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ゲストにtksさんをお迎えして、『私たちはどう学んでいるのか ――創発から見る認知の変化 (ちくまプリマー新書)』をご紹介頂きました。

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書誌情報

私たちはどう学んでいるのか: 創発から見る認知の変化 (ちくまプリマー新書 403)

* 著者:鈴木宏昭

* 1958年生まれ。東京大学大学院単位取得退学。博士(教育学)。東京工業大学助手、エジンバラ大学客員研究員を経て、現在青山学院大学教授。認知科学が研究領域であり、特に思考、学習における創発過程の研究を行っている。日本認知科学会(元会長等)、人工知能学会、日本心理学会、Cognitive Science Society各会員.

* 他の著作

* 『認知バイアス 心に潜むふしぎな働き (ブルーバックス) 』

* 『類似と思考 改訂版 (ちくま学芸文庫) 』

* 出版社:筑摩書房

* レーベル:ちくまプリマー新書

* 出版日:2022/6/9

* 目次:

* はじめに

* 第1章 能力という虚構

* 第2章 知識は構築される

* 第3章 上達する

* 第4章 育つ 

* 第5章 ひらめく

* 第6章 教育をどう考えるか

概要

本書は私たちがどのように学んでいるのかを認知科学の視点から検討する。キーワードとして挙げられるのは以下の三点。

* 認知的変化

* 無意識的なメカニズム

* 創発

ここでの"認知的変化"はいわゆる「学習」なのだが、本書ではあえてその言葉が使われていない。それは私たちが「学習」と聞いて思い浮かべるイメージが日本の学校教育のイメージと強く重なっているからである。誰かから正解を教えられ、それを覚え、筆記試験でテストされる、といったタイプの学習だけが人間の学びではない。その点に注意を促す意味で本書では認知的変化と呼ばれている。

残り二つの要素は本編でも詳しく紹介されているのでそちらを参照されたい。

ともあれ本書では「認知的変化に働く無意識的なメカニズムを創発という観点」から検討しているのが特徴と言える。いわゆる「勉強法」などよりは抽象度の高い話が展開される。その意味で、少し取っつきにくい側面はあるかもしれない。その分、そのメカニズムや性質に理解すれば、特定の科目や分野に限定されない「学び方」へと目が開かれる。何かを学ぶ前に、まず「学ぶとはどういうことか」を学ぶことは非常に有用だろう。

もちろん、本書が適切に述べるように「知識は伝わらない」。本書の内容が理解できたとしても、その知識が使えるようになったわけではない。それでも「どう考えたらいいのか」という知見は、すぐれて実用的である。言い換えれば、自身の勉強観・学習観を変えることは、具体的に取り組む勉強やその結果についての理解(≒物語・意味づけ)を変えることにつながる。

学習というものを、直線的・固定的・還元的に捉えるのではなく、流動的かつ創発的な視点で捉えることで、日々の学びはよりしなやかになっていくだろう。



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サマリー

この本は、学習に関連する認知的変化、無意識的なメカニズム、創発の3つのキーワードに焦点を当て、第1章と第2章では、新しい視点が紹介されています。第3章から第5章では、上達や発達について説明され、最後の章では、教育についての筆者の意見が述べられています。この本には、学習に関する現状の認識を変える有益な情報が提供されています。また、エピソードでは、「能力」と「知識」についてのメタファーの間違いや限定された性質について考えられ、学びのプロセスや教育について論じられました。挑戦と反省が学びには必要であり、失敗やスランプも重要な要素です。そして、教育のスモールステップ式や部分的な学びに対する批判も行われました。

