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BC139『ケアと編集』と『遊びと利他』
2026-05-19 1:07:43

BC139『ケアと編集』と『遊びと利他』

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今回から2冊テーマシリーズを始めます。第一回は、『ケアと編集』『遊びと利他』の二冊を取り上げます。

二冊テーマシリーズとは

“二冊テーマシリーズ”は、一見異なる二冊の本から共通的なものを取り出そうという試みです。読書の醍醐味の一つです。

そうした「取り出し」を行うには、まず本の外側に立つ必要があります。本の中に閉じこめられていると「その本」しか目にはいりません。そうではなく、より広い視野で本を捉え、位置づけること。

ただし、手前勝手に位置づけるのは厳禁です。読むときは本の世界に入り込み、読み終えた後でその外に出て考える。言い換えれば、一人の著者が言わんとしていることを捉え、また別の著者の言わんとしていることを捉え、その二つを呼応させる。そういうアプローチです。

もちろん、誰がどう見ても同じこと言っているよね、という二冊を取り上げても面白みはありません。かといってどれだけ言葉を尽くされてもその二つがつながっていると理解できないものは受容はされないでしょう。

「一見すると」遠いような、しかし読んでみると納得できる程度の距離感を見つけるのが書き手・語り手としての腕の見せ所です。

入れ子状の構造

といったことが、知的に面白いのだよ、と示す為にまさにそういうことを行っている二冊を今回は取り上げました。それが『ケアと編集』と『遊びと利他』です。

タイトルが示すように、それぞれ「ケアと編集」と「遊びと利他」のつながりを示している本です。つまり、一見すると異なるトピックが結び合わされています。

そのような本二冊から共通するテーマを取り出そうとする、という入れ子状の構造になっています。

(文字で書いて説明していても、こんがらがってきますね)

意図・意志・支配・管理・効率……

実際どんな風に語って、要素を取り出しているのかは本編をお聴きいただくとして、重要なのは単一の主体の「思った通りにする」ことの貧しさです。

私がある種の自己啓発に拒否感を覚えるのはこの点で、「思考が現実化する」ことが嬉しいことのように語られることがあるわけですが、自分の思考ってバイアスだらけで、ろくな想像力をしていないわけですから、その通りになるのは現実を「自分の思考の枠組み」に抑えこむのに等しいのです。ぜんぜん嬉しくありませんね。

でもってこれは、強引にたとえるならば、「単一意志の独裁政権」と言えます。独裁政権がヤバイことが直観的に理解できるなら、単一意志の思い通りになる(思い通りにしかなっていない)ことのヤバさもイメージできるかもしれません。

でもって、独裁政権はある観点で言えば、圧倒的に効率が良いのです。だって、トップが決めたら、他の誰も口を挟むことはできません。会議も打ち合わせも根回しも妥協もいらないのです。それが最高効率を実現させるのだとしても、長期的にみてそれでいいと言えるのかどうかはちょっと考えた方がよいでしょう。

管理や効率は、部分的に効いているならばうまく働いてくれます。でも、それが全体を支配し、「それって変じゃないですか」と誰も言わなくなったら、危険度が増します。

倉下は片方では、そのような効率化への工夫を好んでいますが、もう片方ではそのようなものが支配的になることへの警戒感を持っています。



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感想

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サマリー

今回のブックカタリストでは、「二冊テーマシリーズ」の第一回として、『ケアと編集』と『遊びと利他』の二冊を取り上げ、共通するテーマを探求します。単一の主体による「思った通りにする」ことの限界と、効率性や管理が全体を支配することの危険性について考察します。単一意志の独裁政権に例えられるように、効率性は一時的に効果を発揮しても、長期的な視点では問題が生じうることを指摘します。 『ケアと編集』では、編集者の白石氏が、自身の経験を通して編集行為とケアの共通点や、現代社会におけるケアの難しさ、そして「非援助論」という独自のスタンスについて語ります。特に、ソーシャルワーカーの「編集的精神」に触れ、個々の状況に合わせた柔軟なアプローチの重要性を説きます。医療的編集とソーシャルワーク的編集の違いを対比させながら、後者の「ケア」の視点が、個人の関係性を変えることで本質的な変化をもたらすことを示唆します。 一方、『遊びと利他』では、映画研究家の北村氏が、現代の公園における管理化された遊具と、子供たちの本来の遊び方の喪失を問題提起します。リタ(利他)の概念と遊びを結びつけ、偶然性や意図を超えたものとの向き合い方を考察します。管理的な思考が遊びの多様性や子供たちの経験を貧弱にする一方で、個々の「デコボコした部分」を活かす場の提供や、関係性の中での人間のあり方を重視する視点が、現代社会における重要な課題であることを示唆しています。

