1. ブックカタリスト
  2. BC120 2025年上半期の振り返り
2025-08-12 1:07:41

BC120 2025年上半期の振り返り

apple_podcasts

今回は、普段アフタートークで話しているような「読んだ本の紹介」です。

2025年の1月から6月までの間に読んだ本の中で、「これ!」という印象は残りつつも、本編では紹介できなかった本を挙げています。

実際にどんな本を挙げているのかは本編をお聴きください。

振り返りの面白さ

さて、読み終えた本を再読することの重要性はよく言われますが、それと同じくらいに大切だと思うのが「読んできた本」の振り返りです。一冊の本の内容を振り返るのではなく、「自分はこれまでどんな本を読んできたのか」を振り返るのです。

そうすると、自分がどんなことに興味を持っているのか、その興味がどのように移り変わっているのか(あるいは変わっていないのか)が見えてきます。自分自身についての理解が進むのです。

「いや、どんなことに興味を持っているのかなんて自明でしょ」

と思われるかもしれません。たしかに行動を自己の管理下に完全に置いているならば、そうかもしれません。しかし、ちょっと気になったからとか、誰かに勧められたからとか、気まぐれで、という感じで行動を開いていると話が変わってきます。

自分が理解している「自分はこれに興味を持っている」という領域の外に出ていけるのです。

そうした領域外の探索によって、自分が知らなかった自分について知ることができます。それ自身が一つの知的な活動といえるでしょう。

その際に重要なのが、後から振り返ることです。

目新しい情報に触れたときは、わりと興奮するものです。目新しさ自体が一つの価値を持つからです。でも、長続きするとは限りません。むしろ大半のものは時間とともに消沈していくでしょう。でも、ある一定の期間で見たときに、断続的ながらず〜〜〜と気になっている話題が見つかることがあります。「何かしらんけど、俺ず〜〜とこれに関する話題を追いかけているな」というような。

それが「テーマ」でしょう。

そうしたテーマが見いだせると、意味が生成しやすくなります。意義と言い換えてもいいです。

個人的にはそうしたものが見いだせていると、虚無に引きずり込まれるのを回避できると考えております。

ですので、皆さんも定期的に自分の活動を振り返り、そこに潜んでいるかもしれないテーマを探り出してみてください。そのために、「記録すること」はめっちゃ役立ちます。



This is a public episode. If you'd like to discuss this with other subscribers or get access to bonus episodes, visit bookcatalyst.substack.com/subscribe

サマリー

ポッドキャスト「ブックカタリスト」では、2025年上半期に読まれた本について振り返っています。特に高野秀幸の著作が多く取り上げられ、移民に関するテーマやドラッガーのマネジメント理論の重要性が掘り下げられています。2025年上半期の振り返りでは、教育の歴史や現在の教育システムの問題について考察されています。最近の教育動向では、学力と人間的な態度の両方が評価されることが紹介され、AI技術の進化が教育に及ぼす影響も論じられています。また、振り返りの中ではエッシャーの作品やその意味、料理や自炊に関する新たな視点が探求されています。特に風味や香りを重視した料理の重要性が語られ、記録を残すことが行為の楽しさにつながることが示されています。本エピソードでは、ヤニス・バルファキスのテクノ保険性に関する理論が紹介され、現代の資本主義の終焉と利潤からレントへの移行について考察が進められています。また、本屋の経営の難しさや出版業界の現状についても触れられ、デジタル出版との関連性が議論されています。