学習とは何か
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第52回の本日は、私たちはどう学んでいるのか、
創発から見る認知の変化について語ります。
はい、よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
今回はゲストの方に来ていただいて、読んだ本を紹介するという形でやってみたいと思います。
はい、ということで、TKSさんです。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
という感じで、あとは主にTKSさんに紹介していただきながら、いろいろとゲスト会の感じで本について語っていければなと思います。
はい、よろしくお願いします。
まず自己紹介なんですが、TKSと申します。
ラジオとかポッドキャストを聞くのが趣味な30代半ばの男性です。
先ほども紹介していただいたんですけど、ブックカタリスト読書会に参加している、ただのリスナーというか、そんな感じです。
もともと知的生産とかタスク管理というものに興味があって、大学生ぐらいの頃から倉下さんとゴリゴさんのブログを読んだりとか、最近ではポッドキャストとか聞いたりしているような人間です。
もともとネットとかで別に発信とかは特にしてなかったんですけど、
このブックカタリスト読書会に参加するのをきっかけにですね、トンネルチャンネルとかに投稿したりとか、後は公開用のスクラップボックス作ってみたりとか、そんな感じのことをし始めたような人物です。
今回お声掛けいただいたので、お声掛けいただいたのなら話す方で参加してみようかなと思って参加した次第です。
ありがたいですね。このブックカタリストをやって聞いてくれて、ちょっとやってみようと思ったって言ってもらえるっていうのは大変ありがたいですね。
今回紹介したい本はですね、私たちはどう学んでいるのか、創発から見る認知の変化という本です。
読んでみてですね、実質的な構成は大体3つかなというふうに私は思っていて、
まず、はじめにと第1章と第2章でですね、この本の大前提ですね、学ぶってどういうことっていうのを、ちょっとなんだろうな、一般的に言われるものとは違う視点で考えましょうということが主張されるパートが最初に入ってきます。
特にですね、能力とか知識っていう、我々がよく使ったりとか、一般的にも世間的にもよく使われる言葉の理解っていうものが間違ってるんじゃないのっていうのが最初に示されます。
著者自体もですね、これって30年前からそうだよねと、間違った使い方されてるってことをまあ、著者は主張しているんですけど、それにも関わらず変わってないよとか、
あとは多くの人がまあ、学ぶっていうことについてのなんか自分なりの考えを持っているので、まあそれに基づいて考えがちだよねとか、
実際教育を運営するというか方向性を決める文部科学省とかの教育改革なんかも、そんなちょっとこう学んでるとか研究している人からすると違う方向に進んでいるんじゃないのっていうことを理解するための前提というものが最初に示されます。
キーワードが3つ提示されていて、認知的変化というものと、無意識的なメカニズムというものと、創発という3つのキーワードが提示されていて、これは後ほど説明できたらなと思います。
はい、創発の創は創造力の創に出発のパズですね。
そう、この創発っていう用語がかっこいいんですよね。割と前半の肝というか、タイトルにもなっているのか。
上達や発達の考え方
で、2つ目のパートはですね、本書の具体的な中身といいますか、そういうものが紹介されるパートで、第3章、第4章、第5章が該当すると思います。
で、上達するとか、育つ、年齢に応じて育つとか、なんかこうひらめきみたいなものをどういうふうに考えればいいのかっていうのが、この第1部のパートで説明されたことを前提に説明される章が続きます。
で、最後がですね、教育とか学びについてどう考えればいいのかっていうようなこと、かなり筆者の意見が入っている章だと思うんですけど、
そうしたパートが第6章、教育をどう考えるかという話で繋がってきています。
で、ここら辺が多分、何だろうな、人がそれぞれいろんな意見があるようなところだと思うんですけど、筆者はこういう意見を持っているんだなということが書かれていて、
そうですね、学校教育的な学びとちょっと違うっていうところがポイントなのかなというのは、章が最後に来ると思います。
このね、まず1章、2章からいきなりすげえ面白かったんですよね。
まずこの第1章のタイトル、能力という虚構、第2章のタイトル、知識は構築されるという言葉、この段階でだいぶこの本は面白いなって思いながら読んでた記憶があって。
そうなんですよね。知識が構築されるは、まだ知識構築主義みたいなところで聞き覚えがあるんですけど、この能力という虚構っていうのは結構ね、強烈なパンチがあって、
例えば最近のビジネス書で言うと、ホニャララ力っていうタイトルがよくなるんですよね。前に名詞がついて後ろに力っていうのがつくって、能力っていうものを身につけるっていう考え方で作られた本なんですけど、
本書のこの能力という虚構とかいうコンセプトを取ると、まあそれらの本ってだいたい嘘だよねという話になってしまって。
全て完全に否定してますよね。この本の文脈で言うならば。
割とチクマン・プリンマーシン賞でありながらも、結構強烈なパンチが1章に来てるなというのは感じました。
では詳細のところをちょっと見ていきたいんですが、賞の構成ごとにちょっと説明していって、いろいろ突っ込んでいただけたらなと思います。
まず始めにではですね、最初導入として、我々人間っていうのは経験を重ねることで何かできるようになりますよねという話から入ります。
例えば最初ってキーボードを打つときにキーボードを見ながらしか打てないんだけれど、練習していくとタッチタイピングできるよねとか、
ハイハイしていた赤ちゃんが何歳ぐらいで立てるようになるのかちょっと私知らないんですけど、そのうち歩けるようになるよねとか、
あとはなかなか解けなかった問題っていうものをずっと取り組んでいくと急に解けるようになるよねというようなことあると思うんですけど、
これ全部すべて経験重ねていくことで何かできるようになりますよねという話です。
なんだけれど実はちょっとニュアンス違うんですよね。
最初のタッチタイピングっていうのは練習の話、練習していったらできるようになるって話だし、
赤ちゃんが歩けるようになるのは別に赤ちゃんが努力したというよりは勝手にできるようになるところだったりもするし、
あとは急にできるようになるっていうのはまたちょっと練習と赤ちゃんの話とはまた違う、できるようになるってことなんですけど、
実は共通の要素があるんですよねっていう話から入ります。
この3つが違うけど実は一緒っていうのが面白い話で、
タッチタイピングができるのとハイハイができるようになるのっていうのはカテゴリー的に一緒だなとは思うんですけど、
ひらめきっていうものって結構なんか僕の中の位置づけでは違う。
片方が身体技能に対して片方が脳内作業やからっていうこともあるんでしょうけど、
結構別カテゴリーの話だけど、本書ではその共通項があるよというところでグッと意外感で心をつかまれた印象がありましたね。
このあれですよね、ひらめきっていうのがなんていうんだろう、その能力という言い方とは違うんだけど、
なんかあのひらめきって何もないところから生まれてくるみたいな、なぜかそういう印象を持ってしまうんだけど、結構全然違うよって言ってくれているところが面白いですよね。
そうですね、全体的にも私はやっぱここすごいなんかこう今までとは全然違う視点が得られたというか、結構なんかスランプに陥るときの勇気づけになるようなポイントだったなと思いますね。
触れてましたよね、確か後の方でスランプに関する話とかも。
教育の考え方
で、この始めに今言ったような始めにので提示される中でキーワードが3つ提示されます。
1つ目が認知的変化、2つ目が無意識的なメカニズム、3つ目が想発って言って、これが共通する要素ですというわけなんですね。
練習と発達とひらめきに認知的変化と無意識的なメカニズムと想発という3つのものが共通している。
これでもこの想発が、なんていうかな、どう言ったんやろ、その無意識的なメカニズムと認知的変化はわかるというか、うんそうだろうなという感じがするんですけど、
想発ってなんか意外な感じの線でした? 僕結構その例えば発達とか練習とかっていうことに想発が関わってくるって結構意外やったんですけど、お二人はどうでした?
俺はね、そもそも想発という言語をちゃんと単語をわかっていなかった。この本である意味初めて知ったかもしれないぐらい。
自己組織化っていうことも?
それならわかるかな。
まあニアイコールで揃えていいと思うけど、リアリイコールか。
自分の場合やっぱそのね、想発という言語、言語、言葉に対する解像度がすごい曖昧だったから、この本で初めてその現象というものがわかるようになったという感じ。
これでその想発という言葉の解像度が上がったと、この本で。
私も同じ感じですね。あんまり想発という、イメージはなんとなくつくけれど、じゃあ何ですかって言われるとちょっと説明ができないっていうぐらいの。
結構クリエイティビティ系の話題ではよく出てくる言葉で、つまりその個々の要素の相和が、要素を全部組み合わせたときに要素の相和以上のアウトプットになるっていう説明ではわからんかな。
ということで、これもいかに発想するとか、いかにその、要請集めではなくて、集まったものからより新しいアイディアを出すみたいな現象でよく使われる言葉で。
ひらめきと想発っていうのは僕の中では一致してるんですけど、はいはいとかタッチタイミングと想発っていうのが結びついてなくて、ああそういうことなんだっていう面白さがあっていました。
