面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。 今回は115回、心穏やかに生きる哲学について語ります。
はい、よろしくお願いします。 はい、お願いします。
えーと、今回は蔵下のターンということで、心穏やかに生きる哲学、 ストア派に学ぶストレスフルな時代を生きる考え方という本を紹介したいと思います。
はい。
で、軽く初始情報をさらっておくと、 2024年の8月23日にディスカバー21さんから出ておりまして、
ビジネス処理傾向啓発省の、なんていうの? トップ分野ではないかもしれないけど、たくさん出されている出版社で。
あの業界でひょっとしたら一番知名度というか、売れているかもしれないですね。
そうですね、書店でも特別のコーナーがあったりする有名な出版社さんなんですけども、
現代が、Reasons Not To Worryで、 心配しなくてもいい理由というような感じかな、簡単に訳したら。
で、How To Be Stoic In Chaotic Timesということで、 混沌の時代にストイックのように生きる方法みたいな感じかな。
で、最後が、A Personal Guide To Stoic For…
プラクティカルガイド。
プラクティカルガイド To Stoicism For Self-Improvement And Personal Growthということで、
結構これ自己啓発的なタイトルがついてるんですが、
自己改善とか個人的成長に向けたストイミズムの実践ガイドみたいなもんで。
で、一応ストア派とかで、心生きる哲学とかっていうタイトルがついているんですけど、
著者がブリジット・ディレイニーさんという方で、 別に哲学者というわけではなく、
ガーディアン地のジャーナリストをやられてる方で、 コラムとかを書かれているという方が、
自分なりにそのストア派の考え方を実践していく上で、 経験したこととか考えたことを綴っていくというタイプの本になっております。
まずあれですよね。ストイックという言葉の元と言われるのが、このストア派の人たちで、
一般的に言うと、その求道者とかそういうようなイメージを受けるんだけど、
最近は割とそうじゃない方向で、この本みたいな、
なんていうんだろう、厳しい道というよりはむしろ穏やかに生きる道みたいな観点で注目されている印象はありますよね。
まさしくそうですね。実際この本以外にも同時期にたくさん本が出てますし、
ストア派の紹介する本っていうのは結構ずっと前から出てまして、 僕も割かし読んでるんですけども、読んできたんですけど、
改めてこの本を本屋で見かけて、自分なりにそのストア派哲学っていうのをどう学んできたかとか、
どう感じてきたのかということを振り返りたいなと思いながらこの本展にとったんで、
新しい新発見というよりは、自分の知識の振り返るための食材として読んだという感じで手に取った本でして、
一応本の内容自体に入る前に、おっしゃられたようにそのストア派っていうのをちょっと学習しておこうかなと思うんですけども、
まずそのストアですね、ストアっていうのはこの柱がダーって並んでいる廊下みたいなところで、
屋根がついている場所なんですね。
これを一言、この場所っていうかこの場所でいいのか、建物の様式をストアとまず呼ぶと。
これはどんな場所にあってもこれはストアと呼ばれるわけですね。
で、その中でもストアポイキレという、ギリシャアテナのアテナイのアゴーラっていうところが、自由一番みたいなところにあるストア、
特別なそのストアのことをストアポイキレと言いまして、ここで行われた演説がベースになっているので、ストア派と呼ばれているってことですね。
ああ、ここで喋って、ストアで喋っていた人たちが、そこでストアの人たちをストアの奴らだって呼んでいたっていう言い方なのか。
だから場所につけられている名前なんですけども、まず一つ注目したいのが、この柱がざっと並んでいる場所で、非常に開かれたパブリックの場所にあるということは、学校ではないんですね。
同時代には学校を持っていた人たちも哲学者もいたわけですけど、このストアっていうのは違うと。
ということはどういうことかというと、誰でも自由に出入りできる場所だったんだろうと、勝手に僕は推測しているわけですけど、開かれてたわけですね。
現代のイメージで言うと、選挙の時期に駅前で政治家が演説しているに近いのかな。
予想はしますけども、だから聞きたい人がいけば別に誰でも聞けるような場所で、多分学校のようなお金を取ってたんではないんじゃないかなというようなことを勝手に推測します。
このストアポイキレというところで、ゼノンという方が演説をしたからそのストア派と呼ばれるんですけど、ゼノンがややこしくてですよ。
ゼノンって聞くと、数学が好きな人はパラドックスを述べたゼロンっていう同じ名前の方がいらっしゃるんですけど、これ違う人なんですね。
僕ね、しばらくこれ同じ人だと思ったんですけど、片方がこのストア派の方がキティオンのゼノンというんで、パラドックスの方がエイレーノアのゼノンという方で、そっちの方がだいぶ古い方ですね。
100年以上古い方。これは豆知識ですけど。
鉄学の方はもっと昔の方?
