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こんにちは、早川洋平です。今日はですね、広島市の国際会議場の喫茶店でですね、お話を伺います。
細川浩史さんにお話を伺います。先ほど名刺をいただいたんですけども、広島市の平和記念資料館のボランティアガイドをされながら、
広島市の被爆伝収者のプロジェクトだったり、本当にお忙しい中でも毎日、いろいろ取材を受けたりということを伺ってますけども、
今日はいろいろと、この番組のタイトルは【戦争の記憶】ということでお話を伺いたいと思うんですけども、
最初になんですけども、この戦争の記憶ということで、本当にいろんなご経験、ご体験されていると思うんですけど、
戦争の記憶ってこの言葉を聞いて、細川さんが真っ先に思い出すようなエピソードというか、後継でもいいんですけども、
答えはないんですけども、何か今一つ聞いている方に伝えられるとしたら、どんなことが記憶ということで出てきますかね。
戦争の記憶はいい記憶はないですね。もちろん、私の少年時代は戦争に飽き暮れておりまして、
私もある意味では軍国少年の一人であったかもしれないし、もう私の友人も、心を開いて話す友人もどんどん少なくなっておりましてですね。
戦争中の記憶は、いい記憶はほとんどないですね。
軍国少年ということもありますけども、すごく僕は素朴な疑問なんですけど、
やっぱりその時代ってテレビとか映画今年もいっぱい戦争関係やってますけど、本当に天皇陛下が生きている神様で、
天皇陛下が絶対で、戦争も国のためにということは、教科書とか映画とかでは見てるんですけど、
そのいわゆる軍国少年という、その時の細川さんの意識というか、
具体的に聞くと、本当は何となく違うなと思ってるけど、
国とかも、親とか関係がそうだから軍国少年にならざるを得なかったのか、
もう当たり前そうに育ってきたから国のためにとか、そういうのが当たり前だったのか、
その辺の感覚って当時どういう感じだったんですか。
まあしかし軍国少年とは言いながら、私もあえて、
例えばあの頃、お金に志願して行ったりですね、そういうつもりはなかったですね。
しかし明るい記憶はありませんでしたね。
まずだいたい戦争末期になりますと、空襲もどんどんとやってくるし、
広島は代表的な軍事都市の一つでもありましたから、
広島からたくさんの兵士たちは軍用船に乗って戦場に送られて行って、
その中の多くの人は帰ってこなかったんですけどね。
さらに、男の人たちの手がどんどんなくなったんですよ。
軍事工場に行き、戦場に取られ、軍事工場に。
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そして一番の暗い記憶は、やっぱり学徒勤労動員ですね。
学徒勤労動員。
これは勉強はストップですよ。勉強したくてもできないんですね。ないんだから。
といって食料が十分あるわけではないし、朝から勤労奉仕ですよね。
みんなそうだよね。日本国中一応。
私もまず行った先が、呉の海軍工廠ですね。
当時何歳ぐらいだったんですか。
16歳ぐらいだったかな。それで行ってですね。
特訓を受けて、電気調節の免除をもたらされて。
僕も電気調節の免除を持っているんですよ。海軍の。
しかし使い物にはなりませんけどね。
軍艦の部品まで使われる。どうでもいい部品ですよ。重要な部品じゃないわけね。
そんなもので使って、その間ですね。
私は昭和20年の正月前後だったと思うんですけど、
戦艦大和が沖縄に向けて最後の出撃をするための、最後の整備をするために
そこのどこに入ってきたのを、私は特別な機会をありまして、
これを艦の底まで覗いてみることができたわけです。
これは戦艦大和の至近距離で見た人は日本国上にそんなにもういないと。
これには思わず勢いが伸びましたね。
それで4月の初めに出撃して、沖縄に向けて出撃していって、
九州の外れの方でアメリカの空軍の空襲を受けて、
あいなく海底に進んでしまったんですけどね。
これも強烈な体験でしたね。
それから今度は矢尾なしにですね、
4月からは間もなく本土決戦が始まるという、当時は非常に緊迫しておりました。
そこで私が矢尾なしに入ったのが広島提進局というところです。
これは今のNTTの優先技術部門の前身ですよ。
当時の町は元町という、元町なぜだと今は町名が変更になって、
白島の方にそこへ行きました。
それから今度は本土決戦に備えての九州が一つのアメリカ軍が上陸してくる地点に想定されておりましたが、
これはね、我々だけは知らなかったんだけど、
アメリカのその方面では、後で知ったんだけど、オリンピック作戦と言われてたよね。
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これ暗号名ですよ。マンハッタン計画と同じですよ。
後から知ったわけね。
で、福岡県の山の中に旧御次第の洞窟の中に通信基地を作る。
それに引き込むためのケーブルの工事をやらされていたんですね。
そこで、当時九州は非常に空襲が多いところで、空襲に怯えながらの毎日でした。
7月末に疲れ果てて広島に帰ってきました。
それは一時的に帰ってくるのでは?それかその役目を?