はじめに:二冊テーマシリーズの紹介
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。 最初にいただいたコメントやお便り等を紹介したいと思います。
はい、お願いします。
たかぴさん、中国思想の基礎知識。 思想と哲学は違う。この2つは似ているように見えるけど、使い分けをしていきたい。
天という概念は、光明盛大なだけに人間に分かる善悪な基準とあるというのが、個人的には面白い。
うん、なるほど。思想と哲学。中国の本では、哲学という言葉を使わずに思想という言葉が使われていたわけですが、もちろん哲学と呼ぶことも可能ではあるわけですが、もともと中国になかったから、そういう思想という言葉を使ったという話だったと思うんですけど。
でも、現代においても思想と哲学は同じではないですよね。
言葉が違うということは、概念は必ず違うってことですからね。
一応、哲学というと、何か物事の根本を問うみたいな雰囲気はありますね。思想にはそこまでの、もっと広範囲な感じがするかな、どっちか。
多分、そのなかった概念、フィロソフィーという言葉から、現代日本、明治の人たち、誰かわからんけどが作って、そういうニュアンスが込められる概念が生まれたっていうことなんだろうなって気がするかな。
でも、西洋の言葉を翻訳したということは、日本で哲学というと、若干西洋哲学というニュアンスがあるという感じがしますね。
だから、中国のものを、そういう意味で言うと哲学と捉えてしまうと、我々の日常感覚とは明確にずれるだろうなっていう感覚はあるかな。
という感じで、今回は倉下さんの番で、テーマ、ケアと編集と遊びとリタ。
はい、タイトル長くなってしまって。
長くないんですけど、あれなんですよね。4個あるから認知負荷が高いんですよね。文字数は多くない。
全部等で連結されているだけなんで。
2冊の本を取り上げるということで、2冊セットシリーズというのをしばらくやっていきたいなと思うんですけど。
複数冊取り上げた回はいくつかあったと思うんですけど、それとちょっと異なる趣りでやっていこうかなというところで。
2冊本があって、それぞれの本から共通的な何かテーマを取り出せたらいいなというのが大きなコンセプトなんですけども。
ケアと編集っていう本と遊びとリタっていう本があるんですよね。
それぞれの2冊の本から共通的なエッセンスを取り出せたらいいかなって、取り出そうとする試み、手術みたいなものを今回でやっていこうかなと思うんですけど。
本の外に立つ読書理論と二冊の選書基準
僕が思うに本を眺める2つの視点というのがありまして、眺めると言ってもいいですし、見つめると言ってもいいですし、語ると言ってもいいんですけど。
本と僕、読者との距離感というか、その関係のあり方が2つあると思いまして。
1つが読書感想文的な視点ということで、これは本、著者が用意した1冊の本という世界の中に飛び込む。
で、その中から本を語る。
著者が作ったこの世界が良いとか悪いとかっていうことを言う。
ブックイン、インの世界。で、もう1個がアウトの世界で、その本を書いた著者も対象化してオブジェクト化して語る。
そうすると例えば、前作の比べると本作はどうだったとか、この本に似ているあの本との違いは何かっていうことが語れるようになってくる。
こうなると少し読書感想文から批評的なものに軸足がちょっと動き始める。
で、知的生産はもちろん読書感想文も知的生産ではあるんですけど、それよりもう少し広い批評的なものに向かうためには本の外に立つ必要があるというのが暮らした読書理論なんですけども。
最近生まれた理論ですかね、それは。前からあるやつ。
前から考えているのを理論化しようとしているわけですけど、そういう試み、最初の一歩として2冊の本から何か言ってみようというのがスモールステップ第1歩目になるんじゃないかなと。
なんせ2冊の本について何か言う場合、本の中に入っているだけでは言えないので、どうしても本の外に立ってあの本とこの本はどうだろうみたいなことを言ってみようと。
だから2冊の本のつなげる、何かその間にリンクがあるとしたらそのリンクを取り出そうという試みなんですけど。
問題はですね、問題ではないんですけど、課題はですね、僕が意図的につなげなくても本っていうのはネットワークを形成しているっていうのが暮らした読書理論。
もう一個、2個目の理論。
つまり極端なこと言えば2冊の本はおそらく5次のステップでつながっていると言える。
5?5次元の字の字ですよね。
そうですね。人間のコミュニケーションが5ステップで誰かとつながっている。5つステップがあれば誰かとつながるっていうもの。
世界中の人とつながるみたいなやつ。
あれの本番を考えると。極端なこと言えばすぐ同じ著者の本やったら1ステップでつながりますけど、
何かしされてリンクをたどっていけば、必ず2冊の本はつながりを持て得るであろうという理論になったときに、
同じ著者の本2冊っていうのはつながりの距離が短すぎるわけですよね。
比較的の俯瞰ができない。
したとしても非常に距離が狭い。
かといって5次のステップを示されても遠すぎるわけですよね。
親の友達の近所の人みたいなやつですよね。
それは確かにつながってると言えるかもしれへんけど、それを示されてどうっていうところがあって、
本のつながりは仮に1時から5時まであったとしても、
1時は狭すぎるし短すぎるし、5時は広すぎたときに、
何かを読んだときに、それって面白いやんって言えるのは、その間ぐらいにあるであろうと。
2ホップリンクですね。
2ホップか3ホップリンクぐらいで、これとこれつながってるんです、どうでしょう、面白いって言われて、
はあ、そうかって納得できる程度の距離のテーマ性を見出したら、
それは読み物として面白いものになるんじゃないか、理論があるわけですよ。
まず選ぶところはレベルが高いと。
意外なつながりって言ったら、普通は論じられない2つの距離を論じるっていうのは、
ある種、研究者向けの書き方ではない。
研究者っていうのは同一のテーマで、既に論じられているような文献の中で何かを論じるってことが多いと思うんですけど、
僕とかゴリコさんのように、特定の分野の研究者じゃない人間、
あるいはこのポッドキャストを聞いている市民の読者さんの人たちって結構多ジャンルに読んでるわけで、
その多ジャンルの中、自分が読んだ多ジャンルの中で、
例えば経済学入門の2冊を取り出して、これとこれつながってますよ、面白くないわけですよ。
面白くないというか、それはありきたりなんですけど、
その人だけが見つけられる意外な2冊の本を取り上げて、何かしテーマを見出していくっていうのが、
市民の知的生活とか知的生産の一つの方向になるんではないかなという考えを持っておりまして、
それを今回ちょっと実践というか、こういうことができるんじゃないかなっていうのをやってみようというのが、
2冊セットシリーズということです。
『ケアと編集』:編集とケアの共通項、そしてケアの難しさ
1回目がタイトルを読み上げていただいたんですけども、
当然2冊セットなら2冊の本で、1つがCAREと編集という本と、
もう1つが遊びとリーダーという本なんですけど、今回わざと
まずタイトルがそのパターンということですよね。
そう、そのパターンということなんですね。フラクタルな構造で。
CAREと編集っていうのも、一見言われるとCAREと編集っていう感じがするけど、
読んでみると、ああなるほどかっていうのがありますし、
遊びとリーダーっていう概念も一見距離がありそうで、
実はテーマ性が近づいところがあるっていうことを論じている本なんで、
僕が今やろうとしていることをやっている本を土台にして、
同じことをするというのが1回目の、かなり今説明がひねくれてしまったと思いますけど、
やろうとしている試みということです。
なんで、結果でいうとCAREと編集と遊びとリーダーの4つの繋がりみたいなのを示してやろうみたいな試みという。
そうやね、だからここに点が間に1個しか入っていない。
CAREと編集と遊びとリーダーの4つを共通するんじゃなくて、
