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2025-11-18 1:27:33

BC127『哲学史入門Ⅳ』

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今回は、倉下が『哲学史入門Ⅳ』を紹介しました。

一般向けの哲学紹介本の中でも、本書は一味違った楽しさがあります。

書誌情報

* 出版社

* NHK出版(NHK出版新書)

* 発売日

* 2025/9/10

* 編者

* 斎藤哲也

* 人文ライター。1971年生。東京大学文学部哲学科卒業。著書『試験に出る哲学』シリーズ、『哲学史入門』シリーズ(NHK出版新書)、監修に『哲学用語図鑑』(プレジデント社)など。

* 目次

* 序章 倫理学に入門するとは何をすることなのか(古田徹也)

* 第1章 現代に生きる功利主義―誰もが幸福な社会を目指して(児玉聡)

* 第2章 義務論から正義論へ―カントからロールズ、ヌスバウムまで(神島裕子)

* 第3章 徳倫理学の復興―善い生き方をいかに実現するか(立花幸司)

* 第4章 なぜケアの倫理が必要なのか―「土台」を問い直すダイナミックな思想(岡野八代)

* 特別章 「地べた」から倫理を考える(ブレイディみかこ)

構成は、編者による解説+研究者へのインタビューで、両方読むとよくわかるようになっていますが、インタビューだけを読んでも楽しめると思います。ざっくばらんな雰囲気と、論文などではあまり見えてこないそれぞれの研究者の「人間くささ」が伝わってきます。そして、本シリーズを通して読むと、哲学というのは「人間の営みなのだ」ということがよくわかります。

でもって、このⅣはまさにその「人間」に焦点を当てています。

倫理学の必要性

現代ほど倫理学の視点が大切な時代はないでしょう、と書くといささか大げさめいていますが、それでも科学の発達で「人間の拡張」の可能性が開かれたり、LLMの登場で「人間知性の拡張」が現実味を帯びてきた中で、「そもそも人間とは何か、人間として生きるとはどういうことか」を問うことは欠かせないように思います。

また、インターネットとスマートフォンの普及によって、これまでになかった規模や範囲で人と人の交流が生まれるようになっています。人間(じんかん)を捉える視点が、これまで長く続いてきた社会とは大きく異なりはじめているわけです。目の前に顔が現れ、文脈を共有し、共感が働きやすい共同体とは違った関係において、その関係を維持したり、よいものにしたりする能力を磨くことも必要でしょう(少なくとも生得的な能力としては持っていなさそうです)。

加えて言えば、現代では市場原理があまりにも強くなり過ぎています。あたかも「原理」がそれしかないかのように扱われています。しかし、アダム・スミスが道徳を論じたように、市場に参加する人の感情的能力があってこそ成り立つものがあるはずです。それを無視して、システム=メカニズムを整備すればうまくいくという考え方は、あまりにも見過ごしてしているものが多いと感じられます。

そのような単一の原理の一強体制は、市場だけに限りません。本編でも触れたように「正義」の原理だけが重視され、ケアの倫理が無視されてきた歴史も同様でしょう。もちろん、それぞれの時代においての最善はなされてきたのだと思います。だからといって、それをこだまのように繰り返せばいいとは言えません。「解釈と批判」を続け、その時代に必要な新しい視点を確立していく必要があります。

というよりも、そのような営みをずっと続けてきたのが「人間」なのかもしれません。だとすれば、「人間」の終焉がありえるとしたら、そのような営みが閉じられるタイミングなのでしょう。



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サマリー

このエピソードでは、哲学史入門のシリーズ第4巻について話され、ケアの倫理や合理主義に関するテーマが取り上げられます。また、哲学の歴史を通じて、著名な哲学者の思想を比較しながら、解説とインタビューの構成についても触れられます。さらに、哲学史を学ぶ意義やそのプロセスがどのように変化に対応するかについて考察されています。近代から現代にかけての重要な哲学者たちとその思想の流れが紹介され、特に倫理学や正義論に焦点が当てられています。倫理学の重要性とその学び方について議論され、視点の変容が強調されます。また、公理主義とその限界、非認知主義に関する問題意識が探求されます。合理主義や効果的リーター主義、カントの正義論とロールズの考え方について掘り下げられ、現代における正義の概念や平等の在り方がどう変わるべきかが考察されます。特にケイパビリティアプローチがもたらす新たな視点についても触れられます。ポストロールズの流れや特倫理学の復興に関する思想が紹介され、アリストテレスの倫理学との関連が考察されます。また、ケアの倫理の必要性とキャロル・ギリガンの提唱した新しい道徳性の考え方についても言及されています。フェミニズムの歴史やケアの倫理についての新しい視点が示され、ケアの倫理と正義論がどのように異なり、相互補完的であるかが考察され、構造的な背景が女性の経験に与える影響についても触れられます。アナーキズムの概念やその実践の重要性、またシンパシーとエンパシーについて深く掘り下げ、カントの義務に関する見解と倫理的活動における支援の必要性についても考慮されています。