高野秀幸の作品とテーマ
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。 まず最初にいただいたコメント、お便りなど紹介したいと思います。
えーと、たかぴさんが、「それはそうと8月のオフ会に行ける人は羨ましい。読書はファッション感覚で楽しむ。その本とチューニングを合わせる読書感想文を書く効能など、ぼんやり思っていたことが言語化されてて気持ちいいけど悔しい。」
生きてて悔しいと思ったことがあんまりないんですけど、先にやられた感って感じですかね。
半分ファッション用語だというのは思います。
例えばで言うと、先にやられた感みたいなのがあるとか、何なら自分の言語化力が及ばなくて悔しいとか、
こういうことを言えてなかったことが、自分が悔しいなのかな。ちょっといろいろわかんないんですけど、その辺は人によって違いそうで。
会に臨むことで言語化が進んだということなんで、やっぱり言語化を進めるためには何かに参加するとか、ジョインすることが結構必要かなと思いますね。
そうですね。最近、自分が思った新しい概念で、それをコストをかけるという表現ができるのではないかっていう気がして、
手間暇を惜しんだりとか楽をするんじゃなくて、そこをコストをかけることによって価値も高まるし、スキルだったら上達するだろうし、
っていうことがあるんじゃないかとちょっと思い始めていて、ちょっと来年ぐらいのテーマとかはそういう感じを考えてみようかなと思っています。
コスパ主義のほにゃららほにゃららみたいな感じだね。
あえてコストをかけるみたいな言い方の真逆を行く。コストをかけることで幸福になれる、幸せになれる、面白くなれる。
こんないっぱい練習したから楽しいとか、こんな苦労して本を読んだから達成感があるとか、大いにあると思うので、そういうことができたらいいんじゃないかなと思います。
ということで、今回120回なんですが、
ちょっとアフタートークっぽいことを話してもいいんじゃないのか。
完全に内話話だとですね、いろんな制御がなくなって、パブリックで言ったらいかんこととかも言うかもしれないので。
普段、アフタートークで毎回2週間に1回撮ってるんですが、その2週間の間に読んだ本とかっていう、1時間じゃないけど5分10分語れるような本とかを紹介していたと思うんですけれども。
たまにはそういう感じでやってみてもいいんじゃないのか。
大雑把に言うと2025年の、自分の中では1月から6月までを区切りにしたんですけど、
その中で読んだ本を、順番?2とかがいいですかね。
分かりました。
っていうので、だいたい時間が来たら終了ぐらいのイメージで紹介してみようかなと思いまして。
じゃあお願いします。
どうしましょうかね。俺が先に紹介してもいいですかね。
大雑把に時系列に紹介しようと思うんですが。
まず振り返ったらですね、ほとんど全部高野秀幸さんの本になるんじゃないかっていう気がして。
1個目が新しくはないんですけど、高野秀幸さんの移民の宴っていう本。
日本なんですよ、テーマ、舞台は。
なんだけど、日本に住んでいる外国籍の方々が、いわゆる日常で何食ってんのかっていうのを、
十何種類ぐらいだったかな。一緒に一組ずつ実際にそこに行って。
高野さんは小魅力の塊なので、基本的にその場所に行って一緒に飯食ってきて帰ってきてるっていう感じなんですけど。
全部写真もカラーでついていたりしてデジタル版だと。
例えば一つ目は成田のタイ寺院。成田市にはまずタイの仏教寺院が建っている。
例えばで言うと、やっぱりそんなレベルから知らんかったなぁと思うし。
なんかこういうことは、こういう変わった建物があるなぁとかって近所にも中はないんですけど、
そういうところってやっぱその未知が隠れているというか秘境があるというか探検精神があるなぁみたいな話もあるし、
ちょうどタイミングが東北震災のちょっと後ぐらいだったりもして、
そっちの方の在日外国人の方に会いに行ったりとかしてるんですよね。
震災下の在日外国人南三陸町のフィリピン女性がどうだったかとかっていうのも、
当時を振り返ると、やっぱ日本人の目線で日本人以外のことを心配するなんて考えたこともなくて。
向こうにいた場合に、これを読んでなんとなくイメージしたことなんですけど、やっぱ母国からお前大丈夫なのか帰ってこいよみたいなことはやっぱほとんどの人がめちゃくちゃ言われてるみたいで。
外国人から見た東北震災みたいなものがどんなものなのかみたいな観点なんかも得られたりするし。
基本的には娯楽呼び物なんですよね。
別にそういう学ぶみたいな観点ではないんだけれども、やっぱ単純に日本だけでもこれだけ多様な体験ができるという幅の広さ、生きることの視点の広さ。
日本にいながら、なんなら多分現地行くより現地っぽい飯が食えるんですよ、多分。
っていうこともコミュ力取材力でやれてしまうし。
本編でどっかで紹介したエスノグラフィーっていうことをほとんどその論文という形を取らずに書かれている仕事をなされているなというのはちょっと思いますね。
やっぱね、ただのファンなのでそういう観点にはどうしてもなるんですが、結構やっぱり唯一無二の人だと思います。
優遇されてて云々みたいな現実が今あるわけですけど、そこで言われている外国人って言葉だけで、
めちゃめちゃ多いですね、今年の選挙はね、特に。
イメージされてないと思うんだよ。
こういうのを楽しい読み物として読むと、やっぱり具体的な想像力っていうのが育ってくると思うんだよね。
そうですね、確かにそうだね。こういう語学ではないですね、そういう意味で言うと。
文章のセンスとともに語られる何かであれば多分読めるわけで、
その橋渡しというかな、ある種のこの学術的難しさと僕らの閉じた生活っていうのの橋渡しをしてくれているような本かなという印象は受けますね。
群馬県とかはね、モスクがあるとかね、つるみに行くとブラジル人がみんな行く、沖縄系ブラジル人の集まりがあるとかね、
ドラッガーのマネジメント
やっぱすごいんですよ、いかに自分が外国人という言葉を解像度が低いのかっていうのを思い知らされた感じですね。
じゃあ僕も時系列に追いかけるんですけども、本編で紹介してない本で、ビビッときた本で、1月に読んだ本ですけど、ピーター・ドラッガーですね、マネージメントの父の実像ということで、
知る人と知るでさ、僕はドラッガーオタクなんですけども、彼はもちろんマネージメントって企業経営の話をする方でもあるんですけど、
彼の著作の中にはね、そのセルフマネージメントの本もあるんですよね、プロフェッショナルはいかにやるべきかみたいなことを説いてるわけですよ。
彼にとって知的労働者っていうのは、自分が自分のマネージャーである、プレジデントである、何でもいいです、経営者であると、
だから自分がどう進めるのかを自分で監督するものが知識労働者であると、彼自身も知識労働者なので、
