00:05
スピーカー 2
Tale-JP 紐を放した風船は、20歳で化け物に遭った。
それが世界の裏側との出会いだった。恋人を失い、家族を守りたいと願った。
28歳で飼い猫が、32歳で母親が化け物になった。
切り捨てることを選び、化け物を檻へ閉じ込めた。
家族は父親だけになった。3日前、父親が言った。
スピーカー 1
86歳だった。死因は心疾患。
スピーカー 2
苦しまず死んだと医者は言う。模子を務める葬儀の途中。
私は葬儀場の窓から空を眺める。私の弱いは50を超えていた。
空は晴れていて、雲一つなかった。意識を目の前で行われている告別式に戻す。
暑さが風に吹かれて程々に治った、秋半ばの土曜日。
死から数日しか経っていないにも関わらず、多くの人が町の葬儀場に集まっていた。
親戚、友人、かつての同僚や上司や部下、
近所付き合いがあったという人まで、照光を上げに来ていた。
スピーカー 1
今時、葬儀にここまで人が来るとは予想していなかったが、
スピーカー 2
それが父の人生を表しているようにも思えた。
父の顔を、彼ら、彼女らは見る。額に入った顔。
白い棺に閉じ込められた顔。
見る瞬間、慎ましくしなければ、という慣習から来る縁起の仮面がくざける。
死者を前にすると、どんなに穏やかな人でも、その心は青い感情に染まるらしい。
03:04
スピーカー 2
私は最前列で、朝門客の顔を伺い続けていた。
その顔に興味があった。
守ると決めた父の葬儀を前にした私の内側に、複雑な感情は何もなかった。
握っていたはずの風船の紐を手放してしまったかのような、
わずかな石爆だけがあった。
父の最後は、想像以上にあっけないものだった。
10年以上前から聞いていた疾患が浸透。
体力的にも手術はできず、病院で死を待つ日々が続いていた。
そんな頃、私が仕事を片付けて駆けつけた時、外は随分と暗くなっていた。
スピーカー 1
他の親戚に囲まれた父は、ベッドに倒れたまま。
スピーカー 2
にも起こせず、視線を私によこす。
瞼は徐々に閉じ、時間が過ぎていく。
バラバラと親戚たちが帰宅する中、私だけがそばにいた。
深夜に、父は息を引き取った。
血液の匂いも、意味不明な気勢も、父の枕元には存在しない。
人は静かに死ぬものだったな。
失いかけていた感覚を、私は拾い上げる。
スピーカー 1
涙は流れなかった。
スピーカー 2
私はいつも通りの無表情で、病院や葬儀舎との手続きを済ませる。
病院にいる間、看護婦が私に嫌な視線を向けるのを何度か感じた。
スピーカー 1
親が死んでも泣かない。
スピーカー 2
悲しむ素振りも見せない私を、不気味に思っているのだろう。
スピーカー 1
私も、こんな私が嫌いだ、守ったんだ。
スピーカー 2
どんな悲痛な記憶も与えず、世界への疑念を抱かせないまま、
父を化け物の前に晒すことなく、守り抜いた。
06:00
スピーカー 2
そればかりを考えていた。
どんなに考えても、私の心は満たされなかった。
この人生における目標を完遂したというのに。
だから考えるのはやめにした。
切り捨てて前に進むのが、いつの間にか癖になっていた。
私が葬儀で休んだ今日も、どこかでこの世をひっくり返すような出来事が起きている。
人間同士の殺し合いだって日々起こる。
スピーカー 1
世界を崩していく化け物くらいはいてもおかしくないか、と
スピーカー 2
仕事を続けるうちに思うようになってきた。
化け物どもが世間に露出することなく。
のどかな葬儀ができるのは、私が30年以上属している組織の働きに他ならない。
上層部が世界の闇と行々しく表現する存在たちを抑えつける。
その過程で何人も死ぬし、何人も表舞台から姿を消す。
他人の人生を砕かねばならない時もある。
そんな場所では死状を帰却して冷徹になるのが最も生きやすい。
スピーカー 1
生きなければならなかった。
スピーカー 2
生きて家族に降りかかる闇を払わなくてはならなかった。
払う闇がかつての家族であることもあった。
家族を闇から守るために粛々と排除した。
それを知る人物は、父を痛む懲問客の集団には誰一人としていない。
伴侶を早くに失いながらも自分の人生を生き抜いた人。
スピーカー 1
父もきっと自分のことをそう思っていた。
実際は違う。
スピーカー 1
父から家族を奪い取ったのは私だ。
スピーカー 2
それでも幸せだろう。
化け物に殺されていれば、起きた悲劇を嘆かれることはない。
