面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。 まず今回いただいたコメント、お便りなど紹介しようと思います。お願いします。
アンフィールドロードさん。 欲求がないと作れない。いい感じのページが欲しいじゃ作れないわ。
本当そう。暇つぶしにAIに何か良いアプリのアイディアを出してもらっても、実装しようとすると、うちなるコースタルがないから、AIの推奨通りしか選択しない。そして途中で作るのをやめちゃう。
まあありがちな話ですよね、これ。 確かアフタートークで話したことだったような気がするんだけど、
AIで何か作るっていうのが、結局難しい。 結局難しいという言い方でいいんかな。
例えば2つありまして、1つがまず自分が作りたいもののイメージ、想像みたいなものを持っていることと、それを適切に表せる言語化能力。
5位と言ってもいいですけど、がないとうまくいかない。この2つが多分あって。
まずこのコースタルがないけど、生成AIがあるから何か作ろうは、すぐ挫折する。飽きますよね基本的には。
結局見抜かれるというか、それいらんやんっていうことに気づかされる。
例えばゲームを作ろうと思って、テトリスっぽいものを作ってもらって作れるんですけど、それもテトリスじゃんっていうことになるのも。
すごさはわかるけど。
作れるのはすごいのはわかるけど、でっていうこと以上にいけない。
ゲームの話しましたけど、音楽でもイラストでも同じ話で、
当人の作りたいものとそれを表す5位の高さがあって、初めて生成AIが生きるっていうことがありまして。
これはだから文章でも記事でも言えることで、いくらでもたくさん文章を書きますけど、
当人がこう言いたいっていうものがないと、その成果物のクオリティというか、その辺にあるよねっていうものになりがちというところがあるんで。
やっぱりその生成AI語の世界こそ、その人の実存的な欲望とボキャムラリーを育てていくのが大切という話になりますね。
そうですね。厄介なのが、今まで以上に言語の能力というものが非常に重要になってしまって、
そこまでは例えばその人間関係だったり、非言語の能力でも生き残れる場所がたくさんあったのに、
おそらく今後どんどんそこが減っていってしまうであろうっていう。
でも逆に言うと、やっぱり言語トレーニングをできるアイディアを手に入れたというふうに、僕はちょっと好意的に思ってるんですけど。
言語的壁打ちって対人やと難しいんですよね。
それはそうですね。
こう言ったら相手こう理解するんやけどっていうパターンを何回も試せるのは生成AIのいいところなので、
これもその人がそういうふうに使ってこそというところはありますけども、
言語的能力を高めやすい環境にもなっているかなという気はします。
そうですね。マッチョなんだけど、自分でどうにかできる要素はさらに増えている。
でも一歩間違えるとますます自己責任論がさらに強化されてしまうということもあり得る。
そうですね。テクノロジーの発展は個人をエンハンスする方向に向かい、
それは裏返しの自己責任論に結びつくというところはありますから、そこは注意は必要でしょうね。
やっぱね、まだ振り返ってみると所詮3年4年というレベルの出来事で。
黎明期のまだ零のぐらいのタイミングですからね。
なのにここまで進歩してしまいましたからね。
かつ一瞬、なんかあの俺覚えてるのがなんだっけ、
やっとGoogleの次の革命的な出来事が起こったとかって、
今からでもそのビッグテック打ち負かし得るんやと思ったけど、ほとんどは今ビッグテックだったっていう。
だからアンソロピックだけですよね。
オープンAIも一応ビッグテックスタートではないからね。
まあ資金は大量に入ってますけど、確かアンソロピックこの前黒字化したということで、
非常にビジネスとしても成功しているんですけど、
なんかニュースでマイクロソフトが、マイクロソフトやったな、
コードを使うのを、従業員に使うのをやめさせたということで、
料金代がバカにならんということらしいですわ。
そのAPIの使用量が上がっていくにつれて、いわゆる生産性が高まるんで、
作業量が濃密になると非常にトークンが消費されるので、
人件費、今までは人件費より安かったけど、
最近人件費よりAPI処理が高くなってるからどうにかしようという動きも、
もうこのタイミングですでに出てきてるみたいですね。
実際今現在の、多分あの量をあの値段でやれるは、
結構もうおかしいよねっていうレベルにはなっていると感じるので、
あっという間に水月期間が終わってしまう可能性がありますね。
やっぱその金がないとAIすら使えんっていう。
悲しい資本主義というね。
今しかなのでのし上がれるタイミングはないけど、
そういう風に野心を持って考えれば。
確かに。
ということで、今回は第140回。
久しぶりというか初めてかもしれない料理テーマの話をしようと思いまして。
はい、料理テーマ。
世界自炊機構と理系の料理について語りたいと思います。
はい、お願いします。
そもそもっていうか、一応大事なことなので言っておくと、
私も何冊かいわゆる商業出版の書籍を書いたことがあり、
さらに言えば、理系の料理という辞書を
世界で一番料理が下手な人が書いた料理の本なのではないかと思っているという
特殊なポジションの本を書いていて、
実際自分自身の話をして別にスキルがあるとか、
上手に料理が作れるとか、
創造性ある料理が作れるとかっていうような要素は、
はっきり言って限りなくゼロに等しいと自分では思っているんですけども。
一応これで約10年、
奥さんと半々で交代しているので、
ほぼほぼ2分の1なんですけど、
10年間2回の夕食を、
多分実質休むことなく作り続けている。
結婚してから始まったってことかな?
