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  2. BC129 2025年の配信を振り返る..
2025-12-16 1:11:29

BC129 2025年の配信を振り返る(前半)

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いよいよ、12月です。

年末恒例の「一年の配信を二人で振り返ってみよう」企画。今回は、2025年の1月から6月までの配信を振り返りました。

もしご興味あれば、以下のリンクからそれぞれの配信に飛べますのでチェックしてみてください。

* 2025年01月28日 BC106『訂正可能性の哲学』と自己啓発

* 2025年02月11日 BC107 『結婚の社会学』

* 2025年02月25日 BC108『「学び」がわからなくなったときに読む本』

* 2025年03月11日 BC109『脳と音楽』

* 2025年03月25日 BC110『エスノグラフィ入門』

* 2025年04月08日 ゲスト回BC111 えむおーさんと『庭の話』

* 2025年04月22日 BC112 『脳と音楽』後編

* 2025年05月07日 BC113『読書効果の科学: 読書の“穏やかな”力を活かす3原則』

* 2025年05月20日 BC114『イスラームからお金を考える』

* 2025年06月03日 BC115『心穏やかに生きる哲学』

* 2025年06月17日 BC116『体内時計の科学』

自分を揺さぶる読書

本編でも「学び」について触れていますが、本を読むことは、知らなかった知識が増えて、+1賢くなった、みたいなことだけが効能ではありません。仮にそうしたものを雑学的効能と呼ぶならば、「えっ、そんな考え方があったの!?」と驚き、今までの自分の価値観・物の見方に再編を迫られるような経験が得られることも効能であり、「学び」の第一歩はそういうところから始まるのではないかと思います。そうしたものは変身的(メタモルフォーゼ)効能と呼べるかもしれません。

そうした効能を得た直後は、私たちは言葉を失います。今までの語彙ではそのこと(経験や本そのもの)について語ることができなくなるのです。しかしまったく語れないわけではありません。それを語るための言葉を集め始める・つくり始める必要があるというだけです。

安直な言語化信仰が危ういのはこの点です。そんなに簡単に言語化できるなら、たぶん何も変身は起きていません。単にそれまでの自分の思いを強めただけです。

言葉にならないような経験があり、それでもなお、それを言葉にしていこうと時間をかけて取り組むときに生じる振動があって、それがネットワークを大きく組み換えていくのだと思います。

これは、知識を増やして賢くなろう的な教養主義ではなく、自らを変化にさらしていくというプラグマティックな生存戦略です。「生きる」ために切実に必要なのです。

というわけで、次回は2025年の後半の振り返りです。

ちなみに去年の振り返りは以下です。

告知:

第七回のJAPAN PODCAST AWARDSの投票がスタートしております。

◇第7回 JAPAN PODCAST AWARDS 「一次選考」投票フォーム

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サマリー

2025年の配信を振り返るポッドキャストでは、定性可能性の哲学やAI技術、結婚の社会学について議論が展開されます。この中で、AIやビッグデータの影響や、結婚制度の社会的意義について深く考察されています。このエピソードでは、学びの重要性と現代社会の変化の速さが語られています。また、音楽や音楽理論の理解を深めることで得られる思考の広がりが強調され、複数の視点からの学びが重要視されています。2025年の配信を振り返る中で、エスノグラフィーの重要性と個々の視点からの理論構築の価値が探求されます。また、客観的視点を持たずに記号的消費について考えることの重要性についても語られています。2025年の配信を通じて、記号的消費からの脱却や読書の効能、イスラームからの金銭観念に関する考察が行われています。また、現代社会におけるストア哲学の重要性とその実践についても議論されています。さらに、体内時計やダイエット、記憶に関する知識を深める内容が展開されており、ストア哲学や食事のタイミングによる影響についても触れられつつ、実験的なアプローチを通じて意識の変化を追求する姿勢が見受けられます。

