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滲み出る正体|POTCAST EXPOと心の法廷 Ep.118
2026-05-13 42:01

滲み出る正体|POTCAST EXPOと心の法廷 Ep.118

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PODCAST EXPOに参加し、公開生放送にも出演した今回。けれど振り返ってみると、強く残っていたのは「何をうまく語れたか」よりも、私が私以外の誰かになろうとせず、その場を楽しめていたことでした。



番組を説明しきらなくても、言葉の選び方や笑うところ、誰かとの関わり方には、その人の輪郭が滲み出る。そして帰宅後、体験をすぐに“意味ある考察”へ加工しようとして、また「ちゃんとしなきゃ」に捕まっていた自分にも気づきます。喜びにまで反省会を開く、この几帳面すぎる心の習性よ。



今回は、PODCAST EXPOでの出来事を通して、「説明しなくても伝わるもの」「体験をすぐ作品にしなくてもいいこと」「自分を評価の場へ差し出しすぎないこと」について話しました。



本日の心の法廷、開廷です。



【パーソナリティ】

ソフィ(MC・ラジオDJ・ナレーター)

協力:RKB毎日放送株式会社 Podcast Lab. Fukuoka

Jingle制作:SOPHIE

BGM:AUDIO NETWORK LICENCE 819885



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サマリー

今回のエピソードでは、PODCAST EXPOへの参加体験を通して、「説明しなくても伝わるもの」や「体験をすぐに作品にしなくても良いこと」、「自分を過度に評価の場へ差し出さないこと」について語られています。パーソナリティは、EXPOでの公開生放送出演を振り返り、完璧に番組を説明しようとするのではなく、その場で自分らしく楽しめたことに最も大きな収穫があったと語ります。説明が不十分でも、言葉遣いや振る舞いからその人の輪郭が滲み出ることを実感し、体験をすぐに「意味ある考察」に加工しようとする自身の「ちゃんとしなきゃ」という心の習性にも気づかされます。また、人気や数字だけでは測れないポッドキャストの価値や、自分を評価の対象から外し、ありのままの自分でいることの大切さを、自身の経験を通して深く掘り下げています。最終的に、体験をすぐに言語化・コンテンツ化せず、心の中で味わうこと、そして自分を過度に評価せず、ありのままの自分でいることが、自分に優しくすることに繋がると結論づけています。