00:01
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。 最初にいただいた感想、コメント等を紹介したいと思います。
はい、お願いします。
しょりえんこさん、取っ払うを聞いて即購入し、SNSアプリやGmail、YouTube、標準ブラウザを全部スマートフォンから消して、画面からショートカットも全部消した結果、心がとても軽くなった。
ちょうど次の日の飲み会でスマートフォンを無くしたけど、全然焦らなかった。かっこ無事見つかった。
スロージョギングも通勤時15分かける2を始められたし、効能しかないんだけど、唯一の悩みはこの思いをブックカタリストの感想として伝える手段もなくなったこと。
AIで調べて、スカイスローという投稿専用アプリを見つけて今に至る。
スゴイですね。僕、取っ払うを紹介した人ですけど、SNSアプリを削除するのは未だに出来てないですから。
そこまでは分かる。
標準ブラウザってこれ、iPhoneではSafari消せないですね。
確か消せなかったと思う。
あれは出来るのかな。
アンドロイドアプリでChromeを消すことは出来そうだけど、どうなるか分からない。
あとパソコンを使ってくださいですかね。
何で聞いて貼るのか。ニュースレター系で聞いて貼るならニュースレターに返信でもいいし、スポティファイも確かコメント機能があったと思うけどね。
スポティファイのコメント、俺多分あっても気づかんと思う。
投稿専用アプリは確かに非常に重要で、Twitterとか投稿しようと思ってタイムラインが目に入ってそのまま脱線してしまうということがあるので、投稿だけするというのは低ですね。
あと何よりも個別の返信よりも、実はパブリックな場所でブルース会なりツイッターなりでつぶやいていただける方が広まる可能性があるので嬉しいっていう。
プロモーティング効果が高いですね。
そしてそっちの方が多分なので取り上げる可能性は高いですっていうやつですね。
確かに。
あとですね、前回確かちょうど紹介したと思うんですけど。
生ねぐさん、毎日スロージョギングしているという方が記事でもまとめて、スロージョギングの話をまとめてくれていて。
25日間、朝5時に起きて2キロのスロージョギングを続けられているっていうのと、毎週水曜日はノースロージョギングデーとして明確にお休みも取られているみたいですね。
以前は仕事終わりに40分を散歩してたんだけど、それがスロージョギングになったっていうのと、あとラシタさんがめっちゃ素晴らしいって言っているのが、走った後の自分を褒めてあげている。
何かあっても毎朝2キロ走ってますからねと、誰に自慢するわけでもなく自分自身をこぶしている。しかも実際に自慢しても鼻につかない。
これすごい良いなと思うんですね。これある種、続けるためのテクニックとかノウハウと言えると思うんですよね。こういうことをして自分で褒めてあげる。
このしょうもないマインドハックのように思えますけど、これ実はかなり根本的なことじゃないかなと思ってますね。
あと、俺から見てなんですけど、朝5時に起きて2キロスロージョギングを週6日間続けられるというのはトップ1%ぐらいのすごいことなんじゃないかと思うんですけど。
すごいことですし、すごいことじゃないにしても自分自身を褒める。すごいことをした自分偉いというよりは、ちょっとしたことをした自分を褒めるということがセルフマネージメント全般において大切ではないかなと思うんですけど。
例えばですけど、ゴリゴさんが自分のお子さんがノーベル賞を取ったら褒めるけど、そうじゃなかったら褒めないってことはないわけじゃないですか。
今までできなかったことがちょっとできただけで、すごいって言うわけじゃないですか。心の底から。それと同じように自分も褒めたらいいんじゃないかなと僕はずっと思ってて。
それができたら多分いろんな罪悪感から解放されるんじゃないかなと思うんですよね。
あとめっちゃ細かい話なんですけど、子供を褒めるときはどっちかというと心の底からより教育要素の方が頭に働いている。
そうなのね。
かなりその認識がある。
その認識があっても同じように自分に適応したらいいんじゃないかなということですね。
それは同じことを、まさにその心の底から褒められんくっていいから、自分への教育要素として褒めればいいんだと思う。
はい、確かに。
あとですね、たかぴさんが、これは汗をすごいの感想だと思うんですけど、汗の機能とそこにまつわる有用な知識を得られた。
身体シリーズはこのパーソナリティ2人がやるからこそ説得力が出る。
この番組を聞いてから助業を始めて汗も頻繁にかくようになってきたので、さらにためになった。
紹介した方全員が走るようになっている。
走るようになったからコメントしてるんでしょうね。
そういうバイアスはあるね、当然。
でも何かし変化、僕らが強制したわけじゃなくて、やろうと思う気持ちに自分からなって走ってっていうのは良いことですね。
身体シリーズこのパーソナリティ2人だからこそ説得力が出るらしいですよ。
どういうことなんやろ。
身体シリーズ俺しか言わんし。
僕らがあんまり運動家じゃないからこそっていうことなのかな。
アドレナリンがっつり、ドーパミンがっつり系の運動の話では全くなく、むしろアプローチは真逆ですよね。
あんまりマッチョじゃない2人が言う身体健康運動シリーズは逆説的な説得感があるっていうのはあるかもしれないですね。
そういえばね、それで思い出したんですけど、たまたま記録を取り始めてから約10年分の体重を振り返ってみたんですけど、
今年は現段階までなんですけど、約10何年で一番体重が少ない1年になっている。
素晴らしいですね。
やっぱり色んな学んで、5年かかるんですよね、成果が出るまで。
ブックカタリストは確か5年くらいですよね。
僕たちは基本的に無理をしないという方針でこの番組も、あるいは勉強とか運動とかもやってますけど、
負荷をそれある程度限界値を超えないラインでやると、やっぱり数年単位を見込む必要があるというのはあるでしょうね。
ジョギングをするまでに4年半かかって、筋トレするまでに4年かかって。
4年かければ人は過去の自分が思いもよらぬようなことをするようになるというのは希望の話なのかもしれないですね。
細胞組織としては完全に100%何もかも入れ替わっているはずですよね。
確かに確かに。
そこが脳が連続的に記憶をもとにして同じ自分だって思い続けているだけであって。
それを4年ぐらい時間かけると違う自分像が構築され得るという感じかな。
そうですね。2日に1回ですけど自分の場合。
ジョギングをするなんてブックカタリスト始めた頃の自分に言ってもそれは嘘だなって思うと思うから。
そういう変化を自分のメンタルモデルに取り込んでいる人は多分人生に飽きるってことはないんじゃないかなと勝手に予想しますけど。
だって再来年の自分が予想できないわけですからね。
いい意味で予想できないですね。
哲学史入門シリーズの概要
ということで今回は127回、哲学史入門4。
今回は倉下のターンということで哲学史入門4、4か4かわかりませんけど取り上げたいと思います。
宿題が正義論、合理主義からケアの理論までなんですけども。
ケアの倫理ですかね。
倫理がわかりません、倫理までなんですけども。4ということでシリーズものなんですね。
1から3までがもうすでに出てまして、全て当たり前ですけどNHK出版新書から出てます。
NHK出版新書というと多分オレンジのカバーを思い浮かべる方が多いと思うんですが、
本書はシリーズ特特のちょっと明るいクリーム緑色っぽい感じの表紙でして、
編集者さんが共通でして、斉藤哲也さんという方で、試験に出る哲学、センター試験で西洋思想に入門するという、これもNHK出版新書から出ている本でして、
僕読んでないんですけど、僕の記憶は確か郡岡さんはこの本読まれたかな。
読みました。これは入門として話題がまず学校、センター試験に絞ってあることで、
そういう倫理をやっている人もそうだし、やらない人にしても切り口が入りやすいっていうのかな。
こういう切り口にすることで。
という意味で、めっちゃ専門家じゃないからできることなんだなっていう、いい目線の本だと思いました。
なるほど。
その著者の方、斉藤哲也さんといって、一応肩書きで言うと、人文ライターという肩書きを名乗っておられるのか、誰かが言われているのか知りませんけれども、
サイエンスライターとかスポーツライターという各ジャンルごとにおいて、
専門家と一般市民をブリッジする存在としてのホニャラライターというのがあった時に、
人文ライターというのもあるんではないかということだと思うんですね。
実際そのような仕事をされてこられましたし、今作も魅惑の中に位置付けられると思います。
一応軽く、4なので1から3まで簡単に紹介するんですけども、
まず哲学入門じゃなくて哲学史入門なんですね。
哲学の歴史を学びましょう。
ということで、基本的に1から3に至るまでは、哲学の始めあたりから現代に至るまでの時系列においた哲学者の思想を並べていこうと。
面白いんですけど、全てのシリーズが解説とインタビューのセットになってまして、
多くの本はどっちかだけのことが多いんですね。
インタビューだけで構成されている本か、あるいはわかりやすい解説だけで構成されている本が多いんですけど、
1つのセクションに対して哲学の研究者、専門家にインタビューする前に、この辺を知っておくとインタビューの中身がもっとわかりやすいよっていう偏差の解説があると。
解説を読み終えた僕たちはインタビューに臨むと。
一応インタビューだけ読んでもいいですし、解説だけ読んでもいいですし、両方読むこともできます。
1個1個はそこまでボリュームがあるわけじゃないんで、詳細に語られているわけではないんですけども、ざっと概略をつかむにはちょうどいい分量になっておりまして、
そういう構成の捉え方でも初心者向き、入門者向きになっているんじゃないかなと思います。
ちなみに私は1と2と3を買ったんですが、やはり前から読もうという欲があり、
1は読み終えたんですが、2が一言で言って強烈に興味が持てないジャンルで、そこで止まってしまっています。
歴史なんで、順番通りに読んだほうがいいかなというのが僕の感じでして、
最初から読んだほうがいいけど、全部読まないと。