定性可能性の哲学とAI
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。
今回はですね、年に2回の、1年分を振り返ろうの回。
毎回ですね、その年末最後の2回分は1年分を振り返ってみようっていうプロジェクトでやっているんですが、
実は案外、たかなか10冊程度を振り返ると、だけでも1個5分ぐらいで振り返らないといけない。
そうですね、超高速ですね。
ということで、順番にやりましょう。
そうですね。詳細なリストは、スクラップボックスじゃないや、コセンスのページ見てもらってもいいですし、また記事とかには書くと思うんですけども、ざっとリストがあるんで、それを見ながらやっていきましょう。
はい、まず106回ですね、今年の一番最初は。
そうですね、僕のターンから始まって、長らく紹介しようと思って紹介できていなかった、定性可能性の哲学と自己啓発ということで、
定性可能性の哲学を紹介しつつも、それを自己啓発の観点でどう捉えられるのかを紹介したということで、
僕の中では、自分というものを常に解釈して新しくしていくという営みとして、自己啓発を見ていけたら面白いんじゃないかな、みたいなことを考えてましたね。
あれですね、ちょうどそういえば、一番最新のNexusが言っていたAIとかビッグデータの話というのも、実はこの定性可能性の哲学でも結構触れられていたりして。
そうですね、最後の方に結構問題あるよねというふうに語られていましたね。
うん、っていう意味では、今年1年はやっぱり、あれAI、いわゆるChatGPTが2021でしたっけ?
確かね、ちょっと前に1000日経ったとこやったかな、3年とちょっとというぐらいだと思うけどね。
21の12月かな、そうだとすると、22?わかんないけど、なんかついに喜ぶだけではない時代になってきたっていうか。
まあ、それもそうですね。特にほとんど一般の人たちが当たり前に使うようになったときに、やっぱり初めて真の強力さと恐ろしさが出てくるわけで、だからもうSFの話じゃなくなっているというのはありますね。
実際、定性可能性とは外れるけど、生成愛でできることも段違いになってしまいましたからね、この2、3年で。
定性可能性の中では、こういう状況の中で人文学っていうのはどうあるべきかということが多分論じられていたと思うんですけど、Nexusが言おうとしていたことも多分そういうことで。
鍵というか、情報とか情報というか、もっと広いものと付き合い方の中で、哲学とか人文学の意義っていうのが多分再確認されるんでしょう、きっと。
おだしょー っていうとあれですね、最初の四半世紀はそこまでそういうなんていうんだろう、ビッグデータが巨大化してきて、次の四半世紀はそことどう折り合いをつけていくのか。
社会的な問題とか課題がもう無視できないぐらいに出てくる中で、そのお花畑なビジョンっていうものだけじゃないよねってことが、ここから議論されていくんでしょうね、きっと。
おだしょー あとあれですね、その科学返上すぎる世界というものがもう少し柔軟な感じになっていけばいいのかもっていう感じもしますよね。
そこでどうバランスを取るかですけど、やっぱり人間の情報処理能力とAIが提供する情報処理能力の差が大きい分、人間側がもっと頑張らなあかんよなというのはあると思いますけど。
おだしょー あと同時に俺がちょっと危惧しているのは、最近ちょっと傾向が減ったかもしれないけど、科学的に正しい〜みたいな本がたくさん本屋さんに並んでいるような印象があって。
科学的に正しい〜は、科学は正しいということを前提にしてしか物を語っていない。そこを疑わずに科学的に正しいとは、要するに神が言っていることだから正しいっていうのと、同じ概念になっていないのか?
おだしょー だからそのまま、そこはAIが言ってるから正しいにスライドしていきますよね。その流れだと。
大平 まあまだAIは人々は嘘をつくっていうのをある程度理解はしているイメージはあるけど。
おだしょー でも、そこが、もっともっと高性能になってきた時に我々がどう捉えようか。そもそも科学というものに対しても本来もっと早くに確率の問題でしかないんだよ、というようなことを把握しているはずなのに、そうなってない以上、AIもたぶん似たことに自然になっていくんじゃないかなと思いますが。
大平 そうですね。だからやっぱりそこの危機感というと変だけど、そこをいかに一線を超えすぎないというか、危険になりすぎないようにしないといけないのか、みたいなやつか。
結婚の社会学
おだしょー それを知識としてというよりは、たぶん物語としてどう普及させるのかということが、たぶんレクサスの問題意識を引き受けた上でのアクションになるんじゃないですか。結局その物語でないと、たぶん人間はそれをうまく処理できないので、そういうストーリーテリングだからAIのSFの話じゃなくなったと言いましたけど、まさにSFを読むことでわかるものがたぶんあるんじゃないかなと思いますけど。
大平 そうですね。なんか愛の遺伝子とかが最近評価されているとか、そんなんも言われていたりするし、あれはほんの少し先をすごく上手に予見していたって感じですもんね。
おだしょー ああいうものがちょっと啓発的な意味を持つことが増えてくるんじゃないですかね、きっと。
大平 そうですね。そのAI時代の倫理学みたいなやつか。
おだしょー まさにそういう感じですね。
おだしょー 106回がそれで、107回が結婚の社会学。
おだしょー 自分の中では、これからの正義の話をしようのマイケル・サンデルさんの話から大きくつながっているイメージなんですけど、
この結婚の社会学のみに関して言えば、結婚というものがどういう歴史があってとか、その問題点だったり課題だったりいろんなことが中心的な話題にはなっているんですけど、
自分が一番この原点として存在しているのが、これからの正義の話をしように出てきた、なぜ結婚というシステムを国家というものに承認してもらおうとするのか、みたいな言い方。
そこがずっと自分の中で強く残っていて、
おそらく自分にとってっていう話なんですけど、結婚という概念はかなり思考停止しやすい概念っぽい。
それ以上深く考えることをしないか、させようとしない力があるみたいな感じがするな。
そんなに興味がないとかかもしれないですよね、自分の場合で言えば。
でも社会的な慣習、慣例なわけで、そういうものだとして受け取られやすい。
遺伝子的にも文化的にもかなり無批判に受け入れやすいのかな。
ある個人は結婚という制度の下で生まれてくるわけじゃん、大抵の場合は。
正しいという意味で言うと、現代社会においてのそういうことですよね。
結婚というのが当たり前と思っている子供の方が数多いということだよね、きっと。
圧倒的多数ですよね。
そうなれば当然考える機会は少なくなってしまうし。
例えば親御さんが離婚するなどを経験した子供の場合は、そもそも結婚ってどういうことなんて考える機会があるのかもしれない。
例えば同性婚云々とか、日本国内の夫婦別姓とかっていう話とかも、
やっぱり考えてみると、結局社会保障とかスムーズな社会生活活自体をメインテーマにしているわけで。
結婚という概念というのかな。
もう一段階上から考えられること、考えればうまくいきそうなことって結構いっぱいあるなっていう印象は今でも強くあるかな。
ちなみに今期でやってるSFアニメなんですけど、
永遠の夕暮れという作品がありまして、まるでSFなんですけど、結婚制度をまた別の形で定義できないかっていう問題提起もしている作品で。
SF的に考えると、社会の当たり前も疑えるという意味で。
SFが結構いいよっていうところと。
最高の流れがありますね。
そうなんですよね。そもそも現代でいうと、結縁システムとか日本で言う家システムというのか。
そのシステムが前提になっているんだったら、じゃあ友達だったらなんであかんのやって。
それはなるもんね。
それが会社企業、結局法人というものができてしまって余計概念が、法人会社という物語を入手してしまったから余計難しいのか。