数学の方がもっと昔。
数学の方がもっと昔の方。
パラドックスを考えた人の方が100年以上前の方で、そのストア派の人は起源前300年から起源前200年くらいの人なので、ちょっと100年くらいずれてるんですけど、違う人だと覚えておくと恥ずかしい思いをしないで済むと思います。
俺も区別できてなかったですね。
これ面白いんですけど、このゼノンという方は商人の息子として生まれて、本人も成人して商人となって、中年期に至るまでずっと商業に関わってた人なんですね。
ここが面白いなと思うのは、前回のイスラムの話、経済とかお金の話ですけど、ちょっとここら辺に近いところがあるんじゃないかなというのをちょっとブックマークしておきます。
頭の中でブックマークしておいてください。
このゼノンという方がどういう流れでストア派を論じたっていうことの流れは、まずやっぱりソクラテスにあるんですね。
始まりは大雑把にソクラテス。
ソクラテスの弟子の方のアンティステネスさんという方がまずいて、その方がキュニコス学派という思想を立ち上げて、
これケンジュ派、犬に殖害の中ですね、ケンジュ派っていう、樽の中に住んでた人が属する学派なんですけど。
樽の派閥か。
この学派があって。
あの人ストア派じゃないんですね、そういえば。
ケンジュ派、またはキュニコス学派というところに一応属するらしいですね。
で、このアンティスさんの一応弟子というか系譜を継ぐのがゼノンというか。
だからこの一応ソクラテスから始まる流れがあって、そのゼノンの弟子がクリーシュポスという方がいて、この人がそれまでの考えを、いろんな考えがあったのを一応一つまとめた。
この人を掛けていったストア派として学問としてまとめられたという流れがあると。
なので一応ギリシャ哲学で、しかも正統かどうかはしれないけれども、ソクラテスからの流れを組んでいて、当然そこから現代にも流れついているというのが一つあるのと。
ストア派の前世紀というか、ギリシャで始まった思想がローマ帝国時代、ローマに移った流れがあると。
この活発な議論が大体紀元前300年前後という話なんですけど、ローマ帝国時代に移ると大体だから紀元プラマイゼノンあたり。
200年300年越しにローマに伝わった思想であると。
これ結構今考えるとすごいんですけど、僕らが江戸時代とかの思想を再発見したようなものですよね。時間的に言うと。
その感覚で言うと相当面白いですね。粗い白石がすごいかもしれないとかって話してるわけでしょ。
僕らから見たらほとんど同時期に感じますけど、結構距離的にも時間的にも距離があって、
そこで発掘されるくらいの価値があったからやっぱりそうやって脈付いてきたんだろうなというのが思うところですね。
有名な思想家がいっぱいいますけど、この本、最初に取り上げたと心穏やかに生きる哲学で取り上げられているのは中心となる3人の人物で、
セネカとエピクテトスとマルクス・アニウス・アントニウスというこの3人。これは日本でも有名な3人が。
この人たちの言葉とか考え方が本集の中で引用されながら話が展開していくという流れになっています。
で、出てきているストア派なんですけど、中心となる考え方は何かということなんですが、
これは結構僕の中で大きな疑問で、例えば現代の人が哲学って聞いたときに何を思い浮かべるかなんですけど、
例えば存在とは何かとか、時間とは何かという非常に計数学的なお話。
ないしは言語哲学のような、僕らが使っている言語そのものに注目するような、非常に専門的というか高度な思想、思索というのが思い浮かべられるかもしれませんけど、
ストア哲学を覗いてみると、そういうのはほとんど出てこない。
で、今からその5つの原則を言うんですけど、非常にプラクティカル、実際的、実践的で、日本語で言うと人生哲学とか仕事の哲学って言うじゃないですか。
そっちの、我々が日常会話で日常生活で使う方の哲学に読めるのように感じられるような雰囲気なんですけど、
でも実際、もう一段深く考えると、これはそういう単純な実践の話をしているだけではなくて、
例えば人生とは何かという問いを考えて、人生とはこういうものだと認識したときに、じゃあ僕たちはこう生きるっていうふうに、
結局、物事の対象をどう捉えるかで、どう実践するかが結ばれるんですよね。
で、そもそも生きることは何かと問うのはやっぱり哲学じゃないですか。そこ。
なのでここはね、このストアン版は面白いですけど、ある種その真理を考えつつも、でもやっぱり結局重要なのはどう生きるかという実践だというこの2つが意識されているのがね、
