1. ブックカタリスト
  2. BC017『すべてはノートからは..

今回は『すべてはノートからはじまる あなたの人生をひらく記録術』を取り上げます。

というか、倉下の新刊です。

著者が自分の本をテーマに取り上げる。まるで『ロラン・バルトによるロラン・バルト』みたいですね。ただ、著者による本の解説というよりは、「そういう風に読める」という一つの視点として聞いていただければと思います。

この本は?

ノートの本です。ただし、「ノート術」として連想される本とはちょっと違っているかもしれません。むしろ「ノート論」(ノート論考)が近いかも。

とは言え、小難しい議論を展開してはいません。だいたい言いたいことは、「みんなもっとノートを書こうぜ(いろいろな場面で利用しようぜ)ってことです。

第一章で、記録という「テクノロジー」の話をし、そこから情報と記録と私たち人間の関係を論じています。

第二章からはいよいよノートの話で、第三章と合わせて「実行」に関するノーティング(ノートを書くこと)を紹介しています。いわゆるタスク管理系の話題です。

で、第四章からはいわゆる知的生産系の話題に移るわけですが、この辺から本の展開が「妙な具合」になってきます。転調が始まるのです。つまり、一般的なビジネス書・自己啓発書が奏でるメロディーとは変わってくるのです。

続く第五章では読書におけるノートの使い方で、片方は「本の読み方」を紹介する章であり、もう片方ではこれまでの章で紹介してきた技法の実際例を検討する章でもあります。

第六章では、自分のために書くノートから他の人に向けて書くノートへと話題が移り、ここまで論じてきた話が有機的に接合します。つまり、自分=他人、書くこと=読むこと、ノート=本、という概念の連続性が見出されます。

最後を飾る第七章では、いわゆる自己啓発的なものへの超克が試みられています。簡単に言えば、「人生を誤配させようぜ」というメッセージです。だいぶヤバイこと言っている自覚はありますが、自分の人生を振り返ってみても、そしてたくさんの人の話を聞いても、やっぱり人生にとって重要なことの多くって、そういう形で起こるのだという感覚があります。自分で自分の人生を支配するなんて、つまらないですよね。