2はもっと飛ばしたほうがいい。さらに言うと一般的に西洋哲学史じゃないですか。
2って自分の偏見なんですけど、やっぱりキリスト教と哲学なんですよね。
正直そこには興味がないというのが今の自分の思いで、飛ばせばいいのにそのせいで3に手を出せないっていう。
そういう時はやっぱり飛ばすほうがいいと思うんですよね。
1から3までこう言うとなんですけど、お客さんを来てもらえそうな方の名前が上がっていまして、
1が千葉雅さんが一番最初に哲学史を学んでいく、いかに学ぶかというような話が序論でありまして、
とりあえず千葉さんの教えでいうと、その細かい話はいいと。
固有名詞とかその哲学者の唱えた概念みたいなものはひとまず詳細にはまり込まずに、
まずざっと年代とその哲学者の流れをまず捕まえるのがいいのではないかと。
例えばデカルトとヘーゲルっていう名前を見た時に、どっちが先なのかがパッとは別れはいいと。
でも分かった方がいい?そのぐらいは。
そこぐらいが分かったら、その後読む時にだいぶ変わってくる。
この人はこの人のことを知った上で考えたらどうなるかが分かる。
基本的にある時代の哲学者はそれ以前の哲学者とか思想の流れに対して何かを言ってることが多いので、
そこが踏まえられてないと、この人はそもそもなんでこんなことを考えてるんだろうっていう勘どころが掴めない以上、
少なくともある時代に何とかが語られてて、ある時代に何とかが語られてて、
その流れそのものを捕まえると良いだろうということが軽く触れられてまして、
僕もそう思いますし、まさにこの哲学史入門シリーズを読むということは、
そういう流れを捕まえることであろうと。
哲学者たちの思想
だから正直2位でキリスト教つまらんとなったとしても、
この時代キリスト教というのが分かればもう少なくともある程度クリアしているだろうと。
2位に関して言うと、僕らが知っている人たちで言うと鉄撃のコンビのお二人、
吉川さんと山本さんのお二人が最後の方に文章書かれてまして、
そこの中で山本さんが、哲学史、この歴史を学ぶことの意義ってどういうところにあるんでしょうかという質問に対して答えられるんですけれども、
一応科学で言うと最新の知見を知っておけば、一応いいという話にはなるじゃないですか。
その実証的に否定されてきた理論をいちいち追いかける必要はないけれども、
哲学がそれと同じことかと言えるかというと、おそらくそうではないだろうと。
例えば、ある段階否定とか批判とかされて、今こういう主張がなされると指定したとしても、
そのプロセスの中でいろいろ積み重ねられてきた考えというものがあると。
ある状況においてこれが正しいと言えるものがあったとしても、状況が変わったら、
その先ほど正しいと言われたものが崩れてしまうわけですよね。
そうなった時に最新の答えしか知らなかったら、それもう行き詰まりなわけですよ。
状況が変わった場合に対応できなくなってしまう。
でもそこに至ったプロセスをもし把握していれば、
こういう考え方もできるのではないかという知見の広がり、考えの広がり、角度を持てるわけですよね。
そういう意味で過去の哲学の歩みを知るってことは、
新しい変化に対応するためにこそ思考の道具箱を広げておいた方がいいのではないかということを2で語られています。
主要哲学者の紹介
これも結構有名な話で、ちなみに1飛ばしてしまいましたが、
1は古代ギリシャからルネシスタンスまでを扱っておりまして、
個々の哲学者の名前は飛ばしますけど、
2、哲学者入門ではデカルト、カント、ヘーゲルまでということで、
あの時代のヨーロッパですね。
あの時代のヨーロッパの話が語られていると。
デカルトが出てきて真ん中、あれ?
はい。
じゃあ、キリスト教ローマ時代の哲学者とかは1でしたっけ?
1の後半あたりちゃうかな、たぶん。
じゃああれかな、1で力尽きたのかな。
まあそういうふうに記憶は。
だからたぶん、デカルトとホップス。
スピノザは明らかにキリスト教との関係は間違いなくあったんで。
徐々にキリスト教からあれですよね。独立していく流れですよね、2は。
経験主義以降はむしろ離れていくね。
だから1番最後かな、デカルト、スピノザあたりが。
じゃあ1だったかも。古代ギリシャはよかったけど、ルネッサンス行くまでがきつすぎだったかも。
基本的にルネッサンスってあんまり哲学誌でも名前が出てこないんですよね。
僕らがポピュラー哲学誌でもあんまり使われないところ。
全く聞いたことない名前だらけだったんですよ。
そこはもうなかった。
じゃあ2読めるかも。
普通にデカルトの話もカントの話も非常に面白いんで、2も読めると思います。
3が現象学ということで、かなり現代による。
近代から現代の境くらいですかね。
現代思想もだいぶ現代より、特にフランス現代思想というのは現代に直結しているような考え方が扱われていて、
ここでは国武小一郎さんがカントに絡めて哲学するとはどういうことかみたいなことを書かれていて、
今僕はさっき挙げた千葉さんとか哲学の二人とか、国武さんの文章だけでも普通に面白いので、そこだけでも読んでいたり。
売れっ子で哲学系の人たちですね。
やっぱり普通に読んでいて面白いですね。
特に哲学を修行だと捉えているという国武先生の話は、
あんまり現代に対するアンチテーゼみたいな感じがすぎますけど、
でも確かにそういうとこあるだろうなというのはちょっと読んでて思いました。
1から3まで一通り、つまり古代技術者からフランス現代思想までの哲学の歴史みたいなのが抑えられたのが1から3でして、
見聞きしたところ、この1から3までが当初の企画の全体像だったらしいですね。
ってイメージですよね。
現代倫理学の考察
3が出て良かったねということだったんですけど、多分人気だったと。
次出しましょうかということで出てきたのがこの4、哲学史入門4でして、
出たのは最近でして、9月の10日なので2ヶ月前に出たばっかりの本です。
後からもう一回作ったですね、この流れで言うと。
先ほど古代技術者からこっちまで来た流れで言うと、確かに現代の話を扱ってますけどもちょっと違うというか、
そのまま例えば3の後に歴史的に4に位置付けられるかっていうと、
そこまで単純なものではないというのはちょっと抑えておいた方が良くて、
例えばその氷主義っていうのは、現代の話、スタート地点はもっと前ですね、普通に考えて。
そうですね、一応4のタイトルが正義論、氷主義からケアの倫理までになっている。
なのでちょっと時間軸戻っている部分もあるんで、4はシリーズで言うとちょっと別のスピンオフが始まっているかなというふうに捉えればいいかなと思います。
なんかあの現代で流行っているその倫理とか正義とか、そういうクリは倫理っていうクリになるんですかね。
そういう現代的な例えばそのケアとかっていうものがどういう歴史を歩んできたのかということを考えるという意味で哲学史ではあるんですけども、
3の時間軸の直後が4になっているわけではないというのは一応注意点かなと思います。
この1から3まで全部面白かったんですけども、4を改めて取り上げようと思ったのが先ほど言ったようにこの話題が非常に現代的であるかなと。
特に正義論とか公理主義の話もそうですし、特にケアの倫理みたいなところはかなりラディカルであり切実であるような話でもあるんで、
この方が考えるきっかけになればなと思って取り上げたいと思います。
ある意味、現代のいろんな問題考えるのに用語として一番実用的なのがこの分野なのかなっていう印象は自分的にはあるかな。
そうですね、特にあるキリスト教絡みで神とは何かみたいなことを考えるよりはもう少し私たちの生活に近いような話題とか用語とかっていうのが出てくるかなと思います。
一応目次で言うと序章1章2章3章4章特別章というのがありまして、序章で倫理学に入門するとは何をすることなのかという話がありまして、
簡単に見ていきたいんですけども、古田哲也さんという方で哲学者ですけども、初めてのビトギンシュタインというNHKブックスの本が多分有名じゃないかなと思います。
で、あと最近謝罪論という謝るとは何をすることなのかというような本を出されてまして、結構分析哲学というか言語哲学というか近代的な。
ビトギンシュタインの専門家ですよね、確か。
倫理の問題も考えておられるんですけど、倫理学とは何かと。そもそも倫理学とは何かという。
難しい。
古田さんの説明によると、一応哲学の一分野であると。
その大きいカテゴリーで哲学って考えた時に倫理学ってのその内側に存在すると。
で、例えば仲間で挙げるとしたら政治哲学とか法哲学とか美学とか宗教哲学とか科学哲学のようにその哲学する対象でカテゴライズしたときの一分野になると。
ただし、じゃあ例えばこれを明確に切り分けられるかってそういう単純なものではないと。
例えば政治哲学を考える上で倫理を無視できるかというともちろんそんなわけはなく、それは法哲学でも美学でも宗教哲学でも同じだと。
つまり哲学を分野で切り分けたときにその様々なものに関連しているものがその倫理っていうものだと。
ただしじゃあそれをイコール哲学と言えるかつまり全体を包括するカテゴリと同一視できるかっていうとそうではないと。
例えばいわゆる啓示哲学的な世界はなぜあるのかっていうことは倫理学では問わないわけですね。
でも哲学は問うわけですよ。そこの差が哲学と倫理学の差ではあるけども
逆に言うとそれを除く大部分の哲学的営みに倫理学というのは関わっているという定義が確認されますね。
それを確認した上で、じゃあなぜ倫理学として考えるのか。
つまり僕たちが生きていく上で道徳とか倫理っていうのは普通に生活の中にあると。
それは道徳とか倫理として認識していなくとしても僕たちの生活でそういうものが働いていると。
言った時にわざわざ倫理学に入門するっていうのはどういうことなんだろうと。
一般的なお勉強のイメージだと先ほど僕らが確認してきたような倫理学についての議論の流れを学習していくことが倫理学に入門することに相当するとイメージされやすいですが
そうではないと。
そういうふうに議論を追うことではなく、今僕内緒ゴルゴさんが例えば人はなぜ生きるのかということを切実に問う。
あるいは自分とは何かとか他者とは何かっていう問いを投げ捨てるんじゃなくて、むしろ真摯に向き合う。
向き合った時に倫理学っていうのが始まる。