いわゆる僕たちが考える哲学観と離れてるけど、やっぱり哲学とつながってるんだろうなと思っている。
まあこれは僕の解釈ですけど、と思っているところですね。
やっぱあの、万人に役に立つっていう言い方がしやすそうな。 そうですね。
はい、ですよね。 で、まあ実際こういうふうにビジネスショットが出てるから、出てることからもわかるように、結構やっぱ人々の生きるに直接つながっていく話が多いなというところで、
で、ストア派の教えというよりは本書の著者が、ストア派のように過ごす1週間っていう、
まあ何て言うチャレンジ?1週間チャレンジ?1ヶ月チャレンジだか?をした時に、この5つの基本原則を守りましょうということがそのレッスンで示されたと。
ほうほうほう。 で、第一、人生で起こることの大半は自分にはコントロールできないと認識する。
その二、世界をどのように捉えるかが自分の感情を生み出すことを理解する。
その三が、悪いことは時に起こるべくして起こり、誰にでも同じようにあることだと受け入れる。
第四が、自分を切り離された個人ではなく、より大きな全体の一部として捉える。人類のそして自然の一部として捉える。
で、これ5番目、自分が持っているものをすべてただ借りているだけで、いつか返す日が来るものだと考える。
これ5つ目、前回の話ちょっと出てきましたよね。
なんならこれ全部前回のイスラームと同じ話ですよね。
ここで出てきている5つの話って、例えば自己啓発書を何冊か読んだら、どれかにはぶち当たる内容だと思います。
全部は出てこないかもしれないけど、多くの事柄がここに書かれている。
主に、自己啓発書というのは、アメリカとかヨーロッパの思想であり、結局その源流が辿っていくと同じところに行くんだろうなというのが予想の一つと、
もう一つは、どんだけ年月が離れていても、人が生きるということの根本が変わっていない以上をある程度通用する原則っていうのはそこまで大きく変わらないからそうなっているのか、
修練進化みたいなものなのか、どっちかはわからないですけど、言われることはずっと変わってこないです。
2000年程度では何も変わらない。
変わりようがないのかもしれないけど、ずっと同じことがあるし、自己啓発書とか、例えば7つの習慣とか読んだら似たようなことが書かれているし、
いろんな自己啓発書を読んできた人がストアに哲学に触れたら、
あ、これ苦問式で学んだやつだみたいなことが多分出てくると思います。
そういうふうに、現代でもわりかし一般的になっている考え方と。
この古代技術者から始まった考え方が、現代に生きる私たちにどのような影響を持つのかというのが本性で考えていることで、
もう一個、これは僕なりの疑問ですけど、ストアの考え方って全てハッピーなのかと、
何の弱点とか瑕疵もあるいは問題っていうのを持たないのかっていうのが僕の2つ目の疑問で、
この2つを意識しながら読んでいったところがあります。
ここまでが前段階の説明で、ここからが正立に沿って本の内容をちょっとチェックしていきます。
はい。
はい。
初めに、著者がストア派に惹かれた理由ということが語られているんですけど、
現代というのは非常に変化が早く、しかも価値が相対的、道徳的相対主義と言ってますけど、
何が正しいのかをもう絶対的に言うことができない。
で、ニュースとかSNSを見ればもう酷い話題がいっぱい多い。
で、パンデミック、コロナ禍っていうのがあって、非常に困難が多くて複雑で生き方が一応に定まらない世界。
混沌として混乱していると。
かといって、僕たちは混沌の中で生きていけるかっていうところが結構難しくて、
いろんな本を読んでも、あるいは社会学とか民族学の本を読んでもいいんですけど、
僕たちはやっぱり一貫した意味、生きる意味っていうのを求める存在であると。
だから、世界の状況と僕らの心が一貫した意味を求めるっていうこの乖離があると。
で、この乖離が解消できないと、僕たちは非常に足元がフラフラしてて、不安に押し流されてしまうと。
これはどうしたらいいのかっていうところに、ストアっていうのが一つ解決を出してくれるであろうと。
あるいは出してくれたと著者は言ってるんですけど。
で、特に著者はコロナ禍において非常にストア派が役立ったという話を何回もしてまして、
これは2024年が日本語訳に出てるんで、原稿はもうちょっと前でしょうけど、
要するに混乱が非常に高まった時代において、ストアの考え方が非常に生きることに役立ったということが本書全体を語られてるんですけど。
