面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。まず、今回いただいたコメント、お便りなどを紹介しようと思います。
お願いします。
はい、お便りをフォームからいただいておりまして、ちょっと前にもらったやつなんですが、お名前、匿名希望。
いつも楽しみに聞いております。最近のヒットは、倉下さんの先延ばしと前倒しの心理学と、goryugoさんの芥川賞を切り口にした回です。
先延ばしについては、以前から興味のあるキーワードだったので、タスクマネジメントの観点からも興味深く聞かせてもらいました。
人にとっていかに苦痛や恐怖を最小化するのが重大事かという観点から、前倒し的に目の前のタスクを片付けたくなるという視点も納得なところ。
芥川賞については、ブックカタリストを聞く中で興味を持ったハンチバックやコンビニ人間などを読んできました。
タイミングよく妻が図書館でバリ参考を借りてきたところでこの回があったので、流れに乗っていくつか近年の芥川賞受賞作品及び受賞者の過去作品などを読んでいます。
goryugoさんもお勧めの美味しいご飯が食べられますようには、その中でも結出してよかったです。
余韻が深いというか、いつまでもぐるぐると作品のテーマが頭を巡るのは小説ならではの力だと改めて感じました。
高瀬さんの前作の犬の形をしているものも傑作だと思います。これからも刺激的な本の紹介を楽しみにしております。
はい、ありがとうございます。
はい、美味しいご飯が食べられますようには、最近身内の中でブームになっている感じですかね。
そうですね、僕も慌ててじゃないけど、今さっき10ページくらいまで読みましたけど、感想は読んでからにしますが。
まあ10ページ読んでも何も起こらないですからね。
何も起こらなくて、市店長がみんなでそばに食いに行ってうんぬんかすんのとこまでですけど。
でも、主人公の気質みたいなものはもうその数ページで表現されているなとは感じましたけども。
最初に出てくるのって女性側がメインだったような印象だったんですか。
そうでもないか、両方いたか。
昼ご飯にカップラーメンを食べている人の視点から始まってたね。
ああ、そっかそっか。そこはじゃあ俺全く本当印象残ってなかったんだな。
ああ、そうだよね。なるほど。
最初に覚えているのは女の人側からの一緒に意地悪しましょうよっていう話で。
うん、なるほどね。
そっからだったですね。
それにしてもご夫婦で読書をされていると、ゴリゴさんもそうかもしれませんけど、
読書の幅が広がるんだろうなというのはちょっと思いまして、
我が家は基本僕しか読まないので結構閉じた活動になりがちなんですけど、
配偶者だけじゃなくて、両親とか子供とか近くの人とかが本読んでいるときっと楽しいんだろうなとはちょっと予想しますね。
思い出したんですけど、うちは母親が普通の小説ですけど読んでいて、
直接的な影響は大して大きくはないと思うけれども、影響はあったんだろうなと思いますね。
そういえば。
まあそうでしょうね。おそらくはそうだと思う。僕は家族の中では僕ぐらいしか読まなくて、
多分図書館というものがなければこんなに本を読む人間にはなってなかったんじゃないかなと思いますけどね。
家の本とか読んだりはね、そういう意味で言うと俺もなかった。
まあ一時あったことがあったかもしれないぐらいか。
図書館は本があるということ以上に、何て言うんかな、本を読む人がそこにいるということ?