化け物に取り込まれていれば、大勢の人に死を悲しまれることもない。
09:01
スピーカー 1
父は逃れた。
スピーカー 2
理不尽に襲いかかってくる呪いから。
そう、みんなして死を悲しんでいる。
黙して皆故に浸る者もいれば、小声で生前の父について語り合う者もいる。
悲しんでいないのは私だけのようだった。
私は組織では平凡な部類だと思っていたが、どうやらそうでもないようだ。
向こうで過ごすうちに、こちらで生きる人々とは明らかな違いが生じてしまった。
泣けば彼ら、彼女らに混ざれるだろうか。
しかし、泣くほど感情的にはなれなかった。
親の死に対する悲哀も、罪に由来する快感も、
仕事終わりの安堵も持ち合わせていない。
たった一人、弔う人々から孤立していた。
いや、と息を吐いて考えを捨て去る。
私は高望みしすぎだ。
本来与えられるべき死を父に与えた。
スピーカー 1
世界から対価はきちんと支払われている。
スピーカー 2
それで十分じゃないか。
国別式はそろそろ終わりそうだった。
プログラム終了のアナウンスが入る。
スピーカー 1
葬儀場の職員に促され、
スピーカー 2
私は父の家を持たされた。
父が長方形の額の中で笑っている。
スピーカー 1
投げ捨てるには軽く、
スピーカー 2
気を緩めて持つには重かった。
火継の蓋はいよいよ閉じられようとしている。
菊、ゆり、名前のわからない花。
スピーカー 1
甘い匂いを放つ花が火継の中を埋め尽くし、
スピーカー 2
父の遺体は顔以外ほとんど見えなくなっていた。
スピーカー 1
まもなくして蓋は閉じられ、
スピーカー 2
神道の近い親戚が釘を打つ。
スピーカー 1
音が響いて、
スピーカー 2
蓋は火継に固定された。
スピーカー 1
葬儀に出席していた男たちが両脇につき、
スピーカー 2
職員の指示に従って火継を担ぎ上げた。
黒い模服の集団。
スピーカー 1
改めて見ると、
12:01
スピーカー 2
組織の人間たちの格好にも似ている。
それにしては頼りがないようにも見えた。
それでは故人様、ご出勘です。
職員が告げると、
火継は男たちによって外へと直接つながる扉に進んでいった。
私もその脇について外に出る。
眩しい光が私を照らす。
スピーカー 1
思わず下を向くと、
家の表面は光を反射していて、
スピーカー 2
何も見えなくなっていた。
スピーカー 1
職員が誘導する先では、
霊柩車がドアを開いて、
スピーカー 2
火継の到着を待っている。
火継を乗せ、
スピーカー 1
私や何人かの親戚が乗り込めば、
スピーカー 2
火葬場まで一直線。
無意識のうちに手順を確認していた。
これから父の遺体は消え去る。
ぼんやりとそれを思った。
変わらず、私は何も感じなかった。
吐き出したい思いがあるなら吐き出し、
遺体にぶつけて燃やしてもらうのがいいのだが、
そんな思いは胸のどこにも見当たらない。
なら、それでいい。
スピーカー 1
火継の方を見ると、
スピーカー 2
運ばれる火継に従うように列ができていた。
スピーカー 1
葬儀場から霊柩車までの短い距離の間でも、
スピーカー 2
ぞろぞろと送列が追従していく。
スピーカー 1
青い感情を顔に浮かべ、
スピーカー 2
不揃いな足取りでまとまりになる。
スピーカー 1
父の人生は幸せだっただろうか。
スピーカー 2
ふわりと湧いた疑問が脳を刺す。
幸せに決まっている。
こんなにもいろいろな人の思い出になったんだ。
葬儀が人生の終着地だとするなら、
この場所にはたくさんの人が集っているではないか。
手を合わせ、見送られる。
これ以上幸せなことなどない。
でも、その送り出す場に私はいるだろうか。
一瞬、呼吸が止まる。
悲しみも悔いも安らぎも持たずに、
ただ堂席しているだけではないのか。
スピーカー 1
石爆しか覚えないのは、
スピーカー 2
私の思い出に父がいないからではないのか。
15:03
スピーカー 2
いいや、そんなことはない。
スピーカー 1
私と父は言葉をよく交わしていたし、
スピーカー 2
小さい頃は遊びにも連れて行ってもらった。
スピーカー 1
猫のことではしょっちゅう揉めていたし、
スピーカー 2
進路で私が母と対立したときは味方してくれた。
それだけ。
20歳以降、何か深い関わりはあっただろうか。
スピーカー 1
私は家族を守るため、
スピーカー 2
途中からは父を守るため、世界を駆け回っていた。