哲学の言い方とやっぱり同じですね。
本当の哲学とはそういうものだみたいなのはいろんな方によくある。
こういうこのまずそのお勉強としてはなく問うとこから、問うとこから倫理が始まると。
おそらくその問いを深めたり考えたりするときに先ほど言ったような議論の流れを学ぶっていうことが役立つ補助になるということで
ここが逆になると多分ちょっと違うんではないかという話ですね。
人間とはどういう存在か。
人間に関する問いなわけですね。
自分とは何かとか他者とは何かとか人はどう生きるべきかっていうのは人間に関する問いなんですけど
人間という言葉は人間とも読めるわけですけど
人、人、人、人、人、人っていうもののたくさんのその間
つまりある種の集合ある共同体社会っていうものと
そこにここにいる人っていうのを両方見ることであると。
それはそうなんですけど面白いのはその個々の人つまり個人と呼ばれるものっていうのは
時々反社会的になると。そうですよね。
個人を集合する社会をまた個人を抑圧しようとすると。
つまり個人がたくさん集まって社会になりましたっていう単純な
メカニズムじゃなくて個人を集まりながら反社会的なり
社会は個人を集めながら個人を抑圧しようとするっていう
ある種の矛盾めいた力学構造を持っていると。
それを両方捕まえるものが倫理学をやることなんだとフルドさんおっしゃるわけですね。
捕まえるっていうのは何て言うんだろう。どういうイメージなんですかね。
両方捉えると言い換えたらいいかな。
両方をちゃんと見ようみたいな感じ。
片方だけを見るんじゃなくて両方を見ようと。
仮にその集合体である社会という視点から個人を見つめた時には
さっき言った政治哲学とか法学とか社会学とか人類学っていう学問に広がっていくと。
逆に言うとその政治哲学法学で先には出てこなかった社会学とか
人類学の中にも倫理っていうのが顔を出すっていうことですね。
逆に生きている個人から社会を見た時には
小説とか映画とかドキュメンタリーっていうものが
おそらくその考える場になっていく。
当然ここにも要するに倫理っていうものが顔を出すと。
だから個人から社会を眺めたり社会から個人を眺めるっていうところに
それぞれ倫理が出てくるし
その倫理学っていうのはどちらかだけを考えればいいわけじゃなくて
その両方あるいは狭間に立って見据えるということをすることが
倫理学をすることなんだというかなり大きめの話がなされます。
入門の最初の割には難しそうな印象を受ける。
そうですね。もっと語り口はラフなので
僕が難しそうに言ってるだけの可能性はあるんですけど
結局どっちかだけ見とけばいいっていう話ではないと。
例えば小説読んでると当然個人から社会を見る視点は磨かれるけど
社会が個人をどう扱うのかっていう視点は消え去ってしまうわけで
そういう時に例えば社会学とか人類学っていうのが生きてくると。
するならば倫理学っていうものに入っていくっていうことは
何か1個ではダメなんですね。視点が1個ではダメだと。
人間を多面的に捉えていくためには
いろんな視点を渡り歩いていく必要がある。
そこでそのようなことを可能にするのが
アマチュアという言葉を割りっこかし強調的に
ちょっと聞かせて使われてますけど
アスジがネイリーのアマチュアであることが哲学者であると。
これは要するにある考え方を身につけたから
それをずっと使い続けるというプロフェッショナルであったら
倫理学の価値
いけないということだと思いますね。
どちらからも一つの枠に固まりすぎない
自分の専門分野に入り込みすぎない
ということが倫理を考える上では必要だと。
いろんな視点や切り口があって
それを渡り歩いていく、移り変わっていくことが
行うとするのであれば
逆説的に言うとどこから入ってもいいということですね。
何やってもスッキョーのあるやつをやればいい。
そこからどんどん点々としていえばいい。
つまり倫理学はここから始めなければならないということはないということですね。
自分が起きたことから考えるとか
ニュースで見聞きした事件から考えるとか
小説を読んで知った言葉から考えるとか
先ほど言ったようにある哲学史の流れの中から
学び始めるとかっていう風に
どこからもスタートしてもいいし
スタートしたらスタートしたって
いろんな方向に点々と動いていくと。
そういう動いていく中で
そのまま引用しますけど
いずれにせよ大事なのは
自分の見方が少しずつ変容していくような
経験をすることなんじゃないかと思います。
という発見があって
今まで例えば
結婚するというのは
社会における義務であると考えていた時に
それって本当にそうかなって
考え始めることが
このような見方の変容だと思うんですね。
結婚するべき論から離れてみる
あるいは
政府が認める結婚という以外のものを
考えるっていう風に変わっていく
そのような視点とか変更
視点の変更とか
自分の価値観の変容っていうものをしていく
自分が今まで当たり前だと思ってたものを
いやそうじゃないかなと
そうじゃないとしたら
じゃあどうなんだろうって考えていく
っていうことをすることが
倫理学をすることなんではないかという話で
僕はこれ非常に感銘を受けて
まさにそうなんだろうなと思うんですけど
これ例えば
社会学とか人類学とかの本とかを読んでても
まず自分の当たり前が揺さぶられるわけですよね
そうすると
例えば単純に誰かを非難することが難しくなるんですよ
それは自分の上司と違うことをしてるだけではないか
という風になってくる
単純な善悪の判断とか価値観の優劣みたいなものが
できなくなってくる
そうすると
一つ一つの決定とかも揺らいでくる
簡単に言い切れなくなっていく
このようなプロセスをすることが
多分僕の中でも倫理を学ぶとか
倫理学をするっていうことではないかなと思うんですね
例えばトロッコ問題っていうのがありますよね
1人を殺すか5人を殺すか
入れ替えると1人になって5人が助かるってやつ
例えば公理主義やったら
1人より5人
5人より1人やからっていう答えが出せるわけですけど
例えば
ある本に公理主義ではこう書いてあったから
こうすべきと思って決断するのは
僕はそれは倫理的ではないと思うんですよ
逆にカントがこう言ってたから
嘘をつくのは良くないとかっていうのも
これ倫理的ではないと思うんですよね
じゃあ倫理的とは何かっていうと
悩むことだと僕は思うんですよ
こうも考えられるしこうも考えられると
いやいやこうも考えられるって言って
スッと答えが出せなくなるようになる
そういう状態になることを倫理的だと僕は思うんですよ
そのための考えられる選択肢を学ぶみたいな
イメージはありますよね
だから速決しスムーズに
ある種効率的に答えを出すこととは
逆の道をたどることが
つまり立ち止まってしまうこと
まあそうだろうって流すことが
そもそもできなくなるような
心態になっていくことが
おそらく倫理的な生き方とか考え方ではないかなと
僕は長年ずっとそう思ってたんですけど
ここでも同じ考え方が提示されてて
まさにそうだよなというところを感じたのが
序章でして
ユヴァルノアハラリが
ネクサスで言っていた民主主義っていうのが
めっちゃそういう話をしていて
民主主義の本質は多数決じゃなくて
議論することで
効率が良さすぎない方がいいみたいな
言い方をしていて
倫理を学べば民主主義につながるんじゃないか
みたいなこともちょっと思ったりして
倫理観が育まれていない民主主義は危ないってことじゃないですか
公理主義とその限界
それは明確にそうですね
そういう言い方をしたらどう考えたってそうだろうって思いますね
そういうことなんだと思いますね
一番この最後のあたりに
倫理学はなぜ必要かということを問うてるわけですね
つまり倫理学は大事だっていう一つの
立場にすら立たないわけですよ
そもそも哲学者はそもそも問うわけですから
じゃあ倫理学ってあって当然という前提じゃなくて
倫理学って何で必要ですかって言われた時に
どう答えるかもちゃんと考えると
その時に先ほどの話も通じますけど
解釈と批判を続けることだという話があって
誰かが何かを提示した考え方があった
それは例えばこういう意味だろうとか
あるいは現代ではこういう意義を持つだろう
っていうことを考えて発信する
それがまた残って
次の世代もっていう風に
ある一つの立場に懲り固まらないで
常にそれを解釈と批判にさらしていくということが
学問としての倫理学の意義であり
そのような思考
何かを続ける考え続けることをする上で
本って良いパートナーですよねという話があって
これもそうだなと思うんですけど
ちょっとおまけでね
その本とか長い論文は
読めば必ず変な部分が出てくるという話があるんですね
つまり主張として提示としたら
まとめたら省かれてしまうけど
読んでたらここちょっと論理に飛躍があるんじゃないとか
ちょっとこれ話無理やりじゃないっていう部分が出てくると
おそらくそこになんか著者なりのこだわりとかが
あったんではないだろうかと考えられると
そうした時に
そっから別の考え方っていうのを
立ち上げていけるようになるのではないか
という話があって
ようやくしてしまうと
それが見つからなくなるわけですね
変な部分っていうのが
そのあれですよね
さっき多様性とか議論の元とか
立ち止まって考えるができなくなるような
そうそうだから
生成AIで3パラグラフぐらいにまとめられたものっていうのは
表面に出てくるものであって
枝とかそこにあるものが
全くそぎ落とされてしまって
情報をただ右から左に流しているだけ
SNSで言うとRTしているだけのものを
ひとまず本を最初から最後まで本文を追いかけてみると
あれっていう思うところから
新しい思想っていうのが立ち上がるという話は
本編と関係あるかどうかは知りませんけど
ここは読書法として面白い話でしたね
ここの部分を聞いてもらえば
僕はもう今回
著者だけどまだ
ここが倫理学とはどういうことかという
ここさえ共有させてもらえば
あとは読めないですね
基本的にインタビューなんで
読んでもらうのが一番面白いと思うんですけど
ざっと一章以降を紹介するんですけど
大使が現代に生きる公理主義
誰もが幸福な社会を目指してということで
猫玉さとしさんという方なんですけど
これ実はね
