ポッドキャストの導入
きんじょうひでき
こんにちは、readline.fmです。readline.fmは、つんどくが趣味の2人が、何かの本を読んだ感想を雑談するポッドキャストです。
ハッシュタグは、ハッシュ・リードライン・FMです。ミクシー2にも、リードライン・FMのコミュニティがあります。
ホスト役は、げんえいさんと、きんじょうです。それでは、げんえいさん、よろしくお願いします。
げんえい
よろしくお願いします。
きんじょうひでき
今回、読んでいくのが、ソフトウェアとか、マネジメントとか、そういうところから離れて、今回は本を読む本という本ですね。
げんえい
古典ですね、これもまた。
きんじょうひでき
ヘイポッドキャスト史上最古典ですね。
げんえい
そうですね。
きんじょうひでき
そんな単語があるか知らんが。
年初が1940年。
げんえい
1940年だそうです。
きんじょうひでき
100年は全然経ってないんですけど。
げんえい
でも、80年以上。
そうですね。
日本的な視点でいくと、戦前なわけですよね、まだ。
そんな中に出た本。
日本語に翻訳されたのは、1978年に日本ブリタニカという出版社からどうやら出てたらしいんですけど、
今、今回我々が読んでいるのは、97年に高段車学術文庫から出たバージョンを読みましたね。
それでも、97年というとだいぶ昔ですね。
きんじょうひでき
そうですね。特命リサーチ2000Xとかやってたぐらいの時代ですか。
げんえい
すごい懐かしい番組が。
きんじょうひでき
あれね、エンディングがずっとトラウマなんで、怖いんですよ。
げんえい
すごい面白かったなと思って、俺は見てた記憶だけはありますね。
きんじょうひでき
面白かったですね。
あれで、かかとをつけないで走ると速くなるっていうのをずっとミニバスやってたんで、ちょっと実践してました。
げんえい
もう絶対、新卒で入ってきた若手には伝わらない番組ですね。
きんじょうひでき
そうですね。書いてる人もそうなんですけど、役者野山茂彦さんが、至高の生理学とかで、めちゃくちゃ有名な人で僕はそれを読んだ印象が強いですね。
げんえい
東大・京大で一番売れた本って言って、帯がよくついてた至高の生理学。
みんな読んでるの普通誌書みたいな感じになってたけど、別に周りで読んでる人全然見なかったけどなって俺は内緒思いながら。
きんじょうひでき
そうだよな、全然通ってたの東大じゃないのに、大学の生徒に東大で売れた本みたいなの書かれていって、なんかプライドないのかと思った。
げんえい
寺橋彦さんは、他にも読みの生理学とか、あと乱読のセレンディビティとかっていう本があったりして、結構読書とかについて書いてたりもするんで、これ読んで気になった人はそっちも読んでみると面白いかもしれないっていうのがあったりしますね。
乱読のセレンディビティ面白いですよね。面白いけど、改めてこの本読んだ後にあっちの話を思い出すと、割とザクのこと言ってる。ザクとまで言わないのか。違うスタイルの話もしてるんだなって感じになりますね。
げんえい
そうですね。今回はちょっとソフトウェア開発のあれから離れて本を読む本になったんですけど、これはどういう経緯でこの本読もうってなったんですかね。
きんじょうひでき
私たちのポッドキャストを本読んでるから本読む本やるかって言ってなりましたね。
げんえい
というわけで、今回はその本を読む本ですね。
きんじょうひでき
あと、著者MJアドラーさんとCVローレンさんって書いてあるんですが、この方たちはあんまり僕は存じ上げなかったんですが、何か追加できる情報はありますか。
ないです。
じゃあ行きますか。
本の内容と読み方
げんえい
はい。
全体的な話で言うと、1940年の本だよねっていうところはさっきコンテキストとして共有したんですけど、読んでみて古臭いとか、今でも全然錆びてないなとか、錆びてないなとか、そういったあたりの感触ってどうでした。
今読んでも全然話は通じるというか、本読むときってこう読んでるよねとか、自分は2回目だったんですけど読むのが、そういえばこういうこと書いてあったなとか、これって結構意識できてないな、読むときに、みたいなこととかは読み返しても思ったし、1回目読んだときも多分同じことを思ってたような気がするなって思いましたね。
きんじょうひでき
あれですね、読むに値する本はもう一度読み直したとき不思議なことに気づくのであるって書いてありましたからね。
げんえい
書いてありましたね。
きんじょうひでき
じゃあすごい読む価値のある本ということで。
げんえい
実際こんなに250ページくらいで、そんなに分厚い本ではないし、これ一冊読んでおくと本読むときにいきなり自由型で一冊本読みましょうって言われたときに、何のあてもなく読み始めるよりは全然これを読んで、こんな風に読むといいのかなみたいなイメージをつけておいて、本読むとはもうだいぶ違うだろうなって思うくらいに、