いやいや、一応そこで一応の区切りがついて帰ってきた。
ちょうど庄美ですね。庄美に2ヶ月行ってました。
それで帰ってきたのが7月末ですからね。
まさか数日間が、目の前に原爆が投下される8月6日。
迫っていることなんか全く知りませんよね。
それで久しぶりの出勤が8月6日でした。
私の妹は本当にかわいい妹だったんですけどね。
それが8月6日朝、行ってきますと言って出たきり、生きては帰れなかったです。
いろんな方、僕も収材させていくと、ピカって光った瞬間に記憶がそのままなくなって気づいたみたいな感じだったんですけど、
細川さんはどういう感じ?
それはもちろん、私の記憶はまだありましたね。
ともかくですね、原爆っていうのは、今仮に原爆に襲われて、そこは1.3キロ地点です。
人間もですね、こんなテーブルもですね、何もかも、そこは荷物もゴミも、何もかも一つのゴミですよ。
人間もこの机も椅子もみんなゴミです。
これは一石二鳥に吹き上げられて、部屋の隅まで叩きつけられる全身打撲ですよ。
それで私はね、その上で全身打撲だけでも自力で歩くことができましたからね。
それからすぐ隣に立派な総合病院がありました。
そこへ誰だって、すぐ隣に付属病院ですからね。
今もありますよ、定心病院って。
そこの前の建物も残ってますよ。今ミュージアムになってます。
そこへ行って、誰だって考えることが。
そこへ行って、部屋の手当をしてもらいたい。
いったところがもう市民あふれてまして。
そこの院長先生から、ドクターもナースもみんな怪我しております。
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それから医療器具も破壊散乱して。
薬品ももちろん全く病院としての機能はなかった。
私もかつて学徒動員中に、グラマンの攻撃を受けて恐怖の空襲体験がありました。
早く密集地帯から逃れなきゃいけないというのが本能的に働いてですね。
密集地帯から少しでも遠ざかるためには、
広島ワクゾン寺のように川がたくさんありまして、
京橋川という川があるんですけど、そこまでは400、500メートルですよ。
そこへ歩いて登れることにしたんです。
すると原爆が爆発したのは、原爆ドームほぼ真上600メートルですよね。
上から下への強烈な風圧ですよね。
そのために木造住宅はペシャンクですよ。
上から下への押しつぶされた状態。
例えばマッチ箱を手のひらで潰したような状態。
中にいた人は何が何だかわからないまま閉じ込められたままですよ。
自力で這い出した人もいるかもしれないです。
しかし逃げることもできずにびっくりしたでしょうね。
当然そのそばを僕らが歩いて逃れていく人の気配は感じますよね。
助けを求める声が、力ない声が方向から上がっていたのは覚えてますけどね。
しかしね、助けるところではなかったですね。
助けようという気持ちもわからなかった。
どうなるかわからない。
どこにいるか思いもわからないしですね。
今の地震だってですね、重機を持っても何時間もかかるよね。
そんなところで素手で助かるわけがない。
そんなことまでも考えなかったです。
とにかくそんな声を後ろの方に聞きながら
やっとその河原にたどり着いたところがですね、
やっぱり建物疎開作業に従事していた中学校の1年生です。
これはね、はっきり覚えてますけどね。
総督中学校です。
総督中学校をご存知だと思うんですが、
総督中学校はね、広島の仏教系の古い中学校です。
そこの1年生がそこで被爆して、
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瀕死の少年たちが自力で逃れてきていた。
これは八丁堀で作業していた。
八丁堀って資金距離ですからね。
そこで直撃を受けて、多くはその場で即死した生徒もたくさんいる。
後で分かったんですけどね。
その生き残った少年たちが、
必死の思いでそこまで自力で逃れてきていた少年から水を求められた。
水を飲ませてくれって言うんですけど、水は与えなかったんです。
なぜかというと、
火傷のひどい人に、重傷者に水を飲ませたらすぐ死ぬから、
水は絶対に与えてはいけないと厳しく教えられていたから。
そこにも警防団のおじさんからですね、
水を飲ませてはいかんぞってよくメガホンで言っていたのをちょっと覚えていますね。