場の力?みたいな。
本を読むことが肯定されている空間っていうのが多分ね、僕の読者人生に影響を与えたという感じがしますね。
ああ、俺言われてみてそういう感覚なかったなあ。
なんか小学校でよくわからんけど図書館、図書室に行って借りてみましょうとか言われて、そのままなんとなく馴染んだって印象だな。
まあそれはいいでしょうね。
ある種の人は現実とは別の場所を確保するために本を読むということがあって、
そういう場合、結局孤独な読書になりがちなんですけど、
そういう中、肯定してくれる空間とかバーとか人の集団っていうのは心強いんじゃないかなと個人的に思います。
ああ、そうね。確かに居場所がない、現実界に居場所がないという感覚は、
自分はいわゆる日常生活ではなかったけど、想像はできる感じがします。
そういう感じですね。
ということで、今回第122回、私たちの戦争社会学入門という本をゴリゴが紹介しようと思います。
はい、お願いします。
この本、大和書房から出ている本で、発売は出版は2025年の3月なんですが、
大和書房という会社が早稲田の地にあるらしいんですよね。本社がっていうのかな。
で、近くの早稲田の先生と一緒にその本を作ろうみたいな、
未来の私に種をまこうというシリーズの中の8作目になるのかな。
ちょっといいですか。漢字で大和書房ですけど、大和書房って読むじゃないですか。
マジですか。俺今まで知らんかった。
URLアクセスしてみたんですけど、
www.大和書房.co.jpなんで、多分大和って読むんやと思うんです。
あれですね、いかに俺たちがカツ字でしか本を読んでいないか。
そうですね、文字だけで音が分からない。
すみません、大和書房だそうです。多分そうなんでしょうね。
で、そういうシリーズで一般的になので内容としていうか想定しているのは、
大学の講義みたいなものを優しく解説しようというシリーズっぽいです。
だから読み手に想定されている知識レベルは小学生とかではなくてやや大人向けということ。
ただ自分が読んだ印象で言うと、もう一つ若者向けシリーズとして、
ちくまぷりま新書があって、読みやすさとしては同等か、
なんならこいつはもっと読みやすかったぐらいの感じがあった。
ぷりまは小中学生向けに書かれているとイメージしますが。
あれ、高校生じゃないかな、俺のイメージだと。
中高生ぐらいかな。いや、中学生も結構射手に入ってる気はしますが。
その辺の年代とこの大学生に向かって書かれたであろう本を読み比べたときに、
何が違うからその読みやすさが立ち上がっていくんでしょうね。
何だろうな、出力みたいなものもおそらく著者のそういうところもあるんだろうし、
テーマが重いんですけど身近に感じやすいテーマでもあるかもしれない。
特に最近はそうかもしれませんね。
戦争というものが結局なくならんかったということがわかってしまったじゃないですか。
最近の話でいうと。
で、振り返ってみると生まれて物心ついた頃から戦争いろんなところであったんですよね。
そうですね。日本国内は別としても国外近所とかちょっと遠くのレベル見たとしても、
いろんな形の戦争は続いてきましたね。
そういうものを少なくとも自分は真剣に考えたことがないという言い方でいいのかな。
戦争とは何かということなのか、この世界に戦争がある理由みたいなことなのか。
いわゆるそういうこと全部?
全部ね。
戦争という言葉に関わる原因だったり、それが生み出すものが何なのかとか、
良いことなのかどうなのかみたいなのとか、いかになくせるのかとかいろんな切り口があるとは思うんですけど、
そういうことを考えたことがなかったという印象があったし、よりそれが強くなったと言えるのかな。
でもゴリゴさんって歴史が好きですよね。歴史の中で戦争ってのは必ず出てくるじゃないですか。
失礼ながらロマンですね結構。
だからある種のファンタジーというのはおかしいけど、現実世界に直結している身近な問題としてじゃなくて、ある種のロマンとしての戦争というのは知っているけども、
身近なものとしてはあまり捉えていなかったという感じか。
戦争の悲惨さ残酷さみたいなことは自分が好きな歴史では出てこなくて、
なるほどね。
この戦いで関心が排水の陣を敷いてみたいな話だったり、石壁の戦いが云々とかっていうのは大量に人死んでても、やっぱりそういう観点で見ていないんですよね。
なるほど。
戦略レベルのかっこよさとか歴史の出来事レベルのかっこよさっていうのかな。
確かに。
っていうので、すげースムーズに読めたんですけど、
よし、ブックカタリストで紹介しようって読書メモを取ったらですね、
記憶にある範囲で一番大変だったぐらい。
どういう大変さでしょう。
なんかね、きちんと読めば読むほど、無数にもっと考えるべきことが出てくると言ったらいいのかな。