そうですね。そこは理系の料理にも書いてあるんですけど、
料理のスキルが平均的な男性よりも相当低かったところから始めて、
今だったら平均程度の知識とかスキルとかならあるんじゃないかなと思うようになっていて、
別によしよしはどうでもいいんですけど、
おそらく今でもほぼ毎日料理を作っている男性とか日本だとおそらく少ないと考えれば、
僕はそっちやな。
性別限定で言えばトップ10%くらいになるのかもしれない。
なるほど。
というぐらいの前提ステータスであると。
さらに自分語りが続く感じになるんですが、
最初はめっちゃ面白かったんですよ。
料理スキルがレベル1の時ってことね。
できなかったことができるようになるとか、
あと同時に分かることもめちゃくちゃたくさんあって、
これは特性かもしれないけど、分かるという行為はすごく楽しいんですよね。
こういうことをするとこういう味になるのかとか、
逆に例えば外食に行った時にこれってどうやって作ったらいいのかみたいなこととか、
そんなことを考えたりもしていて、
最初の2,3年くらいはとても楽しかった記憶があります。
ただ、10年何かを続けるってやっぱりクソ難しいと思うので、
だんだん飽きてくるし、パターン化してくるし、
これ以上何か新しい料理に挑戦しようみたいな行為をすることも限りなくなくなってくるし、
作ることが嫌だとは言わんけど、あんま面白くないというか、
少なくとも刺激に満ちた好きな行為ではなくなった。
いわゆるルーティン化していくということですね。
そうですね。っていうような感じがあった中、
ちょうど今年の頭、もうちょっと前かなぐらいだったと思うんですけど、
ちょっとずつやる気が回復してきたというか、
きっかけは知り合いの家に行って飯を食わせてもらったとかで、
こういうたくさん作れるのいいなとか、
自分じゃない人の料理を食べたことでちょっと刺激を受けて、
そこから自分もこういうことできるようになりたいなとかちょっと思うようになったりして、
めちゃくちゃ頑張っているでもないし、
めちゃくちゃ嫌だっていうレベルでもないけど、
もう一回見直してみようぐらいのやる気が出てきている。
なるほど。
そういうタイミングで読んだのが、この世界自炊気候っていう本で、
この著者の山口優香さんという方も、いわゆる料理を仕事にしている方?
俺よりはきっとはるかに料理がうまいはずだと思います。
その出版社とかPR会社とかそういうところから独立をして、
初心者向けの自炊レッスンみたいなことを職業にしている方みたいで。
料理教室で教えてるみたいなイメージ?自分でやってるみたいな?
おそらく本を読んだ感想とプロフィールなどから推測するに、
割と実存的な料理の話とか、料理を作れることが目的とするというか、
料理を作るという行為を、自炊っていう言葉の方がおそらく近いのではないのか。
自炊を教えるという言い方なのか。
ニュアンスはわかる。
ハンバーグが作れるようになるじゃなくて、
冷蔵庫にあるものでご飯が作れるようになるみたいなことを
生き方として重視しているという印象?