あと権利、所有とか遺産とかでその権利意識の問題も多分関わってくるでしょうね。
それは誰を身内と感じるかですよね。結構でかいのは。
自分の感じるのと、あとその社会の側が身内として良いという許可、認可のずれというのがあるんでしょう。
考えると、やっぱこの結婚というシステムは社会をラディカルに考え直す良いきっかけにはやっぱなるんじゃないかなっていうのが、この本を読んで改めて思ったことですかね。
結婚という個人的なものが、結婚制度という社会的なものとの境界線にあるのが結婚ということなんよね。きっと。
社会をスムーズに運営していくためには、やはりこれが都合がいいなんですよね。
でもそれが社会的な価値観と合わないときに、私たちはどっちの立場に立てばいいのかという難しさが出てくると。
同時にその生物学的などうしようもない部分と非常に強く結びついているっていう、そこが余計厄介なことですよね。
会社なら生物学を超越した何かができるけど、子供をこうなすのは異性しか今のところ不可能ですからね。
そうですね。あそこに絶対的な要件があって、ある種片方の側の意見が正しそうに聞こえるのが厄介ですね、これは。
あとこの本でいうと、やっぱり日本人が異様に血にこだわるけど、結構養子を取るっていう文化が変ではないっていうか、普通にあるっていうのは一つ発見ではあったかな。
社会学とか人類学に触れる一つの価値ですよね。そういうことがわかるのは。
日本にいると養子という、多分単語から悪いと思うんだけど。
そういう概念をさらに言うと、多分明治とかその頃は普通に養子とか取ってたりしてますからね。
そうですね。だからやっぱり現代の物語の中で、つまり僕らが日常的に触れるコンテンツの中で養子の人が出てくるのってほとんど生まれ出てきたとしても、どうしてもちょっと扱いが悪いというか。
少なくとも特殊な人としか見なされないですよね。
だから僕たちの文化的な価値観もやっぱりそれを標準としてしまう嫌いがあるよね。
そこですよね。その辺が考えることが非常にいっぱいある本だったのかなと。
学びの重要性
で、次が108回。
お、ちゃうわ。失礼。
学びがわからなくなったときに読む本。
これは非常に紹介が難しい本でして、いろんな人の対談が出てくる本ですけど、タイトルから想像されている通り、学びということについて改めて考える本で。
いろんな方、特に最前線で自分も学びながら、つまり変化しながら何かをやっている人たちの対談が語られていまして。
昨今、リスキリングとかアンラーンとか、いろいろ学びに関する流行りワード、バズワードがあるわけですけど、結構軽く語られることが多くて。
特にある種の大人の学びと言われるときに、単に知識を増やすということだけが限定されていて、
自分自身がラディカルに変わっていくような、単純に言うと深い学びっていうのが、阻害されているとか無視されている。視野の外に置かれているってことがある中で。
改めて、学ぶってのはどういうことなのかを、理論というよりは学んでいる人の語りの中で感じていく、感じ取っていくというタイプの本で。
たぶん本編でも言ったと思うけど、非常に学びが深い。
難しいね、表現が。
これ難しいんですよね。つまり読んでて考えることもいっぱいあったし、自分が自分の人生の中で学ぶっていうことをどう位置付けられるのかを、もう一回考えてみようという気持ちを起こさせた本というようなことをギュッと凝縮すると、学びが深い本ということになりますね。
学びがありましたっていうのと同じことになってしまう。
短く言うと必然的にそうなってしまうんですけど、でもやっぱりもうその社会的な流れがどうとかは別にして、やっぱりこの物価達と続けてって思いますけど、人生を豊かに生きるというところもチープですけど、
変化していくこと、学びながら変化していくことの価値っていうのは、たぶん近年一番高まっている時期じゃないかなと思いますね。
価値が高まっている。
もちろん注目もされてますけど、社会的な状況の不安定さとか、共同体が壊れていくとか色々その問題があった時に、やっぱり自分自身が変わっていくっていうことを、変わっていくというか、
現代の学びの意義
この言い方すると知識が増えるような感じがしますけど、自分の価値観とか物の見方そのものを改めていくような学びをしていくことの意義というか、バリューというかが非常に高まっている。
少なくとも30年前に生きていた大人たちよりも、現代を生きる大人たちの方が学びを切実に必要としているなとは思いますね。
そうですね。思い出したけど、その大人の趣味理論というやつを考えていた時に、やっぱり日本人の健康寿命が伸びていることと、社会変化のスピードが間違いなく早くなっていることを考えたら、
たぶん昔は18とか15まで学んだら、それだけで大丈夫だったんですよね。死ぬまで。
少なくとも高度経済成長云々の時においては、会社が大規模にリストラってのがほとんどなかったわけで、あるコースに一回入ったら、ひとまず丁寧までは大丈夫というのが信用できた、そういう幻想があったわけですけど、
たぶん現代の若者にそれを信じている人は一人もいないでしょう。
社会的なスキルとしても、極端なことを言えば読み書きができて算数ができたら、大体の仕事がこなせていた。
社会的な問題とかも何ならそれも会社が解決してくれたりだとか。
当然、働く大人の人はあんまり家族の問題とかも考えずに進むというか、押し付けており。
それも考えないくていいという価値観がはびこっていたんですよね。
だから基本的に、与えられた仕事だけしてたらいいという人生のロールモデルっていうのがかつてあったとしても、今はもうそんなものはなくて、変化も早く。
しかもいろんな人たち、価値観の違う人たちと触れ合う機会も増えている中で、固定的な観点のまま生きていくということは圧力も増えますし、
党にとってもいいことはないと思うんで、ビジネスで成功するためとか、教養主義とかのもっと遠く離れて、生の豊かさそのものと学ぶことが普通に結びつく時代になっているような気がしますね。
25年前、まだテレビ電話すらできなかったですからね。
今はもう本当に価値観の違う人たちとか、つまりハイコンテキストじゃない人たちとやり取りする中で、自分の価値観が狭いところに留まっておくのはあんまり良くないというか、嬉しいことは少ないだろうなという気がしますね。
どっちもではありますからね。土地に縛られなくていい価値観とその土地でうまいことを生きていくというのも、逆に重要度も増しているとは思うので。
いろいろな価値観の引き出しを広げるという意味でも、雑学的に知識が増えるということではなくて、いろんな価値観に対して自分を開いていく学びというものが、もっと注目されたらいいんじゃないかなとは思います。
なんか難しい話なんですけど、どう学んだら価値観は広がるんだろうなっていうのを言えるのかなと思って。
これは結構難しいところで、基本的に僕らがここで念頭に置いているのは本を読むことなわけですけど、自分が好きなカテゴリーの本を読んでいるだけでは広がらないわけですよね。
当然のように。かといって、読みたくない本を読む、我慢して読むのもそれはまた別の区域が始まるわけじゃないですか。
だから興味がある本の中で、ギリギリを責めている本、挑戦的な本にたどり着くということが一つの解決方法じゃないかなと思いますが。
それは逆説的に、いろんな本を、いろんなことに興味を持つでもあるか。
興味を持ったものから、さらに興味の根を伸ばすというような広げ方をしていくのと、あえて読むみたいな、興味はないけども読むみたいなチャレンジを10回に1回とか20回に1回ぐらいの割合で混ぜていくとかっていう風にしてやるといいんじゃないかな。
これ、だから読書の戦略、戦術みたいな話でまとめられそうですけどね、きっと。
あと一般的にっていうか、自分の偏見を含んだ話なんですけど、
学ぶことに興味がない人というのは、この言葉を聞いたら、資格を取るということとイコールぐらいになるんじゃないかっていう感覚もあって。