少年たちは水を欲しがりながらも、水をもらうこともできずに、
だんだんと声が上がらなくなって、
つまりそこで逃れてきていた一団は全部そこで死にました。
つまり水を飲ませても飲ませなくても全部死んだのよ。
どうせ死んであれば水を飲ませてあげればよかったと。
茨城に私の大きな棘ですね。
刺さったものですね。
本当にかわいそうですね。
そのあたりには私も、
用事があってもそこに行くルートは一切通ったこともありませんでした。
今でもその近くあまり通りたくないという。
もちろん何年も60年も通ったことはなかったので、
あえて避けていたんです。
そこの道通らんでも他の道を遠回りすればこれまでいくらでも行けるんだからね。
しかし今回の証言者の後継者を要請する時のフィールドワークで
行かざるを得なくなって、
私のチームの人たちを案内して行ったんですけどね。
その前もある中国新聞の取材がありまして、
その前はいっぺん行ったことがあるんですけどね。
驚くべきことに68年前と同じ後継ですよ。今でも。
同じ後継?
今でもですよ。
これは河原ですからですね。
河原あの辺は今いいマンションがたくさん立ち並んでおりますけど、
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当時もね、あそこは高級住宅地でした。
まあそんなところで、おそらくこんなに爆心地から近いところで、
昔の馬の風景が残っているところといえばあそこぐらいしかないんじゃないかな。
68年経っても大塚さんが驚くほどある意味変わっていなかった。
だから、この間の記事、あんたも読み取った記事ですね。
今でも、今はビルが立ち並んだですね。
年に生まれ変わっておりますからね。
当時の光景が、いつフラッシュバックするかわからないですね。
昔の光景が重なってくるわけね。
だから国名に覚えてますよ。
しかし、そこらで数時間過ごしたんですけどね。
原爆とは全く知らないですね。
教えられてもいなかったし、原爆っていうのは何かは全くわからないですね。
吉島市が燃え上がっておりますからね。
交通機関は壊滅しているし、市内に歩いて入るわけにはいかないわけね。
一番は、私は一緒に逃れて行った同僚の家に泊めてもらいまして。
これは星田っていうところでちょっと離れたですね。
小田川のちょっと上流の方ですけどね。
不動員のそばでした。
そこに泊めてもらって、あくの日帰ることにしたんですけどね。
そしてもう一遍、昨日いたところを通って驚いたのが、
助けてくれって言っていたようなところをもう一遍反対に通ったんですね。
そしたら昨日作れていた家は後方もなくみんな灰になっている。
ああ、燃えた。
それで、そこで目に飛び込んできたのが白骨遺体ですよ。
半焼け遺体です。
黒焦げの炭化した、人間の形をしたカーボンですね。
それと道路に散らばっていたのは性別もわからない、パンパンに膨れ上がった遺体ですね。
不思議なことに驚くほど静かで不気味でした。
そんな体験があって、私はそこに逃れて行ったときには原爆のことは全く知らなかったから、
そのことによってですね、
あと何十年も経って、
経つその間に何分も原因不明の病気になって、
もちろん原爆疑惑なんかはないですから、
病気になったのは全部私は原爆にせいにしたことはありませんけどもね、
本当、原因不明の病気で、私のお腹には大きな傷跡が2本あります。
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今でもちょっと過労になったりしたときには、緊急入院したことも何回もあります。
高障害には今でも怯えてますよ。
だから今、健康には一番気をつけてますね。
このような予定が入りますとですね、
それまでに病気したらいけないという気持ちがあるというか、
だから私は今、健康には一番気をつけておりますね。
まあそんな過ごしてきましたですね。
8月6日のことを中心に伺いましたけど、
実際、10日後ぐらいにちょうど戦争が終わるじゃないですか、
まさにあの天皇陛下の放送。
みんなが全国民聞いてたってイメージがあるんですけど、
小坂さんその時ってどうだったんですか?
あれ、よく聞こえなかったですね。
何言ってるのかよくわからなかったですね。
ただ、天皇陛下があるから聞きなさいみたいな感じになったんですか?