PODCAST EXPOへの参加と「ちゃんとしなきゃ」という心の習性
自分に優しくするラジオ。この番組は、DoでもHaveでもCanでもない、Beの私たちを祝福しようコンセプトに、しなやかな筋肉のような心を目指す番組です。
皆さんこんばんは、そしてお目覚めの方はおはようございます。
今回のテーマは、滲み出る正体。5月9日と10日にわたって開催されたPOTCAST EXPOに参加して、自分が考えたことをお話しします。
イベントレポート会かなとか、どんな番組に出会ったとか、会場の様子を話すかなとか、例かもしれないんですけど、もちろんPOTCAST EXPOはとっても楽しかったんですよね。
会場には音声を愛する人たちの熱気があって、配信者の方、リスナーの方、制作に関わる方、いろいろな人が集まっていました。本当にたくさんの一流企業のスポンサーや応援があって、成り立っていたんだなというふうに実感してます。
なんか、あの空間には声で何かを届けたい人と、声から何かを受け取りたい人が同じ温度で、しかもすごい熱量で集まっているような感じがありました。
一方で、なんか配信者がリスナーって考えたりしました。なんかね、あんなに広いイベント会場なのに、なんか目には見えない電波の湯気、湯気が立ち上っているような場所で、なんかやっぱ人間好きなものの前ではちょっと発光して見えますよね。
まあでも今日は楽しかったですとか、刺激を受けましたという感想会にはしたくなくて、まあでもかといって日本のポッドキャスト市場とか、ラジオとの違いとか、YouTubeとの住み分けとかね、
ポッドキャストはインフラになり得るのかとか、なんか業界分析会にしようとしちゃってしません。一度ね、そういう会にしようと思って考えてたんですよ。
でね、今回はエキスポーティービーバイリースンっていうことで、生放送にも参加させていただきました。
なんかポッドキャストって、人がコンテンツに惹かれるっていうか、集まる媒体だと思ってて、番組紹介を、自分の番組紹介をしようとすると、なんか道徳みたいになっちゃうなと思って、
ちょっとそれは考えたり考えてなかったりなんですけど、めちゃくちゃ散らかって、でもすごい楽しくて、MCのお二人には大変お世話になりました。本当に楽しい空間だったなと思ってます。
やっぱなんか、これからね、日本のポッドキャスターどうなるのかとか、インフラのような存在になり得るのか、
そうね、さっきの人は内容に惹かれるのか、それとも話し手に、話し手の人柄にね、惹かれるのか、そんなことをちゃんと語る会にしようと思って考えたんですけど、
まあ原稿がまとまらない。なんか考えれば考えるほど、私は何を話したいんだろう、何を伝えたいんだろう、何を考えているんだろうっていうのが、全然わからなくなってしまって、
私誰?みたいな。どの立場で言ってんの?みたいな。
なんでだろうと思ったら、気づきました。私の中にまたあれが出てきました。
ちゃんと語らなきゃとかね、単なる感想で終わらせてはいけないとか、考察として成立させようとか、聞く価値のある会にしなきゃとかね。
はい始まりました。本日の心の法廷、改定です。金槌を打ちたい。
あ、木槌か。木槌をね、打ちたいです。被告人は多分私の中の、ちゃんとしなきゃってやつです。
で、いつも立ち返るんだけど、そもそも私は誰かに聞かれるつもりで始めたわけじゃなかったんだよなっていうところ。
私がポッドキャストを始めたのは、最初から多くの人に届けたいとか目立ちたいとか思っていたからではなくて、
むしろ誰かに聞かれることをほとんど現実のものとして想像していなかったんですよね。
以前ね、長く聞いてくださっている方から、初期の頃は少し怯えているように聞こえたって言われたことがあったんですけど、
あの時そうだったなーって、クロセットに閉じこもって囁くようなね、弱々しい声だったなーとか思い出しました。
なんかでも何かを言うたびに間違ってないかな、変に思われないかな、これで合ってるのかなっていう風に、
自分の発した言葉を一語ずつ金属探知機に通すみたいに点検しながら話してたりする時もあったんですよね。
めちゃくちゃ編集して、でも今はもうノー編集でそのまま垂れ流してるんですけど、
なんか自分のために始めたはずなのに、声に出した瞬間いつのまにか私は評価される場所に勝手に立ってたんですよ。
なんか評価を手放す、恐れを手放すとか言っときながら。
だから何度も何度も立ち返っていく、本当に何か心に気に取れって呼んでるんですけど、
トレーニングし続ける、なんかそのできないとかじゃなくてしようとするっていう試みが私としては大切だなと思ってるんですよ。
「自分らしさ」が滲み出る体験と評価を手放すこと
