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2024-07-02 1:12:51

BC093「自分の問い」の見つけ方

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今回は、以下の二冊を取り上げながら「自分」を知るための方法について考えていきます。

* 『リサーチのはじめかた ――「きみの問い」を見つけ、育て、伝える方法 (単行本)』

* 『人生のレールを外れる衝動のみつけかた (ちくまプリマー新書 453)』

書誌情報

『リサーチのはじめかた』

* 著者

* トーマス・S・マラニー

* スタンフォード大学歴史学科教授。コロンビア大学で博士号を取得。専門は中国史。邦訳書に『チャイニーズ・タイプライター』(2021年、中央公論新社)がある。BBCやLA Timesなどで研究が取り上げられるほか、Google、Microsoft、Adobeなど企業での招待講演も多数。

* クリストファー・レア

* ブリティッシュ・コロンビア大学アジア研究学科教授。コロンビア大学で博士号を取得。専門は近代中国文学。著書にChinese Film Classics, 1922-1949などがある。

* 翻訳:安原和見

* 出版社 筑摩書房

* 出版日:2023/9/1

* 目次

* 第 1 部 自 分 中 心 の 研 究 者 に な る

* 第1章 問いとは?

* 第2章 きみの問題は?

* 第3章 成功するプロジェクトを設計する

* 第 2 部 自 分 の 枠 を 超 え る

* 第4章 きみの〈問題集団〉の見つけかた

* 第5章 〈分野〉の歩きかた

* 第6章 はじめかた

『人生のレールを外れる衝動のみつけかた (ちくまプリマー新書 453)』

* 著者:谷川嘉浩

* 1990年生まれ。京都市在住の哲学者。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。現在、京都市立芸術大学美術学部デザイン科講師。哲学者ではあるが、活動は哲学に限らない。個人的な資質や哲学的なスキルを横展開し、新たな知識や技能を身につけることで、メディア論や社会学といった他分野の研究やデザインの実技教育に携わるだけでなく、ビジネスとの協働も度々行ってきた。著書に『スマホ時代の哲学――失われた孤独をめぐる冒険』(ディスカバートゥエンティワン)『鶴見俊輔の言葉と倫理――想像力、大衆文化、プラグマティズム』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学――ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』(勁草書房)。

* 出版社:筑摩書房

* 2024/4/10

* 目次

* 序 章 なぜ衝動は幽霊に似ているのか

* 第一章 衝動は何ではないか

* コラム 否定神学、他人指向型、『葬送のフリーレン』

* 第二章 衝動とは結局何ものなのか 

* コラム 言語化のサンクコスト

* 第三章 どうすれば衝動が見つかるのか

* コラム 「それっぽい説明」から逃れるには

* 第四章 どのようにして衝動を生活に実装するのか 

* コラム 観察力の重要性 ― 絵画観察のワークショップからOODAループまで

* 第五章 衝動にとって計画性とは何か 

* コラム 社会的成功と結びつけない

* 第六章 どうすれば衝動が自己に取り憑くのか 

* コラム 衝動の善悪を線引きすることはできるか

* 終 章 衝動のプラグマティズム、あるいは実験の楽しみ

本編ではそれぞれの本の序盤部分を取り上げ、自分が持つ問題意識や衝動にせまる必要や、その方法について紹介しました。

実際の本はさらに多くの内容が展開されているので、ご興味を持たれたら実際にお読みになることをお勧めします。

本編のときに使ったメモは以下からご覧いただけます。

◇ブックカタリストBC093用メモ - 倉下忠憲の発想工房

「自分」の研究

私は「ノウハウ」に興味があります。知識の具体的運用。その際に問題になるのは、「自分は何がしたいのか」「自分は何が好きなのか」という要件です。この情報がまるっと抜け落ちていたら、どのようなノウハウも効果を発揮しないでしょう。

逆にその点を理解していれば、あまたのノウハウを自分に合わせて使っていくことができますし、場合によっては新しく創造することも可能でしょう。

つまり、「ノウハウ」という情報資産を活用する上で、「自分のこと」を知っておくのは大切なわけです。そこで、そうした営みを「セルフスタディーズ」と呼び、これまでずっと考え続けてきました。そこで出会ったのが本書らです。

ポイントは、「自分」というものを既知で十全に把握している対象ではなく、むしろ流動的でつかみ所がなく、そのすべてを把握することは不可能な対象とすることです。そうした対象であるからこそ、「研究」してみようと思えるわけですから、この視点の切り替えはきわめて大切です。

どちらの本でも、ただ思弁的に「考える」のではなく、さまざまに「実験」してみること推奨しています。むしろ、私の考えでは思弁的に考えれば考えるほどわからなくなるのが「自分」という対象なのでしょう(むしろそれは現象と呼ぶべきかもしれません)。

デジタルツールにおいても、このツールで自分が何をしたいのかと考えてみても即座に答えが出るものではありません。実際にいろいろやってみることが必要です。一方で、「ただやればいい」というものでもない。いろいろやりながら、それと並行して「自分は何をしたいのか」と考えること。その中で、「うん、これはいい感じがする」「これはちょっと違うな」と自分の反応を観察していく。そういう道行きが大切なのでしょう。

でもって同じことが、生きること全般に言えると思います。

「生きることで、自分を知る」

まとめるとそんな感じになるでしょうか。



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サマリー

彼/彼女は、リサーチの始め方という本と人生のレールを外れる衝動の見つけ方という本について話し、自分の問いの見つけ方について考えています。自分中心的アプローチとは、自分の興味や直感から始めて自分の限界を見極めながら進んでいく方法であり、問いとはテーマよりも具体的で重なる部分もあるが、領域を超えていくものだということを説明しています。このエピソードでは、「自分の問い」を見つける方法について解説されています。具体的な問いは研究をドライブさせる重要なポイントであり、問題意識と問いは関係し合っています。本書では、自分の問いを見つける方法や衝動について考察し、日常の決断や自己発見において重要な要素であることを示唆しています。衝動と偏愛に関する考察を通じて、自分自身の問いを見つける方法について考えています。自己観察と他人の対話の重要性について語られ、夢ややりたいことに惑わされずに自分を知る手引きとして役立つ本も紹介されました。