おー、だから枝が、濃度が広がっていく感じ。
うん、めちゃくちゃね、なんかね、ライトに読めば、あー面白かったで終わるし、
ちゃんとメモを取ってみると、あれこれ全然わかってねーみたいなことがものすごくたくさんあった。
だから2つ評価ができるとして、やっぱり深く考えだしたらいっぱいな物事を一旦ここまでと割り切って、
このまとめあげた著者のすごさ、わかりやすく書き上げたすごさと共に、
これが一通り読んだだけで終わらせてしまったら、なんとなくわかったで終わってしまうという、
その二面的な、ちょっと危険もあるかなという印象を今受けたんですけども。
うーん、まあそうですね、おそらく著者のこの後書き的なところに確か書いてあった目的で言うと、
今まで授業してきて、もうめんどくさくなったからこの本を書いたみたいな、
漏悪的な言い方ですけどね、それは。って言っていて、その理由がここに書いてあることを前提とした上で、
何を考えるかということを授業でやりたいと言っていて。
自分の思考を発展させていくための土台とか基礎っていうのをこれを本当に作ってほしいってことかな。
っていうイメージだったので、ライトに読めてしまって十分目的達成と言っていいんじゃないのかなと、多分著者の意図としては。
この本を簡単に読み切ったとしても、俺は戦争のことを理解したというふうな錯覚に陥るタイプの本ではないってことね。
で、わからないっていう場合に、わからないは2種類あると。
いわゆるただ無関心だからわからない。
今までそれについて考えたことがないから答えを出せない。
というわからないと、それは疎外的DKという言い方をするらしいんですけれども、
そうではなく、良儀的DK。
判断が難しくて、私ははいと答えたらいいのか、いいえと答えたらいいのか決められなくてわからない。
つまりまあ価値決定をするための基準点というのを持たないからわからないと答える。
うん、っていうこともあり得ますよね。
確かに。
今、らしたさんはNOという答えだったんだけど、わからないと答えた人がどっちを選んでいるのかはわからない。
そうだね。その質問一文だけではわからないね。
で、この本の目的というのが、わからないはわからないでいいと。
はい、はい、はい。
たださっき言ったその疎外的DK、ただ興味がないからわからないんじゃなくって、
どちらが果たして正しい決断なのかがあまりにも難しい問題で決めきれないからわからないという方向に変わっていってほしい。
なるほど。
それを踏まえそういうことを考えられるようになる本と言えばいいのかな。
なるほど。
で、まあ例えばなんですけど、やっぱさっきのはい、いいえの答えで言うと、ベトナムは90何パーの人が戦うだったかな。
うーん、ちなみにベトナムは徴兵制度あるのかな。
徴兵制度よりも一番でかいのはベトナム戦争です。
あーそういうことか、なるほど。
ベトナム戦争を通じてアメリカを押しのけて自分たちの国を作ったという歴史的な経緯があって、はいは96.4%にも及ぶ。
なるほどね。
で、ちなみに徴兵制度に関してもこの本できちんとその意義とか、
はい。
著者は必ずしも戦争、徴兵に賛成だとは言わないけれども、徴兵制度ということ自体の価値というのが無批判に徴兵制度なんてダメだって言ってはいけないというか、そこに関しても考えるきっかけというのはたくさん与えてくれています。
なるほどです。
で、ここが大前提として、あとは大雑把に言うと戦争の歴史みたいな言い方になるんですよね。
うん。
社会学的な戦争の歴史というのかな。
はい。
で、まず、さっき言ったあなたは戦争になったら戦いますかって聞かれたっていうことにも象徴されるんですけど、
はい。
戦争って要するに誰が戦ってきたものなのかというものが時代とともに変わって、移り変わっている。
まあ、つまり兵士なのか兵兵なのか市民兵士なのかみたいなことね。
うん、みたいなイメージですね。
で、基本的にこの手の学問は西洋中心なので、テーマになっているのは西洋だけで、正直そこに関して特に近代以前に関しては足りないなと思った部分は正直ありましたが、
なるほど。
そこはおそらくそういうもんだっていうぐらいで捉えておいていいのかなと思うんですけど。
戦争は文化的な地域的な偏りはあるんかな。ある地域とか文化で非常に多くて他の地域ではあんまりないみたいなことあったんかな。
地域で多いとか少ないとかはわかんないけれども、多様な民族が入り乱れているところではほぼ確実にずっと起こっていて、それが現代でもなくなっていないので。
中国でも戦争式やったもんね。小さい国があることから。
この話で言うと中国史における誰が戦ってきたのかみたいな話が全く触れられていないので、そこに関しては少々足りない部分はあるような気はした。