CAREと編集と遊びとリーダーの共通項を取り出す。
だから2つの項目の共通性を取り出すけども、
それぞれの本が2つの項目の共通性を取り出せるから、
結果としては確かに4つのテーマを抽出するかもしれないけど、
そううまくできるかどうかはやってみないとわからないということですね。
1冊目取り上げたい本が、CAREと編集という本で、
岩波新聴の赤パンから出ている本でして、
2025年の4月なんで、去年かな。
去年出た本で、著者が白石さんということで、
ここだったら編集者なんですけども、
医学書院に勤められておられまして、
2024年に定年退職されたので、
25年に本が出てるんで、医学書院を辞められてから、
岩波書店の編集者さんに声を掛けられて、
書いてみませんかということになったんやとは思います。
おだしょー 医学書院の人が岩波書店から出している。
もと医学書院と。
大平 白石さんは非常に有名な方で、
このシリーズの名前が出てきたことはあると思うんですけど、
ケアを開くシリーズというシリーズを開拓された方で、
もう早々たる人文書があって。
おだしょー 一定の足跡をもう残していますね、それだけで。
大平 数も相当多いですし、
賞を取られた作品もいっぱいあって。
おだしょー 弱いロボットとか中道隊とか。
大平 そうそうそう。
おだしょー いるのはつらいよは、僕、遠畑さんの書いて紹介したと思いますし、
どもるからだ、伊藤旭さんの本とか。
中道隊の世界、これは国務さんとかの本がありまして。
ケアをテーマとしているということをタイトルを見ただけでは、
あんまりわからないような本があると思うんですけども、
もちろんそれは編集者の意図というか、
狙いがあって、こういうシリーズに。
おだしょー 大きなタイトル全体を見れば、やっぱケアっていう感じにはなりますね。
大平 ケア的な感じはつけど、
それは一般的なイメージされるケア入門とか、
ケア中級者向けとか、新しいケアみたいな本ではないと。
そういうシリーズをどう作ってきたのかっていう話を、
編集者さんが実際の本のエピソードとかを交えながら、
紹介しているのがこのケアと編集で。
ある言い方をすると、ケアを開くシリーズの入門書とも言える、ガイドブックとも言えるんで、
この本から読むたら、こんな本があるんだなと分かって、
ケアを開くシリーズを読んでみようかなという気持ちになりやすいかなと思います。
ケアを開くシリーズって、書店にもよるんですけども、
人文書のところに並んでいることもあれば、
医学書、医療書のところに並んでいるところもあって、
もしかしたら本屋さんに行ってても、このシリーズと出会ってない方もいらっしゃるんじゃないかなと。
大平 医学書に置いてあったら大抵の人は気づかないですよね。
寺田 人文書、哲学書のところに入っている。
国文先生の本とか入っていることもあるんですけど、
そうじゃない本って結構医療系のところに並んでいることもあり、
シリーズとしては知っているけど、こんな本あるんだなと発見することもあると思うんで、
入門書、しかもケアを開くシリーズって結構分厚くて、値段もそこそこしますので、
いわなみ新書のこの本から入門してみるというのは一つは定かなと思うんですけども。
本全体が6章、章というかな。一応6章6部立てかな。
6部立てと言いましょうか。6部、6パート立てかな。6パート立てになっておりまして。
で、シリーズの発端から著者が編集という行為をどう捉えているのかということが語られて、
そこでいわゆる平野と編集の共通項みたいなことが論じられるわけですけど、
さすがに1回で2冊の本を取り上げるんで、全部を語ることはできませんが。
おだしょー 割とこの方の反省をこの形にしてまとめたみたいなイメージなのかな。
おだしょー 仕事人生かな。仕事人生を結構まとめて、そこに仕事哲学も語られているというところで。
編集者さんやから当然と言えるかどうかは知りませんが、文章はまあいいですね。
読んでて面白く。
端的に要約はできないけども、読んでて面白みが深い。いわゆる人間が書いた文章という感じのもの。
おだしょー そんな言葉が必要になってしまった。
端的に要約できるんで、その端的要約性にはまらないような広がり。
ちょっとアウトラインが工作しているような感じもあって、あっち行ったりこっち行ったりして戻ってくるみたいな。
まさに人間が語っているような感じのする文章なんですけども。
今回はかなり序盤の方だけ、頭の方だけちょっと紹介したいと思いますけども。
まずそのケアと編集は似ているかという話で、
一応僕も著者でゴリゴさんも著者なんでちょっとわかると思うんですけど、
編集者さんに励まされるということはもちろんあるわけですよ。書く気持ちをね。
だからその著者の気持ちを盛り上げて応援して執筆に向かわせるその仕事そのものがケアっぽいわけですね。
著者に対するケア活動みたいな感じがあって。
確かにそういう側面もあるけどもっと深いというか、編集的仕事においてもケアと共通点があるのではないかということが本書で
語られるであろうと予告されます。
先ほど紹介したたくさんの本で賞もたくさん受賞されてるんですけど、編集者さんとしては
ケアっていう行為そのものが難しいと。
ケアの実践っていうのが難しい。
だからケアについて書くことがもっと難しいと。
上位で整理しないといかんから。
だからこういう本を書いてもらって、ケアについて多くの人が読んでもらえる形で本を書いてもらえた。
そこに本があるということそのものがすごく嬉しい。
賞も嬉しいけど、難しいエキアについて書かれた本が生まれたということが一番嬉しいと。
ケアの何が難しいかという話で、まず第一に今現代の基本的な価値観と逆のことをやっていると。
一つが自立的、二つの意味で立する方と立つ方。
自立的思考ではないわけですね。ケアっていうのは手助けなわけですから。助力なわけですから。
もう一個は効率思考ではないわけですね。
基本的に効率的にケアすることは不可能なんですよ。
そうですね。真逆であることがケアだと定義できるぐらいかもしれない。
かもしれませんね。
そもそも効率思考っていう思考、志に向かうと書く思考ですけど、
その思考性っていう言い方をたぶん認知心理学とかもすると思うんですけど、
と、著者が定義する思考性っていうのは未来の目標のために現在を手段にするというその方向性ベクトルっていうこと。
それをむしろケアは逆向きに働いていると。
未来思考ではない。何思考なのかというと現在思考であると。
面白いんですけど、むしろケアは現在思考だと思う。
今を少しでも楽にする。痛いことはしない。この場にある不快をとにかく除去する。
そこにいられる現在を作ると。
だからこういうことをずっと続けていったら、未来どうなっているかとか考えてどうこうするんじゃなくて、
今痛みを感じている。そこに痛みを感じている人がいると。
その痛みをどうにかしましょうと。
だから現在思考であるっていうことがちょっと悪い表現をすれば切な的であると。
切な的っていうのは現代で言うと非常にネガティブに捉えられるわけですけど。
でもこの切な的っていうのは今ここにいる現実の人に手を差し伸ばす行為であると。
面白い話があるんですけど、この著者の一人の方に
障害者の方がおられて車椅子で移動しているときに
トイレにうまく行くことができずに脱粉してしまったと。
そこで道端でそのようになっていると周りの人は基本無視して歩いていくわけですよ。
でも空から差す太陽はその脱粉前後で何も変わらないわけですね。同じように。
今まで普通の風景の一部で一緒に歩いてた人たちが急に自分がそのような状況になると
あたかも他人であるかのように関わりのないように過ぎ去っていくけど
太陽っていうのはその人の状態に関わらずずっと同じように指していると。
さらにキョロキョロしていると大丈夫そうかなってこっちを見る人が何人かいるらしいんですよね。
そうやってすみませんって助けてを要求すると基本的にその対処っていうのはうまくいくと。
そのケアっていうのはそういう風に手を困った時にパッと手を差し伸べる人たちがいて
その人たちが起きた問題をつまり本書で言うと世界のバグって言い方を始終祝して定義している。