というような(なかなか複雑な)話が展開されている本です。

万人受けするのかどうかはまったくわかりませんが、それでも著者自身が星5をつけられる本になりました。よろしければチェックしてみてください。

目次

* はじめに ノートをめぐる冒険

* 第一章 ノートと僕たち 人類を生みだしたテクノロジー

* 第二章 はじめるために書く 意志と決断のノート

* 第三章 進めるために書く 管理のノート

* 第四章 考えるために書く 思考のノート

* 第五章 読むために書く 読書のノート

* 第六章 伝えるために書く 共有のノート

* 第七章 未来のために書く ビジョンのノート

* 補章 今日からノートをはじめるためのアドバイス

* おわりに 人生をノートと共に

関連ページ

◇『すべてはノートからはじまる あなたの人生をひらく記録術』 - 倉下忠憲の発想工房



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面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第17回の本日は、「すべてはノートから始まる。あなたの人生を開く記録術」について語ります。
はい、よろしくお願いします。
えーと、僕の本なんですよね。
今回は、今までで一番新しい試みとして、著者が自分の本を自分の番で紹介する。
これね、考えたんですけど、結構難しいんですよね。
言うたら、本を読んでくださいっていうことになってしまうんですけど、一応頑張ってみます。
一応試みとして、今週の23日に発売予定で、Kindle版は22日の予定ですが、一足早くというか違うか。
放送されるのは発売後かな、ということは。
そうですね。なので、読んでいる人も一定以上いることが期待されまして、
ちょっと方向性として、本に込めた思いとか、そういうようなことも一緒に話してくれるといいんじゃないかなと思っておりまして。
どういう段取りで進めたらいいのかは探り探りですが、始めていきましょう。
はい、では始めたいんですけども、どこから行こうかな。
例えば、他の人が書いた本を読んだ定義で進めた方がいいんですかね、これは。
面白いと思って、ぜひやってほしいんですけど、最初の最初に聞きたいのは、
どういう流れでこの本を作るに至ったかとか、どういう思いがあってこの本を書いたみたいなのを聞きたいなと思いますが、どうでしょう。
舞台裏的な話から行きますと、正解写真書っていうレベルから出る本なんですけど、
実は正解写真書から出る本としては2冊目なんですよね、僕が出す本としては。
1冊目の本を書いた時の編集者さんとは、実は別の方なんですよ。
違う人なんだ、同じ人じゃないんですね。
そうなんですよね。
その担当された編集者さん、最初の担当された編集者さんが別の出版社に移動されると。
この業界って結構、編集者さんが出版社に移るのは別に珍しくない話だよね、これはよくあること。
引き継ぎの連絡をしてくれた人なんですね。
引き継ぎの連絡をしてくれて、この方に残りの本をあったら言ってくださいねっていう時に最初のメールで挨拶して、
今考えてるのこういうことありますっていう話をしたら、じゃあ進めてみましょうかというのがスタート地点だったんですね。
最初の段階でこういうこと考えてるっていうのに3つぐらいあって、
そのうちの1つにノート、ノート術をまとめるような本を考えてますっていうのがあって、それについて書いてみましょうっていうのがスタート地点としてありました。
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もう2つあった話のうち、もう1個は完全に忘れてるんですけど、もう1個はデジタルツールの使い方みたいな。
最近いろいろあるじゃないですか、エバーノートだけじゃなくて、ワークフローリーとかノーションとかいろいろあるんで、それらをまとめるような本もちょっと考えてたんですけど、
その時のやり取りで決まったのが、どっちかというとノートの技術、ノート術をまとめる本というのでスタートしたのがこの本です。
最初の企画でいうと大雑把に言うとノートのことっていう、そのぐらいの広い範囲から始まってたってことなんですかね。
そうですね、いろいろノートのノート術っていろいろあるけど、それをちょっと大全物ではないですけど、もう少し1つ上の視点から眺めてみるような、
ノート術っていろいろあるけどどうなのってみたいな話を1つ上の視点からまとめてみるっていうのでスタートしたのがこの本です。
個別細かい、私はこういうノートを使い方をしていますというよりは、もうちょっと全体的なノートの使い方にはこんなものがあるぞっていうのをたくさん紹介する幅が広い、対象範囲が広い。
という感じですね。だから僕いろんなノート術の本これまで読んできたんですけど、個々のノート術の使い方については別に間違ってないなと思うんですけど、
非常に用途が限定されているというか、ビジネスの話だったら仕事の話しかしないし、知的生産だったらアイディアの話しかしないけど、
ノートってもっといろんなことに使えますよっていうことをちょっといっぺんに言ってみたかったんで、そういう広めの視点の企画が始まったっていう感じです。
ちょうど倉下さんが1個前に正解写真書で作ったのが、ある意味本質が似通っているなと感じたんですが、1個前はタスク管理というものがこういうふうにやればいいんじゃなくて、いっぱいこういうのがあるよっていう紹介だったんですよね。
はい、そうです。
で、それをノート方向にしてみたみたいなニュアンスかな。
スタート時点ではそうでした。
スタート時点ではね。
列車が走ってみたら結局結構違う道になったんですけども、僕としては個々の個別のこれが最新技法だというよりは、ここ10年とか15年とかで様々なライフハックとか仕事術が展開されてきたんですけど、
結構その知識を持っている人でも、例えばGDDは知ってるけどその他の技法は全然知らんみたいな、そのタコツボ的な知識のあり方っていうのが結構目についてたんで、
それをちょっと打破するためには一つ上の視点からこんな方法もありますよ、こんな方法もありますよっていろいろ提示して、
ノートを実践する人が自分に合ったものをそこから選べるような対戦になったらいいかなと思って、まとめる本を書きたかったというところです。
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なんかあれですね、ある意味というか、最も書籍が向いているというか、やっぱウェブ記事で一個一個の細かい部分というものは見ることはいくらでもできるようになったけど、
やっぱその網羅するとか全体を見渡すとかっていうのはやっぱウェブでは意外と難しいことなので、本にして良いコンテンツだっていう感じですね。
そうですね、まとめ的なところもありますし、自分のブログを持っててそこで技法を紹介するとやっぱりその人の技法だけになってしまうのは当然なんで、
少し包括的な視点から客観的とまでは言いませんけど、眺めてみるっていうのは、僕は常々書籍というものでやりたいなと思っていることの一つではあります。
そこから当初はそういう感じだったけど、だんだん変わってきて。
結構変わった。どこでどう変わったのか僕は覚えてないんですけど、最終的に2つ想定と違うものがありまして、1つはノート術の改善というよりはノート論になった。ノートとは何ぞやという考察だ。
ノート術よりももう1個上の概念になった。
いってしまったっていうところと、もう1個は全庁のやるわと呼ばれているタスク管理の技法を紹介した本では、極力辞書的というか、フラットに書いたんですよね。
何がいいとか悪いとかっていう僕の主観はなるべく出さずに、こういう技法がありますようにとどめたんですけど、この本は結構僕はこう考えてますというのをまるっと出しちゃってるところがあって、出てきたというか、そういう感じがあるんで。
僕の論考考えを発表している本でもありますね。技術のまとめプラスアルファはクラシタにとってノートとは何かっていうのを論じている本でもあります。
本来の著者がちゃんと自分が考えていることを書くという意味では、前の本よりもより自分らしいやつができたってことですね。
そういう感じだと思います。
私は約束通り、原本著書を送っていただいたんですが、はじめにしかまだ読んでおりません。はじめにと目次をざっと読んだのかな。
どこでも目次を読んでもねえというところがするんで、どうしようかな。
俺から質問すると俺の回じゃなくなるんで、俺が喋りますけども。
この本は基本的にさっきも言ったように、ハイブリッドというかノートの技法を扱ってはいるんですけど、ノート論でもあるんですよね。
ノートとは何ぞやっていう話もあって、そのハイブリッドになってて、むしろノートとは何ぞやっていう一本の話の流れの中にノートの技法がちょこちょこ出てくる感じなんですよね。
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それがこれまでの本、よくある本との違いなんですけど、これまでの本って技法が見出しにくるんですね。
こういう技法があります、こういう技法がありますって技法による性立てになってるんだけど、この本は違ってて。
メインのノートとは何かっていう論説の中に、実はこういう使い方もできるんですっていう形になってる。
それは目次を見てもらってもわかるんですけど、技法が下に出てくるんですよね、インデックスの。
だから技法が主体じゃないんですね。
技法はあくまでサポートというか、あくまで一つの切り取り方に過ぎないっていうのが、いわゆるノート術との大きな違いかなという気はしております。
そこは目次を見た段階で、へーって思って、まず第一章の目次は普通の目次なんですよね、そのフォーマットとして。
第二章になると始めるために書く意思と決断のノート。
一番最初の項目がノートから始めるなんですけど、その下に技法01、ノート作りから始める。
次の項目は今年についてのノートっていうので、これ技法じゃないんですよね。
そうです。
何でも書いていい、始めるために書くことって書いてあって、次に意思を決する方法を、技法02、フランクリンの講座表。
っていう感じで、トピックの中にちょいちょいたまに技法が出てくるという構造になってるんで、技法ありきの本ではないというのが、他のとは違うというか異色な作り方ですね、これはきっと。