あの日は僕はね、島島に出てたんだね。
ラジオを直接聞いたわけではないけども、
後から録音なんかもやってましたからね。
しかしすぐに、日本は降伏したということはすぐに伝わりましたですね。
ちょっと信じられないような気持ちと、
もう一つは、私は学徒動員でフレンに行っておりましたからね。
これにはですね、私は信頼されて、
フレンの巧名な海軍技術大佐の方の私も、
短い間ですけども、そこの側近にいたことがあるんですね。
だからね、最高機密ということをですね、
僕も学徒ということで信用があったのかな、なんかわからんけどですね。
非常にフランクですよね。
見ようと思えば見れたわけね。
人が知らないことを知ったワクワク感とですね、
しかし絶対に言ってはいけないと。
そんなことで、私もかなり機密事項を知ってたんですよ。
しかし言わなかったですけどね。
機密事項ですかね。
そんなことで、他の人ほど敗戦ということをですね、
ものすごくありもしないことのようにとは思わなかったですね。
それまでもいろんなことは耳に入ってきた。
そうか思ったですね。
終戦の日、終戦から数日間は、
生き残りの兵士たちがですね、
一億玉砕なんて言ってました。
終戦になった後もね。
終戦になった後もね、徹底抗戦と言ってた。
海軍の兵士が叫んでいたのを、
三島の方で叫んでいたのを私は覚えてますよ。
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我が帝国を陸海軍はと言うわけ。
僕はしらけた、その発言を聞いてましたね。
それには、私も海軍にいたから、
軍艦がどんどんどんどんなくなっていくわけ。
船がなかったわけも。
だからね、船がないからね、
もう陸に上がった海軍のことかと思って、
冷めた見方をしてましたね。
まさに陸海軍だなと思って。
そうか、船がないんですもんね。
船も飛行機もなかったでしょ。
これには、私も、
神風なんて言うことは、私はあまり信じなかったですね。
苦労な分析ができてましたね。
インタビュー始まる前にお聞きしたことと重なるかもしれないんですけど、
やっぱり、この戦争体験を語ることって、
これだけ細川さんにずっと話してこられても、
楽しいものではないと思うんですよ。
でも、突き動かすものというか、
どこかで、それまでは話したくなかったことを、
変わったターニングポイントもあったでしょうし、
そしてさらにそれを実際に話しながらも、
いろいろな大変なこと、辛いこと、今もあると思うんですけど、
突き動かしてくるものっていうのは、
一人一人あると思うんですけど、
大分細川さんにとってそういうものって何なんですかね。
これは自分が、私には最大の悲しみである妹を失ったこと。
これがやっぱり自分だったんですね。
だから、それによって私も証言者として、
人前で喋ることもしてますし、
その前にボランティアとしても、
ボランティア社の方に広島のことを説明する立場にもありまして、
みんなマニュアルを一生懸命勉強してましたけどね。
僕はマニュアルなんかほとんど読んでませんからね。
そんなことは被曝している人は当然みんな分かっていることだと思うし、
自分は自分の言葉で喋ってたわけね。
そうですね、まさに。
コピーを喋ったところで、
人は聞いてくれないだろうというのも、それもあるわけですよね。
勉強したことをですね、
勉強して、学問でもないけど、
学問という言葉より知識としてですね、
勉強したことをそれに書いてあるマニュアルで書いてあることを
喋ったとしてもですね、人が本気に聞いてくれるだろうかと。
だから、喋るんじゃなしに僕は語りかけを言っているわけですね。
私のチームに私の話を聞いて、
これを伝承していきたいという方が
私のチームに入ってきておりますけれども、
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これには一番重視しているのは
スピリッツということを理解して、そういうつもりで。
だから私のチームにいる人はですね、素晴らしい人がいますよ。
素晴らしい人がいましてですね。
だから私もその教材ではないですけれども、
まず一番先に行ったのが、私が被爆した位置にみんなを連れしました。
今の中国郵政局ができているあの広大な敷地の中です。
そこには私が血まみれの手で伝えながら降りた石造りの立派な階段が、
階段の一部がモニュメントとしてそこに屋外にあるんですよ。
そこで僕が言ったことをみんな録画録音されておりますが、
後で改めてみたら僕はこんなことを言っていたんだなと思うんですね。