自分に優しくするラジオっていう名前を掲げながら、最初の頃とか今でもやっぱり自分に対する批判、きつい評価を下していたりね。
なんか看板と店内の雰囲気がまだ一致してなかったりね。
あの、開店初日のカフェみたいな。
なんか看板はオシャレだけど、店主は厨房で震えてるみたいな。
ちょっとわかりやすい、わかりにくいかな。
でもなんかだんだんね、5、6年続けていくうちに素敵なもので少しずつ声がほどけていったんですよね。
それは今回会場にね、本当に遠方から戦艦船を乗り継いで、
暑い中ね、たくさんのお土産、そしてサプライズ。
3Dプリンターでね、私の声が聞けるところに飛べるやつ。
すごい素敵なデザインのキーホルダーをね、3Dプリンターで作ってくださったり、
お土産持ってきてくださったり、
いつも交流してくれるヘビーリスナーさん、大切なリスナーさん。
なんか推定視聴者数1名じゃないかなっていうぐらい。
もうなんか目の前に現れた時は、え?って思って。
なんか想像してたけど、
想像と違った。
私あんまりそのリスナーさんと会わないんですよ。
でもなんかこう会いに来てくれたっていうことがすごい嬉しくて、
私が紹介したね、インターメディア。
東京大学の資料がワンダーランドみたいに所蔵というか博物館みたいになってるところとか、
紹介したところをね、たどっていってくれたりとかね、
なんか本当にありがたいなって思ってる方と実際お話しして、
ハグもしてね、すごい嬉しかったんですよね。
なんかやっぱり何を言えば正解かではなくて、
今自分は何を考えているのかを話せるようにちょっとはなったかなとか思ってます。
結論を出すっていうことじゃなくて、問いを問いのままね、そこに置いておけるようになって、
やっぱ私哲学が好きなんですけど、問いから始まるじゃないですか。
ていうかそうなんですよ。
なんかやっぱ上手くまとめるより、今ここで考えていることをね、
信じられる瞬間がほんの少しずつね、増えていったかなと思います。
やっぱり今回いろんな配信者さんと交流して、
すごいね、ランキングに入ったりね、数字を持ってたり、
リスナーさんがね、たくさんいたりとか、そういう人たちと会って、
なんかなんだろうな、すごいなーって思ったんですけど、
自分もね、ポッドキャストの前のプラットフォームスタンドFMでは、
割とランキングに入ったり、反応をいただいたり、
結構なんだろうな、びっくりしたことが続いていたんですけど、
でも同時にね、私はどこかですごい冷めていて、人気には実態がないなっていう風にも考えてたんですよね。
数字が増えても、それが何を意味しているのかよくわからない時があったりして、
実はたくさん再生されることと深く届くことは同じじゃないかもしれない時がある。
反応が多いことと、自分が本当に語りたいことが伝わっていることも同じじゃないかもしれないし、
人気が悪いわけではないんですけど、届くための工夫も必要なのかもしれないんですけど、
でも私は多分数字そのものよりも、声と言葉を通してね、
何が誰かの中に残るのか、や自分の中に何を残したいのか、
それを言語化することで輪郭がはっきり見えてきて、それを知りたかったんじゃないかなと思います。
でもずっと問い続けていくのかなって思いますね。
この番組、自分に優しくするという言葉を耳障りの良いフレーズで終わらせずに、
どこまで自分の生活の言葉として持てるのか、
哲学っていうのは実際実用的なんだよっていうことも自分自身経験として持っているので、
それが誰かと比べて浅いとか深いとか、そういうのって全然関係ないと思うんですよね。
今回、哲学の番組をやっていらっしゃる方ともお話しさせていただいたんですけど、
別に競争でもないし、こうやって続けてきた番組が幸いなことにありがたいことに、
ポッドキャストエキスポという場に出ることになって、なんか嬉しかったですね。
たくさんある番組の中としてね、一つとしてね。
自分に優しくするラジオがそこに並んで、自分の中では大きな出来事でしたね。
で、実際なんか番組紹介の生放送で全く番組のことを語らず、
なんか一番、なんて言われたっけ、一番反応が良かったとか、
なんか一番これうまくできたみたいなこと言われたけど、全く何の評価もしてないから私。
なんかそれ聞かれてもなんかポカンとしちゃうっていうか、そんなのあるっけみたいな。
ほとんど聞いてないと思うから。
なんかせっかく機会があるんだったらね、ちゃんと整えて挑めば良かったかなとか、
会場で会った人がフォローしてくれたりとか、この人何者なんだろうっていうね、
なんか霧の中に置き去りにはしたくなくて。
でも同時にどうでもいいよって思うこともあって。
実際ね、ポッドキャストエキスポTVというね、公開生放送に出させていただいたんですけど、