研究の始め方
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第93回の本日は、「自分の問いの見つけ方」について語ります。
はい、よろしくお願いします。
はい、お願いします。
今回、倉下のターンということで、2冊の本の軽めの紹介をしながら、さっき読んでいただいたテーマについて、一緒に考えていけたらなと思います。
自分の問いの見つけ方。
はい。2冊あげる本、最初に紹介しておくと、1冊目がリサーチの始め方、君の問いを見つけ育って伝える方法ということで、
ちくま書房から出ている単行本でして、研究を開始するための方法を語っているということで、結構珍しいタイプの本でして、
たぶん僕が2024年で地域生産の技術書なら、これを読めに入る優れた本だと思います。
一般的には、研究者の研究テーマを見つけるタイトルみたいなイメージなんですね。
まさにその通りですね。基本的には研究者向け、これから学者さんになるとか、大学卒業するときに研究論文を書かなきゃ、みたいな人向けではありますが、
そこで説明される話というのが結構広く、人生全般に使えるんじゃないかなと思って、今回紹介するのが1冊目。
2冊目が、今気づいたんですけど、これもちくまやな。
ちくまポリマー新書の人生のレールを外れる衝動の見つけ方ということで、谷川よしひろさんが書かれた新書で、
ポリマー新書は中高生向けなんですけども、なんかタイトルは若干不穏なタイトルなんですけども、
その人が、よく言われる自分らしく生きるみたいなことが中高生向けに語られてたりとか、
あとは夢を持てみたいな言説があるわけですけど、それはそのまま受け取られてはまずいよなと。
それはじゃあどんなふうに考えたらいいのか。
中高生向けに生き方のコアになるものを探すための考え方とかを紹介した本。
この2冊、僕は結構通じるところがあるなと思ったので、今回合わせて紹介させていただければなと思います。
これはもうタイトルで勝ちっていうか、これは読みたくなるタイトルだなって思いますね。
やっぱこういう、レールを外れることを良しとしているタイトルですよね、当然。
もちろんそうですね。だから、いわゆる昔からレールにはまった人生は嫌だみたいなことが、
多分尾崎豊くらいの時代から言われてると思いますが、
言われてるとして、じゃあどうしたらいいのかっていう方法論があんまり語られてこないわけですけども、
実際、現在2024年でインターネットが使えてっていう状況において、
具体的なノウハウって調べればいくらでも見つけられますし、
それぞれチャット、GPTとかに聞けば、何かを成し出す方法っていうものは情報として得られるわけですけど、
そもそも自分が何をしたいのかっていうのは、外部リソースには存在しないわけですね、その答えは。
で、じゃあその方法だけあるけど、やりたいことを見つける方法はないということで、
空回りしやすいのが現代じゃないかなと思うんですよ。
レールから一歩踏み出しなさいとか言われたとしても。
じゃあどっち向いていったらいいのかっていうのがわからないし、それをどう見つけたらいいのかもわからない。
この本社の2冊はそれを紹介してるんですけど、
例えば、かつて2010年ぐらいだったらブログをやりましょうって言って、
じゃあブログの始め方とかワードプロセスの設定の仕方はいくらでも説明できますけど、
どんなテーマでブログを書いたらいいのですかっていうのは、
指揮者から答えが得られるわけではないですよね。
まああのね、儲かりそうな話題は今はこれだっていう答えを出してる人はいるけど。
ビジネスとしてやるんであって、その人の個人的な活動としてはテーマを見つけられるわけではない。
同じようにオブシリアンとか広く情報整理ツールでも、
これ使ったらこれができるようになりますっていうことが伝えられても、
そのツールを通してあなたは何をしたいんですかっていう問いをやっぱり外部社が与えることってできないわけですよね。
だから何かしら自分の中にあるものを見つけない限り、どれだけノウハウがあってもうまく使えないし、
逆にノウハウをうまく使うためには自分の中にある何かを見つける必要があるということで、
情報化社会においては外側の情報をうまく見つける方法とともに、
やっぱりその自分の内側を見つめる方法も必要じゃないかなというのが、
今回この2冊を取り上げた動機という感じですね。
じゃあいきなり1冊目からいきますけど、
リサーチの始め方という本で、2人の学術系的な研究者の方が著者なんですけど、
片方がスタンフォードで、片方がコロンビア大学で、
しかも専門が片方の方が中国史で、もう片方の方が中国文学で、その分野が全然違う。
ただ博士号を取ったのが、ともにコロンビア大学なんですね。
博士号を取る大学院にいる時って、ただ授業を受けてるだけじゃなくて、講義を担当することもあると。
この2人が、新しい大学院に入ってきた人に向けて、研究のやり方を教えるという講義を担当していたと。
主要な目的としては、新人学徒たちに研究を進める基礎的なやり方を解説しましょうと。
2人は自分らの経験を踏まえて、こういうステップを踏めば研究って進んでいきますよというシナリオを立てたんですけど、
一番最初は全然うまくいかなかったと。指導計画のロードマップっていうこと自体は綺麗に言ってたけど、
実際にやってみたら、実践できない学生、学徒たちがいっぱいいたと。
なぜかというと、何を研究したいのかがまず見つからないと。
問いを見つけるプロセス
まあ、普通に考えたらそうだ気もするんだけどね。大学院に入ったいきなりで。
でも、著者ら2人は、自分が研究してるものはこういうものがあるって書くものがあるから、そんなものは持ってて当然やと。
だから、あとは一時披露の見つけ方とか、メモの取り方とか、注釈の書き方とかを教えたら、あとはもういけるはずだと思ったけど、
そもそも一番のスタート地点でつまづいてしまったと。
その経験があってから、どうしたらそれを見つけられるようになるのかっていうことを、
著者ら2人に研究した結果としてまとめられているのが、この本だということです。
だから非常に面白いですし、よくわかる話で、まあそうだろうなと。
そこで多分多くの人はつまづくんだろうなというとこから始まっているのが面白いですね。
大学院でよく言われているのが、大学院というのは学ぶところだと勘違いして入ってくるやつが多くて、
でもそれは大学院生になってやることではないみたいな、
そういうやっぱり大いなる勘違いというか、そんなことを教えられていないというのがあると思います。
特に日本の場合は、高校までは自分の問題を解決するというよりは、
与えられた問題に対していかに正解と呼べる方法で解いていくかというのが、
史上主義的に求められていて。
急に自分の問題を見つけなさいと言われても戸惑うとは当然の話であって。
この場合はアメリカの大学で、つまり日本より個人主義が遥かに進んでいる場合でも、
やっぱり同じようなことが起こるというのが面白いんですけど。
つまり、とりあえず一番最初の進め方がわからない人たちがいたと。
一般的に研究の問い、研究というのは何かの疑問に答える形で進んでいくんですけど、
研究って行為そのものは、「よし、問いがある。じゃあ研究を始めよう。」ということじゃなくて、
そもそも自分の問いって何だろうって考え始めることが、研究のスタートラインであると。
つまり、頭の中に描いているイメージが、研究のスタートラインというのは、問いがあって研究が始まるという感じですけど、
むしろ著者らは、研究ってそのもやもやした問いのところから始まるんだよというスタートラインを、
もっと手前に引き直して、この本が書き始められているというところですね。
自分の研究したいこと、やりたいこと、抱えている疑問というのは、自分のことだから分かるはずだという思い込みというか前提みたいなのがあって、
でもそれは違うよねと。感覚はあるけど、それをまだうまく言語化できない状況もありますし、
そもそも自分に興味関心がないから、自分がどんな思いを抱いているのかも分からない。
あるいは、自分はこれは好きだと思っているけども、こんなことは研究テーマには値しないよなということで、そもそも選択肢に上っていないとか。
あるいは、これは自分の問いだと思っていても、実は違う、勘違いしているみたいな可能性もあると。
だから自分が言われたいことを知っていて、じゃあそれに進みましょうという真っ直ぐなアプローチではだいたいうまくいかない。
だからそもそも自分がやりたいことは何だろう、問いは何だろうということを考えるプロセスを入れていかなければならないと。
著者が言っているのは、僕たちは基本的に一人で生活しているわけじゃなくて、周りの人たちに囲まれて生活していて、
おそらくはこう会ってほしい、こう会ってくれると嬉しいなという外的な期待に囲まれていると。
多くの人はそれを無自覚に自分のやりたいことだとすり替えてしまう。