Book Catalyst 003で紹介した
公理主義入門の著者の方なんです
この方も公理主義といえば出てくる方ですね
なので公理主義はその回を聞いてください
120回前ぐらい
聞いてください
少なくともある時代までの公理主義の話は
多分そこの回でしたと思うんで
それはそれでいいんですけど
当然公理主義も続いてるわけですよね
その数値化の問題みたいなものは
公理主義的にもあるわけですけども
そもそももっと大きな問題として
ムーヴァーという方が
そもそも善とは何かという問題提起をされまして
メタ倫理学という話なんですけども
公理主義でいうと
人の戒っていうのをもっと増やすことが
善だということになってるわけですけど
そうではないだろうと
それは自然主義的語尾という言い方されるんですけど
ある経験というものを重視しすぎていると
善っていうのは
そのように
解であるとか解の総合であるというような言い方はできない
善は善である
善は善であるはひとまずいいんですけど
そもそも善とは何かというのに
それが解であるという答えを出せないとしたら
公理主義っていうのは破綻してしまうと
感情と倫理の繋がり
それは何とか
公理主義側も何とかしたいという思いがあって
いろいろその後試行錯誤があるんですけど
その中で特に強い反論が
非認知主義というもので
例えば殺人は悪いっていうのは
道徳的な主張提前に
聞こえますけども
実際は殺人なんか嫌だっていう
その本人の感情を叫んでるのとほとんど等しいと
その殺人は悪いと言っているだけでは
それだけでしかない
道徳的な主張を構成していないと
単にその人が殺人をそれ嫌だと言うぐらい
嫌っているという表明でしかない
感情表現でしかない
つまりそれは
殺人が悪いということ
その人が殺人が嫌だというのは
真ですけども
真柿問いますけど
そこからその感情を表現した
殺人が悪いということは
倫理学的な真偽の判断を持てないものであると
では持てないものであるっていうことですったら
善悪そのものがなくなってしまいますよね
道徳的主張っていうのが構成できないとしたら
さあ困ったなというとこで
リチャード・マーヴィン・ヘアーという方が
確かにそうだと
非認知主義は正しいと
僕たちは殺人が悪いっていうのは
ほとんど殺人が嫌だと叫んでいる
ものでしかないけども
でもその感情の表明でしかないにしても
単に感情的であるだけじゃなくて
一定の合理性を求めることができるだろうと
おっしゃったんですね
ヘアーさんが
ちょっと話がややこしいの
カントの不変化可能性
自分がルールを守る
自分のルールは他の人が守れるルールにしましょう
全員がそれをやっても
OKって言えるかどうかみたいなやつですよね
いうことをせよっていうのが不変化可能性
指令性というのがあって
言葉の指令性なんですけど
これ自体見としてわかるんですけど
例えばある人が
ある人だったら僕が
この本面白かったですよって
ゴリラさんに面と向かって言ったじゃないですか
そうすると
僕は感想を表現しているんですけども
そこのニファンスに
あなたもこれを読んだ方がいいんじゃないですか
が含まれるんですね
なんとなく
明確にそう感じますよね
そこの言説の外側に
ある種の指令性がある
これを読むことはいいことだというような
その指令があるということを
まず部屋さんは見つけ出すわけですね
だとしたときに
さっきの殺人は悪い
殺人が嫌だっていう言説が
感情のものでしかないとしても
殺人は悪いっていうことに
僕がゴリラさんに言ったときに
そこには殺人をしてはいけないですよという
意味が含まれている
それはだからある種のルールとして
機能するであろうと
ルールとしてなら
合理主義と効果的リーター主義
機能することは納得できる
ここからポイントがある
ルールとしか機能しないということなんですね
つまりこれは
道徳を構成してないですね
道徳観念を構成してない
ただある共同体の
ルールとして機能しているだけだと
ただしそれでもおそらく
合理主義ってのは代立つだろうということで
部屋さんが何とか合理主義の
正義とか善とか悔いではなくても
合理主義は何とかなる
っていうことを言って
復旧作業に当たられたと
そういった別に超有名な
ピーターシンガーという方が
効果的リーター主義
あるいはウィリアム・マッカスキルさんの
長期主義っていうのがあって
これも一緒
考え方の定流で言うと
合理主義的な考え方という話が
一緒で
長期主義とかもそうなるか
最大の幸福っていうのを
現人類じゃなくて
2000年後の人類まで含める
まで含めるっていうことですね
考え方としてはそうであると
効果的リーター主義と
シリコンバレーの相性がいいという話が
ちょっと面白かったんですけど
実際そうですもんね
実際そうなんですよね
だから効果的リーター主義のポイントっていうのは
目の前の困っている人に
自分のその感情のままに援助するんじゃなくて
世界中を見て
限られた資源が
本当に困っている人のところに
渡るべきだというような
主張だと思うんですけども
それは結局
自分の共感的なあるいは
感情的なものを
投げ捨てて
数字にかけられる人のことなんですね
要するにそれができる人っていうのは
それはまさにシリコンバレーの
トップの人たちがやってるようなことで
キリスト教的なお金を稼ぐことは
善であるっていうのと
やっぱり強く結びついている
一見それは
全体の公表で見るといいけども
たとえばその共感とかっていうものが
全く皆無なときに
たとえばさっきも言った
民主的な手続きがどうなるのかは
ちょっと考える余地があるんじゃないか
という話がちょっとあって
そこは確かにそうだなという感じです
自分もピーターシンガーさんに興味を持って
結構その
結構ってほどじゃないけど
何冊か読んでみて
ちょっと違うなって感じているのが
最近の素直な感想かな
ちなみにそこのちょっと違うも
ちゃんとヘンジャーの斎藤さんが
率直に述べられてますね
ちょっとあそこまではできないんじゃないか
っていう話が出されてまして
その辺もちょっと読みどころだと思います
めっちゃ新しいとこまで進んでるんですよね
今最先端まで進んでしまっているのを
一生だけで大体分かる
そうそこはやっぱり
今インタビューして聞いていく
インタビューという形なので論文じゃないんで
多少思っているかな
というぐらいのものを出せる
正義論の進展
厳密性よりもやっぱ分かるように
語れるっていうのはありますね
だからそこの辺の厳密さじゃなくて
最新の話題とか
ちょっとそれはなとか思っているようなところ
本音に近い部分も出てくるのは
読みどころとしては面白いと思います
第2章なんですけど
義務論から正義論へということで
上嶋雄子さんという方なんですけど
正義とは何かとか
ポストロールズの正義論という著書もあるんですけど
正義論の翻訳をしている
正義論の翻訳を担当されている方で
本物ですね
本物です
正義の話は
ブックアタリスト第5回で
これからの正義の話をしようというので
語っておりまして
そこを聞いてもらえばいいかなというのと
思い返してみると
本編で紹介してない気がするんですけど
ブックアタリストの電子書籍が出てまして
はいはいはい
紹介してない気がする
紹介してない気がしますよね
気がしてきた
僕らの
このブックアタリストの内容を書き起こしして
書き起こしと僕のノートみたいなのを加えて
最初の1回から10回ぐらいまでどっかかな
を集めて語ったのをまとめた本で
そこで政治
いや違う経済倫理政治哲学という話があるんですけど
ここでも今まで言ってきた倫理の話とか
正義の話をまとめてるんで
もしよかったらそれ買って読んでくださいというとこで
そうですね
最初の頃は確か振り返りになるんですけど
このいわゆる哲学人文学的なものが
全く持って何にも知らんかったから
その結構ねやっぱ一冊をめっちゃ丁寧に読むことで
すごくたくさん学べたっていう
現体験がやっぱここにあった感じがしますね
確かに
あの時はこれからの正義の話をしようということで
マイケル・サンデルの首相として読んだわけですけど
マイケル・サンデルはロールズを乗り越えた的な言い方をされる
僕らにとってあの本はロールズは乗り越えられてしまったという印象なわけですが
そんなやわいものではないわけですね
そっちのほうが歴史がありますからね
はい
なのでこの本ではよりロールズの観点が分かるというと
そのポストロールズ
ロールズの考え方はどうつまり単に乗り越えられたというよりは
そのロールズの考え方を引き受けた上で
どう批判的に継承されていったのが読めるんで
そこの辺はちょっと見ていきたいんですけど
まずカントなんですよね
ケイパビリティアプローチの重要性
結局さっきも出てきた
正義の話とかをするとだいたいスタートがカントになる
カント
で僕多分これからの正義の話をしようを出た時は
たぶん気づかなかったんですけど
ロールズの正義の二言論ってカントなんですよねあれ
無知のベールで永期される社会契約ってほぼカントなんですね
俺カントそんなに知らんかもですね
そうやって言われると
これはだからさっきの原理ですよ
自分のルールと
みんながそれやってもいいと思うかどうか
っていうのって無知のベールで考えていくと
自分は何者になるかもわからんから
誰になっても損しないルールにしようということですね
無知のベールが導き出そうとしてる考え方って
これ結局カントの考え方なんですよ
カントの考え方を社会契約の方に引き付けて構成したのが
ロールズだという話で
ああそういうことかと
どっちもやっぱすごいですね
それを言っていたことそれをそこに広げるのは
誰かが言うまで気づかん
だからここのカントロールズの流れがあって
結局その後があるわけですけど
ロールズに対しての批判として
ロールが基本材といって
権利とか自由とか所得とか富っていうのは
公正に分配する考え方を彼は提示したわけですけど
アマルティア・センという経済学者と
マーサ・ヌスバウムという哲学者が
それはちょっと足りてないんではないかと
基本材という考え方では足りてないんじゃないかということで
ケイパビリティアプローチというのを提示したと
ケイパビリティって最近の日本で言うと
ネガティブ・ケイパビリティっていうのが有名なんですけど
ケイパビリティっていうのは潜在能力ということで