だからマネージメントって言葉が、経営者が持ち入る技能ということだけじゃなくて、一般的な労働、知識労働に関わる人にも必要だと
いったことが僕は結構、20代ぐらいからずっと感慨を受けて今に至るわけですけど、改めてそのドラッガーという人がどういう歴史を辿ってそういうことを主張したのかっていう、
彼の個人史っていうのを辿れる本で、やっぱり戦争、第二次世界大戦があって母国を追われてアメリカに行ったっていうその歴史の中で、
その企業というものが人間をどう扱うのかっていうことを考えたということを改めて確認させてもらったっていうところが面白いのと、
これはよく語られるんですけど、彼は学者じゃないんですよね。こういう言い方をするとあれですけど、専門、どっかの学科に属して論文を発表するというタイプの知識人じゃないんですよね。
文章を書いて、人に教えることもして、実際にコンサルタントをするというような、実業的な研究者という感じで、そのあり方もやっぱり僕はそこを惹かれているなぁというところがありまして、
オファーが来ることはないと思うんですけど、学校の先生をやりたいということよりは、彼のように本を書いて実践の中に居続けている知識人、知識労働者でありたいなという感じがあるんで、
改めて読み直してみても、僕の生きるロールモデルのパーツを構成している人やなというのは改めて確認できた本でしたね。
ちょうど前回のアフタートークでも出てきたような気がするんですけど、アシタさんを構成しているのはほぼほぼドラッガーというメサゴだなという印象があって。
ドラッガーの部分が多いし、もちろん日本のホンダ・ソウイスローとかの経営者も呼んできたんで、そういう要素が全然ないわけではないですけど、
ドラッガーに教えられたものは多いかなと思う反面、日本の経営者でもドラッガー好きな人が結構いるわけですが、その人たちの経営理念はあんまり好きじゃないというのがあって。
その点は何かわからない理由があるんですけど、でも大きな存在であることは間違いないですね。
その人たちの何か好きになれない理由というのは、時代が進んで独自解釈というか。
まあ一世代、例えばユニットの前社長とかはドラッガーに研究されてるんですが、どうなんだろうと思いながら。
言いたいことはニュアンスはわかります。
僕は疑問だなと思いながら見つめてましたが、そういうふうにね。
ドラッガーという人自身の歴史を辿ることで彼の思想の位置づけもわかるし、改めてどうやって知識労働者として生きていくのかということを考えた上で、
彼のようなスタイルはいいなぁということを考えさせられたというか、自分の中で復習になった本でしたね。
岩波新書の赤版で出ているピーター・ドラッガーマネジメントの父の実像という本なんで、これから読み始める人も一体こういう人がどういう人だったかって読むと、
マネジメントっていう本を見たときに、なんか堅苦しい経営書なんだなと思う代わりに、もっと親近感が持てるようになるんじゃないかなと思う本です。結構いい本だと思います。
一つしかも岩波が扱うような…
歴史書が書かれるような人になったってことですよね、ドラッガーさんは。
その通りなんやけど。だからその辺の経営コンサルタントとは違うっていう言い方をすると、だいぶあれですけど、ちょっとエポックウェイキングな人やったっていうのは間違いないでしょうね。
まだね、スティーブ・ジョブズは岩波にはなってないですもんね。漫画本とかにはなってたりするけど。
ジョブズ以降の世代にどう引き継がれていくのか、あるいは、よい方向に向かって何か悔いをつくことができたのかは、これからが確認されることなんでしょうね、きっと。
そうですね。ジョブズの場合は歴史には残るけど、思想が残るかどうかはまだ何もわからないし、多分明確に言語化されているわけでもないでしょうかね。
大量の著作があるわけでもないし、教育も、彼自身が直接誰かを教育してたということはあんまりなさそうなので、心のメンターにしてた人はいっぱいいるでしょうけど、ドラッガーの教育に自分が参加してたこともないんで。
リジネス理念を語らない人というイメージで、語っていないというだけなのか、興味がないのか。
新たな高野秀幸の本
まあ、そんなところでございます。
まあ、そういうのはありますね。
はい、どうぞ。
もう一冊だけ高野さんの本を紹介したいです。
おそらくまだ今も最新作かな。2015年1月のやつなんですけど、まず知らん人からしたら、タイトルからして最強だと思うんですけど、酒を主食とする人々。
どうやらエチオピアの科学的秘境に行くと、酒で生活のためにカロリーの大半を摂取している民族というか人々がいるらしいっていうのを聞きつけて、そこまで行って実際にいろいろ体験してくるみたいな話なんですけど。
最近の高野さんの持ってる力と、超絶ボリューム力がどんどん行くところまで進んでいて。
まず、空港の話から始まる旅行者はダサくであるっていう書き出しから空港のシーンから始まるんですよね。
いきなりですね、飛行機が飛ばなくなってしまって乗れんくなって、しゃあないからその日の夜にエチオピアに行こうとしてるんですけど、エチオピアのご飯食べたら、どうやらそのエチオピアの特殊な食べ物についてのアレルギーがあるらしくって。
救急車で運ばれる。医者の人たちはそんな食い物のこと知らんから、アレルギーなんだアレルギーなんだって言ってるんだけど、医者からはアルチュア使いをされて。
アルコールの時何打つんでしたっけ、ビタミンじゃないや、そういう系のやつの注射されてっていうところでまず一生ぐらいを消費していて、これまでで最高だなっていう始まり方をした後、ちゃんとそこから現地に行って体験してくるんですけど、
本当にね、そういう人たちがいるらしい。水分がないのと、基本的に山の民族とかってアルコールを水代わりに飲んでいる人たちって結構いろんなところにいるみたいで、アジアとかが多いのかな。
アルコールにしておけば腐らないので、水分補給源として貴重。ヨーロッパでもビールとかが飲み物になってるのはそういうところだと思うんですけど、なんならそれでカロリーも取れるやんっていうのは、全員が全員ではないけど少なくともマジでそういう人はいたっぽい。
その人たちに会って、実際にいろいろと取材をしてきているっていう。そうですね、基本的にはやっぱ3パーぐらいが多い、3から5までぐらいっていう印象を書いてあったものに対する記憶ですけど。
アルコール分解能力ないと水足りなくなってしまって逆にやべえんですけど、たぶんそういう生存者バイアスというか、そういうものから水分が摂取できる人しか生き延びてはいないんだけど。
自分も最近わかったのは、ビールだったらそこまでやばいことにはならんってやっと気がついて。ビールよりアルコール濃度が高いものを不要意に飲んでしまうと前後不覚になる。ビールまでなら数時間飲んでいてももちろんペースにはよるんだけど、やばいことにはなりづらいみたいなことがわかったので。
