面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。 最初にいただいた感想、コメント等を紹介したいと思います。
はい、お願いします。
しょりえんこさん、取っ払うを聞いて即購入し、SNSアプリやGmail、YouTube、標準ブラウザを全部スマートフォンから消して、画面からショートカットも全部消した結果、心がとても軽くなった。
ちょうど次の日の飲み会でスマートフォンを無くしたけど、全然焦らなかった。かっこ無事見つかった。
スロージョギングも通勤時15分かける2を始められたし、効能しかないんだけど、唯一の悩みはこの思いをブックカタリストの感想として伝える手段もなくなったこと。
AIで調べて、スカイスローという投稿専用アプリを見つけて今に至る。
スゴイですね。僕、取っ払うを紹介した人ですけど、SNSアプリを削除するのは未だに出来てないですから。
そこまでは分かる。
標準ブラウザってこれ、iPhoneではSafari消せないですね。
確か消せなかったと思う。
あれは出来るのかな。
アンドロイドアプリでChromeを消すことは出来そうだけど、どうなるか分からない。
あとパソコンを使ってくださいですかね。
何で聞いて貼るのか。ニュースレター系で聞いて貼るならニュースレターに返信でもいいし、スポティファイも確かコメント機能があったと思うけどね。
スポティファイのコメント、俺多分あっても気づかんと思う。
投稿専用アプリは確かに非常に重要で、Twitterとか投稿しようと思ってタイムラインが目に入ってそのまま脱線してしまうということがあるので、投稿だけするというのは低ですね。
あと何よりも個別の返信よりも、実はパブリックな場所でブルース会なりツイッターなりでつぶやいていただける方が広まる可能性があるので嬉しいっていう。
プロモーティング効果が高いですね。
そしてそっちの方が多分なので取り上げる可能性は高いですっていうやつですね。
確かに。
あとですね、前回確かちょうど紹介したと思うんですけど。
生ねぐさん、毎日スロージョギングしているという方が記事でもまとめて、スロージョギングの話をまとめてくれていて。
25日間、朝5時に起きて2キロのスロージョギングを続けられているっていうのと、毎週水曜日はノースロージョギングデーとして明確にお休みも取られているみたいですね。
以前は仕事終わりに40分を散歩してたんだけど、それがスロージョギングになったっていうのと、あとラシタさんがめっちゃ素晴らしいって言っているのが、走った後の自分を褒めてあげている。
何かあっても毎朝2キロ走ってますからねと、誰に自慢するわけでもなく自分自身をこぶしている。しかも実際に自慢しても鼻につかない。
これすごい良いなと思うんですね。これある種、続けるためのテクニックとかノウハウと言えると思うんですよね。こういうことをして自分で褒めてあげる。
このしょうもないマインドハックのように思えますけど、これ実はかなり根本的なことじゃないかなと思ってますね。
あと、俺から見てなんですけど、朝5時に起きて2キロスロージョギングを週6日間続けられるというのはトップ1%ぐらいのすごいことなんじゃないかと思うんですけど。
すごいことですし、すごいことじゃないにしても自分自身を褒める。すごいことをした自分偉いというよりは、ちょっとしたことをした自分を褒めるということがセルフマネージメント全般において大切ではないかなと思うんですけど。
例えばですけど、ゴリゴさんが自分のお子さんがノーベル賞を取ったら褒めるけど、そうじゃなかったら褒めないってことはないわけじゃないですか。
今までできなかったことがちょっとできただけで、すごいって言うわけじゃないですか。心の底から。それと同じように自分も褒めたらいいんじゃないかなと僕はずっと思ってて。
それができたら多分いろんな罪悪感から解放されるんじゃないかなと思うんですよね。
あとめっちゃ細かい話なんですけど、子供を褒めるときはどっちかというと心の底からより教育要素の方が頭に働いている。