で、いざ自分のやりたいことは何ですかっていうと、借りてきたことを言ってしまうか、あるいはそうじゃないなと思って戸惑ってしまうみたいなことがあると。
この部分に関して言えば、研究に限らないと思うんですよ、おそらくは。
多分、平均的に人間で生きているうちっていうのは、こういうことが起こりがち。
日本社会の特にそうかなという気はするんですけど、要するに輪を持って唐突となしというのは、周りの期待に応えましょうということなので。
周りの期待から外れないようにしましょうということなので、あんまり自分がどうしたいかっていうことを日常的に気にかけてないことが多い。
そうすると当然、いざそれが必要となった時に答えられなくて困ってしまう。
だから本書が研究ということを主題に見つけ方を語ってるんですけど、これは僕は生活全般、人が生きているということの全般に通じる話ではないかなと考えますね。
何が好きとかどういうことをしたいかみたいなものも基本的に同じ誤解というか思い込みがあるってやつですよね。
そうですね。だからそれを探求するプロセスと多分一緒。研究者が自分の研究について考えていくことっていうのは、自分の研究でもあるわけですね。
自分ってどんなやつなんだろうかということ。つまり、あるオブジェクトに対しての研究であるとともに、事故に対する研究でもある。
この事故に対する研究であるという部分は一般的な生活者でもおそらくは使えるだろう。
だから基本的にこういう知的な分野にまるっきり興味がなかったら流石にあれですけど、多少なりともこういう活動に興味がある人は、研究者でなくてもこの本は多分役立つことがたくさん書かれてると思います。
本社の中心的な命題なんですけど、自分中心的研究というのをやろうと。
逆に言うと自分中心的研究ではない研究が多いということですね、おそらくは。
これは結局言ったとおり、現在流行っている人気であるとか、この辺の分野でやったらこうすることが期待されているであろうというのが、非自分中心的アプローチということで、それはあんまりよろしくないだろうと。
その理由としてはいろいろあるんですけど、結局真剣にならないわけですね、自分の興味がそこにないから。
飽きやすかったりとか、それほど掘り下げなかったりとかしてしまう。つまり、どう気づけとしても良くないし、研究結果の成果としても質が多分あんまり良いものにはならないであろうと。
自分中心的アプローチと問いの見つけ方
なので著者らはまず自分の中心としたアプローチにすべしと。自分中心的アプローチというのは複数の方面から定義してるんですけど、まず自分自身の興味から、あるいは興味というよりもっと手前の直感みたいなもの。
こうしたいとかこう欲するみたいなところをまずスタートラインして、そこから離れすぎないこと。ある程度距離はあってもいいけど、その自分の興味という研究対象の繋がりは維持しておこうという話。
自分中心的って言うと、日本語で言うと自己中心的という感じがするんですけども、そうではなくて、むしろ自分にできることは何だろうかということをちゃんと見極めろと。その上で自分がこれだけのことをやって、これだけのことはできてないということをきちんと見極めようと。
そういう意味での事故っていう、つまり何でもできる無限の事故というようなものじゃなくて、そこにいる自分自身をちゃんと主軸に考えなさいと。1個目に重ねるんですけど、研究することはあくまで自分にとって重要であることをベースにすると。
最終的に研究っていうのは論文で発表して世界パブリックに置くわけですけど、つまり他人にとって重要なことっていうのを研究すべきなんですけど、でもその前にまず自分にとって重要であるべきと。だから自分にとって重要かつそれが他人にとっても重要になるのが多分ハッピーな研究であって、どっちかを選ぶんじゃなくて両方を選ぶ。しかも主軸は自分の満足の方に置くっていう。
このタイプ、つまり自分の関心事とか能力から始めて自分の限界を見極めた上で常に自分の直感つまりアイディアと共に進んでいくのが自分中心的アプローチということの大まかな定義ですね。
さっきも言ったように、これはエゴを外して暴発せいということではなくて、あくまで自分っていうものをその研究の中心に置けということですね。研究っていう領域があったときに真ん中に自分があればいい。
その言葉が一番伝わる感じがする。 日本の自己中心的って言うと自分以外のことを考えないということに思われていますけど、この本職定義は広い領域の中に自分っていうのがあって、それがアンテナとなって出社選択とか方向性を決めるっていう軸になればいいというやり方をしましょう。
こういうのって、プログラミングって言うとドックフーティングっていう言い方があって、要するに自社で開発しているプログラムを自分で使うという、スクラップボックス加工、コセンスはかなりそうなってるわけですけど、やっぱり自分らで使うから良い機能を実装する意欲も湧きますし、無駄な機能をつけようとは思わない。
外的な評価によって実装が進むんじゃなくて、まず自分にとって便利だようにしようというやり方でプログラムが進んでいくっていうのと、多分同じ感じでやっていこうということだと思うんですけど。こういう軸を持っていることのメリットって、研究においては特にそうなんですけど、学術的な研究が一番顕著ですけど、何を研究してもいいんですよね。
何をどう研究しても基本的に課せられたものはないと。つまり無限の選択肢があると。そうすると人は選べないと。選べないときによくある流行りとかって頼ってしまうわけですけど、そうじゃなくて自分が立っている場所から始めましょうと言ってくれるのがポイントで。これは多分そのウェブにおける情報発信活動でも多分同じことが言えると思いますね。
今これを書いておいたら流行るかもしれないから、書いておこうっていう人たちは10年続けられないですよね。
そうだね。やっぱりある程度長いこと続いてる人って、一つのトピックに固執するわけじゃなくて、その時々に関心を変えながら、広く見ると同じ問題意識に沿って発信してる人が多分多いと思うんだけど。
そういうのを見つけた方が長い人生において多分大きなスパンでインパクトがあるものになるというのは、研究においても表現活動、発信活動においても多分言えるでしょうし。
やっぱり例えば、ここまで歴史的なブロガー本を見ても、あなたのテーマの見つけ方を教えてくれた本は多分ないんですよね。そうするとやっぱり流行ってるiPhoneの開発ブログが乱立してしまうという状況。
ここはやっぱりその方法の不足が僕らの中にはあったんではないかなというのはちょっと思いますね。
やっぱり思うのが、例えばウェブで何かを書きたい場合でも、多くの人は、みんながやってるから俺もやりたいの、欲望の見つけ方の話と繋がってくるような気がするんですけど。
確かにそうですね。
自分が欲しいというよりも、人がやっていることを自分もやりたいの概念で始める?
うん、感じがあって。
場合が多い気がする。
当然それは続かないし、続けたとしてもビビッドなコンテンツが出てくる可能性は低いので、ある一時期の小遣い稼ぎにあってもやっぱり人生をとす活動には多分ならないでしょうから。
そういう意味で小遣い稼ぎにやるのはいいですけど、もし自分の人生にクリティカルな変化を与えたい場合は、今の時点でこれが自分のテーマだとわからないかもしれないけど、むしろそのテーマを探すためにそういうのをやってみるというのが多分一つ大きな意味での方法として言えるんじゃないかなと。
そうですね、重要なのが誰しもいきなりそんな分かっているわけではない。この本でもさて書いてあるのかっていう前提で、でも自分を真ん中に置きながらやってみないといけないという。
そう、難しさが当然あるんですね。最終的に外的なオブザーバーがあなたがしたいことはこれですよとは言ってくれない。最終的には自分でその答えを見つける。著者の言い方をすると鏡を見るしかないと述べてますけども。
なので、この本って何をする本なのかというと、見つけるために必要な問いとの付き合い方とか、問いの扱い方。こういう問いと向き合うとあなたが持っているものを見つけやすいですよというような考え方とかあるいはプラクティスとかが詰め込まれています。
それ自身が非常に有用ですし、ちょっと脇道に揃えるんですけど、細かいプラクティスはすべて書いて実践できるようになってるんですね。で、著者らは全部メモしておけと、その結果を途中経過を含めて書いておけと。全部が終わった後に自分が書いてきたものを見返すと、もうすでに研究の初っ端の材料は揃ってるよと。
ああ、わかる気がする。
これ、ロギングだと読みながら思ったんですけど、やっぱり途中経過のやつ、頭の中で考えて終わらせるよりは、やりながら考えたこととか、その結果とか自分が感じたことを残しておくことは、もうそれ自身が研究の一部だというのは面白い話だと思います。