たぶんこれは僕の予想なんですけど、前回、前々回、ちょっと前のHow to take smart notesの話をする時にもよく出てきたんですけど、
たぶん僕と倉下さんが好きなのは、拾い読みができる本じゃなくって、最初から最後まで話がつながっている本なんですよね。
技法を拾い読みできる本にすると、倉下さんの好きな本ではなくなってしまう。
っていうところはありますね。
なので、物語にしておいて、一応拾い読みもできるけど、できれば順番に読んでほしいよっていうのを、間を取ったらこうなったんだなっていうような感じがしました。
たぶんそうですね。意識して作ったわけじゃないですけど、最初にやっぱり自分が面白いように書いていったら、さっき言われたように流れベースの書き方になったんで、
そこに実用書的な要素を加えると、こういう形になるというところですね。
そうだな、言ったらバラバラに読むというやり方が、ちゃんとできるようにはなっているんですよね。
もちろん、どっかの章から好きに読んでいくことは全然可能ですけど、普通に初めから第7章までの流れで読んでもらった方が絶対面白いようにはなっています。
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あともう1個の印象がですね、一般的なイメージする新書より分厚いのかな?
分厚いですね。分厚いです。
文字も割とちっちゃくて、がっつり書いてますねっていう感じがしました。第1印象。
はい、もうこれは僕あまり文字数気にせずに書いたので、こうなってしまいました。
確か一般的に新書って10万文字ないぐらいなんでしたっけ?
これページにするとだいたい250ぐらいに収まるのが多いですね。こっち300超えてますけど、だいたい256で収まるのが多いです。
っていうので文字のサイズまで加えると、よくある最近の今時のライトなビジネス書の文量というか文字量で言えば印象としては3倍ぐらいあるなっていう。
マージンスカスカの本に比べると文字はたっぷりありますね。
なので文字単価で言うと、新書で1200円ってたっけって思ったんですよ。値段見て。
はい、わかります。
なんだけど、ビジネス書が1500円とか1800円とかすることを考えたら文字単価5分の1ぐらいになるのかなっていう。
その辺までいろいろ考えたんですけど、僕今回そういうビジネス書はこういうふうに技法ごとに書かなければならないとか、文字数はこのぐらいに抑えたほうがいいみたいなそういう固定概念を全部無視して書いたので、こういう結果になった次第です。
本を文字単価とかコスパで考えるのは間違っているとは思うんですが、やっぱり常識にとらわれないほうが面白いものになるんではないかっていうのは思いますね。
面白かったらいい。まだ全然まさか販売もされないし、レビューももらってないんで何とも言えないんですけど、
僕がこれまで自分で書いてきた本って、星5段階評価でもやっぱり星4点なんぼっていう感じだったんですよ。一番よくできてる本でも。
でもこの本は星5を自信持ってつけられる、自分が読んでああ面白いって思える本になっていることだけは間違いないです。
なのでなのか逆になのか、最近のツイッターを見ているとなんかすごい心配しているような印象があって。
だからこれまでの本ってリアクション返してくれる人ってウェブ的顔見知りというか、それなりに知っている人なわけですけど、最近ツイッターとかで予約しようとか興味持っている人ってもう全然知らない人なんですよね。
そういう人からどんなリアクションが返ってくるのかって考えると結構怖いです。
でも思うのが、やっぱり知らない人にまで届くようになって売れれば売れるほど、やっぱり良くない評価は出やすくなりますからね。
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それは間違いないです。
なので、たぶん良くない評価がたくさん出たということは売れたものだっていうことも言えるのではないかと。
悪いことではないでしょうけど、ドキドキは強いですね。
道の行ったことのないダンジョンに入るような感じがあって、話はそれるんですけど、これってテーマがノートやからなんですよね。後で僕気づいたんですけど。
そういうことなんだ。
テーマがタスク管理の場合って、まずそもそもタスク管理って何かって知らないと本手に取らないじゃないですか。
実際タスク管理って何ですかって質問されることが多かったんですよ、あの本書いた直後って。
スクラップボックスもスクラップボックス知らないと買わないですよね。
そう考えるとノートって知らない人がいないというか、その概念を捕まえられてない人って現代でほぼいないわけですよね。
日常的に使ってるわけで、マグチが僕がこれまで書いてきた本の中で一番広いんだなと改めて思ってる次第です。
エヴァノートの本にしても、手帳の本なんか広いと思うけど、広さの次元がノートはもう一段階上ですからね。
うちの小学校1年生の息子がすでにノートは使ってますからね。
手帳って言うとビジネスシーンを連想することが多いですけど、ノートって学業から仕事から日常生活までどこでも顔を出すツールなんで。
だから今回の反応の広さっていうのは、ノートっていうものの射程の広さを表してるんだろうなと思う次第です。
本題というか最初に聞きたかったことなんですけど、ノートっていう一般語を使うと多くの人は紙のあのノートを連想すると思うんですよね。
とはいえ、僕の中でノートというものはデジタルも含めたノートを話していないと、ノートの本質に迫れていないのではないかということを思っていて、
クラシタさんにとってのノートっていうのをすごくシンプルにまとめるとどういうものなんでしょうか。
人類が記録を扱うためのツールを全般をこの本ではノートと呼んでおります。
おお、かっこいい。
本書では人間が記録を扱うための道具全てをノートと呼びます。
つまりノート、この本ではその一般的なイメージのノートっていうのをノート帳と呼んで区別してるんですけど、
そのノート帳はノートっていう概念の子供の概念でしかなくて、その兄弟項目にはありとあらゆるツールが並んでいるっていうのがこの本におけるノートです。
一番広い範囲を取るノートっていうことですよね、やっぱり。
そもそもの話で、確か英語圏のノートは、日本語のノートというのは英語圏ではノートブックですよね。
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そうですね。ノートっていうのは記録を取るっていう動詞かのどっちかですね、基本的には。
なので、その意味としてはそっちのものを言っているっていうことですよね。
そういうことです。
それをあえて新しい言葉ではなくて、みんなが知っているノートという言葉から入っているっていうのがこの本のポイントでしょうね、きっと。
だから大事なのは紙のノートを上手に取るとか、紙のノートをどう使うかとかっていうことを言っているんではなくて、
もう一次元上の書くこと、記録することをどうするかどう使うかの本だってことですよね。
そういうことになります。はい、まさにその通りで。
だからノートを取るっていう行為は2つ意味があって、
一つは先ほど言われたように自分で書く記録を取るっていう行為と、もう一個は自分で記録を取るっていう2つの意味があるんですね、ノートを取るっていうのは。
もちろん前者はめっちゃ重要なんですけど、実は後者も重要だなと思ってて、記録が大切っていうのは大切なんですけど、
記録がただあればいいっていうものではないなっていうのを、僕はこの10年間デジタルで記録を残してて思ったことなんですけど、
自分が何か対象に注意を向けて、それについて記録を残すという行為が記録を生かすためには重要だと。
だから記録っていうことだけじゃなくて、記録を意識的に主体的に残すっていう行為が大切なんで、
ノートを取るというこの2つを包合するものとして、みんなノートを取っていきましょうと本書では提案しているわけです。
自動的に記録される何かではないってことですよね。
そうですね。もちろんそうした記録も重要ですけど、それっていわゆるこっちにコントロール性がないというか、
アルゴリズムとかAIに情報の主導権を渡してしまう行為でもあるんで、
だからそういう記録は別にあってもいいんですけど、それとは別に自分がこれについて記録を残そうと思ってものを残していくっていう行為が、
自分にとって意味のある記録、ノートになるっていうことですね。
英語のニュアンスなんですけど、ログではなくてノートなんだっていう感じですよね。
ログという言葉にすると何かをした足跡が残るかまさにっていう自動でできるものではなくて、
意識を持って自分で明確に意思を持ち記録をする、書くっていうことです。
ノーテーション、注意書きっていう意味ですけど、ノートを取るためには自分でそこに注意を向けないと本来はできないんですよね、ノートを取るという行為は。
ノートを取る行為は最初に注意を向けるっていうこととほぼ等しいんですよ。
AIの自動化はそれを省いてくれますけど、そういうのではなくて、対象に注意を向けて自分の中でそれについて考えて文章にするっていう行為を本書では重視してますし、
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それこそがたぶん現代で一番欠落している行為だろうなという点も論じております。
同じく10年間で思ったのが、自動はすごく便利だけど、便利なものが役に立つとは限らないというか。
むしろ逆、便利でどんどん情報が増えると一つ一つの価値が低下するばかりか、含まれている他の情報まで価値を失ってしまうんで、
だから自動で残すものにしても、例えばそれが手動で残すものとは別の場所にあったほうがいいなという気はしますね。
極論を言っちまえば、個人レベルで残した自動の記録というものを活かせるような仕組みがやっぱりまだなかったというか、
個人のログを個人に自動で活かすというのは、ちょっと人類側とか技術側とかではなくて、やっぱりその本質的なところでいろいろ無理があるんじゃないのかなという気がしていて。
それはありますね。だから改めて自分で文章を書くとか、自分でノートを取るということをやっていこうと言っているのが、この本の射程の広さであって、
アナログとデジタルというものだけじゃなくて、例えばSNSも僕の中ではノートですし、ウィキも僕の中ではノートです。
全部記録だし書くことですね。
