国家という本があって、彼との有名な著作の一つなんですけど、
国家ってどんな本かというと、
国を統治するのは哲学王、理性を極めた人ですねきっと。
哲学王に任せりゃいいんだと。
その国では詩人、この詩人というのはストーリーを語る人という意味らしいんですけど、
詩人はもう出ていけと、一人もいらんということをプラトンは言ってるんですね。
頭の良いプラトンですから、おそらくそんなことを言っても完全に追い出すことはできないだろうと。
どうしたらいいかというと、国家が認めた国家に適応するストーリーだけを語る詩人だけはいても良いと言うんですね、プラトンは。
だからプラトンは僕たちが物語によって政治的に不拉致になってしまう可能性を理解するとともに、
その力をうまく扱えば僕たちを導けることも理解してたんですね。
賢いけどなかなか恐ろしい価値観ですよね。
プラトンがもし生きてたら結構あれですし、サイコパスっていうストーリー作品では、
芸術家っていうのが国に認められた人しか活動できないんですけど、
全く同じ話だなと思ったんですね。
だからストーリーをどう扱うかが覇権を握るっていうことをプラトンは理解していて、本書も問題式もそこにあるんですね。
科学と人文学どっちが大切かって話をよく出てくると思うんですけど、
ここまでの話を考えてみたときに、どう考えても人文学なんですね。
科学的な発展っていうのは確かに僕らのテクノロジーのレベルを上げてきますけど、
人をどう動かすか導くかっていうのはむしろ全然力学は人文学にあるわけですね。
物語をどう語るのかという分析にあるわけなんですね。
ここを完全に世界は見守っているし、このまま人文学の力が衰えたままだと、
人の印象に残りやすい物語だけが進んでいくだろうし、
どんなヒントみたいなのってありますか、多義性を意識する。
たとえば多義性っていろいろありますけど、
桃太郎は、普通にさっき言った鬼を退治するって完全調学の物語としても読めますけど、
書かれていないので、たとえば桃太郎の旅立ちと成長の物語としても普通に読めますよね。
おじいさんに拾われた桃太郎が大きくなって旅に出る。
旅立つっていう英雄の物語としても別に読めますし、
あと、鬼ってそんなに悪いことをしたのかなって感想を持つ人もいると思うんですよね。
例えば、暴力は良くないじゃないかっていう見方も多分ありますし、
桃太郎は太郎だから、フェミニズム的にどうなんだという読み方もできると思うんですけど。
あとあれか、きび団子1個で犬猿騎士獲死して、社畜物語でもある。
そういう、この短い時間でもそれぐらいピックアップできて、
道徳的観念が埋め込まれているとはいえ、解釈の幅が広いですし、
広い物語もあるし、狭い物語もあると思うんですけど、
結構読み方っていろいろあるよなっていうことを知っていくのは、
単純に物語を楽しむっていうこともありますし、
さっき言った世界に溢れる物語との付き合い方を一回見直せる。
そうか、考えるきっかけになりそうですね。
物語っていうのは多義的であるっていうことを知るっていうことは、
それぞれの人が解釈していることが違うだろうという、
他者性にもつながってくるんで、これは一つ目に投げられているだけあって、
非常に重要なポイントだと思いますね。
村島太郎なんてね、難しいですからね、話として。
あれ難しいですね。
なんでカメ助けたのに異世界に送り込まれてしまうんだっていう。
その時間は楽しかったけども、その後、彼が悪いんですが。
見知らぬ人についていったらいかんっていう話かもしれないですよね。
いや、言いつけを破ったらいかんじゃないですか、あれはやっぱり。
でも、設定でいうと遥か未来に来ちゃったんでしょう?
