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2026-01-27 1:09:17

BC131 短歌を学ぶ

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今回は、「短歌を学ぶ」をテーマに語りました。

倉下は、基本的にことばを使った表現(文芸)に興味があり、いくつかは自分でも行っているのですが、「短歌」とだけは今まであまり仲良くなれていませんでした。学校のクラスで、なんとなく気になっているけども話しかけられないでいるクラスメイト、みたいな距離感です。

そんなとき、浦川通さんの『AIは短歌をどう詠むか』を読み、”短歌らしさ”をどう作っていくのかという模索を知ることができました。生成AIに短歌を詠ませられるようにする試行錯誤は、そのまま人間がいかに「短歌らしさ」を立ち上げていくのかの知的なプロセスの探求に重なるのです。

すでに短歌に親しんでいる人が、もっと短歌がうまくなるように、という「初心者向け」ではなく、そもそもとして「短歌らしさ」という感覚──認知的なスキーム──がまだ十分に育まれていない人がなんとかその入り口に立とうとするという「入門者向け」として、『AIは短歌をどう詠むか』はとても役立ちました。

そして、その延長線上に穂村弘さんの『はじめての短歌』も位置づけられるのですが(詳しくは本編をお聴きください)、本書から学んだことはもっとラディカルな姿勢でした。いかに「社会的」なものとは違う価値を立ち上げるのか。これは短歌に関わらず、「個人的な制作・創作」全般に通じる話だと感じます。

社会的な通念にしたがって、何かをつくるのではなく、ひどく個人的な価値観で何かをつくること。それを可能にする個人的な制作。

それを可能にするのは、孤独な制作ではなくそれを受け取る人があってこそ、というのは短歌が詠むものであり、読まれるものでもある、という二重性と関わっていると感じます。

今回のメモは以下のページにまとめました。ひどく個人的なページです。

◇ブックカタリストBC131用メモ | 倉下忠憲の発想工房



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サマリー

ポッドキャスト第131回では、短歌の学びとAIの関連性について探求しています。詩作りのルールや短歌の面白さ、AIによる短歌生成の過程に焦点を当てています。このエピソードでは、短歌制作に関する興味深い洞察が語られています。生成AIを用いて短歌を学ぶ過程や、田原麻衣の短歌スタイルの採用によって、短歌の魅力やその認識の変化についても触れています。短歌の歴史や特性について深く掘り下げ、和歌との違いや短歌の形式、近代短歌と現代短歌の違いを探求しています。著者は、短歌が個々の固有性を大切にしながら、作品の意味や価値を考察すると述べています。短歌の学びを通じて、作品に込められた価値観や二重性の重要性が探求されています。特に現代社会における生きることと生き延びることの違いや、価値の逆転について深く考察されています。短歌を学ぶ過程で、言葉の規範や表現の「濃さ」が重要であることについて論じられています。また、本村さんの著作を通じて、短歌の解釈や読み方の重要性が強調され、参加者の短歌への取り組みも紹介されています。

短歌への興味の芽生え
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。まず今回いただいたコメント、お便りと紹介したいと思います。
はい、お願いします。
はい、ナマネグさん。
ブックカタリストを聞き直している。改めて思うのは、当たり前のことを再発見するような営みが多いので、いつ聞いても学ぶことが多い。極端な話はほとんど出てこない。一回あたりの時間が長いから、そんな話してたっけという新発見もある。半期記憶は限界があるからね。
まあ、1時間喋ってますからね。
まあ、この前ね、俺、前回半年の振り返りしたっけっていうぐらい忘れますからね。
そうですね。聞いてる人だって全部覚えてるわけではなく、印象に残ったものだけ覚えてるんでしょうけど、時間が経つと印象に残るポイントって変わってきますからね。だから新しい発見もまたあると。
そうですね。つまり何回聞いても楽しめるぞと。ずっと聞いたらいいぞと。
そうですね。
そういう感じですかね。
はい。
あとタカピさんが、ランニングの話は去年の10月でしたか。あの回のおかげで体を動かす良い趣味を持つことができました。
うん。やっぱり体を動かすことを趣味と言えてるのがいいですね。
あー、そうですね。趣味。俺、やっぱり面白いのが、プリズナートレーニングは趣味だけど、ジョギングは趣味じゃないんですよね。
じゃあ、カテゴリーとしては何になるんですか?
気分を良くするためのもの?それは趣味と言えば趣味かもしれないんだけど。
そうですね。だから、仕事ではないし、自己訓練でもないわけですね、要するに。
うん、そうですね。訓練でもないし、そのこと自体を楽しむとも、やっぱり多分俺は違う。
なるほど。
筋トレは成長を楽しむことを目指している。
はい。
ジョギングは、ジョギングという行為をもってリフレッシュされることが嬉しい。
うーん。リラクレーションとかそういうカテゴリーに入るの?
極端なことを言えば温泉と同じジャンルかもしれない。
なるほどね。そうか。趣味よりももっとこう、あれなんやな、あんな、なんていうかな、こう、どう言ったらいいんかな。直接的な。
温泉趣味って言う人はいますからね。
リフレッシュに役立つものとして位置付けられている。なるほどな。
面白いのが、やっぱりそのこと自体を、ジョギングを経てその最中に何か考え事をしてはかどって気分がいいとか、
そのジョギングを終えて気分がいいではあるけど、ジョギングという行為自体が気分がいいではないという難しさ。
なるほどね。
どういう位置付けにしろ、やっぱりちょっと義務感を自分に貸してしまうと、全体的に辛いことになってくるんで、
どういう名付け、趣味をと言うかなんと言うかは別にして、そういう規範性から離れて活動できるのはいいことだなと思いますね。
そうですね。もう一個やっぱりやりたいからやっている、やらないといかんと思う感覚とも違うかなって。
なるほど。
短歌の定義と魅力
はい、という感じで、今回第131回、2026年の1回目の通常回が、単価を学ぶ。
はい、単価を学ぶということで、クラシタのターンなんですけども、第1回目ということで、本をがっつり紹介するというのではないテーマでちょっとやってみようかなということで、今回このテーマ掲げたんですけども。
ちょっとマイクが遠いかもです。
ちょっと待ってね。これでどう?変わらん?
時々遠くなるって感じだったので、さっき。
なんか物理的に遠い印象があった。
距離は近いから接続が悪いってことかな。
わかんないです。こっちの環境の可能性もあるので、ちょっとわかんない。
一応、オイスメモの波形は出てるから、こっちが撮れてたら多分大丈夫?