そうか、そうやって言われると俺は多分もうちょっとね、そのわからない段階から読んでいってわかるようになったっていう感じですね。
なるほど、なるほど、なるほど。
キーワードの話に戻ると、認知的変化はですね、一般的な言葉で言うと学習って言っていいんだと思いますけど、筆者はあえて学習っていう言葉を使わないで認知的変化という言葉を使っています。
意味としては、人の変化全般を意味する言葉が認知的変化だそうです。
学習って言葉を使うと、教室でお勉強するような学習とかがイメージされてしまうので、なんかそれだけじゃないんだよっていうことで認知的変化って言葉を筆者は使ってますね。
2つ目のキーワードは無意識的なメカニズムというもので、変化っていうものは起こるんだけれど、それって大抵の人は説明できないレベルで、無意識のレベルで起こるんだよねという話がキーワードですね。
さっき言ってるようなひらめきとかも別に意識してひらめくわけじゃなくて、結構というか無意識的に起こるっていうような話ですし、
実はタッチタイピングができるとかもそうなんですよね。別にこうやってこうやったからできるようになったというよりは、無意識的にだんだんとできるようになってきたとか。
逆に無意識的にできないとできたって言わないというか、つまりタッチタイピングするときってYがあの位置やって意識しないわけじゃないですか。
意識してたらそれはもうタッチタイピングじゃないわけですから、ある種その学習っていうのは無意識のメカニズムにその対象を引っ張り込むような行為だろうなという感じがします。
無意識でできるようになってようやくできると言えるというか学べた身についたと言えるみたいなことですね。
無意識にできるようになる、どうしたら無意識にできるようになるのかもやっぱり無意識のメカニズムであって、そこは意識のコントロール外っていうことなんですね。
これでめっちゃ思うのが言語の話でね、俺たちが英語を覚えるって要するに無意識になってなかったらやっぱできるにならないんだなっていうのをすごい思い知って、
単語を覚えたとしてもそれがやっぱり無意識レベルで反応できないと聞き取れないというのは本当に思い知っていて、読むでもそうなのかな。
読むでも多分そうやと思いますね。
やっぱ無意識というのがいかに重要なのか、学ぶというところで無意識に組み込むというか。
無意識に落とし込むみたいなイメージかな。
そこまでできないとできると言えないっていうのはこの本を読んでいてというかいろんなところでかな、最近よく思うことですね。
これが2つ目。
3つ目が創発という言葉ですね。
無意識的に起こるような変化っていうのは何か新しいものが作り出されると、出されているというふうに考えていいんですけど、
これも逆算して生まれるようなものじゃなくて、いろんなものが要素がたまたま絡み合ってその場で生まれるっていうことを意味する言葉だと。
ちょっと難しく書いてはあったんですけど、要するに結果から判断できることではないとか、意図的に起こすことではないっていうのが創発のポイントなのかなと思います。
本の中では還元不能性と書かれてますね。
要するに結果から分析してその要素を列挙することができない。
逆に要素から見たときに結果がわからないっていう関係性を持っているというのが創発性がある現象とか創発性があるメカニズムっていうような言い方ができると思います。
それどうやってやったのって言われてもわからんってことですよね。
だから結果が、イメージ図を書くとその要素があったして結果がレイヤーが1個上にあんねん。
だからわからない。ここを見てもわからないっていう感じ。
これ説明するとめちゃくちゃ長くなるんやけど、そういうもの。
分析できない、意図した結果を引き起こせないっていうのが多分この本ではポイントになりそうな感じがしますね。
というキーワードを押さえた上で本章を見ていこうというのがはじめにで書かれていたことです。
能力のメタファー
第1章ですね。能力という虚構というところではタイトルの通りですね。
一般に能力と呼ばれるものが実は虚構なんですよということが主張される章です。
能力めちゃくちゃ効きますよね、いろんな現場で。
学校生活でも効くし、就活とかでもコミュニケーション能力とか言ったりとか、
ビジネスの現場でもライバルに勝つためには丸々力を高めた方がいいとかいうふうに重視されている言葉なんだと思うんですけど、
まず私たちがあの人は能力があるよねっていう言葉で人を評価するときに、
どんな流れでそう思っているかをイメージするとこの能力っていう力というものについての理解ができるんじゃないかなと思うんです。
例えば計算がめちゃくちゃ早い人を見て、あの人は計算能力があるんだなというふうに思ったりとか、
すごい想像的なアイデアをいっぱい出している人を見て、あの人は想像力あるんだなというふうに人は思うんですね。
これってどういうことをやっているかというと、何かしらの結果を見てきっとこうなんだという原因を推定しているんですよね。
計算ができるって結果を見て計算力があるんだなと思ったり、想像力がある、想像的なアイデアの結果を見て想像力があるんだなというふうに原因を推定している。
こうした流れは本書の中で書かれている言葉で言うと、アブダクションと日本語だと仮説推論という言葉で説明できる。
ポイントとしては人間ってそもそも原因を探ってしまう生き物だから、思考の流れとして自然とそうしてしまうんですよというのがまずあるわけです。
アブダクションっていうのは日本語で言うと仮説推論っていうぐらいなんで、あくまでも仮説なんで、
仮説が正しいかどうかは時と場合によるわけですよね。
筆者としてはこの能力っていうのは実は仮説であって、その仮説は誤っていると。
だからそんな言葉は使うべきじゃないというような主張がされているのが最初の面白ポイントかなと思います。
過激ですね結構。
面白ポイントだったっすね。いきなりそれかって。
結構喧嘩売ってる的なニュアンスというか、強気に書かれてましたよねこの辺全般が。
でも多分これは長年著者の中で溜まってる怒りがここで現れてるんじゃないかなと。
ずっと思ってるんだろうなって、いい加減どうにかしろやって相当思ってるんだろうなってすげえ思った。
この能力っていう言葉って、もう一つのポイントがメタファーであるっていうのがポイントですよね。
要するに見えない、直接観察できないものなわけで、
直接観察できない原因を私たちは、
力とか能力って言葉を使ってメタファー的に理解しているわけです。
メタファーって人間が発明しためちゃくちゃすごいものである一方で、
問題もあって、例えばイメージするものが人によってちょっと違うっていうのもあるんですけど、
特にこの能力とか力のメタファーの良くないところというか、
被写ですね、内在性とか程度とか安定性というものがこの言葉自体に含まれちゃってるのが、
良くないポイントだよねってことを言います。
どういうことかっていうと、能力っていう言葉を使うときに、
なんかその力自体がある個人の中に存在する、内在しているっていうことだったりとか、
能力っていうのは上下レベルの差があって、能力が高い人と低い人がいる、
みたいなレベルの差があるっていう程度の話が入ってきたりとか、
あとは能力がある人は常に結果を出せて、能力がない人は常に結果が出せないといった、
力っていうのが安定しているんだっていうイメージが強調されてしまうっていう、
悪い方の効果が能力っていうメタファーにはあるんだよねっていう面白いところですよね。
これね、僕は読みながら思ったんですけど、こういうメタファーが一般化したのって、
結構ゲーム、RPGとかのゲーム、
パラメーターとかスキルとかって固定されて、
まさにそのキャラだけが持っているものとして認識されるじゃないですか。
だからそこのメタファーが僕らの心に浸透しているのは、
そういう世界観に親しんでた人たちが結構たくさんいるからではないか、
仮説をちょっと読みながら考えましたね。
相互に強め合っていて、さらに現在スキル独体制みたいな、
もっと強いその能力が身についてくるっていうのかな。
最近のラノベだと、よりそこが強まっているんじゃないかっていうイメージはありますね。
原因をどこに取るかは知らんけど、
僕らのゲームファンタジーとか、あるいは漫画作品、ノンフィクションで、
受け取っている世界観と非常に構成があるこのメタファーかなという感じがしました。
だからこそああいう世界観が受けているんじゃないかとも思えますよね。
確かにね。
すごく理解できる。確かにそうだなって思える。
直感的なイメージで、そういうふうに人間の直感にぴったり沿った形で構築されているってことか。
そうした能力のメタファーのイメージがあるんですけど、
実際に人間の認知というものは文脈に依存しているという話があって、
例えば、3%の食塩水を200gと、
2%の食塩水300gを足した時に何%になりますか?みたいな問題とか、
ああいうものを見た時に、人って答えられないというか、答えられない人もですね。
直感的に計算式で出した答えと違っていることが多いと。
なんですけど、例えば問題の見せ方を変えると、それって答えられたりするわけですよね。
つまりここで何を言いたいかというと、
本質的な構造が同じ問題があったとして、その見せ方が違うだけで、
同じ人でも答えられる場合と答えられない場合があるわけです。
これって本当に能力があるんだったらどっちも答えられるはずです。
本質が一緒なんで。
だけど答えられないってことは、
これってただただ人間って文脈とかによって能力っていうのが発揮される場合と発揮されない場合あるんだから、
これって別に能力があるなしの話じゃないんじゃないのっていうことが言われるわけです。
