『東京都同情塔』の紹介
こんばんは、ゆうこです。このチャンネルでは、私の読書ログや日々の学びを音声配信しています。
今日は、九段理江さんの『東京都同情塔』について話してみようと思います。 日本人の欺瞞をユーモラスに描いた現代版バベルの塔、
ザハの国立競技場が完成し、寛容論が浸透したもう一つの日本で、新しい刑務所、シンパシータワー東京が建てられることに、犯罪者に寛容になれない建築家、
マキナは、仕事と心情の乖離に苦悩しながら、パワフルに未来を追求する、ゆるふわな言葉と身のない正義の関係を豊かなフローで暴く、生成AI時代の予言の書、ということで、第170回芥川龍之介賞を受賞した作品になります。
これはめちゃくちゃ面白かったですね。
近未来を描いた予言の書ということで、2020年に予定通りオリンピックが開催されていて、予定通りザハハディットが
建設した案で建てられた国立競技場、東京にはもう一つ新しく建築物が建てられるようとしていて、それが新しい刑務所、シンパシータワー東京、カタカナでシンパシータワー東京って言うんですけれども、なぜ刑務所の名前にシンパシーが付いているかというと、
新しい慣用論として、犯罪者というのは、親や環境のせいで犯罪をせざるを得なかった可哀想な人たちである、同情されるべき人たちであるという提唱をした社会学者がいる日本のことを言っているんですね、日本なんですね。
で、それが何かというと、犯罪者のことを犯罪者というのではなく、ホモミゼラビリスと呼ぶ。ホモミゼラビリスというのは、哀れな同情されるべき人という意味ですね。
さっきも言った通り、その人に責任や問題があるわけではない。その人、犯罪者を作り出した環境が悪いのだと、同情されるべきはその犯罪者本人である、みたいなことを正木瀬戸という社会学者、幸福学者の人が提唱したと。
これが受け入れられつつある日本で、刑務所というのは、犯罪した人を収容する施設ではなくて、ホモミゼラビリスという犯罪者をいたわる、リトリートする施設であるべきだ、みたいな、そういうすり替えが受け入れられている日本。
そのホモミゼラビリスを収容する刑務所を、シンパシータワー東京。このシンパシータワー東京を建設する、どういう建設にするかというコンペが開催される。
新国立競技場の再来みたいなことがありますが、そこに参加する、マキナ・サラという、若いのかな、30代の女性建築家へのお話なんですね。
シンパシータワー東京の建設コンペ
マキナ・サラという名前が、またバベルの塔を思わせるなと思いますが、マキナ・サラってそれぞれラテン語で女王とか、神とかいう意味を持ちますよね。
このシンパシータワー東京っていうのは、バベルの塔の再現。シンパシータワー東京の建設は、やがて我々の言葉を乱し、世界をバラバラにする。
ただこの混乱は、建築技術の進歩によって傲慢になった人間が、天に近づこうとして神の怒りに触れたせいじゃない。
各々の勝手な感性で言葉を乱用し、捏造し、拡大し、排除した。その当然の機決として、互いの言っていることがわからなくなる。
第一人ごと時代の到来ということで、この本の冒頭の文章を今読んでみたんですけれども、
どこかですね、シンパシータワー東京を作るホモミゼラビリスというような、
ある種寛容な社会の意識変革のようなものを起こしているように見せかけて、それは単なる言葉遊び。
それ自体が人間の傲慢な振る舞いである、かつてバーベルの塔を建設しようとした人間に対して神が怒って、
世の中の人々の言葉をすべて一人一人バラバラにしてしまったように、また神の怒りに触れて徹底が下るかもしれない。
そんなようなことを最初に予言しているという面白い本なんですね。
その言葉遊びをしているということの一つに、生成AIというものが、この本の中には何度も繰り返し出てきていて、
生成AIがやって生み出した言葉によって人々がある意味踊らされていく。
それを真の言葉であるかのように受け取って真面目に何かをやっている人間が、それ自体が神の視点から見るとすごくバカバカしい。
遊んでいるようで遊ばれているようだみたいな、そういうすごくシニカルな視点で書かれた小説のように思います。
あとはこの本の中にはですね、いろんなカタカナ英語が出てくるんですけれども、
シンパシータワー東京もそんなカタカナ英語の造語の一つだと思いますが、
マキナ・サラの頭の中には常に言葉が氾濫していて、それを自分で検閲したり、生成AIに調べさせて言語化させたりみたいなことをしているんですけれども、
マキナ・サラの頭の中には、ホームレス、ネグレクト、ビーガン、マイノリティ、セクシャルマイノリティなどなど、ノンバイナリー、フォーリングワーカーズ、ディファレントリーエイブルド、ポリアモリー、ホモミゼラビリスとかね、
マキナ・サラはそういったカタカナ英語のことを、ずさんなプレハブ小屋にみたいなその文字たち、そんな風に言うんですよね。
マキナ・サラと東京都道場島
カタカナで作られた言葉っていうのは、マキナ・サラからすると、美しさもプライドも感じられない、味気ない直線である上に中身はスカスカ、そんな風に言うんですよね。
そんなカタカナで作られたシンパシータワー東京、その構造物に愛着などを持てるはずがないと、構造的な欠陥があるというかですね、強度を持ったちゃんとした建物であろうはずがない、みたいな風に考える。