どれくらい違いがあるか。ほとんど一緒だったら別に代表例だけでいいけど、もし結構違ったらもうちょっと検討が必要という感じはするね。
ただ流れとしてというか社会学という観点で見れば結構そういう意味では納得できる要素というか、必ずしも世界全体を把握できていなくてもいいという印象はあって。
まず最初に有名な誰が戦ってきたのかっていうので最初に出てくるのが古代ギリシャ。
まさにソクラテスとかプラトンとかの時代ですね。あの頃いわゆる自由市民という人たちは戦争で戦うということは名誉であり、市民としての義務として非常に重要なものだった。
基本的には蛮族が攻めてきた時に市民たちみんなで集まって一緒に倒そうというのが戦い方の基本。
防衛主体の市民軍であったっていうのも結構大事なところで。もう一つはいわゆる兵器が単純にまだ弱かった。
ギリシャのファランクスの戦い方っていうのがAとかがあったりするんですけど右手に長い槍を持って盾を持ってそのみんなで集まって固まって行動してお互いがお互いを守りながら敵と戦う。
基本的に訓練は必要ないし誰かが飛び抜けて強いということも必要なくて大事なのはみんなで逃げずに一緒になって戦うこと。
さらに言うと戦う動機というのが俺たちの街を守るためである。そういう動機なので強かった。
実際にそのギリシャが前世だった頃というのは積極的に領土は広げてはいないけれどもいわゆるアニバルが攻めてきた時とかも見事に撃退できていたりしてあの頃が市民の強さの最上級なんじゃないかなって自分の印象なんですけど。
そういう意味で歩兵が最初の頃は最も強い兵士たちだった。ただそこから変わってきてしまうんですよね。一番大きな影響で言われているのが阿部美が生まれたこと。
馬に乗れるようになった。
馬は元々使われてたんですよ実は前々から。ただその阿部美というテクノロジー技術が現れたことで誰でも馬に乗って踏ん張って自由自在にコントロールができるようになった。
遊牧民は馬の上でも矢が打てるからすごいって言うけどあれ踏ん張らなくてもバランスがとれるからであって阿部美があるとそこまでの運動神経がなくても槍とかを振れるようになるわけか。
ちょうどあれですねそういう中世ヨーロッパみたいなのだとランスとかっていう言葉が出てくるんですけど、漫画とかは過剰だと思うんだけどそのすげーでけえ槍を持って馬に走ってきてそのすごいでかい槍で疲れる。
これがもはやさっきのファランクスがその30人とか50人集まってもランスの馬乗ったやつ1人に負けてしまうようにその世界が変わってしまった。
でそれによってつまり結局みんなで集まったら強いが成り立たなくなってしまった。
そうするとですねあのもはやみんなでじゃなくていかに強いやつがいるか。
だからさっきのは一人の強い人がいてもどうしようもなかったのが一人の強い人がいることで選挙が変わる時代になってきたと。
時代に変わってしまった。
さらに言うと馬って自分も今までほとんど実感はなかったんですがめっちゃ大変なんですよ。
何が。
維持管理することも大変だし馬を購入するという行為がそもそも大変だし練習しないと乗れるようにならないからまず馬持ってないといけないでしょ。
で馬連れて戦争に行く場合ってそのドンキホーテの話とかでよく例えに出てくるんですけどあのサンチョパンサみたいな銃士がいるんですけど。
ああいうその馬の世話係がいないと騎馬兵って役に立たないんですよね。
立たないというかそれだけ手間がかかってしまう。
で従者がいるし馬の餌も人類が運ばないといけないし馬を飼える土地がいるし馬に常に餌やってあげないといけないし。
っていうのであのものすごく管理コストというかそのそれしかやらん人じゃないとできないことになっちゃった。
専門職が必要になると。
かつては市民たちちなみにギリシャの頃はあのね装備を買うのも自分たちの仕事だったらしいんですよね。
自分で市民はあの街を守るためにその槍と兜と盾を自分で持っておくみたいなのが基本だったりしたんですけれども。
そこがあのみんなのために戦うんじゃなくてあの俺のものを守るために戦うようになったっていう言い方をしていたかな。
かつては市民が自分たちの街を守っていたんだけどそうじゃなくて市民は戦争と関わらなくなった。
土地を持っているのは貴族や領主であり市民は貴族や領主が変わったらそいつらに税金払うだけで基本的にそのその土地を誰が治めてようが関係ないっていう風に考え方も変わっていって
実はプロフェッショナルの戦争とアマチュアみたいなことといろいろとそういう観点でも変わってくる。
中世ヨーロッパとかはその言ったら傭兵が戦うようになって、例えばイメージなんですけどフランス対イギリスの戦争なのに戦っているのはスペイン人みたいな。
