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今回は、マーク・クーケルバーク の『自己啓発の罠:AIに心を支配されないために』を取り上げました。

日本の危ない「自己啓発セミナー」についてではなく、もっと"健全"な自己発展が持つ危険性について論じた一冊です。

書誌情報

* 著者:マーク・クーケルバーク

* ウィーン大学哲学部メディア・技術哲学分野教授。バーミンガム大学博士。イギリス・デモンフォート大学コンピューターと社会的責任研究センター非常勤教授も兼務。1975年ベルギー生れ。国際技術哲学会会長、ヨーロッパ委員会の人工知能に関する高度専門家会議委員なども歴任。AIやロボットに関する倫理学、哲学の第一人者

* 邦訳されている他の著作

* 『AIの倫理学』

* 翻訳者:田畑暁生

* 『ブラックボックス化する社会──金融と情報を支配する隠されたアルゴリズム』

* 『監視文化の誕生 社会に監視される時代から、ひとびとが進んで監視する時代へ』

* 出版社:青土社

* 出版日:2022/10/26

* 目次:

* 1. 現象

* 自己啓発の強制

* 2. 歴史

* 自己知や完全性を求めた古代の哲学者、聖職者、人文主義者

* 3. 社会

* 近代の自己執着 ルソーからヒップスター実存主義まで

* 4. 政治経済

* ウィルネス資本主義の下での自己馴致と搾取

* 5. テクノロジー

* カテゴリー化、測定、数値化、強化、もしくは、なぜAIは私たちについて私たち自身より知っているのか

* 6. 解決策(第一部)

* 関係性自己と社会変化

* 7. 解決策(第二部)

* 私たちについて異なった物語を語るテクノロジー

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◇ブックカタリストBC051用のメモ - 倉下忠憲の発想工房

概要

原題は『Self-Improvement: Technologies of the Soul in the Age of Artificial Intelligence』。直訳すれば「自己改善:人工知能時代における魂のテクノロジー」。著者の専門を考えると、AIと私たちの関係が論じられるのだろうと予想されるが、実際は西洋思想をさかのぼり、そこにある「自己啓発」的な要素を現代までの射程で捉え、しかしそこにある差異を取り出そうとする試みが展開されていく。

まずタイトルから。「Self-Improvement」は、「自己改善」が日本語としてはふさわしいだろう。邦訳の「自己啓発」とは少しニュアンスが違う。自己啓発は、「人間として高い段階に至ろうとする試み」であり、そこには明白に「何が高い段階であるか」という審級が内在化されている。自己啓発は、英語では「Self-Enlightenment」であり、enlightは啓発を意味しつつ、それはlightの語感の通りに「照らす」という含意がある。無知蒙昧な闇に置かれた状態(プラトンの洞窟のメタファー)に、光を照らして真理へと至る。そういったニュアンスにおいては、真理=何が正しいのか、という絶対的な基準が先駆的に存在している。

それに対して、「Self-Improvement」≒自己改善には、そのような絶対的な規範はない。改善は、今ある悪いところを少し直す、くらいのニュアンスである。何か絶対的に正しいものに向かっていく行為ではないわけだ。しかしながら、それが「(今の状態よりも)より良くする」というスタンスで行われる限り、自己啓発が持つ問題と同じ構造が立ち現れる。

その意味で、本書において「自己啓発」と呼ばれているものは、感覚的に「自己改善」と呼びうるようなごく些細なものも含まれていると考えてよい。アプリを使って精神を整え、ストレスの多い職場に立ち向かうといった行為ですらも本書がまなざしを注ぐ「自己啓発」であるわけだ。

もう一点タイトルに関して、原題は「罠」に相当する言葉はない。一方で内容を読めば、本書に"自己啓発"への批判が込められていることは間違いない。ここは難しいところだ。本書は全体的に「自己啓発」という営みそのものを断絶させようとはしていない。新しい形の「自己啓発」のスタイルを模索し、そこにこれまでとは別の仕方でAI≒テクノロジーとの関係性を紡いでいけないかと検討している。そのような大局的な視点だからこそ、著者は「Self-Improvement」とつけたのだろう。

一方で、仮に日本語のタイトルで「自己啓発」という本が出たら、上記のような内容だとはとても思われないだろう。よって、フックとして「自己啓発の罠」という邦訳の選択は絶妙だと言える。ただし著者の主張を汲まずにタイトルだけからこの本が自己啓発を抹消しようとしている本だと理解しない方がよい。その点は注意が必要だろう。

さて、長くなってしまったが、本書そのものはあまり長くない。この手の本にしては珍しくソフトカバーだし、150ページ前後の内容である。思想や哲学を扱っているが晦渋な文章は出てこない。いくつかの予備知識がないとわかりにくい箇所はあるだろうが、それでも著者の主張ははっきり汲み取れる。簡単にそれをまとめれば以下のようになる。

古代ギリシャの時代からヘレニズム思想的なものには全般的に「個人とその内面」に注力する傾向があった。その傾向は近代化と共に強まり、個人主義の跋扈とテクノロジーの強力化と共に「自己啓発ビジネス」へと発展した。かつては人文主義者は「印刷された本」というテクノロジーを使い、人々を啓蒙しようと(あるいは、啓蒙を目指す人々の数を増やそうと)してきたが、現代のインターネットテクノロジーはそうした人文主義的なものと基本的なマインドセットの点で違っている。それは自己を知り、自己を愛するというあり方ではなく、「他人にとっての自分や、他人からどう見られるか」に強い関心が注がれている。それはますます利己的な自己を強めるばかりである。そのような"自己啓発"は現代のテクノロジーの力を借り、さらに強まっている。そこでは、私たち以上に私たちのことを知るAIが登場する。言い換えれば、私たちはもうそれ以上自分について知る必要がない。すべてAIが設定し、なすべきことと決めたアプローチに沿って"改善"を進めていけばいい。これは古代ギリシャ時代に掲げられた「汝自身を知れ」とはまったく異なる(むしろ逆の)アプローチである。私たちは、AIの檻に入りながら、自分のことを何も知らないままに万能感と物足りなさという両極する要素を抱えたまま生きていくことになる。はたしてその未来は、私たちが望む未来なのであろうか。

上記のような視点において、著者は問題提起している。

自己を扱う「テクノロジー」についてはフーコーが、対抗文化が文化に飲み込まれていくのは『反逆の神話』が、AIに完全に依託した人間がどうなるのかは『PSYCHO-PASS』シリーズが、自分が扱う自分の記録については拙著『すべてはノートからはじまる あなたの人生をひらく記録術』がそれぞれ参考になるだろう。日本における自己啓発受容については、牧野智和の『日常に侵入する自己啓発』や大澤絢子の『「修養」の日本近代』が面白い。

というように、短い本でありながらも、さまざまな事柄に枝葉が伸びる内容になっている。「自分を高めていくこと」を正しいこと、まっとうなことだと信じて疑わない人ほど、本書はささるのではないだろうか。



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サマリー

この本は『自己啓発の罠:AIに心を支配されないために』というタイトルで、自己啓発の歴史と現代の社会での位置づけ、問題点、解決策について述べられています。政治に無関心になるという問題がある一方で、自己啓発書は投票に行かなくてもよいとは言っていません。個人主義が問題を個人の責任として押し付けている現状や、個人主義と自己啓発の関係について指摘しています。また、現代の個人主義が追求可能な環境であり、資本主義が自己啓発を取り込んでいることも問題視されています。本書は、テクノロジーの進化とその影響について考えることを提案しています。本書では、「テクノロジーと自己啓発は何か違うのではないか」「自己啓発がテクノロジーの一環と言えるのか」という問題を提起し、その後、3つの章に分けて考察されています。著者は、自己啓発や自己改善をやめろとは言っていません。同様に、テクノロジーを使うなとも言っていません。本書は、自己啓発やテクノロジーをより適切に使用するために、人々の考え方や態度を変える必要があると主張しています。また、テクノロジー側が自己啓発の方向性や枠組みを決めることがあるため、テクノロジー側も変わっていく必要があると述べています。