うーん、そうですよね。というか、それが意外とできない。
できないですね。
それができないから、全部が終わった後、慌ててまたゼロから始めなあかんということになってしまうわけですけど、道中道中を残しておくことの意義は、やっぱり自分のスタートラインを少し前の方に押し出せるという効果があるんで、これは本の内容というよりはある読書法の一環として役立つ話だとは思います。
うーん、そうですね。これをそういうやっぱ、書く欄があるんだったら最高ですよね。読書メモ練習の本として。
書く欄はさすがにない。
書くべきことっていうのが書いてある。
他者の意見と外的評価
ちゃんとプラクティスがあって、これをやりましょうっていうのが細かい説の後ことにあるんで、それを実践していけばだいぶ進むと思います。
こういう話、今は初めの部分の紹介で、初めには本文全体を紹介してるんで、今ここは半分くらい。後半部分が反響版というのが出てきて、要するに相談に乗ってくれる他者ということですね。
やっぱり自分について見つける。最終的に訓練したら自分一人でも見つけられるようになるけども、初期の段階では他人の意見を聞くことが有用。
だけども、一番最初のふわふわした段階で、例えばその分野の先輩とか有力者が、それはこうした方がいいんじゃないかなって言われてしまったら、もう答えがそれになってしまう。
他を探求する余力がなくなって、じゃあもうそれでいこうということになってしまうんで。
自分が例えば相談される側であったとしたら、ふわふわした状態の人にあんまり答えみたいなもの、自分がアイディアのつもりで言ってることでも言わない方がいいよなというのはチラリと書かれてて、これは結構恐怖になるかなと思いますね。
難しいというか、俺やってしまいそうな気がする。
だから例えば、「これでいいですかね?」って仮に聞かれたとしたら、「あなたはそれでいいっていう感じですかね?」って聞き返せっていうことが書かれて。
つまりあくまで自分中心主義を動かさない形で、その人の問いを深めるようなアドバイスをした方がいいという、結構難しめのことが書かれておりましたね。
教える側からしても非常にレベルが高いというか、簡単にそれ間違えそうな気がする。
特に同僚とか友達やったらいいけど、先輩とか権威がある人間の場合、その言葉の影響力がかなり強いから、
ゴリラさんもデジタルノートについて説明されたら、ある種自分は権威者になっているということはちょっと意識した方がもしかしたらいいかもしれませんね。
そうですね。自分なりの、個別に相談されたらこんでいいんじゃないとかって言ってしまう気がする。
向こうの理解力とか把握の仕方の癖もありますから、正解はないですけど、ちょっと注意は必要だと。
テーマと問いの関係
本書の前半では自分の内側の問いを深めることなんですけど、研究はやっぱりパブリックに発信するもので、内側を見る、内観から始まって、外側の視点で自分の研究を見るという外観というふうに移っていきます。
今回は別にそこまで触れませんけど、自分中心主義だからといって、自分勝手にやればいいんじゃなくて、あくまで自分中心主義を動かさずに、かつ評価、外的な評価を得やすいように、
自分の研究とか問いとかを磨いていったり、発表の仕方を変えようというのが後半に触れられているので、全体を通して、この前半部分だけ受け取ると非常に楽な話になってしまうので、
前半と後半をセットで受け取っての本書なんですけど、今回注目したのはその前半の部分ですね。一応、バッと今、全体の構造を説明しましたが初めに。
一部が自分中心の研究者になるで、二部が自分の枠を超える。さっき言った内的と外的の区分けが一部と二部でされていまして、今回取り上げたのが一部の一章と二章。
問いとはというのと、君の問題はという部分で。問いですよね、問い。問いというのが非常に難しい問題で、僕が一番感銘を受けたのは、テーマは問いではないという話なんですけど。
たとえばですけど、初めて会った人とかに、僕は研究者じゃないですけど、仮に研究者の立場として何を研究されてるんですかって言われた時に、知的生産の技術とかを追って答える、これはテーマなんですね。知的生産の技術。
たとえば個人が社会生活において情報をうまく扱っていくには、ツールとどのように付き合えばいいかって、これは問いなんですね。そこまで問いようになると、テーマと重なる部分はあるけど、別の領域のテーマと重なる部分も当然出てきますし、具体的になれば越境的になっていく。
テーマで考えてると、ずっと漠然としてるんですね。ふわふわしてるし、ある分野をどう研究するのかっていうことも決められない。だから、研究っていう活動を進めていくためには、テーマを漠然と考えてるんじゃなくて、とりあえず問いの形に押し込まないと前には進まないというのが、本書の言ってることで。
勘弁を受けたというか、そりゃそうなんですけど、これは染み渡る部分がありましたね。
面白いですね。テーマというものを絞っておくと、漠然とするくせに他の分野と絡めることができなくなってしまう。
問いにすると、狭まるのに他の分野との連携ができるようになる。
具体的な問いと研究のドライブ
生まれてくるっていう、この不思議な角度の感じがあるわけですけど。だから、漠然とした自己紹介で、そこまで綿密なものが求められない時とかに、もちろんテーマを掲げるのはいいんですけど、研究っていうのを前にドライブさせようと思ったら、とりあえず何かしら具体的な問いの形にする。
例えば、具体的な問いの形っていうのは、知的生産とは何かっていう問いは、あんまり研究をドライブさせないわけですね。
よくある、哲学のダメな問いの出し方みたいなのも似てる気がする。
これ結局テーマを変装した、パラフレーズしただけですよね、要するに。
こういうのじゃなくて、さっき僕が言ったような形の具体的な問いにすると、前に何を調べたらいいのかとか、何を用いたらいいのか、どんな資料をさればいいのかっていうことがより迷惑になりますし、逆にその文章にすることで、違うな、俺の興味はここじゃないなってわかることもあるので。
だから、知的生産の技術っていうと、漠然としてて、どこにポイントがあるのか絞めないんですね。
だから進みようがない。問いに形にすると具体的になり、より明確になって進むかあるいは止まるか、つまり動きが生まれるというのが一つのこの第一章の超重要なポイントで。
面白いエピソードが、アメリカの方にありがちなエピソードの話があるんですけど。
学生の研究テーマを決めようと言ったときに、中国における風水の歴史みたいなのを研究したいと、学生が相談してきたと。
面白くないわけじゃないけど、なんかピンとこないなということで、問答を重ねていると、どうも学生のお母さんがバリバリの弁護士で、超ロジカルな合理的な人なのに風水をすごく信じてると。
それが学生にとっては謎で仕方がないというところで風水っていうのを持ってきたと。
その話を確認した上で話してみると、例えば合理性っていうのは国によって違うのかとか、時代によってどう推移してきたのかとかっていう風に、合理性そのものを研究テーマにすることが見つかるようになったし、そこでの学生のテンションがすごい盛り上がってたから、
この問いが彼に真の興味に関係があることなんだっていうのがわかったっていう話があって、これよくあることだと思うんですよね。こういうのって。
あのあれですよね。その人に聞いてみるとクッソつまらん話しか出てこないと思ったら、ちゃんと掘ってみるとそんな面白い話あるんかいっていう。
だからやっぱりその表面的に、つまりこういう例えば中国近代における風水の役割みたいなってかっこいいテーマじゃないですか。
ついそれを語ってしまうけども、そうじゃない。やっぱり面白い研究っていうのはどっちかっていうと本人がしゃべりだしたら止まらないようなところにあるわけですから。
だからそういうふうにして、漠然としたテーマとかかっこいい研究対象じゃなくて、その本人のこれってなんでそうなってんだろうって思ってしまうことをスタート地点に。
かつそこの出てきた問いとかをいろいろアレンジしながら研究対象を探していきましょうというのが一章で語られていることで。
問いと問題意識の相互影響
もう一個面白いのが、この一番最初の漠然とした状況があって、自分なりの問いを見つけたいっていう時に、まず例えばパッと思いつくものの文献を当たれと。
複数の文献を当たりなさいと。で、その時に文献の本文を読むことに集中しなくていいと。それは10のうち2ぐらいでいいと。8は、そのうちの注意、自分の注意の8は、自分がその文献を読んでる時にどんな心の動きをしているのかを観察しなさいと。
つまりすごく盛り上がっているのか、それとも別に普通なのか。そこをまず見つけると、自分の深く持っている問いに近づくことができる。で、面白いのが興奮することだけじゃなくて、退屈にも注目せよと。
