配信再開と「精神」の話
こんばんは、そしてお目覚めの方はおはようございます。自分に優しくするラジオ、ソフィです。
久しぶりすぎて単画から見ますが、今日はPODCASTとはなにかっていうね、
でかすぎる、しかもなんか重すぎるタイトルなんですけど、しばらく配信を止めていたので、4月1日だし新年のっていうことでね、
再開してみました。私には全然関係ないんですけど、
でもなんか再開するにはちょうどいいかなと思いました。で、再開するなら何を話そうかなーって考えてたんですよ。
失礼しました。なんか前回は精神の話に入ろうと思ったんですね。
でも私自身、精神とはなにかっていうのは、実はまだ完成した答えを持っていなくって、
なんか精神っていう括りが、
なんかこれもまたでかすぎて、分野ごとに意味が違うんですよね。
神経学では気分浄土、浄土認知という言葉が使われるし、心理学では心の働きとか意識・無意識。
で、哲学ではマインド・スピリット・ソウルっていうふうに分かれていますし、
仏教では精神は固定した実態ではなくて、なんか流れっていうふうにされてるらしいんですね。
で、つまり精神というこだわは一万余ではないっていうことで混乱が生まれるんですよ。
それを少しずつレイヤーごとに解いていこうかなーっていうふうに思いました。
だけど、最初に言ったように完成した答えを持っていないんですよ。
で、なんか昔の哲学書とか読んでいて、
魂はソウルとスピリットにあるって私は考えてたんですよ。
で、ソウルっていうのはなんかこう、なんて言うんだろう、変えられない芯みたいなもの。
で、スピリットは鍛錬可能な精神性、ちょっと倫理とか道徳に変わるような、
なんか変更が効く筋力によって鍛えられるものっていうふうにイメージしてたんですね。
で、最初に言った固有のものっていうのは、なんかなんて言うんでしょう、
もう変わらない核っていうか、その人をたらしめるものみたいな、
そういうイメージしてたんですよ。
で、申し訳ないんですけど、誰も期待してないと思うんですけど、
なので、まだまとまってないので、ちょっと精神の話はお休みしたいと思います。
自分にとってのポッドキャストとは
で、なので、あのポッドキャストは何かっていうことをちょっと今日話したいんですよ。
いやー緊張する、なんか、やっぱ結局ここかもなーっていうふうに思ったんですよ。
喋れなくなった原因とかって、なんかポッドキャストってそもそも何だろうって、
なんか世の中的にとか、業界的にとかじゃなくて、自分にとってポッドキャストって何だろうっていう話なんですけど、
6年やって今更、でも6年やったからこそ、違うプラットフォームで配信してたんですけど、
なんか今更ちゃんと考えたくなった、今だからこそ考えたくなった、みたいなところもあって、
なんか最初はもっと手軽だったんですよ。
音声だけでできるし、一人でできるし、顔もいらない、喋って撮って出す、すごくシンプルで、だから始められたんですよね。
私はそもそも何かを大きく成し遂げたくて始めたっていうよりも、自分のために始めたところが大きかったんですね。
本当に自分のために、なんかログを残すっていう、なんで人のためっていうのがほぼほぼない、すごい白情に聞こえるんですけど、
自分がやっていたことが、巡り巡って波紋のように広がったら結果的にいいな、ぐらいにしか思ってなくて、
なんか私ごときが誰に影響を与えられるだろうか、みたいな、ちょっと卑屈っぽいんですけど、
謙虚って呼ばせてください。
なんか、自分のために始めたところが大きかったっていうことなんですけど、
自分に優しくするってね、なんかふわふわっとしているイメージあると思うんですけど、どういうことなんだろうっていうのははっきりしてて、
せめて自分だけは自分の味方でいたいなっていうところが出発点だったんですよ。
それを音声で伝える場所ができた、というか声が居場所になったんですよね。
だから最初の音声配信って発信っていうよりも、自分の確認だった気がするんです。
今の現在地ですね。今自分がどこにいるのか、少なくとも配信が止まったのは苦しいからなんですよ。
何が苦しいのか、また何に救われたのか、そういうのをね、自分の声で確かめるみたいな配信になるかと思います。
お付き合いしてください。
外部要因との葛藤
いやもうリラックスする人いるんだろうな。まあまあいい、それはいいのよ。
多分私にとってポッドキャストって、誰かに何かを教える場所でも、なんか立派なことを言う場所でもなくて、
自分がね、自分を雑に扱わないための場所でありたいなと思ったんですよ。
まあただ続けていくとね、いろんなものが入ってくるんですよね。
番組っぽさとか、構成とか、尺とかジングルとか、あと最近など動画とか、動画ポッドキャストですよね。
いやちょっと待ってってなって、なんかもう動画とか、動画がいいよとか言われると、
え、じゃあライティングどうするの?とか、背景とか、え、どこで何を?みたいな、
なんかちょっと複数でやってると絵面的にも埋まるじゃないですか。