一般的な解釈だと。
だと、ちょっと言いつけを破りたくもなるでしょうが。
確かにね。極楽の時間を過ごした代わりに未来に飛ばされるのはちょっとね、
だからあれ、恩に見合ってない例が。
いいことをしたからといって、いいことが返ってくるのは限らない物語にもある。
そうしたら、いじめられてるカメは見過ごそうみたいな教訓も出てこない。
解釈もできますよね。もしくは助けて去っていくのがかっこいいんだぞってことかもしれないし。
だから、確かにそれは言えるかな。
物語っていうのは直接語らず示すっていうことが多いんで。
例えば、登場人物に相手を愛してるとは言わせずに、愛してると思わせる行動を取らせるってことが多いんで。
そこに解釈の幅の余地が普通の説明文よりはるかに広いんで。
物語であるからこそ物語の読み方を乗り越えられる。
既存の読み方を乗り越えられるのが、ある種物語の良さでもあるかなという気がします。
それにさっきの話の関連のストーリー性で言うと、
あと8番、語り手を信用するなというのがありまして。
いいですね。
これはミステリー読んでる方だったらお馴染みだと思うんですけど。
語り手が犯人だとするわけですね。
意図的な情報を隠すとか、ある種のトリックをするためにわざと偏った語りをするとかっていうのが普通にあるわけですね。
ミステリーの読み手はそれにだいたい慣れてるんで、
何を言ってるとか何を言わないとかっていうのを結構読みながら、
つまり、言ったことをそのまま信用してるというよりは、その読み手の奥にある意図を探そうとする。
この読み方こそ、まさに世界に流れるニュースと接するために必要なことなんですね。
あの人はこれがいいと。
ミステリー、役に立つぞっていう。
僕らはこれまでSFっていいよねって話ずっとしてきましたけど、
ミステリーもいいよねって多分言えると思うんですよ、きっと。
著者が巧妙に都合のいいところだけ書いて、都合の悪いところは書かずに騙してくる。
一応種明かしをしてくれるので、騙されてたって気づける。
ミステリーはその場合いいですけども、
現実の場合、例えばポジションドークしてる人が僕はポジションドークしてますとは言わないわけで。
でもその語り手が全てを真実の通り、あるいはあるがままに全部語ってるわけじゃないっていうことを
一番意識させられるジャンルがミステリーなんで、
そういう意味で物語そのものというよりは物語を語る主体を意識して、
主体と読む人の関係性を客観視する。
客観視はできないかもしれないけど、一歩引いた視点で見つめるっていうのが
ミステリーで訓練できるんじゃないかなというふうに思います。
たしかにね、いろんなパターンありますからね。
なんか2人ずっと繋がってると思ったら、1章と2章で違う人が主人公、私になっていたとか。
そういう時の絵っていう感じが多分大切で、
物語を疑う視点、語りを疑う視点っていうのが後から身につくと思うんですよ。
先ほどの生物学的に身につかなくても多分訓練で身につくことってのがたくさんあって、
本の読み手、特に特定のジャンルの読み手っていうのは、
そういう情報処理を身につけてる人が多いから、
そのいわゆる有識者には本を読んでる人がいっぱいいるんじゃないかなというのは、
これはただのザレ事ですけども。
ミステリーでいうと絵がないことが重要ですもんね。
たしかに、たしかに。
映ってしまったらバレてしまいますからね、大抵のやつは。
ミステリーをドラマ化したものとかのカメラのカットの仕方を見るとかも面白いですよね、きっと。
どう見せないかみたいな。
ああいうふうに、さっきここまで2つ言ったような訓練を僕たちはほとんどしてないんですね。
それは結局物語と対峙する力が非常に足腰が弱いままに、
大量の物語と接している状況になっているんじゃないかなと。
これは結構、SNSを見ていると感じることが多いですね。
語り手を信頼するな。
そうですね、SNSで言うならば。
ごく当たり前のことのように感じますけど、別に当たり前じゃないんだなというのは思いますね。
虚構新聞に騙されている人っていうのが世の中には本当にいっぱいいて。
いますね。
アイロニーがわからない、皮肉がわからなかったりするのも結局情報としてだけ受け取っている。
メタな視点が欠けている。
それは結局そういう訓練がないから。
そもそもメタな視点は後から言語を学ぶののさらに1個後ぐらいに身につけるものじゃないかなという気がするんで。
あんまり訓練はされないですね。
絵本を読んでもらうと教科書で文学作品を読むぐらい以降、大学に行かないとテキスト論というのはやらないんじゃないですかね、教養としては。
少なくとも自分は学校でそういうジャンルのことを学んだ記憶はないですね。
だから物語って楽しむぐらいしかコマンドがないパターンが多くて。
楽しみ方にもいろいろあるよねと伝えるのがこの本なんですけど。
僕はこの本をさらに楽しむだけじゃなくて、多分実用的にも意味があるよとさらに読み返すみたいな感じの読み方をしております。
もう一つ二つ挙げると21と22が面白いんですが。
21が二項対立を設定してみようという話。
22が二項対立を打ち破れなんですけど。
例えばさっき言った桃太郎と鬼っていうのを正義と悪として見るのが二項対立ですよね。
これ結構ね、二項対立っていう概念があんまり普及してないというか意識されてないことが多いなというふうにSNSを感じるんですけど。
二項対立って結構普通な概念じゃないですか、A対Bみたいな。
敵を作るとかでいいんかな、簡単に言うなら。
でもね、二項対立っていうのは、二項が対立してないと意味がない。対立っていうのはつまり同じ土俵に乗ってないといけないんですね。
対立ともに立つから、向かい合って。
例えば、連邦軍とジオン軍っていうのは対立してますよね、軍隊として別で。
もちろん連邦の方が強いわけですが、それぞれに正義があるという形になってますよね。
勝った方が正義になるっていう、例えば漢語が表されている物語でもあるんですけど。
二項対立じゃない形の認識っていうのがあって、ゼロイチと言うんですかね。
私が正しい、全てその他は間違ってるみたいな。
ああ、そういうふうになりうる。
そっか、ガンダムの話で言うならば、地球連邦は正しいであって、ジオンは間違っているになるんだ。
ただ間違ってるだけで、ジオン以外に他の軍隊があったとしても全て間違ってる。一緒くたにされてしまってる。
対等になってない?A対Bじゃなくて、まずAがあって、そのA以外は全部ないものとして扱われてしまう?みたいな。
それはやっぱゼータガンダム見ないといけないですよね。
一見、この二項対立の捉え方とAしかないって似てるように思うんですけど、全然違うんですね。
で、どう違うかというと、例えばさっき言った悪として捉えたときに、悪という概念って、
例えば哲学で言うとC的なものでしかないよねっていうふうに考えられたら、鬼にも正義を見出せるかもしれないですね。
でも桃太郎だけが正しいとなっていると、もう鬼は風景になってしまってる?