うん、じゃあ大丈夫かな。
はい、じゃあちょっと沈黙してから始めます。
はい。
まず前提の確認なんですけども、一応僕は文章を書く仕事をしてるんでして。
文章のプロ。
説明文的なものから小説のような創作文的なものまで結構幅広く書いてるタイプの人間なんですね。
一応、詩作とか俳句とかそのようなものも文章芸の一つなので、興味は持ってましたし。
小学校とか中学校で百人詩とかを習っているんで、全く知識がないわけではないんですけども、
短歌というジャンルはこれまで結構遠くから眺めてたみたいな感じだったんですね。
読書会とかでも結構短歌の本とかを紹介してくれる方がいて、チラチラ覗くんですけど、
何が面白いのかがわからないという感じなんですね。
言いたいことはすげーわかる。
これは面白くないと言ってるわけではなくて、面白さを知覚するセンスが僕の中にまだ育まれてないという感じがするんですね。
それは多分子供が苦いものを食べてもあんまり美味しく感じないっていうのと同じだと思うんですけど。
その感覚か。ビールが美味しくないみたいなイメージ。
だからその面白さをわかる何かが育まれてないから、
短歌をどう読めばどう楽しめるのかがわからないなと思ってずっと短歌的なものとの距離があったんですけど、
たまたまAIは短歌をどう読むかという講談社現代新書を読みまして、
興味の筋としてはAIの方。
AIによる文芸とか創作っていうのがどんな風になっていくのかなっていうのはちょっとなかなか興味があったんで、
そこに今まで距離があった短歌っていうものが絡んでる本だったので、
これ幸いということで去年かな、2025年の11月ぐらいに読みまして、
これが結構面白く、短歌との距離を近づけてくれる第一歩にもなったんで、
そこからいろいろと短歌のことを学んでいったっていう話を、
いろんな本を紹介しながらしていきたいなと思ってます。
例えばなんですけど、それは短歌の定義だったり、いろんな短歌が紹介されていたりとか、
何が面白いかとか、その切り口自体もいっぱいあるっていうイメージなんですかね。
そうですね。この本、AIは短歌をどう読むかに関して言うと、
2つの軸がありまして、当然そのAIが短歌をどう生成するかということなんですけども、
著者の浦川徹さんっていう方がメディアートをやっておられて、
その後、朝日新聞社で自然言語処理の研究開発をされている方で、
その方が、自然言語処理の機械的なものの一つのアプリケーションとして、
短歌をAIに読ませてみようと思いついたらしいんですね。
ところが、この浦川さんは短歌を読んだことがないと。
思いついたけど。
なので、短歌を自分でも勉強しながら、
AIに短歌を読ませていくということをやってこられたと、これまで。
なので、この本を読むことで、まずそもそも、いわゆる最近言われているAI、
つまりGenerated AIが、言葉っていうのはどう生成していくかの概略を掴むとともに、
並行して、その短歌を作るとはどういうことかという、
人間の知的処理、知的能力として短歌を作るという、
そこでどんなことが行われているのかという2つのルートをたどりながら、
短歌というものに近づいていく。
だから、AIの話よりもむしろ、人が短歌をどう認識しているのか、
作っているのかということが、
生成AIのテキスト処理というバイパスを経由することで、
むしろはっきりと浮かび上がってくるというタイプの本になっています。
生成AIと短歌の関係
今時の機械を通じて人間的なものを考えているような。
一番具体的な、しかも結構短い量で読める良い本じゃないかなと思うんですけども、
著者の概略は一旦パスしまして、
そもそも冒頭あたりで、最近のテキスト処理する生成AIが、
どのようなことをしているのかということで、
基本的に機械というのは01の2進法しか取れないけれども、
テキストってそんな単純じゃないよねという話からあって、
ベクトルを使うというような話が出てきまして、
生成AIの仕組みみたいなやつですね、多次元のベクトルの。
言葉が近い位置にあるベクトルというものをコンピューターに覚えさせてみたいな話であって、
ざっくりと最近のLLMモデルとかの理解がちょっと軽くできるかなというところで、
著者の仕事として意識の辞書というのがありまして、
本なんですけど、今のところ多分夏目漱石のが出てると思うんですけど、
夏目漱石の作品の出てくる単語を学習させて、
近くで使われている単語、つまりベクトルを取った。
夏目漱石風になるかもしれない。
それは一応本になっていて辞書の形になっていて、
例えば恋愛という単語がページに出てくるんですけど、
それはIUEO順じゃなくてベクトル近い順なんですね。
恋愛という単語があって、それにベクトルが近い順の言葉が並ぶ。
例えばその近くに罪悪みたいな感じがあって、
夏目漱石はその言葉をどういうリファレンスとか関係性で使っているっていうことが、
その辞書を頭から読んでくると分かるっていうタイプの仕事で、
非常に自然言語処理的なもので、
その延長線上に単価AIっていうのを作っていこうと。
細かい話がいろいろあるんですけど、
まず57577が単価の基本というか、
アルファでありオメガであるんですけども、
57574をまず覚えてもらわないといけないと。
575の5を作る一つの音の単位がモーラというらしいんですね。
それはやゆうよみたいな小さい文字とセットはひとモーラ、
けどのばし棒とかんとかつとかはひとモーラとして数えるみたいな、
575の基本を生成AIに教えていくっていうことを紹介するんですけど、
これ同時に読んでると単価の作り方も分かるわけですね。
僕たちは全く初心者にとって、
そうかモーラというのがあって、
それはこういう風に数えるんだっていう風に学習していく。
単価の入門書を読んでいるわけではないんだけど、
これ読んでるうちになんとなく単価の規則っていうのが読んでる方にも
世界に伝わるように書かれているから、
人間も自然に分かるようになる。
だから生成AIが何も分からない状態からルールっていうのを積み上げて、
作れるようになるプロセスを外側から見ることで、
なるほど単価っていうのはそういう風なルールでできているんだなっていうのが、
教科書くさくなく学習できる形になってるのが面白いなと。
ここで紹介されるすべての生成AIの動作は、
ゼロから単価を作るものではなく、ある入力を最初与えると。
それに応じて続きの文を作るという形になってましたね。
ゼロから作ることも別に不可能じゃないですけど、
まず入力があって、続きを生成していくっていう形。
紙の句を与える場合もありますし、
最初の5文字とか単語を選ぶ場合もあって、
そこの中でいろんな言葉の繋がれ方、続かれ方、生成のされ方っていうのが、
いろんなバリエーションで出てくるんですけども。
これ生成AI話で一番有名な話なんですけど、
あれは統計的に確率を選んでいくと、
日本語として成立しなくなっていくんですね。
本当に一番高いものを選び出すと、結構言葉が循環するらしいんですよ。
単価が言わせると。
だから本当に一番高い確率だけを選ぶのを、
貪欲法と呼ぶらしいんですけど、
貪欲法ではそもそも自然な日本語にすらならないですね。
そこからまずいろんな、ここは非常にアルゴリズム的な話で、
こういう選び方がありますよという解説があるんですけど、
まず選択肢の数を増やす。
1個だけじゃなくて1000個のパターンを取るとか、
数を増やすというパターンと、
あとこの3つ、一番上が高い確率、
次の確率、次の確率、3つが選んで、
その後に続く文章も生成させると。
例えば一パラグラフになったときに、
自然なものを選ぶというやり方もあるらしいんですね。
はいはい。
3つパターンがあったとして、
一番確率が高いものを続けていったら、
あんまり日本語っぽくない結果になるからこれはやめて、
2つ目だとうまくいくからみたいな感じで、
その貪欲法を少し柔らげる、あるいはスパンを長くすると、
ちょっと日本語っぽいことになると。