で、人間っていうのは基本的に退屈っていうのはどうでもいいじゃないんですね。マイナスなんですよ。どうでもいいがプラマイゼロだとしたら興奮がプラスで退屈はマイナスだから、このマイナスの方も注目すると逆転すると見えてくることがあるとか。つまり心の動きがあるんですね。退屈の方にも。
だからそっちの方も見つけて、これを本に読んですごい退屈だったとしたら、これなんでだろうって考えているのは一つコツかもしれませんね。
最近そういえば、この本つまらんなっていう時は結構研究するようにしているんだけど。
やっぱりそこに心の動きがあって何かが関係しているから、やっぱりそこに掘り下げる価値がある。どっちにしろは自分の心の動きに注目しなさいというのが語られていることで。
もう一個ポイントとしては、何かしら疑問に思うことがあったとしても、例えば3日経ったら亡くなっているとか、コロコロ姿を変えているというのでは多分あなたの根源にあるものではないだろうと。
つまり3日経っても1週間経っても1ヶ月経っても、あれは何なんだろうとか、これはどうしたらいいんだろうって考えてしまうことが、おそらくは本人の根っこにある疑問とか問題識に繋がっているだろうと。
そういう意味ではやっぱり普段からメモとか記録を残していくことの価値はそこにあるんじゃないかなともちょっと思いますね。
そうですね。そのメモを別に有効に使う必要なんてなくて。
全くなくて。
メモを残してその傾向が見えるならば十分だし。
同じようなことを形を変えて書いてるなみたいなことがもしわかったとしたら、それは証拠みたいなもんですから。自分の継続的な興味の証拠みたいなもんで。
それはやっぱりちょっと別途する価値があると自分でも多分信じられるでしょうから。
だからやっぱり時間を置いてしか見えてこないものっていうのは、記録の力を絶えるのが必要かなというところはちょっと思います。
全てにおいてやっぱりあれですね、全ては記録から始まるみたいな感じというか。
っていうのは思いますね。やっぱり人間の一瞬間的な意識では捉えきれない、意識というか注意かでは捉えきれないものっていうのをカバーできるのがそういう記録の良さですし。
やっぱり真に深いものとかっていうのはそういうものを経ないとやっぱり見えてこないような気がするんで。
ブログでも一緒ですよね。やっぱり10年やってずっと同じようなこと書いてたらやっぱりそれは好きだって多分自信を持ってかどうか知らないですけど言えると思うんで。
そういう証拠を手にするという意味でも継続的な記録とかっていうのは大切ですね。
そうですね。10年間もし続いたんだったら相当それは表面がむしろどう思っていようが自分がそこに興味があったと言える。
その確信を持ってたとしたらもっと自信を持ってて、周りの情報とかに左右されないで、あんまり焦らないで進んでいけるんじゃないか。目移りとかっていうことは減らせるんじゃないかなと思いますね。
あとさっきの噴水の話を聞いて思ったのが、これを一人で見つけることの難しさ。先生に相談してしまえばいいんだろうなっていうのもすげえ思いました。
メンターっていうものの役割があるとしたら、メンターって名前通り導く人ですから、教える人というのは導く人なので、そういう良い人と喋って掘り下げてくれる人がもしいたとしたら役立つでしょうし。
ゴルゴさんも最近ポッドキャストでよくオブシリアンを使ってる人と喋っておられますけど、喋ってる中で質問された人が、「それはこういうことかもしれませんね。」って自分で発見することが結構あると思うんですけど、わからないんですよね、自分がやってることとか価値とかっていうのは。
そういうのは、さっき言った反響版みたいなのを通してやるのがいいですし、反響版ができたことをしてもらう回数が増えると、自分の中でも反響版的能モデルができて、自分で一人で多分できるようになってくるっていうことがあるんじゃないですかね。
そうかもだな。自分の話ですけど、聞くのが上手い人に聞いてもらうとめっちゃ楽しいんですよね。そういえば、そう言われてみないと考えたことがなかったな、みたいなことがすごくいっぱいあって、そういうことをしてもらえた経験というのがすごく役に立っているのかもしれない。
それは結構いいですし、ある種それがまたメンター連鎖じゃないですけど、そうやってゴリコさんとしゃべることによって、そういう考え方が伝播していくみたいなことはあるかもしれないですね。
あるかもですね。そんなこと気になるんですか?みたいなこといっぱい言われたことがあるんだけど、それが大事だと思うっていう。
リズムの哲学じゃないや、センスの哲学の話もしたけど、意味付けって自分が意味あるものしかフィルター通さないわけですよね。
意味は何かを重要だと感じるという判断と一緒なので、他人のそれって重要ですって言われないと、自分が重要だと感じているセンサーって一生変わらないから、やっぱり他人を通して自分の判断とか意味付けっていうのを変えていく経験は有用でしょうね。
うーん、ですね。やっぱり他者と対話ができることなんだな、それで言うと重要なところが。
しかも、こう変な話、狂気を開いて信頼できる人としゃべらないと、やっぱり防御的とか見栄とかが出っ張ってくると、これ掘り下げることにつながらないので、その人に対して関心と敬意を持っている人としゃべると多分開けるものってたくさんある気がしますね。
うーん、そうですね。それは面白いな。研究、このタイトルではそういうふうに考える人はあまりいないような気がするので、それはそれでやっぱらしたさんの興味がそこで響くってことですよね。
そういうことですよね。どう読んだかっていうのもあるでしょ。反響版の振動の並みだから、この本をこう読んだとかその本をどう読んだっていうのも本人の興味を示すものになるでしょうね、きっと。
普通、リサーチの始め方から好きなものを見つけようっていう言い方だとありそうなのか。そういう考えにつながっていかないような感じはする。
だから、やっぱり一冊の同じ本についてみんなでしゃべると似たようなことになりますよね。え、そんなことで読んだんですかみたいなのをお互い交換すると、自分の意味付けセンサーが変わってくるみたいなところはあるかもしれません。
そうか。どういう意味解釈をするかみたいなところか。
それが個人によって偏りがあるんで、いろいろ持ち寄ると、自分の偏り方もわかるし、他の人の面白さもわかるしと一挙両得感がありますね。
そうですよね。こういう読み方が暮らしたただの俺にとっては普通のことなんですもんね。
そうそうそうそう。もちろんこれ以外の読み方あるんかなみたいな感じがするから面白いですね。この己の常識を晒すことで変わっていくというのがありますね。
一章はテーマと問いが違うという話でしたが、次、君の問題はという一章なんですけど、問題と問いは違うという話なんですね。
問題っていうのは、ずっと気になって仕方がない、情報がうまく整理されてないとどうしてもイライラしてしまうみたいなのが本人の問題意識ですね。
その問題意識を解決するために出てくるのが問いなんですね。だから、問いによっては自分の根っこにある問題解決に役立つものがあれば、役立たないものもあると。
研究という活動を進めるためには、自分の問題意識につながる問いを選びましょう、育てましょうということになっていて、これも結構重要な話というか、問いであれば、具体的な問いであればいいわけじゃないですね。
自分の問題意識に引っかかるものを選びなさいと。だから問題と問いは基本的に離れているけど関係し合っているもので、僕たちは基本的に問いを通して迫っていくわけですけど、その中で自分の問題意識も少しずつ明らかになってくるという構図があって、この2つを分けて考えましょうという話もなかなか面白かったです。
まあ、相互に影響していきそうですよね。やっぱりどっちも。
第一部: 自分の問いを見つける方法
そうですね。だから、この中で一番弱いのはやっぱりテーマなんですね。テーマが一番弱くて。
まあ、誰でも簡単に思いつく一番。
他の人と会話するためのカテゴリーみたいなものであって、本人の研究意識にとって言うと問題意識が根源にあって、問題意識はそのままでは捕まえきれないんで、問いというものを変形させたりして、自分が何が気になって仕方がないのかっていうのを見つけていくということが、この本の第一部の主要な話で。
で、実際はもっとプラクティカルな具体的な、こういう問いを立てましょうとか、こういうものを読んでこう考えましょうっていうのが実際は紹介されているので、そのやり方に興味があったら本を直接読んでください。非常に面白い本です。
というのが一冊目の本でして、二冊目。人生のレールを外れる衝動の見つけ方ということで、もう僕はタイトル見た瞬間にこれは買う本やなと思ったんですけど。正直僕もゴリゴさんも、いわゆる世間一般のレールから外れちゃってる人間じゃないですか。
確実にそうだと思います。 僕はアウトローとかアウトサイダーみたいな話が大好きなんで、この本がまず気になって見たんですけど。帯ですね、帯。本屋に行って帯を見たんですけど、帯にこの血のね、血丸の漫画の一コマがあって。