つまり、このカタカナ英語のことを構造的な欠陥のように結びつけて、自分が建設するシンパシータワー東京という仮称の建物をどういう風に作ればいいのか。
建物っていうのは、建物を作るときは未来を想像して、その建物がどういう風に使われていくか、社会にどんなインパクトを与えていくかということを予想しなければならない。
それが建築家の使命である、みたいなことを言うんですけど、このカタカナ英語だとか、それに付随するよくわからない概念が蔓延して、人々が言葉に踊らされている社会問題もその一つであるような世の中で、私が建てる新しい刑務所っていうのはどうあるべきか、みたいなことを
言葉の大洪水の頭を何とかフル回転させながら考えているマキナ・サラ。結構変な人なんですよね。そのマキナ・サラに影響を与えているのが、オリンピック新国立競技場を最初に建設案を通したザハ・ハディット。
これは、実在の人物でも亡くなられている方なんですけれど、マキナ・サラはザハに傾斜しているというか、尊敬をしているわけですね。
ザハが建設した新国立競技場が、実際のリアルな世界では建設案というのは廃止されたんですけれども、実現されなかったんですけれども、東京都道場島の世界ではそのスタジアムが建設されていて、
新しく建つシンパシータワー東京というのは、そのスタジアムと対になるべき存在である。そんなふうにマキナ・サラは考えているんですね。ザハのスタジアムがある東京に私が建てる刑務所の塔というのはどうあるべきか、みたいなことを考えていきます。
最初にも言ったんですけれども、私が建てるべき、東京に建つべき刑務所、未来を予言して、それがここにあるべき、私が建設するべき塔というのはどういったものなのか考えたときに、
東京都道場島という名前がサラではない、誰かの口から出てきて、もうその名前しかない。そんなふうに物語が進んでいくんですね。
サラはずっとシンパシータワー東京という建物名でいいはずがないというふうに考えているんだけど、じゃあどういう名前がいいのかっていったら思い浮かばない。そこに現れたある人によって東京都道場島という名前が決まっていくというか、
それに基づいた建設案というのを考えていくということになります。東京都道場島というのはですね、東京に都がついていて、道場にタワーという意味の都ついていて、言葉の構造はシンメトリーだし、音的にもきれいな韻を踏んでいて、刑務所にふさわしい適度な厳しさも含んでいる。
これだけしっかりしていればきっとバビルの塔だって崩れはしないというふうにサラは言うんですね。
それが最初の本紹介の中で言った、ゆるふわな言葉と身のない正義の関係を豊かなフローで暴くということで、ここにライムっていうんですかね、韻を踏んだ素敵な言葉が生まれた。
東京都道場島って、私この配信の中で何回か言ってますけど、すごい繰り返し言いたくなる言葉ですよね。東京都道場島、これを考えた久断理恵さん、すごい天才だなというふうに思います。
この話の面白いところはですね、そうやって東京都道場島を巻きなサラがどうやって早期して継続していくかみたいなところが前半描かれていくんですけど、その中でそもそもホモミゼラビリスみたいな言葉を作って、
私たちは寛容な社会に作り変えていくみたいなことに満足しきっている日本みたいなところをすごく揶揄している。
そんな欺瞞を指摘しているような雰囲気に見せかけて、最後の方はですね、実際にその巻きなサラ自体が、自分は一人の人間としてこのバベルン島ではない東京都道場島を作っているかのように見せかけて、実はみたいな展開がこの後ろにあるんですね。
そこがすごくホラーで、単なる予言の物語ではない、すごい冷やかな背筋がゾクッとするような要素が後半に待ち構えている。
そこにストリーテラーのように鍵を握っている人物こそが、東京都道場島というネーミングを考えたその人なんですよね。
その辺がすごく前半と後半の展開がガラッと変わっていくところが小説としてもめちゃくちゃ面白い。
あとはですね、面白さを語っていったら多分すごくたくさんあるんですけれども、
くだんりえさんは三島幸男がすごく好きな方なんですよね。なんかインタビューでそのことを言っていらっしゃったと思うので、金閣寺のエピソードもこの小説の中に出てくるんですけれども、
多分村上春樹さんのこともちょっと好きなんじゃないかなと思っていて、春樹作品のオマージュ的にレイプをされる女性建築家だったり、パン屋襲撃のキーワードみたいなものがちらちらとあったりします。
それ以外にもですね、いろんな気になるキーワード、社会問題、注目されているテーマがすごくいろんなところに随所にあって、
これってどういう意味だっけって調べたり、これってなんだっけって調べたり、いろんなところに自分の中の関心事が移り変わっていって、なかなか本編を読み進めるのがスムーズにいかない。
それこそが牧野さらという建築家の頭の中で起きていることであり、日々Xツイッターに触れ合って言葉の洪水の中に埋め込まれている私たちの頭の中で起きているようなことを、この小説でも再現しているような気がして、
東京都同情塔の語られ方