要するに、限定すると先ほど僕らが言ってた固定的なイメージの能力というものではないと。
能力というのは本来は文脈的なものなはずなのに、固定的なイメージの能力っていう言葉がずれてると。
で、著者はだからやめようと。
これは計算式で表示されたときに計算でき得る能力と、
実際の食べ物で言われたときに計算できる能力と言えないこともないですよね、別に。
だから別に能力かどうかということでは、能力に付随する固定的なイメージをやめましょうと著者は言ってるわけですね。
陸上競技と球技みたいなので例えるとよくわかるような、
よくわかるではないか、そういう例えとかが面白いなと思って。
100m走だとどっちが速いかはパラメーターの数値として明らかに結果が出せるんだけれども、
サッカー選手の場合は、どっちがすごいミッドフィールダーなのか、どっちがすごいフォワードなのかは、
たぶんまさに内在的な要素がないとは言わないんだけれども、チームメイトの相性によってもたぶん変わるだろうし、
どんな場面かっていうことによっても変わるだろうし、
そもそも数字としては悪いんだけれども、なんかこの人がいると勝てるとかそういうこともあるだろうし、
陸上みたいにシンプルじゃないんだぞっていうことなのかなっていう。
陸上であったとしても、例えば月で生活してた陸上選手と地球で生活した陸上選手やったら、
やっぱり文脈が異なるんじゃないかな。筋肉の動かし方が異なってくる気がするけども。
まあまあまあ、能力というものがもうちょっと陸上よりはサッカーの方が近いんじゃないのかなみたいなことが言いたかった感じですかね。
だからどの能力であっても全ては文脈的で、ただ文脈を固定した状況で行われる競技はそれが見えにくいということだよね。
第一章が先ほども言った通り、この能力のメタファーって結構間違ってるというか、
仮説的に考えると合ってるようにみんな思ってるけど、そうじゃない理由がいっぱいあるんだから、
そろそろやめませんかっていうのが第一章で主張されることです。
知識の構築
次、第二章。知識は構築されるという話で、これは知識っていうのは多分我々すごい興味がある言葉だと思うんです。
ビジネスでも使われるし、知的管理とかに興味がある。私もよく使う言葉なんですが、
これも筆者は暗黙の前提があって、それってどうなのっていうことを批判的に検討するわけです。
先に結論から言うと、この章では知識っていうのは物として存在するわけじゃなくて、
その場その場で生み出されるんだよっていうことが主張される章です。
これはインパクトがある章で、特に僕みたいなノウハウを伝える本を書いてる人にとって、
これチャプター2章の第一説が、知識は伝わらないっていう見出しなんですけど、
伝わらないんかーっていう感じなんですけど、中身を紐解いていくとこれがどういう意味かわかるんですけど、
先ほど言われたように知識っていうオブジェクトがあって、それを著者が僕が持っている。
それを読み手にそのオブジェクトを渡したら、はい知識が伝達されてましたよというふうにはいかないんだよなということが書かれていて、
本を書く人間としてどうなように書けばいいのかっていうのを結構考えさせられた章でしたね、この章は。
私はちょっと読んでもなんかじゃあどうすればいいんだろうっていうのをちょっと思ったりもしたんですけど、
今おっしゃられたように、何か知識っていうのが私から例えばゴリゴさんにとか、
そもそも何かを伝わるっていうことが生じないと。
例えば教室で先生が生徒に歴史の年号とかを教えているときに、これは知識が伝わっているわけじゃなくて、
あくまでも情報というものが伝わって、場合によっては生徒がその情報を記憶しているだけだと。
これは記憶が伝わっているわけじゃないんですよねってところから入ります。
一応この章でいう知識ってそもそも何なんですかっていう話なんですが、
一応なんか有用な知識というものに限定してお話ししていると。
ここの説明ちょっと難しくてちゃんとできるかわかんないんですが、
有用な知識というのには一般性とか関係性、あと応答性、場面応答性かっていう3つの要素があるんですよって話が入ってきます。
イメージちょっと難しいんですけど、クイズ的な知識と呼ばれるものは有用な知識ではないっていうのがわかりやすいイメージなのかなと思います。
これちょっと後説明したらもうちょっとわかるかもしれないです。
だからクイズ、いわゆる脱学とかっていうのがまず関係性がないですよね。
他の知識とつながっていない、問いに対して出されている答えであるっていうのと、
あと場面応答性もないですよね。クイズのシチュエーションに対してだけ出てくることが多くて、
何かある別の問題で困っているときに、それだっていうふうに引っ張り出されることはない。
これは関係性の問題かなという気がするんですけど、
そういうものは本書が言う、少なくとも扱っている知識ではないということですね。
これちょっと個人的にすごい面白いというか、今後あいづちを打ちにくくなるなと思った話なんですが、
すぐになるほどが生じるのは相手に知識があるからっていう話が書かれていて、
たぶん今私が喋っていることをクラシタさんもゴリゴさんもすぐ分かる分かるっていうふうになっていると思うんですけど、
私が知識をうまく伝えているからというよりは、聞き手側に知識がそもそもあるから今通じているんだっていう話があって、
ここはちょっとこう、今後なるほどって言いにくくて、個人的になってしまって。
別に言ったらいいと思いますし、結局相手になるほどと言わせた説明ができたってことじゃないですか、それを。
学びのプロセス
相手の知識に応じた話をできる、知識レベルに合わせた。
だからそれは相手になるほど、あいづちで言うこともあるでしょうけど、
なるほどねって言わせたとしたらグッドな言葉とか概念のチョイスができたっていう詳細だと思うんで、
言ってもいいですし言われてもいいと思いますけど。
言わせる方は名人なんですよね、しゃべる側としては。
おそらくはね、きっと。
よかったです。それはちょっと、なんかこう、勝手に制限かけるところだったので。
で、要するにというか、なるほど生じる場合って相手に知識もですし、記憶がそもそもあるんですよね。
知っているという状態なので。
だからそういう意味で、この本書的に言うと記憶の意味ってじゃああるのないのって話になるんですけど、
本書は記憶の意味はある、もしくはあるときはあるというふうに言ってます。
だから、何だろうな、それこそ知識があっていろんな情報が頭の中でネットワーク上で繋がっているような人にとっては、
記憶は増やせば増やすほど関連性がどんどん増えていくのでより良いですし、
ですけど、例えば何も今まで勉強してきませんでしたという人に、
情報としての記憶だけ与えてもそんなに意味はない、正直。
なんだけれど、数年たった後にその記憶が何かの記憶と結びついて知識のようなものになる場合はあるので、
記憶することの意味はあるときはある。
あとから意味が生まれることもあり得るだろうと。
記憶した方がいいよなっていう話と、私は受け取りました。
Google検索とかに頼ってるばっかりではダメですよということですよね。
ちっちゃい頃に学校で学ぶことっていうのが、だいたいほとんどが情報として覚えていることばっかりなんだけれども、
ある程度大きくなってから、あ、それってそういうことだったんだって、すげえいっぱいありますからね。
うーん。
まあ、学…ジャンル的には、
社会とか歴史とかで学んだことの意味が後になって分かるってことは結構あるね。
数学は後半の難しいのはちょっとあれやけど、
確率とか数列とかの話は結構、実生活のときにああってなるかもしれないですね。
例えば、98かける3みたいなやつを分配法則とかを駆使して、
100-2かける3にすれば楽じゃんみたいなのもやっていたかもしれないし、
ゲームに出てきた英単語が大人になってから、あ、これってそういう意味だったんだみたいなことはすげえいっぱいあった気がするし。
自分の経験と学んだ記憶がそこでリンクしたっていう、血肉になったっていう瞬間があって、
おそらくだから、僕らが学びを始める一番最高の瞬間はそのタイミングでしょうね、きっと。
うーん。で、逆に言えば最初は所詮情報なんだろうなっていうふうにも思って、
ある程度情報は仕方がないというのかな、最初期において。
ノードゼロの状態だったら何ともリンクしないですからね、絶対。
だから最初はそのいわゆる詰め込み教育にならざるを得ない部分は避けられないっていうところでもあるでしょうね、これは。
そこがつまらなさをどうするかですよね、問題は。
別問題があるけども、はい。
知識ですね、構築されるっていう時のキーワードが身体化、英語で言うとエンボディメントっていうのが重要なんだよって話が、
先ほどゴリゴさんがおっしゃられた英語の話とかにつながってくるんですけど、
そもそも何か物事を知るっていうのは非常にリッチな体験なんだと。
このリッチっていうのは例えばリンゴを食べるときに、私たちは情報を食べてるわけじゃないですよね。
リンゴっていう実際のものがあって、視覚、聴覚とか語感を通じてその情報をゲットするわけです。
その中で脳内のいろんな部位が活性化するわけですよね、リンゴっていうものを見たり食べたりすると。
さらに言うとその時に感情っていうものも生まれたりするわけで、
経験と記憶の関連性
それら全部があって経験というものが生み出されると。
リンゴを食べるっていうだけでもこれだけいろんなもの、いろんな感覚とか感情っていうものが活性化されるようなことがあって、
このことをシミュレーションというふうに、専門用語なのかな、なんか言うらしいです。
そうした経験っていうものを通じて知識っていうのは獲得されていくんですけど、
その瞬間に獲得されるというよりは、そうした同じような経験が繰り返されることで、
だんだんと重要な部分とそうでない部分が区別されていく。