これだけでも怪異なんですけど。本書は哲学者の谷川さんが書かれていて、スマホ時代の哲学とかいろいろ書かれていて、片方ではプラグマティズムの研究も、この学術的な真剣な研究もありながら、もう片方では若者というか現代の人たちに向けて受容されるように本を書くという仕事もされていて。
本書はその後者に属する本で、サブカルの話がめちゃくちゃ出てくるんですよ。
と、読みやすいですよね。やっぱりそういう風に話を始めてくれると。
地位ですよね。フリーレン、テンスラ、ブルーピリオドみたいな、特にブルーピリオドはわかるんですけど、芸術に人生を懸けてしまう人とか。地位もそうですね。学術研究に人生というか、自分の例えば家族すら巻き込むような感じの異端な研究をしてしまう人。
あるいはフリーレンでいうと、フリーレン、魔法を集めるのが趣味なんですね。ものすごいしょうもない魔法を集めてもらってるわけですけど、ああいうのもこの本書が扱う衝動というものの一つに入っていて、その衝動ってどういうものかっていうのを論理事件に固め入れていきつつ、実際例としてサブカルとか作品を引きながらもこういうことですよって実例を挙げながら、まさにちくまプリマーにふさわしいような読みやすさで書かれている本です。
ポイントなんですけど。
まず、この辺の話題をどう掘ってくるのか、どう拾ってくるのかっていうところから面白そうですか。
そうですね。本書のこの衝動、衝動とは何かなんですけど、衝動的に人を殴ったとかの衝動ではなくて、哲学書にありがある本書の定義の衝動というのがまずあると。
それは自分でもコントロールしきれないほどの情熱のこと。それは非常に非合理的で説明もつかず、自分ですらなぜそうなっているのかをはっきりとはわからない。なぜ没頭しているのかはわからない。でもやってしまうもの。
それは言われたら、世の中がどうなっているとか、マジョリティがどうだとか、こうすれば勝つとか、成功法とか、基本的に関係ない次元で成立しているものであると。
もう一個厄介なのは、それは僕の意思、自意識でどうになるものでもない。
社会的な当たり前からも外れてるし、自己コントロールの外にもあるというものなんですね。ここがポイントで。好きなことを仕事にしようというのは、社会的な規範からは外れてるけど、自分の都合の範囲の話なんですよ、基本的には。
でも本書が扱っているものは、そういうものですらないというのが一つの面白いところですね。そういう衝動というのはサブカルの話を聞きながら、あとは実際に劇的な生き方の変更をした人のエピソードも挟みながら、自分の人生を劇的に変える力があると述べられてるんですけど、劇的に変える非合理的なものを説明する言葉が今まであんまりなかった。
当然それは哲学とか倫理学とか、基本的に合理の下で語られるわけですから、合理の外にあるものは語れないのは当然で、唯一フロイトの精神分析っていうのは、自己で扱えないある種の行動の欲求とかっていうのは扱ってる言葉であると。
もう一人、ジョン・デューイという、これもアメリカのプラグマティズムで、学校教育に多大な貢献をした人なんですけど、その人も結構そういう話題を扱ってると。僕読んだことがないんですけど、経験としての芸術という本がありましてですね。
非常に引用がいいんですけど、ある行為に夢中になっている人は、それは本質的な意味で芸術的な経験をしていると。その対象が崇高なものでなくても、例えばトランプタワーを作っている人とかも、夢中になっている瞬間はある種の芸術的な体験をしていると。
そういう夢中になる瞬間っていうのは、日常の様々な場所に潜んでいると。つまりドラマティックではないと。だからほとんど注意を払われないと。言葉にもされないし、認識もされないと。でも実際は僕らは非常にそういう夢中になる体験をして、ある種の芸術経験をしていると述べている本らしいんですけど。
これ非常に示唆的で、僕らは知的に面白いこともあれば芸術的に面白いことも日常的にたくさん経験してるんですね。でもそこに話題性がないし、自分でも得意なことと思ってないから、割に見逃してしまっている。
第二部: 衝動の意味
他人の行動を観察するとか話を聞くと、それってすごいですよねってことが初めて発掘されるってことで。これはさっきのロギングの話も続いてるけど、日記とか書いてると案外それを掘り起こせることがあるだろうと。語る言葉が今までなかったので、本書ではどうしようかということで、メタファーを用いると。幽霊というメタファーを用いて基本的に説明されるんですね。幽霊。
幽霊という言葉も基本的に哲学館の響きがある。
哲学業界用語みたいなやつですね。
デリタとかがよく使ってそうな言葉ですけど。つまり、目に見えないけどそこに何か人間の近くにあって、人間の行動に何かし作用を与えるものとしてのメタファーですね。
実体はないし、捉えられへんけど、何かがあってその影響されることで人間の行動が変わってしまう。
つまり、衝動というものをうまく捕まえようとした時に出てきたのが幽霊というメタファーです。
これは今回の紹介では別に捉えられせんけど、幽霊は人間に憑依したりするわけですけど、その憑依されている状態は確かにすごく夢中になって周りが見えなくなっている人間と確かに重なるものがあるなとはちょっと思いましたね。
結構大きな主題で、そういうのがあるとして、なぜ本書はその衝動について論じるのかっていう話で、これは最初に冒頭に掲げたこととも重なるんですけど、将来の夢とか本当にやりたいことっていうものを聞いてくる他者はたくさんおるわけですけど、
それって表面的な答えしか大体返さない。特に将来の夢というのが厄介なやつですね。小学生とか中学生にそれ聞くでしょ、学校の先生が。
すげえ嫌だ。今だと思う。
たとえば勝手に言うと幸せに暮らしたですって言ったら、なんか違うなっていう顔をされると思うんだよね、きっと。そこで問われている夢っていうのは、少年よ大使よいだけの大使なんですね。
ビッグなビジョン。でもそれは結局本人が本当にやりたい、本当にって言ったらいいんですけど、本人が強くやりたいと思っていることとは多分あんまり関係がなくて、おそらくこう言えば大人は納得するなという答えを子供の賢い声から揃えてるわけですね。
なんかあのね、作らされた感じがしてね、今思うと。しゃあねえからこれにしとくかみたいなね、なんかそういう感覚がすごくあった。
それを毎回言ってると本当にそうな風に勘違いしてしまうという怖さもありますし。
肩にはめ込まれていく感覚が今だとすげえ感じるんですよね。
でやっぱりそれって結局自分がやりたいことを掘り下げる言葉とか概念とか操作とかっていうのを知らないからそうなってしまうと。
別にそれに答えられへんのが問題かというと問題ではないですけど、もし何か夢中になりたいことを見つけたかったら、その表面的な答えではおそらく見つからないだろうと。
もう一点大きいのが、何か大きな決断を、人生の中で大きな決断をしなければならないと。Aを選ぶかBを選ぶか、Cがあってもいいですけど。
その時にどう決めたらいいのかっていうのは、そのうちの大きな要因、プロパティの中にやっぱり自分がやりたいことがあると思うんですよね。
これは別にフリーランスの僕ら二人にとっては当たり前のことかもしれませんけど、自分がやりたいことだからやるというマルシュのトートロジーみたいな説明がやっぱり一番強くて、多分後悔も少ないものだと思うんですよ。
でも自分がやりたいことを見つける術を知らないと、あるいは語る言葉を持ってないと、何か別の外的な要因の比重を多くして決めてしまう。これは多分あんまりよろしくないと。
【佐藤】ほうか。結構そうなってしまうのか。その感覚と同じことが大人になってもあるんだ。 【岡田】20歳になったら結婚するとか、ちゃんと働いてる人を旦那さんにするとか、ごめん、全部今女性の例になってしまいましたけど。
料理ができる奥さんを迎えるとかっていう社会通念、ないしは当人にとっての当たり前っていうことで決定してしまう。それはやっぱり、そこ以外のことを考えようとしないとそうなってしまうわけですから。
例えば、自分にとって大切なことっていうのは何だろうかと。2人の時間を持つことだろうか、お互いに活躍することだろうかっていうようなことを初めて考えて出てくる答えなので。だから自分自身の興味関心を掘り下げないと、いわゆる社会通念の選択肢になってしまう。
それでピッタリハマる人はいいですけど、大抵はちょっとずれる分が出てくるんで、何年か経ったときに何か違うなということになってしまう。そういう意味でも、日々の決断。今日ご飯成りたべるとかはいいんですけど、大きな決断、仕事とか結婚とかどこに住むかって考えるときに、自分のコアになるものに触れる訓練をしてないと、後々苦労しそうだなということが一定。