そういう学びじゃないだろうなという本なんですけど、一般的な理解はそうですよね。
それ自身が別に悪いことではないんですけど、それだけだと狭いですよね。
そういう人に何て伝えたら、うまいこと伝わるんだろうなっていうのを思ったんですよね。
その価値観を変えることに価値を見出してない人に伝えるのはほぼ無理なんですけども。
2つあって、1つはある種のその人が置かれているコミュニティとか、つまり普段やり取りしている人の中で、
なんか面白そうに本を読んでいる人がいれば興味を持つんじゃないか作戦というのと、
あと本屋の価値って僕はそこにあるかなと思うんですよね。
資格付けの本を買いに行った時に新刊コーナーに並んでた本が目に留まってたまたま買うというような誤配が起こるのは本屋という場所だと僕は思いますね。
そこでAmazonで検索したら全部資格の本しか出てこんもんね。
そこがやっぱりその閉じ込める方に向かってしまう、アルゴリズムが閉じ込める方に向かってしまうところで、
偶然性に開かれた場所としてアナログな場所っていうの価値がそこにあるんじゃないかなと。
転生可能性ともつながってくる。
そういうものがやっぱりあるんじゃないかなと思いますね。
そうか。やっぱり考えることは多いですね。
次が109階と112階が2階に渡ってノート音楽という本を紹介しました。
音楽と脳の関係
これはあれですね。大雑把なことを言うと2、3年前からゴリゴが音楽という趣味を再開し始めてから、
音楽をできるだけサイエンスよりっていうのか、
脳科学とか生物学とかいろんな観点、音響、心理学、そういう観点で理解することがめっちゃ面白いと感じるようになって、
確かその1個前の時は音律と音階の科学というのでドレミファソラシドは何でできたのかっていうような話とかも紹介したんですけど、
これはもう一段階守備範囲が広いというイメージだったかな。
その音とは何なのかっていう話から、
物理学で示せる部分と心理学で示せる部分っていうこの2つがあるっていうのが非常に面白い。
しかもその1個前の音律的な物理の話と、脳の話はちょっと前にしばらく読んでましたよね、僕らも。
そうですね。脳に関する話とかはずっと昔から興味があって、
脳と心理学の2つの、脳の生物的なものと文化っていうか認識的なものとかによって、
その音楽の聞こえ方が変わってくる。
これ面白いなと思うのは脳の方に伸びていた濃度と音楽の方に伸びていた濃度が合わさることで、
この新しい濃度を結合させているなってことで、やっぱり本の趣味というか興味の趣味ってそんなふうに、
いろんな多角的に伸びていくんだろうなというのを見てて思いましたね。
そうですね。よく考えたら見事につながっているんだもんな。そういう意味で言うと。
あと音楽ジャンル、音楽、この脳、音とかに限らずなんですけど、私が仲大した電気電子情報工学科っていうジャンルとも実は観点がめっちゃ多かったりして、
電波っていう話だったり音波っていう話だったり、あと例えばほとんどのギター、エレキギターとかって、
波を結局変調させて音を変えるかみたいな話だったり、それは電気工学的な話でもあったりもするし、
よく言うことなんですけど、もうちょっとちゃんと勉強しておいたらよかったかもしれないなっていうのは、なかない。
その時ちょっと知ってたから入りやすかったっていうことぐらいはあるでしょ?
間違いなく言えるのは、何もできんけど風鈴変換っていう言葉を知っていたおかげで、
そうか風鈴変換でこんなに説明できるのかとか、そういうのは確かにありますね。
何のことなのか本当に分からんかった。一応当時でも携帯で通話できるようにするためには風鈴変換がいるみたいな話。
単純に電波に情報を乗っけて送るためには風鈴変換が必要なので、
そういうイメージはあったけど、それがやっぱり自分の興味の直球で繋がると、やっぱり学びやすいし、学ぼうと勇気になれる。
だから変な話ですよね。初級的にしか学ぼうとは思わないじゃないですか?
あの時学んどいたらよかったっていうのは常に後からしか思わないんじゃないかなと思って。
絶対そうでしょうね。たまたま役に立ったとかはもちろんあるかもしれんけど。
今、かつての学びを活用できてよかったということじゃないですか。
多分そうだと思いますね。
あともう一個やっぱり非常に自信を持って思えるようになったのが、よく世に言われている音楽理論という言葉。
あれが、ただの心理学であるっていう。
イメージとして理論という言葉をつけてしまうがゆえに、
ニュートン力学的な感じが。
サイエンスみたいに感じてしまうんだけれども、音楽理論は人文学であるんですよね。何なら言い方としては。
ある意味で、経験則をある種の定式化でまとめたものということでね。
そうですね。さらに多数決経験則と言えばいいのかな。
もっと言えば、現代美術なんかもそうなんですけど、やっぱある程度行ってしまうと、
人と違うことをやろうと思ったら、もう普通の人にはついていけないものになってしまう。
現代アートにしても、現代音楽にしても、やっぱある程度行ってしまったやつは、もう分からんのですよね。ほとんどの人は。
結局多くの人が好きになれるのは、あんまり難しくないやつだっていう。
そのあたりもやっぱ非常に面白いし分かるし、あと一部の人たちが、現代の音楽をそれに伴ってバカにしてしまうというか。
そういう現象もやっぱ起こるんだろうなっていう。
やっぱ心理学的なものが強く影響してるからやっぱり。
で、学習によって難しいものがどんどん理解できるようになるので。
難しいことを繰り返していれば、そうじゃないと、そのドーパミン的な喜びが満たされない。
なるほど。
とかにもなるんだなっていうのが、だいぶ整理して分かったことで、音楽理論を学ぶという概念にすごく自信ができた。
なるほどね。
っていうのはでかいですね。
あと学んでみると音楽理論なんて、西洋で言われてるレベルの話ですけど、案外大したことねえっていうか。
どういう意味で大したことがない?
そんなに難しくない。
そういうことね。
まず大前提として、ものすごい高度なレベルとか、結局身体的にリアルタイムにできるようになろうと思ったら、
とてつもない修練は必要なんですけど、分かるだけなら難しくない。
できるまでいくとめちゃくちゃ難しいけど、分かるだったらマジで1年もかからず余裕でできるんだなっていうことが分かった。
なるほど。
そこからできるまでが果てしない道のりにはなるし、できないと分からないレベルのこともあるんですけど、いっぱい。
なるほどね。
ある程度分かるなら簡単なんだな、簡単っていうのは失礼だな。
1年かかるわけだから簡単ではないけど、高いIQは必要とされないということね。
そうですね。極端なこと言えば野球のルール分かる人なら多分誰でも分かるぐらいのイメージがあると思う。
野球ってめちゃくちゃ難しいじゃないですか、言語化せず。
それはそうよ。
ファールで三振にならないとか、フライの仕組みとか、等類とか俺いまだに定義できないし、
ホームスチールとか、インプレイアウトプレイとかって定義を考えたら、あれをパッと分かるっていうレベルだったら、
音楽理論が大体分かるに近いんじゃないのか。
なるほど。
やらないと肌感として理解し難いこともあるんだろうなっていう。
ね、確かに。
はい、という感じです。
じゃあ次が…
10回。
知的生産の技術
僕ですよね、エスノグラフィ入門という本で、これは非常に感銘を受けた本と紹介したと思うんですけど、
引き続き感銘を受けている本で、
前々からずっと思ってた知的生産の技術みたいなものを、仕事術でもタスク界でもいいんですけど、
体系的に、つまり俗人性を漂白して、ある種の理論、さっき言ったニュートン力学的な理論として、
まとめるんではない語り方っていうのがあって、
しかもその語り方にはちゃんと意義があるというか、
一般性じゃないけども、普遍的につながる何か意義っていうものを持たせられることができるということを感じた本でして、
だから僕の仕事感にかなり強い影響を与えた本ですね。