ゴルゴさんも言っておられたように、ストア派のイメージっていう言葉があって、
もちろんストイックという日本語でカタカナで使われている言葉がこのストア派なんですけど、
非常に厳しくて独立的で偏見で、家に籠ってずっと鍛錬してるような人のイメージはストイックですね、というわけですけど、
実際にそのストア派の人たちはそうではなかったと。
むしろその人生を楽しんで他人を愛して共同体の一員として生きてきた。
ストイックのその元凶なイメージとは全く違うと。
ストア派の人たちは何を一番強く求めていたのかというと不動心、動かない心ですね。
これ古代技術者語で多分アタラクシアと読むのだと思うんですけど、を求めていたと。
で、この不動心っていうのが非常にポイントで、鋼鉄のような堅い心を持つというのでは多分ないんですね。
それはむしろ慎重に調整された心の穏やかさという表現が本書に出てくるんですけど、
心そのものの荒ぶる性質は別に変わらないけども、
自分なりに鍛錬・訓練をすることである程度荒ぶる心を穏やかな方向に持っていこうとするその思考性っていうのを彼らは大切にしていたと。
で、非常に先ほども言ったように彼らの思想というのはある意味部分的に言うと凄く冷徹な感じもするし、
他人とか、神が降りてきて、ある日あなたに救いを与えてくれるでしょうというようなことは全く言わないし、
西洋の世界もない。僕たちはここに住んでいる不完全な人間がいて、それが共同体社会を作って生きている。
みんな欠点があるけども、お互いにそれを認め合って生きていくしかない。
つまり僕らはそれぞれが劣っているからこそお互いに支え合うしかないんだと。
お互いに支え合うためにはそれぞれの人がある程度自律的に生きていかなければならない。
だからこの人たちは不動心、心の穏やかさを持って、そういう社会に参画しようとおそらく考えていたと。
だからコミュニティを無視しているわけでもなく、他人を過労にしているわけでもなく、
むしろ社会の中で共同体として生きていくからこそこのような考え方が必要であると思っていたと。
いうところを取り違えると多分ストアというイメージがかなり違ってくると思いますね。
そもそもなんでストイックっていう言葉がああいう意味になったんでしょうね。そうやって考えると。
それはね、これから出てくる話を見ていくと多分ちょっとわかると思うんですけど、確かに厳しそうなんです。
そうなんだ厳しそうなんだ。
そうに思えるし、実際厳しい部分もあるからそこが影響されているんだろうなと思います。
で、もう一個第1部に入る前に確認したんですけど、紀元前300年から始まったということは、これキリスト教より前なんですね。
でもね、この考え方、空から降りてくる救いの神もいいし、死後の世界もないから、これ非常に相性が悪いですよね。
だからね、やっぱりね、キリスト教が盛んになったら、ストア哲学というのが人生化したらしいですね。
あれですよね、ローマ皇帝がキリスト教を正式に採用したら、一気になくなるイメージですよね。
そうですね。どこまで直接的な迫害があったのかはわかりませんけど、思想的にはやっぱりそこで一旦死流ではなくなったっていうところは多分あると思います。
でも脈々と現代まで続いているところは面白いなと思いますね。
はい。この始めがここの部分。
第1部から実践的な内容に入ってまして、本書ね、部しかなくて章がないんですけど、1部から3部までで、それぞれの1部に大きなセクションがあるという感じなんですが、
今回は全部さすがに押されるのはあれなので、第1部だけ内容を触れられたらと思うんですけども、
第1部を触れるだけなので結構ストア派の話がわかると思うんですが、
第1部は死を意識して生きるなんですけども、現代における死ということで、ここは結構著者が診断に書いてるんですけど、
現代は未熟な時代だと、結局その死っていうのを見えなくしている。
僕たちが生きている世界の中で死っていうのがどんどん遠ざかっていくと。
例えば、今多くの人が死ぬのは病院ですよね。病院ないしは老人ホーム。
生活の中に死っていうものが出てこない。
そうか、日常生活の場面に死がないのか。
ぺけたん ほとんどない。もちろん交通事故とかってのはありますけど、それはむしろ極端な例外ということで、日常生活に死っていうのがない。
だから僕たちは死を、もちろん死っていうのはある種のストレスになりますし、ある種不快であるから、
快を求める生活の中で死を遠ざけるっていうのは、ある種順当な方策ではあるけども、結局僕たちは死っていうのを出会うタイミングを数を減らしているし、
