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2025-07-25 10:52

「待つ」はその先に「期待」があって辛いから。多分「祈る」ことに変わった。 #24

これがぴったりの言葉かはわからないけれど。

サマリー

子供の成長を待つ苦痛を感じながらも、期待を持たずに祈ることの重要性について話します。また、環境を整え、子供が自ら成長できるスタイルを採用することについても考えます。

待つということの苦しさ
こんにちは、ビンズめのつぶやきラジオのあざらしです。
今日は子供の成長を、あの、待つっていうことが大事だと思って、今そうやってるのかなと思ったんですけど、
どうやら私は、待つっていうよりかは、祈ってるのかなって最近感じたことがあったので、話をしてみようかなと思います。
えっと、以前このラジオでも紹介したんですけど、
子供への眼差しっていう本があって、それがあの、まあ子供の成長を待つことがすごく大事ですよって話をしていて、
そうだなーって思って、それがあの私の中で結構あるんですけど、
最近ですね、そのNHK番組で、「言葉にできないそんな夜」っていうのがありまして、
その番組の制作しているところで作った本なのかな、
あの、その気持ちなんていう、プロに学ぶ感情の伝え方っていうタイトルの本が図書館にあって、何気なくこう借りて読んだんですね。
そこで、ちょっとどのページか忘れちゃったんですけど、今借りた、借りてきているやつなので、
なんかね、あの、そこに待つっていうことで、あの、待つって結構表現しているものがあってですね、すいません何度も、えっと、
待つって結局、
待つって、期待があるから待つっていう姿勢になっているんだなってここで気づいて、あの、
例えば、まあ、ラーメン屋さんに並んで待つっていうのは、そこでラーメンが食べられるという期待を叶えられることができるから、待つですけど、
また同じように、好きな人からの返信を待つっていうことは、あの、返信が来てほしいし、
まあ私の、例えば対応がなんかちょっと、違う、なんか本人のね、気持ちを逆撫でするようなことがあったのではないかという不安とか、
そういう好きだから返してほしいとか、そういう期待とか不安があるから、とりあえず待つっていう形をとっているみたいなのがあって、
結局その、どっちも待つなんだけど、期待があり、それを叶えるためにとりあえず待つっていう方法をとっているっていうところで、
ただ、あの、それぞれの待つが結構、程度が違うなって思うんですよね。
そのラーメン屋の行列、まあ行列だと結構ね、長いから待つ時間が苦しいとも思うんですけど、
その、なんだろうな、そう、ある程度見通しを持って待つのと、見通しがなくて、だけどすごく願っていることを待つのって、
あの、少しの時間でもすごく長く思ったりとか、長いと思ってたけどあっという間にっていうこともあるかもしれないし、
その時その心情によって結構待つって違うなっていうのが読んでて思ったんですね。
で、あとは基本的に苦しいことだなと思って、期待があるから。
うん、ていうので、私はじゃあ今、子供の成長を待ってるかっていうと、あんまり苦しくなくて、今は。
で、前はすっごい苦しかったけど、もう苦しくなくなったんですよね。
うん、なんだろう、だから待つじゃなくて、
多分期待があまりなくて、で、待つも、だから待つってもなくて、何かな、でも全く期待みたいなのないかって言ったらゼロじゃないしなって思った時に、
うーん、ぴったりの言葉が今よくわかんないんだけど、私の中では多分子供の成長を祈ってるのかなって最近感じてきました、この本を読んでいて。
うん、そう、
なんだろう、結局子供の成長って私があんまりコントロールできないものだし、本人の意思があって初めて成長できるものでもあるから、
最終的には子供に委ねる部分が多くて、私がいくら焦っても、まあ変わらないことは変わらないし、変わる時は変わるしっていうところで、
まあ期待しても苦しいなって思ったから、もうそこはもう私の領域じゃないから、もう子供に任せて。
だけど子供の幸せは願ってるから、祈ってるっていう感じになったなって思うんですよね。
祈ることの意味
えー、なんか、でもやっぱり祈ってるから、全く投げ出したんじゃなくて、
まあ自分のやれることはやっていこう、子供のためにっていう、提供できることは提供していきたい、
って思って、まあ私がコントロールできる範囲はちゃんとやりたいなって思うし、諦めたくないなとも思っています。
だからこう、余計じゃないけど、その期待とか不安を、
はもうあまり持ってなくて、まあどうであれ私は、
まあ子供に対しては、あの味方であり続ければいいだけなんで、そこはもう後は本人に任せるけど、
まあでも本人のためになるようなことは、ちゃんと環境を作っていきたいみたいな感じに変わったなって思います。
あとはなんか、結構子供に寄り添うとかそういう言葉が結構あるんですけど、
なんか、最近はあまり寄り添うっていう感覚よりも、
うーん、まあ本人が泳げそうな環境を作って泳がしておくというか、
うん、あの本人が動きやすいように、まあ環境を整えておいて、
あとはこう、放牧スタイルみたいな感じです。あんまり寄り添ってなくて、
何だろう、逆に境界をしっかり引いて、何か助けを求められたら、耳を傾けるし、
っていう形で、あんまりこう、
何だろう、手取り足取りっていうよりかは、できるだけ泳がせたいから、泳がせる範囲をどうやって作ろうかなっていう感じで、
子供のことを見ているなって最近思います。
だからすごく、子供にある程度任せれるような環境を作ることに、
頑張ってるというか、そこを重視しているので、あまり子供のちょっとした、
何だろう、気持ちの動きみたいなのに敏感に反応しなくなったなって思います。
ちょっとだから、逆に寄り添うというよりも、ちょっと間を入れるというか、できるだけ、
入り込みすぎないように気をつけているかなって思います。
ただ、本人がやりたそうなこととかは、できるだけキャッチしたいなっていうか、観察はして、
なんか熱が温まってきそうなものは逃さないで、できるだけ成長につながれるようなものが何かないかなっていうのは探しはしているけど、
本人がどんな選択をしようが、あんまりそれを尊重しようという形になり、そこに対して私は私で、
どうしようかなとか、自分がコントロールできる範囲で物事を考えるようになったので、あんまり子育ての不安みたいのはなくなりました。
子供を任せるスタイル
だからすごく今、まあできないことはたくさんあるし、
何だろうな、課題はあるけど、それを今すぐ解決しなきゃとか、どうなるんだろうみたいな焦りみたいなのがなくなったので、
まあ悩みが悩みじゃなくなったって思います。
足りないことはあっても、その今を認めて、まあ祈って、私ができることはやっていくし、
まあ本人ができないことは、まあいつか本人ができるようになるかもしれないし、できないままかもしれないけど、
まあそれでも、一緒にこう、
楽しく過ごせたらいいなっていう気持ちに変わったなって思います。
だから、子供の成長は待つ、待つっていうのが正しいというかこう、大事だとは言われるんだけど、基本的に待つって苦しいから、
もう待つよりも子供の成長を祈るっていうことに私は変わったのかなって最近思いました。
ということで、最近まあ基本的に待つは裏に期待があって、とても苦しいことなので、
変えたっていう話をしました。
変えたというか、もう期待をすればするほどね、今を否定することにもなるので、
親はそう思ってやってないんだけど、子供にとっては今を否定されたことになるなぁと思ったので、もう期待はやめて、
祈ります。はい、もう私ができることだけを淡々とやっていけたらいいなと最近思ってます。
はい、こんな感じでちょっと何度も繰り返したような気がしますが、
つぶやかしていただきました。ここまで聞いていただいてありがとうございます。ではまたお会いしましょう。
10:52

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