極端単純に言うと生活力を上げるということですね。
そうですね。その過程で生きるとはどういうっていうか、
料理どうしたらいいんだろうとかっていう話だったり、
やっぱり教えてると一番言われるのが、
こんだて考えるのが大変とか、
いつも作る料理が同じものばっかりになってしまって、
まんねり化しているっていう悩みが、
日本の少なくとも著者が出会ってきた人たちの多くは、
そのようなことで悩んでいる。
なるほど。
おそらく、俺もものすごくわかる。
悩むというほどではないけど、
さっきも言ったように、
だいたい同じものしか作らなくなっているし、
新しいものを積極的に作ろうという気にはあんまりならないし、
大してバリエーションはないけど、
今日どうしようかなっていうことには意外と困ったり、
なるほど。
っていうようなことが多いんですけど、
著者は、それを世界と比較して客観的に見てみようみたいなのが、
この本でやっていることというのかな。
世界料理というよりは、
世界の家庭の自炊環境を比較してみようというような感じなのかな。
そうですね。実践方法としては、
何らかの手法で、その国の家庭のご飯を食べるところ、
作るところに一緒に紛れ込ませてもらって、
そこの家でご飯を作っているところを見せてもらって、
一緒にご飯を食べるっていうのを、
本に書いてあった話だと、
12カ国、38家庭を訪れ、
いくつかは削られていて、
12カ国のうちの24組のレポートみたいなのが載っているという感じ。
一応フィールドワークということだよね。
そうですね。カラーが表紙で16ページくらいあって、
本文550ページ超厚い。
クッソ分厚くて、
これは自分の正直な感想なんですけど、
冗長であるとは感じました。
それは仕方がないね。
これも自分の感想なんですけど、
そんなに筆力があるような感じはしなくて、
体験として非常に貴重だから面白いんだけど、
文章として夢中になって読むという、
そういう本ではなかった。
学術的な説明的な記述が多いからということではなくて。
おそらくそうではないですね。
めちゃくちゃ平易な日本語で書かれています。
まず一つは俺が予想するになんですけど、
いい子ちゃんすぎる書き方があるっていうの。
当たり前だけど取材相手のことを悪く言うみたいなことはないし、
その表現の柔らかくし方とかいうのかな。
あとは結局なんですけど、
俺の中で同カテゴリーである高野秀幸さんとかと比べると、
自分のダメなところをほとんど書かない。
書く場面がないではあると思うんですけどね、この本では。
でもいい子ちゃんであるという要素とか、
ちょっと長すぎるんじゃないっていう要素はありつつも、
これはやっぱりバリエーションがたくさんあることがおそらく大事でもあるし、
で、著者も明確に割り切っていて、
あくまでも自分が取材したという事例だけで、
これが普遍化できるものではないと。
っていう前提にして、
でも12ヶ国24組回ってみると、やっぱ傾向みたいなものはあるし、
そこから発見みたいなものはあるし、
それを読むと多くの人はかなり肩の力が抜けるというのかな。
すっきりした感じで追われるんじゃないのかなっていうのが最終的な結論。
【佐藤】ちなみにその学術的な興味というと、
回っている国の世界の分布というか、
比較的散らばっているのか、特定の地域、国、文化圏が多いのか。
【寺田】えーと、アフリカがないです。
【佐藤】まあだから日本人が比較的行きやすい国が多いということかな。
【寺田】とはいえざっと述べるんですけど、
台湾、韓国、ポルトガル、スペイン、フランス、トルコ、イタリア、メキシコ、ペルー、
もう一回アジアに帰ってきて、タイ、ベトナム、ラオス。
【佐藤】ということは東南アジアを含むアジアとヨーロッパと北米?南米?
【寺田】南米ですね。なので言ったらなんですけど、まずアラブ圏に行っていない。
旧ソ連地域行っていない。
メキシコは行ってるんで北米は行ってるけど、アフリカ地域が全然行っていない。
という意味で正直これもまた平等よりはちょっと遠い。
【佐藤】でもこれだけでも多様性があるということだよねきっと。
【寺田】そうですね。多様性がある。結論だけで言うとですね。
自分が思って感じたところで言うと、超極端なことを言えば日本以外結構似てて日本だけ違う。
【佐藤】日本だけ違うんや。
【寺田】そのぐらい言ってもいいんじゃないかなっていう印象だったかな。
あともう一個これもおそらくなんですけど注意しないといけないのが
こういう取材を受け入れてくれる人っていわゆる先進的な現代的な考えを取り入れているという方が多く
LGBTQなカップルとかビーガンに酔っているもしくは肉を極力食べないようにしているみたいな意識の人が多くて
そこももうちょっと割引いて考えないといけないというところはあるんじゃないかなっていう
【佐藤】日本に取材に行ったときに受け入れてくれている家庭があったとして
それが日本の平均とどれくらい距離があるのかはちょっとわからないということだよね
【寺田】そうですね。日本からランダムで2家庭って言って
そんなわけないだろって思うでしょっていう