何々ができる
何かができる
読み書きができるとか栄養が取れるとか
移動できるっていう
そういう生きるための様々な能力を
こそちゃんと構成にしなければならないと
例えば
富で言うと
じゃあ例えば
全国民に10万円配りますって言ったら
富の分配としては公平ですけども
例えば
診断に障害がある方とか
介護的なヘルパーがないと
日常生活が成立しない方は
健常の方が配られた10万をもらったとしても
明らかに足りないわけですね
それでは
だからそこに対する
その人が本来できる能力っていうことの
サポートまでを見た
分配とか平等っていうのを
考えましょうというのが
ケイパビリティアプローチで
この2人は考え方が似てるんですけど
対照的なことがあって
せんさんは何が
そのケイパビリティの要素であるかは
特に言及はしないんですね
ある社会と見たときに
この部分が足りてないから
もっと公平性になれるだろうという
ある種の比較
2つの社会の状態を復活するために
ケイパビリティっていう考え方を
導入しようではないかという話なんですね
もう1人の方はリストを作るんですね
作っている
生命とか身体的健康とか
身体の不可侵性 感情 実践的実践とか
こういうものを最低限守るべきだと
述べるわけですね
せんさんの考え方もよく分かるんですね
つまり発展途上国における
守るべき公正なものと
発展し終わった後の国での
公正にすべきものっていうのが
おそらくは違うであろうと
なのでリストを定めて運用するのは
あまりにも公直的だろうというようなことですね
それはおそらくはそうなんです
そうなんですけども
ある社会において
どんなものが平等に分配されるかは
どうやって決めるんですかっていうと
基本的には民主的な手続きで
決めることになるだろうと
せんさんの考え方では
ただ民主的な手続きっていうのが
簡単に言うと教育の度合いとかによって
変わってしまうだろうと
めちゃめちゃ簡単な例を言うと
医療制度が全くない村があったとしますよね
そこの村人に
なんと
絆創膏を2枚配ったとしますね
それぞれ1人
今まで絆創膏がなかった村に
1人2枚の絆創膏が配られたと
これ公理主義的にはもう大躍進ですよね
でもそれは全然足りてないわけですよ
そんなんでは
例えば村に医者がいなかったら
そういうのは医療としては足りてないわけですよ
でもそこにいる社会の人にとっては
確かに高揚が上がったし
いいことをされたと言えてしまう
不平等が温存されてしまうね
その場合で言うと
そうした時にある程度のリストっていうか
最低限これは目指しましょうっていう
ある種の規範みたいなものを
まず設けないとうまくいかないんではないかという点
ここが最も重要なんですけど
正義っていうのは原理だけで成り立つものではないと
ある原理を設定する
例えばロールズの正義の二原理を設定すると
じゃあもうそこの社会は
正義に満ち溢れるんですかっていうと
そういうことではならないと
制度とかを運用していく人とか
さっき言った民主的な手続きに参加する人たち
つまり正義を支える市民っていうのが
あって初めて成立すると
この点を見過ごすと
原理はできてるけど
正義が実現されてないということが一つあると
このようにロールズの基本材に対する
反論からの思想的展開が一つあるのと
もう一個ロールズへの不満としては
彼は国内社会しか議論しなかったと
グローバルなものっていうのは
基本的に彼の思考の射程外というか
これもさっきの話と一緒ですけど
一つの国の中であるすごく裕福な人と
すごく貧しい人がいるのは不公平だと
でもある国がGDPですごく飛んでんのと
別の国がGDPで飛んでないのは
別の話だろうというような構図
それは経済の話とかその辺の話に
多分なるだろうというような観点ですけど
現代社会見ても
Aという国とBという国は別々だから
ポストロールズの流れ
関係ないですよねって話にはならないわけで
グローバルの正義を考えようという
別の流れも起きているというところが
第2章ポストロールズの流れとして確認されます
Nussbaumとかアマルティア戦とか
記憶にあるなってノートを探したら
現代哲学の最前線という本の1章が正義論で
その2人が今の一番イケてる人たちという印象ですね
だからロールズの考え方をベースにしつつも
もうちょっと拡張していこうとか
あるいは国内じゃなくて
グローバルを見ていこうという流れになっているところが
正義論の現代の流れですね
あとあれですねさっきの絆創膏の話で言うと
確かこのマーサヌスバウムさんとかが言ってたか
ちょっと曖昧なんですけど
その絆創膏を仮に2枚配ったとしても
その人たちが絆創膏の使い方とか
絆創膏がなぜ重要なのかが分かってないといかんっていう
その問題を乗り換えないといけないとかっていうのがあった気がする
だから人間が必要
人間の教育が必要ということが切り離せないということですね
この話はちょっと後で聞いてくるんですが
時間もないので先に行くと
特倫理学の復興
第3章が特倫理学の復興ということで
たぶん2024年25年ぐらい日本でも
この特倫理学というのが名前が挙がっていると思うんですけど
まあ特ですよね特
これ漢字
ギリシャ語ではあれてなんですが
日本語には概念はないですよね
結局たぶん近いものもなかなかなさそう
中国からやってくるとこれに似た何かはあるかと思います
基本的には古代ギリシャ的なあるいはキリスト教的な特で
特倫理学が原点とするのがアリストテレスの倫理学と
アリストテレスの倫理学とか特倫理学っていうのの
これまでの議論との一つの特徴大きな特徴の違いが
絶対的なあるいは外部が規定するような
善っていうあるいは幸福のような定義を持たないと
この基準に従ったらこうですよという言い方はしない
むしろその人がどういう人であるかという
チャチ日本語で言うと人間性が問題になる
チャチ
人間性という言い方はちょっとさすがにタチですけど
分かりやすく言うと人間性そのもの
どのような人間であるべきかという
たぶん公理主義か考えてこなかった
ある種人間の規範っていうのを
もう一回立て直そうという動きがあると
やっぱ公理主義が数字すぎるんですよね
イメージとして
イメージとしてはね
カントの義務論もこの義務に従っていくのが
良いというようなものでは
外的なものを立てますけども
そうではないし
公理主義のような数字とか結果とかっていうものでもない
むしろある人々が何を善と考え
何を悪と考え生きるのかということそのものを
そういう観点を何とか取り返そうと
つまり昔はあったわけですけど
今はないという感じでね
取り返そうというのが得理理学で
ちょっと面白いんですが
ちょっとだいぶ飛ばしまして
モラルエンハンスメントという話が
ちょっと応用理理学と関係で出てくるんですけど
モラルエンハンスメントって強化するとかっていう意味ですが
道徳能力を強化するということですね
めちゃシンプルな話で言うと
何か薬を飲むと
その人が優しくなると
それは道徳的にどうなるか
あるいはそこの行われる優しさとかは
道徳的あるいは倫理的と言えるのかどうかというようなことが
議論の対象になっていると
綺麗なジャイアンは果たしてジャイアンなのかみたいなやつ
これも当然のように
これがそうでそうじゃないって
切り分けはできないという観点が
まずあるわけですけども
なんとなくですけど
例えば注射を打って
モラルになるっていうのは
あんまり
倫理的な感じはしない
ちょっと薄いですよね
結局マトリックスに近いものを感じてしまう
もうちょっと弱めて
うさんくさい占い師に
優しく生きた方がいいって
あるひとつで急に生き方が変わるのも
ちょっと違うかなっていう感じがしますよね
例えば1年間ぐらい
お寺に通ってお坊さんの話を聞いていくうちに
なんとなく倫理的な観点が
芽生えてきたと言うと
ちょっと倫理的な感じがしますね
僕はするんですけど
言いたいことは分かるのと
結局それはどこで線が引けるのかですよね
線を引けるのは確かに
明確な線引きはできないかもしれないけど
僕らがこのような感じ方をするときに
変数と式というのはプロセスなんですよね
プロセスを無視できないのか
できていいのかどうか
できたときにそれを倫理と呼べるのかどうか
ということですけど
例えば僕が誰かに嘘をつくと
その人をひどく傷つけてしまう
あるいは嘘をついたことで
泣かせてしまうっていう経験を積んだ後で
やっぱり人に嘘をつくのは良くないという
自分なりの体制を抱えて生きていくのと
薬を飲んで嘘をつかない
嘘をつけない薬を飲まされる
ここに差があるとしたら
やっぱりそこにあるプロセスですね
つまり悩み経験し
感じてきた感情の相対として
導かれる行動の傾向というものが
仮に倫理とするならば
薬を飲んでいられたものは違うだろうと
ただしすごく悩みに悩んで
でも自分が嘘をつくことを
やめることはできないけど
この薬を飲みは嘘をやめられると思って
飲む薬はもしかしたら倫理的かもしれないですね
なんかこれもまたドラえもんを思い出させる
これはもちろん本書でも別に答えは
これやからモラルであって
これはモラルじゃないっていう明記方のことで
まさにそれを僕らが聞き受けて
考える必要があるわけですけど
僕はやっぱりプロセス込みでこその得だという気がしますね
まあそうですよね
あえて議論を吹っかけるなら
なんでプロセスがなかったらいかんのやって
やっぱ言えてしまいますもんね
いくつか答え方はできますけど
その度ごとに答えが違うからでしょうねきっと
Aという結論に至るために
僕らは悩むってことは
10や50や100の因子を無意識で検討している
だからすごく似たシチュエーションでも
微妙に違うときに微妙に違う答えを出す可能性がある
薬による等生はおそらくそれを
その際を消費させてしまうのではないかという可能性がある
という可能性が高いからあまり好ましくないのではないか
少なくともそれは得による何かとは
僕は言いづらいです
得をその獲得したではないという感じか
言いづらい感じがするなというところで
これは非常に面白い話題ですね
ケアの倫理
なんですが時間が経ちまして
一応章というと最後にあった第4章で
なぜケアの倫理が必要なのかということで
岡野さんという方がケアの倫理という本を書かれている方で