だからそういう手があるその変わりがない状況あるいは困った時に手を差し伸べるっていう
対応してくれる人がいることによってケアが成立し今ここっていうのがある。
だからある基盤を整えてあとは同じように情報処理をしていけばいいという効率化とは真逆の対応。
対応は必要な時だけ対応があるわけじゃなくてずっと対応があるわけですよね。
ケアする人も相手が困っているに応じてケアする人になるっていう体制があると。
だから事前に計画を立てて効率的に処理するっていうこととは全く違うことをやっていると。
そういうことを僕たちは普段見えないようにして動いていることにちょっと著者なりの問題意識があるわけですね。
そういう事例から話が一つ飛びまして、著者が編集の先生と位置づけている方がいらっしゃいまして、
編集者ではないんですね。ここがポイントでソーシャルワーカーの方を。
いわゆるただの師匠的なものとはもっと概念が違うと。
北海道にある精神障害者の生活拠点のペテルの家っていうののソーシャルワーカーの方で、ちょっと漢字が読みづらいんですけど、
向谷千駿さんという方が編集の先生というか師匠というか、むしろ編集的精神が
ソーシャルワーカーさんのアプローチ態度に似ているなっていうことを後から気づいた。
つまり結果的に振り返ってみたら、自分の編集の方針っていうのはあの方から学んでいたなと気がついたという語り方をされてまして。
もともと最初は介護系の雑誌を作ってほしいと出版社の上から言われて、
最初は福祉系出版社におられて、そこから医学書院に移った。出稿なのか移転なのか分かりませんけど。
その頃にちょうどちょうど介護福祉士っていう国家資格ができて、社会的に介護が社会的な注目を集めていて、
だからその介護系の雑誌にニーズがあるんじゃないかっていう上層部の判断だったと思うんですけど。
医療系の専門職向けの雑誌と介護系の雑誌っていうのは、僕らから見たら旗から見たらほとんど一緒のように思えるんですけど、
どうも同じようにはいかないぞということに気がついた。
医療系の専門職向けの雑誌ってのはすでにあったと。
その作り方とか流通ルートとかもあったんで、それを介護向けにアレンジしたらできるんだろうなと思ってたけど、それは全然無理だったと。
なぜかっていう説明が面白くて、医療っていうのは具体的な技術と専門用語の世界だと述べられてるんですね。
医学の言葉はもちろん学会で決められて検討されている用語があって、
このような症例に対してはこうするとか、このような症例に対してはこういう薬っていうふうに明確な技術、大文字の技術っていうのが確立されていると。
つまりこうやればこうなるをが成立している世界である。
こうやればこうなるが成立してたらどう書くのかも決まるわけですね。
こうやればこうなるが成立してるわけではなく、そのこうやればこうなるを説明すればいいわけで。
人間に個体差はあるとはいえ、枠で押さわるサイエンスの方向なのか。
そうそう、まさにそう。サイエンスがその医療系の話題の中心にあると。
医療っていうのはそもそも肉体そのものを扱うから、
個体差以上にその人の置かれた環境、社会的文脈っていうのは基本考えないわけですよ。
むしろ医療技術を考えるときにはノイズになってしまう。
その人が金持ちかどうかは関係ない。
でも逆に福祉っていうのはその医療が切り捨てるノイズを正面から引き受けないと成立しないものだと。
その人が金持ちかをむしろ見るぐらいの話である。
どんな好みがあるのか、どんな生活をしているのか、
どんな家族関係があるのか、どんな薬を飲んでいるのか、
どんな宗教を信仰しているのかとか、いろんな要素があって。
医療の技術的な側面でいうと、無視しないと医療技術は成立しないわけですけど、
でも福祉の現場にいたときにはむしろそれに目を向けなければならない。
ということは、こうやればこうなるが成立しづらい、むしろしていない。
すべてケースバイケースの世界になってきてしまうと。
だから医療系専門向けの雑誌がこう書かれていますから、
じゃあ福祉系は福祉に置き換えてっていうふうにはいかないから雑誌が作れないと。
一応本当の現場の話であれば、患者さんがいて困っているから
お医者さんと小社のワーカーが共同してことに当たるということはあり得ますけど、
雑誌は文字だけの世界なんで人がいないわけで、
そうなると医療と福祉というのが完全に分かれてしまうと。
例えば個別性の扱いっていう話があって、
何かうまくいった事例が一件報告される場合に、
医療だったらそれまだ一件だけですよねっていう、
Nイコル1ですよねっていう、
エビデンス全然足りてませんよねっていう話になると。
でもケアとか福祉の場合で言うと、
それはちょっと面白い知見がたくさん見つかりますねっていう話になると。
だから個別性の扱いが福祉方向と医療方向ではもう全然違っていると。
もう一個かなり接地が悪い話があって、
これもやっぱりさすが編集者さんやなと思うんですけど、
所得、箇所分所得が違うと。
医療従事者と福祉関係者では。
ああ、お医者さんは金持っとるから、何本でも金かけれるわけね。
だからそういうある程度の単価の雑誌は作ったとしても十分売上が見込めるけど、
福祉の場合はそうではないから、
そもそもだからそういう福祉的雑誌を常に高得してもらう形で作ることそのものも、
おそらくは難しいんじゃないかと。
商売としてすら成立しづらいかっていうことか。
なので最初の企画そのものはもう破棄されて、
より限定した精神科領域の看護雑誌を作ることにされたらしく、
精神看護という雑誌あるらしいです。
僕はちょっと見たことはないですけど、
その領域の雑誌を最初の高校生から実情を見て、
『ケアと編集』:ソーシャルワーカーの編集的精神と「非援助論」
そのような雑誌を作ることにシフトされたと。
当然そういう雑誌を作る上で、
いろんな精神科病院を点々と取材を回っているうちに、
先ほど言った北海道のペテルの家というところに行って、
出会いがあったと。
めちゃくちゃびっくりしたんですけど、
いろんなイベントごとがそこで行われてるんですけど、
幻想&妄想大会というのが年に1回行われるらしいんですよ。
その場所でのイベントみたいな、
運動会をやるかのようにそういうことが行われている。
外部からのイベントだから、
中で喋る人たちはその中の人だけど、
見学者とも結構大きなイベントがあるらしく。
その1年で最も素晴らしかった幻覚や妄想を表彰するという会なんですね。
それは何か発表したりとかしているんですか?
発表するんです。
台の上に上がって、自分がこういうことをしたっていうことを発表する。
こういう幻覚を見たとか、こういう妄想をしたっていうことを話す。
っていうことだと思います。
その素晴らしかったっていうのが、仲間同士をつなげたということらしいんですね。
話題を盛り上げたとか、そういうことだと思うんですけど。
一応僕の知っている常識やと、
幻覚とか妄想って言わないほうがいいっていうことになっているらしいんですよ。
言うと強まるからみたいなことが。
その分野の知識圏としては。
僕が知っているのはだいぶ古い話です。
現在リアルタイムでどうなっているかは知りませんけど、
僕それを知っていたので、えーと思ったんですよね。
発表すると思って。
でもその著者が言うには、
精神病っていうのは、その耐心的なコミュニケーション不全の病であると。
まあそうですよね。
その妄想があったら、目の前でちょっとうまくコミュニケーションは取れないわけですけど。
あのソーシャル、先ほど言ったソーシャルワーカーの方が、
すごくいている方たちと話が盛り上がっているのを見たと。
そこで私はこんな妄想を見たみたいなこととか、
この幻覚を覚えたっていうことですげえ盛り上がっている。
その人たち同士に。
幻覚自慢ね、そのイメージとしては。
まさにそう。
まさに幻想覚悟自慢。
お医者さんの前ではそういう話はほとんどしないんですよ。
なんでかって言うと、幻覚の話をすると薬が増えるからなんですね。
想像はできます。
それは症状が悪くなっているから薬を。
でもそんなものは飲みたくないわけですよ。
だから医者の前ではそんな話はしないけど、