そうです。だから本を書くこともブログを書くことも全部僕の中ではノートを取る。この本の中でノートを取るということになっています。
その上で1章がその第2話の導入部だとして、2から7章でノートというものを大きく分類を分けているとか、こういう役割があるんじゃないかというのを提示している。
そういうことになります。第1章でノートと言えば記録なんで、記録と記憶の関係性を論じて、2つが補完し合うことが大切だという話をした上で、
どうやって使っていくのがいいかというので、用途別というか目的別にノートはこういうふうに役立つよというのを具体例を2章から7章で論じているという流れです。
大体ノートの時系列というか、こういう順番に使ってみたらいいんじゃないかという順番に書かれてますよね。
おおむねね。
第2章のタイトルというのが始めるために書く。
意志と決断のノート。
つまり行動っていうのが何かし必要ですけど、行動の前にまず決定があるっていうところがあって、決めないと始められないと。
もちろん人間で決めないでも始められることっていろいろあるわけですけど、習慣的行動っていうのはほぼ何の決定も経てないんですけど、逆に言うとその習慣から外れる行為ってあるじゃないですか。
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初めてやることとか。それは絶対決めることがいるんですよね。決めるっていう意志力の発露がいると。
頭を使うことだと。その頭を使う行為においてノートはサポート的に役立つよというのが第2章です。
これは決めたことを書けっていうことが書かれているっていう感じですか。
そういうことです。
省略しすぎかな。
それも間違ってないです。決めたこととかどう決めるに至った決断の流れとか、自分の中での検討課題とか考えたことを全部書き残しておけというのが、ざっくり言うと第2章の話です。
まずノートを始めるにあたって、例えばノートの入門で言うなら、俺は今からノートを始めるぞっていうことを決めて決めたことを書けということですよね。
そういうことです。
どうやってノートを続けられるだろうって自分の中で考えてそのアイディアも書いていくとか、もう何でもいいんですけど、とりあえずガイドプロジェクトを進めるためにそのガイドプロジェクトについて考えたことを書き留める場所を作りましょうと。
どこでもいいんで、それこそアナログでもデジタルでもいいんですけど、これについて考えたことはここに書こうっていうための場所を最初に作るっていうことが一番最初が大切で。
中にそのモノリマインダーっていう項目があるんですけど、そうやって僕たちは決めたことですら忘れるんですよね。
だからその分かるようにしないといけないんですよね、それを。
そうやって決めたってことを思い出させるための装置が必ず必要で、それは例えばリマインダーと呼ばれるんですけど、この中でもモノリマインダーっていうその実際のものによる思い出し行為っていう意味で、物理的なノートってそれだけで思い出させてくれるんですね、それが机の上に置いてあるだけで。
常に机の上にノート置いておくのは一番いい方法だと思う。
毎日自分にリマインダーとかメールを飛ばしてもいいんですけど、それと同等の行為がモノとしてのノートになると。で、内容に少しかがふれますけど、デジタルノートはそれがめちゃくちゃ弱いんですよ。
0に等しいぐらいだと思います。
エバーノートの中のノートブックに何か新しいプロジェクトを作ったとしても、それが常時目に入らないんですよね。
だからリマインダーとしての効果が非常に薄いんで、その点考えると実はデジタルのノートよりもアナログのノートのほうがリマインダー的効果が高いよというのが一応現代的な話ではありますね。
そこで言うとあれですよね、やっぱり今紙の手帳が流行ってるのってきっとそういうところが多いんじゃないかなって思うんですよね。
デジタルだといろいろな情報が目に入ってきて、その手帳的な情報も全体の中の一部に埋没してしまうっていうのはあるから、あるでしょうね。
あと、バレットジャーナルとかで言うと、情報量がそもそも少ないっていうのもあれポイントで。
多くないことが重要なんですよね。
ノーションとか見てるとたまに頭が痛くなってくるんですよ、ページ内の情報量。便利なんでしょうけど、あれを毎日見てるとしんどくなりそうですけど。
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バレットジャーナルとかはそういう意味で、確か著者の方はADHDかなって本人でもおっしゃられましたけど、過集中しすぎて情報処理がうまくいかない人とかは逆に情報量が少ないほうがいいっていう話で。
でもそれは多分普通の人でも同じなんですよね。情報量が多くて脳の負荷が高まるのはほぼ確実の話なので。
集中したいこととか、この情報だけ見れたらいいっていうのだけ置いておける場所っていう意味で、紙の手帳とか、アウトライナーもそうですよね。
画像とかを表示させないアウトライナーも割に情報の限定的に表示できるんで、そういうのを改めて評価するっていう点はあると思います。
やっぱり手書きはめんどくさいから、できれば余計なことを書きたくないっていうので、情報が過剰に増えるのが抑えてくれるという意味で、多機能とか便利であることが必ずしも良いとは限らないってやつですよね。
そうですね。もちろんその手書きが痛いから続かないっていうのでキーボードにするのはいいんですけど、情報って多くない方がいいよっていうことを一度知った上でデジタルに戻ってみると、多分使い方も変わってくると思いますね。
それに関するちょっと小話っていうか思い出したことがあって、俺自分の名字ゴトウなんですけど、五つに富士っていう日本で非常に数少ない間違えられやすい名字なんですよね。
普通後ろって思いつきますよね。
五つの島ならまあまああるらしいんですよ。
なるほど。
で、インターネットで名指しでメールが来るときに間違えられる率が、9は言い過ぎだけど7割ぐらい間違えられる。
なるほど。
コピペして名前を入力してくれるときは間違えられてないんですけど、文章タイピングして打たれるとやっぱもうすごい確率で間違えられるんですよね。
変換の第一工法そのまま採用してるって感じでしょうね、きっと。
ただ手書きではやっぱ間違えられないんですよね、ほとんど。
そりゃだって変換してるわけちゃうもんな。
そこが手書きとタイピングの大きな違いというか、手書きでゆっくり書くとやっぱりそこにちゃんと注意が向いて、後ろの富士って書いてあるのを見て、あ、これ違うわっていうのに気付けるんですよね。
なるほど。
手書き、今でも好きじゃないし、優れているとは必ずしも言わないんだけど、デジタル絶対だって思っていたのはその体験というか、それにふと気づいてだいぶ考えが変わるようになって。
早いとか、効率がいいとかが正しいではないっていうことを思い知らされた感じがして。
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確かにな。結局手書き、キーボードタイピング、コピペ、自動操縦の順で注意が弱まってますからね。
音声入力、すげえ便利っていうことをすごく思っていたし、今でも早いのは間違いないんですけど、正解ではないなっていう、一つの手法だよなっていうのを改めて思い知っていて。
確かに。どうしようもないときのメモ書きとしては非常に便利ですけど、時間があってツールがあるんやったらちゃんと書いたほうがいいですね、メモっていうかノートとしてはちゃんと書いたほうがいいですね、きっと。
なので、この本で言うノートというものだったら、多分音声入力というのはあまり向いていないのではないかということも思ったりして。
一応、この本の文脈で解釈すると、飛びますが、4章の話に飛びますけども、考えるために書く思考ノートっていう章があって、この本、どっかで言ったかな、考える思考っていう行為を思うっていうのと考えるっていうのに分けてるんですよね。
思うっていうのは、いわゆる直感的なスピード的な処理、ファスト&スローで言うことのシステム1が行っていることであると。
考えるっていうのが、そうして自分が思ったことに対してもう一度注意を向けて思考するっていうこと、これが考える。
この2つが合わさったときに思考っていうのになるとっていう話なんですけど、音声入力は思うをキャッチするのにはぴったりだと思いますね。
だからそうですね、例えばで言うなら、本の下書きとか構成を思いつくままにたくさん書き出す、思ったことをたくさん書くんだったら、そっちのほうがむしろいいかもしれないですね。書いていたら間に合わない。
それで終わらせてはダメだと。その書いたものに対してもう一回ちゃんと考えようよという使い方。
やっぱり考えるためにちゃんと書き残っていることは必要なことなんで、データとして残してなかったら意味がないわけで。
だから口述筆記とか音声入力も悪くはないですけど、そうやって書いたものをそのままコピペしてブログに貼って、うわあ、記事ができたっていうのはまずいとは思いますけども。
やっぱりそれをコピペするとミスが多くなるんですよね。だからもう一回書いてしまったほうが、情報密度が高いものはできるなっていうのは思っていて。
そのあたりは最近の数年でだいぶ変わったところで、早いことが正しいのではないみたいなのを思うようになって。
決断という決断もある種の知的プロセスですけど、をするために書くことがサポートになるよっていうのが第2章で、決めたら実際に何か進めていきましょうっていうのが第3章。
進めるために書く管理のノートと。ここでは一応タスク管理の話なんですね、当たり前ですけども。
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GTDの話が出てくるんですけど、いろいろ書いてるんですが、GTDって何してるかっていうと、ストレスフリーとか水のような心っていう表現がよく出てくるんですけど、
人間の心に関与してる方法なんですね、あれって。安心感を得るとかっていうのがよく出てくるんですね。
ここに自分のやることすべてが書いてあるから、そこから選べばいいっていう。行動って結局心の問題っていうのが結構大きいんですね。
例えば、これ自分が何かやったときに進んでいる感じがするっていうのと、これ何回やっても終わらへんっていうのではモチベーションが変わってくるんですよね。
全く同じタスクであっても、その行為に対する心的な状況によって変わってくるんで、その心をケアしましょうっていう話が半分と、