もっと分解能力高い人だったらたぶん上手にそこからやっぱ水分取れて暮らしていけるんだろうなという感じはしました。
アルコールは体に健康に悪いみたいな保険的言説は適用できる範囲が限られているようだと思いますけど。
真面目な話でそのことも後半に触れられています。現代の医学っていうのが、所詮そのレベルでしかないという言い方なのかな。
たかのさんはバカっぽい文体なんだけど、やっぱすごいんですよね、その辺。そういうことも小難しい言い方をせずにちゃんと触れてくれている。最初はアレルギーである中判定されるみたいなことをしているんだけど。
だいたい後半はやっぱそういうね、現代社会への問いかけみたいな。前回の移民の宴のそのさっき紹介した話なんかでもやっぱそういう話は後半に出てきてますね。後書き的なところでも書かれていたりとか。
案外社会派なんだけど、持っているものが凄すぎるので社会派要素が表に出てこない。完全に狙ってます。言いたいことがあっても、そういうのをちゃんと上手にオブラートに包んでいる。
その辺も自分がファンである大きな理由の一つなのかなっていうのも俺もかな。
ちゃんと明確に記憶がありまして、記録がありまして。
イスラム飲酒気候っていう本が、確かちょうどKindleが出たぐらいの時期かな。
マタヨシ君が読んで面白かったっていうブログ記事をかつて読んで、レイ・マタヨシの勧めにより読んでみて、そこからその後、よくセールになってたんですよね。
名前を見た時に、あれこれイスラム飲酒気候のあの人やんっていうので、ちょっとずつハマっていった感じかな。
わざわざイスラムに行って酒を飲むとか、どう考えても意味ねえ、必要ねえことやってるやん。最高やんと思って。
そこからですね。一冊目はもう明確に覚えている。
ロックなものは好きやった。その頃から。
たぶんね、それはなんなら物心ついた頃から、やっぱそういう人が好きだったんだと思う。
次どうしようかな。時間があるからちょっとどれを紹介するか迷うとこですが。
これまた岩並みの赤なんですけど、別に岩並みの回し物ではないんですが、教育は何を評価してきたのかという本がありまして。
日本の教育の話で、教育にまつわるような文章を分析していく中で、どんな表現とか言葉遣いとか概念が使われてきたのかっていうのをその歴史的な流れとして捉えるという本でして。
学力って言葉がありますけど、学力って学問の力風な感じですが、学校力なんですよね。実態に近い。
学力を学問力ではなく学校力と表現した方がより。
労力が磨かれていくということがあるわけですけど、この本では能力と資質。資質っていうのを値する性質の質ですね。
態度っていう言葉に注目してるんですけど、態度とかあるいは姿勢みたいな言葉が近年に近づくにつれ、教育の方針に盛り込まれてきたと。
少し戦後からこちらにかけては、もちろん学問的な能力というか問題を解ける力とかっていうに純粋に、単的に言うと生成器が良ければいいわけですね。
でも近年になるとそれはダメなんですね。最近に言うと人間力と言い方をされますけど。
学校というのは学力を求められつつも、人間的により態度を取らなければならない。姿勢を持っておらなければならない。
でもそれって試験で分からないですよね。そういう内面的なものですから。
でもそれに評価されないから、自動的な振る舞いそのものに子どもが対応しようとするというか。
先生に褒められるとか問題にされるようなことをしないようなことになっていくみたいな感じで。
日本で図られているあるいは目指されているものが心の姿勢までに及んでくると。
だからいわゆる能力主義、単に能力があればいいというよりももっと強い力を求められると。
総合的な人間力みたいなものまでが子どもに求められているような教育の歴史の流れがあるという話がありまして。
それはこの本で語られているんですけど。確かにそうだよなと思うんですよ。
明らかに測れないものを測ろうとしているし、そういうのは別に学校教育に課されるべきものでもないなと思うんですけど。
考えたこともなかったし、そもそも僕は学校教育が好きではないのであまり見てこなかったんですけど。
教育システムの問題
日本の学校教育の指針みたいなものを辿っていくと、現代が抱えているある種の病みたいなものの根っこが見つけられるなというのを読んでて思いましたね。
そうですね。教育の力が想像以上に強大で。
何なら今国の文化の違いなんて、教育の違いにかなりの部分が依存しているような気もするし。
どこかにメスを入れなあかん、変わらないわけですけど。なかなか変わってないし。
教育が何評価しているか、あるいはテストの点数で測っているものは何かという話は、学力崩壊という本もあるんですけど。
あれも結局その問題に正しい数字を書くということと、数学的概念を理解していることが乖離していたとしたら、果たしてあれは何を分かっているんだということになって、そこに話も繋がってくるなと思って。
あれのやっぱり難しいところは、例えば小学校の先生が全員の要数の割り算を概念として理解しているのかというと、俺そうじゃないと思うんですよね。
もしかしたらというところまで、だいぶラディカルな話になっちゃいますけど。それぐらい根の深い問題で、例えば教育の授業の時間を減らしたらいいみたいな、そういう解決では多分至れないだろうなということはよくわかりますね、これは。
たとえばで言うと、数学なんて、算数というものが難しすぎるとは思っていて。小学校の頃にたまたま自分は運が良かったのか、4年か5年か忘れたんですけど、円の面積の求め方とか台形の面積の求め方みたいなやつが、こうやってやればいいんだっていう説明を聞いて、結構感動した記憶があって。
だから上底足す下底かける高さ割る2でいいのかとか。円の面積もあのすっげー細かいギザギザのやつを作って、四角形にすれば本当だ本当だちゃんとそうなるわみたいなことを思ったんですけど。
あのイメージなんだけど、一部のそういう算数があまり得意ではない専門は国語ですみたいな小学校の先生とか、なんか本当に式を知っているだけなんじゃないかっていう気がするんですよね。
まあそうだね。
と言うとやっぱり先生に全教科を教えさせることが国でありすぎると思うし。
数学というか算数数学なんていうのはその初年のあたりで解けたらもう後の階段登れないわけですからね基本的には。
まあでもなんかの本で全然そんなことはないみたいな話とかありませんでしたっけ。
やっぱり例えば内円の角度がわからないと時計が読めないみたいなその準説の関係、階段の関係になっているものは当然あるわけで。
だから例えば三角形がわからなかったら三角関数わかりようがないですよね。その概念が実践しないわけですから。
だからそういうのはあるけど、もちろんある程度何かがわからなくても別のことが突然わかったことはあるにしろ、小学生レベルの基礎概念がわかってないと次に進めないっていうことは普通にあるでしょうから、そこの当たりくじというか当たり運が後々影響を与えるっていうことは