絶対平均かなってできないことは目に見えてわかるじゃないですか
【佐藤】大阪と東北でも多分違うよねきっと
【寺田】俺たちはそのレベルの解像度が正直ないので
そこに行ってその人がいたのが大阪に相当するような場所なのか
東北に相当するような場所なのかとかもわかんないので
そういう感じで読むという前提にはなるんですけど
よく言われるのがなんだっけ
一人暮らしの時にカレーを作って
1週間それを食べ続けるとか
鍋作って1週間それを食べ続けるとかっていうのが
何て言うんだろう
貧しい暮らしの象徴みたいな
言い方をするイメージがあるんですけど
おそらくそこもやっぱ
茶運違うというか
その感覚が
どっちかっていうと世界標準
世界の多数派に近いんではないのか
そういう食事の方が貧しいという考え方そのものが
貧しい
貧しいと感じる時点で貧しいのはほぼ間違いない
そのぐらいそういう
何て言うんだろうな
自由じゃないか
結局その3カ国4カ国ぐらいの
作っている人見ると
一個一個は別に
何て言うんだろうな
事例としてそこまで極端に珍しいとか
変わった影響を受けたっていう感じではないんですけど
ちょっとずつ長いなりに
こういう人もいるんだね
こういう人もいるんだねみたいな感覚は結構ある
あったかもな
読んでいて
フランスなんかも
美食の国としてやっぱ有名だと思うんですけど
結構フランスとかこれは
フランスだけ出てきた話フランスだけだったのかな
やっぱ日常とパーティーじゃないんだけど
そのハレと毛の概念がおそらく今の日本より強くあるような
ところも地域もたくさんあるイメージ
日本も元々っていうか
かつての江戸時代の農民社会とかだと思うんですけど
普段は一従一切
米と魚と汁があって十分でしょっていう
鯖じゃないな魚はないなとさらに言えば当時では
米と汁があって十分でしょ米じゃない飯と汁ですね
多分白米は食えてない
で祭りの時だけいろんなものがたくさん出てくる
とかっていう感覚がフランスも割となんかそういう要素が強いようなイメージで
ホームパーティーみたいなものを週末にやったりすると
なんかその豪華でいっぱい料理作ったりするんだけど
普段はマジで夜ご飯ワインとチーズとパンをかじっておしまいみたいな
朝はそれなんだったかな
そういうレベルの晩ご飯っていうのかな
マジで何にも作ってないんですよね
買ってきたパンと冷蔵庫に入っているのかなチーズと
食べてかじってちょっとワイン飲んで
そんで晩ご飯以上っていう
日本だと多分それはやっぱおそらくなんだけど
貧しい晩ご飯になりそうだなって気がするし
少なくとも手抜きだとは評されるでしょうねきっと
そういうようなこともごくごく
おそらくこれは書いてあったところからの推測ですけど
それは珍しい事例ではなさそう
そういうのがごくごく普通みたいな感じで
でトルコなんかでもやっぱそういうようなイメージが多くて
さらに多分フランスもトルコも共通しているのが
自分たちが食う料理と有名だから観光で観光客が食う料理みたいなやつは
かなり違うっぽい
何て言ったらいいかな
外食で納豆定食は今吉野屋とかであったりするけど
そういうのって普通食べんよねって
逆に家で寿司なんて食わんよねっていう
普段の食べ物で家で寿司作る人はいないわけじゃないと思うけど
みたいな感覚でやっぱ結構どこの国でも多分そうで
基本的にやっぱ観光美食の国と言われていたって
普段そんなものを日常的に食べているわけではない
っていうのがすごく当たり前っぽいし
外国人の目線だからそれはひょっとしたら気づけることなのかもしれなくて
例えばヨーロッパから日本に観光にやってきて
家でご飯食べるの見て
お前たち家で寿司は食わないのかって言われても
寿司は外で食うもんだよなっていう感覚みたいなのも
変な思い込みから解消されるような気もするというのかな
みたいなのもあるし
次のイタリアなんかは特にそうだし
これも世界で共通していることだと思うんですけど
自分たちが食べてきた料理が基本的に変わっていないっぽい
数百年レベルで
その地域地域の食事がずっと続いてる
特にイタリアとか多分ドイツもそうだと思うんですけど
もともと一つの国家になったのってまだ歴史が浅いんですよね
イタリアもジェノバがあってミラノがあって
シチリアがあってとかそういう感じで
シチリアって違ったっけ?まあいいや
そういう感じで地域ごとに食の文化として
めちゃくちゃ普段食べているものとかが違っていたりとかしていて
少なくとも著者が言った
やっぱイタリアの何個かの家庭とかの普通の料理を食べると
全然地域ごとに食べているものが違う
みんなピザ食ってるのかというと
そもそも別にみんなピザ食わんし
あれも極めてイタリアの限られたエリアの
そういうところでナポリでナポリピッツァがあるわけで
ナポリのピザなわけですよ
ミラノのなんかなわけ
ミラノフードリアは嘘やし
なるほどね
例えばなんだけど
おそらくそれが日本に当てはめるとしたらやっぱ
東京の人はそんなにたこ焼きを食わんと思うし
東北の人が焼酎を毎日飲むかっていうと
あんまりやっぱ飲まないだろうし
そういう地域差みたいなやつも結構強いし
日本だと今やそれが何て言うんだろう