心の関して実は書いていくっていうことが大切なんだっていうのが話の半分と、後半は自分がやったことを記録していきましょうと。
つまり、やること、タスクだけじゃなくて、やったこと、先ほど言ったログにあたることも書き残しておくとよいですよというのが第3章の大雑把な話です。
そうか、管理だけで考えてみたら結構いっぱいありますね。そうやって考えると。
管理の話もいろいろあるんですけど、タスク管理っていうと、いわゆる情報処理というかリストを作って消していけばOKみたいな話になりがちですけど、
実施してるのが人間っていうところを加味すると、そんなに単純な話ではないと。
よくオープンリストとクローズリストって話があるんですけど、オープンリストにすると進んでる感じが極端に減るんですよ。
タスクの項目が100個も200個もあって、1個だけ進んで、ほんまに進んだ感じがしないんですよね。
逆に、例えば僕たちが共同でプロジェクトしてますけど、ファイルごとに新着をするとか、何行ごとにここまで進んだとかって、コミットログを残すとかって、
ああいう細かいことが実は大切なんですよね。進んでる感じっていう。
だから、アルゴリズム的なパソコンの処理でいうと、そんな無駄なんですけど、
人間っていう心がある生物からすると、ログを残して、自分はこれをちゃんと進んでるなっていう感じを得るっていうために書き残すっていうことが、
実はかなり重要やという話です。
なんかあれですね、経済学から行動経済学への進歩が、コンピューターの使い方業界でも起こってきているのではないかみたいな感じをしますね。
起こってきてほしいという感じがあって、Tudoistっていうタスク関連アプリがありまして、
タスクをクリアするとカルマっていうのが溜まっていくんですよね。ポイントみたいなもんですね、経験値とかポイントみたいなもん。
あれも生産性には何ら関係ないですけど、やっぱりああいうのが重要なんですよね、人間においては。
36:05
確かにワンダーリストも、押した時の音とか動きというものに一番こだわっていたって言っていて、
そこなんだよねっていう、好きな人はそこが好きだったって言うんですよね。
だから、そんなの全然無視してできる人はもちろんたくさんいますけど、そうじゃない人も結構いっぱいいて、そうじゃない人の方が多いかなと思うんで、
自分が進みやすくなるように情報を管理していくっていうのが大切で、そのためにノートって使えるよねと。
タスク管理アプリだとアレンジが聞きにくいですけど、広い意味でのノートツールの場合って、書き方とか消し方とかって自分で決められるんで、
案外たくさんで言うと、汎用型ツールでやっていくのはいいかなと個人的には思っております。
そうですよね、本当バレットジャーナルもそのまんまなんだけど、今日やることなんて3個決めて紙のノートに書けばいいし、
そうすると30個書くの面倒だからやらないから、紙の方がいいんじゃないかぐらいになりますもんね。
デジタルだと本当に完璧なタスクシュートみたいにリピートで自分が何も作らずに望ましいリストが出てくるという方法もありますけど、
手書きの場合は逆に最低限これだけはっていう要素だけやって、あとはもう知らんみたいなこともできて、
これは相性というか、本人がどっちのより細かく精緻な方が好きなのか大雑把でもいいと思うかに違ってきますけど、
手書きはだいたい重要なものだけになっていきますね、だんだん。
入門としてはやっぱり一番いいのは、今日はこれ1個をやるを書いてクリアすれば完了するっていう、
それじゃないかと思うんですよね、ポストイット1枚しか使ったらダメルールぐらいの。
そうやってやって、僕の場合だったらやり終わった後にノートにポストイットを貼って、
今日はこんなことをしたっていう日記的ログを付け加えると多分完璧になるかな。
そうですね、入門としては理想な気がしますね。
1日1ページのノート、手帳的なものを買って、手帳じゃなくていいのかな別に、それこそ国用キャンパスノートでいいのかなとポストイットを買って、
四角に1個書いて完了したらクリア。
そう、だからタスク管理的に言うと、タスクってやり終えたら消えるじゃないですか。
それが僕の中で半分不満なんですよね。
あれはちゃんと残っとくべきで、残った上で自分が何を考えてそれをやったのか、
やり終わった後にどんな感じがしたのかとか、どんな課題が立ち上がったのかっていうのを一緒にノートにしておくと、
はるかに強力なログというか、アルバムに近いものになりますね、ジャーナルに近いものになる。
あれね、自分のやつだと見て楽しいですからね、1年後ぐらいに見返したら。
人のやつ見ても面白いとは思わないんだけど。
やっぱりここにノートを振り返って書くという作業をしてるだけで、脳の中では復習が行われてるんで。
39:02
あれですね、フィードバックですね。
終わったら必ずフィードバックをできるだけ早く与えてあげないといけない。
それを自己完結できるのがノートとそれに付する記録なんで。
だからタスクもチェックして終わりとかではなくて、ちゃんと書いておいたほうがいいっていうのが本書でロギング仕事実って書いてますけど、
やり終えた後に細かくでもいいからログを残しておくっていう。
そのログを残すためにタスクリストは役に立つんですよね。
何もないところでログを残すのって難しいんですけど、タスクリストにチェックを入れた瞬間にそれについて書くっていうのは、
コードがセットになってるんで非常に書きやすいし思い出しやすいんで。
だからノートとリストって僕は分離しないほうがいいなと思ってて。
別の場所にあってもいいんですけど、チェック入れたら何か書くっていう。
だからGitHubと一緒ですよね。
コミットするときに必ずコメントを書けっていう。
コメントを書かないとGitHubというかGitのシステムとして記録ができないんですよね、あれは。
あれぐらい強固なシステムであったほうが残りやすいです。
あれ残ってるだけで抜群に後ろから探しやすくなりますから。
手を抜いてしまうんだけど、手を抜いたなりにもちゃんと書いてるからだいぶ違いますよね。
何も情報がないだけのファイルが並んでるのと、何か一言だけでもコメントが入ってるだけでも探しやすさが変わってくるし、
それは結局自分の仕事を振り返るというレベルでも同じことが言えるんで。
だから本当に1行2行でもいいから、特に重要だと思っているプロジェクトに関してはやり終えた後にノートを書くっていうことを習慣にされたほうが僕はよろしいかと思います。
という感じのことが3章で書かれている。
おおむね書かれています。
しかもまだここでまだ前半ですからね。
ここから中盤ですからね、ようやく。
2章3章は行動とか実行に関する話で、4章は思考、考えることに関する話で、考えるという行為とノートがどう関連するのかっていうのが論じられていて、
最初に言った思いと考えというのを分けると。
考えるにしろ思うにしろやっぱり思ったことを考えるためには書いておかないとずっと思うだけになるんですよね。
そこは最近すごく思うようになって、ノートを書き止めることで書いたことが固定化されて、固定化されてからじゃないと次の段階の考えるができない。
無限ループになっちゃうんですよね、書いてなかったら。
これは文章書きの人だったらよく知っていると思うんですけど、これについて思っているから書こうって一行書くじゃないですか。
書いた後に何か違うなって思って書き直すんですよね。
これは書かないとわからないんですよ、この違うなっていうの。
頭の中で正確な文章を組み立てから書くっていうのはかなり難易度が高いんですよね。
42:03
書きながら書いている、どっちもだな確かにそれは。
書き終えた文章を読んでみて初めて書こうとしてた内容について再評価できるようになるっていう現象があって、
だから脳から一回それに出すんですよね、頭が。
そういったものについてもう一回注意を向けられると。
だから自分の頭の中にあるうちは外部化がされてないんで、思考の対象に向けるのが非常に難しいんですよね。
そうですね、脳がメモリが足りない、短期記憶が足りないから考えているつもりでも補助ツールとして外部メモリがないと、
うまく考えられないってことなんでしょうね、ここは。
そういうことです。だからとりあえず考えるためには書くと。
さっき言ったタスクに終わったときにログを残すっていうのもあれもだから、やったことについて考えてるんですよね。
そういうだからあらゆる考えることを残すっていうために使えるっていうんで、
ここで若干話が後ろの方にそれってそういうことやったんかっていう風にちょっと話が戻るんですけど、
だからこの考えるという項目は前後をつなぐための章でもありますね。
そうか、前と後ろをつなぐかあるかもしれない、そういうのは。
あとアイデア発想法というのが少しだけ出てきまして、これは知的生産の技術系なんですけど、
これは定番中の定番でアイデアは組み替えの技法やと。
もともとある組み合わせを別の組み合わせにしたらアイデアが生まれるっていうのは非常によく話して、
それを行うために情報を物質化しておくと組み替えやすくなるっていうのはよくある話なんで、
特別論じることでもないんですけど、一番この話で主要なのがエラーとしての発想っていうんで、
人間って新しいことを思いつくじゃないですか、発想するっていう。
あれって僕の中では脳のエラーなんですよね。
本来組み合わせるべきじゃないものが組み合わせてしまったから?
っていうことに近いかな。つまり自分の持ってる既存の文脈ではその2つは異質なものであると。
で、言ったらプログラミングで関数作るときに引数をタイプ指定、型指定してると、
そうじゃないものが来たときにエラー吐きますよね。で、脳は吐かないんですよ。
つまり想定してない組み合わせのものを目にして、脳は何とかそれについて結び合わそうとするんですよね、自動的に。
それが僕の中で発想っていう行為なんですよ。
それが発想っていう行為か。そうか、そういうふうには考えたことなかったな。
だから普段パソコンとかプログラムならエラーが吐くべきものであっても脳は何らかの答えを絶対に出すと。
その中で有用なものがアイディアと呼ばれるという感じですね。
脳の認知の誤りを無理やり良い方向に使ってやろうぜっていう感じですね。
だから人間の脳の認知エラーって悪いことは多いんですけど、でも逆にそのエラーで止まらないんですよね。
45:07
何か処理はするっていうところがある。