仲持ちの場ではそういう話をして非常に盛り上がっている。
だからコミュニケーション不全の病であるその症状を
コミュニケーションの材料にしている人たちがいると。
この人間のたくましさっていうのはすごいなと思うんですけど。
そこからそれに目をつけて、むしろこれをもっといろんなこと
コミュニケーションというか人との関係性の構築に
使えばいいんじゃないかということで
そういう大会がそこで行われているらしいんですけど。
というわけでいろんなエピソードを持っている人たちがいるので
本を書いてもらうことにしたと。
で、出てるんですね。
これか。
ウィエーの当事者研究という本ともう1本あったと思うんだけど。
このシリーズから、部屋を開くシリーズから
からも何冊か本が出ています。
その人たちが持っているエピソードとか
どういう話があったみたいなことをまとめてもらう。
だから職者は仕事としてもここに行ってるわけですね。
もちろん。単に見学に行ってるだけじゃなくて。
で、この床にある一般的な医療の考え方ならば
抑圧されてしまうようなものをむしろひねって
使っていくということをソーシャルワーカーの方がやられていると。
で、ここで当事者研究について急に説明が入って
ちょっとまだアウトラインが混乱してるんですけど
家の中で当事者研究っていうのが行われてるらしいですね。
で、当事者研究ってイメージ湧くと思うんですけど
例えば、女性が社会的問題困ってるときに
女性自身が研究するみたいな
自分自身の体験とかを研究していくっていうのが
当事者研究のイメージだと思うんですけど
本書のいう当事者研究って2つポイントがあって
まず自分語りではないと
私がこう困ってますっていうことを語ることが
当事者研究ではなくて
あくまで自分を当事者として置く
つまりちょっと客観的に状況を語るってことを1つ
語りではなく研究っていうのはまさにそれで
自分の問題を語るというか
ある種の研究対象として見る視点を持つっていうのが1つで
もう1個が一人作業ではないと
だから例えば自分の持ってる症状とかについて
自分だけで語るんじゃなくて
必ず複数人で行うと
自分のことは自分が一番知っているという思い込みを
僕たちはよく持っているわけですけど
そんなことは全然ないわけですね
これはもう別に
これはあらゆる人に言えると思うんですけど
むしろ自分のことを気がついていない視覚みたいな
角度がいっぱいあるという前提に立ったときに
だから自分自身の症例についても
複数人で研究して発表するっていうことを
この家では当事者研究と呼んでいるらしいんですけど
結構大切なポイントで
困っている人とか病気の人とか
困難を抱えている人を助けようとしたときに
その人の困っていることはその人が一番知っているから
その人だけに聞けばいいというふうになりがちですけど
それは多分ちょっと行き過ぎで
もちろん官僚がそこに問題があるからって決定するのは
多分間違ってますけど
その人が自分が困っていることそのものを
当人が全部自覚できているわけではないんで
その人と他の人が会話して
これってそういうことなのかって
発見を広げていくことで分かることもあると
だからこれは当事者研究だけに関わらないとは思うんですけど
自己理解っていうのは
自分と他の人の対応の中で生まれていくものではないかなと
自分の知っている自分っていうのは
基本的に結構限定されたものじゃないかなっていうことは
この当事者研究の紹介から思ったんですけど
ここはアウトライン的にこぼれ話で
元に戻るんですけど
この本の人たちに書いてもらった
1冊目の本のタイトルを
この編集者が付けたわけですけど
非援助論っていうタイトルが付いてまして
最初は反援助論
社会的一般的に考えられているような援助ではない
ということを言いたい時に
反っていうのを付けたんだけど
反は何か貧しいと
貧しさっていうのは
例えば精神医学と反精神医学っていう言葉を
比べた時に分かるんですけど
反精神医学っていうのは
その言い方が機能する時には
必ず精神医学が
権威を持ってないとダメなんですね
権威を持っているものに対して反抗するから
その反精神医学
精神医学が反っていうものに価値が出てくる
だから反精神医学という時点で
すでに精神医学の権威性を認めてしまっている
でも非の場合はそうじゃないと
それはそれであるとして
僕たちはこうやってますよという
スタンスがあるという話で
さっきの幻聴周りの話なんですけど
幻聴が聞こえるから
聞こえることは自然だから
何もしないっていうわけでもなく
薬を増やして解決しましょう
というわけでもないんですね
ここにいる人たちは
ある程度薬は飲むけど
自分が幻聴というのは
自分に語りかけてくる声が聞こえるということなんですけど
そこに幻聴さんと名前を付けて
それと対話しているらしいんですよ
だから薬で完全に抑えるわけでもなく
それが起きるから
それは自分の症状として
全て引き受けるわけでもなくて
その二項対策をずらして
ある程度に薬を飲んで
程々に幻聴と付き合っていくと
どちら側の極端から見ても
その態度ってすげえ中途半端なんですね
根本的な解決に全然向かっていないように
見えますけど
むしろそれは積極的にそうしていると
この二つあれかこれか
どっちか選びなさいっていう問い詰められるような
真面目な場所から
パッとずらす方向に
二項対策ずらす方向に
逃げていくっていう方向が
実はこのケアをひき開くシリーズ
全体に通定するっていう話で
ただ国分先生のあれもそうですよね
中導体という概念がそもそもそうですよね
そういう風に
同じようなコンセプトがここに
二項対立
私たちに二項対立を迫ってくるようなものが
あった時に
それをガチンコでどうにかするんじゃなくて
それを二項対策をどんどんずらしていくような
精神性っていうのを
むしろこのケアのあり方から
著者は編集の方向として
学んできたという意味で
ケアソーシャルワーカーが
編集の先生というのはそのような文脈で
ソーシャルワーカーの方が本当にすごい技術
技術と言って言うと技の持ち主で
家の中で全く喋らなくなった女性が
一人居合ったんですって
そういうことは起こるらしいですね
別にこっちが喋りかけて何も返事しないというだけで
それ以外のことは普通にやっておられるらしいんですけど
ソーシャルワーカーの方が
その人をね
公演のね
公演っていうのは
公演会の公演ですけど
さっきの大会みたいなやつ
現状大会
この公演の舞台に上げたの
まず最初
ソーシャルワーカーの方が
バーッて喋って盛り上げると
じゃあ次はあの方に喋ってもらいましょうって言って
その人を上げて
この方はこういう方なんですって
説明してバーッと笑い合ってる
どうぞって話を振ったら
当然その女性は喋らないわけですよ
どうしたかっていうと
この方は今から全く喋らない芸をしますって言って
当然その女性は喋らないわけですから
それでバーッて盛り上がったらしいんですよね
天才やな
すごいなと思ったんですよ
つまりその人が持っている態度そのものは崩さないけど
何かを変えることでその人がむしろ
光っているように
つまりある種コミュニケーション不全に陥って
何もできない状態になってるんじゃなくて
話題の中心注目の的にしてあげた
この人喋らないって言われて喋らんかったら
コミュニケーションになるわけか
会場との
これがすごいなと思って
この著者もね
同じような場で公演の舞台に行って
喋ってくださいって言われたことがあったらしいんですけど
全然緊張しなかったらしいですね
なぜかって言った時に
試されている感じがしないからではないかと
言ったらこう
うまく喋れるかどうかを監視されているような感じがしないということだと思うんですけど
一般的にこの
現代日本で言われるありのままでいいとか
普段のままでいいっていう
その積極的なニュアンスではないと
むしろ何があってもいいと
別に何があってもいいと
あなたが例えば喋ってとしても別に
何があってもいいっていうぐらいの
どっちでもええなみたいなイメージ
多分何かがあったら何かがあったで
また何か言って対応して