今でも何か思い出すとすごいなと思いますね。
なのであれですね、ニュートン力学を作ろうとしていたけど無理だって分かって、
暮らした音楽理論を作ればいいみたいなことが分かったって感じなんですよね。
そういう視点立つと言ったら、みんな他の人の語流語理論も聞かせてくださいみたいな感じで開かれていくわけですよね。
いろんな人の語りがあっていいという、
それはだから僕がずっとインターネット老人会世代で言うと、みんな発信してくださいと言える論拠になるというか、
僕自身が完成した理論を出してしまうと、
あとはそれに従うかどうかというようなしょうもない話になるわけですけども、
個人の人生の歴史を背負ったノウハウっていうのがあって、
そのノウハウを実践のレベルで語っていくと、得難い価値があるという。
だから個々の人が自分で理論の完成度を高めなくても、
僕これ困ってるんですけど、こういう方法で解決したんですよね。
でも最近それやってないんですみたいな語りの流れが、
実はノウハウとして価値があるんじゃないかなというふうに考えるようになったということで、
このエスノグラフィーそのものも面白いんですけど、
社会学的な意味でも面白いんですけど、
肩借り方とか引き出しが増やしてもらえたという意味で、
感謝の方が多い本かもしれないです。
感謝。
自分にとって不思議というか印象的だったのが、
ラシタさんの知的生産の技術をまとめねばならんみたいなやつが、
そういう難しいことを考えていたんだなっていう印象が当時からあって。
なんか変な話なんですけど、
自分の場合、俺の話しか俺はできんからなってずっと思っていたから。
まずさ、人の役に立つものにしたいわけですね。
一応、情報発信者としては。
もう一つはやっぱり、
1970年代に知的生産の技術についてエッセイを書いてきた人たちはみんな学者だったわけですね。
基本的に多くは。
学者っていうのはセオリーを追求する人たちというイメージがあって、
そこの後をなぞろうとした時に、体系化を目指すっていうことをしたくなるし、
一応、梅沢太郎が知的生産の技術の中で、
本書はまとまっていないが、
体系化っていうのは今後の課題になるだろうみたいな宿題を残したんですよ。
そう言われてしまったから。
やらなあかんっていうことに感じたわけですけど、
でもやっぱり梅沢太郎がエッセイの形であれを語ったということは、
エッセイの形でしか語れないことなのかもしれないなというふうに、
ある人が梅沢太郎の提案をひっくり返すような、
いやあなたエッセイでしか書いてないじゃないですかっていう言い方で、
自分の仕事を新しくスタート切れるんじゃないかなというふうには、
ちょっと今は感じてますけどね。
そうか、そういう、
良くも悪くもめちゃめちゃ影響が大きかったですね。
やっぱりそれが中心的だから、他のあり方っていうのを考えられなかった。
想像力がある種奪われてたというか、盲信してたところがあったんですけど、
いやいやそうじゃないだろうという視点を開かれている。
この開き方もやっぱりエスノーフライミングそのものが、
理論的なものに対する科学のあり方を、
別角度からこういうこともあるでしょうっていう、
ある種のちょっとロックな姿勢を見せている手法でもあると思うんで、
それにも多分感化はされてますねきっと。
文化人類学と大きな意味でエスノグラフィーは、
近いと思います。
似ているっていう感じなんですよね。
面白いことに文化人類学という言い方をすると、
俺はすげえ興味が出るんだけど、
エスノグラフィーという言葉だと、
やっぱりよくわからない、自分から遠いような感じがしてしまう。
やってること、文化人類学の中で、
エスノグラフィーという研究書が使われているということはもちろんあるでしょうし、
それは社会学でエスノグラフィーが使われているということもあると思うんですけど、
だからエスノグラフィーで言うと、
表現方式になる、
分野というよりは表現形態。
語りという側面が強くなるんで、
客観的視点と記号的消費
そこに惹かれるかどうかということじゃないですか。
面白いな。
失礼ではないな。
そういうふうに言われると、
別に語り方とかどうでもいいなって俺は思うんですよね。
僕は文体とか語り方にひどく興味を持つ人間なので、
だからこそ本書が非常にいい。
そういうことなんでしょうね。
やっぱり人は違うということを思い知らされる。
同じ本を読んでも、
フィールドに入ることの意義の面白さを本書で感じる人もいるでしょうけど、
ある事象がいかに語られるかに興味を持つということですね。
まさにその言い方で言うと、
フィールドに入る面白さというところに興味を持つかな。
それは僕も面白いと思いますし、
ある種知的生産の技術っていうのは、
自分がやっているプロセスというフィールドに入ると言えると思うんで、
その視点は非常に重要ですけど、
入った結果どうそれを記述するのかというところが、
物書きとして僕の興味がある。
その辺があれですね。
さっき言った梅沢さんの話に縛られていたみたいな観点とも
繋がるような気がしますね。
はい。
そして111回がゲスト回。
MOさんが2話の話について紹介してくれた回。
久しぶりでしたね、ゲスト回はね。
そうですね。
せめてやっぱ半年間に1回ぐらいは、
できれば採用っていう言い方はあれだけど、やりたいですね。
そうなんですよね。
労力的な意味で自分らが1回準備せんでいいのがあるんですけど、
やっぱり違う人が本の紹介する話って単純に面白いんですよね、これ。
うん。
やっぱり視点が違うし、
その紹介するときの話し方も違うんで、
刺激を結構受けますね、これは。
うん。
で、俺単純にこの本自体が良いと、
あ、読んでないね。
良いと思ったし、
この話し方をMOさんが紹介してくれたことをきっかけに、
あの、著者の方を知って、
UNOさんですね。
はい。
で、つい先日、最新刊のラーメンと瞑想という本を読んで、
あの、この人めっちゃ好きやわっていう感じになっていたりもするので。
これこそあんまり日本の批評家の方は、批評めいた方は読まないのか。
多分ね、知識ゼロなんじゃないかなってレベルですね。
じゃあ偶然の出会いだったわけね、これは。
そう、あのUNOさんのことをMOさんから名前を聞かなかったら、
ひょっとしたらこのラーメンと瞑想って何やこのアホのタイトルだって興味持ったかもしれんけど、
見かけても、あれそういえばこれってニワの話のあの人やんっていう風に思って、
で、パラッと最初の方だけ見たりしたらめっちゃ好みな感じだったっていうのか。
とかっていう、やっぱり人から教えてもらうことで、
ちょっと興味が広がったなんですよね、まさに。
そうですね。
で、ちなみにその批評の話で言うと、
やっぱこのめっちゃね、アホな感じで批評をしているからね、
すごい面白いけど、これを本気でやられたらきついなぁと思った。
論じられている分野が自分と遠かったらかなり厳しいでしょうね、きっと。
例えば、宇野さんは結構日本のサブカルを論じていることが多いんですけど、
その辺一切見たことなかったら多分きついと思いますね、それは。
そうですね、この本の場合で言うと、
例えば、基本的にはどういう言い方をしたらよかったのかな、
ラーメンとかその外食を切り口にしながら、
哲学的な批評とか映画批評とかをしているって感じだったから。
なるほど。
非常にその、やっぱドストレートでは多分ないんですよね、批評として。
批評、違うな、エッセイを装った批評みたいな感じだもんな。
逆かもしれない、ちょっとどっちかわからない。
それは確かに。
批評を装ったエッセイとも言えるし、エッセイを装った批評とも言えるし。
そういう意味で、少なくとも未知のジャンルに広げられたのは、
やっぱこうやって紹介してもらえたからですからね。
1時間話聞いていたら、それは覚えるわなとも思うし。
こういうペーストで語る本を書く人だなっていうことが感触としてわかるじゃないですか。
たぶん2話の話が、2話とは大切であるみたいなことをやったら、