ってことは死について考える機会も減らしている。だから死について向き合えない未熟な現代になっている。
特に自分の死を受け入れるためのメカニズムがない。メカニズムってのは儀式とか、死というポエムですね、死っていうことなんですけども、
非常に宗教的な力も弱いし、表現も死が扱うようなものではなくて、もっとダイレクトな、わかりやすいエンターテインメントなものばっかりで、
死っていうのは非常に難しいものを扱うためのものとの距離がありすぎる。
ストハは、いずれ自分が死ぬことを理解しようとしながら生きたと書いてあるんですけど、結局うまく死ねることがよく生きることだという考え方があったと。
常に死っていうものを捉えながら生きていたと。で、一つのやってた訓練というか、意識的に行われていたのが、否定的な死角化という手法らしいんですけど。
否定的な死角化。見えるやつ。
そうですね。イメージせよってことですね。ネガティブなことをイメージしよってことで、まず一つ印象的なフレーズが、
大切な人の死を生存中に忍ぶというのがありまして、人が死んでから忍ぶんじゃない。今生きている人が、もし明日、
例えばゴリウス君さんとお疲れ様でしたって別れた後、ゴリウス君さんがもし死んだとすると、もう明日から会えないっていうふうにイメージしてみなさい。
別に友人だけじゃなくて家族でもいいんです。これがそこで会う日がもしも最後の1日だったらとしたら、
そんなことは考えたくないだろうけども、そんなことを考えてみなさいと。どうなるかというと、その時間がすごく大切になるじゃないですかと。
そうですよね。結局明日もある、明後日もある、しあさってもあるとすると、時間の優位さが薄まるわけですね。
僕たちは本当に永遠に生きるかのように、死を持たない僕たちは生きてますけど、それは時間の価値が非常に薄まっている。
実際80年くらい生きるとはいえ、とはいえ、でもやっぱりどこかで死を迎えるわけで、そののんぺりとした生き方じゃなくて、本当に目の前の人が死ぬっていうことを考えなさいと、イメージしなさいと。
そうすることで今の僕たちが今生きる生そのもののあるいは時間的感覚が変わっていくと。
もう一つは死を恐れるのではなく死について考えるということなんですけど、これもポイントで、
死を恐れている時って死について考えられてないんですね。死について頭、つまり思うと考えるの差ですね。
うーん、僕たちは死を怯えている間は死に怯えているだけで、たぶん死んだらどうなるかとか、この人の大切さはどうかっていうことは考えられてないわけ。
だからその否定的な視覚化、自分が意識的にそういうシチュエーションを思い浮かべることで、まあ人が死んだらどうなるか、どういう変化があるかっていうことを考えておけと。
僕はこういうような精神的な受け身って呼んでるんですけど、あらかじめ考えておくわけですね。あらかじめ考えてちょっと備えておくと。
そうすると実際に起きた時に柔らかくし、まだ当然その今が大切だという感じが強まる。
これは結局限りある時間の使い方という本と、まあ多分考え方は近いんですけど、無人像の生の中で生きてるんじゃなくて、
自分も周りの人間もいずれ死ぬんだという、まあ今ここで言ったら当たり前の話を。
ちゃんと考えろですよね。
もちろんこれは程度の問題であって、ずっと死について思い煩うのは死に怯えていることですから、そうじゃなくて時々定期的にちょっとやってみるというような考え方で、
その死っていうのを日常の中にちょっと取り入れていく、メメントモリという言葉もありますけど、それに近いイメージがあると思います。
存在と時間とかがだいぶこの辺に近い感じですよね。
より実存に迫る、でも実存という言葉は別に使わないですね。もっとだから非常に実践的な。
わかりやすい。相手が死ぬほどわかりにくいから。
そういう感じで、生き方そのもの、自分の生そのものを見つめ直す契機をこの否定的な視覚化で行う。
例えば自分が生まれたばかりの子供とか両親とかが死ぬかもしれないって想像しなさいっていうのは、だいぶ虚空な話じゃないですか。
ある種のトレーニングをやったとしても厳しさがありますよね。そんなことを考えずにずっと一緒にいていられるっていう協力的な方が楽で楽しいですよね。
だから、その2つを比べたときにこっち側がストイックと呼ばれるのは、まあわからないではないと思いますね。
はあ、そうか。俺言われてみるとなんですけど、織りに触れて想像している気がするな。