だからその選択肢の数を増やして、
その中で一番いいものを選べば、
当然よりそれっぽいものが出ますし、
あと確率の幅というのがあって、
要するに普通ならトップやけど、
下も選んで、下選択肢の5つの中から、
どれかをランダムに選ぶというやり方をする。
一番上だけじゃなくて、もっと下のものも含むというやり方。
この含むやり方も、
確率が高いものほどウェイトを重くするって選び方と、
逆もありそうですね。
選択肢を選ぶとか逆もありますね。
低いものを優先に選ぶとかもいろいろあって、
それぞれに実際に出力される単価、
短歌の生成と認識
単価というか単価っぽいものが出てくるんですけど、
非常に面白くて、
当然その日本語っぽい文章にすると、
単575になっているだけ。
分かる。
君はもう今から単価を作りますみたいな、
そういうただ文字数があるだけ。
そうそうそう。
そういうのになるし、
パラメーターの選び方によっては、
優れた単価とは言えないかもしれないけど、
それをパッと見たときに、
これはちょっと単価っぽいなっていうものも出てくると。
当然、生成AIを作るときには学習のデータが必要なわけですけど、
データでよく使われるのがWikipediaなんですね。
はいはいはい。
この言及でも基本的にはWikipediaをベースにして、
Wikipediaをベースにして自然に出力すると、
だいたい表語とか説明文みたいな語彙都合が出てきてしまうと。
で、ちょっとパラメーターを維持しただけでは、
やっぱりどうしても普通の文章にしようとする。
外れようとするけど、
結局何のひねりもない文章になっていくっていう傾向があるんですけども、
それを変えないと単価っぽくはない。
僕たち素人が読んでもそれは単価とは思えないものがあるし、
もう片方では同じ57574やけど、
明らかに単価と感じられるものがあると。
この普通の文章から単価と感じられるものに
アルゴリズムを経由してどう飛んでいくかっていうのが、
この本の一番面白いポイントなんですけども。
学習するデータを、
田原麻衣さんっていう方が現在でもいらっしゃいますけど、
この私の単価を学習データとして使ってもいいよって、
本人が許諾してくださったらしいですね。
それを組み込んださっきの
Wikipedia単価プラス田原麻衣モデルすると、
極端にぽくなるんですよ。
これね、面白いんですけど。
田原麻衣学習をしたら。
もうちょっと単価っぽい。
それだけでもう単価っぽくなるんですね。
だから大元の学習のデータっていうのが非常に重要。
Wikipediaには単価含まれてるでしょうけど、
大半のデータは単価以外の普通の文章で、
そこから作られる自然な言葉っていうのは単価にはならない。
単価を学習すると、
ちなみに先生がやって追加のデータを学習すると、
それまでの学習データ、
モデルが崩れて新しいモデルになるんですけど、
そうすると急に単価っぽい感じになってきて、
方法こんな風になるのかと。
僕は明らかにただ5757の説明文みたいなところから、
田原町AIが作った単価っぽいものの流れを追ってきたんですけど、
初めてそれで、
単価らしさってこういうことかと分かったんですよ。
いきなり出来合いのものだけ見ていても、
その過程を見たから。
僕は単価を見たら全部単価なわけですよね。
単価集を見たら全部単価が載ってるわけですよ。
それは単価が分かる人だったらいいんですけど、
何が単価なのかは単価じゃないものと比べてみないと分からないということに気づいたんですね。
全く同じ5757の形式を踏んでいるけども、
単価じゃないものと単価なものを読み比べたときに、
短歌の学習方法
明瞭な知覚が生まれるということをこの本を読んで気がつきまして、
もちろん名言化はできない、定義はできないんですけど、
はっきり知覚できる違いがあるということに気づいて、
なるほど単価の面白さはこういうことにあるんだと気づいて、
学んでみようと思ったのがホッタンなんですけど、
最後の方にタワラ持ちを組み込まれた生成AIが出力した単価を
本人がちょっと書き換えるというのがありまして、
ついに単価もAIとの協業になってきた。
そういうことができるんじゃないかなって最後の方に書かれてるんです。
初夏の光とともにやってくる午後の地下鉄膨らんでいくというのが
生成AIが読んだ単価なんですね。
ちょっと単価っぽいですね。
単価っぽい感じですけど、タワラさんは午後の地下鉄を山手線に書き換える。
初夏とともにやってくる山手線が膨らんでいくというこの2つに書き換えられて、
初夏の光とともにですね。
光とともにの光のイメージと地下鉄のイメージがあまり合わないですよね。
でもタワラさんの書き換え方を聞くと印象が非常に浮かんできやすい。
だから生成AIはまだその言葉のイメージそのものを操作はしてないですけど、
でも言葉の並び方とか組み合わせ方がちょっとずれていることで単価っぽく感じられると。
午後の地下鉄っていうワンフレーズにしても単価っぽいですよね。
ぽいですよね。非常にぽいですよね。
どういうのがそれっぽくてそうじゃないのかっていうのを、
さっき言ったパラメータをいろいろいじくりまわして検証とか検討とかされた感じを追いかけていくと、
まず全く飛躍がない文章は説明文なんですね。
飛躍しかないのは日本語として整理してないわけですよ。
そうすると僕たちはある程度の納得と飛躍が組み合わさっているほどに単価らしさを感じると。
さっき言った紙の句とか与えると下の句のパターンを出力するっていうのが一つのモデルだとした時に、
もっとステップを細かく分けることもできるわけですね。
例えば初下のって入れたら、その次に来そうな統計的な確率で上位10個ぐらいを生成AIが提示すると。
そこから人間が選ぶ。選んだ結果からまだ次の10個っていう風に協業的に進めていった時に、
飛躍を意識してでも破綻させないっていうことをしていくと、
単価を読むwith生成AIするとやっぱりちょっといい感じになるんですよ。
だからこの飛び方と納得感ということをうまく収めるのがこのwith生成AIの単価なんですけど、
結局多分それは人間が普通に単価を読む時でもやってることじゃないだろうかと述べられてて、
もうおそらくそういうことなんだろうなと。
このサンプル単価がなんかすげえまさにそうだなと思うんですけど、
まず初夏の光という単語自体はまあわかるとして、
まずとともにやってくる。
ちょっと変だなだけど、そこに電車はやってこないですよね。
さらにそれが膨らむとか。
膨らんでいく。
おかしいですもんね。
でもそのおかしさがギリ解釈すれば意味取れなくもないぐらいの幅に収まってる。
形しないおかしさ。
っていうところに収まってる。
この辺がそのいわゆる僕らが単価を単価と感じているところにあるんだろうなということで、
アルゴリズミックに迫りながら僕たちの言語生成に迫っていくというこの本が面白くて、
ちょっと単価を学んでみようと去年の年末ぐらいに思いまして、
話が単価を学んでみように移るわけですけども、
基本的に僕その学んでみようって強く思うことってあんまりないんですよ。
基本的にその本を読む生活をしている中で何か興味がある本を手に取って読むと。
例えばそれを5年のスパンで見た時に、
なんか似たテーマの本を読んでるなってことはあるわけですよね。
振り返った時に見て取るテーマっていうのがあるわけですけど、
今回のように。
テーマ読み。
この短期間でテーマをこれを勉強しようみたいなことはほとんどやったことがないと。
だから逆にあえてやってみようと思ったんですけど、
こういう時にこういう学びをする時に何が必要かというと、
3つポイントがあると思ってるんですよ。
一つは起源を切ることですね。
これは当然なんですけど。
いつまでやるか。
いつまでどの期間でやるかと。
僕は先ほど言ったようにライフファワークとして読書をやることが多い。
まず起源を切らないんですけど、今回は起源を切ると。
2ヶ月から3ヶ月あたりをまず目処にしようと決めました。