たぶん、著者にも興味は持たないと思うんですけど。
どういう方向で書いている人かっていうことを知るだけで、
僕たちの興味のアンテナは感度が高まるっていう。
そうですね、この人には面白そうだなって思ったからな。
そこはやっぱ重要ですよね。
あとね、余談なんですけど、この一番すごく印象を受けたっていうのが、
自分は、宇野さんが何かのシーンで、
自分は近所のことを全くきちんと目を向けていなかったみたいな感じで、
結局近所のことをきちんと見ることができなかったら、
旅行でも記号的な消費しかできないみたいな言い方をしていて、
ちょうどこの前ラスタさんに聞いた旅行を、
たぶんラスタさんは旅行とは記号的消費だと認識していたってことですよね。
そうですね、そう思います。
これだな、そして世の中、やっぱ記号的消費の旅行というものがいかに多いのか、
そしてそれを外すと旅行とかっていうものも楽しくなるよなっていうのと、
記号的消費という難しい言葉がやっぱり理解できたおかげで、
この概念が上手に説明できるようになった。
そうやね、記号的消費というワードを持たないで、
記号的消費の概念を把握するのは難しいね。
でも俺、ちなみに記号的消費って何なんて言われたら、
まだたぶん説明上手にできないんですよね。
ただ概念はつかめてる感じはするよね。
自分の中では一応。
なのでこの言葉、こういう便利さ、
便利さ、違うな、やっぱ視野が広がるということなのかな、これも。
言葉という道具を手に入れることによって、
思考だけじゃなくて視点、視野、視界、見ることそのものが変わっていくというのがあるね。
っていう観点でも、
批評をめいたものとかは、
そうやって考えると良いのかもですね。
全然興味なかったけど。
ある種の文化人類学的な相対感やけど、
哲学者とか思想家が新しく作り出す道具、概念、概念道具によって、
いろんなものの見え方が変わってくるというところなので、
それはやっぱり辞書で調べて、
例えば記号的消費はこうであるって書かれたものを見ても、
多分そのものの見方はあんまり変わらないと思うんだよね。
まああれですよね。
分かるけどできるにならんって感じですよね、まさに。
その言葉、概念を使って何かが論じられているところを読むと、
ライフスタイルと新たなテーマ
ああそういうことかというような道具の入手の仕方が発生するというのが、
多分、批評を読む面白さの一つなんじゃないかなと思いますね。
同時に自分の今後のテーマとも非常に強く結びつきそうで、
その記号的消費ではない生き方というのかな。
だから単純に言うと脱記号的消費とか、
反記号的消費なライフスタイル。
やっぱり意識していないところで、
多分記号的消費をしているものが無数にあるような。
ノーで言うと省エネのためにそういうふうにしているんでしょうね、きっと。
そのフレーズ、ワンフレーズあればやっぱりテーマとしてだいぶ考えやすくなるので。
いかにすれば記号的消費から脱することができるのかというのが、
解くべき問いになってくるね。
その生き方として一つ軸ができるというのかな。
記号的消費の考察
ちなみに日記を書くことって記号的消費から脱するための一つの手法じゃない?
もちろんそうですね。結構重要なことな気がする。
結構身近な話から始められそうよね。
あと自分の例えばの話で言うと、
酒を飲むこととかもかなり記号的消費をしているような気がしていてね。
シチュエーションによるとは思うけど、分からんではないよ。
そうそう、そのあたりとかもだいぶ。
例えば運動が今できているのは、記号的な運動をしなくなったからな気がするんですよね。
鍵かっこつきの運動をするというものから離れて、より実感的な運動をするに移り変わったということですね。
その運動というものが記号的行為の対象ではなくなった。
っていうようなことがひょっとしたらやっぱり習慣化とかもつながるのかもしれない。
でもそうやな。ノウハウがうまく使えへん時ってのはそれを記号的に受け取ってるというのはあると思うね。
っていう意味で全然ニュアの話とは違う話ではあるんですけど。
UNOさんは面白いよね。
そうですね。UNOさんのおかげで広がったって感じかな。
112回はノウと音楽をたくさん語りたいので、2回に分けて話しました。
113回が読書効果の科学ということで、先ほど科学という話が出てきましたが、これこそ科学ということで。
読書は必要ないっていうような派閥があって、もう1個は読書が好きな人が読書はぜひ必要だと。
読書をすれば頭が良くなるとか、練習が上がるとかいろいろ言われるわけですけど。
エビデンスとしてどうなのということを論文を紹介しながら、実際はこれぐらいのものですよと。
そこまで高い期待を持たないで、でも地道にやっていきましょうと柔らかな提言がされていることと。
あともう一つ重要なことは、読書が合わない子どももいるよと。
子どもともっと言ったら人ですよね。合わない人もいるよと。
その時に無理やり押し付けるのはその人のためにならないよというこの2つの視点が示されている。
大抵のノウハウ書はもっと過激な主張をして。
全然疑わないですよね。
エビデンスがあるというような科学的なものがどんな強度で確かめられているのか。
どこまで正しいと言えるのかということを一切無視して。
そういう論文がある。だからこう。みたいな話があって。
別に良くはないんですけど。
僕たちがやっぱりその科学的な知見を自分の生活の中でノウハウとして生かすためには
この程度のことを最低限考えた上で実践した方がいいという。
論文との付き合い方という意味でも本書は非常に凄いてますし。
僕課題室ですから読書の効能というのは何でどのぐらい期待したらいいのかということを教えてくれる実践的な本でもあって。
この本はもっと読まれたらいいんじゃないかなと今でも思いますね。
まあでもあの強い訴求をするタイトルではないと思う。
おだやかなって書いてあるからね。
同じ内容を例えばダイヤモンド社の編集者がしたらまた違うタイトルにして売れるようになるのかもしれませんけど。
インパクトは変わると思いますけど。でも本書の内容は本当に読み継がれるべきことだと思いますし
特に生成AIとかがエビデンスを簡単に引っ張ってくる現代であるからこそ
それってどの程度の確度なのとかどういう研究でそう言われてるのってことをちゃんと疑問に持てることができるようになったら
より情報を活かせるようにはなると思いますけどね。
もはやね現代では都合のいい論文なんて探せばいくらでも見つかるらしいですからね。やったことないけど。
研究とかメタ研究みたいなこの界隈では普通に使われているようなことでも
僕らの一般的にメタ分析とかって何ですかっていうニュースを見てるだけではメタ分析ってわからないと思うんですけど
そういうことにも触れられるので非常にいいと思いますね。ある種啓蒙的やと。科学啓蒙的な本だと思います。
ちゃんと科学ってついててちゃんとしてるようですね。
そうそうそうそう。ちゃんと科学の本。
続いて114回がイスラームからお金を考える。
イスラームとお金の価値観
なんとなくなんですけど結婚と社会学ともつながる自分の中の社会派ジャンルのやつ。
なるほど。
さっきの結婚の社会学は割と価値観の話なんですけど
こっちはお金に対する価値観みたいなイメージだったりするのかな。
特に自分がやっぱり強く思っているのが日本にいると中東とアフリカが物理距離と比べ物にならないくらい圧倒的に遠い。
遠いですね。
学校でも学ばないし何も知りようがない。
実際本の内容自体は正直そんなに半分以上ぐらいの勢いで多少いろんなことを学んでいたら出てくる話ではあったと思うんですけど
でもその概念というかイスラームという概念を何も知らなければやっぱり何も知らないまま知りようがないというのかな。
なんか距離感がありすぎて触れようがない。
まず新聞のニュースで出ることも少ないし僕らの日常のメディアコンテンツに載ってくることもないですからね。