どこの家庭でも世界中の料理を作って食べているというのか
という国家になってしまっているけど
そういう家庭はここまで出てきた中で
完全にゼロなのか分かんないけど
全然なかったみたいで
だから気になったらアメリカのニューヨークの家庭がどうなっているのか
つまり先進国の前の方にいて
世界中の情報が当たり前に入ってくる国というか地域でどうなのか
それも日本と同じなのか
やっぱり日本だけが特徴的なのかちょっと気になったね
想像なんですけど
アメリカで言うと外食で世界中のもの食べてそうだけど
作ってないんじゃねえかなっていう想像ができるかな
本当かどうか分からんけど有名なやつって
アメリカ人のお弁当がポテトチップスとバナナだっていう
俺それはさすがに嫌だなって思うんだけど
で日本人の弁当というものがとてつもなく世界で最先端をいっている
みたいなこともあるからやっぱ
そういうなんて言うんだろう
多分なので日本だけなんじゃないのかなっていう
そういういろんなものを世界中の料理が当たり前に作れて
材料が比較的容易に手に入って
そして日常的に外国文化のものを食べている
豊かであろうとは言えますよね
そうですね間違いなくその多様性という点では豊かではあるけれども
でもじゃあ毎日米と味噌汁ではダメなのかっていうところが
やっぱ結局疑問というか考えていたらいいんじゃないかというところでもあるのかな
何でもありだからこそこれだっていうスタンダードが
逆に定まらないということだよね
そうですねで例えばそれは
これももう1個自分が面白いなと思った特徴があったところなんですけど
その著者がその後メキシコに行った時
メキシコのご飯っていうのが
トルティーヤに何か挟んどいたらソンデー
チーズ挟んどいたらソンデー
ここの国か忘れたんだけどさらに言うと
ちゃんと座って食べるみたいな感覚すらなくって
なるほど
なんかテレビ見ながらパン出してきて
パンにイメージ日本人のイメージなんですけど
日本で言うならばテレビ見ながら食パンとソーセージ出してきて
食パン折ってパンに挟んで
立ったままテレビ見ながらそれ食べて5分でご飯終了みたいな
そういうのを別にさらに言えば
一応日常を見せるとはいう取材なわけじゃないですか
そういうところでも別にそれを普通に多分思って
普通にやっていて見せられているという感覚
これも日本と違うなと思って
確かに
日本だともしそれをやることがあったとしても
なんかねやっぱ取材されたら見せんと思うんですよね
その家庭が食を囲む
まず食卓という言い方しますけど
食を囲むシーンを多分作るよねきっと
とか普段いつも通りなんですとか言いながら
やっぱ見栄の張ったものを作ってしまうというか
確かにね
なんかそういうところを全然気にしない文化をだったり
逆にトルコとかでもそうなんですけど
たまにものすごく手のかかるものみたいなものも
作っていたりもするみたいで時間かけて
ただ例えばそれ1回作ったら
やっぱ何回も使い回してっていうか
それをちょっとリメイクして食べるみたいなこととかも
やっていたりもしているし
そういうバランス感覚みたいなやつもあるのかなとも思うし
ペルなんかも割とそういう感じで
ここはでもそんな印象が残ったっていう感じではなかったな
やっぱねこの辺になるとだれてくるんですよね
読んでる側も
ペル料理に対しての持ってる前提知識が全くないから
イメージが浮かばないね
ペルは確かペルは違ったかな
ここ日本と割とつながっていたんじゃなかったかな
かつて日本人が第二次大戦前とかに
ブラジルとか南米とかに多く移民として行った時期とかがあって
ちょっと本に書いてあったことだったか忘れたんですけど
ペルとかにも日本的な料理とかがあったんじゃなかったかなっていう
メキシコも南米も割とそういう
ある意味もともと土着の人たちと外部からやってきた人で言うと
アメリカとはまた違う形で合体の仕方をしていて
これはあくまでも印象でなんですけど
結構良い意味で特徴があって
ヨーロッパではありえないような組み合わせっていうか
料理のパターンみたいなのは南米とかは結構あるっぽいですね
メキシコももともとのアステカだったっけ
もともとの料理にアメリカ文化の影響が強く混じって
独特の料理みたいな形が出てくる
あとメキシコだとテキーラとかもそうですよね
おそらく他の地域ではあまり飲まれていないけれども
メキシコでは異様に有名でみたいな
そういう南米は日本からだと極端に遠いので
全然行く気にならないというか
かなり縁が薄い地域ではあると思うんですけど
料理はこの辺に慣れてきて
印象度で言うと少ないんだけど
面白さで言うと変わったもので言うと
南米が一番変わったものっていう感覚が一番多かったかも
なるほどね
なんでこれ甘いの?みたいな料理とかも確か出てきた気がする
でもこれ意外とうまいんやみたいな
我々の常識とはだいぶ違うもの
もうだいぶ雑な感じになってくるんですが
あとタイとベトナムとラオス
バンコクタイで面白かったのが
タイも同じく台湾と同じく超屋台の国家なので
基本外で大体足りるんですけど
外が混みすぎてて渋滞でくっそ大変だから