もうすでに僕の物語が語られているわけですね、要するに。だから逃れられないですね、これはもう。
すべてを多分物語としてしか捉えられなくて、科学での解決方法でいうと、例えば数学を学ぶとかっていう方向になるのか、それを物語ではない理解をしようとすれば。
だから昔の啓蒙主義、理性主義っていうのは、もっと科学的なものに人類を寄せていけば問題解決だと言ったわけですけど、それは結局無理だったわけですね。
啓蒙主義が物語ですもんね。
たしかに。そうやな。で、啓蒙主義2.0では、個人じゃなくて集団にめくばせしようという話になったわけですけど、だからその集団に注目したときに、集団の情報のバイパスになっているのは何かっていうとやっぱり物語なんで。
だから個人はその知識をつけることももちろん大切ですけども、科学の中にある物語も含めて物語的なものをどう扱うのかどう付き合うのかっていう観点から捉え直した方が、もちろんそこの土台が危ういと、どれだけ知識を学んでも多分陰謀論的なものに落ち着いてしまう可能性が高いので。
一般的に工学歴の人が陰謀論にハマりやすいっていうのは多分そういうことですよね。
なんかね、村上春樹さんの小説かエッセイで読んだんですけど、彼は法務系の取材をたくさんされてるんですね。信者とかあるいはその被害に遭われた方とかっていう。
そうなんだ。
で、宗教の中に捉えられてた時っていうのは人がいて、その人が当然その環境は洗脳方向に向いてるわけですけど、春樹さんの小説を隠し持ってたらしいんですね、その人は。
で、よなよなその小説を読んでたおかげで、洗脳されずに済んだっていう話を書かれていて、それどこまで本当かわからないですけど、でも物語の力ってそういうところにあるし、つまり物語に抗えるのは物語しかないっていうのを一つ示す話かなとは思うんですよ。
その一つの方向からしか話を聞かされないと、もう多分その精神力とかそういうものでなんとかなる話じゃないですかね。
で、正しい科学知識を持ってたらそういうのにはまらないっていうわけでもないっていうのはもう別に立証することでもないので、だからむしろ僕たちはどんどん物語っていうのを豊かな物語に触れることをしていった方が良い。
それがその人の価値観とか倫理観とかをおそらくは育ててくれるでしょうし、それはもう人生を楽しむだけじゃなくて、この社会の共同性を保つためにもおそらくは必要なんだろうなと、大げさな話に思いますけど、でもやっぱりそこの差って生きてる中で大きいなとは個人的に思いますね。
おだしょー 物語、そうか、多様な物語、深い物語。インターネットでやっぱ長い物語にはなかなか出会わないですからね、大きな物語っていうのか。
おだしょー そう、ロングストーリー、記事にとっても普通の物語にとってもロングストーリーには出会いにくいけど、でも逆に例えばナロー系とかっていうのがあるじゃないですか。あれ、存外に長いんですよね。
おだしょー なんか20冊ぐらい余裕で続いてたりしますよね。
おだしょー あれ、1回1回の更新が短いんですね、要するに。それが超連続して起こるときに、僕たちはその物語を吸収できる。だから、SNSは流石に長い物語は向かないですけど。
おだしょー 例えば、この物語1時間って結構長いんじゃないですか。他のBotcastに比べれば。だから、不可能ではないと思うんですね。インターネットプラス長い物語っていうのも。ただ、コスパが悪いんですね。ビジネスから見たときに。
おだしょー 物語というのが言ってみたら、コスパが悪いかもしれないですからね。
おだしょー だから、そこの考え方をビジネス的なマインドセットとは別の形で生み出していく。生み出さうというほど強くはなくてもいいですけど、何かが生まれてくるのを期待したいところではありますね。だから、やっぱり本を読もうという話、最終的にはなるんですけど。それは知識を増やすためというよりはという感じが、この2冊を読んで感じたことですね。
おだしょー そうですね。ジャンル。様々なジャンルがありますからね。
おだしょー 一つのジャンルの中でも視点って結構いろいろあるし、SFやったら人類がハッピーエンドで終わる作品もあれば、ディストピアで終わってしまう作品もあるし、科学技術が良いものと捉える作品もあれば、その悪いところを捉える作品もあって。