この階段を下って降りたんだと。
この手すりにはたくさんの血の跡がついていたんですよね。
血だらけの手で。
しかしその跡もしばらくついていたけど、もう今はない。
その建物も立派な建物だからですね。戦後もだいぶ長いこと使いましたよ。
大修理して。そのくらい立派な建物だった。
私のチームに入った人にはスピリットを重視するから、
まずそこにお連れして、そこで立地でその階段のところで私が説明したり、
私が今さっき言った木橋川の河原まで逃れて行った、
そこを話しながら歩いてたどって、数分ですからね。
そこに行ったところが、私が68年前に逃れて行った風景そのままだったわけ。
こんなことも僕は喋っているわけね。
さらに私のチームの方にはそれを重視するので、
もちろんビデオを見せたりですね、話にも出しているんですけど、
私は父と暮らせば祈りさせた映画と舞台のビデオを見せました。
私もイニアスを録画しているのがテープですけどね。
あったのよ。スマゲイトですね。梅澤雅一さんだったかな。
これはもうないですけどね。このテープも僕持っているわけでね。
これは名演ですよ。
これはつまり、父と暮らせば祈るのは格好のスピリッツを理解してもらうためには、
実に立派な教材になる。
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それで、トラウマももちろんあります。
この主人公が三瀬という女性ですよね。
広島弁で言うお父さんですね。
お父さんは亡くなって幽霊として出てきているわけね。
この三瀬の劇中で行った学校が、私の妹が行った学校なんよ。
少年先輩ですよ。
父と暮らせばが、三瀬が23歳くらいの時の想定してできたもので。
それとさらに、これはお芝居ですよね。立派なお芝居ですよ。
これには江戸西幸さんと山川静雄さんが解説している絵がたいVTRですね。
さらにもう一つ見せたのが父と暮らせばの映画ですよ。
黒田さんの映画で原大夫さんと宮沢理恵さんの。
しかし宮沢理恵さんは父と暮らせばに出演が決まって、
一人で原爆資料館に来て、一般のお客さんに混じって、
お化粧系を一日かけて見て回っている。
自分の身につけるために、真摯で広島を実感するために。
まさにスピリッツですよね。
スピリッツですね。だから僕は見せたわけ。
宮沢理恵さんの話もして。
僕は宮沢理恵さんに関することは何も知らなかったけど、
たまたまその時、今宮沢理恵さんが来ているのよというのをチラッと聞いて、
宮沢理恵さんを傷つく人はほとんどいなかったです。
そのくらい目立たなく。
目立たなくですね。
粒さんに、大抵のお客さんが原爆資料館の展示物を見るのは、
眺めて通り過ぎるだけ。
耳が痛いですけど、たぶん僕もかつてそうだったでしょう。
眺めて通り過ぎるだけ。
でもね、呼んでくれって僕は言うわけよ。
呼んでくれたら声が聞こえてくるっていう。
そしたら仲間の中の、ボランティア仲間の一人はですね、
キャプション書いてあるのを、キャプションじゃないんだって言うわけよね。
いろんなものが見えてくる。
遺品なんかにしても。
17芸の乗組員が使ってた双眼鏡も陳列してありますけど、
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これも眺めて通り過ぎてるだけ。
大枠のことがわかるわけ。
双眼鏡は顔のケースも一緒に入ってるわけ。
あれを見たら、あの頃はマジックがなかったけども、
黒い文字でですね、持ち主が書いてあるわけ。
1945年8月6日、広島。
持ち主がCAPT、キャプテン、ロバート・A・ルイスと書いてある。
ロバート・A・ルイスとは一体何者であったのか。
そこまで疑問を持ってから見てくれたらすぐわかるわけ。
これ副操縦士だよ。
副操縦士と言っても言えば、ケシの一番右側におるのが副操縦士。
今のルカキでも同じですよ。
これで広島の山上を覗いてみたって見えるわけがないんだけどね。
こんなのが見えてくるわけね。
広島の原爆を投下したのは、
ああいう場所を標的にしたいのはご存知ですよね。
実に腕前が良かったわけ。
腕前が良くて、これはね、
この爆撃士はフィルビーという爆撃士。
フィルビーは腕前が良いからピンポイントで命中してるわけ。
あよい橋を狙って300m離れたところで炸裂してますけどね。
原爆の場合は300mなんかピンポイントですよ。
長崎は1.3kmも離れたところで原爆が爆発しているけども、
これも長崎は一発で壊滅したんだから。
だからもうここはピンポイントですよね。
そういうことで、それも一つのスピリッツの話を理解してもらうために、