自己啓発の歴史と現代の問題
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第51回の本日は、自己啓発の罠について語ります。
はい、よろしくお願いします。
はい、お願いします。
今回は暮らしたのだなんということで、本を最初に1冊紹介しますが、たぶんちょっとエラー派的にいろんな本の話が出てくるんじゃないかなと思います。
カメラが映っているので、カメラ用に一応画像を出しておきますけども。
自己啓発の罠というタイトルで、サブタイトルがAIに心を支配されないためにという副題です。
著者がマーク・クーケルバーグさんという方で、ウィーン大学の教授でメディア・テクノロジー・哲学を研究されていると。
哲学なんですね。
そうですね、哲学者さんですね。
翻訳が田畑さんという方で、出版社が精度社さん。
ユリイカとか、現代思想っていう雑誌を出している、超後派ですね。
思想とか哲学的な著作が多い出版社から出てる、自己啓発の罠って書いてますけど、日本で見かける自己啓発にはまったら大変とかいう本ではないです。
ではない。
それは読み解きながら見ていくんですけども、スタートとしてゴルゴさんの中での自己啓発っていう言葉の印象というか、
例えば中身がどんなもんであるとか、それにどんなネガティブ・ポジティブな感覚を持っているっていうのってどんな感じですかね。
今やビジネス書というジャンルによって大量生産、大量消費されるようになってしまって、ちょっと本質を見失って残念になっているものっていう印象です。
ちょっと残念になっているってことは、そのバージョンになる前は残念ではなかった印象があったんですかね。
自己、自分自身が変わっているというものがすげーあると思うんですよ。
例えば15年前ぐらいとかは、今自分がちょっと残念だなって感じているのと同じようなビジネス書を喜んで読んでいたような印象はあります。
自分の好みが変転していったけど、それらの本は相変わらず同じものを出し続けている。
対象読者が例えば20代前半とかって言うんだったら、間違っていないという言い方は変なんだけど、その通りだなとは思うけど、やっぱり今の自分から見るとちょっと残念とは思う。
ビジネス書で書かれていることっていうのは、いろいろな技能を身につけようとか、自己を高めていこうとかっていうことで、
日本の自己啓発っていう言葉が、どうしても自己啓発セミナーっていうものがあるおかげで、一瞬でその中身が怪しいものと捉えがちなんですけど、
そのビジネス書で書かれていることと、自己啓発セミナーでやられていることっていうのはちょっと違うわけですよね。
ビジネス書とかっていうのは、もっとノウハウより実践的な話で、自分の能力とか技術を高めていこうという話になっていて、
ちょっと違うんですね。本書のこの現代が、セルフインプロブメントなんですね。
改善なんですね。自己改善。
僕、日本語でいう自己啓発はどっちかっていうと、セルフエンライトメントっていう言葉で、微妙に違う。
エンライトっていう言葉は、ライトって光が、光っていう言葉がありますけど、むちもまいな状態があると。
それは非常に真っ暗な状態であると。そこに啓蒙っていう光を差し込んで明るくしていこうっていう意味合いで、
光が正しいものであると。暗闇むちもまいは悪い状態であると。
悪い状態から良い状態に行こうっていう、ある種の価値判断が入ってるんですね。
こっちが正しい、こっちが正しくないっていう価値判断が入っていると。
で、セルフインプロ、自己改善の方は、そこまで道徳的な意味付け、価値付けは特にはない。
だからどっちかっていうと、フラットというか、エンジニア的な感じかな。
言葉のレイヤーで言うと、善悪というよりは少し良くなるみたいな感じ。
大平 割とあれですね、ライフハックとかはそこにニュアンスが近い。
寺田 僕らがよく触れている情報は、おそらくその自己改善の方なんで、
本書のこの自己啓発って書かれているものは、大体自己改善と読めば、おおむねニュアンスは合っていると思います。
大平 そしてそれを踏まえると、ライフハックの罠っていうことなんですね。
寺田 ということで、そう読み換えてもいいと思います。
本書は、啓発足す自己改善がどのようなものであり、どんな流れを汲んできたのかっていうのをたどって、
現代の社会でどう位置づけられているか、どんな問題を持っているかっていうところが、
序盤の10分の8ぐらいで、後半の10分の2ぐらいで、じゃあどうしたらいいのかっていうのが語られる流れになっております。
歴史の流れと西洋思想
寺田 一応簡単に目次だけ言うと、まず1が現象、今起こっていること。
大体これがこの本の概要をまとめた本、章なんで、ここを読めば大体わかります。
続く2章から5章までが、その1で語られたことをより深めていくという流れ。
最後の6、7が、そうした問題に対する解決策と。
現象の次が、歴史、社会、政治経済、テクノロジーという、2、3、4、5章になっています。
寺田 歴史の観点から自己啓発がどんなものだったのか、社会の中で自己啓発がどう位置づけられているのか、
同じような感じなんですかね、政治経済の中でどう使われたか、テクノロジーもその中で。
その中で、現状の自己啓発というのがどういう流れを組んで、今ここに至って、どんな関係性の中にあるのかというのを解き明かしていこう。
そこには、著者は問題があると考えているので、その問題をどのように変えていけるのかというところが、最後の章でまとめられていると。
ここの本で、結構短い本で、150ページほどなんですけど、
僕が持っている問題意識とかなり通じるところがあったので、今回取り上げたんですけども。
まず、自己啓発の方、エンライトメントの方が抱える問題というのは、僕はずっと考えてまして、
闇の自己啓発という本の時でもちょっとだけ言ったんですけど、これが正しいという方に示されたとして、
それを正しさに従えない人は常に闇にいるしかなくなってしまうと。
だから、ある種の父親権威主義。
父親権威主義、パターナリズム。
ある種のパターナリズムがどうしても働いてしまうというところに問題が感じていたんですけど、
本社はそれを射程広げて、その自己改善の方にも問題があるんじゃないかなと。
僕は、これが正しいからこっちに行きましょうというのは良くなくて、
ライフハック的な自分で自分を少しずつ改善していきましょうというのは、むしろ良いことだと思ってたんですけど、
本社はそこにも問題があるとメスを入れているという本ですね。
まず、歴史からいきますけども、歴史って言っても非常に限定的なんですけど、西洋史、西洋のところに思想史なんですけど、
とりあえず、古代ギリシャのあの3人いますよね。
プラトンとソクラテスとアリストテロスと。
彼らが人間に対して言ってたこと、例えば、基本的なプラトンが書いてるんですけども、
何事自身を知れというようなことを申してあると。
何事自身を知れっていうことは、つまり自分の無知を知れと。
自分自身のどれだけ知らないかを知ることが、より良き知恵の道のりになるということをプラトン&ソクラテスは述べたと。
無知の知いとか、最近は何か言い方が変わったよっていう、その辺のやつですね。
で、その後に続くアリストテロスも、彼も倫理学を説いてまして、ニコマックス倫理学というのを書いてますけども、
人がどう生きるのか。どう生きるのが良い性なのか。
良いっていうのはどっちかっていうと、グッドよりは善の方ですね。
社会の中での自己位置づけと問題
良い性なのかっていうことを説いたと。
で、その後に続くソクラテス学というのもあるんですけど、
ソクラテス学が一番わかりやすいというか、現在にも残っているんですけど、
ソクラテス学に触れたことってありますか?
確か、結局ほとんど何も知らないままで、名前はちょいちょい聞くようにはなったんですけども、
多分何か全然わかってないですね。
一応簡単に言うと、一人の人間が自分の外側にあるものに煩わされるのは良くないと。
自分の内側に目を向けなさいと。
自分の外側、つまり自分のコントロール外にあることに心を乱されてはいけない。
むしろ自分がコントロールできることに意識を、注意を向けなさいと述べているのが大まかなソクラテス学です。