外に出たくないから料理を作るみたいなパターンだったりだとか
これはベトナムだったと思うんですけど
ベトナムのイメージでそこら中をバイクが走りまくっている
そういうとこで出されるご飯とか嫌だよねっていう理由で
衛生的な観点で外食ではなく自炊を選ぶ
みたいな考え方もあったりとか
ラオスの場合は著者が予備知識なしで向かっていったみたいな感じで
著者自身もちょっと飽きているのかもしれないし
あえてそうしたみたいに言っているけど
自分もあんまり印象には残らなかったんですけど
最後の終わりにみたいなやつがやっぱ一番学べたというか
綺麗にまとめてくれていて
ここまで書いてあったことはすごく体験談で雑多なことで
整理がしがたかったんですけど
最後のまとめみたいなやつをざっと紹介すると
まず言えるのがどこの国行っても料理をめんどくさいと思う人いるし
忙しいからなかなかやれんっていう人もいるし
家族のこの人はこれ好きだけどこの人は嫌いだからめんどくせえ
みたいなことはやっぱ存在をしているらしい
同時に毎日毎食こんだてが違うとか
旬のものを食べるとか
栄養バランスを毎食考えるという概念すら
日本以外ではほぼ見られなかった
あとはさっき言ったようにレパートリー増やすんじゃなくて
循環でいいよねっていうのはやはり
どこの国でも結構そういうことをしている人が多かった
少なくとも毎食なんか違うご飯が出てくるというのは
世界の基準で見た限りで言えば
実質日本しかないというか日本だけがとても特殊なパターンらしくて
でも江戸時代は多分日本の食事もそうやったわけで
どっかのタイミングでこうなったってことよねきっと
ラシタさんが調べた料理研究家の云々みたいな話とかと
ひも付けるといいかもしれなくて
ここにまとめに書いてあったわけじゃないんですけど
もう一個それとつながって非常に面白いなと思ったのが
こんなに料理の本がある国もないらしいです
そうでしょうね
本屋さんに行ったら料理本ってコーナーがあるでしょ
何ならしかも一番売れてる漫画雑誌料理ぐらいが
三大ジャンルなんじゃないかっていう
雑誌の中でもあるから料理は
料理のどこだったかな
韓国だったかだと思うんですけど
そこの家庭に行ったら料理の本が置いてあって
何冊かはハングルだったんだけど
あと日本の料理の本だったりするらしいんですよね
そのぐらいおそらく韓国で料理の本というものは
普通売ってなくて
料理研究家という概念もたぶん存在できないよね
たぶんニッチすぎて
たぶんなので極端なことで料理系YouTuberなんて
日本にしかいないのかもしれないしそれは分かんないですけどね
チャンネル的に言うと世界に発信できるから
他の国にいてもおかしくないけど
たぶん主たるユーザーは日本人
料理の本がどっちもだと思うんですけど
確かにアメリカは結構あるわけ
ここまでのレシピ本はないけど
料理本は結構アメリカにはある
アメリカって言っても多分そのニューヨーク近辺やと思うけど
でも他の国の話はあんまり聞いたことないね
そうですね料理の本とかレシピみたいなのは
なんとなくやっぱ世界でもあるんですけど
あとこれは自分が読んだ印象だけど
ほとんどの取材に行った人は
レシピとかはやっぱ見ないっていう派閥の人が多かったかな
ばあちゃんから習ったもので自分で作っているとか
いわゆる勘で作れるっていうか
俺は調味料とか書いてないもので作れるのって言ったら
もう味噌汁等あと何があるだろうぐらいしかないんですけど
そういう感じでやっぱ料理というものがそもそも特殊であるし
あとなんて言うんだろうな
結局目的ではないというか
より効率的というかより実利に寄っているというか
結局だから多分ずっと同じの食ってたら飽きはするんだけど
1週間のパターンやったら飽きんでしょって思っている人が多そうな印象
実際それで飽きないんでしょうねもちろん
ずっと同じはやだけどだいたい同じでいいよねって
多分みんな思っていて
なのでだからたくさん覚えるんじゃなくて
数種類の得意なメニューがあればそれでいい
っていう考え方が全般的に多かったっぽい
必要やったら外食多いとかは別に外食先選べるわけだし
晴れ時計の話で言うとたまに晴れの日があるから
そのパターンから逸脱するっていうことが起こるし
手前の自分の家の家庭料理がパターン化してても
本当の意味での固定化っていうのは多分なくて
ある種アクセント的に違う料理を食べるっていうのがあって
それ全体で大きなリズムが多分作られてるんでしょうね
さっき言った栄養バランスっていう話でもあるんですけど
そういうことを気にしていない人がやはり多い
著者が一番おそらくやめといたほうがいいっていうか
気にすんなっていう話で言うと
こんだてはまだしも栄養バランスを日本は一食単位で取ろうとする
西洋とか今は取材してきた人は
1日とか1週間っていうスパンで
大体バランス取れとりゃ十分でしょって考えている
っていう著者が感じたと言っているし
俺が思うに何も気にしてないんじゃないかとほとんどの人は
ただ何も考えていなくて
結果的に大体バランスが取れているだけなんじゃないのか
少なくとも伝統的な料理を繰り返し食べているのは