複数のポッドキャスターが出演してリレー形式で、それぞれの番組を紹介するようなお時間なんですね。
当然私にも番組について話す機会をいただいたんですけど、自分に優しくするとは何かとかね、
何を扱っている番組なのか、どんな思いで続けているのかとか、
それは聞かれたかな、バイブスですみたいな、ムラのある配信だなとかっていうのを思い出しながら。
でも話そうと思えば話せると思うんですよ。
この番組は自分の評価を、自分を評価の対象にしないこと、
べきや完璧やしなきゃに追い立てられる構造とかね、尊厳、境界線、
暴力をね、暴力として見抜くこととか、道徳化しないこととかね、
そういうことを私は言いたくて、自分に言い聞かせたくて、一貫して扱ってきたつもりなんですね。
美術に関しても、哲学に関しても触れてるんですけど、
それは同時に自分の帰ってくる場所、今ここに戻れる場所っていうことで、
私なりに発信してたんですけど、それを説明しようとした時、
急に道徳の授業になりそうだなと思って。
番組のテーマそのものが悪いとかじゃなくって、むしろ私は、
問いが、私をここまで生き延びさせてくれたっていうところがあるので、
それでいいと思うんですけど、でも公開生放送というその場の空気をみんなで共有する場所で、
なんか急にね、急になんか重く話し始めたら、なんか場の重力変わるような気がしてて、
その時はでもそんなこと考えてなかったら、今振り返るとそうなんじゃないかっていうね、
なんか正しいことを教える番組ではないと思ってて、
なんか私が正しいでもないし、教祖でもないし、
なんかそのリスナーさんを導く番組でもないんですよ。
答えをね、小空きにして配る番組でもなくって、
説明しなくても伝わる「滲み出る正体」
なんかむしろ答えを急がず自分の中で起きていることを見つめて、
言葉、語彙力を選んで、自分を裁く仕組みからね、少し離れるための番組としてあるから、
なんかそれを限られた時間の中でね、要約して出そうとすると、
なんかかえって違うものになる気がしたんですよね。
なんかこう、愛について語るみたいな、別にそれは悪いことではないんだけど、
やっぱなんか試み、何ていうの、実践だと思っているから、
なんかやっぱ説教臭くなっちゃうなと思って、
で結局なんか全然その場の雰囲気で喋ったんだけど、
番組についてほとんど具体的には話してなくて、全然わからなかったとか言ってるんですけど、
なんかスタッフさんにはめちゃくちゃ受けが良くて、面白かったって言ってくれたんですけど、
なんかね、説明しきろうとは全然思ってなかったんですよ。
でもその代わり、目の前のMCの人とかね、スタッフさんとかね、
あの流れ、その場の流れ、バイブス、なんか会話そのもの、
今その瞬間っていうものを楽しんでたなと思って、
もうめちゃくちゃ自由で、なんか快感を感じてたし、
なんでかなと思ったら、私は私以外の誰ものにもなろうとしてなかったんですよね。
ほんと不思議なくらい自由でした。
ちゃんとしなきゃって、よく自分が陥るんですけど、
まあ起きなきゃから始まってたんですけど、今はもう本当10時間寝る女で、
なんか立派なこと言わなきゃとも思わなかったし、
ただ目の前の隣の2人と笑ってね、引っかかれば反応してね、
その場に生まれたものを返していった。
その会話、そのやりとり、それがすごく楽しかったんですよね。
本当なんか、私以外の誰かになろうとしていなかったんだなって、
だからそうだったんだなって、
なんかね、今も話してて、ほんとずっとこの数日間、
何だろう、振り返ったりしてたけど、これが一番大きかったんですよね。
自分の収穫になっていて、自分で思った以上に大きなことだったんですよね。
番組主催者、主催者、主催者としての私とか、
イベント出展をする私とか、ちゃんと価値を伝える私とか、
知的に見える私とか、そういう役割の中に自分を押し込めなかった。
なんかその場にふさわしい何者かをわざわざ製造せずに、
ただ私としてそこに入れた。
そうすると、後からね、具体的な番組内容はあまり話していなかったけど、
ソフィーさんの魅力が伝わったと思うんですよとか、
言ってくれてちょっとお世辞かもしれないけど、
でも心からの言葉だったと思う。
面白かったって言ってくださる方も何人もいらっしゃって、
本当に嬉しいなと思ったし、
何より自分が楽しかったし、驚きもありましたよね。
コンテンツ、番組を説明してなかったのに、
何かが伝わってて面白かったんでしょうね。
で、今日はそのテーマ、ちょっと前振りが長いんだけど、
じゃあ伝わっていたものは一体何だったのか。
で、そこで出てくるのがタイトル回収。
にじめ出る正体。
私リーケージっていう言葉を使ってるんですけど、