その話だって例に出して言うこともありますね、相手によっては。
だから私は今やっているのが、私の仕掛かって生きているのが、
被爆体験の証言者を接するプロジェクトを、
なんとか私の残された時間の中で、
なんとか残せることができたら、それが一番の願いですね。
それもさっきおっしゃってたように、コピーとか記録としてじゃなくて、
スピリッツ記録を持ってってことですよね。
震災が一昨年ですか、あって、
僕も恥ずかしながら、日本国民の若い人も含めて多くでしょうけど、
あれほど原発があんなにあったってことも全く正直知らなくて、
ほとんどの県にあるじゃないですか。
そういうこともあって、あの時は、これもいろんな意見あるでしょうけど、
原発はもうゼロが当たり前だみたいな感じなんですけど、
今はまたいろんな政府とかいろんな思惑で変わってきてるじゃないですか。
でもその原発も含めてですけど、
世界でも今日本以外でも戦争なくなってない国はたくさんあるわけで、
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改めて今68年ちょうど経って、
広島市はずっと一貫して、原発もそうですし、
戦争も後期的にゼロってことは言ってますけど、
今68年見てて、
この今の日本の、世界の流れもありますけど、
今日本はどう見てますかね。
僕もね、そんなね、
天下国家を論じるような男ではないですね。
これはね、
どうもない話であってですね、
これはみんなね、
権力者なりその場その場の学者も殴るですよ。
それであの方向に行ってしまってですね、
誰が責任を取るか、
責任を取ったところでどうにもならん。
つまり、結論から言えば、
自分で制御する力がないの?
できすぎたものを作ったからこうなるわけ。
だからね、
自分で制御できないものは持つべきではないと思うね。
原発も含めてですね。
もちろんもちろん。それは人間もそうですよ。
人間も、
夫婦だってそうよ。
だから私は、メルケルさんの哲学を、
私は、
尊敬に似た気持ちはありますね。
最後に言うんですけど、
コスクワさんが、
これ聞いてる方、戦争知らない方がほとんど多くでしょう。
と思うんですけど、
伝えたいというか、
残したいメッセージで、
今この1時間聞いてきた中に全て込められてるんですけど、
改めてお話いただきたいのかなという風に思うんですけども、
人々はね、
僕は悪い人はいないと思うんだけど、
アメリカには行きたくなかったです。
行きたくなかった。
なぜかというと、
やはり大きな自分の心の中に思うのが大事であって、
私もアメリカに行ったのが、
2008年だったんですよ。
2008年、
本当に最近まで行かなかった。
その前に私は、
被爆体験証言者に何遍もお誘いがありました。
証言者の中では私が一番新しい方ですよ。
それでアメリカに行った時に、
実際にアメリカに行く、
あの時ユネット高校で行ったんだけども、
アメリカに行った時に、
実際にアメリカに行く、
ユネット高校で行ったんだけども、
まるで飛行機に乗るのが重い気持ちで乗りましたよ。
まるでアメリカの兵士が、
イラクへ送られる兵士はこんな気持ちだったんだろうなと思って。
イラクへ送られる兵士はこんな気持ちだったんだろうなと思って。
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しかしアメリカに着きましたらですね、
しかしアメリカに着きましたらですね、
私が行った先は非常に良い所、
良い所通りした所に行ったわけで、
しかしカルフォルニア州ですけども、
非常にアメリカ市民の本質へ触れたような気持ちがしまして、
非常にアメリカ市民の本質へ触れたような気持ちがしまして、
悪い人いなかったですね。
誰と話しても非常にフレンドリーで、
誰と話しても非常にフレンドリーで、
打ち解けた話ができたし。
最後に私はサンフランシスコからモントリーに移っていく車の中で、
最後に私はサンフランシスコからモントリーに移っていく車の中で、
最後に私はサンフランシスコからモントリーに移っていく車の中で、
ふと、あの時はリンカーンの大きな車だったんです。
ふと、あの時はリンカーンの大きな車だったんです。
右側の窓にはアメリカ大陸に沈んでいくサンセットもいましたよ。
右側の窓にはアメリカ大陸に沈んでいくサンセットもいましたよ。
右側の窓にはアメリカ大陸に沈んでいくサンセットもいましたよ。
真っ赤な太陽が、大きな太陽が、ゆうゆうと沈んでいきましたね。