それこそ最近のこの21世紀に入ってからという話でそういうハラールがどうのこうのとか
あとそういう地域から観光客が日本にやってくるようになったりとかっていうので少しずつ認知はされたりもしているのかなという感じはあるんですが。
でもまあ例えば日本を歩いてても布で顔を覆った女性を見かけることが増えましたが
でもそれ以上のことはわからないですよね。
例えばそれがどこの国の人ですかとかも知らないしね。
僕その衣装の名前を今明示できなかったですけどあれ名前がいくつかあるんですよねパターンによって。
それも全然わからないですから。
何もわかってないに等しいしやっぱりわかるきっかけも少ないですからね。
あとそのお金というものに対する概念が多分違う。
特に日本が特にかどうかわからないけれども基本的に癒やしいとか汚いとかっていう言い方しかしていないようなイメージがあるんですけど
そのイスラムだとそれは稼いで返せという分けろみたいな概念。
っていうのは少なくとも日本ではその知られてはいない正しいとか正しくないではないんだけどやっぱり考えるヒントが増える。
日本は何でそうなってるんでしょうね。
あの創造なんですけど江戸時代の首脳交渉からだと思いますがによって強化されたんだと思っています。
なるほどね。
武士として取り締まるのに都合が良かったのが将を一番下に置いてお前たちは金じゃなく必死に米を作れっていう価値観でひたすらお金のことをバカにしてで武士の人たちはお金のことわからんから
余計そんなものは俺はいらんみたいな感じでいこじになってっていう。
多分そうなんでしょうね。
僕の勝手な印象ですけどもっと古い日本はそこまでお金について癒やしみたいなイメージじゃなかったような気がするんですけどね。
多分そうじゃないかなって想像しますね。
なるほどね。
そういう意味でも結局そのその感覚なんて初戦何百年程度の文化でしかないんだから。
でも逆に言うと今まで生き残ってるのが不思議なぐらい強いその感覚ってね。
まあでも例えばで言うとその自分たちの親の世代は必死こいてたくさんお金を稼ごうという価値観だったのが自分たちの子ではないけどその下の世代はそれよりも生きるに足る金があればいいみたいな価値観を強く印象を受けるようにもなるので
まあ意外と世代さえ変われば一気に変わるのかもしれないと思いますけども。
ただでも疑問というかお金はどうでもいいというのはお金について考えないということでもありそれはそれで問題がありそうだなと。
資本主義に生きる限りは学んで考えることは重要ですからね。
そうですね。資本主義のゲームでいかに立ち回るかとともに資本主義を相対化する概念を持たないと基本的にその弱者強者という話になってくるんでね。
だからそのイスラーム的なお金の考え方とかもっと全然違う文化のお金の考え方に触れてああそういうことかというようなことを知る。
だから実際そういう国に旅行に旅行にくらい何ヶ月か生活したら多分もっとリアリティをもって感じられることなんでしょうけど僕らはそういう生活を送ってないんで本で触れるしかないんだろうなという気はしますね。
単純に子がいると難しいとか。
ストア哲学の実践
結局若いうちが一番やれるからね。
人生がある程度固まりだしたらこういう書籍コンテンツが学びにはいいというのは確かにそうだな。
あと子供が大きくなったら好きなように出かけていけばいいんだけどもうちょっと円の価値が上がってほしいですね。
それでいうと。
難しいんちゃうかな。
はい。
で、115回次が心穏やかに生きる哲学。
はいこれは僕が紹介した本でこれもずっと前からストア哲学については話したかったんでたまたま読んだこのタイミングで読んだ心穏やかに生きる哲学という本を紹介させていただきました。
結構本の内容プラスアルファでストア哲学とは何かとについて触れた回だと思うんですけど。
これも普通に重要というか。
現代って一番植物的に役に立つって感じですよね。
気がしますね。
あの結局僕らが囲まれているメディア環境っていうのはアテンションエコノミーと言われてますけど。
関与してくれ関与してくれって言ってくるわけですね。
コミットメントを頂戴と。
でストア哲学っていうのはその関心の領域を切り分けましょうということをまず第一に言うわけですよ。
だからそれはある種のコミットメントエコノミーに対する防波堤というかあるいはワクチンと言ってもいいですけど。
それはあなたにとって本当に必要ですかっていうことを考えるきっかけというか先ほど言うと概念道具を与えてくれるようなものなので。
これを学んでいないとやっぱり影響されてしまうのは多分避けがたいんじゃないかなと逆に思いますけどね。
貿易を晴れてないという感じがするなんとなく。
結局学ぶことが強くなるという言い方をすればいいのか。
どっちかというと防具を手に入れるという意味での強くなるという感じかなこの場合は。
あーそうね防御力。
というか現代社会そういう意味で言うとほとんど大事なのは防御力なんじゃないのか。
敵側の攻撃力が強まりすぎているんで。
まず防具からという感じがしますね。
当然そのアテンションエコノミーだけじゃなくて僕らが生きていく上で何か悲しい出来事とか心を惑わす出来事っていうのがあって。
それは心が惑わされてしまうのは避けがたいしても。
そこで瞬間的な劇場的な反応をしてしまうと後々後悔が残るっていうこともあるわけで。
生きていく上で人間が抱えてしまう心の揺れにどう対応するのかは本来というかこれまでの文化では宗教が支えてきたわけですがそれを。
でも基本的に現代社会で言って宗教っていうのはそこまでの寄与力存在力を持っていない中で変な話で自己防衛するしかないというか自分の中でそういうのに対処する力を持つしかない。
だからこれ自己啓発の一環ではあるんですけどかなり守りの力が強い自己啓発だと思いますね。
日本は基本的にそういう宗教を持ってはいないですからね。
そのあたりでもその余計強いとか響くとかあるのかもしれないですね。
だから仏教はもちろん生活の中にあって生と死に強く関わっている宗教である程度日本人は仏教的な行いに参加すると思うんですけど。
昔のように家にお坊さんが来てお坊さんの説教を聞くみたいなことはほぼなくなっていると思うんですよね。
だからやっぱり儀式として仏教的なことをしてとしても考え方としての仏教に触れる機会は多分ほとんどなくなっていると思うんで。
それを自前で養っていくしかない。
養っていくしかない状況は多分あまり良いことではないと思うんですけど。
そうですね。良いことではないよねっていう。
やるしかなかったらやるしかないという。
もちろんカウンセリングとか他の人に頼るということも平行として同時に大切ですけど。
守れるものがあるんやったら自分で守っていくという。
体内時計とダイエットの重要性
これは自分の関心事の中にある。そうじゃないというコントロールテストっていうのは多分仕事においても生き方においても非常に有用な思考法だと思います。
ストア哲学とか自分も数年前の話で言うと何のことかよく分からんかったぐらいの理解しかなかったので。
その頃から考えればやっぱり直接ストア哲学に関する何かを読んだっていうわけじゃないんだけど。
大体哲学の方を読んでたら出てくる。
哲学入門とか色々読んどったらイメージぐらいはできるようになるんだなっていうのはあるかもですね。
もう一個6月分で116回が体内時計の科学。
これは大雑把に大体半年に1回ぐらいこれも同じくシリーズ的なもののダイエット運動系の中での
まず定義として体内時計って言うけどそれはなんやねんっていう。
時計は体にはないはずだよね。
そうですね。
その仕組みってどうなってんのっていう話から始まりそこから例えばその体内時計というものがどういう仕組みで動いているとか
どういうタイミングでどういうことをするといいとかっていうようなことを色々話したものなんですけど
これもやっぱり結構影響は大きくて。
今で言うと半分意識みたいなこの細かな内容を云々っていう感覚よりはもうちょっと中に自然に入ってきたというか