思い出しました。超入門みたいなやつで、そのぐらいの触りは読んだ気がする。
この話を聞くともう自己啓発が好きな人はピンとくると思うんですけど、
これ7つの習慣という本にまさに出ている話なんですね。
関心の和、影響の和という話がありまして、
要するに自分がどうにもできないことじゃなくて、自分がどうにかできること。
それは自分自身の内面やから、そこをどうにかしなさいと。
つまり他人を変えることはできないけども、自分を変えることはできるんだから、自分を変えましょうっていうソクラテス学の考え方は、
現代の自己啓発にも流れ着いていると。
一番土台になっているぐらいの印象ですね。その話が。
で、著者はその後の西洋の思想っていうのを大体見ていくんですけど、
その考え方、外じゃなくて内へっていうのが、だいたいヘルミズム思想には脈付いていると。
それが現代にもつながっているっていうのが歴史の流れとしてあります。
だいたい古代ギリシャでの流れというものがずっとそのまま残っているんですよね、その辺の。
途中でジャック・ルソーという人が出てきまして、彼も同じ流れにいるんですけど、彼はより自分に注目したと。
ここが僕ら現代的には分かりにくいんですけど、
ルソーよりも前の人たち、ある種の思想家たちはすべて個人、自分の内面を大切にしようと言いつつも、
彼らの世界観の中には大いなる神というのがいたわけですね。
大いなる神の中にいる自分っていう、その2つの構図の中のその自分について注意を向けようっていう話なんですけど、
もうルソーになると神の対局みたいなのが消えちゃって、ともかく自分やと。
個人主義が少し強まってくる、ルソーあたりから。
ルソーとはその近辺から出版文化というのがより流行って、僕たち一般もそのような読み書きが普通になってきて、
そのようなルソーのような読み書き、自分の文章の中で自分がやったことを告白する。
あるいは本を読んで自分の知能とか技能を高めていくっていうことが一般化してきた。
そしてそのままインターネット文化につながって今に至ると。
この流れは日本と西洋では当たり前というか、その内側に目を向けるっていうメッセージは非常に普遍的に感じられますけど、
それはこの本でも語られていることなんですけど、
でもよくよく考えたら、たとえば最近その不秘暮らしの人類学って本を読んだんですけど、
多分そんな思想を辿ってきてない国がたくさんあるんだろうなというのはちょっと思ったんですね。
自分を良くしようみたいな概念が根本的にないという感じがしますね。
古代ギリシャから現代まで外じゃなくて自分で自分を少しずつ良いものにしていこうっていうある種普遍的な感じが、
でも実際はある局地的な地域的な思想でしかないんだろうな。
これはその本に書かれてるわけじゃないですけど、その対比して読むとだいぶ西洋に偏った考え方なんだろうなと。
西洋の特色であり受け継がれてきた思想なんだろうなというのはちょっと思いました。
最近いろんな本に出てくるんですけど、西洋が日本にいると当たり前に輸入されすぎてしまって、
世界は西洋しかないみたいに感じやすくなってしまうけれども、
文化というか経済の発展度で言ったら確かに西洋はすごく中心的なんだけど、
人口で言ってもその面積で言ってもあんま中心とは言えないですからね。
だからそこを相対化しないまま私たちは生きてると。
何が相対化されてないかっていうと、自分っていうものの扱いがかなり違うと。
歴史、ルソーまでの歴史を踏まえて次に社会に入るんですけど、
社会、つまり関係、事項、自分をどう位置づけるか、社会の中にどう位置づけるかっていうのが、
自分はどうであるかっていう認識と関わってくると。
個人主義が強まれば強まるほどと言ったら、神が消えたように共同体への関心も消えますよね、当然。
個人主義が強まれば強まるほど神はいなくなって、共同体にも興味がなくなる。
これは当然。
ここでよく次の政治の話とも関係するんですけど、
自分の外側は気にしないでおきましょうと。
自分の問題は自分で解決しましょうってことになるわけですね、この考え方は。
徹底的な自己責任論になると。
そうなると、社会の問題は誰が変えるのかってことになりますよね。
自己責任だから誰もやらなくなる。
個人主義と政治への無関心
個人主義が強まったときに政治への無関心は必然的に高まってしまうと。
ここが政治経済の中の問題として取り上げられてる一番のポイントで、
これは僕もずっと思ってたことなんですよ。
自己啓発書を何冊読んでも、
投票に行きましょうって書いてる本は一冊もないんですよね。
ああ、そっか。
俺を良くしようということは当然考えるけれども、
俺たちをとか俺たちの世界を良くしようは、
自己啓発書には想像する限り存在しないですね。
だから全ての問題は私に執着されてしまうし、
全ての問題の原因も私になってしまう。
ああ、そっか。変えられるものは自分だけだから、
自分しか変えようとしないんだ。
本来そんなものは社会のせいであって、
そこに置かれてる人間はただその被害をこむっているだけっていう問題認識が遠回ってしまっていく。
例えば、追い詰められた個人が社会のせいにするんじゃなくて、
自分が悪いから自殺したりとか鬱病になったりするっていう、
個人の心境が実はその社会的な問題の下にあるはずが見えなくなってしまうということが、
この行き過ぎた個人主義が抱える弊害で、
しかもそれは自己啓発的な、さっき言った議事社からつながっている流れと密接に関わってしまうということを指摘してます。
個人主義の欺瞞
なんかね、めっちゃ無意識でそう思ってしまいそうで、自分も。
いや、あると思う、それは。
自殺した人とかに対して、死ななきゃ何とでもなるってわかってねえのかみたいなことを思うかもしれないし、
なんかそのね、自己責任だとやっぱり簡単に思ってしまいそうですね、確かに。
その方が例えば、自分が変えられることに注力した方が自己肯定感が得られるというようなメッセージがあって、
それは多分そうなんやけど、どうしようもない人っていうのがいるわけじゃないですか、世の中には。
そういう人たちにとってそのメッセージって、ほとんど絶望しか与えないんですね、要するに。
その無敵の人を生み出してしまいますよね。
だからこういう考え方は、少なくとも神がいて、人間は神の前では非常に微小な存在だけども、
自分ができることをしましょうというところは良かったんですね。古代ギリシャの時はある程度は機能してたはずなんですけど、
その大きな枠組みが消えて、個人に注目がどんどん行き、個人がテクノロジーを持って実際に変えられるようになった現代って、
大変危険な状態になっていると。
神がいれば自己啓発にも歯止めは効いていた。
限界がある、どうしても。なぜなら人間は神が作ったものやから、
人間ができるのは神が作った範囲での改良なわけですね、改善。
でも本書でも出てくるんですけど、例えば実存主義の考え方っていうのがありまして、
実存主義って我々は存在しているわけじゃなくと、ある種の自称であると。
自分は自分を作っていかなければならないと。
自分の選択を自分で決めて、自分と人生及び自分を作っていかなければならないというメッセージがあったと。
これも自己啓発に非常にフィットするんですね。
そうですね。ただ生きているだけではダメですもんね、その実存主義的な考え方だと。
ニーチェとかも特徴的なんですけど、自分で何かを成せと。
それがあなたの人生になるというようなメッセージとして解釈されると。
これは思いっきり自己啓発で、さっきの自己責任論と住み着いちゃうんでね。
思想者がどう思ってたかは別として、西洋の思想の哲学の流れは、特にニーチェあたりまでは、
全て個人が問題だと。あなたの人生ではあなたが悪いからその問題が起きてるんだという方向に流れ着いてしまう危険を持っていたと。
それが今までにも繋がっている。この辺が大体社会と政治思想の半分ぐらいまでかな。
政治経済のところではマルクスも多少言及されてるんですけど、
マルクスは労働によって人間が遭害されてしまうという状況を問題視したわけですけど、
著者が言うには、現代はもっとひどいことになっていると。