でも避けられないですよね。子供の数が減っていったら話は違うのかもしれませんけど、ベビーブームとかの時には先生の数が全然足りなかったわけでしょうから、ある程度ガチャ的な要素が避けられなかったっていうのはあるでしょうけど、今後
例えば先生AIを使ってその教え方そのものをカスタマイズできるみたいなことになった時に変わっていくのかどうかはわかりませんけども。
今後課金力によってどれだけ強い生成AIを持てるかが学力に大きな影響を出てくるみたいな。
AIの教育への影響
まあそういうことになってくるでしょうきっと。まあでも基本的に国が国家が作る先生AIを持たせて指導教育要領を持たせて先生に教えているってことは、その生成AIを作っているのと重なる部分もあると思うので。
という構図としてはそうですよね。
ああ、先生を先生AIだと見立てるならば。
完全に同じとは言いませんけど。でもまあ少なくともこういうのを教えようと決めているわけで。
カスタム指示文がありますからね、ある程度。
うん、まあね、なんかその生成AIで管理ってなると恐ろしい闇が潜んでいそうで、そこに思想改善みたいなやついくらでもできそうになってくるから。
ブラックボックスすぎてわからんっていう。そうやって考えるとちょっとあれですね、闇な感じがしてしまって。
小学校ね、ちなみに息子が言ってるとこ、なんか例えば体育の先生今別だったり、理科だけ教えてくれる先生とか、なんか音楽とか図工とかはいた印象はあったんですけど、そうじゃない教科なんかも入っていたりとか。
今年からね、プールが害虫になって。小学校から運良くなんですけど、歩いて5分ないレベル、隣の建物がスイミングスクールとかっていう感じで、そこを使うようになって。
先生が例えば今の時期に外でプールやるとかって、もうそれだけで超ハードワークでしょ。
300万円の請求が出たみたいな。全体的に管理のお金がかかりますからね、あれは。
うん、それはそう思う。
多分単純にお金だけ考えても安くつくんじゃないかなって気もするし。
良くはなっている傾向は少なくとも、自分の息子を見ているとあるなというのは感じるかな。
そこはやっぱ専門職であってほしいよなとは勝手に思いますけど。
多分。
確かに。
ひらがなとかってどうやって教えてるんだろうなって今思うしね、言われてみたら。
なぜかみんな読めるって言うでしょ。しかも多くの人類は法則性を見出して読めるようになるけど。
コンピューターがやっと読めるようになったけどね。ちょっと前まで読めなかったし、書かれてる文字とかも。
そういうことの難しさが確認されて専門化されていけば、教育制度そのものも少しずつ変わっていくのかもしれないです。
まだまだね、そこら辺は大きな差が、いろんな差があるなという感じはしますね。
はい。
じゃあもう1、2冊ぐらいいけるかな。
エッシャー完全読解。なぜ不可能が可能に見えるのか。
山本さんと吉川さんの番組で紹介されてて、図書館に行ったら新着本みたいなところに偶然置いてあって、やったぜっていう感じで借りてきたやつなんですけど。
エッシャーって言ってどのぐらいの人がちょっと通じるのかよく知らないので、超簡単に言うと、ありえない状況を描いた絵を描いた人で、
たぶん世界で一番有名で誰も超えられていない作家なんじゃないかなっていうふうに。
一番有名なのが、下から上に向かって流れる滝っていうか滝が無限に流れているやつとか、
もう1個有名なのが多分無限階段ですよね。ずっと上がっているずっと下っている階段とか、他にも有名な作品がいくつかあって、
簡単に言うとこれを徹底的に分析して、どこがどう、どのように描かれていることで我々はそれを騙されてしまうのか。
っていうのを、悪く言えば種明かしを楽しもうみたいなこと。全然専門でもなんでもなくて、純粋にエッシャーが好きな人なんですよ。
で、その人が、確か学者とかそっち系の人だったと思うんですけど、が、ファンが書いたファンブックなんなら言い方としては。
で、例えばなんでこうなるんだろうっていうのを、やっぱ全部答えを書いてしまうと、そもそも趣旨に反するというか、読む意味がなくなってしまうんですけど、
エッシャーの作品の分析
基本的に言えることは、まずすべての登場人物に必ず意味があって、その意味のない人というのは全く存在していない。
で、極論を言うと、書かれているパーツに無駄なものが何一つ存在していない。すべてが意味を持っていて。
たとえば1枚目の絵が、検索していただくといいんですけど、モノミノ塔っていうエッシャーの作品。
なんか、はしごがかかってんだけど、はしごが外側から内側につながっているという言い方をすればいいのかな。
っていうところに何人か、例えばある人ははしごを登っていて、その人というのは、はしごが違和感に気づかせるためのものっていうのかな。
あれ、これはしごおかしいやんって気づかせるためのものなんだけど、なんかその下に女の人が歩いてたりして、女の人と部下みたいな、従者みたいなのが歩いているのかな。
で、その女の人っていうのがロングドレス着てて、後ろがすげえ長く垂れ下がっているんですよね。
こういうのとかも、地面はここだぞって騙させるために伸びているとか。
端っこでその横を見ている人が、外を見ている人がいるんですけど、建物の縁に立って。
で、その人がそれぞれ違う向き向いてるんですけど、これも実は作詞を使って、この絵の大雑把な解で言うと、
本来なら上から見た形と下から見た形を上下入れ替えてつなげているっていうのかな。
この構図って下から見えてないとおかしいし、こっちの構図って上から見た時のズレだよねっていうのを無理やりドッキングすることでおかしくなくしている。
だけどそこに上手いこと屋根の高さ変えたり、人をあえて外向かせることで、そこが変だと分からせないようにしてしまう。
みたいな謎があって、すべての登場人物とか、すべての屋根の形とかドアの形とか、ほぼすべてにちゃんとそういう意味があって。
著者は、俺が見たレベルで全部種明かしっていうか、謎を解明している。
なんかね、コンピューター、CGとかCADとか使って再現してみたとかもやってたりするし。
ファンがすごいなっていうのと、これを超える人が未だに多分少なくとも知名度高いレベルでいないっていうところもやっぱ恐ろしい凄さだなと思うし。
やっぱ発想が異次元なんだろうね。
何だって写実でもないし、抽象画でもないし、何をしたいのかというところが多分ちょっと他の方とは違う感じがするね。
今ふと思ったけど、生成AIは似たことはできるけど、これは多分絶対できない系の方向なんじゃないかと思うんですよね。
こういうの意図的には作れないでしょうね。
そうそう、なんか指が増えるとかするけど。