だからそれはどこかで学んだことで、やっぱりそれは死を考えることで生活の彩りが逆に増えるということは多分やられている方多いと思いますね。
うん、なんかそうですね。学んだみたいな自覚も特にないけど、なんかそういうことは割と考えている印象はあるかもな、自分の場合。
だからストア哲学の偉い人が考えてるからどうということじゃなくて。
ああ、そうですね。それは言えるかも。
人の生意においてこの感覚、だって人が死ぬっていうのは僕らが背負い込んだ宿命であるわけですから、
自命のことをちゃんと忘れないようにしておくという教えですね、これはね。
そうか、大事なことをちゃんと大事なものとしてちゃんと考えましょうと言語化してくれている。
そう。で、当然先ほど言ってね、やっぱり現代では特に本当に死っていうのが日常の中から流れていくし、
例えば、保険っていうのをかけるときも、生命保険ってかけるときも、やっぱりその死についてリアルには考えてないと思うんですよね。
だからやっぱりその死についてリアルに考えるっていうことを、葬式とかでもやると思うんですけど、
もっと身近な人たちのこういうことが起こるかもしれないっていうのを考えておこうというような訓練が紹介されている。
で、もう1個面白いのは仕事についての考え方なんですけど、
結局諦めるしかないというか、まあそうやけど、関心を持っても仕方がないということね。
あーはっはっは。
関心を持っても仕方がない。だからまあ別にやるやらへんは別に決めてもいいけど、
えーと、僕が明日の天気を晴れにしたいからといって、どれだけ努力しても無駄ですよねと。
で、それと同じことは、例えば相手の考えを、僕の言葉とか言動で直接ダイレクトに変更することはできないし、
えーと、評価してもらう。仕事の結果を評価してもらうことも別に自分の最良化にはないから、
えーと、仕事で全力を尽くすのはいいけど、結果をコントロールしようとするのはやめたほうがいい。
これは非常に有名な話で、まあよく出てくるんですけど、ストア派にとって、じゃあ何がコントロールできるのかというと、
まあ3つだけしかないと。
で、まあ自分たちの品性と、自分たちの反応と、で、他者への対応の仕方と。
で、反応というのは、まあ感情的反応もありますし、まあ行動もあると。
ただし、その結果は含まれないと。
この2つ。だから、基本的に自分のリアクションとか、リアクティブなことだけがコントロールの対象で、
もうそれ以外は基本的にどうしようもならないことだと、えー、わきまえろと。
わきまえろとまで言ってませんけど、そのように思っておけ。
というのが、まあこのコントロールテストと、そのコントロールテストの背景にある考え方。
で、やっぱりね、でもね、こう、何もコントロールしないと言うんじゃないですね。
これ面白いと思うと思うんですけど、よくありのまま的な考え方あるじゃないですか。
はいはい、すべてを受け入れなさいみたいな。
そこまでは行かない。ある程度コントロールできるものはあるし、それはした方がいいと。
で、僕がやっぱりセルフマネジメントをやってて思うのは、やっぱりコントロール感の有無っていうのはかなり重要で、
その行為をする上で、何かをコントロールできる感覚っていうのは持っといた方がいいんですね。
それは確かに。
でも、僕たちは、テクノロジーのせいなのか何なのか知りませんけど、いろんなことをコントロールできると思ってしまう。
それと他人の行動や価値観であったり、もっと言えば自分の体調とか健康とか寿命とかも、
なんかコントロールできるような感じを受けてしまう。
で、当然コントロールした時が心理的に重要だから、コントロールしたいものをどんどん増やす、
できるとに勘違いするものをどんどん増やすわけですけど、
これ結局逆のことになるんですね。
コントロールできないものをコントロールできると勘違いして取り組むと、
コントロール感が失われて、自己否定感が強まってしまうわけですね。
そうか。それも当たり前だけど、そうだな。
だからコントロール感をキープしたかったら、むしろ逆で、
自分にできることを鍵、ちゃんと適切に見極めて、
そのできることだけに注力した方が、むしろコントロール感を得られるわけですね。
それはいろんなことに使える感じがする。
だからやっぱり他人をコントロールしよう、コントロールしようとしたら、やっぱり否定感が増すし、
例えば、自分の意思と努力によって毎日英語の勉強を10ページするって、これは無理ですよね。
それはできないことなんですよね。