化け物が漏れ出そうになる世界の穴を塞ぐことに渾躁する日々。
スピーカー 1
それが父の幸せになると思っていたから、
スピーカー 2
どんな敵にも立ち向かえた。
それなら、この執着地の寂しさは何だ。
スピーカー 1
私は父が幸せだと感じただろう瞬間を、
スピーカー 2
何も知らないのではないだろうか。
現に私は父から何も与えられていない。
何も与えられていないから、死に何も感じない。
スピーカー 1
思いが心のどこにも見当たらないのは、
スピーカー 2
支払われるはずの対価が支払われていないから、
父から受け取ることを怠った。
だから私は壮烈に加わることすらできない。
幸せに生きたと断言できる父の顔を一度も見ていない。
そんな気がした。
スピーカー 1
記憶の紐を手繰り寄せても、
スピーカー 2
元から繋がっているものなどなかったらしい。
血の気が引いていくのがわかった。
スピーカー 1
うつむき、私は棺から目をそらした。
スピーカー 2
思考を断ち切ろうと、まぶたを閉じる。
乾いた音、その後、どよめき。
静けさを保っていた葬儀場が音に飲まれていく。
生理もつかないまま、私は振り返った。
棺は地面に落ちている。
スピーカー 1
困惑している模伏の男たちが取り囲む中心にあり、
スピーカー 2
その白は黒が重なったことで、より火出ているように映った。
しかし、白も黒も埋め尽くされつつあった。
スピーカー 1
鮮やかなカラースモークが棺から湧き出て、
18:02
スピーカー 2
神吹雪が空気中を舞う。
煙のせいで見えにくいが、棺の中には花しか残されていないようだった。
父の遺体は消えている。
かわり、とばかりに風船が、棺の底から湧いて空へと飛び立つ。
空は風船に覆いつくされる。
送列の人々が一斉に空を見上げた。
風船は妨げられることなく、高く昇っていく。
その場の誰にも止めようがなかった。
みんなが呆然と、空が色づいていくのを眺めるしかできないでいた。
スピーカー 1
風により、滞流する煙と、紙の膜は流されて薄くなり、
スピーカー 2
風船も方々へ散る。
スピーカー 1
痕跡は徐々に消え去る。
スピーカー 2
最初から何もなかったかのように、
遠くへ、遠くへ。
スピーカー 1
一番最初に浮かんだ赤い玉は、点となり、
スピーカー 2
やがて、粒になった。
スピーカー 1
たくさんの風船が飛ばされていくにつれ、
スピーカー 2
騒ぎ出していた送列も、落ち着きを取り戻す。
スピーカー 1
年長者が黙って空を見ていることに気がついて、
スピーカー 2
口は歪めたまま、風船を眺め始めた。
スピーカー 1
何人かは手を合わせ、
スピーカー 2
何人かは目元に涙を浮かべている。
それなのに、みんなの顔は清々しかった。
欠別。
スピーカー 1
彼方へと旅立っていく、それを掴むことはできない、
スピーカー 2
という諦めが、そこには含まれているように思えた。
私は違った。
震えが止まらなかった。
離れていく。
スピーカー 1
今まで曖昧に捉えていた感覚が、
スピーカー 2
風船を通して刻みつけられる。
死んだ。
スピーカー 1
消えた。
スピーカー 2
いない。
スピーカー 1
私の軸になっていた父の像が、
スピーカー 2
ガラガラと崩れ出す。
私の生きてきた証が、失われてしまう。
スピーカー 1
父を取り除いたら、
スピーカー 2
果たして私に何が残るだろう。
スピーカー 1
私の内側に父はいない。
外側にしかいない父の存在が、
スピーカー 2
私を闇へと退治させ続けていた。
スピーカー 1
記憶に映る姿では、
スピーカー 2
いつか忘れてしまう。
21:02
スピーカー 1
空虚な私の心には、
スピーカー 2
おそらく父だけがいた。
父は死に、
私の心から姿を消そうとしている。
スピーカー 1
私には、
スピーカー 2
私が守った父の痕跡が必要だ。
スピーカー 1
平穏な世界のみを見て死んだ。
スピーカー 2
私の愛する人の遺骸が。
スピーカー 1
父が異常に飲まれてどこかに行くなんて、
スピーカー 2
あってはならない。
スピーカー 1
火継から風船が出る勢いは、
スピーカー 2
収まりを見せていた。
スピーカー 1
煙と紙の膜は消え失せつつあって、
その前のものから少しの時間を置いて、
スピーカー 2
火継からは風船が一つ飛び出す。
これが最後の別れのように感じられた。
風船はゆっくりと風に流され始める。
待って!