そうすると次に何ができるかというと、
どのぐらい読むかっていうの。
本を何冊ぐらい読めるかっていうのが決まりますよね。
その起源を決めると。
1000冊は読めないし、100冊もきついし。
おそらく3ヶ月で自分が読み慣れてないっていうことを考えた時に、
10冊か15冊ぐらいのが上限だろうと。
次はそのぐらいの中で文献リストを作っていくのが、
多分勉強法だと思うんですね。
実際、先ほど言ったAIは単価をどう読むのかの中で、
調査の方がこういう本を読んで勉強しましたっていうのが何冊か。
参考書籍が挙げられているってことですね。
なので、普通のイモズル式な勉強の仕方で言うと、
その挙げられてた本をリストにして、
そこのリストに上がっている本にまた参照されている本とかで、
非常にリストを広げていった後、
自分が読める本に絞り込むというのが、
多分一般的な勉強法だと思うんですけど。
今回は、自分が通っている3県の3館の図書館にある本だけにしようと思います。
いう言い方しました。
自分もよくやります。そういう手段は。
本を真剣に買い出すときりがないし、
僕はこの時点で、そこまで単価にコミットメントできるかどうかがまだ分からないので、
本当にコミットメントすると決めたら本を買い出すと思うんですけど、
ここはまだプロトタイプ期間というかお見合い期間なので、
一旦図書館にある本で行こうと。
おそらくですけど、単価の本は図書館にあるだろうという見込みもあったんですよね。
もう多分、さらに言えば師匠さんに聞けばめっちゃ見つかるって感じがする。
特殊なジャンルではなくて、
日本文芸のかなり有名な部類で実際にやってる方も多いんで、
これは図書館の本でおそらくかなりカバーできるだろうと思うので、
本を買って図書館の範囲に限定したと。
達成目標、これをやらない方が多いんですが、
達成目標を決めると。
第一達成目標は単価を読めるようになることですね。
意外と難しい目標な気がするんだけど。
今僕発音して気づいたんですけど、すでにダブルミーニングなんですけど、
リードできるようになろうですね。
単価を作る方も読むと書くんですね。漢字。
あーそういうことね。はいはいはい。
あの、言辺にウルの方と英の方と。
両方があって、片方がリードで片方がメイクの方なんですけど、
まずはリードの方をできるようになる。
当然その、批評できるぐらいということではなく、
面白みを感じられるようになろうということですね。
あーこれは単価が多いとか面白いんだなって読めるようになったらいいが、
第一目標。これが達成できたらOKとしようと。
で、セカンド目標は2つ目のメイクの方の、読めるようになったらいいなぐらいが
セカンド。プライオリティとして低いけど、そこまでいけたらちょっとラッキーぐらいの
漢字の目標を定めたと。
これが勉強の起動の段階ですね。
これは時間限定で勉強される方はこの3つ、期限と範囲と達成目標を自分なりに決めておくっていうのは
短歌を読む体験
勉強法として僕はいいと思います。
普段滅多にやらないですけど、やるとしたらこういうのがいいと思います。
先ほど言った、読めるようになるということを目標としてたんですけど、
いくつか本を読みました。
いくつか本読んだんですけども、
まず後で紹介する本村さんの、本村博史さんの初めての単歌っていうのが面白かったんで
同じ本村さんとシンジケイト、ゲイトじゃなくてシンジケイトっていう単歌集を読んだんですけど
さっぱりわからずに、これはちょっとまだ早いかなということで
中高生のための単歌の作り方という、いかにも入門書のような本を読んだんですが
これもですね、まず作品が提示されて、このように書き換えたらいいですよっていう
添削がなされる本やったんですけど、やっぱりピンとこないんですね。
元々の単歌もピンとこない上に書き換えられたものもピンとこない。
おそらくはよくなっているんだろうけど、AとA'の差が見えてこない。
初心者の取っ掛かりとしてはちょっと弱いという感じだったんですが
一応その本で単歌とは何かを勉強させていただきまして
単歌とは何かってわかります?
あのさっきね、チラッと見ちゃったっていうリンク先のページを
じゃあ行きましょうか。基本的に単歌って5・7・5・7・7だけがルールなんですね
基本的には配偶のように記号を付け加えられなければならないとかいうことはないと
和歌と短歌の違い
で、全く似たものとして和歌というものがございますと
僕この本まで和歌と単歌の違い全然気づいてなかったんですけど
万葉集とかさっき言った百人一首とかに載っているやつはだいたい和歌と呼ばれていて
単歌とはあんまり現代では呼ばれないと
あれ5・7・5・7・7ですよね、その言い方で言うと
形式で言うとフォーマットで言うと全く一緒やけど
確かに呼び分けられているなということで
そもそも和歌っていう言葉自体が和の歌であると
それは何かって言うと漢語の詩とは違うよってことなんですね
これを読まれた時代は基本的に文芸っていうのは漢詩やったわけですね
日本の独特な世界ですねやっぱそれも
山と言葉を使って歌を読みましょうということで
漢詩と対比する意味で和歌と呼ばれていると
現代の基準で言うと明治より前の作品がだいたい和歌と呼ばれる
同じ5・7・5・7の中で和歌と呼ばれる
日本の5と7を使う歌って結構バリエーションがあり
長歌とか先頭歌とかにあって5・7・5とかが繰り返されて最後に出てきて
5・7とかもなんかありましたよね
色々5と7が繰り返して最後に締まるみたいな結構長いのに
比べて5・7・5・7・7は短いから短歌と呼ばれる
近代短歌の特色
長歌に対する短歌っていう言い方もする
長歌とかっていう江戸時代だと読み方もしそう
短歌は現代で言うと明治以降に作られたものが和歌と区別されて短歌と呼ばれて
しかもその短歌の中にも近代短歌と現代短歌っていうのがあると
その近代短歌にも色々バリエーションがありつつ
現代短歌っていうと1950年頃以降のものを現代短歌と
戦後のものなのか
そうなんです戦後のものなんです
そうなんですね
だから田原町がトップなんだ
そうやろな
特徴としてはその交互を積極的に使っていこうということで
運動が色々起きて
つかもとさんという方の水槽物語っていう形の現代短歌について
調べると出てくるんですけども
読んだんですけどね結構トリッキーというか
言葉が五四五七になってるけど
言葉の区切れが五四五七に合ってない
ちょっとはみ出てるとか空をまたぐとかっていうのもあったりとか
テーマがやっぱり戦争の後に作られてるんで結構暗いんですね
戦争に対する批評みたいな視線もありつつということで
それ以降ちょっとずつ個人的な写実主義とかもありつつ
非常にささやかな日々の何かを切り取るっていうものが結構芽吹いてきて
田原さんとかまさにそういうことをやってて
結構その五四五七って言っても
時代ごとにテイストが違う
だから時代で区切ってますけど
その時代の区切りは実際は内容的な区切りと結構相応してるんで
単純に年代的なものというよりは
その年代ごとに育まれてきた形式とかに
こうしてさっき言った区分が生まれてるということは学んだんですけども
学んだからといって
その単価とか何かを実証的に学んだからといって
書けるように読めるようになるわけではないというのは
短歌の個性と社会的意味
いわゆる勉強としては覚えておきたいことなんですけども
これ自体は結局音楽のジャンルみたいな話で
後からこうカテゴライズできるよねって言うことですよね
そうですねだから歴史を振り返った時にこういう区分線が入れられますよと
だから現代の日本語で会話した時に
和歌といったらあの辺のことを指してるんだなっていう
共通認識のための用語ですね
これは実践とはあんまり関係がないというか
ほとんど学ぶことはなかったんですけど
だいぶラディカルに学べたのがさっき言った
本村さんの初めての単価という本で
ページ数もそんなに多くなくて
読みやすいというか非常に文章がうまい方で