そういうことがごく当たり前にあるし、漫画なんかでもよく出てくるんですよね。やっぱり傭兵たちが金のために戦っているので、極論死んだら儲からんからみんな死ないようにする。
傭兵チームたちももう割が悪いからこれはもう降参しましょうよっていうのでやーべたっていうので簡単にやめてくれる。
実際中世のヨーロッパとかって戦争兵士数みたいななんかで見たりとかしても、例えばその頃の中国の戦争なんかと比べると非常に規模は小さくて、何なら何千人対何千人ぐらい。
国では分かれてないけどイギリス対フランスの30年戦争とかだったかな。そういうのとかでも兵士数って何か万のくらいまでいかないぐらいの小規模な戦いだったりもしていて。
よくも悪くもだからやっぱ市民はもう何も関係ないんですよね。
なるほど。
そこで戦争されてようがなんかお城でなんかやっとるわみたいなイメージだと思う。
でもまあ例えばこのある町に侵略してきた傭兵がいたとして、その傭兵にその町が破れてしまったら、基本的に略奪行為っていうのが傭兵は行いますよねきっと。
なんかまあその辺りがどこまでどういうラインかっていうのと、あと都市部に住んでいた人と農村に住んでいた人とかでもかなり感覚は違うんだと思う。
その城壁に守られている城の中の人たちは必死こいて戦うかもしれないし。
でもそうでない村の人たちなんて上手いこと生き延びるというのか上手に逃れるというかいろんな負の側面とかいかんことはいっぱいあったとは思うけれども。
その20世紀に経験するなんかマジで生きて帰れん100%生きて帰れんみたいなこととはやはり感覚はかなり違っているっぽい。
いろんな意味で局所的な現象があったってことねこの時代は。
そうですねそこがかなりでかいかな局所的という感覚がなんかすごくでかいかもしれない。
なるほど。
であのそこが再びやっぱ変わってきてしまい。
さっきまでは馬最強だったんですよね。
そうですねはい。
馬最強時代があの単純にその重火器が強くなってきたことでまた覆ってしまう。
どのぐらい目の性的で言うと。
ライフリングの発明っていつだったっけ。
わからんけどライフリングはわかるけど。
ライフリングの頃なので種ヶ島伝来が1600年ぐらいなのでまだその頃その頃が過渡期かそこから19世紀ぐらいまでが多分最も過渡期になるところだと思います。
なるほど。
でそのぐらいのマスケット銃というものが出てきたことでまたみんなの力でなら馬に勝てるようになった。
小田信長の戦略を思い出すね。
あれはなんかでだいぶ過剰にアレンジされていると言われていたりもするんですけど。
でもあのイメージと言えばいいのかな。
西洋のマスケット銃の戦い方で言うと銃剣っていうやつですね。
先っちょに剣がついている銃を持ってなんかねお互い銃持ったまんま全員集まって行進していくらしいんですよ。
はいなるほど。
なぜかというと射程が短いから。
なるほどね。
射程が短くて当たらないから。
面で撃たなあかんわけね。
でみんなで集まって進んで行って射程内に入ったら全員で集まってみんなで必死超えて相手を撃ち続ける。
でなんで逃げないのかっていうと逃げたら殺されるから。
軍隊的に起きていったやつだね。
さらに弾込めしている間も他の人が撃っててくれないと撃たれ放題になってしまうし。
連射が止まったら馬が襲ってくるんですよ。
だから馬に勝てるためには何十人で集まって絶え間なく銃が撃てるようになるという限定的な環境によってついに再び馬に勝てるようになった。
なるほど。
なので現代で言うほどまだ騎兵の価値がなくなったわけでもないんだけれども徐々に変わっていくと言ったらいいのかなそこが。
っていうところから実は歴史で言うとそこからフランス革命の方に流れていくんですよね。
そういう意味でもやはり民衆が力を持つというものと武力みたいなものとかっていうのは関連性があると言えるのかもしれない。
まあちょっと危うい話ではあるけども歴史を振り返ればそうだね。
それはあくまで俺の可能性としての解釈なので断言してしまうのはさすがに危険だと思いますもちろん。
そういう感じでそこからフランス革命が起こるんですよね。
フランス革命によって何が変わったかというとさっき言った傭兵の話と非常に似ているんですけど。
さっきまで傭兵は金のためにずっと戦争をしていたんだけれどもフランス革命によって西洋の感覚で言うと初めて国家ができた。
国民という概念が生まれた。
国民たちは自分の国を守るために戦うので自分たちの国が滅びないためだったらなんだってやるみたいな感覚にまた変わっていく。
さっき言った傭兵たちが戦っている頃は領主が誰になろうが別に村人はどうでもいいんですよね。
自国を守るという観念がないわけね。
概念として自分の国がないので領主様がどっちになろうが別に何でもよくってそこら辺で戦争をしていてパンを出せとか言うから殺されないためにパンを出すみたいなところから一気にまた国民という意識が生まれてきてしまう。