スピーカー 1
手を伸ばし、
スピーカー 2
体を前に傾けていた。
その時、持っていた遺影を落としてしまう。
視線を奪われる。
スピーカー 1
足元で砕ける音が鳴って、
スピーカー 2
遺影は裏返った。
戸惑ったが、霧捨てる。
足を広げて、砕けた遺影を跨いだ。
衝動的に私は走り出していた。
風船は低空を漂う。
垂れ下がっている紐は長い。
もしかしたら追いつけるかもしれない。
父は荒れに変わってしまった。
取り戻さなければ。
異常に父を引き渡させてやるものか。
私はアスファルトを蹴って宙に踊り出た。
だが私の体は衰え切っていた。
私の指が風船の紐に触れることなく空を描く。
50を超えた私に若い頃の瞬発力や跳躍力は残っていない。
何をしようがもう手遅れだとその時に悟った。
手を伸ばした不恰好な姿勢で地面に叩きつけられる。
痛みが全身に響き張った状態から起き上がれなくなった。
頬の痛みに歯を食いしばってどうにか首を動かす。
風船は遥か彼方に浮かんでいる。
呪縛から解き放たれたかのように青い空でぐんぐん小さくなる。
24:06
スピーカー 2
私は見ていることしかできなかった。
返せ。父を返せ。叫びたくても痛みのせいでできなかった。
空を漂う父は幸せだろうか。
妨げていたのは私ではなかっただろうか。
今となっては尋ねられない。
もし望んでいたのなら誰にもそれは止められない。
旅立つ姿を見守らなくてはならない。
準備ができていないのは私だけだ。
紐を離した風船は遠くの空へと飛んでいく。
空を見上げて30分ほどがたった。
音が聞こえた。
別れを告げるような破裂音がいつまでも耳で渦を巻く。
涙がこぼれ地面ではじける。
30年ぶりに私は泣いた。
はい、こちら現場です。ただいま到着しました。
スピーカー 1
案件はSCP-1581-JPが発生したかの確認でしたよね?
ええ、確かに現場は葬儀場で、ちょうど葬儀も取り行われていたようです。
個人に対するバルーンラウンチも行われていないそうで、
目撃者からは火継から風船が飛び立ったと複数の証言が。
ええ、ですのでこれから記憶処理を実施します。
カバーストーリーの作成と拡散をお願いします。
と言いたいところですが、こちらに割り当てられている人数が少ないような気がしてまして、
処理する葬儀の出席者と近隣住民の数も考慮して、そちらから人員を派遣してもらいたい。
え、ここに財団の職員が一人いるんですか?
スピーカー 2
名前は聞き取り調査した出席者の中にその名前はなかったんですが、
となると外でうずくまって泣いているあの女性ですか?
スピーカー 1
号泣していて話すのも難しそうだったんで放っておいたんですよ。
スピーカー 2
にしてもよく泣く人ですね。
ほら、えーと、梅田さん?梅田綾さん?立ってください。任務です。
スピーカー 1
エージェント梅田。いい加減早く起き上がって。
スピーカー 2
我々には泣いている暇などないんですよ。