多分エッセイ書かれても非常にうまいだろうなと
読みながら思ってたんですけど
進め方が非常にうまくて
本村さんは投稿者の単価を募集するようなコーナーもやられていて
そこにいろんな単価が集まってくるとか
実際よく知っておられて
こういう単価って面白いですよねと最初に出た後に
改善例ではなくて改悪例を示すんですね
こういう読み上げさせていただきますけど
空き室でも入ったのかと思うほど私の部屋はそういう状態
という平岡亜美さんの作品が一番最初に出てきて
それを改悪されるんですね
空き室でも入ったのかと思うほど私の部屋は散らかっている
違いはそういう状態というのと散らかっているという対比なんですね
見比べてみると散らかっているはいかにも説明的なんですよね
つまらんというのは自分でもわかる
これもさっき言った一番最初の本で出てきた当たり前の文章
明らかになっていない文章とその単価を見比べてきたように
いかにもその単価らしさが立っているのかわかるんですけど
これを踏まえた上で解説してくださるんですけども
まず単価とビジネス文章3文は伝えたいことが違うと
価値がまず逆になっていると
逆ね
つまり逆に言うとビジネス文章3文では
なるべく正確に間違いなく事実を伝えることが役割であると
でも単価は違うと
単価においてはそういうものを渡すんじゃない
この単価を通じて読み手に渡したいものはそういうものではない
そういうものを本書では社会的という表現されていますが
社会的なことではないんだと
社会的なことは何かっていうのは
本書の中で後からずっと説明されるんですけど
もう一個の例として
目薬は赤い目薬が効くといい椅子より立ちて目薬を指すという句がありまして
まず目薬が2回出てきているのがはっきりとなりますし
赤い目薬って何やねんっていう感じがしますよね
例として例えば
これおばあちゃんが目薬を指しているシーンを読んだらしいんですけども
ドラッグストアに来て赤い目薬くださいって
店員さんに言ったとしても
何ですかっていうことになりますよね間違いなく
例えばそれがボイロートクールくださいやったら通じますよね
思い浮かべてほしいんですけど
その接客した店員さんが家に帰った後に
家族に赤い目薬くださいっていう
おばあさんが来たっていう話題はあり得ますよね
でもボイロートクールくださいって来たお客さんは
多分言及すらされないですよね
印象に残らない
残らないですよね
つまりさっき赤い目薬っていう曖昧な
しかも本当に赤い目薬かどうかもわからない状態に比べると
ボイロートクールっていうのは情報の精度が増しているわけですよ
でも増せば増すほど
発言した人の固有性っていうのが全く薄まってしまう
その人の人物感との違いが
AさんとBさんの違いみたいなのがどんどん薄れていく
その人の固有度になるかっていうのは結構その人の固有の
失敗と結びついているという話があって
正確さの反対が失敗であるとした時に
その間違っていることっていうのがその人の固有性と結びついてきて
単価っていうのはそれを大切にするんだと
著者が言うには
僕たち基本的に特に現代社会において
情報交換する時によって
情報としての精度を増そうと
正しい情報を伝え合おうという合意性あるいは規範性の中に
生きてるけど
それだけでいいのかなという問題提起が
チラッとされるんですよ
もうこの段階で僕は面白かったんですけど
面白い例があって
例の出し方がちょっと面白いんですけど
例えばちょっと中年のおっさんが
住宅地にしゃがみ込んでたとするじゃないですか
警察が来てそれどうしたんですかって時に
コンタクトレンズを探してるんですって言ったら
何も問題は起こらないですよね
一緒に探しましょうかって言うかもしれないし
頑張ってくださって立ち去るかもしれませんけど
仮にそうじゃなくて
ダンゴムシを探してるんですって言うと
ちょっと怪しくなってくるんですね
ダンゴムシを見てるんです探してるんです
生物学者でって言ったら
ちょっと緩和されますけど
コンタクトレンズを探してるよりは
ちょっと危うさが出てくると
3つ目が
チョウチョの唇を探してるんですって答えたら
これ完全にアウトという
アウトっていうのは
社会的に変な人になってしまうってことですね
要するに
警察官もどう扱っていいのかが
わからなくなってくる
さっき言った順に社会的にどんどんNGになっていくと
なぜNGになるのかって見た時に
コンタクトはツールだからと著者はおっしゃるんですね
道具だから
役立つものだから
その役に立つものっていうのは
なぜ必要だからで言うと
生き延びるために必要だとおっしゃられるんですね
ここで2項出てくるんですね
人は生き延びるためだけに生きているのかっていうと
そうではないだろうと
じゃあ何のために生きているかっていうと
生きるために僕たちは生存していると
つまり生き延びるというレイヤーと
生きるというレイヤーがあると
これが本書の中核的なテーマなんですけど
この2つがあった時に生き延びる
つまり生存するために
生命活動を維持するために
必要なものっていうのは非常に明瞭であると
カロリーとかっていうのは非常にわかりやすいですよね
あるいはお金とかっていうのも同じですね
でもそれと別の層にある
生きるということになってくると
途端にその明瞭さが失われると
なぜならそれは一人一人違うからですね
何が生きるを構成しているのかというのは
固有のもの
固有性そのものが生きるということだと言ってもいい
生き延びるは飯で何とかなるけど
何を美味しいとか食事に何を楽しさを感じるかっていうのは
固有性に繋がってきて
簡単に共通的に記述できるものではない
だから僕たちはある価値のある社会の中で生きてるけど
それは単一じゃなくて生き延びるために役立つものと
生きるために役立つ
役立つということはするとちょっと揃ってしまいますけど
生きるために有用なものっていう
2つの層があると
ただしそれは
Aさんが生き延びるマンで
Bさんが生きるマンというような切り分けができるんじゃなくて
そもそも生き延びないと生きれないわけですね
前提としてそれが成り立っていないと
まず生き延びるという層が支えてくれるけど
でもそこに上か横かは分かりませんけど
生きるという層もあると
分かりやすい例として
新聞記者で詩人をやっている人がいるとする
新聞記者で仕事をするときは
さっき言ったビジネス文体正確な情報を
綴るテキストを書きますけど
そこで例えば詩人の文章を書いたら役割を果たせないわけですよね
でも家帰って詩を書くときは
今度は詩人のテキストを書くわけですね
そこではさっき言ったように分かりやすく書いたらそもそも成立しない
ある種のその当人だけが感じる固有性を伝える
テキストを書くようになると
これはこの新聞記者で詩人というのは現実のモデルじゃなくて
僕たちそのものが全員そのようなものではないのかと
主者は述べられるわけですね
生き延びるっていうレイヤーも持ちつつ
生きるというレイヤーも
それぞれに対応する言葉の使い方みたいなものがあるのではないかと
よく学校で単価とか知って教えにくいよってよく言われるらしい
学校の先生からよく言われるらしいんですけど
それはそうだろうとおっしゃるわけですね
なぜならば学校でやることっていうのは
さっき言った社会科のベクトルを徹底的に鍛えることなんですね
伝わる文章を書きなさいと
皆さんに分かる言葉で正確に書きましょうという風に
言葉の使い方つまり思考そのものを
社会に適応するように強制するための社会科装置であるの
でも詩っていうのはそうじゃないから
例えば国語の先生が片方ある時間は
その正確な文章を書くことを言いながら
別の時間ではその詩作を言葉使いを教えると
えっどうしたのっていうことになってしまう
だからそもそもベクトルが合ってないという話があるけど
生きる価値観の探求
でも結局僕たちは常に生き延びるのではない
生きるための言葉とかっていうものを
欲しているのではないかと
だから人はパンの実に生きるにあらず
バラにっていうのと多分同じことだと思うんですけども