むしろ面白くしたるわっていう視界力があるんですよね
ぐらいの感じがあるんでしょうねきっとね
だからそのある種の投げやりさが
むしろ緊張感を生まないっていうところ
でこの試される感じがしないっていうのが
期待されている理想の状態と
今の自分があった時に
その差分っていうのを
見られている感触があった時に
どうしてもそこにその理想に近づこうとして
多分体が固くなってしまう
力んでしまうっていうことが多分あるんですけど
そういうことが全く全然ないと
今あなたが喋れる力で
喋ってもらったらいいですよという
その感じだから
ある種負荷をかけて
レベルを上げていきましょうというのとは
違うわけですね
もっと頑張りましょうというのでは全然ない
でもそのある種の成長を諦めていることによって
でも今私はこうやって喋ってもいい
どんなことを喋ってもいいという肯定が
肯定感が繋がっている
現在を否定することで
成長に向かっていくという形ではなくて
今あなたがその喋れる形を肯定していきましょうと
もっと言うと否定も肯定もしないですね
悪いのがうまく喋れなくのがいいんですよ
ということでもない
単にそこにあるその人がそこにあるとか
その人がそう喋っているということそのもの
評価よりも存在の方が強いのだということがあって
素晴らしいですね
これは非常に強いですね
これは非常に強い言葉だなと思いましたね
ある種のそこにいる人を認めていくということで
さっき言った当事者研究で
接触障害というのがあって
食べ物を食べて
食べたら吐いてしまうみたいな感じなんですけど
その接触障害の当事者研究で
一番最初にやることは何かというと
どうやったら食べ吐きがうまくできるかということなんですって
つまり吐かないようにすることを研究するじゃないですね
吐くことは前提の上で
どううまく吐けるかということを研究すると
これもある種すごくライフハックだなと思うんですけど
例えばご飯食べたら吐いてしまうのだったら
食事の横にオケを置いておくっていう話が
まじりもふたもないっていうか
すごいですねやってること一個一個が
でもまさに吐かないようにする訓練っていうのは
その人が吐いてしまう状況を否定してるんですよね
それはもうまさに
でも吐いてしまうなら困らないようにこうしましょう
っていうのは現在は肯定しているわけで
肯定というか認めているわけで
ちゃんとあなたはそういう形であるし
っていうことで研究していくと
そうやって研究が実際できると
なんとなくその接触障害を恥じていた人は
自分は足りてないんだって思ってた人が
ちょっと変わってくるらしいんですよね
自信を持つとまでは言えるかどうかはしませんけど
自分はこういうものなんだなっていうふうに
認められるようになってくる変化が起きるということで
だからそのソーシャルワーカーの方は
常にその人が何か障害とかを受けたりして
症状が出てたりした時に
他の例えば人口の99%は
献金してないことをしてて
その人の困りごとに対して
自分なりの解決を
解決方法を考えて実践してるわけですね
それは固有の経験なわけですよ
非常に貴重な固有の経験なんで
だからそういう話を聞かせてください
っていうスタンスで
ソーシャルワーカーの方はアプローチしていると
だから単にあるがままやから
そういう症状があるから
仕方がないから諦めなさいっていうことでもなくて
さっき言った
喋らない芸をする人なんですっていうことによって
地図で言う地というのは
地面の方と浮かんでいる図で言うと
浮かんでる図の方は変えないけど
フレームの方を変えることで
急に意味が変わっていくっていう風にアプローチされて
全体的にその方はそういう風にアプローチされていると
もちろん問題が起きたときに解決する
根本的な解決のが一番いいとはいえ
病気においては
例えば西洋医療においては
主要部分を手術で取り除いて
病気治りましたねっていうことがあるわけですけど
こと精神に関わる病気の場合は
手術して病相を取り出して終わりとはいかないと
そもそもそんな具体的な病相があるわけではないと
第一に
仮に病相というのが仮想定できたとしても
そこだけを切って取り出せるようなものなのかと
例えばそれはある環境においては
困りごとを生じさせる要素かもしれないけど
別の環境ではむしろ長所になる可能性もあるのではないかと
実際ものすごく集中力が高くて
過集中になってしまう人は
多分文章の構成作業には向いてると思うんですよね
おそらくは
もちろん全ての症状がそうとは言えるか分かりませんけど
そもそも精神の性質っていうのは
状況次第なので
ここが悪いだからこれをやめましょう
っていうのをどんどん繰り返していくと
その人のその人性みたいなのが全部
おそらくは失われてしまうわけで
だとしたら地図でGの方を変えることで
むしろその人の得意に持っているものが
何か長所的に発揮されるようにするのが
むしろソーシャルワーカーとしての仕事ではないのかと
これは非常に面白いなと思うんですけど
でも例えば反論があるらしいんですよね
例えばさっき言ったように公演で舞台に立って
話をしてわーって受けると
社会的な承認が得られてるわけで本人も嬉しいと
でもそういう社会的承認よりも
例えば街の清掃してゴミを出すとかをした方が
いいのではないかっていう声があるらしいんですよね
でも結局そういう症状になっている人たちは
そこで市民社会を当たり前に行える人たちが
やっている当たり前のことがものすごく難しいんですよね
基本的には
そのスタートラインに全然立ててない状況なのに
それを求められるっていうのはおそらくは無理難題だろうと
むしろ話は逆で社会的な承認を得られた人が
初めて社会的な活動に参加できるっていう順番が
むしろ正しいんではないかって話があって
これはねそうやと思いますね
一般的に自分たち
例えばマジョリティーが当たり前にできることやから
マジョリティーじゃない人でも当たり前にできるみたいな
マジョリティー以外の何の言葉を当てはめてもいいんですけど
そういうものって
個々の人たちの違いっていうの個性っていうのを
無視しているわけですから
その人たちが一般の他の人たちが当たり前にできるため
当たり前にしていることをできるためのスタートラインに
立つような支援っていうのが必要なんではないかなと
ちょっと思います
最後に医療的編集とソーシャルワーク的編集っていうのがあって
ここまで出てきた話の一つの総括なんですけど
医療的編集っていうのは治療すると
治療というので改変するのが医療であると
その人の肉体をそのまま切り取ったりして
病変を切り取ったりして変えてしまうものが医療
これはもうちょっと後に出てくるんですけど
これはキュアなんですよ
英語で言うとキュア
ソーシャルワーク的編集っていうのは
さっき出てきたケアですね
キュアとケアが違うと
ケアの場合はそこにいるその人物には
特に直接と言わつけず
周囲との関係を改変していくと
さっき言ったトッピナー
トッピナーって言った
つまり他ではあんまり見かけないソーシャルワーク以外で
ソーシャルワークって
例えばその人と市役所をつなぐとか
あるいは支援の人をつなぐとかって
いろいろその社会的関係を編集していくわけですね
そのソーシャルワークの仕事っていうのは
なのでその人はそのままであるとして
その人の関係性を変えていくっていうところが
著者が言うソーシャルワーク的編集で
医療的編集っていうのはですね
結構著名なヒット作をたくさん出している編集者さんが
もらってきた原稿をかなり手を加えて
本に仕立て上げるというタイプの編集者さんがいらっしゃるわけです
いっぱいいる印象ですね
売れっ子な人たちほどっていうか
で 著者もそういう編集を何個かしたことがあると
で こんな文章では読者には理解されないだろう
という建前のもとに
どんどんその自分に
編集者自身が理解できる範囲に
原稿を書き換えていくと
結局 編集者が理解できる程度に
著者が発した思想を
厳粛してしまっていただけではないかと
で 実際あんまり売れなかったみたいなね
そういう医療的編集をした本っていうのは
あと 著者の編集の想定を超えないですよね 結局
そうそうそう まさにそういうこと