だからリンゴを食べていくっていうことを繰り返すと同じ、
ちょっと脳の話はあんまりわかんないんですけど、
同じ、これとAとBっていうところが繋がるっていう経験が何回も繰り返されると、
そこは重要なんだなっていうふうに脳がなっていくし、
AとCの部分は繋がらないんだっていう、だんだんと区別がされていって、
それが本書で言う最初の方、有用な知識には一般性があるといったときの、
一般性の話に繋がっていくわけです。
なるほどね、なるほど。
きっと大変よくわかる話で、脳科学の話にも通じるんですけど、
これおそらくですけど、重要な部分とそうでない部分は、
基本的にはさっき言った無意識のメカニズムで選別されるんでしょうね、きっと。
おそらくそうでしょうね。
勉強するときに、自分でよりこれは重要やという意味付きをすることはある程度できるかもしれないですけど、
結局最終的なジャッジメントは多分脳の無意識のメカニズムが働いて、
だから僕らが暗記できたりとかできなかったりするんでしょうね。
おそらく価値を見出すと記憶に残りやすいとかもそこに近いところがあるでしょうね。
きっとね。
経験を人はしていくんですけど、そこからだんだんと応用が効くようになると。
例えばリンゴ以外にも梨を食べたりとか桃を食べるって、
要するに同じフルーツを食べると、あれなんかどうやら同じこと起きてんじゃないと、
リンゴを食べるときと。
っていう風になると関係性、果物っていうところの関係が生まれたりとか、
果物を食べる場面っていうことでこれって生じるんだなっていう関係性とか、
場面応答性っていう、これも知識、有用な知識の2つの要素っていうものが生まれてくると。
という話があってですね、この身体化っていうことをすることが知識につながる、
知識が構築されるときに重要なんだけれども、
日本の学校で英語を学ぶときにこの身体化されてないんじゃないのと、
だから日本人は英語喋れないんじゃないのっていう最初の話につながってくるわけです。
まあね、難しいでしょうけれどもね。
そう、いかに身体化するのかっていうのはおそらく難しい問題で、
だからずっとこのまま生きてたんでしょうけども、
まあでもそれにね、例えば国の税金とかが使われてるわけで、
ほとんど無意味なく、まあほとんど無意味というか、
さっき言ったように、ほとんど無意味と思われる非身体化な情報や記憶も、
知識の身体化と状況のリソース活用
どこかの時点で知識のネットワークにつながる可能性がある以上、
絶対に無駄とまでは言いませんけど、
あんまり役立っていないし、
むしろ英語の苦手意識を育てている可能性すらあるという点は、
憂慮すべきでしょうね。
まあね、言語で一番バカにされて多分やっていないのは、
スピーキング、シャドウイング、音読みたいなやつ。
あれを英単語の暗記でも分からん単語を読むようにしたら、
すげえ変わるようになったんで、
それだけでも変わるんじゃないかなっていうのは思いますね。
しょうもないと思ってもちゃんと声を出して喋る。
本質は多分喋ることなので。
まさにね、確かに。
喋るっていうことを特にもっと言うと、
自分の言いたいことを言うっていう、
自分の体験にある現象を言葉にするっていうシチュエーションに置いたほうがいいでしょうね。
これを読みなさいとかって読み上げられるよりも、
はるかに身体化が強まるような気はしますけど。
済んだら一瞬で喋れるようになるはまさにそれでしょうね。
言うようなことが使えないと生活がままにならないわけで。
英語、でもそうかな。
やっぱりそういう状況に身を置くのが一番なんやろうな、きっとね。
早いのは多分。
あとは使うことですよね。
学ぶけど使わないですからね、学校の英語を。
使うっていうのが試験で使うっていうだけで、
雑学クイズやってるのと変わらん問題が多いから、
そこが問題なんじゃないかな、やっぱり。
これちょっと面白いなと思ったポイントで、
言葉は大事だけどそれだけではうまくいかないっていう、
言葉は万能だけど得て増えてがあるっていう話があってですね、
なんかこう、なんかの実験かな。
言語隠蔽効果っていうらしいんですけど、
ある実験をしたときに、
被験者にビデオを見せて、
そのビデオには人の顔が出てくるんですけど、
それの特徴をできるだけ説明してくださいっていう実験をするんですね。
その後、複数人の顔を見せて、
じゃあどの人ビデオに出てましたかっていう話を答えてもらうんですけど、
詳しくはちょっとあんま書かれてなかったんですけど、
言語的に記述するような人の正解率がすごい低かったと。
だから無理やりなんか言語で表現しようとすると、
それはそれでうまくいかないっていうところがあるらしいと。
だからさっきの英語の話で言うと、
例えばAppleはAppleって言葉があったらリンゴでしょっていうように、
文字だけで覚えていくと多分できないんだろうなと。
ゴリゴさんとかって最近iPadで手書き始めたみたいな話あると思うんですけど、
あれってやっぱりすごい理にかなってるんだろうなっていう。
言語ももちろん大事なのが大前提で、
そうじゃなくて手書きっていう方法を取ることによって、
より理解っていうのが深まるんだろうななんてことをちょっと読みながら思いました。
言葉を使いつつも言葉以外のものも使って、
やはり自分の体験をリッチにしていくってことですよね、要するに。
そうですね。
で、次がですね、またちょっと重要な言葉がリソースって言葉があって、
日本語で言うと資源とかいう言い方するやつですけど、
状況のリソースっていうものを活用した方がいいんですよねっていう話が出て、
ここが多分すごい重要だし、いろんな本とかにも関連するなと思って読みました。
じゃあ説明うまくできるかっていうとちょっと自信はないんですけど。
要するに脳に全部蓄えるじゃなくて外的なものを使いましょうというようなことだと思うんですけど、
これ何やったかな。
例えばなんですけど、よく僕いう例があってそのハサミがあるじゃないですか。
ハサミの使い方っていう時に、ハサミをどこを持ちますかっていうことを覚えないじゃないですか。
なぜならばハサミを形状を見た瞬間にどこに指を突っ込むかがもう明らかだからなんですね。
これはだからものに記憶を委ねている。あるいは使い方の一部をものの形状に委ねているっていう。
例えばソロバンが得意な暗算する人って頭の中で球を動かすらしいんですけど、
あれも球の動きを途中の計算結果の保存に使ってるっていう感じで。
これはでも全部脳内か。
外部的なものを使うことによって脳の計算能力を大幅に減らすことができるという話はよく聞きます。
本にも書いてあってわかりやすいなと思うのが車の運転の話で。
今だったらエンジンボタンですけど、車を動かせるようにするまでの手順を説明してくださいって言われて、
言語でやろうとすると結構難しいんですよね。できなくはないんだけど。
まず今だとブレーキを踏みながらエンジンのボタンを押して、
パーキングブレーキを握るときにサイドの安全ボタンみたいなやつを握りながらドライブに入れて、
パーキングブレーキをオフにした後にアクセルを踏めば進むのかな、今だったら自分の車なら。
しかしそんなことは、さっきの無意識のメカニズムで全て進むのは、
車の形状とか置かれているものの場所が一つ一つ記憶と結びついていて、
ほぼ無意識のメカニズムで進むからですよね。
ウインカーとかワイパーとかね、口で言われるとパッとどっちか思い出せなかったりするんですよね。
全然わからん。
触ればできるんですよね。あ、こっちだわっていうのは。
外部リソースと知識の構築
タッチタイピングできるけど、キーボードの図を書いてくださいって言われると多分めちゃくちゃクロスと思うで。
そのように大体僕らは外部のリソースをうまいこと使ってるし、だから脳だけでやろうとしない方がいいっていうのが多分その話なんでしょうね、きっと。
リソース、言葉としては今言った記憶みたいに自分の頭の中にあるものが認知的リソースだとして、
そうじゃなくて何か知覚するハサミっていうものを知覚して、
それをリソースとして活用すること、状況のリソースというような言い方をして、
それを組み合わせることによって知識が生まれるんだと。
だからハサミを使うってことが知識だとしたら、
ハサミに関する記憶っていうものが頭の中にあるし、
実際のものとしてのハサミっていう状況を見ると、
あそこに指を入れて上下に動かしたらものが切れるっていうのが知識として生まれる。
その場で生まれるわけですよねって話がここで書かれていることというか、
知識は構築されるっていう話として書かれていることですね。
だから最初の話に引き戻すと、
例えばある人がハサミの使い方を150時以内に記述してくださいという問題に答えられないから、
その人はハサミを使う能力がないというのはおかしいということですね。
ハサミがあってハサミが切れるっていうことが能力であって、
ハサミがない状況でハサミが使えるかどうかっていうのは変な問いなんですよね、そもそも。
そのシチュエーションに発揮される能力はそのシチュエーションでないと測定できないし、
そのシチュエーション外で測定したところで、全然別のものを測っている感じがするというか。
それはさっき言ったようにハサミの使い方の回答を暗記したからといって、
ハサミを使えるようになるわけでもなくて、結局ハサミで紙を切るしかない。
切るという経験を積み重ねていくしかないっていう、
これが一番最初言った知識は伝わらないっていう非常にノウハウ本としてはGMOを含む内容を出せる知識を伝えるしかないからね。
ハサミの使い方の本とかは確かに困難ですよね、出そうと思ったら。
最終的にどんなノウハウ本でも皆さんやってくださいしかない、最後の最後。
そうやって本人の中でツールの使い方とか知識の使い方を構築してくださいっていうしかなくて、