この2つの層で生きてて
2つはそれぞれ違う言葉使いであるということが
単価を通して確認されるんですね
これは本当に面白いなと思うんですけど
さっき言った二重に生きてるっていうことは
固有性があるってことは代理が効かないという話があって
職業において課長っていうのは課長代理みたいなのが
いくらでも考えられるしむしろ必要なわけですよね
そのポジションには誰がついてもいいという前提が
組織を回す一つを帰結ですけど
代理夫とかはあんまり好ましくないわけですね
嬉しくない
自分が結婚して夫のポジションにいるのに
代理夫みたいなのが仮設されてるのはあんまり好ましいとは思えないですよね
代理恋人でもいいですけど
代替性の効かない人間関係っていうのもあると
組織はそうじゃなくてむしろ代替性が効かないと困るという関係性があると
言葉使いにしろ関係性にしろ
僕たちは常に二重性にあって
しかし現代では生き残るベクトルの方が
あまりにも強まっている
ないしはそれだけが断りであるかのように
なっているのではないか
というようなことがこの第1項
そんなに多くないページですけど
確認されまして
僕はもうこれ単価な話を超えて
非常に
生きる価値観を揺さぶってくる
単歌の価値観の逆転
揺さぶるような話で
もう簡単を覚えたんですけど
今が第1項で
第2項でその価値の話に出てくるんですけど
単価を全部読み上げてくると
長くなってしまうんですけど
ちょっと読ませていただきますが
たい焼きのフチのバリなど面白きものあるよを
チチサリタリという空で
お父さんは死んだ時の
を呼んだ空で
たい焼きのフチって
ちょっと薄っぺらいバリバリしたのがありますよね
それはいいよねっていうことを言ってるんですけど
これがたい焼きのフチとバリじゃなくて
豪華なステーキだったらどうだろうっていうことの
解約例があるんですけど
それは単価としてはあんまり良くないだろうと
その対比から
著者のイメージする単価の中では
基本的に社会的に価値があるものとか
正しいものとか
価値のつくもの
名前のあるもの
強いもの大きいものは全部NGで
その反転するもの
価値のないものとか
監禁できないものとか
名前のないもの
しょもないもの
変なもの
弱いものなどが
良くなると
第2項で確認するけど
それは結局
そういうものが先ほど言った
生き延びるとは違う価値を
表現担保するものだから
おそらくそうだろうと
これがこの単価感が
単価世界全員に共有されているかどうか
僕は分からないですけど
少なくとも本村さんは
そのように考えて
単価を書いておられるんでしょうし
紹介される単価の多くは
確かにそのような
ある種のアンチテーゼ
ある価値観に対するアンチテーゼ
逆のものを楽しむのような
キャンプと呼ばれる表現もありますけど
そういうものを感じさせてくれると
短歌と社会の関係
これを知って僕は
初めて単価の見方が分かったというか
そうかそういうものを
守ろうとしてるって言うと
ちょっとあれですけど
そういうものに
価値を見出してる歌なんだなと思いまして
それまでだから
何をこのしょうもないことを
言ってるんだということを
ずっと思ってたんですけど
そうじゃそうじゃないんだなと
そうじゃないんだなと
第2項でかなり気が付けました
一見するとしょうもないものを
大切にしよう
だからしょうもないものが
さっき言った生き延びるために必要なんだ
というふうに張るわけじゃなくて
それとは違うものに
価値を見出す主体をそこに見出すことができる
ああこういうことを大切する視点があるんだなと
気が付くことができる
それは生き延びるっていう方の価値を
別に打開しませんし
革命もしませんけど
それ以外の何かもあるっていうことを
示しているのがこの手の短歌の
一つの意義というか役割というか功能
みたいなものがあるんだなと
感じることができた
これは非常に良い学習というか
読みながら
しかもこの解説を踏まえながら
提示してもらえたんで
良かったんですけども
これが第2項となりまして
第3項が
良い短歌とは生きることに張り付く短歌という
タイトルで
生きることに張り付く
つまりさっき言った
固有性にうまくくっついてフィットしてくれる
言葉を使うということだと思うんですけども
さっき言った生き延びると生きるが分離している
時にどういう戦略があるか
よく取られる戦略として
生き延びると生きるを同一視する
分けないというスタイルが紹介されるんですけど
要するに会社の成功を
自分の人生の生きがいにするということですね
要するに
これはしんどいわけですよ
勝ち続けないといけないわけですから
それとは別の選択肢として
恋愛とかギャンブルとか旅行みたいなものに
生きがいを求める人もいるよねと
これは何がいいかっていうと
生き延びる時に必要な価値観が
ちょっと薄まっていく
特にギャンブルなんてそうですけど
あれ生き延びることしか
頭の悪いことしかやってない
そもそも手を出す時点で基本的に負けですからね
会議とかに出てくる人たちって
明らかに社会的にNGな人たちばっかりじゃないですか
でもそれは結局
生き延びるの価値観が苦しくなった時に
そこのフレームをちょっと弱める時空間
時間的体験に入るという
旅行をする時も例えば僕は滅多にしませんけど
普段なら食べないようなお金を払って
ご飯を食べるわけですよね
それも結局ある種の
生き延びるためにしなければならないものから
ちょっとはみ出る空間を体験するというようなことで
だから生き延びるを担保する
生き延びると生き延びるを一緒にするんじゃなくて
生き延びるのための何か時間とか空間を持つことを
一つの戦略としている人も多く
明治的に考えたんですけど
単価を読むってことも多分その一種になるんじゃないかなと
ほのめかされてるんではないかと思ったんですけども
価値観の
単価らしい価値の持ち方っていうのは
弱々しいものではなく
もっとかなり強いもんだろうっていうことが提示されてて
これも空なんですけど
私は日本狼アレルギーかもしれないが
もうわからないという空があって
僕この空が本作で紹介されたから一番好きなんですけど
社会批判ですよね
そう
まず日本狼アレルギーだとしても
何も困らないわけですね
だって日本狼はもういないから
だから生き延びるっていう価値観からすると
この人は何を言ってるんだろうということになるわけですけど
そもそもそういう日本アレルギー
いないものなんかどうでもいいというような
まなざしが日本狼を絶滅に追いやったのではないかという
一つの主張がそこに読み取ることもできる
別にそんなこと言っているわけじゃないですけど
読み取ることができる
つまり社会でこれがゼトされているものに対して
アンチテイルとか相対化というんですかね
その文化人類学的な相対化をすることで
別の価値観を提示する役割になっていると
著者が言うには
泥棒って反社会的だと言われてますけど
実は違うんだと
詩人こそが反社会的だと
泥棒は社会に価値を見出しているから泥棒をしてる
お金は大切という価値観は共通していて
得るための手段が違う
ひっくり返っているだけであって
何かが大切だと思っているところは一緒やけど
詩人はそもそも土台となる価値を
そもそも疑ってかかっている
あるいはそこにうまく乗り切れない人たちっていうところが
表現しているということで
僕たちが当たり前に社会と思っているものは
かぎかっこつきの社会ではないかということを
考えさせるっていうことが
一つの効能としてある
社会と世界をイコールで結ばない
世界の中に社会はあるけど
社会と世界はイコールではないっていうことを
短歌を読むことで感じることができる
ある種の価値を見る目を増やしてくれるっていうことが
一つある
これは例えばセンスの哲学というと
最初に意味を捉えないようにするっていうこと
多分近い効能があると思うんですね
意味っていうのは価値と近いので
僕たちがその前提としている意味で解釈することではなくて