それすらも九段理恵さんが仕込んだ仕掛けみたいなものなんじゃないかと思うと、本当にこの小説家さん天才というかですね、この人自体の頭の中のメモリーというかスペックが超すごいんだろうなと思います。
他にも読んでみたいですね。
芥川賞の作品って私は苦手な傾向があるんですけれども、ハンチバックも読んだんですが、感想を言うのは結構難しかったんですが、この東京都道場島はめちゃくちゃ面白いです。
本当にちょっと興味がある人は読んでみた方がいい。すごくハマると思います。
ということで今日は東京都道場島、九段理恵さんの本について話しました。
もう一つですね、この本を読むちょっと前にですね、田和田陽子さんの検討誌という小説も私読んでいて、すごく偶然ではあるんですけれども、どちらも女性作家が書いた近未来の日本のディストピアのお話なんですよね。
なので私はこの2冊を自然と比較しながら読んでいたところがあって、そういった点でもすごく楽しめたところがあったかなと思います。
どちらも近未来の日本のディストピアを描いていて、言葉に着目している小説なんですね。
九段理恵さんの本は、そういった日本の今の状況、そしてディストピアを描くことによって、自分の中にある怒りとか問題意識とか危機意識みたいなものを具現化したかったというよりかは、
こういう未来、今の日本から未来を予想した時にこうなっていくんじゃないかとか、もしオリンピックがザ・ハーディットのスタジアムで作られていたらこういう展開になっていくんじゃないかみたいな、すごく自分の中の好奇心を具現化しているような小説だったんじゃないかなと思いますが、
田和田陽子さんの検討誌っていうのは、田和田さんの危機意識みたいなものはすごく随所に見られる小説だったかなと思うので、そういった点は違う部分として楽しめるかなと思います。検討誌のあらすじを最後にちょっと読んでおこうかなと思いますが、
大災厄に見舞われ、外来語も自動車もインターネットもなくなり、鎖国状態の日本。老人は100歳を過ぎても健康だが、子供は学校に通う体力もない。吉郎は体が弱い暇子の無名が心配でならない。
無名は検討誌として日本から旅立つ運命に、大きな反響を読んだ表題作など、震災後文学の頂点ともいえる前後編を収録ということで、これは東日本大震災が起きた後から先の日本の近未来を描いた作品なんですね。
今だと、人生100年時代と言われていますが、そんな中においても年を重ねるごとに体がどんどん動きづらくなっていったり、病気になる可能性が増えていって寿命は尽きていく。
年齢とともに死に近づいていくというのが今の世界の普遍的な当たり前なんですけれども、この検討誌の世界では老人は何歳になっても健康でなかなか死ねないんですね。
120歳まで生きてしまう。逆に生まれてくる子どもは、世代を追うごとにどんどん体が弱っていく。一人では歩けないだとか、呼吸もできないような子どもが生まれていく。
それは放射線物質の影響ということになっているんですけれども、そういう日本でこれ以上世界に迷惑をかけてはいけないということで鎖国をしているんですね。そんな中で生きていく
生きていく、吉野という老人とその暇子の無名のお話なんですね。これはすごくね、こういう世界もあったのかもしれないと、やっぱり同じように東京都同情党でもそんな風に思うんですけれども
検討誌もね、そういう世界があるのかもしれないって思わせるようなすごくリアリティがあって、この世界を知らない私としては、どこまでタード・ヨコさんがこの検討誌の世界を説明してくれてそれを読んでいても
わからないことの方が多いんですけれども、最後この無名が検討誌として日本から旅立つ運命になっていくという本当に最後の最後のところまでこの検討誌の世界が説明されていくだけなんですよね
献灯使の語られ方
それを読んでいて、なんでこんなことになってしまったのか、どうすればじゃあこういうディストピアにつながる道、選択を選ばない分岐点だったのはどこだったんだろうなというのを考えながら読んでも、それは全くわからないんですね
それってつまり、もう不可否の未来なんじゃないかと思わせるような絶望感に苛まれるんですけれども、この検討誌はですね、東京都道場ともゆるふわな言葉でかなりポップに語られていたりするんですけど
この検討誌もですね、なんというか日本の良いところを見つめ直そうというような動きもこの世の中、この世界では起きていたりして、それにはちょっとほっこりする自分がいる
ディストピアなんだけど、でも良い側面もある、だから完全にノートが言い切れない、その矛盾がこう自分の中で起きてきて、価値観がですね、よくわかんなくなっていく
今自分の中に割とかことある価値観みたいなものがある、常識とか当たり前みたいなことがしっかり根付いている、リアルな私が検討誌だとか東京都道場等を読むことで、それが崩れていく様がすごくぞくぞくしますし、面白かった
ディストピアの小説ってあんまり読んだことなかったんですけど、この2冊を同時期に読むことですごく楽しめたなという読書体験をしました
ということでもう1冊ですね、田畑佑子さんの検討誌について話してみました
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本日も最後まで聞いていただいてありがとうございました
ではでは