土台を問い直すダイナミックな思想なんですけど
日本で言うと2022年ぐらいかな
ケアってもう流行り
用語として流行り始めましたよね
でもちょっと最近何か言葉が変質しているというか
何でもケア扱いされているので危険なので
大体世の中そんな
特に今そういうことが強い
逆に言うと歴史をたどり直すことで
その言葉の意味をもうちょっと
ちゃんと確認できるかなというので
4章はしっかり読む価値があるかなと思うんですけども
面白さとは別に本章をしっかり読むと
ちょっとケアっていう言葉を
もうちょっと考えられるかなと思うんですけど
まずアメリカの心理学者のキャロル・ギリガンという方が
もう一つの声でという本を出されて
これがケアの倫理の
すげえ有名な本じゃなかったですか
そうだと思います
出発点になったと言われている本で
注目してもらいたいのが
哲学者じゃないんですね
心理学者が書いた本
このギリガンさんは
そもそも師匠である
ローレンス・コールバックさんという
道徳性発達理論というのがあったんですけど
それに批判を向けたと
師匠の理論に批判を向ける形で展開
素晴らしい
その道徳性発達理論というのは
要するに年齢が上がっていくうちに
道徳性になるものが
上達・向上していく
大きくなっていくだろうという
理論だと思うんですけども
その確かめた実験に
ハインツのジレンマというのがありまして
ハインツさんがいると
ハインツさんの奥さんがいると
奥さんが病気であると
薬は売ってんねんけど
その薬屋さんがぼったくってると
ハインツさんの財布では買えないと
そうした時にハインツさんが
薬を盗むことは
道徳的にどうなのかを
という試験
テストを子供たちに受けさせると
そこで採点基準が
なんとなく嫌とかじゃなくて
例えば
お金よりも生命の方が大事である
だから生命を守るために
薬を盗むことは悪いことではない
その薬屋さんは
薬を盗まれたとこで
別に生命に危害は及ばないのだから
みたいな答え方をしたら
普遍的な正義の原理に基づいて
道徳性発達の
点数が高いということになるわけですね
それが比較的一般的やった
どこまで普及してたかは知れませんけど
ギリガンさんは
なんかおかしいのじゃないかという
感覚的にそれは変だろうってやっぱ
思うな自分は
ギリガンさんは
11歳の
発達の程度で言うと同じと
言いられる
男の子と女の子にその質問したと
じゃあ男の子はさっき言ったように
もう普遍的な
正義の原理に基づいて答えたけど
女の子はそうではないと
女の子は確かに
薬を盗むのは
悪いことじゃないかもしれないけど
例えば薬を盗んでそれが
見つかったら
捕まってしまうと
奥さんは一人になってしまうと
一人になったら看病をしてもらうしもっと困ることにはなるかもしれ
ないっていう風に
良いとも悪いともつかないような
そして実際にどんなことが
起こるだろうかという
うーなんて言うんかな
出来事
検討してるわけですね
男子の方はそうじゃないわけです
原理しか考えていない
言ったら人を見てないわけ
でも女の子は
人を見てたわけ
その時にその女の子が
果たして道徳的に発達していない
と言えるのだろうかと
ギリガンさんは問題提起したわけですね
それが
先の
道徳的に発達してると
最初の理論で言われたのが
正義論正義の原理
その正義の原理とは
異なる原理というのが
あるんではないかということで
出てきたのがこの啓也の倫理
ということなんですね
そこから正義への
対抗というか
正義とは異なる
価値観としての啓也なんだ
っていうのが立ち上がってきた
ということが紹介されていまして
僕全然それ知らなかったので
同じく全く知らなかったです
なるほどねと
異なる原理性
人が何かを良いと考えて判断する原理性が
例えば正義とは
フェミニズムの歴史と新しい視点
違うメカニズムで動いているものが
ここで見出されたんだというところが
まず面白かったのと
啓也の倫理というのが
フェミニズムの思想の流れを
組むものであるという説明もありまして
これもほーっと思ったんですけど
フェミニズムってそれまでって
フニャララ
フェミニズム
っていうのが多くあったらしく
つまりマルクス主義
フェミニズムとかラディカル
フェミニズムって呼ばれる形で
女性の権利を復興すると
つまりマルクス主義でいうと
労働が阻害されていると
女性は家庭で
労働力の再生産に
貢献しているのに賃金支払われていないから
女性たちに
権利を取り戻そうというような
古いフェミニズムっていうイメージですね
もう一個ラディカルフェミニズムは
要するに個人主義
自由主義の観点において
女性が人間として扱われていないからっていう権利を取り戻そう
というような
もともとあった思想に乗っかる形で
拡張する形でフェミニズムが展開されてきたけど
先ほどの流れは
むしろそういう思想のバックグラウンドが
全くなくて
女性が実際にこう生きてきたという
経験から生まれてきたものということで
この岡野さんが
就職後なしの
フェミニズムという言い方をされていて
その言い方が分かんない
フェミニズムの歴史が
かつての思想があったからということを踏まえた上での
言い方なんですけど
思想
ある種の原理的思想に
基づかない実体験というか
目の前にある出来事から起きてくる
女性の考え方っていうのを
尊重していくっていう
新しいフェミニズムの思想が
生まれてきたその流れがあると
それって
これも有名な話で
心理学者のジーン・ベイカー・ミラーという方が
支配関係の
主従にあって
従にある人の方が
非常に繊細で
相手のことを見てて
共感能力が高いと
このミラーさんって
精神回転もあって
色々カウンセリングされてたらしいんですけど
夫婦が揃って
相談に来ると
奥さんは
主人のことを
非常に好みとか
何に気にするとかっていうのを
非常によく繊細に知ってるけど
男性は奥さんのことを
ほとんど何も知らないっていう
非対称性があると
そういう時に
僕らの
昔の考え方でいうと
女性は聞くばりができる人だからね
という説明をするわけですね
あるいはもう女性性
っていうのを取り払って
その人はよく気が付く人ですよねと
言い方をする
ある種の能力とかに還元してしまう
でもそのような共感能力は
強制された
構造的にある始終関係の中で
その従にいる人たちが
何とか生き延びるために
自ら磨き上げてきた
能力であると
そういう見方を
ミラーさんが取ったと
女性ならではの
つまり女性性というか
DNA的にという意味じゃなくて
構造的に
置かれてしまった立場によって
磨かれてきた能力が
あっただろうと
その能力を使って本人が
例えば人に優しくして
その充足感を得ることがあるのと
同時にそれが構造的に
強制されているということも
見過ごしてはいけないという話が
展開されると
これは結局最初のさっきの
男女の子供にした
実験で女性が男の子とは
違うふうに答えた
その一つの理由でも
ありますよねきっと
そのような気遣いとか
心遣いをするように
立場に置かれてきているし
おそらくそれは
女の子のお母さんがそうだから
っていうことはあるでしょうね
だから再生産されてるわけですね
そんなふうに
立場とか構造が
作ってしまうその感覚と
その感覚を持ってる人たちが
持ってる原理性っていうのを
このケイアの倫理では
確認されていきます
ケアの倫理の実践
非常に
見過ごしてきた視点
このケイアの倫理と
正義論というのが
違う原理で動いている
ということが確認されるのと
でも実際この2つは
どっちが
すごいのかあるいは正しく
機能するのかということではなくて
むしろ
保管するものであるだろうという
話が4章で確認されるんですけど
この
ケイアっていうのはさっき言ったように
実践の中にあるわけですね常に
抽象的な理論の中にはなくて
言論としてのケイアじゃなくて
ケイアしている立場の人
例えば看護師さんとかっていう時に
あの
正義の
尺度が
必要かどうか
つまり
看護師さんが患者さんに
何かしようとする時に
これは正義において正しいだろうかという尺度を
いちいち持ち出す必要があるのかどうか
っていうとおそらくはないだろうと
現場の人たちは
自分が得てきた経験から
だいたいこれは良いことだ悪いことだ
ってことを知っていると蓄積された
経験によって適切な直感が
働くと言ってもいいと思うんですけど
だからそこではもう正義論の出番は
ないわけですね
むしろあったら
邪魔の可能性すらあると
もちろん現場の経験
っていうのは絶対的に正しいわけじゃなくて
間違えることもあるけど
失敗するという前提で考えたらいいと
失敗することもあるから失敗した時
こうしましょうという風に対応すれば良くて
正義の原理によって
例えば看護師はこの場合には
必ずこうすべきだというような基準を設けるのは
そもそもケアの倫理に沿っていないと
だからこれは
実践値
アリストデイソンの言う実践値に当たるものであって
その構築された地位とは
違うものであると
ケアの倫理と正義論の
異なりさっていうのは
理論値と実践値の違いでも
あるんだろうなとはちょっと思います
うーん
そのケアの理論が
実は個人的な親密な性の高い
関係性だけじゃなくて
例えば政治的な問題に応用できると
といった方もいらっしゃったりとか
色々あって
例えば
テロリズムとケアって聞くと
全然
一変すると何も関係なさそうですよね
でも例えば
テロをするしかないというような
状況に置かれている人がいるという
想像力を持ったときに
正義論は
テロは絶対に行けないって言うだけなんですよね
はいはいはい
そうだね
正義論ではそれしか言えないね
で公認主義は損するから
やめた方がいいよという話でね
全体効力には貢献しないから
できではない
マイナスにしかならないからね全体の
でもそこで
そうするしかないという状況に置かれている人たちの
声は何もケアされてないわけですね
その状況では
例えば一時的に何かの方策でそのテロを
抑えたとしても結局問題のネックは
常に残ったままであると
そうしたときに上から抑えつけるような
さっきの原理論じゃなくて
ケアの倫理から見てそこにいる人たちを
見ていく
扱っていくという観点がないと
解決しないではないか
という視点があって
確かに正義っていうのが必要だとしても
正義
イコール正論
それだけ言っとったっていうやつですよね
抽象的な議論を