この辺りもやっぱね、未来のこれからのクリエイティブのヒントとかにもなってくるのかもしれない。
やっぱ基本的に生成AIは多数決なので、意味を求めて作ってないですからね。
そこに意味をずらすっていう、そういう観点でもすごく研究できるところはあるのかもしれない。
あれ柱どっち?こっち?そっち?って言って、視点がずっと動き続けるからずっと見てられるんだよね。これすごいなと思うわ。
なんでなんていうか、囚人の場所とかも意味があるとかすげー面白かったですよ。
なんでこの囚人って実はちゃんと分析するとすごい変で、牢屋にとらわれてるってよく見るんだけど実は変で、これもずらしが行われていてっていう。
大きく5作分解説されてるのかな?とか、昔のエッシャーの絵とか、軽くエッシャーの全体的な人生みたいなところなんかにも触れていたりもしていて。
基本的にね、自分の中で俺は誰にも理解されない系のことを思っていたタイプの人みたい。
数学者とかとは結構交流があって、その辺からヒントみたいなものは得たりしてるんだけど、そんな単純じゃねえっていうのがやっぱり著者の意見かな。
一般的にこの無限階段って何々これって言われてるんだけど、そんなもんじゃないんだよっていう感じ。
その良い娯楽本でした。
自炊に関する新しい視点
3月に読んだ自炊者になるための26集という本でして、自炊する、自ら炊くという字を書く自炊ですが、
ご飯を作る方。
三浦さんという方が書かれてるんですけど、理系の料理じゃなく文系の料理というところで、
非常に簡単なところから少しずつ難しいところに向かっていくような料理なんですけど、
著者は男性なんですけど、男の料理という感じではない。
だからといって、料理店で出すような料理を目指すようなものでもない。
飾らない質素やけど内実がある。
非常にアバウトやけど。
なるべく手間は惜しむけど、かけるべき手間はかけるみたいな。
サンプル料理の手前に。
例えば何かそういうのありますか?サンプル料理みたいな。
魚を魚屋さんでちゃんと買うみたいな話。
それさえクリアしたら、
作る以前のところから。
料理は美味しいみたいな話がありまして、そりゃそうだろうなと。
調味料とかもちゃんとこだわった方がいい。
いいものを買った方がいいという、
手抜き料理ではあまり語られないような料理の基本の話がいっぱい出てきて、
それ自身が勉強になるんですけど、
本書の中核的に僕が一番ビビッときたのが、
風味という観点。
風味って定義するのは何か難しいんですけど、
基本的には香り的なもの。
プラス味。
僕らが味って言ってるものの多くは香りだという話は有名だと思うんですけど、
かき氷がそうですよね、基本的には。
味は一緒だけど香りだけが違うみたいな感じ。
風味を大切にする料理だと、
自炊というのがいいと。
風味を関係なく美味しさと言うだけであれば、
グルタミン酸とイノシシ酸を入れれば旨味があるわけですよ。
でも風味というものを自分で作って、
その場で自分で素材を調理して食べることで、
初めて生きていく風味というのがあるし、
それぞれの食材が持っている風味というのは、
やっぱり産地によっても違うと。
だから産地にこだわることも、
風味を重視すれば自然に出てくる発想だということで、
手間とか値段とか、
単純な意味での味じゃなくて、
風味ということを切り口にすると、
自炊することの意味が立ち上がってくるということが、
本書では感じられまして。
料理の本をこんな風に書けるんだなと、
僕は感心したのが一番大きかったですね。
そうですね。
いわゆる飯系の料理、漫画とか無数にあるけど、
やはりみんな旨いか、あとその人情があるか。
だいたいその二択しかない。
食材を自分で買いに行くということの意味が立ち上がってくる。
コンテキストが出来上がってくるし、
だからこう言われると、
ちょっと手間かけても何かしようという気持ちになるんですね。
呼んだ人が。実際僕はなったんですけど。
美味しい料理だったらコンビニに行って、
数百円払えば買えるわけですよ。
でも確かに独特の風味。
同じ値段であの美味しさにならないですよね。
湯気に含まれるあの香りそのものはやっぱり再現できないわけで。
美味しいパンとは違う。
食パンもちゃんとトーストして開けば、
もうそれは料理と言える。
記録の重要性
食パンでいいのか。
そういうレベルから始まって、
ちょっとずつ魚を捌くとかっていう話になっていく。
その26週間かけて実施していきましょうという本で。
僕たちが食べている時に何を感じているのかっていう理論立ての話と、
実際にどんな風に料理を進めていこうかっていう、
実践の話が両方載っている本でして。
僕はこれに類する調理の料理の方を見かけたことがなかったんで、
これはもう本当にすごいなと感心した本でしたね。
あとあれですね。
風味という用語をきちんと定義というか、
その前面に出して、いわゆる何て言うんだろう。
手間をかけるとか、
あとは言語化できない最強ワード、愛情とか。
そういうのに頼らないところがいいですね。
文学とかからの概念参考もあって、
文系的なものが好きな人は単純に読んでて面白いと思いますけど、
自分で料理をするとかしたいと思っている人が、
ある種の実践の導きとして読んでも非常に役に立つというか。
やっぱ案外がいいですね。
料理は手間をかけずにやるのがいいんだって言い出すと、
最終的に自炊しないっていうことになっちゃうんですよね。
結局、もしくは米から作りましょうとか、
そういうことになってきてしまう。
非常にいいバランスに落ち着くという感じがありまして、
その辺のバランス感覚もいいなと思います。
そうですね。ほとんどが風味っていう切り口で説明できますよね。
さすがに米作らんでいいだろうってわかるし。
そうだなという感じがするので。
だからそこはやっぱり自分で料理する、
しかもちゃんと料理作家が得意な人が料理について書くと、
こういうことになるんだなというふうに、
物書きとしても感心した本ですし、
料理する人間としても面白いなと思った本でしたね。
俺ね、直接的には関係ないんですけど、
最近ちょっと料理のやる気が出てきていて、
何が変わったかというとですね、
ちゃんとレシピを書いて記録するようになったことで。
一時、やっぱりObsidianの上手な使い方の代表格として、
料理のレシピっていい例なんですよね。
肉料理、魚料理とかフォルダーでは
対応しきれないよねっていう代表格で。
いろいろやってたんですけど、
なんというかしっくりこなかった。
できるんだけど楽しくないというのかな。
できるのと楽しいのは違う。
Linkという概念を思いついて、
よし料理もそれにしようと思って、
一個一個集めていく感じ。
作った料理をレシピにして並べていく
っていうことを順番にやってみたら、
作る前に例えば工夫しようと思うし、
感想とかもちゃんと書いておこうと思うし、
そう思うことによって作ることにやる気が出る。