そこから結局さっき言った制限戦争この辺でやめとこうぜっていうのじゃなくてお互いの終わるまで終わらない戦いという概念にまた戦争が変わっていってしまう。
この辺で社会思想の話なんかも出てきたりはするんですけども。
ホップズがリヴァイアさんっていうのを云々かんねんみたいな話とかマキャベリーが傭兵じゃなくて市民による歩兵隊を作るべきだみたいなことを言ってたりするのは割と有名だと思うんですけど。
奴隷論的な観点で言うと実はジョン・ロックが言ってたこととかもジョン・ロックの抵抗権というのを実は奴隷論みたいな感じで読むこともできるんじゃないかみたいな話だったり。
戦争とはお互いがお互いを奴隷にしようとしている状態だと考えると、抵抗権とは奴隷にならないための活動である行動であるみたいな読み方ができるとか。
ルソーの場合はその戦争を国家が戦争をするようになったら理論上奴隷はいなくなるんじゃねみたいなことを考えていたりとかっていうのもその軽く触れられていました。
ちょっと面白いねそれは。
奴隷っていうのがプラトンテック・ギリシャの時代の奴隷っていわゆる現代のイメージの奴隷とはかなり違ったものだったみたいで。
生命と引き換えに自由を失ったっていう考え方があって、他人の所有物みたいな扱いをされたのは異民族とか異郷とのみで、イメージなんですけど金がなくなったから俺奴隷になるわみたいな。
なんかそういうぐらいのライトはちょっと言い過ぎだと思うんだけど、そういう感覚に近いものがどうやらもともとあったっぽい。
戦わないことを選んで、なのに市民、奴隷は戦争に参加しないんですよね。
さっきのそのギリシャでいうと自由市民だけが戦争に参加してたってことね。
アメリカ大陸に連れて行かれた奴隷も建前としては異民族の捕虜だったっていう建前を西洋の人たちは歴史的にはそうだと言っているらしい。
あと、社会思想的な話の軽い話なんですけど、社会契約論的な概念で言うと、実は国家には社会契約みたいな概念はあるんだけど、
現在の国際社会で国連みたいな組織は存在してるんですけど、国と国同士の社会契約みたいなものは実は存在はしていない。
この辺りもとても難しいし複雑な話なので、この本ではそこまで踏み込まれてはいないんですけども、
そういうことを考えてみたりするのもまた新しく勉強できるテーマとしては非常に興味深いものなのかな。国際社会とは何なのか。
国家が契約行為の主体になれるかなれへんかってことかな。
国家がいわゆる社会契約、国家同士の社会契約的なものは現状の解釈だと思うんですけど、として存在していないっぽい。
2段階的な感じですね。国家そのものが社会契約として存在することが肯定されたとして、それを遡って何かはできないわけで。
だから国際社会が社会契約という概念と馴染まないところがあるということなのか。
ここは自分的には難しかったというか、これ以上掘り下げて考えられる感覚は今のところまだないんですけど、
興味深い。これも学ぶきっかけとして国際社会ってなんだろうって国家を考えるとは別のものなんだっていう。
感覚。後でも出てくるんですけど、普通戦争する時って戦線布告をするんですよね。現代の国際社会では。
ただウクライナ戦争ってあれ、いまだにロシアは戦線布告をしていなくて、ロシアの人たちはあれを戦争だと言っていない。
そういうところにも国際社会の曖昧さみたいなものとかがあったりするし、これは何百年何千年経ったらまた、あの頃はそんな時代だったらしいよって言われるものになるのかもしれないですね。
世界規模の統一が、違い封建っていうことがある時点で社会契約的なものを課すのが難しいというのは言えそうやな。
国家というものが権力を持ってしまっているがゆえに、国家を束ねる何かが存在していない。
国家以上の権力を出したところで、結局問題が一段先送りされるだけやから、違うアプローチがいるんだろうね、きっとね。
簡単に理想を言えば、もう一個上の地球国家を作ればいいじゃんなんだけど、そんな簡単なわけはないので。
それでまた地球国家に対抗する何かができて、またそれが争うみたいな未来が容易に想像できるんですけど。
結局ね、そのSFの世界に入ってくる感じにはなってくる、そこまでいくと。
現状のこの国際社会の中で、何か全体的にうまくいく仕組みっていうのを見つけ出す方が多分現実的な感じはしますね。
まあそうですね、しかもそのやっぱり多様な皆さんか国家ごとの、結局国家の利益みたいなことを考えてしまうと、そう簡単にはいかんよなっていう。
まあでも戦争がなくならないという前提で考えると、やはりそこは少なくとも現状はそうなんだし、考えることは無数にあるかなっていう感じですかね。
で、ここまでが20世紀に至るまでの話?