意識せずと漏れ出てしまうもの。
意識して見せようとしてるわけではないんですけども、
言葉の選び方、沈黙の置き方、反応の速さ、笑うポイント、
相手との距離感。
その人の何か、何だろう、人間性とかが漏れ出るんですよね。
人はいくら自分を説明しても、説明してる内容だけでは伝わらなくて、むしろ
何か説明と説明とかね、その隙間、その人がどういう人なのかっていうのが、
少しずつにじみ出てしまうものだと思うんですよね。
だから私がエキスポTVで起きていたのは多分それだったんじゃないかなと思います。
きちんとプレゼンテーションしなかったっていうかできなかったんだけど、
でも自分がどういうふうに人と関わるのか、どんなところでおかせがあるのか、
どんなリアクションをするのかとかね、その場の空気に対してどう応答するかとか、
めちゃくちゃ自由で自分を演出せずにいられた。
そういうのって隠すまでもなく出てしまうものなんですよね。
むしろそれは番組の説明よりも、ある意味番組のことというか、
配信者のことをよく表してしまうのかもしれません。
私の場合、自分に優しくするとは何か、それをね、壇上で説明するより、
私以外の誰かになろうとせず、目の前の人とその時間を楽しんでいた私の方が、
ずっとなんか自分に優しくっていうね、番組らしかったのかなーなんて思っています。
自分を評価の場に立たせない。その瞬間、今ここの関係に応答する。
期待される私を作ろうとしない。もう誰よりも期待しちゃってる私ごときがなのに、
そのままね、機能してしまう自分をね、余計に邪魔しないっていう。
それはまさに私がこの番組で扱ってきたことでもあるんですよね。
体験をすぐに意味へ変換しないことの重要性
だから、なんかしつこいけど、後から振り返って、あの日の私は、
番組について語らなかったのではなくて、番組の態度を実践していたのかもしれないなって、
すごい綺麗に言い過ぎてるかもしれないけど。
ところがですよ。ところが帰宅後、私はまた、ちゃんとした私を呼び戻すんですよ。
ここまでならね、かなり綺麗にまとまってるんですけど、なんかめでたしめでたし、じゃなくて、
なんかね、そんな一直線には進めなくて、進んだと思ったら自分で自分の足元に、
なんか何もないのにつまずいてるっていうね、よくあるんですけど。
なんか帰宅してからね、この数日間、この体験をポッドキャストでどう話すか考え始めたんですよ。
せっかくね、もう日本最大のポッドキャストエキスポにね、参加したんだから、
ただの感想ではもったいないな、なんか考察したほうがいいかな、
日本のポッドキャストについて語ったほうがいいかな、でかいんだけど。
ラジオとの違いとかね、YouTubeとの関係、ポッドキャストは、
よく言われるけど、宗教的な機能を持つのか、一部になっているというか、持ってしまうものだと思うんだけど、
あとはP7っていうね、対談、文化人とか、その道を極めてる人っていうプロフェッショナルな人たちの対談があったんですけど、
私は宇野恒裕さんが好きで、そこで話されていたのが、共同体としてどう育つのかとか、
なんかもう自分的には大技さんがどう、なんで強いのかとかね、
もうどんどんどんどんなんか、もう考えって考えて、考えすぎちゃって、
考えること自体は私にとって喜びなんですけど、考えるのが好きだからね、構造を見つけるのも好きだし、
何が起きているかを言葉にしていくことも好きなんですよ。
でも今回はどこかで少し違っていて、純粋に考えたいっていうよりも、
このね、断腸なおしゃべりを、もう離脱している人もいるかもしれないけど、
ちゃんとした回にしなきゃ、のために考えてたんだと思うんですよ。
もうね、そうなると途端に息苦しくなって、何を言っても、どこの角度から話しても、
もっと正確に、もっと網羅的に、もっと意味のある形に、と思ってしまうんですよね。
そしてなんか今回収録する前に疲れてしまって、時間がどんどん過ぎてしまって、
またみたいな、これ私が何度も経験してきたことじゃんみたいな、
もう完璧主義が出てきちゃって、完璧なんてありえないのに、
中途半端にしたくないとかね、なんか本当、ちゃんとしなきゃですよ。
なんかそうやってね、始める前に過剰な責任を勝手に背負い、身動きが取れなくなるっていうね。
完璧主義っていう言葉で片付けるには、もう少し複雑な気がするんですけど、
自分の思考を自分で粗末に扱いたくないっていうのもあるけど、
なんかそれが誠実さでもあるかもしれないけど、誠実さって時々自分を追い詰める形で現れたりして、
なんか自己点検しちゃうんですよね。
自分の言葉を大切にしたいあまり、逆に言葉が出せなくなったりしちゃうんですね。
本末転倒。
で、ちょっとやっぱ立ち止まって、