仕事時間だけじゃなくて、その仕事が終わった余暇時間も私たちは搾取されていると。
印象はありますね、確かに。
仕事が終わるで、例えば空いてる時間に何をするかっていうのが、あらゆる広告情報によって決まってしまうと。
ないしは、ツイッターとかソーシャルゲームをして広告を見せられると。
つまり、タダでやってるけども、僕らは広告を見たりとか、自分の個人情報を企業に売ってるわけですね、見えないお金で。
だから、働いてる時間プラス余暇の時間、遊び時間も搾取されているし、それ以上に空いてる時間をより良い仕事をするために、自己啓発に時間を使うわけですね。
ああ、そっか。俺が夜に本を読んでいるのは間接的にはそういうことですよね。
間接的な、程度は弱いにしろ、結局その仕事と余暇の時間も全ての時間が、市場主義で価値を上げるゲームに参加するためのマインドセットになってしまってると。
で、こことさっきの個人主義の問題で、そういうサイクルが起きてるっていうことは、結局個人の問題じゃなくて、社会とか法律の制度が大きいのにも関わらず、僕らの視点はそこに向いていないというところが大きな問題であると。
この辺が1から4章での流れで、大体僕が持っている関心の意識と重なるところです。
ストーリーでしか理解できないっていうのと繋がるような気がして、社会に個人であればストーリーが簡単に作れるんだけど、社会が悪いはすごくストーリーにしづらいですよね、人間が理解しやすい。
システム思考が必要になってきて、それは人間が不得意と、因果関係がまっすぐ繋がってないものっていうのはちょっと理解しにくいところがありますね。
というか、たぶん因果で理解できるほど簡単じゃないですよね、その社会が悪いという用語は。
その辺を、しかも難しい認知を助ける方向じゃなくて、むしろ認知しやすい方向に誘導していくのが自己啓発的な考え方、ないしは個人主義の危うさ。
本来だからそことは反対の思考を刺激しておくべきことが思想者の役割なはずなんですけども、自己啓発的言説によってそれがきれいに回収されていくと。
そうか、結局本来難しく考えないといけないことをどんどん単純にしてしまっているっていう、なんか最近現代思想入門とかにも出てきたようなところと通じる感じですね。
そうですね。だからそういう取り込みの強さ、兄者とかサルトルすらも自己啓発に取り込まれますし、現代やと東洋的な東洋思想的なもの、マインドフルネスとかもそうですけど。
もう東洋の考え方って、結構禅とか瞑想とかありますよね。あれと自己の関係で言うと、最終的にあれは自己の欲望から解放されることが目的じゃないですか。
割と世界との調和みたいなイメージはあるかも。
で、だから自己啓発の中でのマインドフルネスか瞑想って、よく働くためなんですよね、結局。
より良い働き方をするために瞑想をする。
だから結局自分の欲望ってそこに残ったままなんですね。
自己啓発と資本主義
あー、そっか。その目的は、究極目的は世界との一体化なのに、俺を良くするために瞑想をしてしまう。
だから本末転倒やし、部分的にしか技法とか考え方が取り入れられてないし、部分的やからこそ自己啓発とかのメッセージにきれいにフィットするように加工されてしまってるっていう流れがあって。
これは多分自己啓発そのものというよりは、その裏にある経済学的なもの?経済力学的なもの?
で、結局その自己啓発って何かっていうと、自己啓発商材を買うことなんですね。さっき言った本もそうですし、セミナーに行くこともそうですし、自己啓発的なアプリとかも。
結局、有料じゃなくてサブスクリプトにやったりするわけで、そこに資本主義の後押しがあるわけですね。これをしなさいっていう。
うーん、自己啓発すらも資本主義に飲み込まれてしまっている。
だからこの話は自己啓発の広がりじゃなくて、資本主義が自己啓発というものを取り込んで、その市場を広げてるとおそらく理解した方がいいやろうなと僕は思うんですけど。
じゃあ、例えばニーチェがいた頃とか、サルトルの時代ぐらいまではまだそこまでではやっぱりなかった。
そのどんなメッセージしてもそのほどほどで終わってたはずやけど、現代ではそのほどほどでは済まなくなってきている。
どんどん加速しているその流れが、自己啓発とか個人主義が追求しようと思えば追求できる環境になってるし、その裏ではその追求に対して利益を得る企業たちがたくさんいるというところがおそらくこの問題の一番の原因だろうと。
個人的には考えますね。さっき言った瞑想とかあるいはヨガとかもそうですけど、こういうのってある種精神変異をもたらすので、スピリチュアルの一環だとも言えるんですけど、
これ著者が指摘してる面白いところって、本来そういうのってさっき言った世界の調和とか越境とか、時効を超えるとかっていう考え方なんですけど、そういうのを学べば学ぶほど傲慢になっていく人たちっていうのがいるらしく。
それをスピリチュアルナルシズムって呼んであるんですけど、要するに私は世界の真理を知っていると、あなたたちは知らないでしょと。
だから全然欲が下毒されてなくて、むしろ強まってるっていうことも現代で起こるよね。おそらくそれはSNS的な、全然知らない人とふり合うことがあるからこそ起こるんじゃないかなとは思うんですけど。
そうか。スピリチュアルで心が清らかになるはずなのに、むしろ真逆の方向に行ってしまえている。
だからスピリチュアルという自分のスキルを手に入れたみたいな感じ?これも結局自己啓発の一環なんでね。自己を向上させている。
実際自分がスピリチュアルという言葉に、やっぱそのせいでそういうイメージを持ってしまう気がする。
だから他人とは違う自分を作るためにそういうものに触れて、実際それを持っている私と持っていないあなたたちって違いますよっていう、こういう比較文化っていうのを自己啓発のあらゆる側面に見ることができると。
だから著者はソーシャルインターネットとセレブ文化っていうことを言及してて、セレブ文化って私ってすごいでしょっていう見せびらかしのことですけど、それがSNSによって肥大化したと。
最初に出てきたルソーが非常に良い2つの区分を出してて、自己愛と利己愛っていう2つを出してて。
自分自身を他者と比較することなく愛せる力。自分が大切だと思う力。
例えば、防火に襲われたら身を守りたくなるのは自己愛ですよね。
でも他人と比較することで初めて生まれてくる大切だと思う重要だと思う気持ちは利己愛だと。
この利己愛がこじれるとややこしいことになるよとルソーさんは述べてるわけですけど。
インターネットとセレブ文化っていうのはその利己愛を肥大化させていると。
そうですね。こんな素敵な生活できてる私すごいでしょっていうのを見せびらかしたい。
そこに憧れる気持ちに引っ張られて何かをすることは全て著者の文幕では自己啓発になるわけですね。
その自己啓発が大体単純に個人主義を肥大化させる。
社会への関心を低める。
そしてその手の利器を儲けさせる構図になっているっていう3セットが大体本書が言う自己啓発の罠と読んでもいいと思います。
個人主義で個人が解決したらいいっていうのと並行して走ってるのがテクノ解決主義というやつで。
テクノロジー持ってきたら問題は全て解決するだろうみたいな考え方で、
某イーロン・マスクさんとかも大体似たような人なんですけども。
政治的熟慮とか時間のかかる話し合いを非常に軽視する考え方なんですね。
テクノ解決主義というのは。
これは僕も非常に共感するところはあって。
若い頃はそういうふうに考えてたんですけど。
でもやっぱりそれは危ないよなというのは最近思いますね。
だから結局テクノ解決主義っていうのはテクノ解決主義を扇動する人のパターナリズムに結局なりかねないっていうことに最近気づいたんですけど。
だから自分、問題を誰か特定の主体が解決できるものとして捉えるっていう意味で、個人主義とテクノ解決主義っていうのは相関しているのではないかと。
この辺が本書の4分の3部分でまとめる現状の自己啓発の在り方みたいなところですね。
テクノ解決主義っていう言葉なんですけど。
例えば全能のAI、人よりも賢いAIができて、これからの政策みたいなものはそのAIが決めてくれるみたいな。