その構築をいかにサポートするか、あるいはつまずきにくくするかっていうことが、
おそらくそういう本のできる最大のことなんだろうなということを、この章を読んで考えました。
本って結局あれですよね、やる気にさせる力が大事になっていくというか。
そうなっちゃうんですよね。
だからどんだけそのノウハウを知ってる人の達人であっても、
読んだ人にやる気を起こさなかったらそれはもうダメなわけですね、その本の役割としては。
けど読者からするとお二方の本はすごいやる気にさせてくれる本だと思って私は読んでました。
実際にやってますし。
ありがたい話で、それが多分一番の貢献。
だから最終的に僕が言った方法と全然違う方法を取られたとしても、
とりあえずやってみたっていう結果を生むんだとしたら、
もうそれで多分100%達成に近いんじゃないかなとは思うんですね。
すごい長く喋っちゃったんですけど、2章までがこんな感じです。
けどここがとにかく重要なポイントかなと思ったので、いいかなと思いました。
知識の成長と発達
第3章、第4章、第5章は結構素早くというかここまで理解するとパッと読める章かなと思って。
第3章は上達するですね。練習するとうまくなるっていう話があるけれど、
その裏側では結局何起こってるんですかねということが書かれた章です。
特に面白いのがスランプについての話ですね。
スランプについての捉え方が多分本章を読むと変わるんじゃないかなと思います。
大前提として練習っていうものはべき上の法則に従うということが言われていて、
言葉としては難しいんですけど言ってることは簡単で、
やればやるほど上手くなっていくし、最終的には無意識にできるようになるということと、
最初は急に上達するとか上達度は速いけどだんだんとこの上達のスピードは遅くなってしまうよねっていう、
だいたい物事には当てはまるよねっていうのがあって、これは普通にイメージつくと思います。
練習して上手くなるときには結局何が起こっているかというと、
マクロ化と並列化っていうことが起こっているらしいです。
どういうことかというと、さっき車の運転の話になりますけど、
パーキングからドライブにギアを変えてとかいう、一個一個やるんじゃなくて、
もうそれは最終的には運転できる状態にしてみたいな感じで、
もっと捉え方を大きくしていくっていうマクロ化と、
同時にアクセルを踏みながらウインカーを出すっていう、並列的に行うっていうようなことを行うことで、
人っていうのは上達していくんだよと話があります。
先ほども言ったスランプの話ですね。
面白かったのがあれ、言葉があるんだっていうのが個人的に面白かったんですけど、
スランプになるときはプラ等と呼ばれる停滞する時期と、
リグレッション、後退とか呼ばれる、ちょっと下手になってしまうときがあると。
最終的にブレイクスルーがあって、ガッと急に上手くなるっていう話があるんですが、
この言葉がまずあるのが面白いなというふうに思いました。
これは多分第4章、第5章にもつながってくるので、次に行こうかな。
もう一個ちょっとだけしゃべりたいんですけど、
練習して上手くなるときに、この本ではブロックをいかに素早く組み立てるかみたいな、
実験をしたっていう話があって、それで上手くなるときに、
最初は人がどうやって頑張って早く動くかみたいなことに注力するんですよ。
なんだけれど、そのうちブロックじゃあこっちに置いといた方が早いんじゃないのとか、
あらかじめパーツを右側に寄せておいた方が早く組めるんじゃないのみたいなふうに、
自分じゃなくて環境を変えてしまうという行動が起きたらしいんですね。
この話が、最近クラシタさんがオリジナルツールを使っている話とか、
ゴリゴさんがObsidianをいかに自分に合わせたように変えていくかっていう話につながるなと思っていて、
自分を変えるんじゃなくて、ツール側が自分の能力って言葉使っちゃうんですけど、
自分の力っていうものを引き出してくれるように環境を変えているんだっていうふうに、
なんか捉えることができるなと思って、これすごい面白いというふうに思いましたね。
どうですかね、ゴリゴさん、そういう感覚はあります?
言われてみると、この本に書いてあったことを踏まえて言うのであれば、
その能力が発揮できるような環境をいろいろ試そうとしているということはやっているような気がします。
それは分かるわ。結局だから、ずっとスランプ機にいるような感じがあって、
試し続けてる。当然、あるブレークスルーがあったらそれは固定されるけど、
その次の段階でも結局どれがいいかなって配線外を試しているようなところはありますね。
だから、完成しないんですよね。はい、できたにはならない。
ならない。常にちょっと不安定な状況が続いているっていうところはあって、
だからオリジナルツールとかカスタマイズをついついやってしまうのは、
そういう非安定的なというか、ちょっとでもいいものを求めるっていう。
ツールに頼っているというよりは、先ほど言われた自分が一番いい使い方ができる何かポジションというか、
使い方っていうのを見つけたいなっていう気持ちはありますね。
なので、確かその話の流れで言うと、環境を変えるというよりも、
そこを同じような部分で出てきた、いろんなパターンを試すということを
意識的にも無意識的にもやっているような感じがしますね。
確かにね。分かる分かる。
それはあれですね、第5章のひらめくのあたり。
そうそう。そっちか。そっちで出てきたやつか。はいはいはい。
じゃあもうちょっと次々行っちゃいたいと思います。
第4章は育つっていう話です。
ひらめきと失敗
私ちょっと言葉としては知ってたんですけど、意味ちゃんと知ってない言葉が、
発達という言葉があって、これは過励による非科学的な変化ということで、
赤ちゃんが1歳から2歳になると歩けるようになるみたいな、
別に努力とか関係なしにできるような変化のことを発達というらしいです。
こうした発達を研究している人たちがいるんですけど、
昔の話、昔かは分かんないですけど、
発達って段階的に起こるんじゃないのっていう発達段階論があるらしいんですが、
筆者はこれに対して否定的です。
3歳でこれができる、4歳ではこれができるみたいなことは否定的なんですけど、
ここはちょっと専門的な実験とかの話が多かったんですけど、
数の保存課題っていう有名な研究があるらしいんですね。
おはじきを5つ並べて、これ何個ですかっていうふうに子供に答えてもらうと。
5個並べていた場合、5個って答えるはずなんですけど、
例えばキチキチに詰めて5個並べていたものと、
そうじゃなくて間隔を広げて5個並べるっていうことをすると、
小さい子供っていうのは理解できなくなって、
5個しか置いてないんだけど間隔広げていくと、
もっと10個あるみたいなことを答えちゃうらしいんですね。
そういう研究があったんですけど、
それの反省というか、それって違うんじゃないっていう紹介がたくさんされています。
その中でポイントというのが、
いかに子供がいろんな理由でそれを回答しているっていうことが分かってきたと。
幅が広がっているから5個じゃなくて10個なんだって言ってみたりとか、
いろんな理由を大人には考えつかないようないろんな理由を持って説明してくると。
一つ面白いのは、最初に詰まった状態でこれ何個ですかって聞かれる。
で、5個って答える。
じゃあ間隔は広げて何個ですかって聞かれる。
時に子供は同じことを2回聞かれるはずはないから、
何かが変わっているはずだろうと推論するっていうことが書かれていて、
賢っとか思ったんですけど、そういう理由ももちろんありますよね。
だって先5個って答えてるから次も5個に決まってるわけで。
でも聞かれてるってことはそれ違う数なんだろうなって思うっていうのは
ごくナチュラルな推論であって。
だから5個って答えられないからといって、
5個と認識できていないわけじゃないよっていう著者の反論が非常に綺麗でしたね。
空気読むんですよね、子供が。
そうそうそう、空気読む。
こうしたいろんな反証とかからわかるのは、
これって段階的に発達しているんじゃなくて、
子供って実は揺らぎながら発達してるんじゃないのっていう、
いろんな答えっていうものを、
Aっていう答えを答えてみたりとか、
Bっていう答えを言ってみたり、
Cっていう答えを言ってみるみたいな、
いろんなそれこそここでは認知リソースって、
複数の認知リソースっていうのをいろんなものに当てはめてみて、
どれが一番いいんだろうっていうことを試してるんじゃないのと。
で、このことを揺らぎというふうな言葉で筆者は言っていて、
この揺らぎがあると人っていうのは発達したりとか成長したりとか、
次の章でいうひらめきにつながるんじゃないかっていう話が書かれているのが第4章。
いい話ですね、ここは。
で、次第5章、ひらめくっていう章なんですが、
一番面白いポイントというか、
ひらめきって我々経験したことあると思うんですけど、
これをちゃんと考えていくと、
そもそもまず何が必要かっていうと、
筆者は制限を取り払うことがまず必要でしょうと。
で、そのためには何が必要ですかっていうと失敗なんですよね。
だからいろんなものにトライして、
たくさんトライした結果失敗していって、
これはダメだ、これはダメだっていうのが分かっていって、
最終的にできるようになるというか、ひらめくようになるっていうのが書かれていることです。
だから効率的にはひらめけないってことですね。
結論から言うと、多様性が高くないと結局失敗に終わるっていうようなことが書かれていて、
リソースっていう言葉を使うと、いろんなリソースを当てはめてみる。
さっき言った子どもみたいに、
学びと挑戦
これはどうかな、これはどうかなっていうことをたくさん当てはめない限り、
ひらめきっていうのは訪れないんだよという話が書かれています。