これやったら、やっぱり自己否定感が消えるじゃないか。
それによって、やっぱりできない自分がイメージ作られてしまう。
だからでも、勉強しようと思うとか、こうしたらこうなるかもしれへんっていうトライはできるけど、
結果までは保証できない。
自分の行動ですら、結果は僕らのコントロール外にあるって認識することが、
これ実はライフハック的な考え方だと僕は思ってるんで、
非常にそこは調和的やなと思うんですけど、
とりあえず自分ができることが限られているということを認識した上で、
結果はコントロールできないと理解した上で、
じゃあ何をするのか。
自分にできるその裁量の中でどうするのか。
特にこの本当に、自分の反応とか感情的反応とか他人にどう対応するのかっていうのは、
100%制御できないしても、
少しコントロールできるんですよね。
他人に親切にするとか、不快なことを言わないみたいなことを意識することによって多少変えていくことができるし、
そうすることで、自分が自分の、
自分という存在に対してのコントロール感をいくつか確保できる。
これは僕は結構安定的に生きていく上で重要だと思います。
そして同時に思うのが、
全部品性をコントロールできないし、反応もコントロールできないし、他者への対応もコントロールできない部分があるっていうのも大事な気がしますね。
できる部分をやっていく。
できる部分をやるだけでも、やっぱり僕はこのコントロール感の有無が結構大きいんじゃないかなと思いますね。
これは2つ目の話で、
3つ目が災難に対処するということなんですけど、
挙げられているのが好ましくても無関心という考え方で、
これも結構重要なんですが、
さっきほど挙げた、品性とか人徳とか、論理的な思考力っていうのも彼らは大切としているんですね。
コントロールテストも論理的な思考力なんですね。
対象について、制御できるか否、否というイエスノーテストをしてっていう、そういう冷静な思考力で考えようということなんですけど、
そういうような力を育むことについての関心度は高い、優先度は高いが、
僕ら現代人が非常に大好きな富とか傾向とか名声の意識は、優先度は低いと。
ポイントは優先度が低いだけなんですね。
別にお金を持ってはいけないと。
樽の中で住みましょうと言ってるわけではない。
財産はあってもいい。
ただ、それが全部なくなったとしても、別にいいよって言える気持ちで持ってるならいいということなんですね。
好ましいと。財産を持つことは別に悪ではない。
好ましいけど、自分はそれは無関心だというスタンスを持とうと。
そうすると、あまり傷つかずに済むということなんですね。
結局、富とか健康とか名声っていうのは自分のコントロール外で損なわれることがあると。
名声なんてまさにってイメージですね。
ポイント それを大丈夫と思えなかったら、傷ついてしまいますよね。
ストア派では2倍傷つくことを避けるという話がありまして、
何かを失うことは当然ダメージはありますけど、
失ってしまった後とか失うことについての恐れみたいな、直接じゃなくて間接、二次被害みたいなものをできるだけ防ごうとしている。
だから、自分がそれに対して関心が低ければ、別に失っても、
例えばお金がなくなったのは痛いけど、別にこれからでも生きていけるわと思えたら、それ以上傷つくことはないじゃないですか。
そういうふうに、傷つきの損切りを決めておく。
これ以上は自分の関心外やから気にしないということを意識しようということです。
やっぱり、それをために最悪の状態を想定するということで、もし財産を失ったらどうかということを考えると。
そういう、これもさっき言ったネガティブな視覚化に近いと思うんですけど、
例えば、自分、この前僕想像したんですけど、今後一生新しい本を買えなくなったらって考えたんですよ。
結構それはゾッとするんですけど、でも最近図書館に行くようになって、
そこでなんとかなる。
図書館に行って本借りていただけでも結構ハッピーだなと思ったんですよね。
結構そういうのってあって、自分が持っているものとかっていうのは想定以上、実体以上に価値を置いてしまうところがあるんですけど、
案外考えてみると、なくてもいいよっていうところがあって。
で、僕365日アルコールを飲みながら生活していたんですが、薬を飲むときに1年ぐらいアルコールを飲まない生活をして、
案外いいやんって。
なくてもいいならないで意外となんとかなる。
朝コーヒー飲むのを避けてたんですけど、お湯飲んでも結構いいやんっていうふうに、