結構効果はありそうだなっていうようなことが書かれてましたね。
きんじょうひでき
そうですね、なんか僕も同じような感想で古びてないなっていうところはありますね。
そうですね、読書のレベル上げたいっていうときに読む本かなっていう気がしていて、
どうなんだろう、全く今まで本読む習慣ないんですよねとか、本当に読書が苦手で苦痛でやれてないみたいな人だとちょっとレベルが高いかもしれない。
げんえい
つきにくさはあるかもしれないですね。
きんじょうひでき
ハードコアですよね。
げんえい
そうですね。確かに自分は2回目なんで、こういうこと書いてあったなとか思いながら読み返してたんですけど、2回目でもちょっと意味が取りにくいとか、
あれ今どこを読んでたんだっけみたいなちょっと迷子になることはあったんで、初見で読むと確かにちょっとしんどいのはあるかもしれないですね。
きんじょうひでき
内容というか提案してるやり方も結構。
げんえい
そうね。
きんじょうひでき
挙句の果てにそんなに世の中に100万冊本があったとて、何度も何度もしっかり読むべきに本、そこに値する本は限られているみたいな感じのスタンスですね。
げんえい
そうですね。
きんじょうひでき
まあでも内容入っていきますか。
げんえい
そうですね。
きんじょうひでき
ちゃんと読めたっていうことはしっかり筋をつかめている、ようやくとかがちゃんとできてるよねみたいなことが書いてあったんで、ようやくをちゃんとしないといけない。
大筋としてはいい読書をするにはみたいなことですね。目的を持って本を読むっていうところも、じゃあ本読書自体の目的ってなんだっけみたいな話から入って、
それは知識を増やすとか学ぶとかっていうことだよねっていう話で、読書って言ってるけど本当になんだろうな、すごい読書っていう行為をめちゃくちゃ説得的なもの、会話だとかっていうふうに捉えているので、
同じ1ページとか1冊読むにしても、じゃあそこからどうやって真に迫るというか、めちゃくちゃ深い学びを得るようにやってきますかね的な話だったりだとか。
1冊の本を読むとか、1つのテーマを探究するっていうのは、ただ与えられた1冊を読めばいいっていうだけじゃなくて、もっと広がっていく読み方もあるっていうようなところまで最後連れてってくれるっていう感じでしたね。
特徴的なのは読書には何段階かレベルがあるよみたいな話がもう1個、説得性っていう話とその読書のレベルっていうのを展開しているっていうのが結構この本の一番のメインコンテンツかなっていう感じがありますね。
そうですね、自分もこの本を読んで何かを持って帰ってもらいたいと、人に勧めた時に持って帰ってもらいたい。ここが一番大事だなって思うところはやっぱり読書のレベルの話があって、1、2、3、4、4段階のレベルがあって、とにかくここを重点的に知っておいてもらえたら、この本は読んだと言っていいんじゃないっていうふうに言えるかなっていうふうに思いながら読んでましたね。
文学と教養の違い
きんじょうひでき
そうですね、個人的にはあれなんですよ。正しい読み方っていうとあれかもしれないんですけど、追求するべき読書のやり方とか、それぞれのレベルとかやり方っていうのがどういう状態になったらちゃんとできたって言えるのかみたいなことが丁寧に書かれている本なので、なんていうか雑に語るの怖いですよね。
今読めてないことがわかりましたっていうツッコミがすげえきそうだなって思いながら。
げんえい
学者が哲学書を読んでどういう解釈をするかとか、ある研究者の思想をたどるみたいにやったときの読み方とは全然違ったりするんで、自分たちに必要なレベル感みたいなところってどこなんだっけっていうことを思いながら、結局この本を読むときにどれぐらい深く読まないといけないんだっけとか、一旦今は自分はこの辺までわかってればいいよねとかいうところが結構あるのかなって思ったりします。
なんでちゃんと読めてないよねってなるかもしれないけど、今の段階ではそこまでが必要じゃなかった。内緒はそこまでいけるぐらいのレベルではなかったということで、いいんじゃないかなと思いながら。
きんじょうひでき
あと教養っていう言い方をこの本だとしてますけど、科学書とか実用書とかみたいな話、文学の本の読み方は全然異なりますよっていうのも書いてあって、基本的には教養の方、要するに知識をつけるとか学びを得るみたいなことを目的とした読書っていうのがメインで、
文学の読み方も一応全部で4部構成の本なんですけど、第3部が文学の読み方っていうふうに書いてあるんですけど、それ以外は話がややこしくなるから文学の話は避けてますみたいなスタンスですね。
げんえい
そうですね。
きんじょうひでき
多分今回の我々もだから、その教養の本について基本的には話すかなっていう感じですね。
げんえい