無理やり正当化するんですよね。何かおかしいことが起こっても。
それが同じことが新しい発想にも使われていると。
だから動力は一緒で、動力源は一緒なんですけど、良い方向に役立つものがアイディアで、そうじゃないものがエラーとかヒューリスティック化が呼ばれるっていうだけのことですね。
僕の中では。
っていうとやっぱりエラーみたいなものをダメなものとして除外してはいけないっていうことになりますね。
そういう話です。
役に立たないと思うことも書いておかないといけないし、書いてからじゃないとわかんないんですよね。役に立つか立たないとかっていうのも。
というのが第4章の話でして、ここからが後半戦に入ります。
第5章が読むために書くということで、読書のノートを読書術。
ここにあれですね、丸と一章はやっぱり裂いているんですね。読むことは重要だということの現れかなと思って。
そうですね。書くことと読むこと、あるいは読むことと書くことっていうのは表裏一体なんですよね。
ほぼ同じ行為と言っていい?読書ってインプットって扱われますよね。
っていう言い方をほとんどの人はしますね。
でもそんなわけはなくて、あれは半分アウトプットなんですよね。読むという行為ですらもうアウトプットなんですよね。
なぜかというと、読むって何をしてるかわからない、説明できないですよね。
その情報処理を相手に説明できないんですけど、読むっていうのは文字を頭に入れてるっていうことではないんですよね。
ある種の意味を推測する行為なんですよ。読むっていうのは。
それはなんとなくわかる。
英語の勉強しててもわかると思うんですけど、ある種のシミュレーションが働いてる。意味の構築と言ってもいい。
言語で書かれたものを多分自分の中の非言語に変換しているんですよね。
おそらく引き付けて、こういう意味だろうという推測が働いてるんですね。ここで必ず推測が働いてるんですよ。
山っていう文字があったら山っていうものが必ず思い浮かぶような脳の構造ではないんですよね。
おそらく山っていうのはこういう意味で使ってるんだろうっていう、ある種のイマジネーションというかシミュレーションが働いてるんですよ。
だから文章を読んで意味を理解するっていうのは、文章の意味をインプットしてるんじゃなくて、文章の意味を自分でアウトプットしてるんですよね。
脳内にアウトプットしていると言えるってことですかね。
そういうことかもしれない。
だから読むっていうのは自動的なインプットとして捉えるんじゃなくて、それは半分アウトプットだということをまず半分言ってるのと、
48:05
あと、書いた僕の本って僕にとってのノートじゃないですか。情報を書き留めたもの。
そうですね。結構なエネルギーを使って作ったノートですね。
でもこのノートって実は読む人にとってのノートにもなるんですよね。
読む人にとってのノートにもなる?
だから一番簡単に言ったら、この本に赤ペンで何かを書いていったら、もうそれはその人にとってのノートですよね。
それはもうまさにノートですね。
だから本っていうのは面白いんですけど、著者と読者にとっての両方にとってのノートなんですよ。
そういうふうに言われるとそうです。確かに。
そういうふうにインプットとアウトプットが入り混じる場所、
ないしは著者と読者のノートが入り混じる場所として本っていうのを見ているんですね。
ノートから見たときの本っていうものの存在を論じているのがこの章です。
具体的な話で言うと、そういうことをしてもいいぞっていうようなことが書いてあったりとか。
半分ぐらいで。
もう半分が、ここまで僕、この本って計画と実行について論じてきたんで、
本を読むっていう継続的な行為あるじゃないですか。
習慣としての読書においてノートをどう使ったらいいのかっていう実際例を考えていく。
つまり2章から3章にかけての実行に関する理屈を、
読書っていう継続的な行為に当てはめたらどんなふうに使えますかっていう実践編をここで行っています。
難しいか、この説明を。
いわゆる読書メモという感覚では正しくないんですか。
読書メモだけじゃなくて、例えば読書計画。
こんな本を読んでいこうとかってあるじゃないですか。
この分野のものが読みたい、これが読みたい。
っていうリストを作って実際に本を買って、この本を読んでいくっていうその行為。
その一連の行為が一種のプロジェクトじゃないですか。
確かにプロジェクトか、そうですね。
GTD的に言うとプロジェクトですね。一連の中長期的な行為じゃないですか。
2分で終わらない。
ということはこれは2章と3章で書いてきた方法論が使えますよねっていうことです。
だから2章3章の実践編だという言い方もできる。
そういうことです。ここでだからもう1回話が後ろと交往するんです。
意思と決断管理を読書しながら練習してみましょうということです。
別に読書じゃなくてもいいんですけど、読書で仮に2章とか3章で書いてきた方法を実践すると、
こんなふうに実践できますよっていうのを、具体例をここで述べているというところです。
そうか、そうやって言うんだったら確かに章を1個割いた方がいいだろうし、
51:03
そのやり方として読書がとても良いものだっていうか、練習の手法としても良いっていうのはすごいわかる気がします。
この実践編なのでちょっと特徴的なんですけど、今本持ってます?
はい、あります。
特技の第5章のページめくった6章の前のところ、技法の34、5、6、7。
名前が付いてないんですよね。
他の技法38は考えを実行し中断に移すとか、39中断しても考えを再開し続けていくって書いてあるけど、
34、5、6、7は自分で名前を付けてみてくださいって書いてある。
この本どこにもないと思うんですけど、ここは呼んだ人が勝手に名前を付けるコーナーになっております。
ノートにタイトルを付けましょう、式な仕組みだって感じなんですかね。
そうです。これはその技法に自分で名前を付けてくださいということになってます。
それが練習でもあるし、実践でもあるし。
この辺からこの本の話が怪しくなってくるんですよ。
実践編参考書、テキストというよりも、自分で手を動かしてやれってことですね。
そういうこと。読んでるだけではダメですよというのを悟すんじゃなくて、課題を与える形になってますね。
こういうのをやるかどうかが本を読むときにどれだけ効果が出るかどうかの違いなんですよね。
間違いなく。
俺はちょっと前までこんなの99%やってなかったですからね、こういうふうに書いてあっても。
これ一遍やったら分かるんですけど、技法に名前を付けるというのは相当、コードじゃなくて中レベルの知的作業なんですよね。
あるプロセスに技法の名前を与えるというのは結構頭を使うんですよ。
これやってみると面白いと思います。
っていうので、あえてそこは名前が付いていないという形になってます。
読者にパスを渡す形。
この本はここら辺でちょっと転調するんですけど、結局僕が正しい技法を知っているっていう体ではないんですね。
技法って作れるんだっていう話なんですよ。
なんか独学大全とかも似ていることを言っているような印象があります。
後半は特にそうなんですけど、自分の独学大全を書きましょうみたいな話が結ばれてますけど、それに近くて。
結局その人のノートの使い方ってその人にしか適切な書いてわからないんで。
序盤あたり、1章から序盤あたりはいかにもその自己啓発性の話で進むんですけど、この辺からちょっと話が変わってくるんですよね。
あれですよね。
シュハリとかでも言われるんだけど、最初は真似してみることが良いことなんだけど、一通り踏まえたらやっぱ、
54:06
シュハリの精神ほど高尚なものじゃないんだけど、自分に向いている方法というのは人が言ったままでは無理だから、自分なりのことを見つけないといけないんですよね。
それのきっかけとして自分の技法を自分で名前をつけるっていうのは僕は一番良いと思っていて、ご存知の通りドマっていうやつがそれなんですけど、
ドマって名前をつけた瞬間にもう自分の技法になるんですよね。
その感覚の有無だけでだいぶ違うと僕は思っていて、やっぱり言われた通りにやれば上手いこといくっていう考え方からは、
やっぱりそろそろ脱却したいっていう思いがあって、ここの項目は意図的にネーミングを下げて提示しております。
ここはもしかしたら批判されるポイントになるのかもしれませんけど、僕はこれあえてかなりこだわって名前を抜いております。
名前をつけたことによって、まず名前をつけようと思うと、その行為の一番大事なことは何かということを考えないといけなくて、
さらに自分にとってしっくり言葉を選ぶという難しいことがあって、そこからさらに言うとあれなんですよね。
理解が変わると名前すら変わるんですよね。
そういうことです。そういうことです。
そう、名前って書いていいんですよね、これまた。
っていうことも含めて、さらに一度名前をつけてしまえば、人から言われたものとは、もう完全にそれは自分の方法ですからね。
うん、だからあとはどうアレンジしたって、いやこれ僕の方法なんでって言ってしまえばいいっていう、
そういうある種の独善が個人の技法の中では成立するんですよね。
これがかなり重要な話で、ノートって学校に行った時ってだいたい書き方を強要されるというか、こういうふうに書きましょうって、
多分暗黙の、
めっちゃめっちゃ言われてる。
共有があると思うんですけど、それは学校っていう特殊な空間の中だけの話で、社会に出た時のノートの取り方って本来自由であるべきなんですけど、
その学校の感覚に慣れてしまうと、その正しい書き方とかいうのを求めてしまいがちですが、
求めてもいいんですけど、多分その体に合わない書き方になりがちで、そういうのって。
だから、自分に合ったやり方でいいんだと他の人10人いて急に違う書き方をしてても、自分はこの書き方が体に合ってるからいいんだって開き直ることが、
ノウハウにおいては多分一番重要なことで、それを伝えたいがためにあなたで自分で名前をつけましょうっていうのをわざわざ設定しているというところですね。
はい、その辺がややこしい5章でございました。
あれですね、真似する段階からちょっと自分なりの方法の段階に5ぐらいから変わってくる。
だから5章は本を読むっていうことを扱ってますけど、今あなたがその読んでる本っていうことも実はアウトプットの一種だから、
自分で技法を立てましょうっていうふうに内容とあれが入り混じるんですね。
で、6章、伝えるために書くというので共有のノートなんですけど、これまでの章はどっちかっていうと完全に自分のためのノートだったんですね。