作業にしないようにしたというのかな。
だとすると、たとえ同じものを作っていても、
心持ちで結構概念が変わるという。
すごく普通なことではあるんですけど。
精神論に聞こえるかもしれないけど、
実際その通りなんだよね。
精神のありようによって、
精神論ですね、用語で言うなら。
根性ではないと思うけど。
心がけ論、根性論で心がけ論やけど。
それはやっぱり人間が行為に対して意味を感じる。
意味っていうのはコンテキストに立ち上がるから、
姿勢っていうのはそのコンテキストを変えるという意味で、
非常に有益なんですよね。
そんなもんなんだなっていうか、
確か前回のアフタートークの時に、
俺個人的には本を読むより、
記録をきちんと残すことの方が重要だと思うぞって言ったんですけど、
そういうマインドを変えてくれるという意味でも、
記録を残すということに価値はあるんだなというのは、
新たに思いましたね。
記録の残し方の姿勢っていうのもあるわけですよね、当然。
作業的に残したらダメなんですよね。
すげー難しくって。
記録を残すことが楽しさにつながって、
どう楽しく記録を残すか。
好循環になったら、
行為と記録は両方うまいこといくんでしょうけどね。
自分の場合やっぱ、
ちょうど新しい仕組みを試して実験してみるという先進があると、
多分最初の頃はオブシディアンで、
どうやったら料理の記録が上手に整理できるだろうっていう、
実験が楽しいからやってたんですけど、
それが変わらなくなると、
作業になってつまらなくなるんですよ。
だとすると、
あと2,3年したらまたつまらなくなるかもしれないけど。
自分の場合はやはり、
そういう意味で言うと、
同じことを続けてるけど、
同じことではないんですよね。
その辺も大事なことというか、
そうですね。
長く続けるには大事なことなんじゃないかなと。
あとじゃあ最後にみたいな感じかな。
日付で言うと、
5月末に読み終えた本なんですけど、
テクノ保険制っていうやつ。
確かこれもアフタートークで簡単に紹介したと思うんですが、
バルファキスの理論
ギリシャの経済学者、
ヤニス・バルファキスさん。
出自が有名な人で、
有名っていうのかな。
ギリシャが経営破綻、
国家として財政破綻をした時に、
経済の担当大臣になって、
借金なんて返せん、無理だって突っ跳ねて、
世界中から猛非難を受けたっていう有名な人なんですよね。
一応、そういう考え方はなぜ生まれるのかみたいなのが、
この人のいわゆる経済学としてのベースに存在していて、
一つ前の、
父が娘に語るうるるる経済の話っていう、
タイトル的に超鬱陶しいやつがあるんですけど、
それが人気で、
大雑把に言うと、
それは父が娘に語るの方は、
経済の入門書、
専門用語を使わない現代の経済はどんなものか、
っていうものを歴史とともに紹介している本なんですけど、
このテクノ保険性は大雑把に言うと、
今現在とか近い未来みたいな話が、
どんな状態になっているのかっていうのかな。
で、著者が言うにはめっちゃ雑な言い方をすると、
もう資本主義終わってて、
今テクノ保険性という時代になっているよっていうのが大きな主張。
で、一番自分がおおって思ったのが、
資本主義というもので一番大事なのは利潤である。
利益が出てなかったら会社は続かないので、
会社は必死こいて利益を出すことに邁進する。
そこが資本主義の始まりであり、成長の原動力であった。
っていうのが著者の説明で、
対して現代なんですけど、
現代はもう利潤の価値が本当になくなってしまって、
支配するのはレント、いわゆる地代ですね。
場を貸している料金になってしまったっていうのが大きな主張で。
例えば有名なのがちょっと昔の話なんですけど、
Amazonとかがずっと赤字なのに、
企業がどんどんどんどん成長していって、
気が付けばAWS含め、
誰も買ってない場所に来てしまっている。
Amazonの収益の大半って今だと確かAWSのところだったと思うんですけれども、
Googleなんかもイメージとしては分かりやすいんですけど、
最初はみんなに使ってもらう検索という仕組みを使って、
世界中の人が検索に引き付けられ、使いまくるようになったら、
そこに広告乗っけたらクッソ儲かるやんとか、
あとGoogleで上の方に来ないともう誰も来てくれないやんっていう時代になってしまって、
Google自体は場を支配するまでにやっぱり一切利益なんて出してなかった。
Googleも今も言ったらなんですけど、
Google検索結果という場所を軸にそこから金を取っている。
これって保険領主がその子作民に土地を使わせて、
そこから地代を徴収しているのと変わらんどころか、
もっとやべえよねっていうような話っていうのかな。
世界を少しずつ幸せにしていったような流れとはもう変わりつつあるってことだよね。
もう変わった。なるほど。
著者は多分変わりつつあるじゃなくて、もう変わってしまっただと思う。
他にも何だったっけ、テクノ、何だったっけ、監視資本主義とか、
いろんな用語が飛び交っていて、
一律のまだ見解、みんなの統一的な見解みたいなものはやっぱないんですけど、
小難しい本を読んでいくと、最近概念としては資本主義が進化じゃなくて、
もう終わってしまっているみたいな考え方とか、
資本主義とは違う危うさ危なさみたいなものがあるっていうのは最近増えてきているなって印象ですかね。
保険主義の中での民主主義がどうなるかというところも別途気になるところではあるが。
資本主義の変容
テクノ保険主義になっているって言われちゃったら、どうしたらいいのっていう話になるよね。
これは答えがあるっていう本ではやっぱりないような印象があって、
これをもとに考えていこうじゃないかなっていう。
ロボット車が乱立して打破するような対象ではなくなっているのか。
この人は基本的にマルクスに対しては好意的ではあるんですけど、
同じやり方ではダメだっていうような意味で、
あとちょっと時間が経って記憶が飛んでいたんですけど、
団結しように近いようなことは最後で言っていたような気がする。
何らかの我々みんなで対策していかないといけないみたいな、
やっぱ株主、お金持ちは地球がどうなろうが自分たちに利益が何も問題ないので、
我々が団結しないとお金持ちが決定権を握ってしまう。
司法主義では、それはあれか、父が娘の方で書いてあった話かな。
基本的にでも大きな意味での団結の強さみたいなことは、
確か語っていたと思います。
できるかどうかは別にして、その可能性があるわけですけど、
法権主義になってしまうともう無理だもんね。
法権主義はフランス革命を起こさないといけない。
法権主義は使わないという反旗を揺らさないと無理だもんね。
出版業界の現状
暴動を防ぐ力も圧倒的に強くて、
Googleの検索結果から消すなんて、
悪意を持ってGoogleの人たちが操作すれば楽勝なんですよ。