はい、だから僕らが小説とかで見かけるいわゆる戦争、戦争物語ですよね。
ここからが悲惨な戦争になってくるんですけど、もっと20世紀、21世紀みたいなやつ。
本当はこっちがメインテーマだ気がするんだけど、難しすぎるのと考えることが多すぎるので、逆にもうちょっと簡単にの方がいいのかなとも思って。
まず戦争にすごく大きな影響というか、少なくともさっき言ったマスケット銃の頃も人はたくさん死んでたけど、今ほどやばいことにはなっていないんですよね。
で、まずそのやばいことになってしまった最初の大きな存在が機関銃。
ルローニケンシンとかでも出てきましたよね。
出てくるね。
もうこれはズルすぎだろうみたいな感じで。
本当に殺人を作業のように人を殺せてしまうものだった。
ただ実は当時は世間では評判が悪くって。
貴族から見たらあれは何かねその騎士の戦いにあんなものは騎士かなみたいな概念があったんですよね。
で、じゃあどこで広がったかっていうと、貴族のいないアメリカ。
そこで南北戦争でめちゃくちゃ使われるようになった。
だからある種の規範性が動いてなかったからこそテクノロジーが自由に活動してしまったわけだ。
国際社会というものが生まれ始めてしまったがゆえにっていう感じもする。
で、南北戦争が終わりました。
機関銃いらんくなりました。
どうにか金稼がんとあかんよねって。
よし日本に輸出したれや。
そんな流れが。
植民地でいっぱい使ったれや。
っていう感じで母親戦争なんかでは機関銃とか大砲とかすげえいっぱい出てきているし。
詳しくはわかんないんですけど植民地の戦争なんかでも機関銃というものが大いに使われるようになって。
やっぱ強えぞこれはとんでもねえぞっていうので日露戦争だとか第一次世界大戦でも大活躍するようになっていく。
やっぱ戦争が経済を動かすというのかな。
よくも悪くもなんですけど。
つまり作られた動きがまた新たなる流通先を求めてしまうということだよね。
これとか非常に悲惨な話だったりするんです。
南北戦争確か音楽の観点で言うと楽器とかがめっちゃ余ったからそれを手にしてそこからいわゆるジャズとか。
ブルース的なアメリカの大衆音楽につながっていったみたいなそういう素晴らしい歴史を持つと同時にやはりこうやって余ったからつって。
なんか万俗の戦争に使ってやろうみたいな使われ方もやはりしてしまう。
そこから結局どんどんどんどんテクノロジーが発達して第2次世界大戦第1次世界大戦から戦車が登場したりとか大砲を避けるための残豪戦みたいな話があったりして。
どんどんどんどん非人間的になっていくという言い方はちょっと雑なんですが。
効率的に大量の人を殺せるようになっていく。
さらにやっぱり残豪戦とかもこんな悲惨なものはなかったみたいなんですよね。
それはよく聞くわこの辺の人の話を聞くとその表現的にひどさ加減の話はよく聞くね。
単純にトイレとかもないのでどこかで処理しないといけなくてそんな場所に何ヶ月も何ヶ月も立っていて。
さらに大砲が飛んできたりして生きるか死ぬかは運だけだみたいな感じで。
っていう感じでどんどんどんどん悲惨なことになっていってしまうんですよね。
あとなんか他の本とかで読んだ話で言うとその第1次世界大戦とかも始まった瞬間はなんか出戦する兵士たちはね。
なんかもうみんなにこにこしてテーフ入りながらこれ戦争行ってくるわって感じだったらしいんですよね。
まだその人たちの戦争っていうもののイメージが前世代のものを引きずってたっていうことなんでしょうかね。
そんな恐ろしいしかも終わりのないものになるとは想像していなかった。
なるほど。
っていうぐらいなぜかという言い方をすればなぜか社会が世界がそんな風に変わってしまい。