でもなんか一人でやってると、どうすればいいの?とか、なんかもうネマ、ネマになって、
ちょっと待ってって、ちょっと一回みんな手繋ごうみたいな。
一回触ろうって感じになるんですよ。
ねえ、こっちは音声だから始めたんだけど、手軽だから始めたんだけど、みたいな。
いつの間にそんな全部モリモリになってるの?っていうね、気づけばそんなところにいて、
いや別に誰がしろって言ったわけじゃないんですけど、
しかも続けていると自然と比べるようになっちゃって、
まあこの前ポッドキャストアワードとかありましたけど、
それはそれは完成度の高い番組とかね、制作人がちゃんと入ってる番組とか、
複数人で会話の流れがある番組とか、もうね、プロの方とかいてね、
皆さんご存知の人気番組、
まあそりゃすごいんですよ、話すのがね、仕事の人たちの言葉ってやっぱり、
なんか入ってきますよね、なんか強いですよね。
それをね、見たり聞いたりするうちに、ありがたいことにそういう機会を得て、
あれ、私はどこを目指してるんだろうってもうわからなくなっちゃって、迷子になっちゃって、
同じポッドキャストって呼ばれてるけど、多分やってることがもう違うんですよね。
でも、なんか同じ箱に入ってるように見えるから、ついね、
同じプラットフォームは同じですし、同じ土壌で考えちゃう。
考えれば考えるほどしんどくなるんですよ。
それで多分配信が止まったと思うんですよね。
迷子の原因とマルクス・アウレリウス
忙しいとかネタがないとかそういうことじゃなくて、
何だったらすごい暇だったんですけど、
何のためにやってるのかがほんと一回ぼやけちゃって、結構長かったなと思って、
何のためにやってるのかが見えなくなると、
もう一本撮るのも急に重くなって、タイトルつけるのも重いし、話し始めるのも重いし、
出すのも重いし、なんか全部に意味を求め始めちゃうから、
この前、掃除機かけながらふとね、マルクス・アウレリウスだと思うんですけど、
自制力、自制力をすごいふと思い出したんですよ。
あの本で雑に言うと、お前なんてそんな大したもんじゃないから落ち着けみたいな、
言ってくる感じなんですね。
いや、わかる。わかりますとも。
でもね、事件は現場で起きてんのよっていうね、
宇宙規模で見たら小さいのはその通りなんですよ。
でも人って宇宙規模では傷つかないというか、
高いところ登ると、わー、こんなに小さく見えるんだなみたいな、
自分ってちっぽけだなみたいな思う時とかあるじゃないですか。
でも実際は生活の規模で、生活レベルで傷つくので、
なんか本人にとってはね、切実なんですよ。
大したことと切実であることって多分両立するんだと思うんですね。
外から見たら小さいことでも、その人の人生の中では全然小さくないみたいなことってあるじゃないですか。
で、自分に優しくするって、そんなの大したことないよって片付けるんじゃなくて、
大したことないかもしれないけど、今の私には切実ってね、
扱うことなのかもしれないなと思い直しています。
ポッドキャストの個人的な意義
ポッドキャストもね、私にとってはだいぶそうで、
外から見たらただの音声配信かもしれないし、趣味の一つかもしれないし、
そんなランキングとか乗らないかもしれないし、
止まったところでね、別に世の中は困らないわけですよ。
ただ数名ね、既得な方がいらっしゃいますね。
超失礼。
あの、配信止まってるけど、大丈夫ですかとか、どうかしましたかとか、
なんか待ってますみたいな、本当に、何でしょう、ありがたい言葉をね、いただけて、
本当にその切はありがとうございました。
めちゃくちゃ嬉しかったです。
ね、どこまでいったっけ。
そう、いやでもそう、私にとっては切実だったんですよね。
なんか自分がどういうふうに変わってきたかとか、
どういうふうに自分を雑に扱わないようになってきたとか、
あるいはそうじゃない日があったとか、
そういう目に見えにくい変化をね、声で見てきた、聞いてきた場所。
だから自分が喋ってる言葉を聞いてるのって一番自分じゃないですか。
ね、できたとか、何かを持ってるとか、成し得てるとか、
そういうことじゃなくて、DoでもHaveでもCanでもない、
Bの私たちを祝福しようってあるように、
なんかどんな自分でもあるわけですよね。
それをね、記録していく場所。
そう、だから自分にとってポッドキャストってうまく届ける場所というよりも、
変わっていくそのプロセスを自分の声で見つめる場所、置いておく場所なんだと思います。
前はこう思ってたけど今は少し違うとか、
前はここでつまづいてたけど、今はいけるぞとか、
まだ全然できてないけど、それでも前ほど自分を責めなくなったなとか、
なんかその気持ちと事実を分けられるようになったなってところはあったりして、
そういう数字にも成果にもなりにくい変化ってあるじゃないですか、日々。
商業文章なんで。
多分私はそれを残したくてやってきたんですよね。
原点回帰と今後の決意
ねえ、うまく生きられなかった自分?