結局 基地のものになってしまうと
で 未知のもの つまり
これはどうなのか分かんないっていう
未知のもののノイズを切り取ったら
それは編集者にとっては
これは非常に分かりやすい本だってなるわけですけど
本人にとってしかそれは面白い
すっきりした本にしかなっていないはず
未知のものが全部問われてしまってるから
あんまりよろしくない編集だという話が
一応 この序盤の最後につきまして
この医療的編集とソーシャルワーク的編集っていうのが
ケアと編集のつながりの大部分を支えています
つまり ソーシャルワーク的編集っていう
ケア的編集っていうのスタンスで
開くシリーズは作られてきたということを確認して
2冊目の本に入りたいと思いますが
『遊びと利他』:管理化される遊び場と子供の創発性
だいぶ もう
次回やりますか
いや 軽くいきます
2冊目が 遊び鳥だという本で
終栄写真書から出てて
これもう一つ 2024年なんですけども
北村さんという方で
映画研究家 映画研究者の方なんですけど
映画研究者で遊び鳥だ
全然関係ないですよね
全然関係ないんですけど
今回この本を出されたということで
第一に コロナ禍になって
子供を公園に遊びに連れて行くことが増えたと
いろんな公園を見たときに
自分が子供時代に遊んでた遊びは
結構異なっているぞと
遊具自体はすごいリッチになってるけど
これ子供うまく遊べてんのかっていう疑問が
片方にあったと
その遊具が持つ可能性っていうのを
考えていくときに
リタっていう概念がいいんじゃないかって
これもかなり意外なところなんですけど
なぜリタっていう概念が選択されたかっていうと
たまたまだと 著者は述べるんですね
で 著者は東京科学大学レベラルアーツ研究教育院に
勤めてられるんですけど
これってリタプロジェクトをやってるとこなんですね
伊藤浅さんとかが属されてるとこかな
リタを研究されてるとこで
なので たまたまそこにリタプロジェクトに関わってる人たちがいたから
つなげてみようって思いついたっていうことですかね
そうだっていうこと
たまたまとか偶然性で
そのリタ主義っていうことに取り組んで
その遊びっていう遊び性とリタっていうのを
つなげて考えたという本でして
新書なんですけど
一応 序章から始まって
1・2・3から6章まで続いてまして
3章から5章が結構がっちりしたフィールドワークの報告でして
新書ですけどもちょっと研究書の趣があります
なので 読み慣れてない方はちょっと
読みにくい部分もあるかもしれませんが
1・2から6章は理論的な部分で
面白く読めると思うんですけど
1章はリタ論で
つまりリタ論 この現代に至るまで
リタっていうのがどう論じられてきたのかがざっと研究されてて
一応 ANT アクターネットワーク理論というのがありまして
この世のすべては人間同士の関係じゃなくて
人間も含むすべてのオブジェクト 物のネットワークで
この世界を捉えようというようなことですけど
それとリタを結びつけて考えているというのが
この本の特徴として紹介されまして
第2章が講演論なんですけど
講演論って初めて聞いたんですが
講演っていうのがどういうものなのかということが紹介されて
特に現代の講演がどうなっているのかっていう問題式が紹介されて
3から5が実際の遊び場 講演とかがフィールドワークされて
最後第6章が誘惑論って言って遊ぶ 学ぶ論なんですけど
今度は遊び 遊びって研究している研究者もいっぱいいまして
遊びと人間 海洋話の遊びと人間が多分有名だと思うんですけど
それ以外にも結構ありまして
遊びがどう論じられているのかが紹介された上で
さっき言った講演あるいはリター論との接続が確認された話で
すごい面白い話がいっぱいあるんですけど
最後第7章が学びと娯楽の環境ということでまとめられるんですが
もっと紹介するつもりでいたんですけども
時間がありまして
遊具っていうのの在り方がどんどん管理的になってきていると
遊具を使った事故っていうのが非常に多くあった時期がありまして
どんどん地方自治体は危ない遊具とかをどんどん取り払って
遊びやすい安全な遊具が導入され
どう遊ぶのかも結構厳密にルールが決まっているようになっていると
全然僕行ったことが知らないんですけど
例えばある講演では
ブランコは20回までで交代しねって書いてあるんですよね 看板に
すごいな
トランポリン遊具とかも
5歳から8歳まではこちらのトランポリンで
9歳から13歳まではこちらのトランポリンで
うちの近所そうなってます
著者は2人の子供さんがいて年齢が違う子供さんで
さっき言った9分で別れてしまうらしいんですよね
兄弟が一緒に遊べないみたいな状況もあるとか
新しく設置された遊具もすごい大規模やんけど
すぐ子供が飽きるらしいんですよね
結局遊び方がこう遊びなさいって
設計者が考えてて
それ以外の遊び方ができないようになっていると
それは結局子供はそこに遊び要素を感じないわけです
でもそういう遊具に飽きた子供が
近くにある丘の上に走って登って喜んでいるわけですよね
丘を遊具にしているわけですよ
遊びっていうのはそのように
遊ぶための道具が与えられまして
はいこう遊びましょうというものではないと
むしろ遊具の形に創発される形で
子供の遊び方を発見していくと
複数人で遊ぶときは
子供がこう遊んだときに
一緒に遊んでいる子供も別の遊びの面白さが広がっていく
っていう形があるという話があって
一つ遊具の対比がありまして
グローブジャングルとドーナツ型のスーパーノバという2つがあって
グローブジャングルは僕らは見たことがあると思います
公園に置いてある鉄のフレームでできた地球儀みたいなやつ
グルグル回るやつね
普通の公園では見かけないと思います
あれ回すとめっちゃ速いんですよね
めっちゃ無限の遊び方があると思う
高速で回ってるともうあれ後から乗れないですよね
めっちゃ危ないのはすげえよくわかる
似た構造である
しかし新しい遊具のドーナツ型のスーパーノバは
ちょっと今画像を見てもらってると思うんですけど
薄いドーナツ
丸の平均でさらに斜めになっている?
斜めになってるやつ
このドーナツがグルグル回るわけですね
押して回れるようになってると
傾斜がついてるんで
上りは頑張って押すんですけど
ある時点に来ると今度は子供はその上に乗って
わーんって下がって
でまた下に行ったら
これ回るの?
これ回るで
さっき言ったジャングルジムの超圧縮板
一体じゃなくて平面になって回る
フレームがあるんじゃなくて台座があってそれが回るんだ
これは結構重いから
グローブジャングルみたいに高速では回らないんで
回ってるうちにいろんな子供が入ってきたり出たり
っていうことをするし
押し上げてるところにいる人は
押し上げる係してるけど
反対側で乗ってる子供は
押し下げてもらう係になって
押す側と押される側が
瞬間瞬間で変わっていくような感じがある
グローブジャングルの場合は
回す人は回す人で
乗ってる人は捕まってる人
みたいな感じで役割が固定されてしまうけど
このタイプの遊具はそのような可変性
さっき言った
押す人と押される人っていう
二項対立を崩している遊具にはあると
だから危ない遊具はもちろんね
撤去されて叱るべきですけど
こう遊ぶしかないっていう
遊具しか選択肢がないわけでもなくて
実はいろいろ遊び方
子供の創発性を刺激するような遊具も
作られていると
この斜めっていうのがポイントで
斜めって中間じゃないですか
中道点というか
縦でも横でもない
縦でも横でもない
その斜めが人の遊び心をくすぐる
丘に登って走ると丘も斜めですし
滑り台も斜めじゃないですか
滑り台も滑るだけじゃなくて
登りますよね
すぐに逆から登るようになりますよね
そうですよね
ああいう形の遊具っていうのが
子供の遊び心
創発性っていうのを発揮すると
世の中そのものが
どんどん管理的
管理社会的になっているというのは
もちろん地面ですけど
公園というのは
その社会の宿主ではないかと
著者が言って
公園を分析すれば
社会のありようが分かるから
この分析をされているわけですけど
完全に安全で
すべての
どこに子供がいても