そうなのね。
かなりその認識がある。
その認識があっても同じように自分に適応したらいいんじゃないかなということですね。
それは同じことを、まさにその心の底から褒められんくっていいから、自分への教育要素として褒めればいいんだと思う。
はい、確かに。
あとですね、たかぴさんが、これは汗をすごいの感想だと思うんですけど、汗の機能とそこにまつわる有用な知識を得られた。
身体シリーズはこのパーソナリティ2人がやるからこそ説得力が出る。
この番組を聞いてから助業を始めて汗も頻繁にかくようになってきたので、さらにためになった。
紹介した方全員が走るようになっている。
走るようになったからコメントしてるんでしょうね。
そういうバイアスはあるね、当然。
でも何かし変化、僕らが強制したわけじゃなくて、やろうと思う気持ちに自分からなって走ってっていうのは良いことですね。
身体シリーズこのパーソナリティ2人だからこそ説得力が出るらしいですよ。
どういうことなんやろ。
身体シリーズ俺しか言わんし。
僕らがあんまり運動家じゃないからこそっていうことなのかな。
アドレナリンがっつり、ドーパミンがっつり系の運動の話では全くなく、むしろアプローチは真逆ですよね。
あんまりマッチョじゃない2人が言う身体健康運動シリーズは逆説的な説得感があるっていうのはあるかもしれないですね。
そういえばね、それで思い出したんですけど、たまたま記録を取り始めてから約10年分の体重を振り返ってみたんですけど、
今年は現段階までなんですけど、約10何年で一番体重が少ない1年になっている。
素晴らしいですね。
やっぱり色んな学んで、5年かかるんですよね、成果が出るまで。
ブックカタリストは確か5年くらいですよね。
僕たちは基本的に無理をしないという方針でこの番組も、あるいは勉強とか運動とかもやってますけど、
負荷をそれある程度限界値を超えないラインでやると、やっぱり数年単位を見込む必要があるというのはあるでしょうね。
ジョギングをするまでに4年半かかって、筋トレするまでに4年かかって。
4年かければ人は過去の自分が思いもよらぬようなことをするようになるというのは希望の話なのかもしれないですね。
細胞組織としては完全に100%何もかも入れ替わっているはずですよね。
確かに確かに。
そこが脳が連続的に記憶をもとにして同じ自分だって思い続けているだけであって。
それを4年ぐらい時間かけると違う自分像が構築され得るという感じかな。
そうですね。2日に1回ですけど自分の場合。
ジョギングをするなんてブックカタリスト始めた頃の自分に言ってもそれは嘘だなって思うと思うから。
そういう変化を自分のメンタルモデルに取り込んでいる人は多分人生に飽きるってことはないんじゃないかなと勝手に予想しますけど。
だって再来年の自分が予想できないわけですからね。
いい意味で予想できないですね。
ということで今回は127回、哲学史入門4。
今回は倉下のターンということで哲学史入門4、4か4かわかりませんけど取り上げたいと思います。
宿題が正義論、合理主義からケアの理論までなんですけども。
ケアの倫理ですかね。
倫理がわかりません、倫理までなんですけども。4ということでシリーズものなんですね。
1から3までがもうすでに出てまして、全て当たり前ですけどNHK出版新書から出てます。
NHK出版新書というと多分オレンジのカバーを思い浮かべる方が多いと思うんですが、
本書はシリーズ特特のちょっと明るいクリーム緑色っぽい感じの表紙でして、
編集者さんが共通でして、斉藤哲也さんという方で、試験に出る哲学、センター試験で西洋思想に入門するという、これもNHK出版新書から出ている本でして、
僕読んでないんですけど、僕の記憶は確か郡岡さんはこの本読まれたかな。
読みました。これは入門として話題がまず学校、センター試験に絞ってあることで、
そういう倫理をやっている人もそうだし、やらない人にしても切り口が入りやすいっていうのかな。