そういう観点の多様性に触れられるっていうのは、やっぱり小説、つまり楽しんで読めるわけじゃないですか。眠たい抗議じゃなくて。だから、やっぱり物語という形を取ることで容易に摂取できる。しかもその価値観が多様になっていくっていうことができるのが良さじゃないかなという気がしますね。
啓蒙思想2.0とかって本、素晴らしいんですけど、あれ独領できる人はめっちゃ限られてると思うんですよ。かなり分厚いんで。だから理性主義の限界っていうのがあって、どうしても僕らの情報伝達の大半がニュース含めてストーリーになってるっていう点を改めて注意すべきでしょうし。
科学の世界にいる人はやっぱりそのストーリーの重要性を再認識すべきでしょうし。科学者で面白い本を書く人はだいたいストーリーが上手いですね。
おだしょー うん、そうですね。それはもちろん。
サピエンス戦士とかもその代表例じゃないですか。ビッグヒストリーですかね。あれはもう。だから別に小説を書かなくてもいいですけど、物語を楽しむっていうことを再評価できるんじゃないですかね。
だからこのストーリーが世界を滅ぼすを、物語が分かっているやつと分かっていないやつに分断するために用いるのは論士に外れてるんで。
彼が、著者が望みたかったのはそうじゃなくて、ストーリーそのものに目を向けようという話なんで。だからもっとストーリーに注目する。語られる物語そのものであって人を憎まないようにするっていうストーリーを構築できたとしたら、素晴らしいかなと思います。
やっぱ図書館とか行くと、本屋さんに行くと大半が売っている本って物語で。やっぱそんだけ好きなんですよね。人類というものが。
だって映画俳優とか莫大なギャランティーじゃないですか。水道工事してくれるおじさんはローギャランティーじゃないですか。生活の必須っていうことで考えたら明らかにおかしいですよね。
映画俳優はいなくても死なないですからね。
だから大体その虚構とかあるいはスポーツのように、僕らの心に訴えかけるストーリーを作り出す人たちを僕たちの社会では大体大歓迎しているということが本の中にも書かれてましたけど。
それぐらい好きで欠かせない。だからこそ悪さもできるし良いこともできるっていう。この講座を踏まえておく必要はありますね。
物語を使って悪いことをするっていうのは悪いことっていうか、オンラインサロンとか大体そうなんですけど。
主催者の人が何か社会的に意義のあることを言うんですよね。基本的には。言わないのは多分ないんじゃないかな。それをその物語に共感する人がついてくるっていう。
基本的にはそういうふうに人を動かす装置になるからこそ物語の扱いには慎重になる必要がありますし、一人の受信者というか情報の受け手としてその物語体制度を上げておくっていうのが、
たぶん重要な知識を得るとかその前段階に必要な利手らしいというとちょっと固いけど、利手らしいじゃないかなという気がします。
そこで物語を読む鍵。簡単な簡単な答えで言うといっぱい本を読んでいろんな物語を読んでみましょうっていう結論になるっていうのは良いですね。分かりやすさとして。
あと一つの本もいろいろ読めるよっていうパターンもあるよね。たくさん読むっていうのも、たくさん読むのも二つあって、本をたくさん読むのと一冊の本をたくさん読むっていうその平面ちゃうな縦横がありますけど、どっちもいいですねきっと。
だから例えば読書会みたいなやつも一般的に当然なんだけど物語についての読書会が多いというのもそういうところがあるんでしょうね。
おそらくそういうと思います。あれが楽しいのはまさにその多義性に出会えるからでしょうねきっと。
それはねやっぱなんかあの古典とかで、古典文学みたいなやつのなんか読書会とかはやってみてもいいかもしれないですね。
まあ短いのでやったらいけそうですね。
カフカとかかな。
カフカ、あるいはシェイクスピア。そんなに長くない。
とかっていうのはありかもしれないですね。
確かに。
はい、ということで今回はこのぐらいにしたいと思います。
はーい。
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