真っ赤な太陽が、大きな太陽が、ゆうゆうと沈んでいきましたね。
これがアメリカ大陸の太陽かと思って、
これがアメリカ大陸の太陽かと思って、
これもドボロ沢区も同じような景色を見たのかなと思いながら、
これもドボロ沢区も同じような景色を見たのかなと思いながら、
そしてその気持ちで見ていて、
そしてその気持ちで見ていて、
ふと今度は左に目を移すと、
左には天気が良かったですかね、
左には天気が良かったですかね、
同じような大きな真っ白い月が出てるわけよ。
右を見ればサンセット、こっちは月の出や。
右を見ればサンセット、こっちは月の出や。
あの、アメリカの広大なアメリカ大陸を
あの、アメリカの広大なアメリカ大陸を
本当、わからずも見ました。
本当、わからずも見ました。
だからアメリカの人たちは、この広大なところに住んでいるアメリカの人たちは、一人ひとりはみんな明るくてフレンドリーで、広い心を持った、友好的な、平和を愛する国民だということがよくわかりまして、私はもう、それから私のアメリカ感は少し変わりましたですね。
だからつまり、一人ひとりがみんないいわけよ。一人ひとりがみんないいんだけれども、組織となり、国家となればとんでもないことにいく。
そのためにはやはり、さっきも言ったかもしれないけれども、権力者はきちんと自分のスピリットで選ぶ必要がある。権力者になると、とんでもない方向にいって。
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あの時の大統領なんかは、広島に原爆を投下した時の大統領なんかは、あの人は日本人を皆殺しにしてもなんともなかっただろうね。
アメリカを例にと言うか、日本人で日本の国をどうやっていくかも自分たち次第ということですよね。
だからね、特に若い人たちに、もうちょっとね、選挙に行くときはね、自分のこととして考えて投票せよ。
行かない人は思っているのかですけど、行くって言っても、ある意味それも、さっきの物事のように言っちゃってますよ。
思いをちゃんと持っている。僕は自分の反省を込めてですけど。
その無関心が、いざ気づいたら、国がもう変わっちゃってたら取り返すかなと。
広島のことを知るには、広島を自分のこととして受け止めていないからね。
あれがね、広島のことがよく分かったとき、つまり自分の頭の上に外れ加減でもいいから、原爆が落とされたらよく分かるわけ。
分かったときには本人いないのよ。
だから、私がどこに行って話をするにしても、どうぞ自分のこととして受け止めてほしい。
これも、こないだの、私の記事、終わりになったかもしれないけど、この終わりの方に、私もちょっと発言したのを、短くちょっと書いてくれていましたですね。
戦争は、私は国家的なテロだと思うんですね。
国家的なテロで、それで、戦争になれば、みんなが狂気、クレイジーにならない。
クレイジーになるからこそ、何の恨みもない、自分には無関係な人を平気で、とにかく動いてもらう手とかですね。
そんな妙な哲学が生まれてくるわけ。
だから、その戦争の究極が、僕は原爆だろうと思うんですね。
原爆は、広島と中関に落とされたけども、これは広島と中関ではないわけ。
これはもうちょっと考えてくれ。
これはね、不存にも、人類に落としたんだろうと思って。
42:02
とにかく、自分のこととして受け止めてほしいという、分かりやすい言葉で僕は言うようにしたな。
今後、今日も貴重なお時間を頂いてますけど、大塚さんとしても、多分変わらないかなと思うんですけども、
やり続けていくこと、やり続けなきゃいけないことって、今ご自身の中でどういうことかありますかね。
当面は、私にはもう時間がないな、物理的に。
これが最後になるかもわからないですね。
これはわからんですね。
もっと時間が欲しいということもありますし、
なんとか、私の完全な後継者はできればいいんだけども、
それは人々それぞれの哲学もあろうしですね。
私は自分の実体験と、妹が亡くなったという、焼き殺されたという、
それからなんとなく自分の小哲学が出来上がっていって、
原爆資料館でこういうボランティアをやったり、
その伝承者を養成するプロジェクトに加わったりしている間に、
いろんな自分でも不足的に勉強もしなきゃいけないし、
それから得られた、学問じゃ大げさなものでないが、
それから得られた考えとか知識とか、そういうものを蓄積して、
一つの小哲学が出来上がっているのかもわからないけど、
当面は私は後継者を育ててほしいという覚悟ですね。
それをなんとか、私は全うしたいと、当面の目標ですね。
ありがとうございます。