その詩人が歌っている意味に乗っかることで
僕たちの自前としている価値イコール社会っていうのを
違った見方をするっていう効能があると
この辺の話で僕はだから
短歌だけじゃないですけど
創作とかってあるいはもっと広く
何か自分で作るという行為そのものが
このような価値相対化とか
あるいは自分なりの価値を小さく作るっていうことに
結びついているんだろうなと考えておりました
だからこの参考ぐらいまでで非常に面白かったんですけど
一応短歌について
短歌について学べたこと
一番大きいことが
5・4・5・7・7についてなんですけど
短歌って5・4・5・7・7の形式を守ることしかルールがないんですけど
守ったらいいっていう本でもない
指揮をしたら一人ですよね
銀杏が傘にとぼとぼ降ってきて
夜道なり夜道なりどこまでも夜道という句があって
明らかに余ってるわけですね
夜道なりを夜道なりけりに直すと
5・4・5・7・7にぴったり収まるんですけど
その収まることに変えたからって
短歌として良くなったかというより
そうじゃないんではないかなと著者はおっしゃるんですね
この夜道なり夜道なりを
5・4・5・7・7のルールがあるのにも関わらず
そうするということ
文字をはみ出ることを分かってて
なお同じことを繰り返すと
意図があるわけですよね
そこに何としても言いたい
ここで言うとその夜道がもうずっとずっと続いていくような
感覚を繰り返す
しかも限られた文字数で言ったら
厳選して言葉を並べたりのにも関わらず
あえてやるということによって
できる表現があると述べられてるんですね
文字数の制限のない小説とかって
繰り返しても別にそのような強いディファンスって別に生まれないんですよ
3回繰り返しても4回繰り返してもただガーって並ぶだけで
記号的な厚みは増えますけど
意味的な厚みってあんまり増えないんですけど
文字数が限られてて
そこを超えてはいけないというルールがあるからこそ
定型意識があるからこそ
その定型から外れることに価値が出ると
で、著者に言わせると
この5・4・5・7・1は意識するものだと言われるんですよ
初めて僕それがわかったんですね
ああそういうことかと
5・4・5・7・1は守るものじゃなくて
5・4・5に向かって進んで整えていく
で、整えていこうとしてなお
はみ出るものははみ出てもいいという
その規範性との付き合い方を意識するという表現されて
これ深く心に僕はしまして
5・4・5・7はそうやって使っていけばいいんだなと思うようになって
それで単価が読めるようになったとは言いませんけど
5・4・5・7・1の意味合いっていうのが
初めてわかりましたね
で、さっき言ったその単価っていうのが
ある種の社会性から外れる行為だとした時に
5・4・5・7・1すらもある種のルールであり
短歌の規範と表現
共通の規範であり
それがない状態が一番真なのではないかなと思って
そうなるとこれはもう詩になりますよ
ポエムになりますよね
単価じゃなくて
でもそうではないと
ここであり方言うと
ある規範がある
5・4・5・7・1っていうものがある
あるいは社会が当たり前としている規範があるからこそ
それと違ったことを言うことに意味があると
だから5・4・5・7・5に対する字が余ったりすることと
社会的な規範に対するそうじゃないことっていうのは
僕はこの項にあるなと思ったんですけど
両方いるんですね結局
片方があるから片方の意味がよく出てくるというのがあって
そのような2つの対比を
この5・4・5・7の定型意識という言葉から
本村さんの著作と解釈
結構受け取って
本書全体僕これ本3回くらい読みましたけど
単価の読み方を分かりつつ
ある種の言語的センスを育んでくれる本でした
単価の読み方に関して言うと
同じ本村さんの単価をくださいシリーズっていうのがあって
これ投稿した作品に対して
本村さんがコメントをつけていくタイプの本でして
文庫本とか出てるんですけど
これが良かったですね
解説していただいてその面白みがどこにあるのか
こういう読み方もできるかっていうことを
示してくれるというタイプの本で
やっぱりね
いくつか自分でも単価を読むことをチャレンジしたんですけど
リーディングの方
メイキングの方
メイキングの方したんですけど
難しいんですね
何が難しいかというと
説明してしまうんですよ
ラフサクさん好きそうやからね
例えば説明文は役割からして説明しなければならないですね
小説の場合は
例えば登場人物の心情を直接説明するのは
基本的にタブーなわけですよ
彼は悲しかったなっていうのは基本的に書いてはいけない
タイプのものなんですけど
ニュアンス行為とかで間接に伝えるってことするわけですけど
でも少なくとも日本語の文章としては成立していることが必要ですね
小説の文章は
単価はそこを外さないといけないんですよ
濃くならない
濃くならない
この書き方で伝わるんかなっていうところにしないと
単価っぽくならないんですよ
どうしても説明っぽくなる
だから今は説明文を書くときは
タズナをギュッと両手で握っている
小説を書くときはそのタズナを片手だけ外す
単価を書くときは握っている手の指半分ぐらいを外さないと
単価にならない
規約を受け入れる
読者はこう読んでくれたらいいなぐらいのところに留める
それをできるようになるにはどうしたらいいかというと
本村さんが単価を解釈しているのを読むことでできるようになったんですね
こう読んでもらえるんだっていう風に
読み手が読む力というか
解釈する力がちゃんとあると
僕が説明のタガをちょっと外しても
こう読まれるんだという信頼ができて
僕が本村さんに読まれたわけじゃないですか
単価を読むという行為が
そのような解釈を伴うものだということが
分かって初めてちょっとずつ
指を剥がして書けるようになってきたところ
別に完全に書けるようになったわけじゃないですけど
書けるようになってきた
だから読もができるようになって
短歌への取り組み
書くもできるようになる
並行に進んできた感じがありました
自分が読んだ句を紹介するのはさすがに恥ずかしいのでやめときますけど
買ってあるから見にくいですね
ちょうど2021年になってから
26年の1月になってから文房具屋さんを歩いてたら
値下げされてたMDノートを見つけたんで
それを買って何の使い道か決まってなかった手帳があったんで
そこに手書きで単価を書いていこうということで
結構遅いですね
1日に1句読めたらいいかなと思ったんですけど
何日かに1回ぐらいしか読めてませんが
それを書いていって
一応だから読むことも不出来ですけど
書くこともリードもメイクも一応できるようになったんで
ひとまず当初の目標も達成でいいかなというところで
今後はこのメイクを続けつつも
さっき言った単価をくださいとかちょっとずつ読んでいこうかなというのが
ライフワークとしてちょっとシフトした感じなんで
短期の学習としてはこれで終了というのが
今回のご報告ですねレポートでした
単価の話を聞いて思ったのが
一番根本的なところで日常の観察が変わらないと
作れないんじゃないかなっていうイメージを持ったんですけど
これ結構いろいろあるようで
例えばサラダを食べて褒めてもらったから
クを読むというようなシチュエーションもありつつ
パッと思いつかれたら5文字か7文字かカッコいいから
ちょっとクにしちゃおうみたいなのもある
アイディアでひらめくスタイルの作曲と
部品から作る作曲と
こうした場合は辞書とか日常的な言葉遣いとか
言葉遊びから生まれるような
電車は観察から生まれてくるからと思うんで
一概には多分言えないかなと思うんですね
すな遊びって言葉をひらめいて
そこから無理矢理作るみたいな
すな遊びで言葉が浮かんでくる連想の中で
面白そうなものを選んで
現実じゃなくていいのか当たり前だけど
別に本当に現実を描くと多分単価にならないきっと
そんな気はする
多分サラダが美味しいねって言ってもらったかどうか
多分関係がない
褒めてもらったのがサラダでなくてもいい?