自然淘汰的に言うとその料理はある程度バランスが取れた
生き延びられている料理なんですよね
結局一つはこれ良いことでもあり良くないことでもあって
日本の料理って旬というものがあるから
その季節に美味しいものというのが明確にあって
当たり前だけどそれを選んだ方が
バランスよく美味しく感じられる
美味しいし安いし基本的にコスパがいい選択だと思うね
ただそういう生き方として豊かではあるんだけど
それをみんなに共生するものでもそもそもないし
それが辛いという考え方はあるし
何よりも一番面白かったのが
美味しくなくていいと考えている人がいっぱいいる
まずいのは困るけどということはあるよね
それはもちろん食事なんやから
だから過剰な美味しさがなくていい
でも例えばやっぱり美味しいんでしょうね
根本的に違うんだと思いました
俺も美味しいものを求めすぎているんだろうなと同時に思わされた
食事として生じているラインっていうのがだいぶ低いところにあって
もちろんそれで十分だという価値観
食事に人生の豊かさを求めなくても
その他のところに豊かさがあるから満足できていると言えるかもしれないけど
どっかの国の価値観とかは何食べるかじゃなくて
みんなで集まって食べることこそが重要で
そのために誰かが疲弊してしまったら一番間違っているみたいな感じのことを言っているし
みんな特に美味しく作ろうとしていないとか
料理がぬるくても別にええとか
俺めんどくさい人でね温度すげえ気になるタイプで
そうめんは水じゃなくて氷で冷やしたいし
味噌汁はその100度に近い温度で飲みたいと思うし
それは確かにめんどくさいわ
それは俺の好みなんだけれども
自分は相当めんどくさいし
美味しいという考え方が日本の平均とは多分違うとは思うんだけど
世界の平均とも相当違うものなんだなということがやっぱり思い知らされるし
美味しくしないといけないという前提やめたら
料理クッソ楽やでっていう感じのニュアンスが一番面白かったかな
確かにね
悪く言えば規範を生み出しているし
画期的な料理のシステムでもあった
結局のところやはり規範が強いところ
自分はねもう一個さっきも言ったけど
やっぱその栄養バランスなんて
ええんやっていう
その毎食さらに言ったら
これ教育だと思うんですけど
まず学校給食がすざまじいバリエーションじゃないですか
栄養士さんが
でもあれは千里のために栄養士さんが専属で
それを考え続けて作られたコンダテであって
毎日違うものが
毎回限りなく完璧な栄養バランスで
さらに最近息子の給食とか
いわゆる世界の韓国系のなんかとか
和を重視しつつもやっぱ非常に
俺たちの時代よりはるかに豊かなコンダテが出てきていて
なるほどね
それを当たり前とか
規範として見せられたら
学校給食で違うのが出てきているのに
家庭料理が違うのが出てこないと
どういうことやっていうことになってしまうわけですね
同時にやっぱ食育が大事であるという言い方間違っちゃないと思うし
それは確かにそう思う
でも規範になっているのは
学校給食ではないかという可能性もあったりして
我が家の場合
学校給食でめっちゃバランスいいもの食っとるんやから
週に何回か別に晩御飯なんて
栄養バランスなんてどうでもよくていいよねっていう感じのこと
俺は思っていたんですけど
もっと極端なことを言えば
これを読んで思ったのが
だから給食食っとるんやから
栄養なんてどうでもいいやぐらいの言い方で
いいんじゃないかと思ってね
まあそうやね
結局栄養バランスが崩れすぎるのがもちろん問題なわけじゃん
ビタミンを全く取らない食事ってのはまずいわけやけどさ
なんかこうね栄養バランスって言ったときに
なんかイデアが生まれて
ある点に向かって
もう一回そこに行かないとダメみたいな
批判性が生まれるんですけど
そこはなんか弱める必要がありますね
必要とされる栄養素っておそらく
ほとんどのものがめちゃくちゃ少なくて
あの
なんて言うんだろう
国家が推奨している
このぐらい取りましょうとかでもあるけど
言ったらなんだけど
ミリグラムとかの話だったりするわけじゃないですか
なんならビタミンとかマイクロでしょ単位
だから適当に野菜食うときはもうええみたいな
多分あるし
ちょっとぐらいなくても問題ねえし
その塩とかもね
それはこれとは違う話なんですけど
塩分取りすぎは
自分は血圧が高い傾向があって
最近塩分みたいなのを気にしたりとかしていて
確か日本が推奨している
その塩分摂取量の上限値が8グラム
とか10グラムだったかな
でこれは世界で見てもめちゃくちゃ高いらしいんですよね
でえっと
スーパーで売ってる
ラーメンをスープまで合わせると
だいたい平均して8から10グラムぐらい塩入っている
ラーメン1日に1回でも食べたら
もうあと塩味ダメなんですよ
そういうことになるな
っていうぐらい過剰に塩分取りすぎているし
さらにこれは生成AIに調べてもらった話なんですけど
生物として生きていくために必要な分量で言うと
1日1グラムもいらんらしいんですよね
なるほどね
逆に言えば人間そのぐらい余分に食っても死なんとも言えるし
確かに