もう一個本書で面白いなと思ったんですけど、人が衝動に導かれて何かに夢中になっているときって、地味な練習が全然苦じゃなくなると。物事っていうのは地味な練習が絶対欠かせないわけですから、同じやるなら地味な練習を苦なくできる方がいいですよね、そりゃまあ。だから好きなものを見つけるってことは、何かで上達して成果を上げるために結構必要なことだと書かれてますね。
この段階でもこの本を読んだ価値があると思うんですけど。細かく触れておくと、衝動本書で扱っている衝動は、否定心学的に定義するとモチベーションではないんですね。
衝動はモチベーションではない。
たぶん生存本能と他者からの期待に応える的なやつと、自分でやりたいと思うやつをやるみたいな言い方ですね。
衝動が人に憑依したとき、人は自分自身に驚くことがあるという説明があるんですね。つまり、そこには自己発見があるんですね、衝動というのは。
でも内的なお気づき3.0は、私はこれが好き、さあこれをやろう、満足しましたっていうところで非常に予定調和なんですね。
この衝動とモチベーション3.0の差を捕まえていくのはたぶん重要で、そこをわからないと、これって3.0の言い換えなんでしょと思われるかもしれない。そうじゃなくて、自分ですら自分の知らないメインを見つける行動を生み出すのが衝動である。ここに本書の面白い点があります。
衝動と偏愛について
まずあれなんですね。だから衝動とは何なのかということをわかることが非常にまず難しい。そうですね。だからいろんな人間の心とか動機に図形に関する研究はあって、それを僕らはいろんな説明を読んできて、あるものがいいとかっていうのはありますけど、細かく区分けしてあんまり見てこなかったことがある。
特にモチベーション1.0から3.0の中、西洋的な考え方では特に事故は事故の管理観にあるという感じがあって、フロイトはそれにノーと言ったわけですけど、そうじゃない分野で言うと事故が説明できるもの、自分は自分でこうしたと。つまり応答できる、レスポンスできる。
っていうのが責任、レスポンシブルっていうことの意味なので。衝動はそれができかねない部分がある。これちょっと自分で何をこうしたかわからないんだけどやってしまうんですっていうはみ出たもの。つまり、もう少し言うと、衝動っていうものに含まれている、自分でもわかってる部分はモチベーション3.0に含まれるけど、その3.0からはみ出てしまう部分があるもの、これが衝動だという説明ですね。
なんかあれですね、やっぱり西洋の哲学では出てこないような概念というか。日本の著者だから書けたというか。
これ現代的だからかな。その、リューイはアメリカなので、いわゆるその大陸というか、いわゆる西洋ヨーロッパとかはちょっとずれているところがあって。で、特にこの著者も、リューイもそうなんですけどプラグマティスムなんですね。つまり、実際にどうあるかということが。
リロンからじゃなくて、実際にどうあるからを見てたときに、つい自分がやってしまうこの行動が現に存在してるじゃないかと。これは何なんだっていうふうに考えると、そうなりますよね。
そうですね。どこかに存在する正しいこととか答えではなくて、順番が逆なんですよね。
そうそう。リロンに沿わせて実際を問うんじゃなくて、実際からリロンのありように変革を迫るという感じになってて、それが多分特徴になっているのかなという感じですね。
で、今のは否定心学的という、何々でない、衝動とはほにゃりゃないという否定の形ですけど、その次の章では衝動が肯定的に定義されていて、要するに衝動とは一体何なのかという話だけど。
もう一個特徴的なのが、強い欲望という。欲望の種類を見据えている点で。
で、強い欲望というのは他人の視点を介して生まれる。さっき言ったやつですね。他の人がこうした方がいいとかこうやってるっていう形で生まれるのが強い欲望だと。
で、強い欲望は衝動ではない。だとしたら何が衝動かというと、深い欲望だと言うんですね。
おー、難しいというかすごい。
強さではなく深さに注目せよと。で、この深さっていうのは別にそのスピリチュアルに真相真理であるということじゃなくて、単にその表面からは見えないというような概念。奥にあるから見えないっていうところ。
しかも感情的な強さはあまり伴わないんで、目立って自覚されにくい。だから深いという場所にある。
で、その深い欲望は非常に個人的。個人的っていうのは他の人に、例えば、何もかも全てワードでやりたいみたいなのは、他の人がそれに共感できるかというとかなり怪しい。
その人、当人の文脈でないと成立しないようなものであって、より非常に具体的。さっきのリサーチの始め方で、僕は問いを具体的に語りましたけど、その具体性を持っているもの。個人的で細分化された詳細なものが、深い欲望に関係している。
そういうのを、著者はまたわかりやすい言葉で偏愛って呼んでるんですね。偏愛。偏った愛。こういうものが、まず人の非常にこだわってしまうものがあって、偏愛と衝動は一応関係している。これはさっき言った問題意識と問いと多分一緒ですね。
偏愛という、衝動がバックグラウンドにある。それが何か具体的な対象に向かった時に、偏愛という形になる。だから僕たちが何かしょうもない他の人から見たら、あんまり大したことのない思われるこだわりっていうのをまず見つけなさい。それを解釈しなさい。
解釈を通じて衝動を把握する方法
これがちょっと難しいんですけど。解釈することで衝動が把握できるようになる。先ほど言った幽霊の正体がちょっと見えてくる。これがなかなか難しいんですけど、例えば、自分がこだわっている何かがあるとして、それを少しだけ一般化してみる。少しだけ一般化してみると、自分の持っているものが漠然と見えてくる。
最近僕、気が付いたんですけど、いろいろ自分が好きなことっていろいろあるなと思ったんですけど、これ通帯すると何かなって言うと、やっぱり情報を整理することだなって気が付いたんですよね。
コーゾーカっていう印象がある。コーゾーカは情報的に整理する?あるいは情報整理の一手段として構造を用いているかな。
あーそうか。俺の印象だとあれですね。構造を使って情報整理することが好きそうな印象。
でもそれ以外の整理も多分、興味があるかないかというとあるに入るから。タスク管理も情報整理ですね。広く言えば。情報を整理しているわけですから。
タスクという情報を整理している。
エバーノートのWebクリプトがどう扱うかの中でも純粋な情報整理ですし、もっと言うと、例えば一冊の本を書くっていうのも、情報をどんな風にどう並べるかを決めてるわけで、これ情報整理してるわけですね。
僕は結構、もともと乱雑に散らばっているものを一定の形式に沿って並べることで、読んだ人に理解を与えることが好きなんだなというような、情報整理の興味っていう共通項を見つけたんですよね。
ちょっと一般化。結構一般化。2回か3回くらい一般化しましたけど。そういうふうに、具体的なものから少し後ろに引いてみることによって、何か自分の中に共通的なものを見つけましょうというのが、この本書の提案で。
これ結構役立つ気がしますね。自分が好きなものをただ眺めるだけじゃなくて、共通していることって何だろうかっていうのを見ること。
これは本書が使っている言葉なんですけど、解釈なんですね。別に正解じゃなくていい。あくまで自分がそう見えると解釈したものでいい。
たぶんこれは本書には関わってませんけど、要するに訂正可能性に開かれてて、新しい事実がわかったらまた新しい解釈したらいいだけなんですけど、そういう解釈を繰り返すことによって、自分の衝動というのが見えてくる。
これはこの衝動はさっきの問題意識と一緒なんで、別の迫り方をしているだけですけど、やっていることはやっぱり一緒なんですね。
例えば本を読んだ時に感動するとか、感動退屈するとかを見ると。
自分が思いついた問いを変形させることで興味の関心がどう変わるかということを見ていく。
あるいは自分の実際にやってしまっている具体的な行動から、そこにある共通項を見つけ出すっていうふうに。
どれも自分に対して作用を与えて、その返ってきたものから自分自身というのを探っていくということを提案しているのがこの一冊の本で。
やっぱりそういうことを教えてもらった記憶は今のところ僕はなくて、でも実際に言われなくてもやってきたことではありますけど、
こうやって方法論としてまとめられたと、確かにそうだなっていうことが2冊総して語られている気がしますね。
最後の方の話の印象でいうと、衝動というそこまで強いものじゃないことを意外と見つけようとしている。
それでいいんじゃないかみたいな感じがしている。
そういうことです。もちろん強いものももちろんありますけど、実は僕たちの日常はもっと細かいレベルで夢中になったりとかこだわってしまっているものがあって、そこに本人の何かがあるだろうと。
ただしさっき言ったようにそれはドラマティックではないから、普段人はそれを注目しないわけですね。
だから捜査の証拠があるのに気づいてないみたいな感じで日常を過ごしてしまっている。