こういう切り口にすることで。
という意味で、めっちゃ専門家じゃないからできることなんだなっていう、いい目線の本だと思いました。
なるほど。
その著者の方、斉藤哲也さんといって、一応肩書きで言うと、人文ライターという肩書きを名乗っておられるのか、誰かが言われているのか知りませんけれども、
サイエンスライターとかスポーツライターという各ジャンルごとにおいて、
専門家と一般市民をブリッジする存在としてのホニャラライターというのがあった時に、
人文ライターというのもあるんではないかということだと思うんですね。
実際そのような仕事をされてこられましたし、今作も魅惑の中に位置付けられると思います。
一応軽く、4なので1から3まで簡単に紹介するんですけども、
まず哲学入門じゃなくて哲学史入門なんですね。
哲学の歴史を学びましょう。
ということで、基本的に1から3に至るまでは、哲学の始めあたりから現代に至るまでの時系列においた哲学者の思想を並べていこうと。
面白いんですけど、全てのシリーズが解説とインタビューのセットになってまして、
多くの本はどっちかだけのことが多いんですね。
インタビューだけで構成されている本か、あるいはわかりやすい解説だけで構成されている本が多いんですけど、
1つのセクションに対して哲学の研究者、専門家にインタビューする前に、この辺を知っておくとインタビューの中身がもっとわかりやすいよっていう偏差の解説があると。
解説を読み終えた僕たちはインタビューに臨むと。
一応インタビューだけ読んでもいいですし、解説だけ読んでもいいですし、両方読むこともできます。
1個1個はそこまでボリュームがあるわけじゃないんで、詳細に語られているわけではないんですけども、ざっと概略をつかむにはちょうどいい分量になっておりまして、
そういう構成の捉え方でも初心者向き、入門者向きになっているんじゃないかなと思います。
ちなみに私は1と2と3を買ったんですが、やはり前から読もうという欲があり、
1は読み終えたんですが、2が一言で言って強烈に興味が持てないジャンルで、そこで止まってしまっています。
歴史なんで、順番通りに読んだほうがいいかなというのが僕の感じでして、
最初から読んだほうがいいけど、全部読まないと。
2はもっと飛ばしたほうがいい。さらに言うと一般的に西洋哲学史じゃないですか。
2って自分の偏見なんですけど、やっぱりキリスト教と哲学なんですよね。
正直そこには興味がないというのが今の自分の思いで、飛ばせばいいのにそのせいで3に手を出せないっていう。
そういう時はやっぱり飛ばすほうがいいと思うんですよね。
1から3までこう言うとなんですけど、お客さんを来てもらえそうな方の名前が上がっていまして、
1が千葉雅さんが一番最初に哲学史を学んでいく、いかに学ぶかというような話が序論でありまして、
とりあえず千葉さんの教えでいうと、その細かい話はいいと。
固有名詞とかその哲学者の唱えた概念みたいなものはひとまず詳細にはまり込まずに、
まずざっと年代とその哲学者の流れをまず捕まえるのがいいのではないかと。
例えばデカルトとヘーゲルっていう名前を見た時に、どっちが先なのかがパッとは別れはいいと。
でも分かった方がいい?そのぐらいは。
そこぐらいが分かったら、その後読む時にだいぶ変わってくる。
この人はこの人のことを知った上で考えたらどうなるかが分かる。
基本的にある時代の哲学者はそれ以前の哲学者とか思想の流れに対して何かを言ってることが多いので、
そこが踏まえられてないと、この人はそもそもなんでこんなことを考えてるんだろうっていう勘どころが掴めない以上、
少なくともある時代に何とかが語られてて、ある時代に何とかが語られてて、
その流れそのものを捕まえると良いだろうということが軽く触れられてまして、
僕もそう思いますし、まさにこの哲学史入門シリーズを読むということは、
そういう流れを捕まえることであろうと。
3が出て良かったねということだったんですけど、多分人気だったと。