操っているだけではやっぱり
何も解決しないし
まさにそれが見過ごしていることがあると
だから蘇生議論の射程が狭すぎる
だからそこの射程に届かないものを
扱うために
そのケアの倫理っていうのが
必要であると
ここでも結局
ケアする人を
見なければいけないし
実践する人はある程度の
感覚 正しいか
役立つかどうかの感覚を持っているし
そういう人を育てることが
ケアに必要なんだろうな
ここはやっぱり人を見過ごしてはいけない
倫理の適用と相互補完
というところをちょっと
確認しました
ここは非常に面白かったし
知らんことがやっぱり僕
フェアリニズムほとんど何も知らないんだなということを
ちょっと確認しましたね ここでは
同じくですね
3章の話を聞いた段階から
非常にちゃんと
考えて順番作ってるなっていう
印象を受けて
1,2からやっぱり3,4に
かけてまだ足りないでしょ
っていうことを言ってくる感じ
そんな感じ
最後の章では
対立するものではなくて包括するものだと
それぞれの今まで述べてきた
ものって担当範囲
というか責任範囲が違うんではないか
という話が出てくるんですね
これは確かにそうだろうなと
つまり政治
立法とか行政では公理主義を考えましょうと
そりゃそうですね
大抵はそうでしょうね
司法の領域
善悪を決める判断するときには
義務論とか正義論
まさに善悪が必要な領域ではそれが必要だと
それ以外の領域ではケアの
倫理っていうのを用いる
僕ら日常の様々ではケアの倫理みたいなものを用いると
だからこれらの3つを
主義者を争うんじゃなくて
むしろ適応領域を
見極めようという
考え方が
実は一番実践的であり
それは結局
一番最初に述べた
倫理がいろんなものを
視点を動かしていく必要があるって話
僕はこうするかなという
全体として非常にスタートから始まって
ここでうまく風呂敷を
畳んでいる構想になっていると思います
なんかあの
三権分立じゃないんだけど
なんかそういうような
三つの軸みたいな
特倫理は土台?
真ん中?
人間がどうあるべき
個々の人間がある種のちゃんとした
自分なりの善悪感を育てていくっていうこと
それはやっぱりケアする人が
自分が何をするのかを
決めるっていうことと交互している気がしますね
ここは基本的に
本編はおしまいで
最後特別章っていうのがあって
地べたから倫理を考えるということで
哲学者じゃないんですね
ブレイディー・ミカコさんって言って
コラムニストかな
ブレイディー・ミカコさん
ブレイディー・ミカコさん
僕はイエローでホワイトで
ブルーが多分一番有名かなと思うんですけど
最近他社の靴を
履くという本で
アナーキックエンパシーのすすめというので
これ全く聞いたことがなかったんですけど
アナーキズムと
倫理というのを話して
本当に
尖閣で申し訳ないんですけど
アナーキズムとその実践
僕がアナーキズムって
無政府主義者のことだとずっと思ってたんですよ
でもアナーキズムは辞書を引くと
社会にほとんどあるいは
全く正式な組織が存在せず
人々が自由に協力して
働くべきだという政治的信念のことらしいんですよね
それをアナーキズムという概念で
この概念で
無政府主義という言い方に
まとめることができる
みたいなイメージはあるのか
この一番包括的な概念の中で
かなり特殊な考え方をしている人たちが
無政府主義者なのかもしれないんですけど
そうとも言えるかな
デイビッド・グレイバーですね
有名な
彼がアナーキズム信仰者らしいんですけど
これも知らなかったんですけど
ブルース・ダジョブの人ね
混雑したバス停で
例えそこに警察がいなくても
あなたは他人を
指示で押しのけたりせずに
ちゃんと列に並んで順番を待ちますか
という疑問に対して
イエスと答える人は
アナーキストらしいですよ
なぜならば警察権力という
組織を取らずに
まさに自由に協力して
あなたは列を作っているじゃないですか
つまり内的なモラルに従う
人のことを言うわけですね
ここのアナーキズム
アナーキストというのは
だからなんとなく僕らが
先入観で持っている
無政府主義者っていうのは
シンパシーとエンパシーの違い
非常にソヤで乱暴で
反社会的な人ですけど
むしろ逆で非常に社会的な人
助け合うことを
内的なモラルに持っている人
がアナーキズムだと
そういう時に
何が役立つかっていうか
効果的かっていうので
シンパシーとエンパシー
があってこれも有名なんですけども
シンパシーっていうのは
その人の心に
近寄っていく寄り添っていく
エンパシーっていうのは
一つのイマジネーションとして
その人がどうであろうかと
考えること
だから
シンパシーは
共感する感情があればいいけど
エンパシーは想像する
イマジネーションする
知的な能力がないと
できないという話なんですね
入り込むのと
予想する
イメージする
自分の中でこうじゃないかなっていうイメージを
立ち上げるだから
シンパシーだと
自分が悲しい相手も悲しいっていう風に
振動してるわけで同じ形で
エンパシーは自分がそれを持ってない
感情として持ってないけど
こうなのではないかと
考えられる力
イメージできる力
シンパシーは基本的に
近いんですね距離が
距離感が近い
目の前にいる人が
お腹が空いて泣いている助けてあげよう
これは非常に
SNSと親和性が高い
エンパシーは距離を超えるわけですね
例えば本書の中では
アウシュビッツの資料館みたいなとこに
行った時に赤い
ハイヒールが飾られてる
らしいんですけど
アウシュビッツに連れて来られた人が
なぜそのおしゃれな赤い
ハイヒールを履いていたのかっていうことを
考えると
そうしたらあと一つのイメージとして
彼女はもしかしたらすぐ帰れるんじゃ
帰れると思ってたんじゃないかみたいな
イメージが立ち上がってくると
それは
シンパシーではないわけですね
これはエンパシーなんです
共感して思うこと
ではないですね
想像してそこにあるた
何かをイマジネーションすることなんですね
だから
エンパシーは距離を超えるわけです
時間の距離であったり空間の距離であったり
目の前にいる人じゃない人でも
何か考えたり
そこから例えば助けを
する行動を
移したりすることができる
倫理的な活動において
やっぱり
エンパシーっていうものが
多分必要で
エンパシーって想像力を要する
知的な行為なので
生まれたての子どもがすぐ
持ってるかっていうと
そうじゃなくてある種の教育みたいなものが
広い意味での教育みたいなものが
必要であると
一つケアの話に戻るんですけど
色んな
ケア
道徳とか
正義とかを説いてきた人たち
カントの倫理とケアの重要性
代表例としてカントが挙げられてるわけですけど
カントは
個々の個人が
義務を果たすべきだと述べたわけですけど
例えば
義務とは何かとか
義務を守ることがなぜ大切なのか
っていうことをその人に
教えなければならないわけですね
誰かが
正徳的に持ってるわけじゃないわけですよね
使ってた人間っていうのは
そういう教育を卒業した後の理性的な
人間なわけですよ
だからカントはその教育を
誰かがしているそのケアを
まるっと見過ごしていたと
結局
ここまでの話も全部そうですけど
ある人がある状態
になっている
ケアとか
教育とか何でもいいんですけど
そこに至るまでのものを
組み立てられると
当然その現実っていうのが
まるっと見落とされるわけですね
それはさっき言った
民主主義を担う人たちっていう話も
通じますし
エンパシーを磨くでもいいんですけども
やっぱりね
人を育てないと
成立しないものが
この世界には本当にたくさんあるし
抽象的な議論の段階では
基本的に
出来上がった人っていうものを
見つかってますけど
そこに至るまでのコストは無視ですか
っていう話が
頻繁にあるなと思って
やっぱりそれは
冒頭に返りますけど
倫理考えることっていうのは人間について
考えることなので
人間とはどうあるかっていう
原理を考えることももちろん片方では大切ですけど
人がどう生きていくのか
どう生きているのかっていう
本当に地面の
地位とか地に足のついた
自分そのものをも
見ることが倫理的な
考え方であろうな
というところで
1から特別賞まで読んで
考えた結論でございます
やっぱその
俺ブレイディーみかくさんの文章は読んだことないんだけど
結構すごいという評価は
いろんなところで見たりしていて
結構そうだ感じですね
すごいですね面白いし
イギリスに住んでおられて
文章を書きながら
子供預かるところでも実は働いておられる
っていうその経験から文章を
書いておられるんですけど
やっぱり理論先行型ではないというか
そうですね
立場としてケアの立場からの
文章を書く人ってイメージがある
しかもその
さっきも言ったように理論としてのケアというよりは
現場でちゃんと動いているケアの
視点という感じが
僕は読んでいるとき気がしましたね
自分はあれだね
思い出したのが
共感論という本があって
共感するということが
簡単に言うと
視野が狭くなってしまって
社会全体で見ると
実は共感って良くないんじゃない
みたいな言い方なんですけど
その話と
まんま同じっていうのかな
非常につながる話を
思い出しました
SNS社会と
シンパシー
シンパシーの方との
共感波長能力と
PVの稼ぎ方が半端ないので
そうですね
共感ができるとうまくいく
っていうことなんですよね
ある種の立場からは
エンパシー的
想像力イマジネーションを育てる
教育が公共的に
ちゃんと意義を認められる必要があるという
気がしますね
そんなところでございます
はい
ということで今回のご意見ご感想など
あればお便りフォームとか
ツイッターブルースカイでハッシュタグ
ブックカタリストをつけてお寄せください
感想お便り
お読みになっておりますし
紹介しております
いろんな人に知ってもらうことで
多分活動も長続き
できるのではないかと思うので
よろしくお願いいたします
サポーターも活動長続きに
非常に重要なので
ご興味あられる方
概要欄からリンク先など
ご確認いただければと思います
それでは今回もお聞きいただき
ありがとうございました
ありがとうございます
01:27:33

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