かつての人々がどれだけ味のないご飯を食べていたのか
多分極端なこと言えば
現代の社会で塩とか醤油を一切使わんくっても
食物に含まれている塩分だけで
味的には満足できるはずで
なるほど
世界で見れば全ての食事はやっぱり古代人から見たら
全部とんでもなく塩味が効いていて
美味しいというふうに言えるのかもしれないし
そうでしょうねきっと
って考えたらやっぱり
大してうまいもの食わんくっていいんだよなとか
あと極端に自分もちょっと薄いとか
全然気にしないで生きていけることがいいよねとか
だからやっぱり
例えばドーナーアジアとかの屋台で外食するっていうのと
日本の外食するでは多分意味合いがだいぶ異なるというか
味付けが濃いんだよね基本的にね
資本主義な味付けなんですよね
基本的に毎日食うことを意識して作られてないというかそもそもが
提供する側は毎日来てもらうために
印象に残るために濃い味にしないといけない
でも成分的に言うと毎日食べるように設計されてないということで
だから外食が良くないという言い方は分からんではないんやけど
でもバランスの問題はあるよねとは思うけどね
いろんな人が言ってるのがやっぱ結局コントロールできるのは
自分で作ることになるのとか根拠信用ができるというのかな
そのある程度までは
っていう観点ではやっぱり自炊はできた方がいいだろうし
サバイバルという観点では何かの時に
生き延びられた方が便利ではあるし
あとはやっぱ面白がれるかじゃないかなと同時に思って
面白がれなかったらもうルーティンでいいってことだと思うねこれは
それがもうベースラインで面白くしたいんやったら
料理を覚えましょうっていうことだと思うんですよね
家庭科のやっぱご飯の作り方とかは
やっぱね規範性が強すぎるというかそれで言うと
自分が覚えているのはなんか味噌汁みたいなやつを作った時に
なんか全然味しねーなーとか思ったやつに
本だしを入れたらなんか味噌汁の味になったって思って
家庭で覚えた味噌汁の味がそれやからね
そうそうそう
でもまあ極端なこと言えばだからだしなんてなくったって
味噌汁は成立するわけで
そうやね
とかなんかあと覚えてるのがお茶の入れ方みたいなやつなんですよね
3つ器があったら半分半分にして戻しましょうとか
それはやっぱり生き方のマナーであって
なんかこうサバイバルとか豊かに生きるという言い方をしたら間違っちゃいないんだけど
楽しめる人がそれを趣味としてやるのはもう全然問題ないけど
やっぱり一般的な規範性として押し付けられた時に
日本人ってそれをあんまり通達しないから
そうするのが当たり前っていう普通に普通化現象
普通化現象が起きてしまう
全然普通じゃないっていう
それは日本の中でも普通じゃないし
世界で見た時にもっと普通じゃないというのが
この本性見たら分かるってことだよね
そうですね
日本で見たらだし
それはやっぱね結婚した時にすげー思いましたね
ご飯の普通がいかに違うのか
うんうんまさに
前に話した川なんですがカレー作ろうって言って
はるなさんがいきなり牛肉を買おうとし始めて
この人はどういう高貴な生まれの生き物なんやろって
京都の人はそうじゃないかな
関西はカレー牛肉なんですよ
というか肉という用語が牛なんですよ
そうだよね
東京はカシワって言うし
ブタンと来たけどブタマンって言うけど
ブタはブタって言うよね
関東は肉まんなんですよね
そこは明治期の文化があってみたいな話で
ただ少なくともそこでちゃんと話を寄せれば
こいつはおかしい奴だっていうところで終わってしまうわけで
なるほど
逆に言うと
カレーが牛もしくはブタということが
相当偏った考え方なんだっていう
まあそうだよね
どちらが正しいではないので
そういうことなんかも日本国内ですら起こる?
だってひき肉使うパターンと使わんパターンでも
もう派閥があるからね
さらにそのカレーというのはまた日本独特のカレーであってみたいな話でもあるし
確かに確かに
結局そういう多様な経験をすることなんだろうなとも思ったりも
そうだよね
っていうので何が正しいとか
自分がやっぱり思った
そうですねバランスと美味しくなくていいかな
印象をまとめるならば
やっぱり料理の規範を作る人が料理を作る人でないといけない
マナー講師と一緒の印象が起こっているのかもしれない
作らない人が何言ってもさ
確かにそうであったらいいよねっていう理屈ができるわけやけどさ
自分が作る人になったらさ
いやそんなん全然無理ですよっていう現実とのライン引き戻すわけやん
やっぱ規範作る人と作る人の思想が一致してないところに問題が多分あるよねこれは
という意味で著者がやっぱり切り込もうとしている
別に著者は自炊を多分好きでやっているし
割とそこを職業にはしているので
ポジショントーク的なニュアンスがないわけではないと思うけれども
とはいえやっぱりその多くの人がきっと悩んでいて
日本ではなんだかんだ自炊をする方が多数派ではあって
そこを悩みを解決する位置上にはなるんじゃないかなと
確かに確かに
思いました
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