次出しましょうかということで出てきたのがこの4、哲学史入門4でして、
出たのは最近でして、9月の10日なので2ヶ月前に出たばっかりの本です。
後からもう一回作ったですね、この流れで言うと。
先ほど古代技術者からこっちまで来た流れで言うと、確かに現代の話を扱ってますけどもちょっと違うというか、
そのまま例えば3の後に歴史的に4に位置付けられるかっていうと、
そこまで単純なものではないというのはちょっと抑えておいた方が良くて、
例えばその氷主義っていうのは、現代の話、スタート地点はもっと前ですね、普通に考えて。
そうですね、一応4のタイトルが正義論、氷主義からケアの倫理までになっている。
なのでちょっと時間軸戻っている部分もあるんで、4はシリーズで言うとちょっと別のスピンオフが始まっているかなというふうに捉えればいいかなと思います。
なんかあの現代で流行っているその倫理とか正義とか、そういうクリは倫理っていうクリになるんですかね。
そういう現代的な例えばそのケアとかっていうものがどういう歴史を歩んできたのかということを考えるという意味で哲学史ではあるんですけども、
3の時間軸の直後が4になっているわけではないというのは一応注意点かなと思います。
この1から3まで全部面白かったんですけども、4を改めて取り上げようと思ったのが先ほど言ったようにこの話題が非常に現代的であるかなと。
特に正義論とか公理主義の話もそうですし、特にケアの倫理みたいなところはかなりラディカルであり切実であるような話でもあるんで、
この方が考えるきっかけになればなと思って取り上げたいと思います。
ある意味、現代のいろんな問題考えるのに用語として一番実用的なのがこの分野なのかなっていう印象は自分的にはあるかな。
そうですね、特にあるキリスト教絡みで神とは何かみたいなことを考えるよりはもう少し私たちの生活に近いような話題とか用語とかっていうのが出てくるかなと思います。
一応目次で言うと序章1章2章3章4章特別章というのがありまして、序章で倫理学に入門するとは何をすることなのかという話がありまして、
簡単に見ていきたいんですけども、古田哲也さんという方で哲学者ですけども、初めてのビトギンシュタインというNHKブックスの本が多分有名じゃないかなと思います。
で、あと最近謝罪論という謝るとは何をすることなのかというような本を出されてまして、結構分析哲学というか言語哲学というか近代的な。
ビトギンシュタインの専門家ですよね、確か。
倫理の問題も考えておられるんですけど、倫理学とは何かと。そもそも倫理学とは何かという。
難しい。
古田さんの説明によると、一応哲学の一分野であると。
その大きいカテゴリーで哲学って考えた時に倫理学ってのその内側に存在すると。
で、例えば仲間で挙げるとしたら政治哲学とか法哲学とか美学とか宗教哲学とか科学哲学のようにその哲学する対象でカテゴライズしたときの一分野になると。
ただし、じゃあ例えばこれを明確に切り分けられるかってそういう単純なものではないと。
例えば政治哲学を考える上で倫理を無視できるかというともちろんそんなわけはなく、それは法哲学でも美学でも宗教哲学でも同じだと。
つまり哲学を分野で切り分けたときにその様々なものに関連しているものがその倫理っていうものだと。
ただしじゃあそれをイコール哲学と言えるかつまり全体を包括するカテゴリと同一視できるかっていうとそうではないと。
例えばいわゆる啓示哲学的な世界はなぜあるのかっていうことは倫理学では問わないわけですね。
でも哲学は問うわけですよ。そこの差が哲学と倫理学の差ではあるけども
逆に言うとそれを除く大部分の哲学的営みに倫理学というのは関わっているという定義が確認されますね。
それを確認した上で、じゃあなぜ倫理学として考えるのか。
つまり僕たちが生きていく上で道徳とか倫理っていうのは普通に生活の中にあると。
それは道徳とか倫理として認識していなくとしても僕たちの生活でそういうものが働いていると。