愛の遺伝子とか確かそういう世界観だったと思うんですけど。
それはテクノ解決主義の極みみたいなやつっていう解釈であっているんですか。
極みかどうかもわからないですけど、この著者の枠組みではその中にがっちり入ってますね。
テクノロジーの弊害
テクノロジーさえあれば、やっぱりディストピアにつながっているような印象はありますね。
だからそのAI主義の追求って結局人文的なものの撤廃ですよね。
そうですね、確かに。
それが果たして本当にいいことなのかというところが、おそらくこの本の5章のテクノロジーというところでちょっと語られていて、
それが後半の章にもつながっていくんですけど。
この著者はメディア系の哲学者なんで、テクノロジーの論が結構強くて、そこも面白いんですけど。
一応触れておくと、僕らはありとあらゆるテクノロジーを使ってきたと。
設計ですらテクノロジーだとするならば、インターネットもテクノロジーですし、本というのもテクノロジーなわけですね。
いわゆる啓蒙主義1.0の時代っていうのは人文主義者っていうのがいて、
彼らは本を使って自分を高めていこうという人たちを作っていったと。
僕方自身もその系風にいると思うんですけど。
そういう人文主義者とSNSとかで、今日はストレッチ何回しましたって言って、その結果をシェアしている人たち。
これも自己啓発の一環とするならば、一応カテゴリー的には一緒と言えるかもしれないけど、
なんか違いがあるんじゃないかということを、著者は問題を投げかけられていて。
一番大きな、さっき言った他者にその成果を見せびらかしたりとか、共有するっていうことの比率が圧倒的に違う。
本を読んで自己を高めようとしているかつての人文主義者と、
デジタル自己啓発者は、他者ありきなのかそうじゃないのか。
この他者っていうのもリアルで生きている自分に評価をくれる人かな、どっちかっていうと。
いいねを押してくれる人ですよね。
例えば本を読むと他者との対話っていうのが絶対あるわけですけど、本の著者は僕にいいねを押してくれないわけですよね、基本的には。
だから、承認を得るためにやってるわけではないっていうところがある。
の代わり、デジタル自己啓発の世界は、その承認を得るために自分を高めている。
これが結局さっき言った立法的な愛に繋がってしまう。
だから、自分を高めているっていう二つの言葉は一緒でも、そこに含意される自分っていうものが違うんじゃないかっていう話ですね。
誰しも、どちらも、要素がどちらもゼロだとは言わないけれども、いいねを押してほしい人の承認欲求は比重としては重そうですね。
そうなってくると、やっぱり何を目指すのだかとか、どう進んでいくのかっていうのも結局変わってしまうだろうと。
で、著者が踏み込んで、最近の、例えば、瞑想を助けるアプリとか、英語学習のアプリとか、もう何でもいいんですけど、
その自己啓発を助けてくれるのに、インターネットとかアプリケーションが非常に強力なテクノロジーになっていると。
で、それが何を目標にするのか、それに向けてどうステップをするのかの決定を、そのアプリが決めてしまっていると。
それは果たして自律的なのかどうかと、著者は投げかけるわけですね。
自己啓発って本来自分の自律性を得るためにやるはずだったのに、あなたの自己啓発はどこまであなたが決めてるんですかと、著者は言うわけです。
あのね、Apple Watchをすげえ思い出して。
まさにそうやね。
Apple Watchはね、まさにAppleパターナリズムによる健康な生き方を推進してくれるツールなんですよね。
そうですね。
その1時間おきに座ったままでいることはよろしくないので立ち上がりましょう。
そろそろ今日のマインドフルネスを始めましょう。
今日の運動は足りないので、もっと動きましょうっていうことを進めてきて。
建前は健康のため、安全のためっていうことではあるんですけども、
風向の、我々は社会によって生かされている。
死ぬ権利をAppleによって、自由に死ぬ権利をAppleによって奪われているということもあるよなっていう感じがして。
まさにテクノロジーの章でそこが語られていて。
Apple Watchとかを経由することで、たくさんのデータをビッグデータとして企業なりが持ってしまうと。
それを使ってAIが何だらしてくると。
ということは究極的に言うと、そのAIのデータ群の方が私よりも私のことを知っている状況が生まれると。
多分その人に従った方が自分が死ぬ可能性は下がる気がしますね。
それはもう間違いない話。
で、それが例えば事故啓発とかの文脈として捉えられるのかどうかで言った時に、
あなたはあなたのことを何を知りましたかっていう話なんですね。
で、なんじ自身を知れっていう言葉に立ち返った時に、何も知ってないんですよ。
自己啓発と他者の関係性
知ってるのはAIだから。
事故に対する自分はどんな人間かっていう理解を深める役にはほとんど立ってないだろうと著者は言うわけですね。
確かに適切な行動をAIは教えてくれるし、それに従えば健康的な生活を送れるけど、
果たして健康的な生活を送ることが事故啓発の一番の主眼だったのかと。
例えばその自分自身の無知を知ったりとか、そのことによって自分の生き方を自分自身で変えていくことが重要だったのではないかと。
で、これは僕は前に思ったんですけど、その倫理の話でちょっと思ったんですけど、
例えばトロッコ問題ってあるじゃないですか。
1人を助けるか5人を助けるかっていうので、いろんな考え方があって別に何が正解っていうことはないんですけど、
例えばある哲学者がこう言ってたから5人を殺す方が正当やって、誰かが丸暗記して答えたとしますよね。
それに倫理的ですかね、そのケースなんて。
少なくとも哲学ではないですよね、そう考えることは。
有名な哲学者がこう言ってたから言うっていうのは倫理じゃないんですね。倫理っていうのは自分の心の葛藤に立ち会って、それでも難しい決断をすることに意味があるんですね。
で、自己啓発も結局同じことなんですね。
自分の弱さと向き合った上で、その自分の弱さを何とか乗り越えていくことに価値があるんであって、
自分がそこにコミットすることをやめて、AIにアウトソーシングしました、良い生活になりましたっていうのは、
それをあなたの自立性はどこにあるんですかと、著者は大きな声で言ってます。
本音を言えば、確かにその通りだけどそこまでできねえよだっていうのは思うので、
ほどほどにそのぐらいでいいだろうとは思うんですけども、その通りだとは思います。
ここはまあもちろん、僕も五力さんもどっちかというとライフハック畑の方なので、
テクノロジーをうまく利用した方がいいんじゃないかと思いつつも、
でもさっき言ったように、アップルの思惑に、分かってて乗ってはいるものの、
分かってて乗ってるけど踊らされていると思ってます。
というのは確かではあるよなと思って、
それを例えばその個人の選択肢によって進むのはいいけど、
例えば社会全体がそっちに向かって進むのがいいかって言われると、うーんっていう感じはする。
そうね、身近な人に勧めてはいるけれども、
国がそれを勧めたら絶対ダメだと思うっていうのは確かにそうですね。
だから個人の問題としてはある程度責任を得るけど、
この風潮が例えば社会全体に向かって進んでいくと、
さすがに行き過ぎやなと思う意味で、
その著者の指摘する問題は確かにあろうかと思いますね。
そういうところを触れて、テクノロジーの章が終わっていると。
残り2章が解決策に入るのですけども、
2部立てになってまして、
それぞれレイヤーというかアプローチが違うんですけど、
解決策の第1部っていうのが、
さっき言うと事故っていうものの捉え方をまず考え直そうという話で、
これは最近よく紹介している本でも出てるんですけど、
例えばこの知ってるつもりとかいう本もそうですが、
知識っていうのはいろんな人に散らばっているものだっていう話が出てきましたが、
現れる存在っていう本もあるんですけど、
それは脳科学の本なんですけど、
物語としての自己
自分っていうのが漏れ出すものだと、
自己認識っていうのは自己の内側に閉じこもってるんじゃなくて、
自分の周囲に漏れ出していくものだと捉えてるんですね。