そもそも私はポッドキャストエキスポで感じたことを本当に全部収録で言いたいのかなとか、
いろいろありましたよ。会場の日記とかね、
偶然の出会い、話してくださった方の表情、あの瞬間楽しかったなとか、
なんか自分が思ったより自由に話せたこととか、
なんか終わった後に残った静かな喜びというか、達成感というか、
今回初参加だったんでね。
なんかそういうことってわざわざすぐ言語化しなくても心の中でじんわりと味わうほうが、
いや一番合ってるなぁなんて思ったりしたんですよね。
体験したことを全てコンテンツに変えなくてもいいんじゃないかなとか。
イベントに出たらレポートを出す。
なんかあったら学びに変換する。
嬉しかったらSNSに投稿する。
違和感があれば批評にするっていうね。
なんかいつの間にか体験を即座に加工することに、
なんか慣れてしまったのかもしれなくて、
なんか収穫したばかりのね、
フルーツをその場ですぐジャムにしようとするみたいに、
いやまず、なんていうのかな、
そのまま食べてみてもいいんじゃないかなっていうか、
いや保存食にしようとするあまり、
なんかめちゃくちゃ加工しちゃって、
あの、干からびたり。
干からびるとなんか甘くなるやつもあるんですけど、
何かを味わうってことは何かに使うこととは必ずしも限らない。
だから別にここで言わなくても、
その時だけのものとして自分の中に残すこともありだと思うんですよね。
でもなんか、私はね、
そのポッドキャスティ・エキスポで起きたことを、
無理やり大きな意味へ変換しようとしてたんですよ。
でもあの日感じた快感っていうものは、
私以外の、自分以外の誰かになろうとしなかったっていうね、
すごいなんか身体的で個人的な気づきだったんですよね。
なんかそう、それだったら無理やりなんか業界論にしなくてもいいし、
社会全体の話に広げなくてもいいし、
まずはあの場で自分に何が起きたのかをそのまま見つめる方がね、
この番組には合ってるなって、自分には合ってるなって思いました。
批評がね、嫌いってわけじゃないんですけど、
自分を評価の場へ差し出さないことと自己尊重
むしろなんかどういう構造かな、
何が成立して何が見落とされているのかなっていうことを考えるのが好きなんですよね。
でも今回それをこの番組でやってしまうことが本当に必要なのかは別問題じゃないかなって辿り着いたんですよ。
他の番組がどうだとか場の設計がどうだとか、
語ろうと思えば語れることはあると思うんですよね。
でもなんかそれをね、今このタイミングで語ることが何になるんだろうっていうか、
なんか他人を評価することでもないなって。
でも同時に自分の中に立ち上がった評価する側に立とうとする私を観察することでもあって、
あの日私は評価される自分を手放してただその場にいたんですよね。
なのに帰宅後私は今度は評価する側に立っていたんですよね。
なんかまた整えようとしてた。
それはなんかこう悪いことではなくて批評も施行も必要なんですけど、
今の私に必要だったのはそこを急がないことだったんですよね。
無理やりすぐ感想回を出さなきゃとかね。
そういうなんか批評する前に味わうとか、結論する前に滞在する。
そのなんか味わうかな。
言葉にする前にまだ言葉になってないものがあったんですよ。
それをそのまま置いていくとか、
これもね自分のなんか自分を尊重すること、
すなわち自分に優しくすることだと思うんですよね。
よく人に厳しく自分に優しくとか言われるんですけど、
私は本当にそれぞれの人が自分を大切にして、
ちょっと大切って言うと抽象的ですけど、
自分を尊厳ある存在として扱って、
自分を批評するのを過度に批判する声をやめて、
なんか接することは世界平和につながると思ってるんですよ。
でかいけどでも本当にそう思ってるんですよ。
なんかその自分に優しくするっていうのは弱さの免罪負でもないし、
なんか自己正当化でもないんですけど、
甘やかしたりすることってね思われがちなんだけど、
そうじゃないんですよね。
なんかもっとなんていうのかな、
不必要に評価の対象へ自分を差し出さないっていうことですよね。
今回で言えばイベントに出演した自分をすぐさま、
どれだけうまく番組を紹介できたか、
どれほど知的に振る舞えたか、
人間ってバカに見られたくないっていう欲求があるらしいんですけど、
あとはこの経験をどれだけ価値ある界に変換できるか、
そういう配信にできるかっていう審査にかけないことで、
なんか自由だったはずの自分を帰宅後、
自分がまた取り調べ始めたんですけど、
それをやめること?
それはなんかむしろ自分の感覚を正確に扱うことだなぁと思ったんですよね。
あの日、私は楽しかった。
自由だった。
快感を感じた。