57:08
自分の知識の整理とか自分の行動の管理のためにと。
で、そこでだけがノートではないよというところが話のスタートです。
で、流れで言うと、
どこでよくわかると思うんですけど、知識を整理するために書くノートって誰かに読ませても大丈夫なように書くのが一番理解が進むんですよね。
自分の言葉じゃなくて、他の人に伝えるように書くっていうのが自分の理解を進めるために役立つと。
であればもう始めから他の人に見せるつもりでノートを書くのもいいんじゃないかっていう話ですね。
だからブログを書くときは必ずそうなりますけど、一般の人はそこまでブログは書かないと思いますが、
自分の持ってる知識っていうのを他の人に共有するためにノートを書くっていう行為も使えると。
で、それって高等の伝達の場合って1対1でしか伝わりませんけど、ノートに書いておくと不特定多数というか、
例えばそのノートを一冊を共有できる数であれば誰でもその情報が伝わると。
だからより広範囲に広げられるから、知識を広く伝える上でもノートを取るというのは役立つと。
簡単な例がいくつかあって、まあ身近な例なんですけど、大体僕のコンビニ自体の話なんですけど、
コンビニって情報共有がすごく難しいんですよ。
現場に出ないといけないことが多いから、座って何かっていうのは難しいですよね。一般多くの人が働いている。
で、あと全員が同じ時間に集まるのがほぼ不可能なんですよ。24時間365日営業なんで。
例えば全員が集まった時ってお店閉めないといけないんですよね。原理的に言うと。
だからでもお店は開いてないといけないんで、真の意味で全員が集うっていうことができないんで、いわゆる会議的なことができないんですよね。
全員が集まった会議は無理だから、何らかの方法で全員に伝わる方法を考えないといけない。
いけないと。今やったら多分LINEが使われると思うんですけど、
僕が働いてた10年とかそれ以上前って、それはさすがにスマホもまだない時代だったんで、
ノートで情報共有をしてたんですけど、それが大変便利だったよっていう話がいくつかあって。
で、情報の伝達だけじゃなくて、例えばね、お客さんからこんな要望がありましたみたいなちょっとしたネタとかもノート経由とわりかし伝えやすいんですけど、
これが形式ばったマニュアルとかの場合って、そういう雑談みたいなのが残せないんですよね。
いわゆるデータベース的なものに情報を残しましょうっていうと。
全員が広告書に書いてあげろって言われるとできないけど、ノートに書いておいてならできる。
で、案外そういう細かい情報が大切なんだよっていう話が一つと、もう一個は体験の共有というんですけどね、
何かミスしたりとか失敗してお客さんからのクレームが来た時とかもノートに書いておくだけで劇的に良くなる。
1:00:11
ミスがゼロにはなりませんけど、こういうミスがあるんだと知るだけでその予防策になりますし、
そのミスた時にどうしたらいいのかっていう対応策もそのノートを見ればわかると。
これノートに書いてないと結局個人の体験だけに留まってしまうんですよね、共有されないと。
共有されないと何が困るかっていうと同じミスが連発するんですよね。
AさんがしたミスをBさんもCさんもDさんもするわけですよ。
それぞれの人は体験が内側に閉じてるから、その他の人の失敗がわからないんです。
僕だけがそれを知ってるんですよね。
僕だけが同じミスに対応しなきゃならない。
それをひとたびノートに書くだけで劇的に変わるよと。
そういう体験の共有としてのノートの価値っていうのがあると。
だから皆さん自分で自分の知識なり職場なり同好会なり何でもいいんですけど、
その中で知識とか体験を共有するためのノートを書きましょうというのが前半部分です。
そうか言ってみればマネージャーという仕事の本質はそれですよね。
その情報の共有をいかに全員にちゃんとできるようにするか。
結局現代でも多分ナレッジマネジメントと言われてますけど、
会社員たちの知識とか知見というのをいかに活かすかっていうのは、
普通に最先端で研究されてるでしょうし重要な課題でもあると思うんで、
そこでノートを使うっていう発想。
ウィキとかでもいいんですけど、さっき言ったように雑談的なものの情報って実は案外重要で、
きちっとした知識データベースを最初に作るって大々失敗するんですよね。
だから気楽に書けるノートを使おうっていうのが一つの話。
この辺が前半の部分なんですけど、後半は結構話が飛ぶんですけど、
飛ばないか。本を書こうっていう。本を書きましょうっていう話で。
ブログじゃなくてSNSじゃなくて本を書こう。
何かを勉強するために一番いい方法は本を書くことなんだと。
これは僕は実感を持って言えることなんですけど、
これはほとんど間違いない話で。
人に分かるように書くとか、知識を体系だって説明できるようにまとめるとかっていうのも、
全て自分の理解に跳ね返ってくるんですよね。
人のために書いてる本でもあるんですけど、
自分のためにも確実になっているっていう、それを象徴するのが本っていう行為なんで、
皆さんどんどん本を書きましょうというのが、
伝えるために書くという録書で扱っている内容でございます。
確かに言われてみると、書くことで自分の思考がまとまるというのを一番実感したのは本を書いた時だった気がします。
ブログとは桁が違う、自分が分かっていないことがよく分かる。
やっぱり距離感とかの問題もあって、
ブログってだいたいそのなじみの人が読んでるっていうのが想定なんですけど、
本の場合って全く見知らぬ人が手に取る場合も相当可能性があって、
1:03:05
当然全然知らない人にちゃんと説明しなきゃんから、
詳しく細かく論理立てて並べていかなければならないと。
それができるようになるということは、自分がそれを理解しているということなので、
知らない人に伝えるほど自分の理解は深まっていきますし、
逆に身近な人、家族とかに何か言う場合って、かなりナーナーで済むんですよね、説明って。
あれやっといたからって言っておけばいいですよね。
だから説明しやすい分、自分の理解は深まらないんで、
自分がある段階で慣れたら、少し遠いところ、少し距離のあるところに伝えるようにすると、
自分の理解の度合いも深まっていきますよという話です。
そうか、そこでしかし本を書くといういきなり巨大なプロジェクトが。
でもまあ確かに逆に言うと、書こうと思って苦労するということが一番身になることでもあるのは本当にそうですからね。
だから僕の中で自分のためにノートをパパワッと書くっていう話と、
こうやって本をまとめるっていうのは実は数直線でつながってるんですよね。
程度の違いがあるだけであって、本質的に同じ行為だと思ってるんで、
だから本を書くってこともノートの書くっていうことの一部に収めています。
それは確かに実際そう思います。
一番多分自分の役に立つようになる手法というのが、その人にわかるように書くですよね。
間違いない。これはだから重要なことで。
でもあんまり日本人の文化ではあんまり共有されてないというか言われてないので、
ノート本ってだいたい自分のためのノートの話しかしないんですよね。
あの手のノート術っていうのは別にそれはそれでいいんですけど、
ノートを書くってことはやっぱりその知識を外に広げるという意味もあるんで、
僕はそこも混ぜて話してほしかったなというのをいつも思ってたんで、この本ではがっちり入れ込んでます。
村というものがやっぱ全部風習とか伝統とか言いながら、
全部過去の習わしに従っているだけで、習わしは文書化されていなくて、
多分人類がその文字を手に入れた歴史がまだ浅すぎるから、
文化として文字を書くというか、書いたものを他者と共有するというのが、
ビジネスレベルまで洗練されないと共有されてないんだろうなって感じはしますね。
日本の場合は特にさっきも言ったように村文化が多くて、
村文化ってほとんど空気で会話するんで、空気でコミュニケートするんで、
文章ってほぼないし、文章ってあったら多分困るんですよね。
空気で処理できなくなるから。
でも逆に言うと村を越えたい文化交流って記録を持ちないと一貫しないんで、
だから外部コミュニケーションの手法として、
人がわかるために書くっていう練習をしていくのは、
今後のこの社会においては、
というか普通にSNSを使うとこでも、
人にわかるように書くってめっちゃ重要なことなので、
慣れておいたほうがいいかなと思いますけども。
1:06:00
そうですね。そういえばちょっと前にツイッターで、
祇園祭りが京都の2年連続で中止になってしまうと、
文化が失われてしまうからやべえって言われていたらしいんですよね。
で、なんでなんて言うと、それも文書が残ってなくて、
持ち回りだからなんですよ。
その2年か3年、任期があって、
前任の人が次の人に引き継ぐんだけど、
2年なくなってしまうと、もう引き継げなくなってしまう。
そうか。
もちろんそうやって逆転されるから、
そういうものに価値が生まれるってことはあるんですよけど、
途切れてしまうリスクも当然あるんで。
そうですね。でも身近な、例えば企業にしろ何にしろ、
継続的な活動をしていく上で、
情報を記録として残していくっていうのは大切なことで、
それは結局、人の寿命を超えるってことですかね。
情報がそれを持っている人の寿命を超えて残るようになるということなので、
非常に大切なことだなと個人的には思う次第です。
文字の発明が人類を大きく変えているというのは間違いないでしょうからね。
はい、そうです。この本はだから、
人類を人類たらしめているのは何かという、
一番最初の大小の話なんですけど、
やっぱりそれが記録を使うようになったことだと論じてて、
いろいろもちろんホモホニャララっていうのはよくいろいろあるわけですよね。
遊ぶ人間とか賢い人間とか聖なる人間とかいろいろ言い方はあるんですけど、
サピエンス全史という本では、
人間は虚構を信じて単一の思考性の下で労働することができた。
だからピラミッドを作ることができた。
そういう虚構を信じる力っていうのが人類を栄えさせてきたんだっていう話があって、
もう一個、知ってるつもりっていう本があって、
これめっちゃ面白いんですけど、
その本では他人の知識をあたかも自分の知識であるかのように利用できる力っていうのを、
人類の特徴として見てるんですけど、
だから知ったかぶりができるのって人間だけなんですよね。
他の動物ってそんなことはできないよね。