うまく生きられなかった自分ってなんか違うな。
どうやって少しずつ自分を雑に扱わないようになってきたのか、
その途中を声で残したかった。
だから、ポッドキャストとは何かって考えたときに、
少なくとも私にとっては何かを成し遂げるための手段っていうよりも、
自分の存在を置いていく場所、プロセスを置いていく場所に近いんだなっていうふうに思ってます。
それが原点だったんですよ。
今日うまく話せる日もあれば、全然まとまらない日もある。
何だったら絶対もうそっちの方が多いわけですよ。
でも、その日の声でその日の言葉で置いていく。
多分それでいいんじゃないかなって今思ってます。
外的動機付けと個人的な始まり
なんかね、続けてるとうまくやらなきゃいけない気がしてくるんですよね。
なんかありがたいことにいろんなパーティーとか、
有名なその界隈のすごい人とか偉い人とかね、
おかげさまでワンオンで話させてもらったりとか、
そういう機会を得ると成長しなきゃとかね、
広がらなきゃとか、意味がなきゃとか、
有益な情報をもたらさなきゃとかね。
もちろん聞いてもらえたら嬉しいです。
広がったらありがたいし、続けててよかったなと思えることもあるんですよね。
そういう外的動機付けもあったりすると思うんですよ、実際。
それがないとやる意味がないのかなって言ったら、私はそうでもない気がして、
始まりがもっと静かで、自分のために自分に優しくするっていう、
もっと個人的だったから、自分をどうにかしたいとかっていうか、
そこまで暴力的じゃないんですけども、
せめて自分くらいは自分に優しくしたいなっていうところから始まったので、
そんな外側の基準だけでは測れないんですよね。
だから外から見たら実に小さい。
でも本人にとっては切実であって、
多分私はその両方を認めたいんだと思います。
だから今日、再開1回目に、
ポッドキャストとは何かなんてね、壮大なタイトルをつけてみたんですけど、
試してみて、久しぶりに話してみて思うのは、
ポッドキャストって結局、私にとってはすごく個人的なものだったなということですね。
結論と新たなスタート
開かれた場所ではあるんですよね。
世界的につながったプラットフォームなんで、Spotifyとかは。
日本って本当なんか業界の人たちと触れてると、
本当にいろんなプラットフォームがあるんですよね。
いろんな機能、文字化する機能とかもあったりして。
開かれた場所ではあるんだけど、出発点はすごい個人的で、
誰かのためというより自分のためだった。
でも自分のために始まったものが、
めぐりめぐってね、誰かにも届くことがあったり、
応援してくださる方がいらっしゃったり、
そうやってね、すごく自然な広がり方だなと思って、
最初から何か変えようとしなくても、
さっき言ったみたいに波紋みたいに伝わることはあるのかなって、
そのくらいが私にはちょうどいいです。
というわけで、結構喋れた。
重複するところもあったかもしれないんですけど、
ポッドキャストとは何かという話を今日はしてみました。
結論っぽく言うなら、
私にとってポッドキャストは、
変わっていく自分を自分の声で見つめる場所、
声がね、居場所になっていったんだと思います。
またここに少しずつ声を置いていけたらいいなと思っています。
はい、それでは今日はここまでです。
お付き合いいただけて、
お付き合い、ありがとうござ、
お付き合いしていただけて、
え、ちょっと、
なんか、日本語って難しい。
ではまた次回お付き合いいただけたら嬉しいです。
またね。