例えば非常に使い慣れた道具は体の一部だっていうような言い方をしますけど、
まさにその感覚ですよね。
だから事故の領域っていうのは可変的であるとするならば、
固定的な事故っていう観念をまず捨てましょうと。
他者との関係性の中で初めて自分っていうのが立ち上がってくるし、
あとフロイトが言ったように、
自分の中にもその無意識の領域があって、
この無意識の領域っていうのは、
さっき言った事故の影響を及ぼせる範囲じゃないですよね。
無意識って。
事故の影響を及ぼせる範囲じゃない。
ストア哲学に戻りますけど、
ストア哲学って自分が影響を及ぼせるものには注意を向けて、
自分は影響を及ぼせないものはやめましょうと。
及ぼせないものは多分他人の評価とか天気とかっていうのは自分で操れないから気にしてたらダメと。
あるいは自分の態度とか心の持ちは変えられるから、
そっちに注意を向けましょうと言った時に、
この話がした時ってフロイトの無意識理論がなかったわけですね。
フロイトの無意識理論が出てくると、
自分っていうものを構成するものの中でも、
自分が影響を与えられないスペースがあるよっていうことがわかったわけですよね。
その無意識というものは、
コントロールできるものではないぐらいの認識でいいですかね。
意識でコントロールできないところがあると。
だとしたら自分の無意識領域っていうのは、
自分の意識領域から見たらほぼ他人なわけですね。
コントロールできないわけだから。
でもそれが自分を構成してるわけじゃないですか。
生命体としては一部に存在している。
だから、例えば自分を作るっていう言い方は、
実論主義の自分を作るっていう言い方は、
それはある部分絶対に正しいんだけど、
それは自分をゼロから100までスクラッチで作ることではないんだと。
もともと与えられたものとか変えられないものとかあって、
変えられる部分をちょこっと変えるっていうことを、
自分を作るとして捉えるならば、
それは確かにそうだろうという提言がまず一つ。
で、もう一個が、さっきも言ったように関係性の中で自分が、
つまり他人とのやり取りの中で自分というのが立ち上がってくる。
固定的な事故があって、そうじゃない固定的な事故があって、
その事故を改造していくっていう、
改造していく、高めていくっていう考え方も、
やっぱり固定した事故がそこにあるっていう前提があるじゃないですか。
自分っていう実態とかものとかがないと、
それを改善はできないですね。
おだしょー 比較対象としての過去の自分もないといけない。
大平 だからその固定された自分というのがない以上、
自己啓発とか自己改善にある何かをバージョンアップしていくっていう、
イメージを捨てようっていう話だよね。
おだしょー バージョンアップしていくイメージを捨てって、
どういうイメージっていうことなんですかね、それは。
大平 ここで一つのポイントが、ナラティブアイデンティティという言葉が出てくるんですね。
物語としての事故という翻訳がついてるんですけど、
私たちが実態ではない、実論主義者のように私たちが実態でないとしたら、
私たちは何かっていうと、私たちは物語だと著者は言うわけですね。
おだしょー 物質的な何かではないみたいなイメージなんですかね。
大平 物質的なイメージというよりは、関係性の中で立ち上がるものっていうのは、
出来事であり、それはつまり語られる情報であり、つまりは物語であると。
それは前回僕の回に話した通り、
事故認識とかがすべて物語の形をしているっていう話と交互するんですけど、
だから事故を固定したものじゃなくて物語として唱えるとね。
僕たちが自分の人生に対してできることは、その物語を語っていくことであると。
ただしその語り方はさっき言ったように、ゼロからスクラッチで自分の思い通りにはできない。
与えられた状況と材料の中で語れる範囲の中で語り方を変えていくっていうやり方をしていくべきだっていうのが、
著者のメッセージ
この解決策第1部の論点の一番大きいところですね。
おだしょー 本みたいな例えにすると面白いですね。
この設定ではこの話にするわけにはいかないっていうふうになる気がする。
こういう登場人物だったら、こいつらはこう喋るだろうし、こいつと仲良くなるだろうみたいなある種の枠組みがあって、
それを逸脱することはできないっていうストーリーテリングと全く同じ話がここにあって、
でも人が生きるっていうこともそういうことだろうと、著者は言うと。
むずい。すげえ面白いけど難しい。すげえ難しいですね。
おだしょー でもこれが結局自分を改善するのとは違うあり方で、
自己と他者の関係性を変えていく一つのアプローチであるし、
ある種これも、著者が言うにこれも結局自己啓発のメッセージでおそらく受け取られるんだろうけども、
そうじゃない取り方をしてくれるとありがたいと。
自己啓発、著者はこれをこういうふうに生きようとすることは、
自己啓発的な行為ではないと考えている。
おだしょー あれは取られても仕方がないとは思うと書いてますけど、
自己啓発でもあるんですけど、自己啓発的なさっき言った、
結局固定された自己を変えていこうっていうから逸脱できたら多分OK。
そうか、著者が思っている自己というものは、
かなり眼鏡に固定されている印象があるってことなんですかね。
おだしょー そう、自己啓発とか自己改善をする人たちの自己認知の中の自己っていうのは、
非常に固体的な、固定的なものやけど、
その関係性の中で立ち上がる自己っていうものにシフトしたときに、
もっと柔軟に考え方を変えていけるだろうというところですね。
そうか、何となく自分が思う自己というものが、
多分著者が想像しているよりもだいぶ柔らかく、
曖昧なので、それがスッと入ってこなかったのかも。
おだしょー だから、ゴリラさんはそっちの脱ソリッドな自己認識はお持ちなんでしょうけど、
自己改善に明け暮れている人たちっていうのはそうじゃないという指摘があるわけですね。
著者はこの本で自己啓発の罠っていう日本語の方訳になってるんですけど、
タイトルが罠がないんですね。
セルフインプルーブメントしか書いてないですね。
おだしょー だから、著者は自己啓発とか自己改善をやめなさいって言ってるわけじゃないですね。
同様にテクノロジーも使うなって言ってるわけでもないんですね。
それまでと違ったやり方で使っていけばいいんじゃないかと。
第1部で提示されたのが、自己啓発を行う側、テクノロジーを使う側の主観的な姿勢とか態度を変えていこうという話で、
第2部はそれだけでは限界があると。
テクノロジー側が、さっき言ったテクノロジーが自己啓発の方向性とか枠組みを決めてしまうんですから、
そのテクノロジー側も変わっていかなきゃならないと。
変わっていく時に一番重要なのが、私たちがテクノロジーをどのように捉えているか。
もっと著者の言い方をすると、テクノロジーにまつわる物語ってどんなものかっていう話なんですね。
例えば、ターミネーターとかのテクノロジーって人類に敵を成す存在ですよね、基本的には。
敵と味方言いますけど。
僕らのSFで親しんだテクノロジーって、割っかし人類と敵対することが多いんですね。
高度に発達したテクノロジーっていうのが。
まずね、パッと思いついたのが、ラッダイト運動でした。
人類から仕事を奪っていく敵だ、みたいな感じだったですね、要するにね。
その流れは今でもあって、結局テクノロジーとは何かっていうのは、
テクノロジーをどのような物語で捉えるかっていうことと等しいと。
で、著者が望むのは、そのテクノロジーを捉える物語を新しくするべきだと。
人間と協調的であるとか、人間を補佐してくれる。
その当人が望む方向にサポートしてくれるようなAIの物語を作り、
そこから良いAIとかテクノロジーが生まれていくっていう段階を踏むと。
そこのAIを中心とした社会とか経済が変わらないことには、
個人だけが変わることには限界があるよという話。
だからこの一部と二部はセットで読まれないとあんまり意味がないですね。
そうか、その話でいうと、例えば最近もうAIが絵描けるようになってしまって、
テクノロジーの物語
お絵かき業界の人たちまでテクノロジーが嫌いになってしまい、