逆に言うともしかしたら世の中ではあんまり読書しない人とかからすると、読書って一括りにしていて、小説を読むのとビジネス本を読むのを一緒なやり方で読んでる人はもしかしたらいるのかなみたいなことをちょっと思って、そうなるとちょっと確かにそれを網羅する読書術とかっていうのはないだろうから、
時代外れになっちゃうかもしれないなとか、この本を進めた結果とか、そういうことをちょっと頭に思い浮かんだりしましたね。
きんじょうひでき
エンジニアリング系の読むべき本って言っても、エッセイだなーみたいなのはありますから、あれはでも文学、まあでも文学。
げんえい
文学より、うん。
きんじょうひでき
でもあそこからあれか、選択の経験とかを受信しようとするんであれば、東洋の類の本に近くなるのかな。
げんえい
ちょっと微妙なラインですよね。
きんじょうひでき
微妙ですね。まあでも主観で書かれてるか客観で書かれてるかみたいな区別っていうよりかは、また違うところに軸を置いて、文学、東洋っていうふうに分けてたはずなんで。
げんえい
そうですね。フィクションとノンフィクションみたいな区切り方をしていることでも、もしかしたらいいのかもしれない。
きんじょうひでき
ドキュメンタリーとかどっちになるんですかね。
げんえい
ドキュメンタリーはノンフィクションじゃないですかね。
きんじょうひでき
そうすると東洋の方になります?でも。
げんえい
そうですね。
きんじょうひでき
民族学的な観点でそれを読むんであれば確かにそうだなとか思いつつ。
げんえい
割とでも結構自分はこういうふうに読んでるなと思ってますね。結構ドキュメンタリーです。
いわゆるそのレポルタージュとかああいうものとかを読むときは結構学術書ではないけども、教養みたいな。
教養っていうものがどこまでをターゲットするかありますけど、みたいなことはちょっと思いながら結構読んでますね。
読書の目的と読者の役割
げんえい
明らかにノンフィクションで読むときとはちょっと気持ちは違うなって思いながら読んでるな。
きんじょうひでき
なるほど。でも本当にコンテンツっていうよりかはその読書の目的みたいなところにあるなっていう感じが近いかもしれないですね。
確かに確かに。
なんかね有名なプロジェクトマネジメントとかの人が急に拉致られて話が始まる小説とか書いてたりしましたもんね。
げんえい
そうですね。
きんじょうひでき
あの人はね小説家らしいので仕方ないんですけど。
っていう中で読書のレベルみたいな話、入っていく前にちょっとあれかな、第一部第一章のところで説得性みたいなところ少し触れてからいきますか。
読書は説得的なもの、完全に受け身の読書などありえないって書いてますね。
げんえい
そうなんですよね。
でも確かに本って自分でめくらないと、ページをめくらないと進まないんだよなって思うと、割となんていうか受け身になるのって難しいなっていうのは言われて確かになって思ったりもして。
YouTubeとか映画でもいいですけど、動画コンテンツって一応再生ボタン押せばその後はずっと流れるから。
最悪見てなくても話は前に進んでいくけど、読書って基本的には自分でどうにか前に進まないといけないよなと思って。
説得的読書、対象に対して積極的であるっていうのっていいなって思って。
他のコンテンツとちょっと違うところってそこなのかっていうのは思ったりしましたね。
きんじょうひでき
説得的に読書をしてるんであれば眠くなんてならないはずであるみたいなことも書いてあって、それはねえって思ったんですけど。
げんえい
それはシチュエーションによりますからね。布団の中で読んでたら眠くなるだろうし。
きんじょうひでき
受け身とか受動的、説得的みたいなことを言った時に、確かに自分からページをめくってとか、そういう意味ではこっちから操作はしてるんですけど、
双方向的かインタラクティブなものかっていうと一方的に情報を送りつけられてくるものではあるので、メディア特性として。
なので一般的に受け身、受動的な行為で読書ってそういうもんだよねっていうふうに思われてるよね的な感じに対して、いやいや説得的にやるべきだっていうことが書いてあって。
著者とのタッチボールであるみたいな書き方がしてあったというか、飛んできたボール、ボールがどこに飛んでくるかっていうのを予測しながら、そこに手を出してボールを捕捉するみたいな。
で、それってタッチャーってボールが送られてくるだけじゃなくて、自分から取りに行ってるよねっていう意味で、すごい説得的な行為でしょっていうようなことを書いてあって。
読書も似たようなものであると。読み手が出せるメッセージをしっかり受け取るのが読者の務めであるみたいなことが書いてますね。っていうのが説得的な読書。
げんえい
ちなみにちょっとここで聞いてみたいなと思うのが、本読むのがある種、説得的なものでもあり、メディア特性として一方的に相手の話を聞くようなタイプではあるものの、読みながらその文章にツッコミを入れたりとか、これって本当?みたいなこととかを言いながら読んだりします?