人類は仕組みとしてやっぱりまず体内時計を定期的にリセットしてあげないといけないというか
ということがいかに重要なのかというのとそれを意識して生きてみると
主観的にとても調子が良くなったと思っている。
なるほど。
っていう意味でその体内時計というものを意識して
例えば朝起きて朝日を浴びるとか朝に食事をするとか
これを読むまでは言ったらなんですけど
18時間ぐらい空腹にしておく方がいいというやつ
ファスティング系のダイエットとかが自分にとって良いと思っていて
ほとんど朝ごはん食べていなかったんですよ。
胃腸を休めるという観点では朝ごはんを食べないことは理にかなっているんだけれども
体内時計を遅れている体内時計を早く元に戻すリセットするという観点では
朝ごはんは非常に重要だと考えるようになって
なるほど。
結論から言うとどっちが正しいではないではあると思うんですけど
考える根拠が一つ増えたという意味で割と影響は大きかったのかなって思いますね。
実際試してみたら主観的には食べた方がいい感じに今のところなっていると。
そうですね。その方がやる気が出るなんですよね。
なるほどね。
朝起きてごはんを食べたり運動をしたりした方が活力が増える。
なるほど。
それは多分健康より大事やなと思って。
それによって寿命が仮に1年伸びたとしても毎日活力がある生活を作った方がいいというのは確かですね。
自分は少なくともそう思った。
確かにそうだな。
一応の休みという意味ではやっぱり休んだ方がいいのも一定以上確からしいので
例えばそういうのはたまに食べなくてもいいんじゃないとか朝とかを
夜ごはんを早めにすれば単純に12時間ぐらいなら開けられるわけだし
確かに。
そういう工夫でなんとかできるなぁとも思うし
あと自分の運動サイクルとつながってきた話なんですけど
寒い時期から暑い時期までジョギングをしようとすると
常に変え続けないと最適化できなくてね。
まあそうでしょうね。確かに。
きつくはないな。面白くはあるんだけど
簡単ではないなっていう。
確かに。
ちょっと前は夏とかは子供を学校に見送った瞬間に
ジョギングをしないと暑すぎて無理で。
そうでしょうね。
今はその時間は寒すぎてやる気にならないから
なるほど。
お昼ごはんの直前じゃないとよくなくてとか。
なるほど。
まあそういうような。
でも四季を感じるでもあるのかなと思って。
確かにそうだな。
その通年での体内時計というものも存在はしているっぽいので少ないけど。
そういう意味でも1年ぐらい。
でも逆に言うとやっぱり続ける難しさはこれだなと思いました。
自分の意思がかなり一緒でも周りが変わってしまうもんね。
例えば真夏はこの時間どう考えても外なんて出たくないけど。
死にそうになるもんな。
でももう今だともう寒くなってくる時間ですよね。
だから一番暖かいが終わっちゃった。
2時頃までが多分一番歩きやすいね。
さらに言うとお昼ごはんを12時に食べたと仮定すると
できれば2時間ぐらいは胃を休ませたい。
でも2時から走ったらもう暗くて寒い。
消去法的に10時か11時ぐらいに走るしかないっていうのが現在で。
そういうのもいろいろ面白がってやればいいと思うし。
やっぱり食べることを体内時計のスイッチという概念で捉えられたのはこの本のおかげかな。
それによって実際に実験しようという気持ちになってやるっていう。
そこが大切なとこでしょうね。
あとあれですね。
同じ食べ物だとしても食べる時間によって吸収のされ方が変わるとか。
極端なことを言えばですよ。
朝に食べれば美味しいものを食べまくってもいいかもしれないんですよね。
やってみないとわからないけどもそういう可能性もあるってことだよね。
同じ運動とかそういうものに対して一番たくさん食べられる可能性がある食べ方があるかもしれない。
夜寝る前に食べるっていうのが一番あかんっていうのは分かる。
主観的にも客観的にもそうですよね。
全部全然うまくできてるわけではないんですけど
ちょっとずつで変わってきたのかなっていう感じはするかなと。
っていうのが今シーズン2025年前半に読んだ本ですね。
記憶の形成
そうですね。なんかもうだいぶ忘れてますね。やっぱり。
これがいつだったのか忘れている。本自体は覚えているけど。
もう半年以上前やもんね。
ほぼ1年前ですよね。一番古いやつは。
でも毎回やって思うんですけどこうやって思い出せてなかったことを話しながら思い出すことで
記憶が強化させるなという効果があるので思い出すことは定期的にやっていきたいですね。
明確にありますね。
例えばなんですけど、悪い意味じゃないけど結婚の社会学の存在とかは忘れていたし。
そうですよ。人間の脳って常にメモリーをリフレッシュして生きてるんでそれは忘れるでしょ。
ああそういえば読んでたわって思い出して。
それでいうとやっぱ記録あれば相当思い出せる自信はついたのでテキスト以上のことが。
あとテキスト見なくてもやっぱ記録を残していたおかげで思い出せる力も上がっている。
それはありますね。しょうもないはずですけど買い物行く前に買い物メモ作ると買い物メモ忘れてもなんとなく覚えてるっていうので。
メモ作りとかノート作りそのものが記憶の形成に役立っている。
そのある瞬間に仮に思い出せないにしても何かのきっかけで出てきやすくなるっていうのは間違いなくあると思います。
そうだから使ってなくてもいい理論記録を。
それはある。
記録をしてさえいれば絶対とは言わんけど記録を活用していないことを気にやむ必要はない。
少なくともそれ自体でプラス。もっと活用したいと思えば活用してもいいけどノートを取ること自体でその知覚そのもの注意そのものが変わっているのでもうそれでいいじゃないですかって言えると思うね。
本の振り返りと感想
あともう一つ自分が思ったのは自分の中で言うと案外バランスは取れているんだなって。
なるほど。
ジャンルは大きくは定まっているんですけどその大きく定まっているやつやっぱり大体全部触れられるんだなっていう。
なるほど。
意識はしていないんですよね。
その時に最適だと思う本、最適っていうか紹介できる本を選んだら半年ぐらいのサイクルにすると大体均一化される。
まあそうよね。
俺はあんまりそんな感じはしないけど。
そうね。
ラシタさんはもっと言うと大体全部が均一化されている。
まあそうかもしれないね。
全部軸がある感じがする。
そうやね。
でもやっぱここで選んでるからというところもあると思うけど。
俺はいろいろ紹介したら後から軸が何個かあったっていう自分の感想かな。
やっぱり紹介して役立ててほしい本を結構選んでる気はしますね。
俺やっぱりそういう興奮しない気持ちがないんで。
興奮しないというかサービス推進かな?
全然なくってこれが面白かったですしか毎回言っていない。
面白いのは面白いけど。
実用性的なのとか思想を紹介した時も実用的な成分を見せようとはしてる気がしますね。
そこもそういうスタイルの違いでいいんじゃないかってことだと思うんだけど。
交互にやることに意味がある。
ということで今回のご意見ご感想。
もしくはこの中で一番印象に残った本とか。
あとご本人が自分が読んで一番面白いと思った本とかも
別にブックカタリストっていうハッシュタグを付けておいてくれたら見るので。
そうするとあなたの読者が一人二人増えます。
やっぱりそれも見られる効果っていうので見られる。
Twitterとかそもそも見られる前提ではあるんだけど。
もう一段階見られる前提にすると多分変わるものもありますからね。
そうやってご意見ご感想お便りなどなどいただければ
可能な限りご紹介もしますのでよろしくお願いします。
またサポータープランもやっているので
よかったらそちら番組の概要欄から詳細ご覧いただければと思います。
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました。
01:11:29

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