そこに子の利益としてはやっぱり従うことが正しくなってしまう。
でもどんどん奴らの場所代高くなるからねっていう。
危機感煽るだけでは意味がないので、
そこから考えないといけないんですけど、
考えるスタート地点としては非常に、
少なくとも見解が広がったという感じはしたかな、自分としては。
どんな敵がいるのかちゃんと見極めるということは、
適切な行動においては必要なんでしょうね。
じゃあ最後の一冊なんですけども、
本編で紹介するつもりがあるのは言っておいて、
町の本屋はいかにして潰れてきたかという、
知られざる戦後諸典構想史ということで、
やっぱりね、本屋が潰れてると言われてる昨今、
本社のタイトルが潰れてるっていう表現がすごいんですけど、
これ町の諸典が消えていったみたいな話が、
述語が多いんですよ、こういうのって。
でも明らかにもうそこで職を失った人がいる。
その濁すわけね、なんかうまく言えんけど、そうやって。
本社の、著者がこだわって使った話ですよね。
出版社的にはもうちょっと言い換えがあるんじゃないですかって言われたんですけど、
潰れてきたという言葉、選択したという言葉が書かれていて、
でもやっぱり一つの事業が立ち行かなくなって消えてしまうという、
その状況を適切に潰れると表現したのはさすがですし、
やっぱり僕は一応交流業にいたからわかるんですけど、
もともと交流業って難しい商売なんですね。
在庫を抱えて売り上げがタタタタ赤字になって、
っていうことの中でも、
特別やっぱり本屋の経営の難しさっていうのを感じるのは、
値段が変えられないっていう、
その再販制度とセットになっている値段固定制度こそがやっぱり一番の課題で、
全国で全く同じ値段で売られている商品なんですよね。
当たり前のように感じますけど。
今や例えばマクドナルドですら地域の流通コストが違うのにね。
それは当然地価とか物流コストが違うから当然なんですけど、
その当然が通じない上に、
出版社も今まで基本的に値段を上げてこなかったんですよね。
値段を上げると売り返りが減るからなんですよね。
だからその代わりに出版部数とか出版店員数を増やすことで、
売上をカバーしてきたと。出版社は。
でも書店にしたらそれってすげー迷惑なわけですよ。
そう考えたって。
常に割り置くっていうのは出版会編集で書店なんですよ。
何もかも変えられない。
送られてきたものを売るとか、商品の値段を変えられないっていう状況の中で、
今の今まで商売続けてこられてきたっていうことにやっぱりその経緯を感じますし、
今潰れてしまう潰れるのが大きくなっているのも、
やっぱりデジタルができたかとかインターネットができたかということよりも、
はるかにもっと手前に構造的に問題があったのを、
もう今やもうそれをカバーできない、ケアしきれない状況になって、
その問題構造がもう明らかに露呈してきているっていうことを一つ示しているんで、
書店に対する施策っていうのを変えていこうと思ったら、
だいぶ根本的なレベルまで出版とか流通を動かさないと解決できないでしょうし、
普段自分本を買ってて、例えば岩波書店の本は変本できひみたいなことを知ってたとしても、
業界の実際の具体的な数字踏まえてこうなってますよっていうことまではやっぱり分かってなかったんで、
本好きの人とか書店なんとかせんなあかんって思ってる人は一旦やっぱりこの本を読んだ方がいいなと、
だからやっぱり出版業界について語る上で、
現在まずこの本を読んどいた方がいいなというのは思いますね。
だから僕らのような個人の現状を把握しちゃうというのは、
最悪例えば書店経由じゃないとか出版社経由じゃない形でパブリッシングできるわけじゃないですか。
だから無関心であることも一応あれるんですけど、
それはまずいなと思うんで。
背景として本を読むという習慣は本を作ってくれている人たちが作ってくれたものですからね。
基本的には縮小構造になっていくことも間違いなくて、
本に関わる人間として本を作るから売るまでの流れっていうのは把握しておいた方がいいなとも思いますし、
単純に読書好きの人であればこういう本を読んで、
本屋に本を買いに行こうという気持ちになると思うので、
全般的に今でこそ読まれてほしいですし、
やっぱり戦後からこっちにかけてのこういう資料を扱った情報って、
インターネットでほぼ出てこないんですよ、基本的には。
結局ネットに情報はあんまりないんですよね。
やっぱりこういう仕事が本の形でなされるということも併せて大切かなと、
インターネット自体で特に大切かなとは思います。
ちょうど芥川賞を書いて話した芥川賞とか直樹賞の時代の歪みがすごく大きくなってきている。
よく100年もったなって感じではあるんだけど。
これからやっぱりどういう形で本屋が生き残っていったらいいのかなっていうのを考える上でも、
やっぱり歴史、新しいことを考える時には歴史を辿れということは一つの指針として言えるんじゃないかなと思いますけど。
新しいものを作るのは前例がないからみんな頑張れるんだけど、
古いものを変えていくのは辛いんですよね。
いろんな交渉をしないといけない政治的な。
その上で、しかもそれは良くなるとは限らないわけね。
新しいデジタル出版だって言ってた方が楽なんですけど。
でもね、やっぱりそれは…
これからの時代はこうですって言った方がはるかに楽だよね。
それはもう昨今のテック業界全般に言えることなんで、それは本に限らないことですけど。
テック業界は歴史を簡単になくしてくるんで、やっぱり良くないなと思います。
まだ所詮歴史ないですからね。
まだまだ2、30年ぐらいがほとんどなので。
まだ世代変わってないですもんね、そのテックの経営者たちが。
1個古いAppleとかあの手のところがやっと変わったけど。
歴史積み重ねていた歴史があるものをテックがどう扱うかっていうのは、
多分今後大きな問題になってくると思います。
ですね、はい。という感じで。
まあ、アフタートーク逆にこんなに丁寧に一冊一冊紹介せんような気もするけど。
普段だともうちょっとあれですね、イメージで言うと。
そこから思いついて、さっきの話で何かどっか話が広がっていくみたいなこともあったりするし。
所詮と同じく、我々も健全な運営ができるためには、
どれだけちゃんとサポーターの人が入ってくれるかっていうのにはかかっていたりもするので。
120?やった?
2、300時間ぐらいは費やしていると思うので、本編だけで。
ちょっと報いてやろうと思う人は、
そういうふうにサポータープラン等々を検討していただければ、
ファンの人からはだいぶ満足度が高いように反応と帯びていると見受けられます。
ので、よかったらご検討いただければと思います。
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました。
01:07:41

コメント

スクロール