そこから二次大戦を大いに反省をしたんだけれども第2次世界大戦というものも防ぐことはできず。
なんとかその今のところ世界大戦は2回で進んでいるっていう感じで。
例えばその北欧で有名な福祉国家みたいな概念とかっていうのも。
やっぱこの総力戦という各国が潰れるまで限界のエネルギーを持って戦うっていうのがもう二度とこんなことやったらあかんよねっていう考え方から福祉国家っていう概念なんかも実は生まれているみたいで。
なるほど。
その社会の人々に不満を生まさせないようにして。
言ったらだから貧乏だからさっき言った戦争する理由ができてしまう。
そうだね。
そうならないためにそのみんなを助けられるような国家にしましょうとか革命みたいなものをなくそうとする概念として福祉国家みたいなことがあったりして。
ちょっと正確なデータまでは覚えてないんですけど北欧は最も長い間その兵役とかが続いていた今もあるんだったかな。
あるところはあるでしょうねきっとね。
身近なところだと韓国が兵役あったりしますよね。
っていうのでやっぱり意外といわゆるそういう平和っぽい雰囲気の国というものは戦力を持ってたりもする。
あと有名なのがスイスとかも永久中立国って名乗ってるけどあそこはバリバリに武装しているから永久中立国って言ってるだけなんだぞみたいな話とかも有名だったりはするかな。
そういう感じでそこら辺で20世紀とあと21世紀。
もうちょっとあれかあと冷戦とかその辺の話があるか20世紀の。
日本に核が2回落とされて一応第二次世界大戦というものが終了してそこから社会は冷戦の時代に突入する。
核兵器というものは最終的には記号消費の社会になった道具になっていたみたいな概念とかもあったりして。
核兵器ってある段階からもはや強さが強くなりすぎてしまって日本にその核が落とされた時って爆撃機を使って落とされていたんですけど。
現代核ってもう爆撃機では使えないらしいんですよね。
なぜかというとまずそのための空港を攻められたらあまりにもやべえっていう要素と核兵器の威力強すぎるから落とした爆撃機までやられてしまう可能性もある。
っていうので核兵器は事実上ミサイルと原子力潜水艦によって使われるものになってきている戦術戦略核っていう方かな。
原子力潜水艦とか何であるのって言ったら実は原子力潜水艦というものは時刻に核が撃たれた時に報復攻撃をするための存在である。
川口会議の枠の多いですね。
そうですね。そのイメージもあるかもしれないね。ああいうの読んでるといっぱい出てきますよね。
そうですね。
結局これによってどっかが核を撃ったら撃たれた側が滅びると同時に撃たれた瞬間原子力潜水艦は撃ってきた国に報復攻撃をすることが確定しているので
そうなると撃った側も確実に滅びてしまう。ということで核というものは撃ったらお互い破滅するということが確定的なものになってしまった。
ゲーム理論的な感じだね。
相互核傷破壊の存在になってしまってこれによって核兵器は使用価値がなくなり異号的消費であり堅持的消費の存在になってしまった。
なるほど。高い価値。高いコストを払わなかったわけね。
毎年俺たちの核はこんなに強くなったぞって見せびらかしておいてお前たちが攻撃してきたらやばいことになるからなっていうので使いもしないのにお互いに性能アップを自慢し続けないといけないようなものになってしまった。
このあたりもそういう社会学者とかが当時自分は全然知らなかったんですけどこういう社会的な非常に考察みたいなものはいっぱいあるみたいです。
最強なのに強力すぎてもう使えないという非常に矛盾した兵器になってしまっている。
あとこれは著者の主張なんですけど日本に核兵器は2回落とされているんですよね。
何か言われているのが種類、起爆の仕組みが違ったみたいなことを言われているんだけれども。