できることはできる、知らないことは知らないっていう明確な線切りがあるけど、
人間ってインデックスだけ知ってることを知ってるかのように扱えてしまうっていう不思議な能力があって、
それは結局情報っていうものの性質なんですけど、
そういう他の人の人間性とは別に僕は記録っていうものを使えるようになったから、
人類はここまで繁栄したんではないかって話をしてて、
やっぱり文字と情報と記録っていうのは全部密接につながってるんですけど、
記録の力ってめちゃくちゃでかいんですよね。
まだまだ人類が記録をできるようになったのなんて100年ですからね、
1個人のレベルで、再現なく。
1:09:00
式辞率っていうものが明確に関係してくる話で、
近代化して今100年とか200年の間で、
個人がようやく自分の言葉で文章として残せるようになってきた段階なんで、
実はだからインターネットもかなり最近ですけど、文字の扱いも結構長い歴史から見たら浅いんですよね。
それは思いますね、本当。
所詮まだ明治からの教育から変わっていなくて、
明治の頃はみんなが読み書きできない前提の頃の教育ですからね。
今はだから式辞率も高く記録するためのツールも格安で買えるじゃないですか。
昔は紙っていうのがものすごい高級やったわけですけど、
もう実質無料って言っていいと思う値段ですね。
デジタル端末ですら昔はマック50万円とかでしたけど、
もう2、3万でChromebook買えるじゃないですか。
電子端末ですらもうほとんど身近なものになっているというところで、
だから現代はより記録の力を使えるようになっているにもかかわらず、
むしろ記録に使われてしまっている僕たちっていうのも半分いて、
その辺も僕はだから自分でノートを書くことがそれの解決であると。
情報に使われるんじゃなくて、情報を使うようになるためにはやっぱり自分でノートを取ることが大切だというのが、
ちょこっと出てきます。
という感じのことが7章のビジョンのノート?
そういうことが関連しています。
この7章のビジョンのノートが一番厄介なところで、
自己啓発的な内容からもうはみ出てる話なんですけど、
未来ですよね。未来をどうするか。
本書の副題のこのあなたの人生を開く記録術っていうサイトにも関わってるんですけど、
人生を開くっていうことは未来を作るっていうことと言い換えてもいいんですけど、
ここの7章の一番重要なキーワードは何かというと、
語配なんですよね。語配。
毎回出てくる重要な哲学語。
そうですね。だから、自己啓発的なものっていうのって、
自己管理するってことなんですけど、結局未来も自己管理の内側に入れるんですね。
こういう未来を捕まえたいからこういうふうに行動しましょうと、
こういうふうに計算していきましょうっていう話なんですけど、
それだけではつまらないよなっていう話があって、
何が起こるかわからないから人生ってのは面白いというのが話の半分の軸なんですけど、
もう半分の軸が記録っていうものの価値のわからなさ、見えなさっていうことなんですけど、
たぶんころこさんでもブログの記事いくつかどころかたくさん書かれてるんですけど、
そんな風になると思ってなかったってことたぶんたくさんあったと思うんですよ、ブログ書いてて。
たぶんもうそれしかないぐらいだと思います、10年以上経ってみると。
こういうことが起こると思って書いたもんじゃないことが起こってしまうっていうのは、
言ったら当初の自分からした誤拝が起きてるわけですよね。
1:12:01
そういう意味で誤拝なんか。
ということは、だから記録っていうものは自分の情報を自分の外に出す行為ですよね。
だから外に出すとこれは誤拝されるんですよ、誤拝のもとになるんです。
そうすると自分が思いも知らなかった未来を連れてくるっていう。
だから自分のビジョンを達成するというよりも、自分が描いたことのないような未来を連れてくるために、
実は記録を残すことって役立つっていうのが第7章の大きな話です。
だいぶでかい話ですね。
それ一番気になる、何が書いてあるんだろうっていう。
そんなでかい話がまとまるのかっていう。
だからこの章は読んでもらうしかないと思うんですけど、
1章か2章か3章4章でいわゆる自己啓発とか仕事的なところを扱いつつ、
最後の章ではそれをちょっと逸脱した話。
自分の正義を超えたところにアクセスするために記録っていうのが実は役立つのではないかっていうところが展開されてて、
これは思想書と言われてもそうですよねっていう納得するしかないような話ですね。
ここが一番大きい話です。
6章ぐらいまではある程度イメージはできるんだけど、7章はそんな話なんかっていう感じですね。
これは僕が自分でブログでも経験してきたことをある種ノートに引き付けて表現してたことなんで、
やっぱりその自己啓発的なものとか目標から逆算して方式ってやっぱり僕は窮屈に感じるんで、
振り返ってみたときにやっぱり自分の人生にとって一番大きなことの大半は予定してなかったことの方が多い気がするんですよね。
振り返ったらもう40年生きてくればやっぱそうだって多分間違いないんじゃないかと思います。
だからやっぱり全部を自分の計画っていうものの中の檻に入れてしまってきちっと制御していくよりも、
その檻から半分ぐらいはみ出すようなことをしておく方が広がりというか可能性は広まっていくでしょうし、
面白い人生がやってくるんではないかと思うんで。
そのためにやっぱり情報っていうものを自分の管理下に置いておくだけじゃなくて外に出すっていう、
それ別にツイッターでもブログでも本でもいいんですけど、
自分のためのノートだけじゃなくて自分のためでもあるけども、
他の人のためにもなるノートを書くっていうことをしようという話で7章はだいたい締めくられております。
これはあれですね。やっぱり一番暮らした思いがこもっているというのは特にこの7章でそうなんだろうなっていう感じがしますね。
そうですね。一番最後にノートを不真面目に書くっていうことと、
セルフヘルプからセルフスタディーズっていう話が出てきて、
これはごましく読んでもらったらいいんですけど、
さっき言ったように結局その自分について理解しないで、
自分が使いやすいノート術なんて分かりようがないと。
それが自分についてどうやって分かるのかっていうと、
1:15:01
自分が書いたノートを振り返るしかないんですよね。
頭の中で考えていても分かんないから書いてみるしかないんですよね。また書いてくるけど。
自分のイメージっていうのも、結局自分が自分についてどう考えてるかっていう思いでしかないんですよね、実際は。
だから自画像ってかなり偏ってるんですよ、そういうイメージって。
ノートを振り返るとか、ブログを読み返すとかなんでもいいんですけど、記録を振り返ると、
自分ってこういうやつやったんだって分かるんですよね。
そういう発見って自分がこういうやつだと思い描いてたのとはちょっと違うんですよね。
完全に違うわけじゃないですけど、ちょっと違う自分っていうのがそこで見えてくるんで。
だから日々の記録を残さんことには自分自身っていうのも分からないだろうというので、話は終わります。
いいですね。途中までは予想していたけど途中からは予想していない展開になった。
それは当然で、僕もそんなことを予想して書いたのではないからなんですけど。
書いてみるまで分からなかったんですよね。
書いてみて、やっと自分が言いたいことが書き終えて、こんなことが言いたかったんだっていうのが逆説的に出てきた。
だから流れに身を任せているんですよね。4章から5章にかけてちょっとずつ話のトーンが変わっていったんですけど、
トーンを変えていこうとしたわけじゃなくて、そうなったんですよね。書いてたら。
最初の衝立案はだいたいこんな感じだったんですか?
タイトルはこの通り。表題のタイトルはもう8章あったんですけど、8章はなくなったんですけど、タイトルはこの通りだったんですけど、こんな話の進め方になるとは一切考えなかったです。
それはやっぱ面白いですね。それこそまさにだから本を書けなんですよね。
そうそう。書いてみないと分からないし、だからここはある程度自分に自由に書くことを許したからこそこういう本の形になったと思うんで。
だから例えば最初によくテーマ出しで言うと、50個技法を集めた方法にしますんで、50個技法を考えましょうみたいな衝立の仕方があるらしいんですけど、仮にそのやり方で進めていくと、名前のない技法っていうのは多分絶対生まれなかったと思いますよ。
先に名前が出てきちゃいますからね。要するに後付けで、これとこれは技法にできるから技法にしようってなったってことですよね。
そういうことです。そういうことでございます。だから最初に計画を立てることももちろん大切だけど、そうじゃないその場任せにしていくことも、これは結局は僕の中での誤配ですよね。この交渉だてもだから。こんな風になると本当に思ってなかったんで、そういうことがあるよという話です。
なんて言うんだろう。倉下さんが自分の本を上手に紹介できるんだろうかってめっちゃ言ってたけど、聞いてみてめっちゃ上手にできたんじゃないかって思うんですけど。
いや、分からない。説明はできるけど、あんまり紹介すると買う人が面白みがなくなっては困る問題っていうのを感じてたんですけど、でもよくよく考えたら今まで僕語りそうで。
1:18:03
全部そうですからね。
要するに自分の本だけ紹介するのは間違ってるなと思ったのに、途中からちょっと振り切りました。
前回の時も言ってたんですけど、やっぱり聞いて読んで聞くと一番いいと思います。
多分そうなんでしょうね。きっと。
極論を言ってしまえば確かに全体のどんな感じのことが書いてあるかっていうのはつかめるので、考えようによっては読まなくてもいいという考えは確かにあるんだけど、別にそう思う人はそれでいいんじゃないかと思うんですよね。
そうですね。それはそうです。
とりあえず、僕からは以上です。
いい感じで特別回でありつつも、いい意味でいつもと同じ感じにできたんじゃないのかなと思います。
ということで、Book Catalyst第17回の本日は、全てはノートから始まるあなたの人生を開く記録術について語りました。
今回もお聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございます。
01:19:07

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