だからあえて本書が衝動とか偏愛とか幽霊みたいな言葉を使って、そこに目を向けましょうと言ってくれているという感じですね。
そういうことね。
俺最近気がついた自分の衝動みたいなものがあって、旅行の荷物を準備するのが好きなんですよ。
それはカバンに詰めるところまで含まれているの?
全部。何を持っていこうかを考えて、何を持っていこうかカバンに機能的に収納して、道具を考えるところと道具を収納するところと、さらに言うとそれによってうまくいったことということが好きっていうことが分かって。
ちなみに旅行行くときに旅行の日程のプランニングとかは好き?
あんまり好きじゃない。
そこまで好きじゃない。
それはやっぱりカバンっていうシステムを作ってるのが好きなのかな。
どうやら自分の予想なんですけど、自分が想定したシステムがうまく働くことが好きなのではないか。
ここにこういうものを入れておくとこういう場面でこういうふうに役に立って、ここにこうしまっておくと邪魔にならなくってこうなってみたいなシミュレーションプラス実践が好きなのではないかという自分の想像なんですけど。
じゃあ部屋の配置とか考えるのも好き?
そんなにやらないんですよ。
なんか違うんだよな、そこは。
不思議なんですよ。そこは自分でもわからないんだけれども。
と今やったように言われたことで、僕いくつか別の角度で質問しましたよね。これ好きですかって。
こういうことを制御っていう話なんですね。その1冊目の本で言ってることって。
たまたま実践しましたけど。
で、今ちょっとだから共通項とそうじゃないものが見つかって、なんかちょっとだけ輪郭線が出てきましたけど。
謎も増えましたね。ちょっと謎が増えたけど。
でもこうやって、ただうんそうですねじゃなくて別の角度から問うてみる。
家の中によってまた新しい問いを考えていくことでクリアになっていくというのが1冊目で語られている本で。
ゴリゴさんの興味のあり方は面白いですね。部屋も一緒な気がするけど部屋はそうじゃないんだな。
なんかね、面倒になってくるんじゃないかと。
規模が大きいから?
ずっと使い続けるから。
そうか、なるほど。旅行はその時で作って解散やもんね。
その蓄積はするけれども毎回リセットされることが良いのではないか。
なるほどね。それはちょっとわかるわ。
だから部屋は環境作りなもんな。システム作りというよりは。
そうですね。だからちょっとローグライトな感じなんですよね。荷物準備というのは。
なるほど。
部屋作りというのはもうちょっとRPGシミュレーションな感じで。
シムシティな感じがするなちょっと。
シムシティよくリセットしたくなるんですよ。その言葉で言うと。
だから一番最初のフラットなとこで区画の整理とかを考えるのは楽しいけど
街を運営していくのは面倒くさいみたいな。
だんだん面倒くさくなって長続きしないとかがあるかもしれない。熱意が。
それは面白いな。
っていう衝動とかに、ちなみにこれに気づいたのはやっぱり
確かはるなさんと喋っていた時で
世間一般でむしろこれは面倒でネガティブなことだというものだと思うんですよね。
おそらくそういうと思うわ。
楽しめるというのは大した能力だなと思うからそれを活かしていきたいと思うし。
そうよね。でも自分の空きっぽさに気づくというのもとても大切なことで
自分が使う道具を常にリセットできるようにしておくときちっていうところは多分言えると思うし
今日読んだけど、最近デイリーノートはあんまりテンプレートしてないみたいなゴリゴさんの記事読んだけど
まさに一緒ですよね。毎回リセットすると気持ちよく使えるみたいな。
そうです。だから飽きてきてリセットしたくなるんじゃないかな。それも概念としては。
自己観察と他人の対話
それで正しいですよね。そういう傾向を知っておくと対策も取れるという非常にプラグマティックな
効率的な感じですけど、有用ですよね。
これは確かに言われていた、自分の衝動変換に近い要素で、ついやってしまっていることなんですよね。
そして自分でもコントロールしきれていなくて、最近慣れてくると早く終わってしまってつまんねえと思うようになってきて。
面白いな。
変えたいんですよね。もうちょっと1時間2時間やりたいんだけど。
カバンの大きさを大きくするぐらいしか。
多いことは良くないので。
そうか。だから別のこだわりとか、制約を設けるしかないな。
これとこれは一緒にしてはいけないみたいなパズル的要素を増やすしかない。
制約があるからかもですね。言われてみると。やっぱバランスなんですね。
物多ければ多いほど、場面場面では快適だけれども、
管理と移動が不快になる。
そこをいかに常識にとらわれずバランスするか。
みたいなところに、やっぱその面白さがきっとあるんだろうな。
そういう面白さを知っていくと、面白さを変化させたり開けるようになりますし、
逆に自分にとって退屈なものを減らしていけるということもあるので、
自己観察と他人の対話というのは重要なんでしょうね。
そこは人から指摘してもらわないとわからないもんね。
これだって常識で考えれば、よくそんな面倒くさいことやるよねって言われたんだけど。
やりたい気持ちはわかるけど、僕の場合はどっちかというと、
普段使いのカバンをこだわって、旅行のカバンはもうどうせ一時だけだからいいわってなるかな、感じで言うと。
普段はね、さらに言うとほとんどカバンを持って出ることがないからっていうのもあるんですけど。
そういうことか。
自分の好きがもうはっきりわかってて、たぶんゴリゴさんも常に自分がどう感じてるかのアンテナはある程度張っておられると思いますけど、
このブックカタリストを聞き終えた瞬間から、今自分はこのブックカタリストを聞いてどうやったかみたいなことを感度を張っておられるとね、
いろいろ知ることが増える、自分研究っていうのが進んでいくんじゃないかなと個人的には思います。
そうですね。そしてこの本が素晴らしいなと思うのが、本当にやりたいこととか将来の夢になりたい自分というこのテンプレに惑わされない。
そういう言説もあってあなたを誘っているように見えるけど、実際どうかなっていうのをちゃんと細かく語ってるんで、若い人はこっちを読んでもらいたいところですね。
俺にとって旅行の荷物を準備することは、どっちかっていうと本当にやりたいことだった枠だったっていうのは結構発見なんですよね。
例えば中学生の頃に胸を張って他人に言えるかって言うと多分言えないと思うんで。
やっぱり見つけるのが難しい事柄ではありますね、これは。
やっぱね、常識で言うとやはり何て言うんだろう、何らかの準備をすることは快意ではないと思うので。
そうね、平均的に言ったらあれは面倒くさい行為に入ると思う。
でも言語化できて気づけたら娯楽になったので、こんな良いことはないと思って。
そうね、でそのカバンの片付けるからシステムが好きっていうのがさっき言った一般化、ちょっとした一般化っていうことで、まさに今その実践が示されたわけですね。
夢ややりたいことに惑わされずに自分を知る
そう、だってまんまオブジェディアンと本質は一緒なんですよ。
同じことやってるなって、俺もデジタル数で同じことやってるなって思いながら聞いてましたけど。
そう、ずっとそういう観点で結構見えてくるものはやっぱあるなっていうのを話を聞いて見事に繋がっているなっていう感じでした。
だからね、非常にこの二冊は具体的なノウハウというよりも自分という存在を知るための手引きとして、しかも具体的な内容が書かれてるんで、良い二冊だなと思います。
これは実存みたいな言葉と繋がる系の話なんですかね、ちょっと違うのかな。
繋げようと思えば繋げられるけど、むしろもうちょっと気楽に捉えた方がいい感じかな、おそらくは。
あー、堅苦しくない実存主義みたいなのに近い。近いというか。
どうかな、衝動そのものを事故に含められるのであればまさにそう実存だよね。そこが多分人は難しい。
衝動外のものをどうしても自分の外に捉えてしまって、それは多分非実存的なものなので。
こういう訳のわからんものも自分なのだと、全部肯定するによっては実存に繋がっていく気がするけどね。
あ、あれか。やっぱり実存という言葉をどう定義するかによって、どう言えるかが分かれてくる。
だから一応本書では衝動という言い方で、自分の中にある自分でも操作できない対象との付き合い方を述べてるし、それは多分それを体現して生きていくと実存的に生きるということにはなってきそうよね。
ああ、そういう言い方はできるか。
そんな感じでございます。
ということで、Book Catalyst、番組を支援していただけるサポーターも募集しておりますので、詳しくは概要欄などをご覧いただければと思います。
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございます。
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