なんか実験でもですね、たくさんトライするっていうものと、
トライした後に自分の今の行動がどうだったか評価するみたいな、
これってどっちが重要なんだろうっていうような実験のことが書かれていたんですけど、
結果としてはやっぱり何回もトライする方が影響はあるよと。
だからなんか振り返るのもレビューするのも大事だけど、
結局ちゃんといっぱいたくさんやってみろっていうのが書かれているなというふうに私は読みました。
なかなか深いですね。PDCAじゃなくてDDDDなわけなんですよね。
いやいや、振り返りは必要だと思う。
あ、違う、どこかに。
どこかに振り返り。
DAか。
うん、だから、
DoDoDoレビューぐらいの、DoDoDoRぐらいの頻度でやって、
やっぱり振り返りがないと学習速度って落ちると思うよ、きっと。
そうなんですよね。
そうなんだけれど、たくさんやった上での振り返りが大事だよって感じですね、メッセージとして。
失敗が必要っていうの面白い話があるんですけど、
芸術系の学校で課題を出したと、
あなたが思うとびっくり良いアイデアを1個考えてくださないっていう出題と、
100個考えてくださいっていう出題した場合、
圧倒的に100個の方が良いアイデアが生まれたらしいんですね。
やっぱり1個って無理なんですよ、人間出すのって。
だからその多様性とか失敗を許容するっていうのと同じ話だと思うんですけど、
一番最初からたった一つのってやり方をするのはあまり良くなくて、
いろいろ試して勝ち抜き選手権でやるのが一番いい。
だから生物の自然淘汰と一緒ですね、要するに。
深いですね、ビジネス賞に対する深い洞察が含まれる感じというか。
ということがあって、効率的にとか最初から答えというのは、
一番経験を薄めてしまうやり方なんだろうなという気はします。
ひらめきの賞ですごい面白いもう1個のポイントが、
ひらめきって急に来るわけですよね。
けどこれって別に急に来てるわけじゃないんだよ。
急に来てると人間が勝手に感じてるだけで、
意識がボンクラだから生じてる、ただの錯覚なんだよっていう。
ことが言われるのがもう1個面白い話ですね。
個人的に思うのは、こういうのってシナプスが繋がったっていうような感覚を立ちコモがするんですけど。
おそらくその一番ひらめく最後の瞬間に、
無意識の濃度と意識の濃度の最後のリンクが繋がる気がするんですね。
で、ひらめいたっていう感覚になるっていう。
その説明自体は一緒なんですけど、
ひらめくってのはその最後の線が繋がって、
僕らに分かるようになったっていう感じかな。
スランプの解決
ボンクラはボンクラで確かに間違いはないんですけど。
というかボンクラでないと困る。
意識が無意識を全部管理してたら厄介なことになりますからね。
たぶん俺たちはほとんどが無意識なんですよねきっと。
間違いなく。
なんかもう感覚としては99%ぐらいが無意識なんじゃないか。
もっとなのかもしれないぐらいなのかな。
だから後は思いついたひらめきを取り逃さないように書き留めようっていうのを別のノウハウとしては言えそうですけども。
なんか逆に言うと無意識がめっちゃいっぱいやってるから、
そのうちまた思いつくんじゃないかみたいにも思ったんですけどね。
今の話をしていて。
自然淘汰説を使ったらその方がより良いアイデア出ますけど、
より時間がかかるわけですよね。
そこに時間のロスもあるかもしれない。
僕らの社会では締め切りという概念が支えられてて。
それが足切りとなって、この辺でやめておこうみたいな制限が生まれてくることがある。
実社会との制約とその発想の創造性をどこでトレードオフを見つけるかっていうのが、
多分この知的生産の難しいところではあると思います。
このひらめきが生じる現象自体をちゃんと説明してくれていて、
第3章でさっき説明したスランプの話なんですが、
重複アプローチというふうにこの本では書かれていたんですけど、
頭の中でグラフのイメージできるかちょっと分からないですけど、
横軸が時間だとして、縦軸が上達度みたいな感じにしましょう。
そうすると最初練習していくと急激に上手くなるから上がっていきますよね。
だけれど停滞するので一回ちょっと上がったけれど平行になると。
その後ちょっと一回後退してしまう。下手になってしまうので上達度が一回下がりますよね。
それがあってブレイクするっていうのがあると急激にガンと上がるわけです。
っていうずっとイメージつくと思うんですけど、
この時に実際何が起こっているかというと、
いろんなリソースを当てはめていて、
リソースAっていうのを最初当てはめたんだけれど、
これはダメなんだっていうのでリソースBを当てはめるわけです。
そうするとリソースAの上達度っていうのを捨てるわけですよね。
最初リソースAを当てはめてたから急激に上手くなるんですよ。
だけどリソースAだけではなかなか上手くいかなくなってしまう。
じゃあどうするかっていうと違うリソースBを当てはめるんだと。
なんだけれどリソースBは最初は上手く使えないのであんまり有効じゃないわけですよね。
そうすると一旦下手になってしまうっていうのが、
このスランプの時に起こる後退なんだと、
リグレッションなんだっていうのが個人的にしっくりきたんです。
ちょっとあんまりうまく説明できた感じはしないんですけど、
そこのスランプのところの説明が個人的にすごい納得いったので、
自分が作業とかしててもここちょっとうまくいかないなと思う時でも、
これって今は試しているだけだから、
この後ブレイクスルー生まれるかもしれないって結構思えるようにちょっとなったので、
第5章良いところだったかなと思います。
教育の問題点
ここのスランプは非常に面白くて、リソースの切り替えが裏で行われているから、
その切り替えのタイミングで停滞とかあるいは後退が起こるという話で、
これ多分意識的に僕使えるなと思ってて、つまりあるアイデア発想とかで、
ある方法論で考えている時に、その方法論で行き詰まったら、
発想法そのものを切り替えるとか、観点回想を上に上がったりとか下に下がったりするっていう風にして、
アプローチ、つまりここでいうとリソースを変える。
正直なところで言うと例えば縦書きの文章を横書きにして読み返すだけでも、
そのリソースって変わってくるんですよね。
そういう変化を与えることで意識的に脱スランプ化っていうのができるんじゃないかなとちょっと読んでて思いました。
書く場合でも意識して、その場合もやっぱり手を動かさないとおそらくダメなんだろうなっていう感覚はあって、
書けないって言って困るんだったら、とりあえず何か書いてみろよっていうフリーライティングの素晴らしさは、
この文脈でも説明できるかなっていう感じがして。
確かに。たくさんは詰まったら状態と形態を逆にするとかって言われますね。
またそれ面白いですね。
だからそれも目に入る情報がつまりリソースが変わってきて、文章の流れがそこから変わってくることがあるっていう。
だからその行き詰まった時って、そのやり方をもっと続けるというよりは、
パターンとかリソースを変えるっていう思考法を持つと良いのではないかなっていう考え方に応用できそうでした。
この本全体なんですけど、こういうことが起こっているっていうのを理解するだけで自分のアプローチが変えられるというか、
実際学び自体が無意識で起こるんだけれど、アプローチ自体はこっちが意識的に変えて、
あとはもう無意識に頑張ってもらえば、ブレイクスルー起こるのかもなっていうので、
すごい気が楽になったところが個人的にはあります。
最後第6章です。教育をどう考えるかという話で、
結構、しっかりと今の教育について批判しているのが基本的にこの筆者のスタンスなんですけど、
人っていうのは素朴理論って言って、教わらずに獲得した知識を自分の中で体系化していって持っているわけですよね。
教育とか学びについては義務教育があるぐらいなんで、
全員がこの素朴理論を守っていると思っていいと思います。
自分なりの体系というものがあると。
その中でもよくある素朴理論としては、
何か問題、世の中の物事っていうのは、
問題がそもそもあって、それに対する正解があって、正解を知っている人がいるんでしょうっていうのが、
学校教育の中で培われてしまうとか、
あとは最初は基礎を学んでそれを応用していきましょうっていう話とか、
あとはそれこそ筆記テストみたいな感じで、
全て頭の中に知識があるんですよねっていう素朴理論だったりとか、
ちゃんと教えてあげればその人はできるようになるでしょう、
教えればできるというような素朴理論が人にはあるけれど、
それってあんまりうまくいかないんじゃないのっていうのが筆者のスタンスです。
特にスモールステップ式っていうものへの批判というか、
今って多分文部科学省とかが、小学校何年生までにはこれを教えなさいとか、
中学校までにはこれができるように教えなさいとか、
この時までにはこれができるようにしなさいっていう、
すごい管理をしていこうっていう方向にどんどんどんどんいってるはずなんですね。
その背景には一つ一つやっていけばそのうちできるようになるでしょうって積み重ねていって、
これができたら次のステップっていうふうにちょっとずつやっていこうっていう話があると思うんですけど、
筆者はこれを批判するわけです。
言葉として言うと、部分にばかり目を向けると全体が見えなくなるっていうような言葉で言えると思うんですけど、
これ近接校とか遠隔校っていう話が出てくるんですけど、これもちょっと説明が難しいですね。
これなんだろうな、要するにスモールステップ式っていうのは近く、
一番自分ができる身近なことから始めましょうっていうことなんですけど、
その時って近くばっかり見てしまって最終的にどうなるのというか、
全体のことが見えていないわけですね。
その学び方は良くないよねっていうのが言われていることです。