きんじょうひでき
言いながらは読まないですけど。
げんえい
言いながらってのは実際口にするかどうかさておき。この中で思うかどうかって。
きんじょうひでき
僕の場合は関連して想起されるなとか、この前読んだこの本とか、この前聞いたあのセッションの話ですごい綴るものがあるなみたいな感じの頭の働かせ方っていうのは多いなっていう気がして。
げんえい
だから自然と想起される、想発されるって意味だと受動的ではあるんですけど、ツッコムではないにせよ自分の頭の中で精神活動というかアブダクションしながら読むみたいなことは自然としてるなっていうふうに思いますね。
きんじょうひでき
ツッコミが止まらない本は読むのが辛くなってやめる気がする。
だんだん読む価値なしって思い始めますよね、そういう時は。
げんえい
なんかこの程度の話を聞くのに時間割きたくないと思っちゃって。
あと会わないかもなみたいなことは思ったりしますよね、その本の考え方と。
自分は割と、全部の本がそうではないけども、割と読みながらこれって本当だっけとか、ちょっとあえてうがった見方をしてみるとか、ツッコミを入れながら読むといいよって。
何で言われたんだっけ、なんか昔本の読み方みたいな本を読んだ時に、そういうふうに読むといいぞみたいなのがあって、たまに読んでるとそれを意識して、こう言ってることって本当かなみたいなのを考えてみたりとか、ちょっと立ち止まって。
そう言ってるけど、じゃあこういう時どうなるんだっけみたいな、いうことをやるようにしてたりとかしてて、そういうのって結構積極的読書に近いなとか。
あとさっきどこだったっけ、どっかであったんですけど、ここってこの時どうなるのみたいな先の展開を考えて読んでると、ちゃんと思ったことが次に出てくると、なんだよみたいな手のひらで踊らせてるなみたいな。
登山を聞いてる時とかも結構近いこともあるんですけど、それやったら次こういうの来るよねとかって思ったら、本当に次のスライドで考えてたことが、こういう問題が出てきてですねとかって言われて、そうですよねみたいな気持ちになって、
自分の考えとかなり一致してて、これは聞いてて心地がいいぞとか思いながら、結構本読んだりとか話を聞いたりとかってしてるなっていうのをちょっと思い出しましたね。
きんじょうひでき
この単語ってどこで出てきたんだって思って、何ページか遡ったように見たら、次のページに書いてあったみたいな。
げんえい
これから説明するんだみたいな。
突然知らない概念出すのやめてくれよって思ってたら、説明しなかったので、ここでこういう概念を導入しますみたいなことが書いてあって、グッみたいな。
きんじょうひでき
だから一旦わからないまま我慢して1、2ページぐらい読み進めてみるかみたいな癖はつきます。バファリングするみたいな。
でも問いを持ちながら読みましょうっていうのが、まさに積極的な読書の方法としてこの本の中で書かれてましたもんね。
読書のレベルについて
げんえい
そうですね。
きんじょうひでき
なのでまさに積極的だなっていう気がしますね。
っていうのが、第1章というか本当に一番最初に、そもそも読書というのは積極的になり得るものであるみたいなところからこの本が始まって、読書レベルの話ですか。
げんえい
そうですね。
きんじょうひでき
じゃあレベルの話いきます。読むことは学ぶことである。教わることと発見することとの違いみたいなのもちょっと面白かったんですけど。読書のレベル入ってきますか。
げんえい
いきますか。
おだしょー 読書のレベルを。