なんかやばい別れ目ですね。今のうちに改善できないと、
テクノロジー反対派職を奪われそうになって、
テクノロジーに反対する業界というのがすごく増えそう。
だから、あの絵描きAIによって新しい職業が生まれてきて、
それが失われる職業の数とペイがそれよりも上であれば多分いいんですね。
世代的にその新しい人たちはAIを友として認識するでしょうけど、
その雇用を生み出さないのであれば、
人類にとってのAIの物語っていうのは多分悪い方向に進んでいくでしょうね、きっと。
たぶんね、その変化が、なんだろう、
蒸気機関の頃の変化が、その変化よりもそのAIが絵を上達する変化は早いと思うんですよね。
世代が入れ替わらないから、
確かに。
その、やべえんじゃねえかなっていう感じがして。
今この時代である程度仕事できる人がAIを嫌いになったら、
あと10年か20年は現役で嫌いでやり続けるわけですからね。
しかもその人たちはおそらく70,80まで仕事をするので、
前はたぶん40,50で死んでたけど。
そこの価値観の入れ替わりが遅くなってしまってるっていう側面は確かにあるか。
価値観の入れ替わりはたぶん変わらないけど、
世代の入れ替わりが遅いのと、働く期間が長いのと、
その価値観じゃない、テクノロジーの方の変化が早い。
そうやね、圧倒的に。だから物語がそこへ続けてる。
常にテクノロジーの変化が物語よりも先にいってる。
SFの最先端を読めば違うかもしれないですけど、
僕らが一般的に触れる物語を置けるAIとかテクノロジーって、
価値観の変化と自己の意味付け
特にAIがひどいですね。
おだしょー AIの加速がやばいですね。
俺たちがちっちゃい頃は、あと200年後に実現すると思われてたことが、
20何年で実現してしまった。
特に自動運転はリアルに生活に近づいて、
コンピューターを使わない人でも生活に密着するような話ですし、
それが今のところ物語を書いているというか、
喋る機械、車は昔からありましたけど、
それとはちょっと違うので、
新しい物語とその位置づけが必要になるんだろうなと。
だから本書の後半の定義、
語られる物語が具体的にどういうようなものであるとか、
そこまではなくて、新たな物語が必要であろうということが示されているだけなんで、
全然未知なんですけど、それは哲学書のよくあるパターンで、
それは実現してみないとどういうものかわからないですけど、
著者はそういうのを求めているというところが、
本書の解決策2部で、1部とセットで考えましょうというところで、
そもそも自分が自己改善とか、
自己啓発の本とかが好きなんで、
この話題をずっと追いかけているんですけど、
常に危うさを感じていて。
1つはさっき言ったように、
そっちの、例えば望まれているスキルが得られない人たちを
どうしても阻害してしまうっていうことと、
良くなることに関心を向けすぎる不全感。
本書にもこの、より良い自分になるっていう目標って、
再現がないんですよね、基本的には。
お金を求めるのと同じなんだ、原理は。
自分がちょっと良くなったと、
そしたらまたもう少し良くなりたいと。
もう少し良くなったら、さらにもう少し良くなりたいと。
これだから無限に続いてしまう。
ある種、これは謙虚さを得るためとしてはもちろん、
自分っていつでも至らないんだっていう気持ちを持つのはいいんですけど、
それが例えば他者の比較との中で行われると、
ストレスになってしまうと。
あの人の方が良いのに、僕は全然みたいな、
心の魔網が常に生み出されてしまうし、
それがソーシャルネットワークで見えてしまうんですよね。
常に起きているっていうことはもう一つの大きな問題で、
どう改善したらいいのかっていうことを考えていたんですけど、
やっぱり小手先の話は当然なくて、
事故のありよとか、自分を変えたいっていう、
自分って何ですかっていうのはちょっと根本的に考えるしかないんだなと。
さっきの有名な哲学者が言った倫理の話と同じなんですけど、
これも結局この本を読んでどうこうというよりは、
じゃあ自分でやっぱり自分って何だろうっていうのを、
考え直すしかないんですよね。
事故認識を改めるしかない。
さっき言ったような、例えば物語の中の事故とか、
他者の関係性の中で立ち上がる事故。
日本で言うと文人主義っていう考え方があって、
平野啓一郎さんが提出されてる。
あの人、面白いですね。あれすごい。
あれも関係性の中で立ち上がる事故の話。
まさにカスタマイズの話。
ああいうのに触れて、改めて自分って何だろうって考え直す。
物語の面白いところって、
自分も小説家から分かるんですけど、
自分が書いた後で、
これってこういうことだったのかって、
自分が書いたことを後から理解することがあるんですね。
自分の人生も似たところがあるんですよ。
振り返った時に見えてくる物語っていうこと。
これってこういう意味があって自分はやってたんだなっていうのが分かるっていう。
だから物語を作る力、
あるいは振り返った時に物語を組み上げる力っていうのが、
人生の意味付けを変えていくと。
そうなった時に、前回取り上げた物語の鍵とか、
ストーリーが世界を滅ぼす的な、
物語力と呼べるようなものっていうのがここで来てくるんだなと。
多様な解釈ができますもんね。
できる。その時の自分に好ましい物語とか、
より複雑な物語をすることによって、
状況への対象も変わってくると。
だからこの文脈をされると、
だから物語を読みましょうっていうと、
自己改善になってしまうので、
これは常に難しいメッセージだなと思うんですけど、
本を読んでると何かすることがあるとしたらそういうことかもね、
というぐらいのことは言えるんじゃないかなと思います。
非常に本としては短いんですけど、
内容の詰まった思想書、哲学書で、
僕的には非常に面白く読めましたね。
いろんな本と関連している話でした。
個人的にこの話を聞いていて思い浮かんだのが、
脳科学の分野の本、意識とか無意識とか、
人は認識とか認知みたいな話を読むことによって、
自分に対する考え方が広まったんじゃないかみたいなことを思って、
この本の解決策に書かれているかつながっているか、
ちょっとパッとわかんないんですけど、
今思いついたのが、その分野のことを知ることが、
自己を客観視するヒントになるんじゃないかなっていうのを思って。
あともう一個物語力みたいなやつも、
同じく感想としてね、
自分の場合、例えば大学を6年間行った上に中退をしていて、
そこからいろいろあって今があるになるんですけど、
社会一般で言えば完全に挫折して失敗しているんですけど、
今の本当に素直な解釈で、
おそらく仮に順調に大学を卒業して、
一般企業なんかに就職していた場合、
自分はすげえ自分が嫌いなタイプの大人になっていそうだなっていう気がして、
結果論というか、今の自分の解釈なんですけど、
素直にあれは悪くなかったなって思えてるんですよね。
それが結構大切なこと。
結局自分の人生に意味付けを与えるのは自分だけですよね。
でもこの言い方やとさっき言った事故が孤立した事故になるんですけど、
その物語ってどこから来るかっていうと、
外から来るんですよね、確実に。
ゴルフさんがそう思えてるのは、
おそらく何かしがあったと思うんですよね。
例えば人生の物語が少ない人、
例えば親が非常に良くできた人で、
挫折なく生きてきた子供が同じことをしたら、
物語力の重要性
多分ね、挫折の物語として描いてしまうと思うんですよ。
物語力が低いが故に。
いいですね、物語力確かにな。
自分や他人の人生を解釈する力。
それは結局物語に触れるしかなくて、
それはつまり他者が与えてくれるものだから、
結局事故の完全性っていうのは、
与えられた物語の中からどれを選ぶか、
あるいはどう組み合わせるかっていう選択しかできない。
それがおそらく自由意志ができる一番最高の範囲の自由であって、
それ以上の自由は多分ないんだろうなというふうには思います。
なんか興味深いですね。
そして結構物語が解決策になり得るっていうところがまた興味深いというか、
前回ともつながっていて。
だから人文的なものの最極北じゃないですか、物語っておそらくは。