快感を感じたって変ですね。
快感だった。
自分以外の誰かになろうとしなかった。
まずはそれでいいなって。
それをね、ちゃんと番組紹介できなかったんじゃないか、
もう少し悠焼きな発言をすべきだったんじゃないかとね、
なんか削り直す必要がなくて、
嬉しかったものを嬉しかったまま置いていく。
それはなんか案外難しいことかもしれないんですけど、
なんか喜びにまで反省会を開くのって本当にやめたいなと思いました。
脳内会議室の予約を勝手に取らないでっていうね、
自分に、もう一人の自分に言ってます。
なんか、振り返るとこの一連の流れには、
「できすぎる自分」からの解放と本当の輪郭
実は小さな挫折がいくつもあって、
なんだろうな。
この数年の中で最初は声が怯えてたし、
誰かに聞かれることをほとんど想像してなかったけど、
ものすごい人気が出た時期もあったんですよね。
でもその時ですら人気そのものに実態を見出しきれなかったんですよ。
それよりももっと時間をかけて、
変わっていくような、何度も聞き返せるような、
そういうアーカイブを置いておきたいなって思ったんですよね。
そのプロセス、番組を育てたいなと思ったし、
でもやっぱプロとして見られたいなって思ったこともあって、
そういう声の仕事に関わったりラジオやったりして、
ポッドキャストに移行しても、
趣味の棚で終わらせたくなかったなっていう気持ちもありつつ、
なんか発信してきたんですけど、
今回はきちんと説明する人になろうとしなかったことでね、
かえって自分の輪郭が出たっていうのがすごい不思議で、
で帰ってきたらまたちゃんと意味にしなきゃで詰まって、
でもその詰まりがあったからこそ今回は自分のね、
本当の何ていうのかな、
輪郭っていうか本当の本音にたどり着けたなって思っています。
挫折はいつもできなかったこととして現れるとは限らないんだなと思いました。
時にはね、できすぎる自分をもう一度演じようとして動けなくなることもあるでしょう。
でもその止まり方の中に自分の、自分にね戻る経路があることもあると思うんですよ。
しなやかな心の筋肉が育っている場合もあって。
だから私は今回ポッドキャストエキスポをどう語るかで迷ったのではなく、
この経験をまた評価の材料にしようとしていたんだなっていうことで迷ってたんだと思います。
それに気づいたときね、今やっと声が戻ってきたんですよね。
ああ、説明しなくても滲み出るものがあるんだなと、
いうふうに思いました。
何を大事にして、どんな人間関係を育んでいきたいのか。
何に敏感で、何を笑い飛ばせて、どこで立ち止まるのか。
人はね、自己紹介の完成度だけで伝わるものじゃないと思うんですよね。
むしろその場にどんなふうにいるか、態度。
それでね、かなりのことが伝わってしまうと思うんですよね。
自己紹介とかでもそうですよね。
それが怖いときもありましょう。
でも今回の私は自由で、それが嬉しかった。
番組について説明しきれなかったけれど、
私という配信者の輪郭は多分自然に出ていたなと思って、
そのことに評価を下すことはならなくて、
なんかやっぱ番組って、ポッドキャスト番組ってその輪郭ごと
聞いていただくものなんじゃないかなと改めて思いました。
ありのままの自分でいることの大切さ
思想だけではない、キャラクターだけでもない、声だけでもなくて、
全部が重なってようやく番組になっているのかなと思いました。
最後にね、自分に優しくするラジオは立派なことを言う番組ではありません。
私自身も立派な誰かになろうとして話すわけじゃないんですよ。
自分をさばきすぎず、その時点の自分で考えて、
その時点の声で話す、そういう番組でありたいと思います。
なんかまた間違えちゃったとかね、やらかしちゃったとかね、
それもなんか自分のプロセスだから、全然残しておいていいんじゃないかなって思いました。
というわけ、すごい勘違うんだよね最近。
というわけで今日は、にじみ出る正体という話をしました。
大きなイベントに出たからといってね、
必ずしも大きな結論を出さなくていいし、
考察とかも特にしなくていいし、
貴重な体験をしたからといってね、すぐ意味に、意味へ加工しなくてもいいし、
判定もしなくてもいいし、
なんか、私以外の、自分以外の誰かになろうとせずにいられたっていうことがね、
結構、かなり大きな出来事だったなぁと思って、なんか今ニコニコしてます。
はい、それでは、本日の心の法廷はこれにて閉廷します。
傷地を打ちたい。
ここまでお聞きくださり、どうもありがとうございました。
それでは次の配信でお会いしましょう。またね。
42:01

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