親の目に届き
危険なことはできず
遊具を独り占めすることも
ルールによって禁止されており
みたいな場にいた時に
まず子供そのものが
いろんな経験をする場を
失っていると
例えば20回で
『遊びと利他』:遊びの多様性と現代社会への示唆
変わりましょうっていうルールは
非常に滑らかなんですよね
20回って決まってるから
変われっていうのは
非常に強い命令なんですけど
結局交渉する力っていうのなく
経験がないわけですよね
もう変わってよっていうやつ
あと5回だけとか
言うようなやりとりとか
そういうコミュニケーションを
すべてルールを
提示することで解決するように
してしまってる
圧力はない代わりに
ある種のコミュニケーション的な
経験を失っていると
あと危なさに触れることがないのは
もちろんいいことですけど
危なかった時に
どこまで行ったら危ないとか
どうなるのが危ないのか
ってことを知らないままに大人になると
本当にやばい状況に
直面した時に大きいっていう
子どものうちに
むしろある種の危なさを
経験しておくこと
子どもがいて
親がいて管理できる範囲内で
むしろちょっと危ない経験をして
学んでもらう方がむしろ
大きいっていうのと
危なさ恐怖っていうのが
もちろん子どもの
経験にとっては面白いんですけど
これが
遊びの四分類っていうのがありまして
アゴン アレミ ミミクリ
イリンクス
ってのがあって
最後のイリンクスっていうのはめまいなんですね
メリーゴーランドとかジェットコースターとか
ブランコとかスキーなんですけど
ある種の恐怖体験っていうのがあるわけですけど
面白いのは
このような恐怖体験は
ある種の
異風
恐れ
美学の話でも出てきたと思うんですけど
ある種の
自分を超えるようなものに
晒される感覚っていうのに
繋がっていくと
そういうものを
体験することは
ある種の怖さを学ぶことでもあり
この自然のありを
自分を超える存在である
自然との向き合い方を
経験する場でもあって
この遊び方で
遊びなさいっていうことを
すると安全さとひっかわりに
遊びの様々な要素と
楽しくないってことなんですけど
そこから得られるはずであった
様々な経験っていうのを
削減してしまっている
これはやっぱり
大きな問題であろうし
そのような管理的思考が
最後は学校 大学の
講義の管理とか
最近はもう全部
大学のサイトに
アクセスしてログインして
ファイル送信してっていうのがすべて
ログが残ってしまっているような状況で
管理的になっていくけど
でも大学っていうのは
むしろちょっとうっかりしたことを言える場
チャレンジして
失敗できる場ではあったはずなのに
それがなくなっている
なのでZoomとかで
しゃべってたら誰かに録画されてる
かもしれないわけですから
だいたい何も言わなくなっていくわけですね
ちょっととかっていうこと
そのように遊びの場から
大学っていういわゆる社会に出る
直前の至る場で
子どもたち ある種の学んでいる人たちは
すべてが管理的に置かれてしまうことで
経験そのものが非常に貧弱になっていると
それを例えば
優遇の設計を変えるとか
制度の設計を変えることで
変えていけるんじゃないかという話が
されていて
二冊の本に共通するテーマ:管理と効率への抗議
優遇の話が本当に面白い話がいっぱいあって
紹介したかったんですけど
早口で言ってきましたが
ここで語ってきても
わかると思いますけど
ちょっと似ている話がありますよね この2つの本には
1つはやっぱり
偶然的なもの
意図を超えるもの
あるいは自我の管理欲求を
超えるものと
どう向き合うか
ということで
現代の社会的な風潮で言うと
もっと管理しようと
基本的に
効率的にやろうとすると
管理の側面が
どうしても出てくると
それで損なわれるものが
確実にあると
意図で縛ってしまう
例えばこのように
遊べで縛ってしまうことによって
可能性が
削ぎ取られたり
壊れたりしてしまう
このように遊べっていうのは
舞台に立って
このように喋ってくださいっていう
期待を持つのと構図は一緒なんですよね
人を
ある
評価しようとしている
そこに
はみ出ないように
ある種の規範を
与えてしまっていると
でもそれはその人が持っているものを
殺しますし
本の編集で言うと
管理する人が
想定する以上のものをすべて
剥ぎ取ってしまっている以上を
あんまりよろしくないと
ソーシャルワークの話で言うと
図ではなく
地を変えようと
フレームを変えようと
遊び取りだの場合は
遊具とか
バーそのものを変えることで
子供の遊び方が変わってくると
遊具のデザイン一つで
子供の遊び方が変わるっていう
ある種の人と
人がただオブジェクトとして
独立して存在しているのではなくて
あるコンテキストとかバーとかフィールドにおいて
人の立ち振る舞いが変わっていく
人間のありようの
捉え方もこの2冊の本では
通じていまして
独立独歩
宝の鑑賞を排出した人間像ではなくて
常に関係の中で
人間というのは立ち振る舞いを
変えていくものであると
そういう人間に対して
ある管理者
その人間のためを
思ってこのようにしなさいと
言ってたとしても
実はそうじゃない可能性の方が多い
むしろ
管理者が見えていない
その人の能力を添えているかも
しれないという危機感を持つ
むしろその人が持っている
デコボコした部分がむしろ
価値となるようなものを見出していく
ということをしていったり
あるいはそれがより伸びるような場を
与えたりするということが
大人というか管理者に
求められる要件ではないか
ということを2冊の本を
通して言えると思うので
この2冊の本はある種
管理的なもの 効率的なもの
現代的 分かりやすい
コスパ的なもの ある主体が
計量できる
計算できるもとに
人間存在を押し込めることに対しての
抗議として
本章2冊は多分共通点を
見出せるんじゃないかと思います
まとめと今後の展望
だいぶ
足取りになったけど
今回も
ごめんなさいね 面白かった
でも本当にこの2冊の本から
結構ポイントで学べるものは
あると思いますし
人文的なものが好きであれば
多分共感できる話は
多いと思います
やっぱり精神的な
病気とか症状が
出てる人とか 子供に
対する
何を与えるとか
どう立ち振る舞うのかっていうのは
何ですか 現状な
ビジネスパーソン2人で喋ってるのは
多分出てこない視点やと思うんで
抗議本から学べることは
かなり多くあると思います
非常に現代的で
親みたいな観点でも考えることも
できるし
いろんな見方は
ありそうで
今後の働き方
人の在り方の
本質って言うと変か
なんかその
人間が生み出せる価値は
おそらくここになっていくんだろうな
っていうのが自分がずっと考えていることで
最近
そうですね 結局ある種の
デコボコ性みたいなところを
どう生かすかっていう視点は
極めて重要になってくると思いますね
うん という意味でも
良い
2冊だという感じがします
はい どちらも新書なんで
すぐ読めますんで
パパッと読んで
新書は簡単って言うけど
この前言ったように簡単じゃないからね
別に
どっちかっていうと
ケアと編集の方が
文章としては
読みやすいと思います
アウトラインはちょっと行ったり来たりしますけど
それはむしろ話の補足としては
いい場所に出てきてるんですけど
ワソビトリタはかなりガッツリ
異論系とフィールドワークなんで
ちょっと人文書を読んでないと
読みづらいかなと
岩波赤の中では優しいってことですかね
文章としてはかなりエッセイ的に書かれてるんで
読めると思いますね
こっちの方
はい ということで今回のご意見ご感想などあれば
メールのお便りフォームだとか
ツイッターブルース会
ハッシュタグカタカナでブック語り人に
お寄せください 感想お便り
お待ちしております
サポーターも募集していますので
よかったら概要欄
リンクなどなどご確認いただければ
と思います
それでは今回もお聞きいただき
ありがとうございました
ありがとうございます
01:07:43

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