これあれですよね。近くしか見ない。近接校っていうとさっきの話で言ったんですけど、
全部意識の問題やって話すんですね。無意識じゃなくて。
全部意識が意識が何とかしたら何とかしてくれるっていうのが僕らの意識にとっての近接校。
だって僕らの意識にとって意識が一番近いわけですから。
無意識は遠隔校でしかもその内部メカニズムは見えてないわけですね。
でも本書が言うと無意識のメカニズムは学習に関わっているし、知識の創造に関わっていると。
ということは意識ばっかり見てても何も見えてないっていうのが、
多分本書の文脈での2つの対応やなっていう気がします。
ここのあたりの話って、最近私読んだ、読んだり、
ブックカタリスト読書会で紹介した難しい本を読むためにはとか、
あとは倉田さんとたくさん書かれているリビジョンとかで出てくる言葉の言ったり来たりの重要性っていうのを、
この筆者は別のまた文脈でというか、別の言葉で説明しているのかなというふうに私は読みました。
この場合の言ったり来たりはどことどこを言ったり来たりするんでしょうか。
本書で言うと近い話、スモールステップでもいいんですけど、
そこのスモールを見た後には結局じゃあ何のためにこれ学んでいるのかっていうふうに
いったん言ってみるということが大事だと思いますし、そうですね。
スモールステップ式は当然弊害があるとは思いつつも、
でも簡単なところから学んでいきましょうということそのものはおかしくないような気がするんですけど、
どうですかね、たぶんプログラミングを覚えるときに、
例えば最初は変数を覚えてとか、規則計算を覚えてっていう段階を踏むことって、
なんか悪いことではないような気がするんですけどね。
むずいっすね、変数を覚えるはつまんないですからね、第一歩としては。
それよりは計算機プログラミングをしてみましょうという実践からいきなり入って、
一般的な教育と実践的な知識
そのために必要な知識を随時学んでいくほうがいいんかな、やっぱり。
両方重要じゃないかと思って、個人的にはこの筆者は、
片方に逆側、一般的な教育が進める方向と逆側に偏りすぎているような印象が受けました。
だから行ったり来たりの話でいうと、
その個別の知識と実際にプログラミングを変えてみることを行ったり来たりしたほうがいいってことだよね、要するに。
それは確かにその通りかな、きっとその通りだろうね。
学校でプログラミングを学ぶと、大学とかなんですけれども、構造的な話から思いっきり入ってつまんないんですよ。
まずイントとダブルがありまして、配列というものがありまして、っていう話から入るんですよね。
多分それを批判したい、どっちなんだろうな。
それは身体化された知識にはならないでしょうね、そんなものを断片的に教えられたとしても。
とはいえコンピューターサイエンスを本気でやるなら当然重要だし、体系的に知っておくべきことではあるので、
それをどこで、どの段階、いつ学ぶのか。
最初にやる場合はやっぱりやる気なくなると思うんですよね。
イントとかを教えたとしても、分かるとは限らないと理解しよく必要があるってことか。
分かるのは、例えば実際にプログラムをしてみて、割り算をしたのに答えが全然違う。
これイントだからダメじゃんっていう。
あの時説明されてたのは、こういうことやったん家的理解で始めて身体化された知識になるということで。
だからやっぱり両方、基礎的な知識を段階的に学ぶのと、いきなり現場に飛び込むっていうことの両方を交互に繰り返していくっていう。
特に日本人ってプログラミング言語の本を一冊読み切ってから書き始めるみたいな人が多分多いと思うんですけど、
全然学べてませんからね、基本的に。
むしろ一回書いた後に本読んだほうがいいんですね。
教科書は3回ぐらい読む前提で、一回は軽く流してみてもいいかもしれないし、いきなり手を動かしてもいいかもしれないしっていう、そういうことなのかなっていう。
そうの方が実際にいわゆる使える知識っていうものが形成されやすいのは実感としてはあって。
だからその行ったり来たりの感覚っていうのは確かに。
全体像を捕まえるってどういうことかっていうと、難しい本の話でも一緒なんですけど、
全体像を捕まえるっていうのは細部と全体を両方捉えるってことなんですね。
それはやっぱり行ったり来たりでないと手に入らない。
それは視点を変えるということでもあるし、知識の解像度を変えるということでもあるし、遠近光と近接光を行ったり来たりすることでもあるし、
そのような視点の動きで知識が立体的になっていくと言うんかな。
全体像を捉える
そこはちょっと表現が難しいですけど。
それで初めて捉えられる全体が。
だから全体を抽象的にはい、これ全体ですって言われても、結局その中身空っぽなわけじゃないですか。
これは意味がないわけで。
だから中身と全体を両方捉えていくアプローチっていうのが有用なんでしょう、きっと。
側だけ真似してもあんまり意味がないですよねっていうのが筆者のまず主張というか。
全体があった中で、全体でこれとこれのこの要素が必要だから、それをまず最初にファーストステップで学んでいきましょうみたいな考え方だと
うまくいかないんじゃないのっていうのが多分筆者がまず言ってることかなと思います。
で、スモールステップ大事だよねって話は筆者も多分最初はそれでいいんじゃないかってことを言っていて、
後々自ら問いをとか問いを生み出したりとか目標を自分の中で作っていくしかないよねっていう。
これはもう個人的な話ですけど、私クラッシャーさんとかゴリゴさんのブログとかを見て、
それこそエバーノート導入してみたりとかワークフローイ導入してみたりとかして、
真似して失敗することの重要性
うまくいかないみたいな経験いっぱいしてきたわけなんですけど、
あれって本当になんかお二方がやってる話の真似だけして、近接講だけ真似してうまくいってなかったのかなと。
で、最近ちょっとうまくいき始めたのはそうじゃなくて、私って結局何したいのとか、
全体これを使って何をやりたいのっていうのがちょっとずつ見えてきたから、
うまくいき始めたのかななんてことを読みながらちょっとまあ偉そうにですね、思いました。
だからその使えなかった状況から今比較的使える状況になってるっていうのは、
いわゆるさっき言った低待機のリソースの切り替えが多分行われてて、
今は多分いい感じに進んでいて、またおそらくどっかでちょっと違う機に入ってまた変化するっていう。
おだしょー リクエストが訪れる。
大平 そう思いますよ。だから絶対に誰かの方法を真似したらうまくいくはずがないんですよ。
だってリソースが合ってないから。
でもそこからしか始まらないんじゃないですかね。
だから失敗からしか始まらないっていうことだと思いますけど。
おだしょー 面白いですよね。結局だから真似してうまくいかないことがいいことだと言っていいんですよね。
大平 だから多くの僕らの問題はそれをゴールだと思ってしまうことだよね。
その最初の失敗を。じゃあ実はそこはスタートなんですね。
うまくいかなかった、じゃあどうしようというところに視点が切り替わるかどうかってところですね。
そういうことに対してさっきのうまくいかない状況とか停滞期に新しい視点を本書は与えてくれると思います。
結構希望の書であるんですね、この本は。
おだしょー 面白かったですね、これはね。自分に応用できることとしてもたくさんいっぱい書いてあったし、
知らなかったこともいっぱい書いてあって、もっと幅広い無意識レベルでの役に立つこともいっぱいあったし、
意識の上での役に立つこともいっぱいあったって感じか。
おびんに勉強する前に知っておいて損はないって書いてあるんですけど、その通りだと思いますよ、これは。
何かを学ぶ前に学びとは何かっていうことを知っておくのってすごい重要だと思います。
しかもこのこれ系のLearn Betterとかもそうだったと思うんですけど、いい本がいっぱいありますからね、最近で言うと。
Learn Betterはやっぱりちょっと分厚いじゃないですか。それに比べるとこの本めっちゃ薄いし、ちょっと難しい内容もあるけど、
文章自体は読みやすいんで。
簡単さで言えば圧倒的にLearn Betterだと思いますよ。こいつは結構難しいと思う。
いやでもやっぱそこを遠回りしたらダメなんじゃないですか。難しくて、こういうことがあるんだと触れておく方が、なんか僕はいい気がします。
だからある種こっちの方が全体像を示す本かなっていう感じがする。
そうか、俺例えばなんですけど、昔の自分とかだと、まず例えばちくまプリマーということで、若者向けの簡単な本なんでしょって舐めてかかって、
なるほど。
雑に読んでしまって、分からんのに分かったつもりになってしまうということをやりそうなんですよね。
つまりプリマー新書っていうのが一つのリソースになってしまうんですね。
それはネガティブなリソースなんですよね。
ネガティブなリソースで使われてしまうということですね、確かに。それはあるか。
それは難しい。どういうレベルで出すかっていうのも印象に影響を与えてしまいますからね。
でも自分の感想でちくまプリマーは、読んだ本どれもめっちゃ面白いんだけど、どれもすげー難しいんですよね。
そうそう、ちょっと難しい。やっぱ背伸びして読む本っていう感じはする。
だから全体的に面白い本でした。適正さとしても面白いし、認知覚の本としても面白い本でしたね。
ではBook Catalystは番組を支援していただけるサポーターも募集しておりますので、気になる方は概要欄なども見てみてください。
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございました。
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