おそらく最も役に立たないと言われているところの最も役に立たないと思われている分野。
だからこそAIアルゴリズム、テクノロジー的なものの対立軸になり得るんじゃないですか、きっと。
言ったらここまで役に立たないって言われているのに、ここまでなくなってないんだから、
多分役に立たないわけじゃないんですよね。
もちろん娯楽としての意味もあるけど、やっぱり今でも本屋に行ったら小説を買ってる人が一番多いわけで、
これぐらいスピーディーなメディアが溢れる中で、
未だに小説を買って本を読む人がいるっていうのは、それはたぶん娯楽だけの問題ではないと思うね。
何かきっとあるか、そういうふうに人類は適応進化してきたのかもしれないし。
人は物語の中で情報を伝えてきたっていう遺伝子的なものはあるし、
かつての人文主義者の観点から言うと、本が一番自律的な速度で読める。
そこが自分が動画が基本的に好みに合わないのはそこなんですよね。
早起こすとかドカドカなくて、どんな速度でも自分の任意で読めるし止められるし戻れるっていうのが自律感を支える。
自律感じゃないと思うのに、自分の思考の速度に合わせて読めるってことかな。
そこがたぶん一番大きいんじゃないですかね。
自分、自己認識とか反省とか内緒とか耐性とかと関わってくるのが、その速度感じゃないですかね、きっと。
だから、本と物語という組み合わせが、たぶん人文主義者の一番の大きいところですけど、
人間のシステム2の駆動力を一番上げてくれるトレーニングになるんじゃないかな、何のエビデンスもないですけど。
まだね、そこにサイエンスな根拠は難しいですからね、まだきっと。
だから、物語力が豊富な人と豊富じゃない人の差っていうのをエビデンスで取れるかもわからないしね、本で。
そうか、昔の人たちが社会に出ていろんな人といろんな話をしろというのも単純に、結局やっぱ多くの物語を知れってことですもんね。
多くの物語を知ることは自分の人生の物語を変えることになる。
つまり、やってることは一緒やけど解釈が変わることで見えることが変わるっていうことがある。
だから自分の人生の豊かさと自分の物語力の豊かさっていうのは相関している、比例しているっていうことが多分言えるんじゃないかなと思いますけど。
そうすると、確かにいろんな人の、本を書かない人の考えている、体験した物語というのはなかなか本にはなりづらいから。
そこはやっぱ社会に出ないと、いろんな人に会わないと話さないとっていう重要さを思い知らされる感じがしますね。
あと、社会学の本のインタビュー。地元の人とかその所属の人のインタビューで立ち上がる物語っていうのもあって。
そこがやっぱり人類学とか社会学の面白いところは、結局そこに生きる個人の物語を再構成するところにあると思うな、多分。
そうですね。アフリカのその話とかも、まさにおそらくそれは日本国内でどんな居酒屋とか前にいても会えないでしょうからね、その人たちには。
彼らの人生観というか、そこに描かれている、彼らが思い描かれているストーリーがバックボーンにあるわけですね。どういうふうに生きるのかっていうのが。
本当に質ですからね。
でもやっぱりその物語の多様性がそこにもあるし、それによってさっき言った西洋中毒、西洋かぶれな考え方が相対化されるし、
相対化されると追い詰められる事故が解放されるっていうところが確かにあって、下毒罪というわけではないですけど、有意義ですね、そういうのに触れるのは。
東京の生活史とかって、去年の今ぐらいに出たやつですかね。それも興味はありつつもこんな分厚い本読まないだろうなって思ってたけど、この話で言うと、だからこそいいんだろうなっていう気がして。
1日に1話ぐらいメールとかで送られてきたらいい。
そうです。150人いるらしいから、それで150日かかるから。
それぐらいじっくり時間をかけることに、あの仕事に価値はあったんでしょうね、きっと。
150万字なんて1人1万字あるんですね、この物語は。
本を読むことの価値
1人の人生が1万字なんかで。
できるわけはない、当然。
だいぶ圧縮されてるよね、だからそれでも。
でも、多様な物語、本にも十分可能性はありますね、そうやって考えれば。
そう思います。だから、そんなに伝われたことではないし、文字の読み書きとかでゆっくり行われる情報交流っていう即時的なチャットとかではなくて、それぞれの試行速度で行われる情報接種、情報交流が新たに価値を感じられる時代に。
昔は必須項目やったけど、今は別になくてもやっていけるけど、でもやっぱりやってみると違うよなっていうのが得られるもんじゃないですかね、その本を読むという行為は。
まあね、それはやっぱ一番効率がいい。
まあ違うな、種類があるもんな、やっぱ効率でもないしな。
効率でもないですね。
だから、僕自身ではこの自己啓発的メッセージになりすぎないようにしたいというのを常々思っていて、やっぱりその本を読んだらいいですよ、みんな本を読もうっていうのはやっぱりちょっと違うなとはずっと思ってるんで。
うん、それは自己啓発ですからね、もう。
でもまあそこには良さがあるのは感じている中で、じゃあどう伝えたらいいのかっていうのはずっと思ったんですけど、このブックカタリストの面白いところは本を読もうって一切言わなくて、僕がこんな本を面白く読んだんですよって言うだけで、ちょっと読みたいなと思う人が増えるっていう、その自己啓発になってない自己啓発が行われているっていうのはちょっと僕は嬉しい話ですね。
そうですね、確かに読めとかっていうのは言ってはいないかな、サポーター入ってくださいって言ってるぐらいですかね。
本を通して広がる人生の豊かさ
本を読めっていうのは確かにひょっとしたら一回も言ってないかもしれないぐらい。
それは読むも読まないも勝手ですからね。
結局本って読まなくてもいいってところが一番重要なところであって、そこを侵すのは何かある種の神聖さを妨げるようなものやなと思うので言わないし、その自己啓発メッセージに潜む。
だから本を読みなさいっていうのは逆に本を読むとこんな良いことがありますよっていう成果の約束でもあって、でもそれは嘘ですから結局。
コンポーンで言えば面白いから読んでいる、そこに下心が俺はゼロだとは言わないんですけど、面白いから読んでいるが全ての基本ですね。
そういうメッセージ、面白いから楽しいからやってるっていうところを崩さないようにはずっとしたいなとは今でも思ってますね。
俺はあれですね、東京の生活史をちょっと読んでみようと思いましたね。
そうですね、図書館とかで借りれたらいいですね。置き場所も困りそうやからな。
ちょっと物理で置くにはつらすぎるので、確かに図書館にあったと思うんですよね。
だからそういうの、特に自分とは縁通い人とか地域的に遠い人の話を読む方がいいでしょうね、きっと。
そう、どうしても普段会う人というのは基本的に何らかの近い人しかいないですからね。
で、だいたい物語が近い人が多いから、当たり前やけど。だからあんまりそこで差異が生まれない。
まあ差異が生まれないから心地よい関係でいられるというのはあるんやけどもちろん。
だから共同体が生まれるというか価値があるというか。
だから本がいいんやろね。距離があるから。
はい、とりあえずこんなとこです。
はい、ということで、ブックカタリストでは本を読めとは言っていないんですけれども、
番組を支援していただけるサポーターに入れということは言っていますので、
サポーターに入っていただけると、アフタートークの主張だとか、読書会の参加だとか、
あと今回クラシタさんの画面共有をしながら喋っている動画というのを撮っていて、
俺からするとクラシタさんがいかに何も見ずに喋っているのかというのもよくわかったので。
ほとんど動かせない。
そういうのもサポーターに入っていただけると見られるので、
気になる方は概要欄のリンクから飛べるブックカタリスト公式ページなどからご確認ください。
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございます。
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