いやサラダでない方がいい
あれなんか変えたとかって聞いたような気がします
さっき言ったサラダっていう意外なものが
日常から理解できるけど
多分褒められた人いないんじゃないかっていう
ちょっと飛躍があるからこそ
単価として面白いというところがあると思うね
確かゴロも日付も音とかで選んだとかってやつでしたよね
ちなみに田村さんの本も僕読みましたが
やっぱ音にかなりこだわりがある方で
本村さんの本ではあんまり音の話は出てこなかったんですけど
田村さんは結構その音のこだわりがあって
かなり音楽的な印象ありますよね
あの人が作るものは
やっぱり単価歌ですから
和歌そのものは一番最初は発話から始まってるわけですね
僕は例えばさっきから文字で読むことから始めてしまった
始まったんで
音の感覚はちょっと弱いんで
だからやっぱりその辺の感覚の違いによって出てくる
クーとかの傾向も違いますけどやっぱり
例えば歌聞く傾向を使うと
スピード感が出てくる
そのイメージが膨らむとかっていうのは
マミンウメモだとちょっとのんびりした感じだとかっていうのは
あるでしょうねきっと
僕はあんまり意識できてないんですけど
そういうのも優れた歌人ほど
言葉の語感と発音を合わせているということはあると思います
たぶんそのサラダ記念日が何だろう
3月7日ではダメで
なんとなくその響きがいいんだろうな
そうそうそうということを
だから現実そのものを写実するということではなくて
もう結構フィクション
歌を作るのか結局は
そうそうそういうところだと思います
だからもちろん観察することは非常に重要で
しかもさっき言った価値がないものを
ちゃんと見出せる価値って
磨くことは非常に必要ですけど
必須というわけではないと思いますが
あったら彩りが増えてくるし
当たり前の特に社会的に認められている価値を
喜ぶような
本村さんからするとバツのような単価には
なりにくいなとは思いますね
そうですね最初に話を聞いた時に
チャットGPTと
レンガ遊び575に続いて77を作る
とかってできるなって思ったんだけど
それもよく考えたらただの創作ですもんね
別に観察するわけではなく
それもできるし
3つくらい読ませて自分が選び出したら
withって感じで一緒にするっていう感じになってきて
どこくらい任せるけど
彼らは多分
最近のチャットGPTは単価って言われたら
ちょっと飛ばすことくらいは学んでるかもしれないけど
初期のGPTくらいであれば
非常に近しい言葉しか並べてこなかったと思うけど
最近のはもしかしたらちゃんと読んでくるかもね
そうですね
多分これは
AIが作っても
価値を感じない系のやつですからねきっと
そうやね
僕らが価値を感じるだろうと思うものを
彼らに選ばせても合ってない可能性は高いね
同じものをAIが作るのと
暮らしたタダノリが作るもので
同じものにならないというか
もちろん作り方やけど
5757人に絶対にこだわり
これが正しいと皆が思う価値観に沿って作るんやったら
おそらく作れるけど
結局単価って言うのははみ出るものを生かすので
つまり固有性の価値観に基づいて選択される言葉なんで
例えば人間が
観察者が人間が作ったものと
先生が作ったものに対して評価が違うっていうベクトルとは別に
多分全く同じ区にはならないでしょうね
僕が作ったものと先生が作ったものが
先生がどれだけ僕に似せてきても
多分同じように感じる区にはならないと思うね
物語性が重要な作詞気がするなそういう意味での
まあでもこれ面白いと思うけどね
あるカスタマイズとかコンテキストが長年学習した
生成AIが紡いだAIはそこに多分ヒストリーが宿るから
僕らが感じるヒストリーが宿るから
それはそれで面白みを見出せるけど
そのアルゴリズムというか
どう形成されているのかがわからないけど
面白い区になるのかどうかわからないね
経験歴史を積んだGPTが単価を作った時に
単価っぽいものは間違いなくできるとして
滲み出てくる何かがあるのかどうかっていうところは
ひとつ気になるところやね
なかなかスタートの切り口が面白かったですね
このAIから始まった
僕がそっちに興味があるから
この道から入りやすかったっていうのはあって
全くフラットな状態
単価が読めるとか分かっている人向けじゃなくて
全然わからない人に向けて
単価のセンスを磨いていく道のりが
これ示されているなと思って
どんな経入文書でも
できているものとそれを良くしたものの際では
僕はちょっとパターンがつかみづらかったですし
コードを書く時もエラーがあることで初めて分かることがあるっていう
普通に動くコードとそれを効率化したコードを見ただけでは
あまりコードの基本的な学習にはならない
もちろん全然動かないコードと
ようやく動くようになったコードを2つ見比べると
初心者はこれが必要なんだっていう最低限の
コッシーになるものが分かると思うんで
この学び方ゼロベースから考えるとか
あえて成立しない方に修正するかっていうのは
スタート地点のスタート
ゼロ入門者のための第一歩みたいなやり方として
結構いいんじゃないかなと思ったのも学びの一つでした
はい
ということで
今回のご意見ご感想あれば
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ブック型リストでお寄せください
感想お便り励みになっております
そしてスポーターも募集しているので
気になる方
概要欄から詳細などご覧いただければと思います
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました
ありがとうございます
01:09:17

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