言った時にわざわざ倫理学に入門するっていうのはどういうことなんだろうと。
一般的なお勉強のイメージだと先ほど僕らが確認してきたような倫理学についての議論の流れを学習していくことが倫理学に入門することに相当するとイメージされやすいですが
そうではないと。
そういうふうに議論を追うことではなく、今僕内緒ゴルゴさんが例えば人はなぜ生きるのかということを切実に問う。
あるいは自分とは何かとか他者とは何かっていう問いを投げ捨てるんじゃなくて、むしろ真摯に向き合う。
向き合った時に倫理学っていうのが始まる。
哲学の言い方とやっぱり同じですね。
本当の哲学とはそういうものだみたいなのはいろんな方によくある。
こういうこのまずそのお勉強としてはなく問うとこから、問うとこから倫理が始まると。
おそらくその問いを深めたり考えたりするときに先ほど言ったような議論の流れを学ぶっていうことが役立つ補助になるということで
ここが逆になると多分ちょっと違うんではないかという話ですね。
人間とはどういう存在か。
人間に関する問いなわけですね。
自分とは何かとか他者とは何かとか人はどう生きるべきかっていうのは人間に関する問いなんですけど
人間という言葉は人間とも読めるわけですけど
人、人、人、人、人、人っていうもののたくさんのその間
つまりある種の集合ある共同体社会っていうものと
そこにここにいる人っていうのを両方見ることであると。
それはそうなんですけど面白いのはその個々の人つまり個人と呼ばれるものっていうのは
時々反社会的になると。そうですよね。
個人を集合する社会をまた個人を抑圧しようとすると。
つまり個人がたくさん集まって社会になりましたっていう単純な
メカニズムじゃなくて個人を集まりながら反社会的なり
社会は個人を集めながら個人を抑圧しようとするっていう
ある種の矛盾めいた力学構造を持っていると。
それを両方捕まえるものが倫理学をやることなんだとフルドさんおっしゃるわけですね。
捕まえるっていうのは何て言うんだろう。どういうイメージなんですかね。
両方捉えると言い換えたらいいかな。
両方をちゃんと見ようみたいな感じ。
片方だけを見るんじゃなくて両方を見ようと。
仮にその集合体である社会という視点から個人を見つめた時には
さっき言った政治哲学とか法学とか社会学とか人類学っていう学問に広がっていくと。
逆に言うとその政治哲学法学で先には出てこなかった社会学とか
人類学の中にも倫理っていうのが顔を出すっていうことですね。
逆に生きている個人から社会を見た時には
小説とか映画とかドキュメンタリーっていうものが
おそらくその考える場になっていく。
当然ここにも要するに倫理っていうものが顔を出すと。
だから個人から社会を眺めたり社会から個人を眺めるっていうところに
それぞれ倫理が出てくるし
その倫理学っていうのはどちらかだけを考えればいいわけじゃなくて
その両方あるいは狭間に立って見据えるということをすることが
倫理学をすることなんだというかなり大きめの話がなされます。
入門の最初の割には難しそうな印象を受ける。
そうですね。もっと語り口はラフなので
僕が難しそうに言ってるだけの可能性はあるんですけど
結局どっちかだけ見とけばいいっていう話ではないと。
例えば小説読んでると当然個人から社会を見る視点は磨かれるけど
社会が個人をどう扱うのかっていう視点は消え去ってしまうわけで
そういう時に例えば社会学とか人類学っていうのが生きてくると。
するならば倫理学っていうものに入っていくっていうことは
何か1個ではダメなんですね。視点が1個ではダメだと。
人間を多面的に捉えていくためには
いろんな視点を渡り歩いていく必要がある。
そこでそのようなことを可能にするのが
アマチュアという言葉を割りっこかし強調的に
ちょっと聞かせて使われてますけど
アスジがネイリーのアマチュアであることが哲学者であると。
これは要するにある考え方を身につけたから
それをずっと使い続けるというプロフェッショナルであったら