色々だから自分の価値観がそこで変わったんですけど、本社でも期間限定で貧しい生活をするっていうことがあって、
実際に例えばお金がない生活をしてみても、自分の幸福度がすごく損なわれるかというと、案外そうでもなかったりするんですよね。
例えば僕は思うんだけど、非常に貧相なパソコンを使っても文章って別に書けるんですよね。
僕の仕事って成立するんですよね。M4、Macを使わなくても。
デジタルツールはいるけどそうですね。
だからそこまでハイスペックなものを求めなくてもいいという感じであれば、別に高額のMacがなくても別に不幸ではないみたいな、いろいろあると思うんですけど。
常に貧しさの中に置けっていうのはさすがに文化的にあれですけど、
ごく限定的に不自由な生活をしてみることで、自分の切り下げられない価値観の最低限みたいなものを結構適切に見極めることができるんじゃないかなと思うんで。
これは食生活とかパソコン文化だけに限らないですが、いろんな部分で自分が持っている水準以下のことをやってみると、
割と自分の価値観というのをリファクタリングしていけるような気がします。
これストア派の時代になかった概念かもしれないんですけど、
旅に出るというのはこれに近い感覚があるんじゃないかなと思って。
旅行先で服を何着も着替えられるわけでもなく、いつでもご飯が食べられるわけでもなく、
移動している最中っていろいろ限定されることがあったり、金銭的に貧しいとは限らないけれども。
不自由さっていうのがね。
だから旅行とかもそうで、だから日常、自分が当たり前にしている日常から一旦出てみると。
それも多分単に想像するだけじゃなくて実際に経験してみるとやっぱり大きいと思いますね。
頭の中で考えているそのイメージとビジョンというのと、やっぱり体験で感じる幸福感とか満足感というのはずれていることが多いんで、
これ実体験してみるのがいいと思いますね。
トミとメイセイはまあ分かりますけど、健康も入ってるんですね。
すごいですよね、この人たちは。
医学がないからかな、かえって。
そういうこともあるかもしれないですね。
ストアは今あなたが持っているものすべて、身体の健康も含めて物的なものだけじゃなくて、
もう自分のものではなくて単に借りているだけでいつかお返しするものだと考えるように言いますと。
健康すら好ましくて無関心でいるものだと言っていることは現代の価値観からすると相当にラディカルな感じなんですけど、
でも実際本当にその通りなんですよね。
どんだけ僕が注意してもガンになるときはガンになっちゃうわけですし、
ある程度健康を維持するために生活することはできても、結果そのものを制御することはできない。
まさにそうですよね。
だから彼らはもうそんなことは気にしないと。
例えば怪我になっていたとしても、それは多少不便はあるかもしれないけど、そういうものだと。
これは事故の関連から雨が降ってくるのを止められないのと同じように、自分の健康にはどうしようもない。
だから健康主義が健康至上主義っていうのが自分の健康をコントロールできるものだというふうな認識を生んだら、
逆に怪我したときのストレスがでかくなってしまうというのが多分あると思う。
そうですね。努力はできても可能性をコントロールするまでしかできないものだと。
だってすげー煙草吸ってる人が灰災にならんと。
そうなったときに、やっぱり健康的な生活をしていた自分が馬鹿らしくなったら傷ついているわけですから。
ああ、もったいない。2倍傷ついてしまう。
だからやることができてもコントロールできないと思うこと。
健康なんて自分のステータスパラメーター、つまり自分の所有物のように感じるものですのもそうじゃないと思うということ。
ここはやっぱりちょっとストイックな感じがしますね。考え方としては。
本来のストイックというのはそういうことだってことなんですよね。
そうですね。そういうふうに、僕らから見たらかなり割り切った考え方をしてますよね。
やっぱり一般的なストイックって何て言うんだろう。それしかやってねーみたいな。
そうそう。
やっぱり相当違うってことですよね。
だいぶ変質はしてますけど。
でもある種の相互さというか、切断している感じっていうのは多分あって。
そのニファンスはそこは通じているとは思いますけど。
別に厳しい人間であれというわけではないというのは確かですね。
ああ、そっか。事故に厳しいみたいなイメージを受けるのかも。ストイックという言葉には。
しかも今話しているのを聞くと、やっぱりちょっと厳しい考え方。